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脳膿瘍と臨死体験

 

 臨死体験(1)

 今の病気(慢性腎炎)になって人口透析を始めたのが七年くらい前で、それまでは脳外科にかかり長い事リハビリに通っていた。倒れたのが五十一歳、今七十歳になるからかれこれ十九年になる。頭の病気は何が何だか分からない内に時が過ぎて歳を取ってしまった。発病した前後と近頃の事は記憶にあるけれど、長かったであろう闘病期間の事はあまり覚えてない。五十一歳の頃のままイキナリ六十ン歳になったので気持ちだけは歳を取っていないのだ。しかしその間、今考えて見れば色々な事があって、勿論健康体であったなら健康で、色々あった筈だが、私は病気と闘っていた。

  

 何はともあれ、「臨死体験」というのだろうか 一度死んで来たのだ。今になってその当時の事が、その時は忘れていたのに何故か鮮明に思い出される。前後のつながりのない思い出やまったく関係のない事柄などが、あの当時頭の中でグルグル渦を巻いていた。あとで家族に聞いた所によるとやっぱりオカシカッタらしい。本人はきっといい気持ちだったのだろう。その「臨死体験」をまた何時忘れるようになるか解らないので今のうちに記しておく。そしてホームページに載せて私の気分を解放しておく。

     

 

 あの当時、風邪くらいで罹っていた病院にはまだ脳外科の常駐はなかった。分からない病気だがどうも頭か神経か軽い病気ではないようだ、救急車で脳外科のある病院へ緊急輸送、という事になり自宅からは30キロも離れた病院へ送られた。 

 でもまだその頃は意識もはっきりしていて何時も仕事で走っていた道路の信号や景色を見る余裕があった。しかしそれからがあまり覚えがない。頭は坊主にされ手術前のCTだかMRIだかいっぱい検査をして手術室へ手を振って入った後は、ヨイヨイだ。それから手術室での出来事、臨死体験が始まる。

 

 私は机の下に潜っていた。机の下にうず高く積まれた書類の山の隙間から、行き来する人の足がみえる。忙しそうだ。向こうから顔は分からないが白衣の看護婦さんがステンレス(だろう光っていた)の容器を持ってこちらへ来る・・・。そうしたら行き来する人が「間寛一」さんで、なんかこちらに向かって怒鳴っているし看護婦さんは逃げて行く。ここで何で「間寛一」なのか分からないけどとにかく「間寛一」だった。

 そうこうしているうちに(前後ははっきりしないが)私は病院の高い梁(何故か頭に浮かぶ病院は木造だった)に掴まって蝉のように下を眺めていた。誰も私がそこにいる事に気付いていない。暫くじっとそうしていたら今度は私は蚊帳の中を、蚊帳をひっくり返して(そこのあたりは定かではない)歩きづらいのにあるいている。私のズ〜ッと前を白衣の人が歩いていて私は手を出すのだが距離が離れて行く。あれは、若しかして脳外科の先生だったのかな?。

 

 またしてもそうこうしている内に、私は重い石のお地蔵さんを背負っていた。ゆっくり長いことかかって歩き、この病院前の国道を横切った所にあるコンクリートの建物をめざす。そこにすッピンの裸で首から上だけ動く人がいて私が背負ったお地蔵さんを待っている。が私はお地蔵さんを中々下ろせない。下ろさない。そのコンクリートの建物からも簡単に出られなくて2〜3日か一週間、お地蔵さんと一緒にいた様な気がする。そうかというと・・・。

 

 女房方の叔母さん(今でいうH市の下高倉湯草という部落の)が出て来て、農協売店の手作りこんにゃくの「あわせ」をやっていて絶対この叔母さんの合わせた蒟蒻しか口にいれないと駄々をこねた夢を見たり、ず〜〜と長い間童謡を歌い続けていたり(これは後で家族から聞かされた)した。

 

 建てて十五年くらいのまだ新しいと思っていた自分の家に、どこだか分からないけど太い金色のアース棒を差し込んで安心したり、庭にアースの良く働く池があったり、それよりなにより金色のアース棒じゃないけれど、終わりの頃には天然色フルカラーのとても気持ちの良い、眺めの良いお花畑で思いっきり遊んでいたのが忘れられない。きっとあの時遠くから手招きしていたのは母親に違いない。と思うのだがこれはボンヤリしか思い出せない。

        

 

  臨死体験(2)

     

 それに私は不幸にも、手術後にかかり易い院内感染症、MRSA(メチシリン・レジスタント・スタヒロコッカス・アウレウス)にも侵されてしまった。あとで聞いた話では何でも抗生物質に耐性を持つばい菌が体に、それも手術跡に入り込んで悪さをしたらしい。暫く集中治療室から出られなかったようだ。看護婦さんは出入りのたびに手を消毒している様子が見えた気がするし、私は麻酔でだと思うがウトウトしていて記憶が定かでなく、ここでも今思うと悪い夢を見てきた。

 

 足も手もない小さなおばあさんが、そんな事はないのに看護婦さんにゾンザイにあつかわれ、それでも黙っていてどんな顔だか覚えがない。そのおばあさんは誰もいない時には冷たい身体を摺り寄せてきて、それなのに顔を見せないし、私も憶えていないのだ。これもあとで聞いた話だが集中治療室には私の隣のベッドには誰もいなかったし、そんな事もなかったらしい。とにかくその集中治療室には数週間入っていたようだ。

 「今日は何日?ここは何処?あなたの名前は?」と何度も尋ねられた事はうろ覚えに覚えてはいるけれども、何日間ここに入っていたかは分からない。ただ70キロもあった体重がここを出る時は39キロになっていたし、プリンをほんの少ししか食べられなかったことが思い出される。

 

 集中治療室に何日いたのか、何時どうやって出てきたのかは分からないが病室へ戻った時はまだレロレロで何にも記憶がない。病室は六人の大部屋で消毒も行き届いた病院なので、そんな事はないのだが部屋の壁に黒い大きな「ゴキブリ」が這い回り、殺される妄想を何日も見た。隣との境はカーテンだし壁なんかあるわけないのに壁がみえた。そしてそこに取っても取っても後から後から這い出て来るゴキブリの野郎に凄く苦労し、指差して誰か分からないけど家族に取らせて大騒ぎした思い出がある。

 大騒ぎした思い出のあるその頃は、意識は少しずつ戻り始めていたのかもしれない。なぜなら実際にも「ゴキブリだぁゴキブリだぁ」と何日間か騒いで手の付けられなかったのがあって付き添いが困ったらしい。あの時も大きなゴキブリに一度殺されて生き返って来たに違いない。

 

 そのあと、9ヶ月も入院していて、お風呂はどうしたんだろう?、散髪はどうしたんだろう?、髭や爪はどうしたんだろう?、何時から飯を食ったんだろう?。治ってきた頃気が付いてみると、私はもはや六十歳を超えていた。

     

 

  臨死体験(3)

          

 体は半身不随になるし、目、耳、口にダメージを受け、重度身体障害者になってしまっていた。五十一歳で発病し、臨死体験をしている間にいつの間にか六十ん歳になっていてその間の記憶が薄く本当に気持ちだけは歳を取っていない。幸い、病室からのリハビリのお陰で、今は寝たきりにはならないで部屋の中をモノにつかまりながらソロ〜リソロリ動ける程度まで回復した。

 

 昼間は椅子に座っていられるが麻痺した足がむくみ、運動不足も重なって今度は腎臓にダメージをもたらし、今では人工透析を受ける身体になってしまった。今は脳外科の世話にならないまでに良くなり、脳圧をコントロールするプラスチックのパイプが頭から胸に埋め込んである他は、薬も飲んでいない。

 当時としては非常に珍しい病気で、命をとりとめたのは奇跡的だ、と手術と治療に当った先生は脳外科学会に発表されたらしい。学会に発表するより元通りになおってほしかったがそれは贅沢というものだろう。今は脳死体験はしないで生きている。これは神様の思し召しだったと思ってそれは感謝している。

 

 今人工透析を受け、何時もの血液検査で貧血気味との診断を受けてはいるがこれも幸い、椅子に座ったきりで字は書けないが文明の利器、コンピュータを操作できる。後は自分の身体に気を付けるのと気の持ち様だけである。

 

      私の頭の病気は 「脳膿瘍」 であった。

 

 

 

 

 

 

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check 2015年8月2日