紀効新書


[中国]

きこうしんしょ 紀効新書 JIN XIAO SHIN SHU 

http://www.h5.dion.ne.jp/~rekidai/kikou/kikousinnsyo1.htm

嘉靖七年
(西暦1528年)
戚継光
字 敬元 号 南塘 晩年の号 孟諸 本籍は定遠(今は安徽に属す)
閏十月初一、山東済寧の魯橋鎮に生誕。
先祖は山東の東牟におり、のちに
安徽定遠に移り、さらに山東の登州に行きました。
17歳のとき、その父・戚景通が病気で逝去し、
彼は父の役職を世襲して登州衛指揮僉事となりました。
嘉靖三十二年
(西暦1553年)
山東の防衛業務を主管する署都指揮僉事に昇進し、
3営24衛を統轄しました。そのころ、日本の封建領主は力をつくして
倭寇を支援して中国沿海の州県を略奪し、不法な地域豪族とあくどい
商人もまた倭寇と結託し、浙・ビンの沿海の倭寇による被害は日増しに
大きくなっていきました。戚継光は赴任後、ただちに全力で部隊を
整頓し、軍紀を厳粛にし、訓練を厳格にし、海防を整備し、
地形を実地調査し、気候や潮汐を熟知し、倭寇の活動の習性を
探査して吟味し、山東の海防の態勢が大いに振るいました。
嘉靖三十四年
(西暦1555年)
戚継光は転勤して浙江都司となり、翌年、参将(副総兵の下の階級)
に昇進し、寧波・紹興・台州の三府(治めているところは今の
浙江臨海県)を鎮守し、全力で倭寇に備えました。
嘉靖三十八年
(西暦1559年)
守備隊の将軍がおごり、兵士が怠け、戦闘力が低下している状況を
修正するため、戚継光はみずから金華・義烏に行き、4000名の
精悍な農民と職人を募集し、「岳家軍」をモデルにして軍隊を編成し、
新しく考案した「鴛鴦陣」を使って訓練を行い、軍威は大いに振るい、
人々に称賛され、「戚家軍」と呼ばれました。
嘉靖四十年
(西暦1561年)
戚継光は軍を率いて台州地区で倭寇と抗戦したとき、
9戦9勝しました。翌年、さらに倭寇の横嶼(今の寧徳城外海域)にある
古い巣窟を叩き壊しました。戚継光は副総兵に任命されました。
嘉靖四十二年
(西暦1563年)
さらに兪大猷と合同で福建平海衛の倭寇を攻め、福建総兵に
昇進しました。翌年二月、彼は数千の部隊を率い、
仙游城(今の福建仙游県)の守備隊と倭寇を挟撃し、仙游の包囲を
解きました。このあと彼はビン、粤を転戦しました。
嘉靖四十五年
(西暦1566年)
東南沿海の倭寇による被害は基本的に平定され、海域は
すっかりきれいになりました。
戚継光の倭寇を平定した功績は際立って優れています。
隆慶二年
(西暦1568年)
大学士・張居正は朝廷に奏上して請願し、戚継光を北方に
転任させ、薊鎮・昌平・保定の三鎮における兵士の訓練を
まかせました。鎮にいること16年、辺境の防備を整え、長城を改築して
拡張し、空心敵台(兵士が常駐する見張所)を新しく作り、武学を
設立し、将兵を訓練し、戦車・歩兵・騎兵・輜重(輸送部隊)からなる
合同軍を編成し、編成にあたり当時の最先端の佛狼機(大砲)、鳥槍
(火縄銃)と火薬の噴射で推進する火箭を装備し、国境の防備は
大いに治まり、薊門の地方は安らぎました。
戚継光は昇進して皇太子の太保(皇太子を補導する官職)、
中軍都督府左都督となりました。その後さらに少保
(少師・少傅と合わせて三少と呼ばれ、普通は大官のための
兼職でした)も加えられました。
晩年
のちに排斥され、万暦十一年(西暦1583年)に広東へ転勤しました。
まもなく讒言によって解任され、登州へ配置転換となりました。
万暦十五年十二月初八(西暦1588年1月5日)、病没しました。




『紀効新書』は、軍事訓練を主要な内容とした著名な兵書です。明王朝の戚継光が著述し
編集しました。戚継光は軍人出身で、勤勉に武芸を練習し、兵法を深く理解し、南では倭寇を
防ぎ、北では辺境を安定させ、軍事に関わる一生で、みずから多くの戦いを経験しました。
戚継光は著名な軍事家であり、倭寇に抗戦した名将です。彼の編成した「戚家軍」は、
その名が天下に聞こえ、彼の執筆した『紀効新書』は、天下にその名を聞かれました。
『紀効新書』の主旨は、作者が自序のなかで指摘しているように、そもそも「紀効」というのは、
机上の空論ではないということで、「新書」というのは、それが原則から出発しているが、
原則にとらわれてなく、臨機応変のものであるということです」というもので、さらに
「兵士を訓練するのに使った決まりごとを集め、みずから民間から兵士を選抜することから、
号令・戦法・行営・武芸・守哨・水戦に至るまで、その実用的で有効なものを選んで教練を
分別し、順序だてて、それぞれ一巻として、これを全軍に学習させた」とも言っています。
本書は実践をメインとしており、先人の兵法を吸収して書き上げ、理論と実践が
一致することを重視しています。『紀効新書』は、当時の訓練の主要な教材の一つです。
『紀効新書』には、十八巻本(通行本)と十四巻本の二冊が現存しています。
『紀効新書』十八巻本は、戚継光が明の嘉靖三十九年(1560年)前後に、浙江で参将に
任じられたとき、寧波・紹興・台州・金華・厳州の各所を分かれて守り、兵士を訓練して倭寇に
抗戦したときに作ったものです。全書は巻首・総序一巻と本文十八巻に分かれています。
総序は、「公移」二篇、「紀効或問」一篇を包括しています。「公移」は、弁論の形式によって、
東南沿海地区の情況、そして当時の敵情に焦点をあわせて軍隊の編成と兵士の訓練を
行うことの重大な意義と道理を陳述し、新兵を編成することを申請しています。目的は
上官から練兵と戦闘を指揮する全権を獲得し、新兵の編成を阻害する勢力を消し去ることに
あります。「紀効或問」はと言うと、問答の形式によって訓練中の疑問に解答し、あわせて
兵士を選抜し、兵士を訓練することの具体的な要求を明確にして、将兵の訓練と戦闘を
すべて統一しています。作者は「編成がきちんとして、全兵に信じられたら、命令が
ゆきとどきます。もし一つでも疑いがあれば、すべてがきちんとしなくなります。ですから、
特に大切なところは、「紀効或問」によって明らかにしました。必ず全兵に信じられてこそ、
教練が行えます」(『紀効新書』「総序」「紀効或問」の解題、十八巻本)という見解を
もっています。本文十八巻の篇目は、束伍・操令・陣令・諭兵・法禁・比較・行営・操練・出征・
長兵・牌筅・短兵・射法・拳経・諸器・旌旗・守哨・水兵などです。戚継光が倭寇に
抗戦したときに練兵活動に従事したずべての内容を詳細に記述し、同時に実戦経験の
系統的な総括でもあります。篇ごとにそれぞれ図説がついています。そのなかで陣法・戦法・
行軍立営は、当時の敵情(倭寇)・地形(江南)・火器の特徴にぴたりと焦点をあわせ、
攻守兼備の「鴛鴦陣」と「三才陣」を創立し、冷兵器と火器を併用している時代の特色を
鮮明に表示しています。『紀効新書』十四巻本は、明の万暦十二年(1584年)にでき、
作者が広東総兵に任じられていたときに新たに重ねて校訂し、増刷したものです。この本は
十二篇で、束伍・耳目・手足・比較・営陣・行営・野営・実戦・胆気・舟師・守哨・練将
(練将或問が付いている)などに分かれています。それは『練兵実紀』の精華を吸収し、
新たな内容を補充しています。『紀効新書』と『練兵実紀』は姉妹篇です。前者は東南沿海の
敵情と自分の情況にもとづいて書かれたもので、後者は当時の長城線上の敵情と自分の
情況にもとづいて書かれたものです。この二冊はともに時代の特色をもっており、我が国
(中国)の軍事理論の発展に対して大きな貢献をし、後世の兵家から推賞されました。




(1)
 戚継光の軍隊管理は厳正かつ明確で、戦績は
際立ってすぐれており、「一年三百六十五日、ほとんどが武器を手にして馬上にいた」という
詩句は、彼が国家の安全を保障するために努力奮闘した証拠です。さらに重要なものは、
彼が理論と実践が密接に結合した『紀効新書』と『練兵実紀』という二つの著名な兵書を
後世に残したことです。
(2)兵士を訓練し、戦いを教える著名な兵書『紀効新書』
『紀効新書』は戚継光が東南沿海において倭寇を平定する作戦のときに著したもので、
『戚少保年譜』「耆編」「巻二」の記載から、その書が嘉靖三十九年(西暦1560年)に完成した
ことが分かります。この年、春の正月、鴛鴦陣を考案し、『紀効新書』を著しました。
全部で18巻、巻首1巻です。現存しているのは万暦二十三年(西暦1595年)徐夢麟刻本と
書林江殿卿明雅堂本、明傅少山刻本、そして清代以来の多種抄本と刻本があり、
『墨海金壷』などの叢書も収録しています。14巻本は明の万暦十六年(西暦1588年)の
李承刻本、万暦二十一年(西暦1593年)刻本、崇禎十七年(西暦1644年)刻本があり、
18巻本と内容が同じでないところがあります。『紀効新書』が世に問われて後、当時の朝鮮
と日本の両国から重視されました。万暦二十二年(西暦1594年)、朝鮮が訓練都監を
設立したとき、『紀効新書』を教科書として用いました。日本には寛政九年
(西暦1798年)などの刻本があります。『紀効新書』は戚継光の練兵と教戦の考えを
全面的に反映しており、あわせて各項の練兵にとって必要なことを具体的に規定し、
近世の条例・条令と同じようなものでした。まとめあげるとおおよそ以下のようになります。


その1は、兵士の選抜を重視したことです。
『紀効新書』「束伍篇」のなかで、こう述べています。兵士は厳選されなければならず、
「遊侠の徒」「狡猾な人」については選んで用いてはならず、「誠実な人」を
選ばなければなりません。選ぶ兵士は、心身ともに精悍で、武芸にすぐれ、勤勉で
忍耐強くて力が大きく、物事の処理には手腕があって怜悧でなければならず、
この四つの条件は一つも欠かせません。選抜した兵士の特徴に応じて、それに
見合った兵器を与えなければなりません。

その2は、軍隊を厳重に治めることです。各級の武官と兵士の職責・名分を明確にし、
上下の命令が一致するようにします。貪欲な役人、だらけた役人、だらけた軍隊を
こらしめます。忠義を教え諭して、戦没の遺族には手厚い保護を与えます。恩徳と
威刑がともに明らかとなり、情と法が互いに溶け合うようにします。
その3は、訓練を厳格にすることです。
訓練は実戦にもとづいて行わなければならず、形式のみの儀礼と見かけの
華やかさに努めることに断固反対します。官兵が号令どおりに訓練し、耳はただ鐘や
太鼓を聞き、目はただ旗や幟を見ることを要求します(「号令篇」)。平素からの養成を
重視しなければなりません。
その4は、軍紀を厳格かつ明確にすることです。
およそ「人の樹木を伐採すること、人の田畑を踏み荒らすこと、人の家屋を焼くこと、
暴行、略奪、死んだ兵士の首を切り取ること、捕虜となった男を殺すこと、
捕虜となった婦人を辱めること、はなはだしい場合には一般人をみだりに殺して
賊の首を取ったと偽ること・・・は犯罪であり、軍法に従って処断し、事柄に応じて命で
償わせます」(「禁令篇」)。
その5は、賞罰が公平であることです。
「もし賞すべきところがあれば、ふだん自分を害そうとしているかたきであっても、
功績があったときには賞し、苦しんでいるときには支え助けて世話しますし、もし軍令
を犯したならば、親子や親族であっても、法に従って処罰し、恩人とか仇敵とかで
賞罰を変えたりしません」(「禁令篇」)。戚継光は述べたとおりに行い、みずから
手本となって法を執行し、戦場から離脱した長男を処刑したことがありました。
その6は、将軍は武芸に精通していなければならないことです。
将軍はただ教養と兵略に富んでいるだけでなく、技芸にも精通していなければならず、
「技芸はどうしてただ兵士だけが習って、将軍が習わないでよいでしょうか」
(「紀効或問」)。
ただ将軍自身が技芸に精通していてこそ、兵士の手本となり、敵に勝つことが
できます。『紀効新書』は戚継光のあえて改革し、新型兵器を開発しようとする考えを
全面的に反映しています。「兵器が優良でないのは、兵士を敵の餌食にすることで
あり、殴り殺す技を身につけてないのに、ただ刑罰で脅して立ち向かわせるのは、
我が軍の兵士を食い物にすることです」(「長兵篇」)。


このような考えにもとづいて、戚継光は東南沿海で倭寇と抗戦していたとき、
積極的に部下を組織し、新兵器を研究開発し、大きな成果を取得し、わずかに書中の記載に
見られるものをあげれば、下記のようないくつかのものがあります。
一つ目は最も早く「鳥銃(火縄銃)の火薬を調合する方法」を転載したことです
(この方法は倭寇と抗戦しているときに倭寇から手に入れました)。
硝石1両、硫黄1.4分、柳炭1.8分を用いて配合して作り、三者はそれぞれ75.75%、
10.6%、13.65%の割合を占め、当時の世界の火縄銃砲で使う発射火薬の基本と流れを
同じくしており、これは中国の伝統火薬が新型火薬に変化する過渡期の指標と
なるもので、このあと各種の兵書は火薬に言及するとき、この方法を転載しないものは
ありませんでした。二つ目は当時新開発の佛狼機(大砲)と鳥槍(火縄銃)などの
火薬銃砲の構造と製造方法について、詳細な記述をしたことです。三つ目は書中に
さらに新開発の連子銃、子母炮、満天烟噴筒、飛天噴筒、火磚、火妖、火蜂窩などの
火器、そして狼筅などの冷兵器の製造方法を記載していることです。四つ目は書中に
大型福船、中型海滄船、小型蒼船などの構造、性能、装備、そして編成・訓練などの
最新の内容を記載していることです。それが詳細に完備している度合いは、まったく
同時期のその他の兵書が及びもつかないものです。
『紀効新書』はまた戚継光が兵器の使用を重視し、そして各種武器の
長所を発揮できる布陣を編成し訓練する考えを反映しています。それは、こういう見解をもって
います。兵士が優良な兵器を手にしたら、さらにその使用法を訓練しなければならず、
優良な道具をもっていても使い方が分からなければ、優良な道具をもっていないのと
同じです。兵器の使用を訓練するときは、号令を統一しなければなりません。もし兵士が
号令を熟知し、兵器を使用する技術に精通するなら、その戦闘力が十分に発揮できるように
なります。書中では刀、槍、棍棒、狼筅などの冷兵器、そして佛狼機、鳥銃などの各種火器の
使用方法について、すべて詳細に叙述しています。鳥銃の使用方法を叙述するときも、目で
後照星を見て、後照星を前照星にかさなるようにし、前照星が狙っている人にかさなるように
する「三点一線」の射撃方法を提示していますが、これも我が国(中国)初です。
戚継光は兵士がただ各種火器と長短の柄の冷兵器をしようできるだけでなく、さらに
戦況ごとの必要性に応じて、使用方法を変え、長い兵器を使うときも身を守る短い兵器として
使用でき、短い兵器・投げ槍も長い兵器として敵を攻撃できるようにすることを求めています。
その他、さらに各種兵器を組み合わせて使用し、長い兵器によって短い兵器を掩護し、
短い兵器によって長い兵器を護衛できるようにし、総合的な敵を殺す効果を発揮することを
強調しています。戚継光が考案した鴛鴦陣と、それを分解した三伍陣、三才陣、そして
鴛鴦陣を合わせて作った菱形哨陣は、各種兵器を組み合わせて使うにあたって最良の陸上
作戦の陣形です。これと同時に、彼が編成して訓練した水兵陣もまた、大小各型の軍船、
軽重型の大砲と火縄銃、各種の燃焼したり爆発したりする火器、長い柄の戦闘用の兵器、
短い柄の防御用の兵器、遠くを射撃する兵器と防御のための装備が組み合わされて
使用された最良の水上作戦の陣形です。同時期のその他の各種兵書は、これらの問題に
ついての論述が、すべて『紀効新書』ほどではありません。



  
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