
細入村の気ままな旅人旅日記
美濃路(熱田宿から大垣宿を歩く)
第1日目 熱田宿から萩原宿(一宮)へ
11月22日・23日の連休を使って美濃路を熱田宿から垂井宿まで歩いてみることにした。美濃路は東海道の熱田宿から中山道の垂井宿を結ぶ約60kmである。2日間頑張れば何とか歩ける距離である。第1日を一宮市の萩原宿までと決めた。
朝8時,熱田を出発。天気は晴れ。日曜日の朝なので国道19号線は車が少ない。しばらくはこの国道を歩くことになる。断夫山古墳の横を通る。東海地方では最大の前方後円墳だということだが,木がたくさん生い茂っていてその形はよく分からない。すぐ隣には青大悲寺がある。女性が開いたお寺で今でも多くの人がお参りにやって来ているそうだ。そこからしばらく行った所に熱田一の鳥居跡の石柱が立っていた。何の変哲もないただの石柱に見える。歩道側からは何も見えないが,車道側に回ると,はっきりと熱田神宮第一神門跡と見えた。立て札もないから知る人ぞ知るという石柱になっているのかもしれない。
そこから10分程行った所に佐屋街道との分岐点を知らせる道標が立っている。上部は割れてコンクリートで接着されている。太平洋戦争中に戦災の被害を受け,割れた跡であるという。歴史を語り伝える大切な道標である。しかし,今は放置自転車の中に埋もれてしまっていた。ここは金山の駅がすぐ近くにあるので,自転車を放置して行く人が多いのだろう。
金山駅前を通る。大きなビルが建築されている。駅前の再開発ということで名古屋市が莫大な費用をかけて建築しているものである。下は美術館で上はホテルになるという。今年の4月に行われた市長選挙では争点の一つになったビルである。高さが50mを超えているようだが,まだ高くなるようだ。クレーンで窓枠や壁を釣り上げて,ブロックを組み立てる要領で建築している。着工からこの高さになるまでに,そんなに期間が経っていないのに,すごいスピードで高くなっていることにびっくりした。世相はバブルが弾けて,銀行や証券会社が倒産している。その最中のゼネコン開発事業である。本当に現代を象徴する建物になりそうだ。
東別院西の通りを渡った所で,街道は国道から離れて大須の街へ入って行く。道の両側に仏壇店が並んでいる。店の中には豪華な仏壇が置いてある。名古屋仏壇は1000万円以上するものもあるという。大須商店街の真ん中を美濃街道は突き抜けていた。この大須は,家電製品やコンピュータ関連の店が集中するようになって,賑わいが戻ってきた。今日も1000円で高級カメラを売りますというチラシが新聞に折り込まれていたのを思い出した。まだ朝が早く人通りが少ないが,活気のある様子が伝わって来る商店街を真っすぐに進んで行った。
若宮大通を横断する。ここは100m道路と呼ばれる所で,道幅が広く間が緑地帯になっている。その緑地帯にホームレスの人たちがたくさん生活していた。段ボールの家でなく,廃材を使ったり,ビニルシートを使ったり,中にはテントを張っている人もいる。子どもたちの遊び場がホームレスの人たちに占有されてしまい,最近になって遊び場が撤去された場所である。ホームレスの人たちを巡って様々な問題が起きているが,最近の不況でさらにこういう人たちが増えるのでないかと私は感じている。
道路を渡ると白川公園があった。北風が強く吹き,たくさんの落葉が舞っている。200人近い清掃奉仕の人たちが手にゴミ袋を持ち,落葉を掻き集めていた。
熱田を出発して1時間。広小路本町の交差点を渡り少し行った所が,伝馬町札の辻跡である。交差点の所に銅板に彫られた尾張名所図会の挿絵と案内板が設置されていた。ここから美濃路は左に曲がり清洲宿へと向かう。この辺りは問屋街になっている。今日は日曜日なのでどこもシャッターが下ろされ,人通りもほとんどなく閑散としている。道の両側はビルが並び,昔の街道の雰囲気は残っていなかった。
堀川を渡ると,道は北に曲がる。この先が四間道である。名古屋市内でも旧街道が残されている所である。江戸時代に大火を防ぐ方法として考え出された道で,道の幅を拡張して四間にしたところからその名前が付いたという。豪華な白壁の土蔵や旧家が今でも残されていて街道の雰囲気が漂っていた。

その道から少し横町に入った所に屋根に祭壇を設けている旧家があった。屋根神様と呼ばれるものである。屋根の上に小さな社を祭るという形態は名古屋独特のもので,これは,疫病や火災などの恐怖から身を守るために,庶民の祈りをこめて作られたという。幕末のころから作られるようになり,明治時代になってからは各町内でたくさん作られ,戦前には陸海軍軍人の入営や出征の際には屋根神様の前で壮行会を開いたり,戦勝祈願や武運長久をも祈願したものであったという。今でも毎月1日と15日には月並祭が行われている所もあるという。最近は屋根神様の数がどんどん減ってきているというが,歴史を伝えるものとしてここの屋根神様は保存されているようだった。
美濃路は,地図によると幅下小学校の北の公園の中を通り抜け,少し行った所で左に曲がり,押切町を真っすぐ西に進んで行く。歩いて行くと確かに旧い家が残っている所があり,昔,街道であったことを伝えている。店の軒先には美濃路というのれんが下がっていた。凧を売っている店がある。店の中を覗くと名古屋地方に伝わる蝉凧やおたふく凧,扇子凧など懐かしい凧が飾ってあった。この店で今も作っているようだ。子どもの頃よく上げたものばかりである。子どもの頃は一つ100円程で売っていたが,今の値段はきっと数千円もするのではないだろうか。実際に上げるのではなく装飾品として飾るものになってしまったようだ。いつか機会があったら購入したいと思った。
名古屋市内では旧東海道筋にある有松の町並みが有名だが,東枇杷島も街道の雰囲気を今なお残している町であることを知った。白山神社前を過ぎる。名古屋十名所という石柱が立っている。ここは昔立場があったところだという。この町にはお屋根様が残されている家屋も幾つかあるという。町並みを保存するという話が進んでいるのだろうかと思った。
名鉄のガードをくぐって少し行くと庄内川にぶつかった。美濃路という石碑と常夜灯がある。江戸時代には,この先の堤防を上ったところに木橋が掛かっていて,旅人はそこを渡ったという。現在はそこより少し西の所に枇杷島橋がかかっている。その橋を渡れば向こう側は西春日井郡西枇杷島町である。名鉄電車が走るのを見ながら枇杷島橋を渡った。
西枇杷島町の入口に道標が立っていた。東西南北それぞれの方向への案内が刻まれいて,私がこれから行く西の方角は「きよす宿 つしまてんわう」となっていた。西枇杷島指定文化財という案内板が立てられていて,それには次のようなことが書かれていた。「美濃路は江戸時代東海道と中山道とを結ぶ脇街道として発達した。当時,旅をするには一里塚や道しるべはなくてはならないものであった。この道しるべは文政10年(1827)に旧枇杷島小橋のたもとに立てられた。歴史を物語るものとして大切に保存したい。」西枇杷島町は美濃路を保存するためにいろいろ取り組んでいることが伝わってきた。
旧い町並みの残る街道を進むと問屋記念館が建っていた。入場は無料。なかなか立派な旧家である。中に入ると江戸時代西枇杷島美濃路の道標の青果問屋の取引きの様子が人形で再現されていた。ビデオコーナーも設置されていて,美濃路や昔の下小田井の市についての説明が放映されていた。この西枇杷島には山車が何台もあり,毎年6月の第1土曜日と日曜日に「にしび祭り」として山車祭りが開かれているというポスターも貼ってあった。西枇杷島の町の人たちの歴史を保存する熱意が伝わって来た。
10時15分問屋記念館を出発。街道の雰囲気の残る道を進んで行く。今までいろんな道を歩いてきたが,名古屋のすぐ隣りの町に昔の街道の雰囲気を残している道が残っていようとは思いもよらなかった。街道を紹介する本には全く紹介されていない。ぜひ取り上げてもらいたいものだ。
少し行くと新川町になった。西枇杷島という町がとても小さい町であることが分かった。新川町も旧い町並みがたくさん残っていた。昔懐かしい銭湯もあり,小さな商店もほとんどが営業していた。今,名古屋では小さな商店は校外にできたスーパーのために店を閉める所が急速に増えているが,この町は少し前の時代にタイムスリップしたような感じがした。
新川を渡る。この川は江戸時代に庄内川の放水路として作られた。当時のお金で40万両を要した大工事だったという。新川橋を渡った所から右へ折れると津島に行く道となる。道標がここにあるというのだが見つけることができなかつた。町並みの様子は新川橋を渡ってからは,旧道の雰囲気がなくなってきた。名鉄須ヶ口駅から少しいった所に一里塚跡の道標があった。ここから清洲まではあと4kmである。
12時30分清洲の町に入る。この町は4月に行われた町長選挙で共産党の大長氏が町長に選ばれて話題を呼んでいる町である。美濃路はJR東海道線のガードをくぐると北に向かって行く。清洲城への案内が出ているので,少し寄り道になるが清洲城を見学して行くことにした。この城は清洲町の町制100周年記念事業の一つとして再建されたのだそうだ。本当の城は江戸時代初めに徳川家康が「清洲越し」と呼ばれる清洲の町を名古屋へ引越した時に取り壊されてしまった。前町長がその城を再建したのだが,バブルが弾けている中で莫大な税金を使ってしまった。まだ他にも莫大な税金を使ってしまい,町民の批判を浴び,共産党町長の誕生につながったようだ。入場料300円を払って天守閣に上る。階段や床には桧やケヤキが築材として使ってあり光り輝いていた。確かにすごい大金がこの城に使われていることが理解できた。しかし展示されている品はそれほど多くはなかった。現町長は清洲城 にはあまり力を入れていないようだ。
13時30分,清洲駅前の喫茶店に入り,昼食をとる。ランチを注文する。出てきたランチを見て驚いた。焼きそばとサラダと海老フライがセットになっていて更にコーヒーが付いて600円であった。とても名古屋ではこんな料金では食べることができないランチであった。店は繁盛している様子だった。
14時喫茶店を出発。清洲町から稲沢市に入る。長光寺の前を通る。入口に道標が立っていて,「右 ぎふ並浅井道 左 京都道大垣道」と刻まれていた。この道標はここから少し先の四ッ家追分にあったものを傷みがひどいということで,ここへ移動したものだそうだ。境内に入ると本堂の前に六角形の形をした大きな屋根のお堂が建っている。尾張六地蔵の一つになっている六角堂である。今までに幾つも六角堂を見てきたが,こんなに大きな六角堂を見たのは今回が初めてである。中を覗いて見たかったが,残念なことに柵が設けてあり見ることができなかった。この辺りは地名も六角堂町となっていた。
JR東海道線を渡り,そこから先は,旧道の面影は全くなくなり,大きな工場横の広い道を歩くことになった。長束町を過ぎて,名鉄電車の線路を渡るすぐ手前に大きな鳥居がある。近づいて見ると,国府宮一の鳥居と表示されていた。毎年旧正月13日に行われるはだか祭りは有名である。はだか祭りを知らせる大きな看板が太陽の光を浴びて光っていた。
名鉄電車の線路を渡り,少し行った所から街道らしい建物が道の両側に見えるようになった。稲葉宿に着いたようだ。時間は15時30分。稲沢の町は宿場町の様子がよく残っていた。土塀や瓦屋根が低く迫り出した旧家が続いている。大きな看板のある酒屋もある。美濃街道をずっと歩いてきてこの道が街道の雰囲気をこんなにも残していることに本当に驚いた。もっと宣伝すれば歩く人が出て来るのではないかと思った。
冬の太陽は沈むのが早い。もうかなり西に傾きかけている。今日の目的地一宮の萩原宿まではあと6km。道は西に向かっている。ちょうど太陽が沈む方向に歩いている。平らな大地がずっと先まで広がっていて,その先に養老の山々が見える。今,そこに太陽が沈もうとしていた。夕焼けが美しく思わずカメラを向けてシャターを切った。
17時,真っ暗になった名鉄萩原駅に到着。今日の街道歩きは終了。今日は26km程歩いたことになる。この後この近くに泊まり,再び明日ここから歩き始めようと思ったが,ここから名古屋までは1時間もあれば帰れることが分かったので,名古屋に帰ることにした。やって来た尾西線一宮行きの普通電車に乗り,一宮で名古屋本線に乗り換え6時過ぎには名古屋の自宅に着いた。
第2日目 萩原宿から大垣宿へ
午前7時自宅を出発。7時20分金山着。特急電車で一宮へ。一宮で7時50分発の津島行き普通電車に乗り換え8時に萩原駅に到着した。今日も天気は晴れ。昨日は風が強かったが,風もなく,とても穏やかな朝である。駅から少し西に行った所に萩原の町があった。商店街が道の両側に並んでいる。大売り出し中なのか飾りが張り巡らされているが,休みの朝なので人通りは全くない。
一宮市から尾西市に入った。街道沿いには旧家が残っている。歩いていて「カッシャンカッシャン」という音があちらこちらの家から聞こえて来る。織機を動かす音だ。尾西市は織物の町ということを子どもの頃社会の勉強で習ったことを思い出した。道で農作業をしている人がいたので,織物のことについて尋ねると親切に教えてくれた。だいたい1軒には5〜6台の織機があって,今は来年の夏物を織っているということだった。最近は高速織機を入れる家が増えてきているという。しかし,後継者がいなくて,織機を持っている家がどんどん減っていて,多くの家では老人が織機を動かしているとのことだった。深刻な課題を抱えているようだった。この美濃路を私のように歩いている人はいないかも尋ねたが,そのような人を見たことはないとの返事だった。
冨田の一里塚前を通る。この一里塚は道を挟んで二つの塚が残っている。そしてその塚には見事な榎の木が生えていた。愛知県内にある一里塚で二つの塚が残っているのは,旧東海道豊明にある阿野一里塚だけである。冨田一里塚は国の史跡に指定されていた。
冨田一里塚から50mほど先に大きな道標が立っていた。「左 駒塚道」という文字が刻まれている。この先の木曽川を渡って岐阜県の駒塚まで行く道を指しているのだという。この辺りは江戸時代は低湿地帯でいろいろな所に渡し場の跡が残っていると老人が教えてくれた。現在も木曽川の渡し船が残っている所がこの近くにあるということだった。機会があったら乗ってみたいものだ。
起宿に到着。旧い町並みが残る小さな町である。尾西市の歴史民族資料館が脇本陣の旧家を使って開設されていた。残念ながら日曜日と祝日は休館ということで見ることはできなかったが,尾西市は歴史の保存に力を入れているようだ。ここから美濃路は木曽川を渡る。起宿には渡し場の跡が残されていた。
濃尾大橋を渡る。歩道がきちんと付いていて歩き易い。空を見上げるとプロペラつきのパラグライダーが飛んでいる。木曽川の緩やかな流れの上を飛ぶ気持ちはどんなだろう。
見ているとパラグライダーは川原に着陸した。川原を飛行場として利用し,趣味を生かしている人がいることに感心した。それにしても,凄い趣味を持っている人がいるものである。
濃尾大橋を渡った所に起渡船場石灯台が残されていた。とても見事な灯台である。岐阜県指定の史跡になっているという。墨俣宿へはここから8km。今は10時過ぎ。昼には到着できそうである。
不破の一里塚跡の前を通る。この一里塚跡は羽島市立正木小学校の前にある。今まで道を歩いていて学校の前に一里塚があったり,松並木があったり,道標があったりしている所が幾つもあった。歴史を子どもたちに伝える貴重な遺産があるということは,きっとその学校では教材に生かす取り組みが行われているのではないだろうか。
間の宿跡を通り,街道の両側が広い田圃になった。長良川と木曽川に挟まれたこの地域は,昔は低湿地帯で洪水に度々見舞われた所であるが,今では有数の穀倉地帯になっているようだ。
境川の堤防を上る。堤防の上が街道になっていて,土手には桜が植えられている。堤防の上から境川の緩やかな流れを見ながら歩く気分は最高である。川原が公園になっていて子どもたちがサッカーの試合をやっているのも見える。春や秋にはきっとこの道を歩く人が多いのではないだろうか。大きなイチョウの木の前に西小熊の一里塚跡があった。その横に「減量ウオーク健康街道」という表示がある。やはりこの道はたくさんの人が歩いているようだ。
長良川がすぐ近くになってきた。小熊大橋を渡り反対側の土手を歩いて長良大橋に向かうことにした。境川の土手を歩き出して思わず足が止まった。水面にたくさんの水鳥が群れているのが見える。鳥たちが羽を休める場所になっているようだ。早速カメラを取り出してシャッターを切った。周りの風景もなかなか趣がある。対岸の河原にはススキが一面に白い穂を光らせていた。ふと足元を見るとカラシナが黄色い花を開いていた。この時期にどうしてカラシナが咲いているのか,本来なら春に咲く花である。とても不思議で,思わず座り込んでシャッターを切った。道を少し変更したことが思わぬ発見につながり,気分は最高であった。結局30分近くそこでシャッターを切っていた。
長良大橋を渡る。新しくできた橋である。歩道が両サイドに作られていて,大変歩き易い。川の向こうに墨俣城が見えてきた。実に立派な城である。この城も清洲城と同じく,つい最近建てられたようだ。全体がまぶしく光り輝いていた。12時ちょうどに墨俣宿に到着した。食堂を見つけて中に入りラーメンを食べた。
12時30分食堂を出発。墨俣城を見学する。歴史的には墨俣城は一夜城として作られたもので木と石を組んだ砦のようなものであったらしい。このような立派な城でなかったことははっきりしている。墨俣城と銘打って存在しているこの建物をどう理解したらよいのだろうか。私が今回,街道歩きの参考にしている「新川みのじ会」が作った「美濃路」という本にも,この城のことは何も触れてはいなかった。ここに来て初めてこの城があることを知ったのである。誤った歴史を伝えてよいのだろうかと思った。墨俣からは犀川の堤防の上が街道になっている。その道を歩いて行くと大きな道標が立っていて,「谷汲山道」と刻まれていた。以前,垂井宿から加納宿へ向けて中山道を歩いていた時に,谷汲山の方向を知らせる道標を幾つも見たことを思い出した。この道標はその中では一番大きなものだった。
東結の一里塚跡の前を通る。安八町の史跡に指定されていると表示されていた。墨俣町から安八町に入ったようだ。安八町といえば以前,長良川の堤防が切れて大洪水になった時に大きな被害が出た町である。この辺りはその時に大きな被害があった所なのだろうか。
縁結びの結神社の横を過ぎると,揖斐川の堤防が見えてきた。堤防の上り口に水屋が残る旧い農家があった。やはり昔からこの辺りは川が氾濫し,この様な水屋を備えた農家が多かったのだろう。街道はここで行き止まりになっていた。ここが佐渡りの渡し跡とのことだ。私はここから迂回して新揖斐川橋を渡ることにした。新揖斐川橋への道が少し分からずにうろうろしていたら,放し飼いの大きな犬にまとわりつかれてしまった。噛みつかれはしなかったが,本当に冷汗をかいた。街道を歩いているとこういうハプニングもあるものだ。
揖斐川を渡って大垣市に入った。時間は14時。スピードを速めれば垂井宿まで行けないこともないが,今日の旅の終点は大垣とした。今宿の立場跡近くで,南の方角にとてつもなく高いビルが見え出した。広い畑の中にそびえるその建物はバブルを象徴するような建物で異様な感じを受けた。会社なのかマンションなのか。車を洗っている人に「あれは何ですか」と尋ねると「大垣市の総合体育館でコンピュータ関係の学習もできる施設が入っている」と教えてくれた。この建物が都市の中にあれば別に異様さを感じないのだろうが,畑の真ん中にあったことで,そのように感じたのかもしれないと思った。しかし,市民の税金をゼネコンにつぎ込んだ建物であることには違いないと思った。
15時大垣城に到着。大垣は水の街として有名である。大垣城への道はずっと川の横を歩いてきた。太陽が少し西に傾き出した大垣城を見ながら,この町は次回ここから垂井宿まで歩く時にもっと詳しく見学したいと思った。
第3日目 大垣宿から垂井宿へ
年が開けた1月4日に再び大垣を訪れた。天候は残念ながら小雨が少し降っていたが,今回はこの大垣から垂井までの美濃路の残り約11kmを歩き切るつもりでやって来た。
まずは大垣駅前から少し東に行ったところに,水門川遊歩道が作られているので,それに沿って住吉橋まで行くことにした。天候が悪いためか遊歩道を歩いている人はいなかったが,水門川の遊歩道はとてもよく整備されていて,所々に休憩所やいろいろな像や案内板が設置されていた。大垣市は「水と歴史の街」として熱心に整備しているようだ。
八幡神社前を通る。正月ということで初詣にこの神社へ参拝する人が多いようだ。屋台の店も10軒近く並んでいた。天気はあまりよくなかったが,初詣に訪れる人をたくさん見た。
水門川には水鳥が何羽も羽を休めていた。水鳥を見ながらの散策はなかなか趣がある。遊歩道を20分近く歩いて,住吉燈台前に着いた。ここはかって大垣の港があった所で,旧い燈台が残されている。また、松尾芭蕉が奥の細道を歩いてこの地で旅を終わりにしたということで,記念の像も残されていた。大垣市内には芭蕉の句碑も多く残されている。川の両岸には桜の木がたくさん植えられていた。きっと春には素晴らしい花見の場所になるのではないだろうか。
住吉橋から美濃路を歩き始める。道はかなり拡張されていて4車線になり,歩道もきちんと付いていて歩き易い。しかも,道路沿いには旧い建物が並び,以前ここが街道であったことを証明していた。立派な旧家もたくさん残っているようだ。旧い作り酒屋もあった。 塩田橋の所から旧道に入る。杭瀬川を渡ると橋の袂に塩田の常夜燈があった。この常夜燈は杭瀬川の上流にある赤坂港からこの塩田港へ入る船の安全を願って作られたとのことであった。当時の歴史を伝える資料として残されていた。常夜燈の横に梅の木がかわいい白い花を付けていた。今年は暖冬というが,正月にもう梅が咲いているのには驚いた。
旧道を歩いて行くと,10分程で久徳町の一里塚に着いた。美濃路を歩いて来て,冨田に一里塚が残っていたが,ここにも旧い一里塚が残されていた。太い榎木が立派だった。
再び旧道は県道に吸収されてしまった。広い歩道を歩いて行く。大谷川を渡ったところで道は県道と別れ,再び旧道になる。旧い町並みの残る長松町である。二つの道標が並んで立っていた。一つは「大垣・岐阜 垂井・京都」を指し示している。もう一つは「従是 南宮社江近道」を示していた。
再び美濃路は県道と合流し,しばらく行った所で県道と別れ 垂井の宿へ向かう。この道も旧道の名残を残していた。しかし,車が頻繁に行き交い,白い路側帯の内側を歩くのは少し辛い。綾戸の一里塚跡を過ぎ,JR東海道線を渡った所から松並木が見え始めた。美濃路に唯一残る松並木である。松の幹にはむしろが巻かれていた。追分までの間にずっと松並木が残り,垂井町も力を入れて保存に取り組んでいるようだ。松は全部で47本あるとのことだった。道には広い歩道が付き,歩き易い。大垣を出発して約2時間で追分に着く。ここは中山道と美濃路との分岐点である。やっとのことで美濃路を歩き切ることができ,気分は爽快であった。昔の旅人もやはり,2日と少しかかって東海道熱田の宮からこの垂井まで歩いていたと,本に書かれていたことを思い出した。私も実質的には2日と少しで美濃路を歩き切った。まだまだ私の体力も大丈夫のようである。
追分から川を挟んで向い側が垂井宿の入口,相川橋である。相川の流れの上流には養老の山々が見えていた。ここから美濃路は中山道となり幾つもの山を越えて京都につながっている。一昨年の夏にこの地を京都から歩いて来たことを思い出した。この橋の少し上流には4月になると鯉のぼりが川を横切ってたくさん吊り下げらけれるとのことだった。今度はその鯉のぼりが川の上を元気よく泳いでいる姿を見に来ようと思った。