「ところでハルユキ君。これから、水を撒きに行かないか」

 脈絡なく放たれた先輩の提案に、今まさに別れの挨拶を口にしようとしていたハルユキは大きく目を見開いて立ち止った。
それでも彼が驚きに支配されていたのはほんの一瞬で、《親》にして《レギオンマスター》であるレベル9の《バーストリンカー》が意味のない発言をするはずはないと、唐突な台詞の意味をどうにか咀嚼するべく脳細胞をフル稼働させる。
しかし、努力空しく加速世界に関わる隠語を含めたあらゆる単語を思いつく限りの並べてみるも該当する表現は見当たらず、また、文字どおり水を撒きに行くにしても、どうして、とかどこに、という疑問ばかりが先に立って、答えに結びつかない。

「ええと」

 結局、たっぷり数十秒を浪費してから、いつまでも黙っているわけにはいかないという消去法的思考によって導き出された無難な結論、オウム返しが選択された。

「水を撒きに行くんですか?」
「そうだ。道路にな」
「え、道路に?」

 結果としてますます混乱する羽目になったハルユキが、戸惑いもあらわに問いを重ねる。
草木に水をやるならまだしも、何のために通りへ水を撒き散らすのか。

 黒雪姫はすっかり動揺してしまったハルユキを数秒見つめてから、艶やかな黒髪を指で撫で梳きつつ微笑んだ。

「言い方が少し意地悪だったかな。打ち水だよハルユキ君」
「あ……」

 ようやく合点する。
ミスリードを誘う言い方をしたのは、ちょっとした悪戯心といったところか。

「知っているとは思うが、打ち水とは道路や庭に水をまいて土ぼこりを防いだり、涼を得たりする日本人が生み出した生活の知恵だ」

 立て板に水を流すように続く補足の説明に、《ネガ・ビュラス》が誇る期待の星は幾度もうなずいた。
ここ、東京でも二十一世紀になってから大々的に行われたという記事をどこかで見たことがある。

「古代において打ち水は、神の通り道を清めるという意味があったそうだ。江戸時代になると、夏の涼を取るという実用的な意味合いが強まったらしい」

 もしかすると、神社では今でも古式豊かな催しを行っているのかもしれない。
そんなことを考えながら、ハルユキは先輩の博学さを手放しで賞賛する。

「さすがは黒雪姫先輩です。先輩は何でも知ってるんですね」
「何でもは知らないさ。答えられるのは知っていることだけだよ」

 自信を持つことと、驕りは違う。
黒雪姫の返答は、嫌味のない謙虚さに満ちていた。

「とはいえ、キミに褒められて悪い気はしないがね」

 くすぐったそうに目を細める先輩の姿があまりにもまぶしく感じられて、ハルユキはどぎまぎしてしまう。
本当にこの人の隣にいていいのだろうかと思ってしまう。
出会った当初と比べればその思いに捕らわれる回数は減ったとはいえ、現実世界においては己がヒエラルキーの底辺にあるという意識は抜けていない。
しかし、後ろ向きでしかなかったあの頃のように、暗い気持ちになることはなかった。
その点は、変わったといえる。言い方を変えれば、図太くなっただけなのかもしれない。
それでも、事あるごとに落ち込んでばかりいるよりはいいと、思うようにしている。

「ハルユキ君」
「は、はい」

 見とれていることに気づかれたのか。
穏やかに笑いかけられて、ハルユキは裏返りそうになる声のトーンを必死に抑えながら応える。

 だが、心配は杞憂に終わった。

「そろそろ、返答を聞かせてもらえるかな」
「え? あ、もちろん行きます! 行きたいです!」

 あわてているハルユキは、先輩がほっと胸を撫で下ろしていることに気づかない。


「さて、どうしようか。打ち水大会が始まるまでまだ時間がある。一度着替えてから集合するか、それともこのまま行くか」
「はい。ただ、着替えてからだと、イベントが始まってしまっているかもしれませんね」

 これから行こうとしているイベントの名称は、夕べの涼みと題された打ち水大会である。
これから向かえば十分な余裕があるのだが、一度家に戻るとなると間に合うかどうかは際どいところだ。

「とはいえ、せっかくのデートだ。できれば着替えておきたい」

 デートなる単語に反応して頬を赤く染めつつも、ハルユキは可能な限り先輩の意図に応えようと考えた。

「僕はこのままでいいんですか?」
「問題はそこだ。ハルユキ君の私服姿を堪能するのも悪くはないが、キミが家まで戻り、それから合流して会場入りするとなると日が暮れてしまう」

 思案に暮れる横顔は真剣そのもので、脳内で練られている計画が黒雪姫にとっていかに重要なものであるかをうかがい知ることができる。

「では、こうしよう。少し待たせてしまうことになるが、私の家に来てくれ。キミさえよければ、だが」

 ハルユキが一も二もなく応諾したのは、盲目的なイエスマンだからというわけではない。
デートに臨むから着替えておきたいという殺し文句に、否やを唱える理由などなかったからである。


「いい匂いですね」

 思ったよりも時間がかかってしまい、タクシーを使ってなんとか間に合った二人の意識を奪ったのは、食欲を刺激する音と匂いだった。
どれだけ通信技術が発達しても、やはり直接五感に訴えかける商法は有効だ。
懐かしそうに屋台を眺める親にねだる子の図は、自然と頬を緩ませる。

「そうだな」

 黒雪姫の格好はジーンズと腰の辺りに小さくスリットの入った白い開襟シャツという格好で、袖口と胸元に施された小さくも精緻な模様が洒落た印象を与えていた。
その上から羽織っている黒のショールは、夜風対策といったところか。

「ちょうど小腹が空いてきたところだ。何か、買っていかないか」
「いいですね。僕もそう思っていたところです」

 露店が立ち並ぶ石畳の上を行き交う人の数はそれほど多くはなかった。
平日の夕方からの催しであるため、親子連れはちらほらと見かけるくらいで、残りは老夫婦や学生と思しきカップルが占めている。

 自分たちは、端から見てどういう風に映っているのだろう。
心優しい姉が弟に付き合ってやっている、あるいは従僕のようなものと思われているのかもしれない。
思考が負のスパイラルに陥ろうとしていたハルユキは、袖を引かれて目を瞬かせた。

「実は屋台で食べ物を買うのは初めてでな。ハルユキ君は?」
「ずっと前に、一度だけ。と言っても自分で買ったわけじゃないですけど」

 記憶にある数少ない父親の思い出を脳裏に浮かべつつ、ハルユキはわずかに眉尻を下げる。

「ふむ」

 何を思ってか、漆黒の瞳が微かに揺れて、こちらを真っ向から捕らえた。

「……キミが買うとしたら、何を選ぶ?」
「そうですね。どれも美味しそうですけど、やっぱりあれかな」

 後輩の視線を追って、赤くペインティングされた大きなタコのイラストを目にした黒雪姫は、ふふ、と小さく唇を持ち上げて笑う。

「奇遇だな、ハルユキ君。私もあれが欲しいと思っていたところだよ」

 機嫌よく言った先輩の表情に、ハルユキはつい嬉しくなってしまうのだった。


「冷凍ではこの味は出せないな」

 たこ焼き入りのパックを手にしたまま打ち水に興じるわけにはいかない。
木々の間から射し込む、真っ赤に燃える太陽の光を背に、ほんのりと立ち上る湯気に混じるソースの香りを堪能してから、黒雪姫はつまよう枝で突いたたこ焼きを自らの口へと運ぶ。

「そ、そうですね」

 はふはふと、熱を逃そうと動く唇の動きを我知らず目で追っていたことに気づいたハルユキは、それを誤魔化そうともう一本のつまよう枝に手を伸ばしたのだが、あわてていたせいか、そのまま地面に取り落としてしまった。

 思わず顔を見合わせた後、ハルユキは頬を指先でかく仕草と共に苦笑をこぼす。

「はは……どんくさいですね」
「気にするな、ハルユキ君。私も、同じことをしてしまったことがある」

 慰めという名の優しい嘘だった。
今回が初めてだったのだ。同じことをできるはずがない。

 そのことを理解した上で、そうでしたか、と相槌を打ったハルユキは自然と笑顔を取り戻していた。

「さっきの屋台でもう一本もらってきましょうか」
「それには及ばないよ、ハルユキ君」

 これ以上は食べるな、ということだろうか。
確かに、食事前に屋台のはしごは危険かもしれない。

 だが、黒雪姫は何故か目もとを桜色に染めていた。

「口を開けたまえ」
「え?」
「いいから早く」
「はい……はぐ」

 わけがわからないながらも口を開いたハルユキは、熱を帯びた球状の塊を舌で受け止めて目を白黒させる。

「もらって来なくても、ここにもう一本あるからな。……それで、味のほうは?」

 喜ぶ暇もあらばこそ、口内で弾ける熱のせいで薄く涙を浮かべつつ、返答を催促されたハルユキはそれでも頬をほころばせて口を開く。

「おいひいです」

 この後、再び後輩にたこ焼きを食べさせようとした黒雪姫は、激しく羞恥心を刺激されて断念した。


 交互に一本のつまよう枝を使ってたこ焼きを完食したハルユキたちは、打ち水が行われるグラウンドへと移動した。
通りから開けた場所へと出た途端、二人は声を失う。
空と雲をオレンジに彩りながら今まさに稜線へと沈み行く太陽の美しさは筆舌に尽くし難かった。

 ややあって、黒雪姫がぽつりとつぶやく。

「綺麗だな」
「はい。とても綺麗です」

 形容すべき言葉はそれ以上浮かばず、ハルユキは短く答えた。
人は、あまりに美しいものを見た時、かえって語彙を乏しくするものなのかもしれない。

「あの、先輩」
「どうした、ハルユキ君」

 穏やかな眼差しを向けてくる黒の王の瞳を見つめ返してから、ハルユキは再び赤い光に包まれた西の空へと顔を向けた。

「その、夕陽は……夕陽も、すごく美しいと思うんです。でも」
「でも……?」

 何を言わんとしているのか、その意図をつかみかねて黒雪姫がそっと首を傾ける。

「この景色を一緒に見ている人がいるから、黒雪姫先輩がいるから、より綺麗に感じるというか。だから、僕は、その……」

 続きを促されたハルユキは、しかし、それ以上語を継ぐことができなかった。
背後から、いきなり水を浴びせられたからである。


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ver.1.03 12/7/12


 アクセルワールドSS、第2弾です。前回とまったく違うお話です。

 それでは、再び皆さまとお会いできることを祈りながら。



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