マウンテン・サウンドの秘密

1970年前後、アメリカン・ハードロックというと、グランドファンク・レイルロード(GFR)、カクタス、マウンテンが御三家でオールマン・ブラザーズ・バンドやジョニーウインターなんかが多少その領域に重なってたりしていたが(ステッペン・ウルフ、ブルー・チアーなんてのもあったが)、ハードロックは圧倒的にブリティッシュの独断場であった。その中でもっともメロディアスだったのがマウンテンということになるのであるが、後のアメリカン・ハードの展開を見るとこのポップさというのは一つの基軸であり重要な要素だったと思う。GFRも途中から方向転換したし、レインボーのアメリカ進出もしかり。バン・ヘイレンの成功はもちろん様々な要素はあるが、ポップさにおいてはもっともこれを忠実に守っている典型なんじゃないかとも思う。つまりメロディを重視しないとアメリカでは受け入れられないわけである。しかし、マウンテンが最初から受けを狙ってメロディアスにしていたわけではなく、それは必然として結果的にもたらされたものであることに留意しなければならない。

マウンテンは当初その音楽性の高さが理解されずに、クリームの模倣という視点で見られていた。さすがに今ではそう言われることはほとんどなくなったが、マウンテンは楽曲の良さとレズリー・ウエストのハードでメロディアスなギター・プレイがかっこいい、アメリカのバンドなのにブリティッシュぽい雰囲気がいいという評価は間違いなく一つの正しい見方である。しかし、一部の評論家やミュージシャンからはその奥の深さを知るに連れて、マウンテンって何か違うと気が付き始めた。いち早く気が付いたソニーの担当者はレコードに分厚い解説書まで付けたりもした。しかし、同時発売でなくタイムラグのあった日本ではその時もうマウンテンは崩壊しかかっており、全盛期のライブを見る機会がなかったことが、ブリティッシュ・ロックの波に飲まれてしまう原因にもなったことは否定できない。加えてアメリカン・ロックという側面が正当な評価を妨げてしまったこともあるだろう。結果これでマウンテンは現在まで通好みとか玄人受けするバンドとして過小評価されることになってしまった。アメリカン・ハードロックにしてもGFRが華々しくデビューしてクリームの方法論を使ってライブで大受けしたけれども、音楽的影響力でいえばはるかにマウンテンの方が大きいのではないか。 ZEPのように長く活動していたとしたら、恐らく現在のような評価に甘んじているはずはなかったと断言できる。

今では元クリームのメンバーも昔のことを語り出しており、クリームというバンドの内実もより明らかになってきたと思うが、それでもクリームの音楽性をつぶさに分析した解説や評論は相変わらず不十分なままである。クリームの音楽性をしっかりと把握することでマウンテンの存在価値はいっそう輝くものになるであろうが、それを担った中心的人物はもはやこの世にはいない。パパラルディが今も生きていたらと悔やまれるばかりである。


マウンテンにいたるまでの試行錯誤

【パパラルディの音楽的背景】

パパラルデイが最初に触れた音楽はバッハである。そして大学におけるクラシック音楽の作曲法や指揮法を学ぶかたわら、中近東音楽への興味も相当あったようだ。

マウンテンの作品の中にはもともとフォーク・ソングとして通用するようなメロディの曲が多い。マウンテンの哀愁ただようフォーク的旋律にはフェリックス・パパラルデイの音楽的背景が大きな鍵を握っているわけで、そのルーツは彼が1963年から66年までグリニッチ・ビレッジにいた頃に注目しなければならない。60年代前半というと、ニューヨークでもフォークが盛んで、ここで活発だったフォークというのがイギリス、スコットランド、アイルランドを起源とするもので、素朴なトラッドフォークから政治的主張を含んだ過激なものまであって、それらすべてにパパラルディが何らかの影響を受けていたことは想像できる。そう思うとマウンテンの特徴であるメロディアスという部分はパパラルディのクラシック的バックボーンにフォーク的要素が合わさったものではないかと推測するのである。そして社会に対する批判的な見方も突き詰めればこのフォークの伝統に乗っ取っているとも言えるわけである。

パパラルディの音楽的方向性はまさにこの時代に固まったと言えるが、ここで触発されたのが前述のフォーク・ミュージックと中近東音楽の二つだったわけである。この時代にパパラルディはフォークソング・クラブなどに出入りするようになっていき、ソニー・テリー、ブロウニー・マッギーらの演奏を聞いたり、ミシガン大学のフォーク・ソサエティの会員にもなり、ジョン・リー・フッカー、ハウリン・ウルフらにも会い、一緒に演奏した事もあるという。そうした中で彼がもっとも最高の歌手だと思っていたのがティム・ハーデンだったそうだ。

芸術や自由を愛するヒッピーやミュージシャンらと交流を深め、フォーク関連ではリッチー・ヘブンスにも入れ込み、その後1963年、フォーク・グループで演奏するようになって本格的にこの世界に足を踏みいれるようになったパパラルディは、翌64年からイアンとシルビアのベーシストとして活躍するようになり、その後はトム・バクストン、ゴードン・ライトフッド、ママ・キャス、ティム・ハーデン、バフィー・セントメリーらと行動をともにしている。63年から66年にかけて彼はエレクトラ・レコードとスタジオ・ミュージシャンとして契約し、ジョン・セバスチャンとチームを組んで働いていた事もある。また64年にはCBSコロムビアとソロ契約してシングル・ディスクを66年に1枚発表している。この時期はフレッド・ニール、トム・ラッシュらとも交流があった。64年には思想的に大きな影響を受け後に結婚することになるゲイル・コリンズとも出会っている。しかも、65年にはボブ・ディランがロックへ転向するという大きな衝撃を受けることになる。この時代の経験がクリーム、マウンテンに持ち込まれているのは間違いないと言える。

この時期、1966年には中近東音楽に触発されたハードロックの原形のようなアルバムを1枚発表している。このバンドは「THE DEVIL'S ANVIL」といい、アルバム名は「HARD ROCK FROM THE MIDDLE EAST」という。この時のメンバーには後にマウンテンのキーボード奏者となったスティーブ・ナイトも在籍していた。音楽誌も同時代のウエスト・コーストのロック・リボリューションと共にイースト・コーストの一つの重要な動きとして注目していた。しかし、この時中東戦争が勃発して、アルバムはぜんぜん売れなかったらしい。

パパラルディはこうして様々な人と一緒にプレイしたり、アレンジする事から多くの事を学んできた。なかでも彼はアレンジとプロデュースが密接な関係を持っているという事に気がついたのである。そしてクリームに出会う直前の1966年、ジェシ・コリン・ヤングのすすめで担当することになったヤング・ブラッズのデビュー・アルバムのプロデュースにそれは生かされた。ヒット曲で反戦歌にもなったという「ゲット・トゥゲザー」はビッグ・ヒットとなった。この曲はフォーク・ロックにインド・フレイバーがまぶされた感じでこの時代のサイケデリックな特徴を感じさせる。当時のレコーディングでのミキシングではリード・ギターとリズム・ギターを左右のチャンネルに振り分けるのが一般的であったが、パパラルディはこの曲でリードとサイド・ギターをミックスし、リズム・ギターをリード・ギターのドローンとして使ったのである。これが中近東風の味を醸し出すことになって新しさを出した。これが「THE DEVIL'S ANVIL」の経験から来ていることは想像に難くない。このヤング・ブラッズでのプロデュースのアイデアが彼のその後の仕事に生かされたといえる。このアルバムではクリームでも登場するヴィオラを使っているのが注目される。

しかし、なんといっても彼の名前が多くのファンやミュージシャンに知れ渡ったのはクリームのプロデューサーに迎えられてからである。ヤング・ブラッズに携わった後、彼はアトランティック・レコードでいそうろうをしていた(企画の仕事だったらしい)。その時社長のアーメットにロンドンから来た3人組を紹介されたのである。そこには後にクリームのエンジニアを担当する事になっていたトム・ダウドも来ていた訳である。その日のうちにクリームとジャム・セッションを行った彼は、さっそく5日かけて「ワールド・オブ・ペイン」をゲイル・コリンズと作詞し、「ストレンジ・ブリュー」を完成させた。こうして正式にクリームのプロデューサーに抜てきされたパパラルディ(この時28才)は自分と同思考のジャック・ブルースと意気投合し、クリームのセカンド「Disraeli Gears」を完成させ、以後アルバム「Wheels of Fire」「Goodbye」を制作していった。その中心的特徴はクラシックの手法と理論をロックの中に取り入れるということである。これはどこまでもクラシックの考え方を取り入れるということであって、決してクラシックの楽曲をロック的に演奏するということではない。


【クリームの音楽性】

クリームをスーパートリオとして見たり、クラプトンの変遷やギター奏法で切るというやり方はけっこうあるが、音楽性で分析したものはあまりないように思う。これを探っていけば自ずとマウンテンに行き着くわけであるが、クラプトンはパパラルディをよく思っていないために意図的にエンジニアのトム・ダウドだけを高く評価するような発言しかしないのも問題である。パパラルディはプロデューサであると同時にそれ以上にミュージシャンであるという側面も持ち合わせているために客観的立場に立ちやすいとともに、楽器をよく知っているということがプロデュース上で有利に働いたはずである。だから彼を「4人目のクリーム」と評するように彼もクリームのメンバーであったということをもっと強調してよいと思う。さらに世間ではクリーム内部でのクラフトンの立場を擁護するあまり、ジャック・ブルースはいつも敵役に回る構図が常で、クリームの音楽でジャック−ピート・プラウン(ほとんどの曲で作詞担当)のコンビが大きな位置を占めていたこともあまり話題とならない。(「サンシャイン・ラブ」−クラプトンも共作−や「ホワイト・ルーム」なんかも彼らによるもの)。

ファーストをプロデュースしたというロバート・スティグウッドはまったくの無能で(何せ彼はマネージャーである)、事実上ジャック・ブルースが担当していたという話しであるが、ファーストはクリームという新しい何かを感じさせるバンドを打ち出すことはできたが、決してその個性をすべて表現することはできなかったし、プロデュース能力も稚拙であった。エリック・クラプトンのリズム・ギターはジャック・ブルースのベースに隠されがちだったり、ジンジャー・ベイカーのドラムスは4分の3以上が失われていた。パパラルディがプロデュースしなければ今ごろクリームもあれだけの名声を得ていたかどうかは疑わしい(仮定であるから絶対とは言わないけれども)。つまりたった1年でも持てばよいと考えていた当時の音楽業界の中で、パパラルディはクリームの才能をしっかりと見出し、後のハードロックの元祖(それだけではないが)とも言うべきクリームを世界に認めさせたわけである。

ファースト(フレッシュ・クリーム)は、サウンド的にはボーカル主体の当時のポップスと大差ないイモいアレンジなのだが、パパラルディがプロデュースしたセカンド以降、決定的に違うのがボーカルを楽器と同等のサウンドの一つとして扱った事である。加えてサウンドの幅を広げ、3人の存在感を際立たせるということをクリームの特徴とするためにそれぞれのパートを独立させながら、ベースとギターの低音リフを全体のサウンドの要とするというハードロックの基本型が提示されている事などが特筆ものだ。これがバッハの手法から来ているという事が興味深いし、こうした考え方のルーツはやはり過去のパパラルディがかかわった中近東ロックの中にそのルーツがあるのかもしれない。

パパラルデイはセカンド「カラフル・クリーム」で楽器の定位を従来のボーカル主体のやり方から変えたとともに、ベースを中央において左のギターの低音を保障してドローン効果を出し、バッハの「トッカータとフーガ」でのオルガンのペダルの音と同じ低音域を全体のサウンドにするなどベースを2台目のリード楽器として使い、ギターでも2台のギターを1台のように聞こえるようにしてドローン効果を出すことによって重厚さを演出している(これはパパラルディがクリーム以前のヤングブラッズのプロデュースで実験済みである)。例えば「英雄ユリシーズ」のオープニングでは、ベースを2台目のリード・ギターとして使い、そのテーマのリフが繰り返されるたびにその手法を使っている。これが音に深い厚みを加えているのである。また、この曲ではセカンド・ギターをほとんど聞こえないぐらいにリミックスしてリード・ギターを盛り上げるためのドローン効果として使っている。それらは混じり合って一つのギターとなり、重厚なサウンドとなる。この音の積み重ねこそバッハが展開した音の厚みと同じ手法なのである。これがマウンテンでも継承されたパパラルディの基本的プロデュースなのである。

次に画期的なのがサード「素晴らしき世界」では、こうした定位を発展させて音の幅の拡げ迫力をより強調させるなどの試みを行っている。「ホワイトルーム」のイントロなどはその最たるもの。一言で言うならバッハの音の積み重ね理論であり、複数録音によるヴィオラとギターの2本の高音の弦で創られ、ステレオの両サイドから混じりあってミックス・サウンドを作っている。電気的サウンドの裏にクラシックの理論が息づいているわけなのだ。「ホワイト・ルーム」のイントロは完全にオーケストレーションを意識したものだ。

おもしろいのは「ホワイト・ルーム」でのジャックのボーカルとエリックのギターが同時に中央に定位され、それらが衝突せずにデュエットしているように聞かせている点である。こうした手法はマウンテンでも応用されている。

さらに画期的なのはベイカーのドラムスの録り方である。「カラフル・クリーム」ではベースが中央、ドラムスとギターが両端に定位させていたが、ここではドラムスに複数のマイクを使って、左にバス・ドラとロー・タム、中央にハイ・タム、右にスネア、シンバル、ハイハットと振り分けて音が右から左へ流れたり、中央に向かわせたりといったことを試みている。これが迫力さを強調するために大きな効果を出している。ジンジャーのバスドラの迫力はレッド・ツェッペリンのジョン・ボーナムにしっかりと引き継がれたといえよう。

この考え方は「政治家」でのトリプルギターが左右に移動しつつ、なおかつそれぞれが位相をずらしてオーバーダブされてるという凝ったアレンジに応用されている。さらにクラシック理論から来ているといわれ、マウンテンで特徴的なベースのリード的使われかたは「荒れ果てた街」でのボーカルとベースを中央においてデュエットさせているところに見られるが、これはボーカルも一つの楽器として捉えているからであり、彼のプロデュースにはボーカルだけが突出していることはほとんどない。この曲では2本のギターとドラムが一種のパーカッション効果を上げボーカルとベースがメロディとして使われ、チェロとヴィオラのミックスサウンドさえもパーカッシブと言え、メロディーはベースを聞くことになるだろう。

このようにクリームとマウンテンのつながりで見逃せない特徴はクラシックの考え方をロックに取り入れたという事であるが、中でも注目しなければならないのは曲における主題の高度化である。パパラルディとジャックの共通項であるクラシックセンスは主題の単純さを克服する事に向けられた。主題を複雑化させて音楽的に高度化するということは「素晴らしき世界」で集大成されている。もっとも顕著な例として「パッシン・ザ・タイム」はこのやり方と積み重ねを最大に生かした曲であり、単純な主題を繰り返すポップスではなく、主題をどんどん変化させ、複雑化させてまた元に戻るという構成は、マウンテンの「ナンタケット・スレイライド」のライブバージョンで完成の域に達している。「パッシン・ザ・タイム」でのメロディはクラシカルなものと中近東のスケールとの併用からなっており、音楽的に実に新しい。

以上「素晴らしき世界」はクラシックの影響を大きく受けたアルバムであるという視点は絶対にはずしてはならないし、音楽的にはこのアルバムがクリーム最高傑作であることは間違いない。クリームの音楽性の大部分はパパラルディとジャックの出会いによって生まれたといえ、こうしたやり方は以降のロック(プログレッシブ・ロックにも)に幾度と受け継がれているのである。

クリームでのスタジオのアレンジはジャックの助力も受けながら、ほとんどパパラルディが創り上げたものと言っても過言ではなく、その限界性をさらに突破するためにマウンテンを結成したのだ。こうした理論はマウンテンのライブにおいても発揮された。では、クリームの限界性とはいかなるものであったのか。


【クリームの限界性】

クリームではスタジオにおいては数々の意欲的で斬新な試みがなされているけれども、スタジオとライブとでは別のバンドの様な印象を受けるし、もちろんそれが魅力と言うこともできるのであるが、問題なのはスタジオでのクリエイティブさがライブではまったく考慮されていず、ライブは3人のエゴがぶつかり合い、憎しみと悲しみが合い混ざった別個の音楽として展開していた。クラプトンはパパラルディの志向には懐疑的で、ジャックと中の良さを見せ付けられて、自らの音楽性の発露をライブに求めていたし、ジンジャーはブルースとの長年の確執をライブでケリをつけようとしていた。残念なのはこうしたバトル的ライブ演奏が異様で凄絶な空間をつくりあげ、皮肉にもこうした側面がクリームの代名詞となり、スタジオのクリエイティブな側面はほとんど評価されなかったことである。確かに聞く側にとってライブは素晴らしいものに聞こえたのは事実である。ただ、こうした人間関係の破綻と意志疎通の困難さはスタジオとライブの乖離をいっそう助長し、クリームはわずか2年の活動で幕を閉じた。

ニューロックのはしりともいえるクリームのスタジオ録音はメンバー間の軋轢をともなっていたし、とりわけブルースに思い入れの強いクラプトンには居心地の悪いものであったろう。クラプトンのやる気を無くさせた最たるものが例のギターのトーンである。伸びのないへんてこな音色はクリーム前のブルース・ブレーカーズを知っているものなら「あれっ?」と思うだろうし、そのストレスをライブで爆発させるクラプトンのプレイの素晴らしさは不幸にもスタジオ録音を過小評価させる結果になった。

エリックはクリームをロックンロールで捉えてたと言い、ジャックはジャズだと言ってたらしいが、少なくともジンジャーとジャックからすればライブはジャズ的な感覚だったのだろう。しかし、毎度の戦争のような緊張感をともなう演奏が長続きするはずはないし、ジンジャー、ジャックという二人の達人に挟まれてクラプトンの精神的負担は相当なものであったに違いない。

加えて、クリームにはキーボード奏者がいなかったため、サウンドの隙間をどう埋めるのかという課題があった。ジャック−ピートのコンビによるブルース・ロックに飽き足らない溢れるアイデアを具現化する上でキーボードがないという限界にパパラルディはすでに気がついていたのである。だからこそパパラルディはサードアルバムではヴィオラを使ったり、4枚目のラスト・アルバム「グッドバイ」でさりげなくキーボード、メロトロンを導入して、ある意味でその後のマウンテンに通じる音作りの実験をやっている。

解散ツアーを終えて、ラストアルバムの穴埋めとして録音された新曲3曲、中でも「バッジ」は今までの対立が嘘のようなバンドとしてのまとまりと、その後の各人の音楽活動に大きな影響を与えた作品であった。よく言われるクリームの到達点として後に評価されたこの曲は、マウンテンのサウンドに継承されたのである。まさに、戦争が終わった後に一つの希望が残ったのであった。 それはここで使われたピアノとメロトロンの役割を聞けばわかる。すなわち、マウンテンにおけるキーボードの役割とは全体のサウンドに構成上の色付けをするためにあり、決して表にでしゃばってはいけないのである。これは「ナンタケット・スレイライド」のピアノにおいても同様である。


【ハードロックの始祖としてのクリーム】

ハードロック前夜で言うとキンクスの「ユー・リアリ・ガット・ミー」が実にハード・ロックっぽいし、ローリング・ストーンズの「サティスファクション」が衝撃的なインパクトを与えた。さらにヤードバーズがもうそれっぽいアグレッシブな作品をつくっていたり、ビートルズだって「ペイバーバックライター」「レイン」でそれの走りともいえるサウンドを聞かせていた。アルバム「リボルバー」あたりは逆にそれほどでもないが(「タックスマン」はなかなかのものだが)、ポール1人だけベースでハードロックしていたとは言える。決定的にはジミヘンが実にハードロック要素の強いサウンドをイギリスに持ち込んできていた。そうした萌芽をクリームは低音の積み重ねにこだわって執拗に繰り返すということを徹底させている所がユニークである。低音のリフを全体のかなめとする手法はハードロックの基本形の一つであるが、クリームの場合のハードロックサウンドの核は低音弦で得られる「ドローン効果」である。それを強力に歪ませて重厚なサウンドにしているわけだが、ここにクラシックの低音の使い方から転用するという理論付けがパパラルディが着目した所である。

パパラルディはギターをオーケストラの中での様々な楽器にあてはめていたように思う。かつロックにおける主役という立場を全面に出すということも忘れなかったことが、成功の秘訣だった。

この様なクリームの方向性は後期ヤードバーズのアグレッシブな方向性と融合されて、ハードロック/ヘビーメタルの金字塔であるレッド・ツェッペリンに継承されていったのである。

 

  

最終更新日 98/12/17