我が家付近の史跡                 

百年前の東西両本願寺・寺内町の風景。(T)          親鸞聖人 650回忌法会 (明治44年・1911)

    

御影堂門(正面)に全国から   寺内町(油小路通)の旅館や  全国からの参詣者は国鉄SL列車で、
多数の参詣者が集まる。     土産店は、参詣者で夜遅く迄   臨時京都駅の”梅小路駅”に到着し、
当時は男女とも着物姿。      賑わった。              寺関係者が歓迎案内の誘導を行う。

50年前の東西両本願寺・寺内町の風景。(U)           親鸞聖人 700回忌法会 (昭和36年・1961) 

    

上同様、御影堂門(堀川通)   寺内町(正面通)の仏具商は   当時になると、観光バスが
に多数の参詣者が集まる。    幟や万国旗等で飾り立て、    主要輸送手段に変わる。
当時になると、            参詣者を歓迎する。         その為、堀川通が臨時駐車場
女子は以前通りの着物だが    写真の丸いドーム建物は、    に早変わりする。
男子は洋服に変わる。        ”伝道院”で、現在修復中。
                            (平成22年6月5日 ポルタプラザ写真展・京都駅前)

親子が通いし ”伝統の植柳小学校” が閉校。  京都市(下京区)

    

植柳小学校は明治2年9月16日下京第19番小学校    平成22年2月20日(土)閉校式:ピアノ演奏に
として開校、以来この度少子化による学校統合により   合わせて新・旧校歌を斉唱し、懐かしい新旧
140年の歴史に残念ながら幕が降ろされた。         山科郊外学舎等のスライド写真を見る。

京都・下京区130周年 ”下京門前町ルネッサンス”

    

東本願寺御影堂再建中の写真    秋気深くなった東本願寺渉成園(枳殻邸)より
                        東本願寺阿弥陀堂修復工事中の素屋根が見える。

元治元年(1864)禁門の変で焼失     同園内の散策や・明治の東本願寺・渉成園四季の
した御影堂が明治13年(1880)〜      各パネル展及び伝統工芸の実演・体験が開催。
明治28年(1895)に再建された。      同園は・平安時代前期、左大臣 源 融 が営んだ六条
当時の巨大素屋根及び建物資材          河原院の跡地で、”源氏物語”のモデル地とか。
を運び上げる急勾配の桟橋が写り、        ・ 江戸時代三代将軍徳川家光が寄進。
当時の苦労が偲ばれる。              ・ 中国詩人・陶淵明の詩"園日渉而以趣成”より。
                                  (平成21年11月8日 YO記)

”東本願寺・御影堂”壮麗な姿で再び現る。  京都市(下京区)

     

2011年宗祖親鸞750回遠忌に向け  素屋根:総重量1500屯高さ50m    御影堂内の御厨子・
平成14年御影堂修復工事開始。    幅80m奥行60mを金属ワイヤーと   須彌壇・欄間等修復
今回5年振りに工事終え、素屋根を  油圧ジャッキ 2台で67mを約3時間   終え、一般公開。
未施工の阿弥陀堂へスライド。     掛け無事に移動を終える。      註:蓮池図 幸野楳嶺筆
                                      (平成21年7月16日 YO記)
 
西本願寺平成大修復完成慶讃法要  京都市(下京区)   

                    

 寛永13年(1636)創建以来370年の御影堂が、 同祝賀記念行事に本願寺前の堀川及び
 平成11年以来10年余の修復工事を終えて、  門前町一帯に安穏(あんのん)の灯火(ともしび)
 今回完成法要が行はれた。             が灯された。
                                        (平成21年5月25日 YO記)
      
”懐かしの京の町なみとチンチン電車”                               

日本最初の電車が走る。 京都市御池ギャラリー・写真展(中京区)
                      (その一)
第4回内国勧業博覧会の来館者の輸送として、(会場岡崎〜淀川水運の伏見港間)に日本最初の電車が明治28年(1895)に走る。
その後、北野線(北野天満宮〜堀川通〜西洞院通〜京都駅)が
明治37年
(1904)に開通する。
民家軒下をすれすれに走る”チンチン電車”(北野線・西洞院通)
                       (その二)

我が家の近くの西洞院通を走る”チンチン電車”に、模型ポンプで散水した事が幼い日の思い出として、今はとても懐かしい。
その市電も、昭和35年7月31日(1960)市民に惜しまれつつ廃線となる。
今となっては、とてもとても残念だ。
                      (平成20年5月15日 YO記)

                                 
100年前の”西本願寺前広場”(堀川通)。                            

総門(正面門)付近の広場(堀川通)。     西本願寺(下京区)
                     (その一)
明治44年(1911)、親鸞聖人650回忌大法要がおこなはれた。
全国から多数の参拝者で賑わい、騎馬警官が整理に当たった。
総門後方の足場を組んだ建物は、現在修理中の本山・伝道院で、法要の翌年に竣工した。
本山前の広場・(堀川通)。
                      (その二)

明治31年(1898),本山前を拡張し、防火設備を備えた緑地公園を完成させ、琵琶湖疎水から鉄管で水を引いた防火用水2箇所を設けた。
しかし、この貯水池は12年後の親鸞聖人650回忌大法要の前年に埋め立てられ、門前広場となり、参拝者に利用された。(写真左・明治42年)
写真の公園中央に位置する総門は、太平洋戦争中、堀川通を戦災避難道路に拡張指定され、戦後、現在の位置(約20m東)に移設された。
七条堀川辺りの賑わい(堀川通)。
                      (その三)
明治44年(1911),親鸞聖人650回忌大法要で、参詣者で賑わった堀川通と北小路通との交差する辺りでの風景。
この写真の様に、当時は堀川通の半分まで家屋が建っており、又、右端に興正寺の築地塀が見える。
写真中央の門は、”七条総門(南之総門)”で、上記戦後の、昭和25年に西の龍谷大学・大宮学舎前に移設された。
太鼓楼・堀川通花屋町辺りの風景。
                      (その四)

明治44年(1911)、親鸞聖人650回忌大法要で、現在の太鼓楼付近の風景。
左に見える門が、当時の門前広場の北側に位置する”北之総門”で、その右隣の建物が、真宗信徒生命保険会社の救護所。
        註:法要期間中、2千98人が救護を受けたとか。
その”北の総門”は、上記戦後の、昭和24年吉崎御坊(福井県あわら市)への250kmの道のりを、9日間かけ人力で運搬され、移築後は、”念力門”と改名、今も参拝者を迎えている。
       (平成19年1月15日 報恩講・龍谷大学図書館蔵  YO記)

        
住所表示板の変遷。                                                                                                                                                                       
                     
                                               
戦前・仁丹大礼服マークが  同左マークが     戦後・ロータリー寄贈   近年国際化により                                   
 下部記載の表示板。     上部載の表示板。    の表示板。          外国語併記の表示板。                                 
                                 (平成19年12月21日 YO記)
                                  
                                                      
”若宮通”(旧名:佛具屋町通)の通り名の変遷。                     

下京での”若宮通”は、中京では”釜座”と通り名が変わる。(下京区)
                  (その一)

平安京の時代には無い道路で、天正18年(1590)豊臣秀吉により、現在の新町通(旧・町尻小路)と現在の西洞院通(旧・西洞院大路)との中間に新設された。
 中京では”釜座通”と呼ばれ、下立売通(京都府庁前)から三条通迄。
 下京では”若宮通”と呼ばれ、高辻通”から七条通迄。
”若宮通”の通り名の変遷。
                   (その二)

若宮八幡宮の現在場所(六条通若宮通)には平安時代は源氏六条館跡が在り、源の義経の館も近く在ったと伝えられている。
其の後、秀吉により京都改造(御土居築造・本願寺の寺内町形成)等に依り、通り名も”菊屋町通”や仏具職人の多い”仏具屋町通”と変わるも、現在の”若宮通”に最終的に成ったのは幕末の天保以降とのこと。

 参考:大正15年の戸籍簿では御前通仏具屋町通の名称で受理記載済み。 
                        (平成19年2月19日 YO記)

想い出多い”丸物百貨店(プラッツ近鉄)”閉店の”懐古展”

小生の成長と共に歩んだ”丸物百貨店”       京都駅前(下京区)
                      (その一)

大正9年(1920)   京都駅前に”京都物産館”として誕生。
昭和6年(1931)   丸物百貨店として開業。
平成12年(2000)  プラッツ近鉄として再開業。
平成19年(2007)2月  JR京都駅にJR京都伊勢丹の開業以来低迷し,
              この度閉店となる。
           
昭和初期の”丸物百貨店”の模型
                       (その二)
・昭和の戦時下、建物上部の塔から、警戒警報・空襲警報のサイレンが
市内に鳴らされた。今もその塔を眺める時、あの当時の”ブー・ブー"と
 鳴る警報の音が聞こえて来そうだ。
”屋上の遊園地”で孫達と一緒に過した、楽しい思い出。
                      (その三)
帰京した息子達家族と一緒に、自宅近くの”丸物百貨店”へ行き、買い物を済ました後、同屋上の遊園地で、孫達と一緒に、列車や、回転乗り物や、子供用自動車等乗車し、日暮れまで、楽しく過ごした事が、今は懐かしい記憶として蘇る。

                        (平成18年11月25日 YO記)

当町”蛭子神社・秋季例祭”開催。

毎年10月20日は当町”えびすさん”のお祭り日。  蛭子水町(下京区)
                       (その一)
往昔、当町内の井戸から蛭子大御神像を戴き、全町民感激尊崇祀る。
これをご縁に、当町内では毎年十月廿日に御膳行事を奉供し崇拝する。
以後、本願寺の寺内町となり、神様を祀れず、やむを得ず、東山五条の若宮八幡へ移すも、再び時を経て元の現在地に遷宮する。
其の後、元治の兵火(蛤御門の変・1864)で社殿焼失するも、日露戦争・戦ノ記念に再建、明治39年10月20日御遷座祭典が盛大に挙行された。
町名”蛭子水之 町”の由来書(寛政10年:1798)
                     (その二)
当町号を蛭子水町と云う濫觴(らんしょう・起源)は、往昔(おうせき)北側に酒屋あり。その家に井を掘り、己にして水涌き出でる迄堀けるに、
蛭子大御神木像埋もれるを、いただき上げて水をそそぎ、尊重し奉る。
この井水冷泉にして、みがけるが如し。されば
蛭子水と申しき。
 以下文省略 (京都市歴史資料館 伊藤先生通釈)
 (註)別に、明治39年9月(1906)の町名由来書も有り。
                        (平成18年10月20日 YO記)

江戸時代末期、我が家の敷地及び隣地に関して。

文政年間(1816〜1829)頃の、西本願寺・境内総町の地図に依れば
  当時の我が家の敷地には、西本願寺家臣”上原数馬”と記載。
”上原数馬”:西本願寺家臣で、当本願寺が勤皇の誠意を示す為に、
         慶応四年(1868)十二月に維新官軍・軍務局頭取へ転任。
”当屋敷”  :塀で囲われた広い敷地内には大きな建物屋敷が有った
         様だが、以後昭和初期には、廃屋となり間も無く解体。

文久(ぶんきゅう)二・戌(いぬ)年(1862)京都奉行所提出図面には、
  ”上原数馬”の敷地は一部縮小され、
  
当時の我が家の敷地には、”米商大文字屋””町屋”に変更記載。
その当時の我が家周辺の”歴史的背景”:
西本願寺の勤皇の義:第20世 広如宗主は勤皇の旗幟(きし)を鮮明。
              文久3年(1863)には朝廷に金一万両を献じる。

禁門の変と新撰組:
当大火(元治元年・1864)には本山の焼失免れたが
            阿弥陀本尊等は東山本廟や山科別院に避難さす。
            会津藩士の探索後、新撰組の屯所となる。

明治維新と西本願寺:
第21世 明如宗主は王政復古、世間騒然の中、
              御維新確立の為、勤皇の志士志願に尽力する。
                  註:
”上原数馬”:忠誠趣旨に賛同。
明治天皇・勅額”見真”明治12年9月29日宮内省よ両本願寺へ下賜。
  註:親鸞聖人死後、皇室(明治天皇)から、”見真大師”の諡号
   (しごう・おくりな)が両本願寺に宣下された。(西本願寺史料より)

                        (平成18年9月29日 YO記)

植松児童公園は平安朝”亭子院”の跡地

菅原道真を信任していた宇多天皇の離宮”亭子院(ていじいん)”
                     (その一)  植柳小学校前(下京区)
離宮敷地:    北:七条坊門小路(正面通)、南:七条大路(七条通)
(各2町四方)   東:西洞院大路(西洞院通)、西:油小路(油小路通)

”竹樹泉石、仙洞の如し”「本朝文粋」と、風流の限りが尽くされた、この院には文人達が集まり、歌合せが行はれた
”亭子院歌合せ”は有名。
又、その敷地内には、道祖神社や明王院不動堂が祀られていた。

註:宇多天皇・菅原道真の遣唐使廃止で今迄の唐風文化(漢詩一色)
  が、再び日本文化(和歌復活)に変わる。京・資料館長 村井康彦氏談
”亭子院の跡地”から”本願寺・寺内町”への移り変わり。
                      (その二)

その後、天正19年(1591)、豊臣秀吉の寄進により、本願寺がこの六条堀川の土地に移り来て、新しく寺内町が形成された。
それにより、旧神社や旧不動堂は排斥され、寺内町外れの南方の現在地へ移転させられた。
それとは逆に、本願寺の擁護を受けた茶道・藪内家は、この地を拝領することになる。
                      (平成18年9月7日 YO記)   

当蛭子水町内の”大日如来さん”

子供達が楽しむ夏終わりの行事”大日如来さん” 蛭子水町(下京区)
                         (その一)
古都京都の各町内には大日如来を祀る”大日さん”と,地蔵菩薩を祀る
”地蔵盆”とが有り、当町は古来より”大日さん”の行事を継承している。
何れも子供の幸せを願った夏終わりの子供の行事で、提灯や行灯を吊るした会所で一日中遊んだり、お供えものを貰ったのが今は懐かしい。
この町内も、子供が皆無で、今は大人だけの”大日如来さん”となり非常に寂しい。
当町内の貴重な”文化財資料(古文書)の虫干し”は本年中止となる。
                       (その二)
例年お勤め後、普段は目にする事の出来ない、多くの貴重な”文化財資料(古文書)の虫干し”は本年時間の都合上中止となる。
その資料には、江戸時代:当町内の町名由来書・各戸別敷地記入書。
          当町地積図・ 各戸別の戸籍、宗教、職業等。
          明治大正時代:小学校教育の授業料・児童数等。

           蛭子神社建替変遷図や御前橋(正面通)修復図等。
                        (平成18年8月20日 YO記)


町内の貴重な”文化財(古文書)”は蛭子神社に保存。

明治維新の大火(蛤御門の変1864)にも焼けなかった、我が町内の
貴重な
”文化財(古文書)”は今も当町内の蛭子神社に大切に保存されている。
現在の不動産登記簿は、
  町内各戸の敷地面積の記録表示した書面資料
  町内各戸の敷地面積を記録表示した道路地図
  明治初期に京都府発行の地券(今の権利書)
  等が基礎と成っている。
一、寛政十年(1798)八月改記の町名由来書(江戸中期)には、
   当町内の神社敷地の表口・裏行(旧語使用)各々数値が
   旧尺貫法で記載され、その面積は現在の登記簿の値と
   完全合致している。

ニ、文久二年(1862)町奉行所に提出した当町内地図(江戸末期)には  、各戸敷地の東西・南北(旧表示使用)数値が旧尺貫法で各々
   戸別に記載され、その面積は現在の
登記簿の値と合致している。

三、明治十三年(1880) 京都府発行の地券(現在の土地権利書)には  、当町内の神社敷地の面積が旧尺貫法で記載され、その面積は
   現在の
登記簿の値と完全合致している。   
四、現在の
登記簿数値 は、上記の経過を経つつ、昭和初期の新尺貫
   法採用に依り,換算・移記された。
註: 二百年以上の歴史を有する貴重な登記関係文化財(古文書)の
    資料を後世に伝える為、登記関係機関に提示説明する。
                      (平成18年7月4日 YO記)、

我が町内に架かっていた旧御前橋と旧西洞院川との資料。


御影堂筋・御前通(現在の正面通)で西洞院川(現在西洞院通)に
 架かっていた
御前橋に関する古文書。       蛭子水町(下京区)
                     
正面通:  平安京の七条坊門小路が、豊臣秀吉の方広寺・大仏殿
        建立時に本名称に変わる。

御影堂筋・御前通: 東・西両本願寺建立後、本山に敬意を払い、
             当名称に変わる.
正面通:        大正期に再び旧名称の 正面通 に戻る。

左の写真は、明治6年西洞院川に架かっていた石橋で、現在も
         京都動物園内の小川に架けられ残っている。
御前橋(正面通)の架け替え工事の記録資料。

当時橋は補修は、約二十乃至三十年毎に行はれた様で、
 記録資料に依れば:
   ・明和七年(1770)二月、石垣両側補修し、南北総幅十五尺の橋に
    架け替えを周辺の町内負担で行う事を町奉行所に届けている。
   ・天明二年(1781)八月、上記と同様な事柄を、町奉行所に
    提出している。
   ・天保十三年弘化元年(1844)四月、その年、橋の被害は著しく、
    橋脚等も流失した様で、西本願寺・御門跡に資金援助を申し
    入れた模様。
   ・
明治十三年(1880)四月、西本願寺の援助を経て完成し、
    八月十六日には大谷光尊門跡による渡り初め行事が有り、
    又その前夜祭には提灯行列・振り撒い酒・祝い餅が配られ
    賑やかで盛大に行はれた、と記されている。
その西洞院川も明治後半、暗渠化され、
明治36年その上をチンチン電車(北野線)が走ったが、昭和39年廃線となり淋しい限り。
                      (平成16年12月5日 YO記)