御影堂門(正面)に全国から 寺内町(油小路通)の旅館や 全国からの参詣者は国鉄SL列車で、
多数の参詣者が集まる。 土産店は、参詣者で夜遅く迄 臨時京都駅の”梅小路駅”に到着し、
当時は男女とも着物姿。 賑わった。 寺関係者が歓迎案内の誘導を行う。
上同様、御影堂門(堀川通) 寺内町(正面通)の仏具商は 当時になると、観光バスが
に多数の参詣者が集まる。 幟や万国旗等で飾り立て、 主要輸送手段に変わる。
当時になると、 参詣者を歓迎する。
その為、堀川通が臨時駐車場
女子は以前通りの着物だが 写真の丸いドーム建物は、 に早変わりする。
男子は洋服に変わる。 ”伝道院”で、現在修復中。
(平成22年6月5日 ポルタプラザ写真展・京都駅前)
植柳小学校は明治2年9月16日下京第19番小学校 平成22年2月20日(土)閉校式:ピアノ演奏に
として開校、以来この度少子化による学校統合により 合わせて新・旧校歌を斉唱し、懐かしい新旧
140年の歴史に残念ながら幕が降ろされた。 山科郊外学舎等のスライド写真を見る。
東本願寺御影堂再建中の写真 秋気深くなった東本願寺渉成園(枳殻邸)より
東本願寺阿弥陀堂修復工事中の素屋根が見える。
元治元年(1864)禁門の変で焼失 同園内の散策や・明治の東本願寺・渉成園四季の
した御影堂が明治13年(1880)〜 各パネル展及び伝統工芸の実演・体験が開催。
明治28年(1895)に再建された。 同園は・平安時代前期、左大臣 源 融 が営んだ六条
当時の巨大素屋根及び建物資材 河原院の跡地で、”源氏物語”のモデル地とか。
を運び上げる急勾配の桟橋が写り、 ・ 江戸時代三代将軍徳川家光が寄進。
当時の苦労が偲ばれる。 ・ 中国詩人・陶淵明の詩"園日渉而以趣成”より。
(平成21年11月8日 YO記)
2011年宗祖親鸞750回遠忌に向け 素屋根:総重量1500屯高さ50m 御影堂内の御厨子・
平成14年御影堂修復工事開始。 幅80m奥行60mを金属ワイヤーと 須彌壇・欄間等修復
今回5年振りに工事終え、素屋根を 油圧ジャッキ 2台で67mを約3時間 終え、一般公開。
未施工の阿弥陀堂へスライド。 掛け無事に移動を終える。 註:蓮池図 幸野楳嶺筆
(平成21年7月16日 YO記)
寛永13年(1636)創建以来370年の御影堂が、 同祝賀記念行事に本願寺前の堀川及び
平成11年以来10年余の修復工事を終えて、 門前町一帯に安穏(あんのん)の灯火(ともしび)
今回完成法要が行はれた。 が灯された。
(平成21年5月25日 YO記)
日本最初の電車が走る。 京都市御池ギャラリー・写真展(中京区) (その一) 第4回内国勧業博覧会の来館者の輸送として、(会場岡崎〜淀川水運の伏見港間)に日本最初の電車が明治28年(1895)に走る。 その後、北野線(北野天満宮〜堀川通〜西洞院通〜京都駅)が 明治37年(1904)に開通する。 |
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民家軒下をすれすれに走る”チンチン電車”(北野線・西洞院通) (その二) 我が家の近くの西洞院通を走る”チンチン電車”に、模型ポンプで散水した事が幼い日の思い出として、今はとても懐かしい。 その市電も、昭和35年7月31日(1960)市民に惜しまれつつ廃線となる。 今となっては、とてもとても残念だ。 (平成20年5月15日 YO記) |
総門(正面門)付近の広場(堀川通)。 西本願寺(下京区) (その一) 明治44年(1911)、親鸞聖人650回忌大法要がおこなはれた。 全国から多数の参拝者で賑わい、騎馬警官が整理に当たった。 総門後方の足場を組んだ建物は、現在修理中の本山・伝道院で、法要の翌年に竣工した。 |
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本山前の広場・(堀川通)。 (その二) 明治31年(1898),本山前を拡張し、防火設備を備えた緑地公園を完成させ、琵琶湖疎水から鉄管で水を引いた防火用水2箇所を設けた。 しかし、この貯水池は12年後の親鸞聖人650回忌大法要の前年に埋め立てられ、門前広場となり、参拝者に利用された。(写真左・明治42年) 写真の公園中央に位置する総門は、太平洋戦争中、堀川通を戦災避難道路に拡張指定され、戦後、現在の位置(約20m東)に移設された。 |
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七条堀川辺りの賑わい(堀川通)。 (その三) 明治44年(1911),親鸞聖人650回忌大法要で、参詣者で賑わった堀川通と北小路通との交差する辺りでの風景。 この写真の様に、当時は堀川通の半分まで家屋が建っており、又、右端に興正寺の築地塀が見える。 写真中央の門は、”七条総門(南之総門)”で、上記戦後の、昭和25年に西の龍谷大学・大宮学舎前に移設された。 |
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太鼓楼・堀川通花屋町辺りの風景。 (その四) 明治44年(1911)、親鸞聖人650回忌大法要で、現在の太鼓楼付近の風景。 左に見える門が、当時の門前広場の北側に位置する”北之総門”で、その右隣の建物が、真宗信徒生命保険会社の救護所。 註:法要期間中、2千98人が救護を受けたとか。 その”北の総門”は、上記戦後の、昭和24年吉崎御坊(福井県あわら市)への250kmの道のりを、9日間かけ人力で運搬され、移築後は、”念力門”と改名、今も参拝者を迎えている。 (平成19年1月15日 報恩講・龍谷大学図書館蔵 YO記) |
戦前・仁丹大礼服マークが 同左マークが 戦後・ロータリー寄贈 近年国際化により
下部記載の表示板。 上部載の表示板。 の表示板。 外国語併記の表示板。
(平成19年12月21日 YO記)
下京での”若宮通”は、中京では”釜座”と通り名が変わる。(下京区) (その一) 平安京の時代には無い道路で、天正18年(1590)豊臣秀吉により、現在の新町通(旧・町尻小路)と現在の西洞院通(旧・西洞院大路)との中間に新設された。 中京では”釜座通”と呼ばれ、下立売通(京都府庁前)から三条通迄。 下京では”若宮通”と呼ばれ、高辻通”から七条通迄。 |
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”若宮通”の通り名の変遷。 (その二) 若宮八幡宮の現在場所(六条通若宮通)には平安時代は源氏六条館跡が在り、源の義経の館も近く在ったと伝えられている。 其の後、秀吉により京都改造(御土居築造・本願寺の寺内町形成)等に依り、通り名も”菊屋町通”や仏具職人の多い”仏具屋町通”と変わるも、現在の”若宮通”に最終的に成ったのは幕末の天保以降とのこと。 参考:大正15年の戸籍簿では御前通仏具屋町通の名称で受理記載済み。 (平成19年2月19日 YO記) |
小生の成長と共に歩んだ”丸物百貨店” 京都駅前(下京区) (その一) 大正9年(1920) 京都駅前に”京都物産館”として誕生。 昭和6年(1931) 丸物百貨店として開業。 平成12年(2000) プラッツ近鉄として再開業。 平成19年(2007)2月 JR京都駅にJR京都伊勢丹の開業以来低迷し, この度閉店となる。 |
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昭和初期の”丸物百貨店”の模型 (その二) ・昭和の戦時下、建物上部の塔から、警戒警報・空襲警報のサイレンが 市内に鳴らされた。今もその塔を眺める時、あの当時の”ブー・ブー"と 鳴る警報の音が聞こえて来そうだ。 |
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”屋上の遊園地”で孫達と一緒に過した、楽しい思い出。 (その三) 帰京した息子達家族と一緒に、自宅近くの”丸物百貨店”へ行き、買い物を済ました後、同屋上の遊園地で、孫達と一緒に、列車や、回転乗り物や、子供用自動車等乗車し、日暮れまで、楽しく過ごした事が、今は懐かしい記憶として蘇る。 (平成18年11月25日 YO記) |
毎年10月20日は当町”えびすさん”のお祭り日。 蛭子水町(下京区) (その一) 往昔、当町内の井戸から蛭子大御神像を戴き、全町民感激尊崇祀る。 これをご縁に、当町内では毎年十月廿日に御膳行事を奉供し崇拝する。 以後、本願寺の寺内町となり、神様を祀れず、やむを得ず、東山五条の若宮八幡へ移すも、再び時を経て元の現在地に遷宮する。 其の後、元治の兵火(蛤御門の変・1864)で社殿焼失するも、日露戦争・戦ノ記念に再建、明治39年10月20日御遷座祭典が盛大に挙行された。 |
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町名”蛭子水之 町”の由来書(寛政10年:1798) (その二) 当町号を蛭子水町と云う濫觴(らんしょう・起源)は、往昔(おうせき)北側に酒屋あり。その家に井を掘り、己にして水涌き出でる迄堀けるに、 蛭子大御神木像埋もれるを、いただき上げて水をそそぎ、尊重し奉る。 この井水冷泉にして、みがけるが如し。されば蛭子水と申しき。 以下文省略 (京都市歴史資料館 伊藤先生通釈) (註)別に、明治39年9月(1906)の町名由来書も有り。 (平成18年10月20日 YO記) |
文政年間(1816〜1829)頃の、西本願寺・境内総町の地図に依れば 当時の我が家の敷地には、西本願寺家臣”上原数馬”と記載。 ”上原数馬”:西本願寺家臣で、当本願寺が勤皇の誠意を示す為に、 慶応四年(1868)十二月に維新官軍・軍務局頭取へ転任。 ”当屋敷” :塀で囲われた広い敷地内には大きな建物屋敷が有った 様だが、以後昭和初期には、廃屋となり間も無く解体。 文久(ぶんきゅう)二・戌(いぬ)年(1862)京都奉行所提出図面には、 ”上原数馬”の敷地は一部縮小され、 当時の我が家の敷地には、”米商大文字屋”と”町屋”に変更記載。 |
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その当時の我が家周辺の”歴史的背景”: 西本願寺の勤皇の義:第20世 広如宗主は勤皇の旗幟(きし)を鮮明。 文久3年(1863)には朝廷に金一万両を献じる。 禁門の変と新撰組:当大火(元治元年・1864)には本山の焼失免れたが 阿弥陀本尊等は東山本廟や山科別院に避難さす。 会津藩士の探索後、新撰組の屯所となる。 明治維新と西本願寺:第21世 明如宗主は王政復古、世間騒然の中、 御維新確立の為、勤皇の志士志願に尽力する。 註:”上原数馬”:忠誠趣旨に賛同。 明治天皇・勅額”見真”:明治12年9月29日宮内省よ両本願寺へ下賜。 註:親鸞聖人死後、皇室(明治天皇)から、”見真大師”の諡号 (しごう・おくりな)が両本願寺に宣下された。(西本願寺史料より) (平成18年9月29日 YO記) |
菅原道真を信任していた宇多天皇の離宮”亭子院(ていじいん)” (その一) 植柳小学校前(下京区) 離宮敷地: 北:七条坊門小路(正面通)、南:七条大路(七条通) (各2町四方) 東:西洞院大路(西洞院通)、西:油小路(油小路通) ”竹樹泉石、仙洞の如し”「本朝文粋」と、風流の限りが尽くされた、この院には文人達が集まり、歌合せが行はれた”亭子院歌合せ”は有名。 又、その敷地内には、道祖神社や明王院不動堂が祀られていた。 註:宇多天皇・菅原道真の遣唐使廃止で今迄の唐風文化(漢詩一色) が、再び日本文化(和歌復活)に変わる。京・資料館長 村井康彦氏談 |
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”亭子院の跡地”から”本願寺・寺内町”への移り変わり。 (その二) その後、天正19年(1591)、豊臣秀吉の寄進により、本願寺がこの六条堀川の土地に移り来て、新しく寺内町が形成された。 それにより、旧神社や旧不動堂は排斥され、寺内町外れの南方の現在地へ移転させられた。 それとは逆に、本願寺の擁護を受けた茶道・藪内家は、この地を拝領することになる。 (平成18年9月7日 YO記) |
子供達が楽しむ夏終わりの行事”大日如来さん” 蛭子水町(下京区) (その一) 古都京都の各町内には大日如来を祀る”大日さん”と,地蔵菩薩を祀る ”地蔵盆”とが有り、当町は古来より”大日さん”の行事を継承している。 何れも子供の幸せを願った夏終わりの子供の行事で、提灯や行灯を吊るした会所で一日中遊んだり、お供えものを貰ったのが今は懐かしい。 この町内も、子供が皆無で、今は大人だけの”大日如来さん”となり非常に寂しい。 |
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当町内の貴重な”文化財資料(古文書)の虫干し”は本年中止となる。 (その二) 例年お勤め後、普段は目にする事の出来ない、多くの貴重な”文化財資料(古文書)の虫干し”は本年時間の都合上中止となる。 その資料には、江戸時代:当町内の町名由来書・各戸別敷地記入書。 当町地積図・ 各戸別の戸籍、宗教、職業等。 明治大正時代:小学校教育の授業料・児童数等。 蛭子神社建替変遷図や御前橋(正面通)修復図等。 (平成18年8月20日 YO記) |
明治維新の大火(蛤御門の変1864)にも焼けなかった、我が町内の 貴重な”文化財(古文書)”は今も当町内の蛭子神社に大切に保存されている。 現在の不動産登記簿は、 町内各戸の敷地面積の記録表示した書面資料 町内各戸の敷地面積を記録表示した道路地図 明治初期に京都府発行の地券(今の権利書) 等が基礎と成っている。 |
一、寛政十年(1798)八月改記の町名由来書(江戸中期)には、 当町内の神社敷地の表口・裏行(旧語使用)各々数値が 旧尺貫法で記載され、その面積は現在の登記簿の値と 完全合致している。 |
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ニ、文久二年(1862)町奉行所に提出した当町内地図(江戸末期)には 、各戸敷地の東西・南北(旧表示使用)数値が旧尺貫法で各々 戸別に記載され、その面積は現在の登記簿の値と合致している。 |
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三、明治十三年(1880) 京都府発行の地券(現在の土地権利書)には 、当町内の神社敷地の面積が旧尺貫法で記載され、その面積は 現在の登記簿の値と完全合致している。 四、現在の登記簿数値 は、上記の経過を経つつ、昭和初期の新尺貫 法採用に依り,換算・移記された。 註: 二百年以上の歴史を有する貴重な登記関係文化財(古文書)の 資料を後世に伝える為、登記関係機関に提示説明する。 (平成18年7月4日 YO記)、 |
御影堂筋・御前通(現在の正面通)で西洞院川(現在西洞院通)に 架かっていた御前橋に関する古文書。 蛭子水町(下京区) 正面通: 平安京の七条坊門小路が、豊臣秀吉の方広寺・大仏殿 建立時に本名称に変わる。 御影堂筋・御前通: 東・西両本願寺建立後、本山に敬意を払い、 当名称に変わる. 正面通: 大正期に再び旧名称の 正面通 に戻る。 左の写真は、明治6年西洞院川に架かっていた石橋で、現在も 京都動物園内の小川に架けられ残っている。 |
御前橋(正面通)の架け替え工事の記録資料。 当時橋は補修は、約二十乃至三十年毎に行はれた様で、 記録資料に依れば: ・明和七年(1770)二月、石垣両側補修し、南北総幅十五尺の橋に 架け替えを周辺の町内負担で行う事を町奉行所に届けている。 ・天明二年(1781)八月、上記と同様な事柄を、町奉行所に 提出している。 |
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・天保十三年・弘化元年(1844)四月、その年、橋の被害は著しく、 橋脚等も流失した様で、西本願寺・御門跡に資金援助を申し 入れた模様。 ・明治十三年(1880)四月、西本願寺の援助を経て完成し、 八月十六日には大谷光尊門跡による渡り初め行事が有り、 又その前夜祭には提灯行列・振り撒い酒・祝い餅が配られ 賑やかで盛大に行はれた、と記されている。 その西洞院川も明治後半、暗渠化され、明治36年その上をチンチン電車(北野線)が走ったが、昭和39年廃線となり淋しい限り。 (平成16年12月5日 YO記) |