仏 教 聖 典
以下に記載しております内容は、仏教伝道協会より出版されております「仏教聖典」から引用させて頂いております。
時間のある時に、少しずつupしていきたいと思っております。Gikoohのブログ、BBS、メール等で感想などお寄せ頂ければ嬉しいです。
第1章 因 縁
第1節 四つの真理
2005/04/11up
1、この人間世界は苦しみに満ちている。生も苦しみであり、老いも病も死もみな苦しみである。怨みあるものと会わなければならないことも、愛するものと別れなければならないことも、また求めて得られないことも苦しみである。まことに、執着を離れない人生はすべて苦しみである。これを苦しみの真理(苦諦)という。
この人生の苦しみが、どうして起こるかというと、それは人間の心につきまとう煩悩から起こることは疑いない。その煩悩をつきとめていけば、生まれつき備わっている激しい欲望に根ざしていることが分かる。このような欲望は、生に対する激しい執着をもととしていて、見るもの聞くものを欲しがる欲望となる。また転じて、死をさえ願うようにもなる。これを苦しみの原因(集諦)という。この煩悩の根本を残りなく滅ぼし尽くし、すべての執着を離れれば人間の苦しみもなくなる。これを苦しみを滅ぼす真理(滅諦)という。
この苦しみを滅ぼし尽くした境地に入るには、八つの正しい道(八正道)を修めなければならない。八つの正しい道というのは、正しい見解、正しい思い、正しい言葉、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい記憶、正しい心の統一である。
これらの八つは欲望を滅ぼすための正しい道の真理(道諦)といわれる。これらの真理を人はしっかり身につけなければならない。というのは、この世は苦しみに満ちていて、この苦しみから逃れようとする者は誰でも煩悩を断ち切らなければならないからである。煩悩と苦しみのなくなった境地は、さとりによってのみ到達し得る。さとりはこの八つの正しい道によってのみ達し得られる。
2、道に志す人も、この四つの聖い真理を知らなければならない。これらを知らないために、長い間、迷いの道にさまよってやむ時がない。この四つの聖い真理を知る人をさとりの眼を得た人という。
だから、よく心を一つにして仏の教えを受け、この四つの聖い真理の道理を明らかに知らなければならない。いつの世のどのような聖者も、正しい聖者であるならば、みなこの四つの聖い真理をさとった人であり、四つの聖い真理を教える人である。
この四つの聖い真理が明らかになった時、人は初めて、欲から遠ざかり、世間と争わず、殺さず、盗まず、よこしまな愛欲を犯さず、欺かず、そしらず、へつらわず、ねたまず、瞋らず、人生の無常を忘れず、道にはずれることがない。
3、道を行うものは、例えば、燈火をかかげて、暗黒の部屋に入るようなものである。闇はたちまち去り、明るさに満たされる。
道を学んで、明らかにこの四つの聖い真理を知れば、智慧の燈火を得て、無知の闇は滅びる。
仏は単にこの四つの心理を示すことによって人々を導くのである。教えを正しく身に受けるものは、この四つの聖い真理によって、はかないこの世において、まことのさとりを開き、この世の人々の守りとなり、頼りとなる。それは、この四つの聖い真理が明らかになれば、あらゆる煩悩のもとである無明が滅びるからである。
仏の弟子たちはこの四つの聖い真理によって、あらゆる教えに達し、すべての道理を知る智慧と功徳とを備え、どんな人々に向っても、自在に教えを説くことが出来る。
第2節 不思議なつながり
2005/7/11up
1、人々の苦しみには原因があり、人々の悟りには道があるように、すべてのものは、みな縁(条件)によって生まれ、縁によって滅びる。
雨の降るのも、風の吹くのも、葉の散るのも、すべては縁によって生じ、縁によって滅びるのである。
この身は父母を縁として生まれ、食物によって維持され、また、この心も経験と知識とによって育ったものである。
だから、この身も、この心も、縁によって成り立ち、縁によって変わるといわなければならない。
網の目が、互いに繋がりあって網を作っているように、すべてのものは、繋がりあって出来ている。
1つの目が、それだけで網の目と考えるならば、大きな誤りである。
網の目は、他の目と関りあって、1つの網の目と言われる。網の目は、それぞれ他の網が成り立つために、役に立っている。
2、花は咲く縁が集まって咲き、葉は散る縁が集まって散る。ひとり咲き、ひとり散るのではない。
縁によって咲き、縁によって散るのであるから、どんなものも、みな移り変わる。一人で存在するものも常にとどまるものではない。
すべてのものが、縁によって生じ、縁によって滅びるのは永遠普遍の道理である。だから、移り変わり、常にとどまらないということは、天地の間に動くことのないまことの道理であり、これだけは永久に変わらない。
第3節 ささえあって
2006/6/16up
1、それでは、人々の憂い、悲しみ、苦しみ、もだえは、どうして起こるのか。つまりそれは、人に執着があるからである。
富に執着し、名誉利欲に執着し、悦楽に執着し、自分自身に執着する。この執着から苦しみ悩みが生まれる。
初めから、この世界にはいろいろの災いがあり、その上、老いと病と死とを避けることが出来ないから、悲しみや苦しみがある。
しかし、それらもつきとめてみれば、執着があるから、悲しみや苦しみとなるのであり、執着さえ離れさえすれば、すべての悩み苦しみはあとかたもなく消えうせる。
さらにこの執着を押しつめてみると、人々の心のうちに、無明と貪愛とが見出される。
無明はうつり変わるものの姿に眼が開けず、因果の道理に暗いことである。
貪愛とは、得ることの出来ないものを貪って、執着し愛着することである。
もともと、ものに差別はないのに、差別を認めるのは、この無明と貪愛との働きである。もともと、ものに良否はないのに良否を見るのは、この無明と貪愛との働きである。
すべての人々は、常によこしまな思いを起こして、愚かさのために正しく見ることが出来なくなり、自我にとらわれて間違った行いをし、その結果、迷いの身を生ずることになる。
業を田とし心を種とし、無明の土に覆われ、貪愛の雨でうるおい、自我の水をそそぎ、よこしまな見方を増して、この迷いを生み出している。
2、だから、結局のところ、憂いと悲しみと苦しみと悩みのある迷いの世界を生み出すものは、この心である。迷いのこの世は、ただこの心から現れた心の影に他ならず、さとりの世界もまた、この心から現れる。
3、この世の中には、三つの誤った見方がある。もしこれらの見方に従ってゆくと、この世のすべてのことが否定されることになる。
一つには、ある人は、人間がこの世で経験するどのようなことでも、すべて運命であると主張する。二つには、ある人は、それはすべて神のみ業であるという。三つには、またある人は、すべて因も縁もないものであるという。
もしも、すべてが運命によって定まっているならば、この世において、善いことをするのも悪いことをするのも、みな運命であり、幸・不幸もすべて運命となって、運命のほかには何も存在しないことになる。
従って、人々に、これはしなければならない、これはしてはならないという希望も努力もなくなり、世の進歩も改良もないことになる。
次に、神のみ業であるという説も、最後の因も縁もないとする説も、同じ非難があびせられ、悪を離れ、善をなそうという意志も努力も意味もすべてなくなってしまう。
だから、この三つの見方はみな誤っている。どんなことも縁によって生じ、縁によって滅びるものである。