
〜 新説!源氏と平氏の謎 〜 『源平物語集』之注釈 平成19年卯月11ノ日(水)〜
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「源平合戦」は<源平合戦>じゃない!?って…どーゆーコト?
ヨビ説1.げんじコぉロンリッよ♪と「専制崩壊」!!‥へぇ〜ワイワイ,みんしゅとォともに「政権交代」!?
‥と盛り上がってる様(=ヨウ)ですが、「現在の自公」連立(=げん・じコーレンリツ)与党の支配体制が遂(=ツイ)に倒され、「平和」祝(=ヘイワいわ)い、民主党を友にして「政権交替!!」とゆー歴史的転換で、停滞を脱し、経済も好転、戦争や混乱も無くなる!‥とホントに良いですが、最初に断っておきますと、残念乍(=ながら)ここではそーいったお話をする訳(=わけ)ではありません。が、ライヴでは無いものの、時代を懸命に生き、改善-変革していく人々のドラマとしては同じで、ワクワク!ドキドキ‥色んな願いや智恵も一杯込められてますので、是非これも何かの縁と、試しにご覧になってみて下さいネ!
確かに、お若い方々には「源平…」といっても、「ゲンペイ」…誰やソレェ〜?とか、決まっとるやんか!「あへあへ」「かい〜の」で大ウケした吉本のベテラン漫才師芸人「間(=はざま)寛平」サンやろ?とか,「へ‥?アンタ耳か頭,悪いんとちゃうか!シンガーソングライターでTVや映画にも一杯出演して女子中高生にも人気のデュオ=コンビ-ユニットWaT=ワットの小池徹平クンや!」せやけど「歌手やない」って一体何やねん!?、或(=あるい)は、「‥たく、関西人は、好き勝手に解釈するんだから困るわ!誰がどー聴ーても、青森が産んだマルチタレント伊奈かっぺいサンでしょ!確かに歌手じゃないけど唄のCDも出してるし‥」等(=など)々、
流石(=さすが)に(ムリ過ぎ?でしょか…ファンなのでオ許しぉ〜)ここ迄は冗談としても、
『源氏』や『平家』の物語は、聞いた事あるけど「源平」や「平氏」との関係とか、よくわかんなーい!忘れちゃった〜!といった方も結構(=ケッコウ)おられるみたいなので、初めに、概容も含(=ふく)め、説明しておきましょう。
「源(=みなもと)」と「平(=たいら)」という2氏族が登場するのは,千年以上も昔の9c.(=西暦の世紀)…。以後4百年程(=ほど)が本稿の主題となりますが、相当詳しいブログ等のサイトや書籍でも、意外と伝統的な通説・イメージや錯誤もまだまだ多く、ここで、極(端な程=ほど)簡潔に紹介しますと、
源氏の武将達(=タチ)は代(=ダイ)々、今の関東等,東国の、広大な原野・山林で農業や狩猟に勤(=いそ)しみ、騎馬戦等,陸軍が主力、京都の朝廷(=チョウテイ。日本を統治した政府)に対し,各地で反乱を起こす逆賊(=ギャクゾク)達を征伐(=セイバツ)する等、連戦無敵で,勇敢だけど純粋素朴(=ソボク)で騙(=だま)され易(=やす)く、
一方、平氏は、対照的に、近畿等,西国で、漁業・商業や水運で儲(=もう)けたり、お公家(=クゲ。京都の貴族)サン達に気に入られるのが巧(=うま)かったのですが、同じ武士とはいっても弱小で、寧(=むし)ろ自(=みずか)ら問題を起こして源氏に追討(=ツイトウ)されたり,失敗ばかり。なんとか生き残った者も全(=まった)く目立たなかったのです。ところが,12c.(=世紀)になり、まさに全国を支配する程の源氏の武力を恐(=おそ)れた朝廷の手先となって、卑怯(=ヒキョウ)ともいえる策略(=サクリャク)で立ち回り、源氏の当主(=トウシュ≠党首)一家を罠(=わな)にかけて追いおとし、ついに天下(=テンカ)を奪います。
が、結局、源氏の当主の後継(=あとつぎ)だった頼朝(=よりとも)や弟義経(=よしつね)達が弔(=とむら)い合戦に立ち上がり、イザ腕力勝負になると、政権を握(=にぎ)っていた平氏を、あっという間に滅(=ほろぼ)し(その後、遊んでばかりで弱いくせに威張(=いば)っていた貴族達に替わり、源氏が,善(=よ)い政治をする為,かは議論があるでしょうけど「イイクニつくろう…」と憶えましたね♪1192年.幕府(=バクフ)を開くのですが、お上の事ばかりの専制「将軍サマ」一族はネンネンコロリンッと自滅(=ジメツ)し、平氏ら、より民衆と共に、わいわいガヤガヤと集団合議の体制に移行し)ちゃった!!
という感じでしょうか…
一般に「源平合戦」といえば、この、西暦1180-5年(年号では「治承(=ジショウ)-(養和(=ヨウワ)-)寿永(=ジュエイ)-元暦(=ゲンリャク)-文治(=ブンジ・ヂ)」)の全国的な大乱を指し、「紅(旗の平家vs)白(旗の源氏に因み、赤白2組に別れて対決する)○×合戦」として後々まで歌謡・運動会他慣用句になる程、お馴染みですね。
こうして、平・源両氏の総本家は断絶(=ダンゼツ)してしまいます。が、全滅した訳(=わけ)ではなく、まんまと乗っ取った平氏の「北条(=ホウジョウ)」氏を、また源氏の「足利(=あしかが)」氏が倒し、以後「織田(=おだ)」、「明智(=あけち)」、「羽柴(=はしば→豊臣=とよとみ)」、「(松平=まつだいら→とくがわ=)徳川」…と、平・源の各流派(=リュウハ)が交替で頂点を狙(=ねら)い、相手から奪った事から、中国の「易姓(=エキセイ)革命」の変種ともいう「源平両氏が天下・政権を交代でとる」という論説・思想・信仰まで生まれます。
但(=ただ)し、此(=これ)らは主(=おも)に軍記物語等(駄洒落とゆーか,おやじギャグといーますか,当時随分=ズイブン流行ってたよーで、此に倣=ならって,のっけから連発し,顰蹙=ヒンシュクモノですが、ご容赦下さいネ)によって,後世(=コウセイ),歴代の権力者(特に源氏。但し必ずしも自ら意図的に創作-演出したものばかりでは無く)側にとって都合が好(=よ)い様に作られていったものであって、事実とは大違いなのです。
確かに、その後も「天下」の地=京都で、東・西両陣を将(=ひき)い,占拠(=センキョ≠選挙)戦で廃墟(=ハイキョ)にし、戦国時代の幕開けとなる「応仁の乱」で対決した細川・山名両氏は共に源氏ですし、本格化「下克上」の魁(=さきがけ)といわれる(伊勢→後)北条早雲(=ソウウン)や「越後(=エチゴ)の龍」(長尾→)上杉謙信(=うえすぎケンシン)は元々平氏、他方「甲斐(=カイ)の虎」武田信玄(=たけだシンゲン)は源氏…と数え上げたら切りが無い程,天下無双(=ムソウ)と称される武将達を輩出(=ハイシュツ)し、日本の二大武家ノ名門である事は、異論の余地も無いでしょうが、
既(=すで)に官位を与える朝廷も幕府も名ばかりで、永(=なが)らく蓄積保存してきた貴重・膨大(=ボウダイ)な記録等の史料も失われ、誰も調査-確認等はできず、全くの出鱈目(=でたらめ)仮冒・欺瞞でも堂々とまかり通る状況になっており、結局,全国を再統一する豊臣、其(=それ)を乗っ取った徳川氏等は恐らく詐称(=サショウ)だろう(「伊賀平氏」・「3大上忍家」の一「影の軍団」を率い,「ハットリくん」の御先祖?という「服部」氏の半蔵=は(っ)とりハンゾウ家や、史実では泥棒の頭領ですが石川から推して「河内源氏」の末裔ともいう五右衛門(=いしかわゴエモン)は、源vs平を超え「天正伊賀の乱」の信長、その後継秀吉への復讐(=フクシュウ)-仇(=アダ・カタキ)討ちに燃え、信濃「源氏」を称する幸村(=さなだゆきむら)が率いる「真田十勇士」らと死闘した)等ともいわれていますが、江戸時代265年間も、公(=おおやけ)に異を唱=となえる事は禁じられ、逆にお伽(=とぎ)話やお芝居(=しばい)等でも広く浸透していきます。
此に対し、後半には(名親分「銭形平次」は完全に20c.小説の創作ですネ…笑)、大坂町奉行所与力でしたが大飢饉に際し救貧の為,悪政に立ち向かった大塩正高(1793−1837)といった庶民の味方、そして、ついに幕府が倒れ、同じく平八郎こと日露戦争の英雄,東郷実良元帥(1847−934)等、平氏を称する人々も活躍しますが、徳川氏は源氏じゃ無かった、となっても定着しきったイメージ(上だけで、実際の血脈等とは別にしても、氏族意識・色分け・勢力図)は、その後も根強く残り、寧(=むし)ろ源氏の東北侵略等の武勇伝は、夷狄(=いてき。ここでは外敵の意味)を征・攘(=はら)い、逆賊を討伐する武人・忠臣の鑑(=かがみ)として、厳しい兵役(=ヘイエキ)等「富国強兵」政策の中で、
『古事記』=「コジキ」が本来「ふることふみ」等と純粋な伝承記憶だったのに対し、『日本書紀』=ニホンショのキは海外の目も意識して編まれたともいう、現存最古8c初.成立とされる史書。以下『記紀』と併略称等と同様、文字通り「神話・信仰」の1つとして尚更(=なおさら)、喧伝(=ケンデン)-増幅-歪曲(=ワイキョク)され続けたといわれます。
その為(=ため)なのでしょう。(前述の「本家」等の様に)其(=それ)々,当主を頂点にした部族で(或は「伊勢(=イセ。今の三重県内)平氏」「大和(=やまと。今の奈良県)源氏」等という様に國(くに。北海道や沖縄等は未だ圏外だった律令体制8c.以来、60数カ国に分けていました。国というと紛らわしいので旧字にします)名を冠した一派がいると、其だけで),後の大名の様に支配-領国化している(実際、最有力の領主・在庁官人等なら別ですが、基本的に,その國内に主要な地盤がある,というだけで、伊勢・大和等は今も有数の大社寺が遥に長く強大な領地に権威も誇っていましたし、常陸(=ひたち。茨城県)の様に源平各々や、源・平同士でも全く別系統流派が共に称せられている國も多いです。以下、後ノ章で順次詳述していくので、ここでは割愛します)、とか、その挙句(=あげく)に、(一大会戦「関ヶ原」ならぬ)東・西「天下分け目」の対決をしたのだ、的なイメージさえ案外、根強い様です。
また、当然、単なるファンで無く,ご子孫だという方も多いでしょう。というか,多くの方が(特に由緒正しい=歴史を遡(=さかのぼ)れる程)御先祖のどこかで源平いずれにも御縁があるのでは無いでしょうか?かくいう私も辿(=たど)れる限りは源氏の末裔(=マツエイ)で、幼少以来,時代劇やマンガ・小説・RPGやバトルゲームでも、まんまとハマッた熱烈・盲信的なオタク(特に定番の「アイドル・スター」義経や(ホントの芸能タレント、アーティスト・ダンサー‥というか舞妓サン、プロの踊リ-歌イ手自体の先駈ケともいえる)静ちゃん,「豪傑・ヒーロー」弁慶ヲタでしゅ〜笑)で、元々『物語集』のきっかけだったのですが、切なく哀しくもオトナになるにつれ、おっかけすれば追う程にぃ〜見たくない現実を知ってしまう(ウキャー)一方、ちょっと調べれば明らかな矛盾や捏造(=ネツゾウ)が尚(=なお)公然と信仰-吹聴(=フイチョウ)され続けている事、身内・依怙(=エコ。が勿論「エコロジー」や「エコノミー」の略ではないですヨ)贔屓(=ヒイキ)もここ迄くると流石に「この侭でいいの?」といった違和感というか疑問、気恥ずかしささえ感じましたし(笑)、
確かに「…源氏」祖等と称せられる人々の卑怯・醜悪・悲惨な実像部分と,俗説とのギャップは当初ショックでしたが、其を乗り越え後世,他の3大姓や朝廷自体も圧倒する権勢-繁栄を誇ったのも間違い無いですし、むしろ、当時,そうせざるを得なかった実情を直視し,苦悩等,人間味を想像でき&(ドラマ等は衣食住〜セット等の使い回し・採算上だといいますが、各機関での再現・復元やアニメCGも進歩し、時代の長短の割に、平安等古代が少ないのは、こうした抵抗・敬遠・忌避が原因で陥っている)悪循環-停滞を早く脱してじゃんじゃん!ドンドン新たな作品や研究の発展を楽しめた方がイイ!と今は思っています。
もう1つ、数百年も昔からの俗説・イメージが、学問上の定説としては全く覆(=くつがえ)されてきている今日でも尚「都市伝説」の如(=ごと)く存続している原因には、とにかく色々な面で一般には当時の実態が解(=わか)り(-説明し)難(=にく)い、という事も大きいのでしょう。
実際、余り正確・厳密さに拘(=こだわ)ると相当に長くなってしまう為、例え「書き手」の方は充分解っていても(更に読み手もそうだろうと仮定して)、(特に論点でない部分は)「所謂(=いわゆる)」付きで慣用的に流す場合も多い(私自身も,痛感-反省-注意したい)と思います。
本稿は『源平物語集』シリーズの「解説-注釈」ですが、元々は下地にした自分用の資料メモで、『物語集』自体、史実ベースでの,視角観点の転換や空白の穴埋めであって、仮に舞台が近未来や外国等,バーチャル世界だったりはしても、ただ名前だけ借りるつもりは最初から無く(他の材料といえば、容貌=ヨウボウ等も、かの頼朝卿の肖像画さえ全く当てにならない訳ですし、皆さん,説明等抜き-一目で判る程,メジャー・デキあがってるのは、顔というよりファッション、やはり絵本等での、酒呑童子=シュテンドウジ、金太郎と弁慶に精々(=セイゼイ)巴御前=ともえゴゼン位=くらい?、話・身振り如何=いかんでは「陰陽師(=オンミョウジ)」安倍晴明も?でしょうか…笑)、全くのSFファンタジーにせよ,ここでは,そうしたアレンジ・オリジナル部分の宣伝というか紹介さえも殆(=ほとん)ど入れられておらず(泣キ笑イ)、
いわば「源平」という歴史的事実・群像の「解説-注釈」,論説になっちゃってるのでしょうが(まだまだ一般には知られていない・平氏贔屓は少ない様な現状においては)其だけでも充分,奇抜(=キバツ)で斬新(=ザンシン)、希少価値もあるし面白い!!と思ったのです。勿論,年表(も放置状態で心苦しい限りですが)記事等の史実を単に書き列べるだけで無く、人物把握やストーリー構成上、突っ込んでシミュレーションも試みたり、当然,私見も入っていますが、全くの仮説や想定等はむしろ明示しております。逆に、自分が解ればいい資料・メモだっただけに、手直しが追いつかず、特に、全く初めて接する様な方には「此は何?どこの誰?」等とご質問を頂いて、やっと気づく、という実情ですので遠慮無くお尋ね下さった方がありがたい位です。今後も、片手間で恐縮乍(=ながら)、ご指摘・ご感想等を基に、よりよく改善・追補すべく努めていきますが、ひとまず、当時の官職や人々・地名等や,背景状況といった予備的説明(以下「ヨビ説」)として大幅に再編-新設する事にしました。
例えば、「源平」両氏は全て、桓武天皇の子孫で、今の天皇家とも遠い遠い親戚同士になりますが、こうした「皇室から別れた」氏族自体は数多(=あまた)あれど、この「源平」だけは他と違い
極めて特異なのであり、此もソノ繁栄のヒミツの1つといえますが、その辺も後々迄「お楽しみ」にとっておいて、先ずは背景-経緯からおさらいしてみましょう。例えば、同じ「源」氏なのに「今川」氏,「吉良」氏…と別名があったり、「みなもと」氏と「ゲンジ」という様に(また「太郎・花子」サンなら兎も角、馴染みの薄い人名は、どこ迄が姓氏で名かも分かりにくいかも知れないので「名」は斜体にし、他の用語も,できるだけ初出時に音・訓の読みでカタカナ・ひらがなをふり分け辞書やネットで検索し易くし、場合によって一言付けますが)、一体どっち・何なの?とか、上に例示した伝統的通説のどこがどう違うのか?等々、「目次録」に列べた主な論点別に、順序立てて述べていきますが、「主要な人物や事件は大体知っているよ!」といった方なら、読み飛ばすなり、より直接ピンポイントにご覧下さっても結構です(各章完結では無いですが、前提・関連箇所に極力,リンクをはる様にするつもりです)。
さて本章の主題でもある上掲の「源平合戦」に戻りましょう。ややこしいので先ず結論を端的にいうと、やっぱり誤解・虚構で、
元々は源vs平でも、亦(=また),主役でさえも無かったのを、後付け的にすり替えていったものなのです。
ソモソモ頼朝らが独自-勝手に挙兵したのでなく、以仁王という皇子様が、直接の「火付け役」であり、権威-正当性の根拠「旗頭」になりますが、
天皇家に叛く臣として平家を名指し打倒を命じたものの、本命は、勿論,父院後白河が政変前-正統に擁立した十歳下の異母弟高倉帝と,その子安徳天皇で、「皇位奪取」こそが狙いの「謀叛大逆」だったのです。
ソシテ、此が漏洩-発覚し、処分に際して臣籍に降され(る場合タマタマ当時の慣例により)「源以光(=もちてる)」という姓名にされ、その召命令旨を奉戴、呼応-挙兵した武士も源氏が早・多かった事も確かですが、
何より、正統な天皇に対し(異母弟後鳥羽(数え4歳)を、三種の神器=サンシュのジンギ他,古来手続きも無く、後白河ノ院宣のみで急遽=キュウキョ,擁立していたものの)、公然と不意打ちを重ねて、船上-壇ノ浦に追い詰め,ついに弑逆(=シイギャク)に及んだ事実は、蘇我=ソガ氏の手下による崇峻=スシュン以来、少なくとも平安時代(史上)では(院政期とはいえ、「保元の乱」「治承の変」でも)無かった画期的な一大不祥事であり、あくまで「源vs平」だった!!と強調-すり替えに奔走した事が大きかったといわれます。
(因みに、ここでは便宜上紅白に色分けしてますが、赤旗は本来、平氏は勿論,その中の平家近現代の革新とかリベラル固有のものでも無く、朝廷・官軍が用いたもので(KinKi Kidsならぬ「錦ノ御旗=キンキ,にしきのみはた」も赤地ですネ)、その主力である平家側が「平治の乱」以来、翻=ひるがえしていたのに対し、賊軍となった源氏側が白旗を掲=かかげ、治承‥の乱でも各々踏襲=トウシュウされた、と各物語等で伝えられています)
そして、こうした悲惨な骨肉の内紛「同氏討ち」は、以前から、また、皇室-王氏だけでなく、繰り返されてきていたのです。
確かに反乱の口火は、以仁,或は「鵺(=ぬえ)退治」で有名な「嫡流」多田氏分家馬場頼政(=ババよりまさ)以下の源氏が切ったといえます。が、彼らは呆気なく惨敗滅亡し去ってしまいました。
伊豆国守目代ノ館を不意夜襲、叛挙した頼朝も直後完敗-命辛々逃亡してましたが、偶(=たま)々生き残れた御陰(=おかげ)で、その後、ご存知の通り、弟義経らの合流-奮闘〜鎌倉幕府創建に至り、マサニ源氏の代表になります。
が、意外な事にソノ命の恩人を含め元勲・主体(北条、土肥、三浦、千葉、上総、秩父、梶原等々)は殆どが、平家と同じ高望王流「平氏」で源氏は極少数、
逆に頼朝らよりむしろ遥に有力・上位多くの「清和>河内源氏」が平家方につき、源氏方についた「平氏」将兵らに次々惨敗-滅ぼされてる等
実際カナリややこしく源・平両氏が2大武門として互い+藤橘等と共に「入り雑じり全体の代表格・主体となった戦乱」とはいえても、峻別対決した戦乱、とは到底いえませんし、
元々、多くは、別に源・平の為とか、好き嫌い等で戦った訳でも無く、特に反乱軍では、最初期から、大寺社の僧兵や、独立系の他氏族が、重要な活躍をしていたのです。
だからこそ、
右少将維盛率いる征東軍撃退後もソモソモノ上洛命令すら拒み続け、本人・内心は一刻も早く復帰-上京したかった頼朝にしても目的は「平家打倒」等で無く、あく迄も自分達の赦免-復位等の公認であって、事実「昔の様に源平並んで仕」える事等、1年後にも後白河院へ提案しています(が、院方は源平等大武門自体の共喰い倒れを画策)し、
結局、鎌倉一家子弟が次々殺され呆気なく断絶して当の将軍は不在でも、幕府自体は存続、
むしろ直後、(「鎌倉(ノ主)殿」が単なるオ飾りどころか人質とは察知看破して皇子らを迎えたいとの要請を、拒否した後鳥羽院政権方も内実が遂に解らず討伐に踏み切る)「承久の乱=ジョウキュウのラン」で圧勝一挙倍増更に強大化していく訳ですし、
「源平(藤橘」や‥北条-足利-織田-徳川…の)交替・相克」論も、後代、単純化(、軍記物語や幕府等により系図・伝説等と共に歪曲・偽造)されていったものなのです。
では、「源vs平ノ合戦」は無かったのでしょうか?
現存史料上でも千年以上前、十c.後半一条朝には天下の2大武門として、並び立ち、公卿-朝家にも認識されていた様ですが以後も、異論が無いものは僅か2度、
1107-8年「平正盛(=まさもり)の源義親(=よしちか)追討」(は前-後の源-平の大統領家交替劇として重視されますが)、典型例は清和源氏が束になって平家に挑んだ'59年末「平治の乱」だけなのです。
但し、後各章で詳述する様に、此さえも完全に純粋な源vs平とはいえません。両氏共相互に婚姻等を結んできてましたし、ヤハリ良文流等の坂東平氏がこの時,既に盟属し主力にもなってたといわれます。
が,其(それ)でも「六堀源氏」は(平治の乱でも完敗しお家滅亡後20余年1流囚素牢人に過ぎず完全依存状態だった頼朝らと全く違い)当時は、天下=京廷での代表的武門として牽引主導力をもち、特に両合戦では明らかに主体であり、両氏の総体同士では無くとも、まさに(政党・代表・党首選ならぬ)正統・当主・代表同士の進退をかけた対決、
良文流らは例え参戦してたとしても軽微ナ応援-与力に過ぎず(だからコソ完敗側なのに殆ど巻添えにならず温存維持できた訳ですし)、まして,平家に従属した源氏が主体等という事は全くありませんでした。
一方、軍事貴族-武将としてハ遥(=はるか)に後進-弱小だった源氏(恒幹・経基王流)が、平氏の地盤だった東国で11c.中ニ,功名を上げ、一挙に逆転した戦乱、特に1028−31年「平忠常(・恒)の乱」はソノ先駆−基礎を成したといわれます。
が,まず、忠恒も,追討を命じられた源頼信も,共に分家筋、当時は(確かに,必ずしも嫡宗家に従属するもので無く,弟が兄を凌ぐ例もありましたし、彼らは既に独立、子孫は武家として,むしろ源・平の主流にもなりますが)いまだ5位同士に過ぎず、血統-官位上も,実権勢力でも、源氏・平氏の総体どころか代表者とも到底いえませんでした。何より戦闘になってないのです。実際には,白刃どころか矢1本も交えておらず、勿論,それも優勝劣敗で、明白-圧倒的だった為,自ら認めた可能性もありますが、此を合戦と謂うなら、史上最初の「源平対決」、氏祖恒幹が現職の武蔵介(むさしのすけ。今の東京都&埼玉県の副知事といえるでしょう)として郡(=國ごとに数〜数十、武蔵には21個設置されていた行政単位ノ)司らを弾圧,抗争を惹起し,隣国の1土豪に過ぎない平将門が仲裁に入るやソノ武名を畏怖する余り,自分が討伐されると思い込み、職務も放棄して命辛々京都迄逃げ帰った事も,当然敗戦と呼ばなければならず、厳密には除外されます。
他方、'84-7年「後三年の役」で、源義家(=よしいえ)らが討つ武衡・家衡は「清原」氏を名乗ってますが,平氏の繁盛流だったという説が最近有力(あく迄私の仮説では、兄の貞盛流、また'50−62年「前九年の役」で彼らに討ち滅ぼされた「安倍」氏は平良文流)で、とすれば一応源vs平合戦に入れられるでしょう。但し、勝者-主体が源氏か?と思いきや、そうでは無く、結局「清原氏」(「後三年」の場合も清衡・秀武ら)が新たな奥羽の覇者。源氏は呆気なく追払われちゃったのです。
其でも、11c.末には、武士の長者とも称された源氏に敢えて注目し,活躍した歴史を掘り出していけば、一見,源vs平らしい事件はあるのですが、源氏側にも特に東国では平氏が参戦しており、其もタネを明かせば、実際は元々、源氏が自分の所領獲得戦争目的の為に部下-戦力として動員-巻き込んだ、というより、平氏同士の内紛に脇役として参加・介入してたに過ぎなかったのです。
頼朝・義経兄弟の父義朝は1140's前半,下総・相模で,平氏の大豪族千葉・大庭氏と所領を巡り抗争したとされてますが、その主体もヤハリ平氏(上総・三浦氏らの他、当の千葉・大庭氏自体)でした。
此に対し,'56年「保元の乱」及び前哨戦的な武蔵「大蔵合戦」等も源平が主戦力ですが、平氏のみならず源氏も各々内部分裂しており、
平氏の場合は,既に累代4位雲客として独走-隔絶してた清盛ら六波羅=所謂(=いわゆる)平家が明らかに嫡宗家にして主流でしたが、
源氏の場合、「団栗(=どんぐり)の背比べ」ノ並立状態、いずれが当主・党首・エース-本家-代表とも断じ難く、父やその嫡子後継となった弟達に反抗-敵対した義朝が、結局平(家+前述の坂東諸)氏の主流に乗って攻め殺し、ここに漸(=ようや)く初めて棟梁として確立し(他の源氏と共に、平家に挑戦する平治
-治承の乱へと展開してっ)たのだと言えるでしょう。
何れにせよ、源vs平、特に主流同士の対決というには「異論!反論!‥」が多く、仮に此らを含めても数える程しか無いのですが、覇を競い合った歴戦の2大武門同士の割に少なかったワケは、通説的イメージとは違う両氏の意外な関係や異質性に求められます。
尤(=もっと)も、後の章で紹介します様に、源氏といっても本当は多数あり、うち武家として先行するのも嵯峨帝系で、武蔵国で大事件を起します。高望王や藤原魚名=うおな流利仁=としひとらに続いて10c.初頃,源仕(つかう,『扶桑略記』では任)が武蔵国に権介として赴任しますが919年5月.守である高向利春(=たかむくノとしはる)に反抗し,国府を攻略、官物を奪い,庁舎を焼き払ったというのです。恒幹らが赴任し紛争を起こす20年前で、この顛末(=テンマツ)は不明で,有耶無耶になった様です。
この仕の息子が宛(=あつる,充とも)で、足立郡内と思われる箕田郷に所領をもつ豪族-武将として、やはり武蔵国に進出してきたらしい「村岡五郎」平ノ良文(=よしふみ)と,堂々たる一騎打ちを演じ,名声を轟かせます。勿論(=モチロン),彼らは源平の嫡流(=チャクリュウ)-長者(=チョウジャ。この場合は「第一人者・エース」の意味)でも無かったですし、その時期も不明ですが、良文の甥である平将門が、その伯父達を婿にした源護(=まもる)一家と、主に東方で壮絶な抗争を繰り広げ、関東全体を制覇する迄になる930's後半より前(将門どころか兄弟達も宮仕え中?即ち、史上初の源平合戦)だった可能性が高いのです。