大 阪



適 塾
( てきじゅく ) 

重要文化財
旧緒方洪庵住宅

大阪府大阪市中央区
北浜3-3-8

Kitahama 3-chome
Chuo-ku, Osaka


Ogata Kôan
( 1810-1863 )



英語

 

スペイン語








緒方洪庵
( 1810-1863 )

医学者 蘭学者 教育家
備中 足守藩士
( 現在の岡山県岡山市 )


緒方洪庵は 文化7年( 1810 )、備中 足守藩( 現在の岡山県岡山市 )で
生まれる。 父は 足守藩士であった。

文政8年 ( 1825) 16歳の時、 足守藩大坂蔵屋敷留守居役 になった父に
伴い、大坂に来る。 大坂蔵屋敷留守居役とは 国元( くにもと)から 大坂
蔵屋敷に運ばれてきた年貢米、その他の物産を大坂蔵屋敷で販売し、
会計事務を行うのを 主な仕事とした役人のことである。

体が頑強でないので
 武士には 向いてないと思い 文政9年(1826) 17歳の
時、 中天遊の私塾に入門し、蘭学、 蘭方医学を学ぶ。

天保2年 (1831年 ) 22歳の時、 江戸に留学。 蘭学者 坪井信道
に学ぶ。

天保6年 (1835年 ) いったん帰郷。 大坂へでて 26歳の時、 
中天遊の塾で 蘭書を講じる。

天保7年 ( 1836年 )、大坂から 長崎へ留学。

天保9年 (1838年 ) 長崎での勉学を終え、大坂に戻り、 瓦町に蘭学塾
『適塾』を開く。  同年7月、 摂津 名塩( 現在の兵庫県西宮市 )の億川
百記( おくかわひゃっき )の娘 八重( やえ)と 結婚する。 洪庵29歳。

弘化2年( 1845年 ) 適塾は 人気が出て 生徒を収容できなくなったので
過書町に町屋 ( 現在の北浜3丁目の適塾 )を購入した。 諸国より 俊英
が入塾する。

嘉永2年( 1849年 ) 古手町に種痘所を開設した。 万延2年(1860年)
この種痘所は 現在の 緒方病院の敷地内へ移転した。 北陸から九州まで
種痘所を開設し 天然痘の万延を防いだ。

安政2年 ( 1855年 ) 福沢諭吉入塾する。

文久2年 ( 1862年 ) 幕府の要請により 江戸幕府奥医師( 将軍
とその身内の主治医 )に就き、 西洋医学所( 後の東京大学医学部)
頭取を兼任する。 

適塾は 養子緒方拙斎 ( おがたせっさい )が 塾生の教育に当たる。

文久3年 ( 1863年 )洪庵 江戸にて  突然 喀血し 死亡する。 洪庵
53歳。

明治元年(1868年 ) 江戸幕府 崩壊。 適塾は 閉鎖。

1838年 開塾から1968年の閉鎖までの30年間に 適塾では 約 1000人
の俊英が 学んだ。

現在 適塾は 国の重要文化財であり 大阪大学が 管理している。




福澤諭吉
( ふくざわ ゆきち ) 
( 1834 -1901 )
思想家 教育者
慶応義塾大学
創設者




伯爵 佐野常民
( はくしゃく さのつねたみ ) 
( 1822 - 1902 )

日本赤十字社
創設者




橋本左内
越前福井藩士

(1834-1859)
開国派 安政の大獄で
26歳で処刑




長与専斎
( 1838 - 1902 )
日本の近代衛生行政を
確立した官僚 貴族院議員



大村益次郎
( おうむら ますじろう )
( 1824 - 1869 )
政治家、近代日本
陸軍創設者




手塚良仙 

(漫画家手塚治虫
 曽祖父 )
(写真右の人物 
洪庵の十四回忌
の記念写真
より 右上は洪庵の
妻 八重夫人 )

写真の画像が悪い



漫画家手塚治虫の
 曽祖父
 手塚良仙
と適塾の生徒の物語
が 『陽だまりの樹』の
中に描かれている











銅座跡
大阪市立愛珠幼稚園( あいしゅようちえん) 1901(明治34)年
竣工 重要文化財
大阪市中央区今橋3-1-10
現存する日本最古の幼稚園


愛珠幼稚園は 北船場連合町会が 当時 日本でほとんどなかった幼稚園
を設立することを決めた。1880年 ( 明治13年 ) 現在の北浜4丁目に開園
した。 民間の幼稚園として発足した愛珠幼稚園( あいしゅようちえん)は1889
年大阪市の市政施行に伴い、 連合町会から大阪市に移管した。

園舎が手狭になったため、 1901年 ( 明治34年 )現在の今橋3丁目に
現園舎を建てた。 現存する幼稚園としては 日本最古である。 ここは 江戸
時代 銅座があった所である。 銅座は、江戸時代の明和3年(1766)に設立され
た。 当時 日本は 世界最大の銅輸出国であった。 元禄年間(1688年ー
1704年 ) 日本の銅生産量は 年間6000トンであった。

全国の銅山で産出する粗銅は 大阪に運ばれ 銅吹屋という精錬会社によって
精錬された。 長堀にあった1636(寛永13)年に開設した住友家の泉屋精錬所
は 日本最大の精錬所であり、 日本の銅生産量の 1/3 を占めていた。 大阪
で精錬された銅は 長崎へ運ばれ、 そこから オランダ人を通じて 欧州を含む
世界各国に輸出された。 2007年度の日本の銅地金(インゴット)の生産では
世界第三位、 銅鉱石の輸入では 世界第一位である。

世界の銅地金生産額は 1808万トン。

第一位 中国 20%、第二位  チリ 16%、 第三位  日本 9 %、 
第四位  米国 7%、 第五位  ロシア  5 %。

世界の銅鉱石生産量は 1,544万トン。 日本の銅鉱石( 精鉱 ) 輸入量は
世界第一位で 141万トン。 主な輸入先はチリ  47%、 インドネシア  
14%、 ペルー 12 %、 カナダ 8%、オーストラリア 8 %。

中国、 インドの急速な経済発展が 主な要因である世界的な銅の需要の
拡大により、銅の価格は急騰している。 資源争奪戦は 今後 益々 激化
するだろう。 

かって 世界一の銅生産国であった日本も 銅山が 次々に閉鎖され 銅鉱石
は 100%輸入に頼っている。

住友最大の四国の別子銅山は 昭和43年 (1973年)閉鎖された。 かって
は 人口1万人あった鉱山町 別子は 2003年 新浜市に合併された。 別子
山村は 現在 人口300人に満たない寒村になった。

新浜市に吸収合併されるまでは 愛媛県宇摩郡の一部であった。筆者の両親
は 別子のふもとの瀬戸内海に面した宇摩郡土居町で生まれた。

別子銅山は 元禄3年 ( 1690年 )に発見され、 1973年( 昭和48年 )
の閉山までの280年間に 70万トンの銅を産出した。

大阪長堀の住友精錬所は 明治9年 (1876年 )閉鎖された。ここにあった
住宅は 大正14年(1915年)まで 住友家本邸宅として、昭和20年(1945年)
まで 住友家別邸として存続した。 住宅は1915(大正4)年までは住友家本邸
として、1945昭和20)年までは別邸として存在した。 住友精錬所跡は 現在
大阪市中央区島之内一丁目にあり、 三井住友銀行事務センターとなっている。
住友家のビリアード場が 保存されている。

話は 余談になったが、1945年 空襲の激化に伴い、 愛珠幼稚園の近くに
あった軍に軍需製品を納めている会社が 木造園舎が 爆撃された時の延焼
をおそれ、 園舎の撤去願いを1945年3月末に提出した。 幼稚園では 引越し、
取り壊しを出来るだけ 引き伸ばそうとしたが 1945年8月4日に取り壊すことに
決定した。 空襲のため 引越しが 遅れ 8月15日 日本は 無条件降伏した。
取り壊しは中止した。 愛珠幼稚園は 破壊されずにすんだ。




ビルに囲まれて取り残された3軒の家
左の建物は 診療所 とりこわされた
建物のあったところは駐車場になっている。




稲葉医院 内科 小児科 大阪市中央区今橋2丁目
船場の商家のたたずまいを残す建物で診療を
続けています。 




芝川ビルディング
登録文化財

伏見町3丁目



日本基督教団 浪花教会
(にほんきりすときょうだん なにわきょうかい)
大阪市中央区高麗橋2丁目

登録文化財
1830年竣工


現在の建物は アメリカ生まれの 帰化日本人建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズ
( William Merrel Vories) (1880年 − 1964年 )の設計、監督。 皮肉にも
1945年のアメリカの空襲を逃れて残った。

ヴォーリズ(1880-1964 ) は キリスト教伝道士、英語教師、建築家、企業家で
あった。 彼の多くの建築の作品は彼が愛した近江の近江八幡にあるが 大阪
にもいくつかある。

ウィリアム・メレル・ヴォーリズは 1880年、 アメリカ カンサス州、
Leavenworth
で生まれた。

1905年(明治38年)、 キリスト教の伝道目的で 来日、八幡商業学校
(現滋賀県立八幡商業高等学校 -
Hachiman Commerical Senior High
School
)で英語教師となる。 八幡商業学校の本館は  ヴォーリズが設計した
もので1940年 ( 昭和15年 )竣工した。八幡商業高等学校は 近江商人
の精神を受けついている。
 
ヴォーリズは 1920年(大正9年 ) 近江販売会社 ( 
Ômi Sales Company
を設立する。 アメリカ合衆国の「メンソレータム社」の メンソレータムを輸入
し始める。後に製造する。

1934年(昭和 9年 ) 近江販売会社を近江兄弟社に改称。 人類すべて
兄弟というキリスト教の精神にもとづいて兄弟社と名づけた。

近江兄弟社のメンソレータムは 戦前、 戦後 各 家庭に一つはあった。 

努力しなくても 売れる慢心からか 1974年 破産。この時 販売、製造権
は アメリカの メンソレータム社へ返上したと一般に言われているが 事実
は メンソレータム社から 契約破棄の通告を受けた。 大鵬薬品工業の
支援と 新経営陣の努力に再建を図るが ロート製薬が 1975年 メン
ソレータムの販売権を1975年 取得する。 さらに 1988年 メンソレータム社
は ロート製薬に買収される。 

近江兄弟社は メンタームというブランドで 成分が ほとんど 同じの製品を
販売し始めた。

メンソレータム (
Mentholatum ) は メキシコ、 ドミニカ共和国、 ガテマラ、
ホンジュラス、エル・サルバドール、 ニカラグア、コスタ・リカ、パナマ、コロンビア、
エクアドル、ペル、パラグアイ、チリ等で 売られている。 ギド・バリェホ 
(Guido Vallejos ) の漫画の中に なんでもする メンソレータムという人物が
でてくる。 日本では 小さな容器に入った メンソレータムが5年位 薬
箱に入ったままという家庭もあると思いますが 南米では 風邪をひいた時
に 鼻の穴に塗ったり、 胸、背中に塗って こするので 消費量は 大きい。



接着剤
株式会社 コニシ 



旧小西家住宅
(ボンド興産本社)

1903年竣工
一部 国の重要文化財

製薬会社、 薬問屋が多い 道修町 ( どしょうまち ) を 堺筋に出ると 
古めかしい建物が見える。

戦前から 戦後も ながらく 古めかしい 『 小西儀助商店 』という名前
であったが 1976年(昭和51年 ) 『株式会社 コニシ 』となった。

改築されている部分もあるが、一部 登録文化財、 一部 重要文化財。
1870年 『 小西屋 』 を設立、薬問屋を始める。

1903年 竣工した  『 小西儀助商店 』の社屋は 重要文化財 『小西家
住宅』として 保存されているが 現在  株式会社 コニシ の関連会社 
ボンド興産の本社として使われているので 内部は 非公開である。 

有名な俳人 小西来山も 同族のようだ。 

小西来山は  1654年(承応3年 淡路町の薬種商( 薬問屋 )の小西左衛門家
に生まれた。

七歳の頃から西山宗因 の門下 前川由平( まえかわゆうへい) に書画俳諧を
学びその後 西山宗因 の直弟子となった。 家業を弟に譲り 18歳で 談林派の
俳諧(点者)選者となった。

来山の有名な句に次のような句がある。


お奉行の名さへ覚へずとしくれぬ

この句は 奉行はあってもなくても 同じことだと 幕府を愚弄した句だと
一般に言われている。

来山の生存中は 大坂東町奉行も 西町奉行も 大阪城の北側の京橋口
門外にあった。

住んでいた今宮より 4キロほど離れているだけであるから 奉行の名前は 
知っていたかも知れない。 しかし 民政の大部分は 町人のまかされて いた
から 実際に知らなかったか 知る必要もなかったのかしれない。



適塾は 大阪のビジネス街の中心部に、御堂筋と堺筋の間で 高層ビルにかこまれ
ひっそりとたたずんでいる。 周囲が小公園になっており 周りの高層ビルも 緑地
をたっぷりとって 建てられているので以外と閑静なところである。


このあたりは 第二次世界大戦の空襲で 壊滅的に破壊されたがこの適塾と近くの
愛珠幼稚園の建物、 道修町( どしょうまち )の 小さな薬問屋、 数棟のビル
など 奇跡的に戦災を免れ 歴史を感じさせる建物が少し残っている。 空襲
に会わなかったにも かかわらず 戦後 取り壊されて 建て替えられたビルもある。

平成十八年現在 数軒の江戸時代、 明治初期に建てられた商家もそのまま残り
医院などに利用されている。 江戸の大阪商人の船場の繁栄をしのぶ風情は 
2,3の重要文化財の建物を除けば急速に消えつつある。  

明治、大正、昭和初期に建てられたビルディングも 惜しまれながら取り壊された。


もし戦災にあっていなければ この界隈は 世界遺産まちがいなしであっただろう。

適塾は 緒方洪庵が幕末に 設立した 蘭学の私塾であり 北は北海道から 南は
薩摩( 鹿児島 )まで 全国から 英才が 集まった。 緒方洪庵が 幕府に招かれ
江戸に行くまでの1838年から 1868年までの30年間に 約1000名の学生がここ
で学んだ。 


緒方洪庵の適塾は 有名になり 佐賀、筑前、越前、土佐、宇和島、 洪庵の出身
地である備中足守藩など 教育熱心で 開明的な藩主の諸藩は 多くの俊英 
( しゅんえい )を適塾へ 送りこんだ。

門下生の自筆による 姓名録は 1844年 から 1864年まで 636名の姓名
入門年、出身地が 残されている。 1844年以前の入塾者も かなりわかっている。
姓名録によれば現在の青森県 沖縄県を除いて、 北は北海道から南は鹿児島県
まで全国から入門している。 

洪庵の出身地 岡山県は46名で 長州 (山口県 ) に次いで2番目である。 
幕末から明治にかけて 活躍した雄藩のうち鹿児島県 ( 薩摩 ) は 七名と
以外に少ない。

地元 大阪府下出身者は わずか 19名である。 山口県は56名と最多である。
長州がなぜ 倒幕と明治維新の主導的役割を果たしたかがわかる。 明治の初期、
薩長土肥 ( さっちょう どひ )の藩閥政治は よく非難されるが これらの諸藩
が 優れた人材を養成したのも 確かであるし 幕臣 または 幕府に最後まで
忠節であった藩の者でも 有能な者は 明治新政府の重要なポストについたと
いう面も 無視できない。

四民平等と錦の御旗をたなびかした政府軍に反旗を翻した藩のものでも 才能ある
ものは取立てられた。 これが日本の近代化の原動力となった。 藩閥政治の横暴
というのは 誇張されすぎたきらいがある。 

中国、 朝鮮の門閥、 地域閥がいかに近代化の弊害となったか考えると 全国
各地、 各諸藩からの俊英が同じ学校で学び 友情を暖めたことは 後の統一され
た近代国家の礎となった。 この小さな学校が 日本の近代化に果たした役割は
大きい。 

ただ 明治政府発足と同時に勃発した戊辰戦争、 その後の西南の役では 敵
味方に分かれ 戦うはめとなった。 しかし 敵方の学友の身の上を心配し 賊軍
となった者もその後 新政府の重職に就き、 日本の発展に大きく 貢献した



司馬遼太郎の小説 「 花神 」で有名になった大村益次郎は 「 村田良庵 」と
言う名で 入塾している。




明治2年(1869年)4月9日 

中京区二条木屋町下る一之船入町
高瀬川のほとり

木屋町の旅館で 日本陸軍創設者、兵部大輔( ひょうぶたいふ )大村益次郎
は凶漢に襲われた。 廃刀令、武士のみでなく 平民も含む軍隊など急進的な
政策に反感をもっていたのであろう。 近くの長州藩邸に益次郎を移したが 後に 
大阪の病院へ移した。 オランダ人医師 ボードウィンが 傷の治療にあたったが
その斐もなく 明治2年(1969年)12月7日 死去した。

大村益次郎殉難の碑は 中央区法円坂2丁目(国立大阪病院東南角)、
大阪城大手門の向いの南側にあります。


なお 兵部大輔( ひょうぶたいふ )は 軍事次官に相当するが 大臣が 親王
殿下であり 肩書きだけであったから 実質的に大村益次郎が陸軍大臣であった。



( 1824 - 1869 )






扶氏経験遺訓
の最初頁と目次




扶氏経験遺訓

緒方洪庵は 蘭学を教えるだけではなく 医者としての道徳教育も 行った。
適塾で学んだ塾生は 洪庵を教えを守った。 函館戦争の時、 適塾出身者の
高松凌雲、は も幕府側( 賊軍)の医者であったが 敵、 味方の区別なく 
治療活動をした。

佐野常民は 日本赤十字社を設立した。

30巻よりなる 『扶氏経験遺訓』は ドイツのベルリン大学の教授 
Chritoph
Wilhelm Hufeland ( 1762 - 1836 )
の書いた内科の医学書である。 これは
ドイツ語ではなく オランダ語で書かれていたが 洪庵は それを漢訳した。

その 巻末の医者として守るべき 12ヶ条の規律を 抄約し、『扶氏医戒之略』
とした。 

最初の三ヶ条を紹介する。

一、医の世に生活するは人の為のみ、おのれがためにあらずということを其業
の本旨とす。安逸を思はず、名利を顧みず、唯おのれをすてて人を救はんこと
を希ふべし。人の生命を保全し、人の疾病を復治し、人の患苦を寛解する
の外他事あるものにあらず。

一、病者に対しては唯病者を見るべし。貴賤貧富を顧ることなかれ。長者一握
の黄金を以て 貧士双眼の感涙に比するに、其心に得るところ如何ぞや。
深く之を思ふべし。

一、其術を行ふに当ては病者を以て正鵠とすべし。決して弓矢となすこと
なかれ。固執に僻せず、漫試を好まず、謹慎して、眇看細密ならんことをおも
ふべし。

現代語訳 :

医業を行う者は 人のためだけを考え 自分のためにやってはならない。
楽をしようと思ってはいけない。 自分の名声や 利益を考えては いけない。
自分の利益を捨て、 人を救うことのみ考えるべきである。 人を健康な状態に
保ち、病気を治し、 病苦を和らげる以外のことを考えてはいけない。

病人は 病人だけを見るべきで 患者の経済力や社会的地位を考慮しては 
ならない。 金持ちの一握りの金の報酬と 貧乏な人の感謝の涙とどちらが
価値があるか 比べることが出来ないのをよく考えるべきである。

医療行為は 患者を対象とすべきであり、それを道具としてはいけない。ある
治療方法に固執せず、やたらと実験してみたりせず、 謙虚に 細心の注意
を払い医療をすべきである。




ズーフ部屋





通布字典 ( ズーフ辞典 )
蘭日辞典

Doeff-Halma
Dictionary


生徒の誰も 蘭日辞書を持っていなかった。 適塾の二階にズーフ部屋という
小部屋がありそこに ズーフ辞典 ( 通布字典 )が置いてあった。 ズーフ
部屋は いつも学生で深夜まで 満員であった。

1812年ごろ、長崎のオランダ商館長 ヘンドリック ズーフは通辞の力を借りな
がら 1729年発行された フランソア ハルマの蘭仏辞典をもとに 蘭日辞書の
編纂を始めた。

この蘭日辞典は 1833年完成した。この辞書の一部は 長崎奉行に贈呈され 
長崎奉行はそれを幕府へ送った。

幕府は オランダ語 通辞 ( つうじ )を動員して この辞書の改定にとりか
かった。

この辞書は 手書きで写され 印刷されることはなかった。 適塾にあったのは
この辞書であった。

緒方洪庵は 備中 足守藩の藩士の三男として生まれた。 16歳の時大阪へ
出て 天文学者、物理学者としても優れた 中天遊( なかてんゆう )に蘭学
を学んだ。 1830年に江戸にでて 更に蘭学を学び1836年26歳の時長崎へ
行きオランダ人医師より蘭学を学んだ。 1838年 二年の長崎留学の後大阪
戻り瓦町に診療所を開設し 私塾を開いた。学校が有名になるにつれて手狭
になり 1845年商家を買い取って 過書町 (現 北浜3丁目 )へ 移った。 
洪庵は医学者であったが 適塾ではいろいろなことを オランダ語で教えた。


1849年、 除痘館 ( じょとうかん ) − 種痘センターを − 古手町 ( 現 
道修町 に設立した。また1850年 足守藩主木下公の依頼により 郷里にも 
除痘館を建て 度々 郷里に戻って 3ヶ月位滞在することもあった。 1860年
現在の今橋三丁目に移った。 現在 ” くりにく おがた ” (旧緒方病院の前
の壁面に「 除痘館 」の 記念プレートが 貼り付けてある。 


血清学の大家であった 緒方洪庵 の曾孫である緒方富雄博士は 緒方洪庵
の研究もなされ 蘭学の研究もされた。「緒方洪庵伝」(岩波書店、昭17)等 
曽祖父と蘭学についての書物を著した。 その子の 緒方洪章氏は 東京芸術
大学日本画科 を卒業された著名な日本画家である。


緒方洪庵は 八重夫人との間にできた子は 六男 七女13人の子沢山であった。
そのうち4人は 幼没している。

八重夫人は 洪庵が中天遊のところで勉強していたときの先輩の億川百記 
( おくがわひゃっき ) の娘であった。 多くの子供がありながら 洪庵の四女
八千代の婿として緒方拙斉 ( おがたせっさい )を 婿養子にしている。 洪庵
が 江戸に行ってから養子 拙斉が 塾長となった。

緒方拙斉は その娘の千重の婿に正清を養子にしている。 緒方家は 二代に
わたって 優秀な人物を婿養子にしている。

緒方正清は1914年『日本婦人科学史』上・下、丸善、東京を書いた。 明治38
年大阪 玉造に当時としては めずらしかった産婦人科病院緒方病院を設立
した。

大正二年医師法に基づき 大阪府医師会が設立され 緒方正清は その初代
会長となった。 

大阪と日本の医学会に大きな足跡を残した。緒方正清から四代目の緒方高志
医師は前身が旧緒方病院である くりく おがた
 の四代目院長である。
この医院は適塾の裏側 (ひとつ 南側の今橋通り ) にある。ここは 緒方
洪庵が天然痘の予防注射をした除痘館跡で 電話で予約すれば 入場無料
で 除痘館記念資料館へ入れる。

諸藩では 緒方洪庵を召抱えたかったようであるが 洪庵は こばみ続けた。
しかし 幕府の再三の要請は 断るわけには いかず 文久二年( 1862年 )
奥医師兼西洋医学所頭取 ( おくいしけんせいよういがくしょ とうどり )として
江戸城に 赴任( ふにん ) する。 翌 文久三年 数え年54歳のとき
医学所頭取役宅で喀血( かっけつ)し 亡くなる。 医師兼学校長の宮仕えの
心労が 命を縮めたものと思われる。
 
1874年 彼の教え子であった 長与専斉 ( ながよ せんさい )が 幕府の西洋
医学所頭取となる。これは幕府崩壊後、 東京大学 医学部の前身となる。

明治二年 大阪府が 大福寺 ( 東区上本町四丁目 )に 医学校を設立した
とき洪庵の実子緒方惟準( おがた これよし )、義弟郁蔵、養子拙斎( せっ
さい )らが参加した。 これが 大阪大学医学部の前身となる。

慶応義塾大学は 適塾卒業生 福沢諭吉によって開校した。慶應義塾医学所
は 諭吉の弟子 松山 棟庵によって 設立されたがその後 廃校となった。
大正6年 ( 1917年 ) 医学科予科が開設され 細菌学の大家である北里
柴三郎が 学部長となった。これが 慶應義塾大学医学部の前身である。

日本の近代医学、源は適塾にあるといっても 過言では ない。

適塾の建物は 昭和17年 ( 1942 年 ) 緒方家から大阪帝国大学に寄贈
され昭和39年( 1964 年 ) 国の重要文化財の指定を受けた。 現在 大阪
大学が管理している。



開館時間 10時〜16時
休館日 ・月曜日( 国民の祝日の場合は開館 )
・国民の祝日の翌日(土・日・祝日の場合は開館)
・年末年始(12月28日〜1月4日)
入館料 ・一般:250円(130円)
・学生:130円(70円)
・生徒:70円(40円)
※( )内は20人以上の団体料金
場所 大阪市北区北浜3丁目3−8 
電話 06-6231-1970
アクセス  京阪 淀屋橋 または 北浜 徒歩 5−8分

 地下鉄 御堂筋線 淀屋橋  徒歩 5−8分
 地下鉄 堺筋線 北浜        徒歩 5−8分



大阪市立愛珠幼稚園






 
  備中足守藩 ( 岡山県岡山市足守 )  
  緒方洪庵   生誕地 豊臣秀吉 正室 北の政所
  と  木下家   白樺派詩人 木下利玄

大阪市立愛珠幼稚園
と銅座

適塾内部


第三回 『スペイン語と日本語で歩こう会』

通訳案内士による
「水都大阪を売り込もう会」




©copyright:
無断転載禁 − 日本観光通訳協会 正会員
公認 スペイン語 英語 通訳案内士 佐々木博昭
 
スペイン 「俳句の道」 顧問、 スペイン 「 ナバラ俳句協会 」 "ANAKU"
顧問



スペイン語通訳案内士
試験対策講座
大阪 天王寺教室