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聖徳太子古戦場

The Historic site of the battlefield of
Prince Regent Shôtoku Taishi

El Sitio Histórico del Campo de Batalla
del Príncipe Regente Shôtoku Taishi


聖徳太子第二番霊場
下の太子
高野山真言宗・神妙椋樹山(しんみょうりょうじゅざん)
大聖勝軍寺(たいせいしょうぐんじ)
大阪府八尾市太子堂3-3-16

大阪府八尾市太子堂
JR大和路線「八尾」下車、藤井寺行きバスで太子堂








大阪府八尾市に 中の太子と呼ばれている野中寺、上の太子と呼ばれる
叡福寺に対して 下の太子と呼ばれる「大聖勝軍寺( たいせいしょうぐんじ )」
といういかめしい名前の寺がある。 それもそのはず ここは 587年( 用明天皇
2年 ) 排仏派と崇仏派が 戦って崇仏派が勝った古戦場であった。大聖勝軍
寺は 戦勝記念の寺であることは 寺の名前からすぐわかる。 仏教は 生きと
し生けるものの殺生を禁じている。 

聖徳太子の十七条憲法の第一条に「和(わ)を以て貴(とうと)しと為(な)し、
忤(さか)ろうこと無きを宗(むね)と為(な)せ。」と記されている。

仏教徒であった聖徳太子が 戦いをにくむ平和主義者であったのだろうか。 
推古天皇八年 ( 
600年 )新羅が任那( みなま )に攻め込んだ。推古天皇
九年(
601)年 朝廷は 新羅討伐を決定した。 翌年 推古十年(602 ) 聖徳
太子は 実弟・来目皇子 ( くめのみこ )を将軍に任命し 二万五千人の兵を
持って新羅を攻めようとしたが 来目皇子は 九州で戦死した。

朝鮮半島南部の日本の権益を守るため 聖徳太子は 大軍を送ろうとした。

587年 崇仏派の蘇我馬子( そがのうまこ )軍と廃仏派の物部守屋の軍が
戦い 崇仏派が勝利をおさめる。 この時 聖徳太子は 十六歳( 一説に
よれば 十五歳 )の未成年である。 まだ 推古天皇は 即位しておらず 
聖徳太子は摂政でもない。 この戦いの崇仏派の主導者は蘇我馬子で 
聖徳太子は 他の豪族、 皇子と 同じく この戦いに参加したので 主導者
ではない。 「 部下四将軍に 四天王の像を 刻ましめ 」と 大聖勝軍寺
の碑には 書かれている蘇我馬子は 十六歳の太子の部下であるはずはない。

太子信仰のために 蘇我馬子は 無視されるが 崇峻天皇(すしゅんてんのう)
暗殺した逆賊として 歴史に残る。

山門の前に 聖徳太子像を真中にして四体の四天王の像があるが 右端の
像は 持国天 ( 蘇我馬子 )の像である。 その他、、多聞天(秦川勝)、
広目天(迹見赤檮 − とみのいちい )、増長天(小野妹子)の四体となって
いる。

天平期の広目天は 筆を持っている。 「 筆は 刀より 強し 」という意味で
筆も仏教護持の武器であろう。 しかし この寺では 四天王のすべての像が
武器を持っている。 四天王は 四方から 来る仏敵に戦うため 武器を持って
いる。 広目天は 物部守屋を強弓で射落とした迹見赤檮 − とみのいちい
を表している。 






増長天 ( 小野妹子 )







聖徳太子は御歳16歳にして廃仏派と現在の八尾市太子堂あたりで戦い、587年
物部守屋を討ち取り 我が国の仏教興盛への道を開かれました。聖徳太子は


1400年間 日本でもっとも崇拝されてきた 最大の政治家であり、 思想家であり、
社会事業家であった。 

日本の敗戦後、 昭和21年( 1946年 ) 聖徳太子の肖像は 百円紙幣に
登場し、 その後 我が国は廃墟の中から立ち上がり 力強く 発展し始め
ました。 

昭和39年 ( 1964年 ) 東京で オリンピックが開催された。 東京、
名古屋、 大阪の三大都市が 「夢の超特急 」 新幹線で結ばれた。
1965年から 1970年にかけて 「いざなぎ」景気と呼ばれた好況が訪れた。
これは 神代の時代において 男神「伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と女神伊
弉諾尊(いざなぎのみこと )が 日本列島創生のため また あまたの神を生む
ため地上に降臨して以来 最大の経済的繁栄を意味する。

聖徳太子は 高額紙幣の代名詞として 長年 国民に親しまれてきたが
昭和59年 ( 1984年 ) 1万円札が 福澤諭吉に切り替わり、5千円札が
新渡戸稲造の肖像画に 切り替わった。 その後 日本は 後退を始める。

その後 1986年頃から 投機ブームにより 経済は 過熱し 生産は 対して
伸びず資産価値のみ上がりました。 翌 1987年 この現象をバルブ経済と
呼ぶようになった。

平成3年 ( 1991年 ) 2月頃 バルブ経済は 崩壊し 10年に及ぶ 不況
に突入した。人心は 乱れ 拝金主義がはびこり 経済は 不良債権を抱え
混乱した。 平成14年 ( 2002年 )1月頃より 日本経済は やっと 長い
不況から 脱出しはじましたが 政、官、民の汚職は 後を絶たず凶悪犯罪が
頻繁に起こっています。 

この河内八尾の聖徳太子の古戦場の地に 聖徳太子聖徳太子を祀る 大聖
将軍寺があるが 同時に 神道神社の寄付による 物部守屋の立派な墓が
ある。 

これは 官軍と戦った物部守屋に共感する 大阪人の中央政府にたいする
反骨精神の表れという者もいるが そうではなかろう。 石垣の石を寄贈した
神社の中には 天皇を祀っている神宮もある。 元々 神道は 天皇家の宗教
である。聖徳太子は 用明天皇の皇子であり 仏教興隆のため 戦ったとは
いえ 反神道主義者でないのは 明らかである。神道は 天皇家の祖先を
敬う宗教である。

594年 仏教興隆の詔(みことのり)をだしたが 13年後の607年、仏教が
根づいた頃、 神祇祭拝 ( じんぎ さいはい )の 詔 ( みことのり )−
日本の神を敬えという詔を出されている。太子は 排神主義者ではなく
神仏を敬えと言われている。 

儒教の最高道徳律は 仁であるが 聖徳太子は ”和”を最重視した。

大阪の天王寺区にある 四天王寺には 聖徳太子をお祀りしてある 聖霊院
( しょうりょういん )の境内の中の聖徳太子摂政像(太子四十九歳像のある
奥殿の数メートル東側にも 神道様式の守屋祠(もりや ほこら)がある。
「ほこら」というには 立派な お社である。 

また 大聖勝軍寺の平和塔には 聖徳太子とその二人の皇子像と守屋の像
が 同じ厨子内に 祀られている。 これは 守屋の祟りを恐れたから、 また
古来より 日本では 勝者は敗者を手厚く 葬ったのである。 戦いが済めば 
死者は 敵 味方の区別なく 手厚く 葬ってきたのである。  日本人は 戦い
が終われば 敗者の霊も祀った。






四天王寺 聖霊院(しょうりょういん)の境内の
東北の隅にある 守屋祠






ふたつに割れた椋(むく)の霊木の
間に入り難を逃れた聖徳太子






霊木の後に神道様式のお社
がある。 これは 霊木のお社だろう。 

森羅万象に神が宿るというのは
古来より 日本人が 信じてきた
神道の考えである。仏教と日本古来
の神道が習合している。

聖徳太子
救命の椋(むく) 

神妙椋樹苑

日本書紀太子伝等に佛教伝来時 崇仏の蘇我馬子 敬神の物部守屋が激突
守屋は 八尾に 稲城 (いなぎ )を築き その兵力強大 崇仏軍 三度(みた
び)敗退す 

太子 守屋の兵に囲まれ 絶対絶命の時 椋の大木 真二つに割れ 太子を
包み 九死に一生を得て 太子四天王の加護を祈り 守屋を倒す 

乱後 四天王を祭る太子堂を創建し 救命椋樹のそばに仏塔を造り 敵将 守屋
公の尊像と御自身十六才像を安置 敵味方の区別なく 両軍の英霊を弔い
「和の心」を後世に伝う 

推古天皇は 椋樹を 大聖聖徳法王の勝ち戦さと讃え 山号 寺名を賜う

   神妙椋樹山大聖勝軍寺



注 : 大聖勝軍寺では 「聖徳太子十六歳の時 物部守屋と戦った」と記されて
いるが 聖徳太子は 574年 生まれで、 物部に対する戦さは 587年で
あるから 満13歳の時に参戦したことになる。


                第三番   道明寺   河内藤井寺   
                第四番    西琳寺   河内古市
                第五番   野中寺   河内羽曳野

                第六番   叡福寺   河内太子町 
                第七番   世尊寺   奈良吉野 
                第八番      橘寺     奈良明日香

                第九番   定林寺   奈良明日香
                第十番   金剛寺   奈良明日香



多宝塔に似た平和塔
これは 第二次世界大戦戦没者
の慰霊塔だと思っていたが 物部守屋
と聖徳太子をお祀りしてある。 



平和塔の天皇家の菊の御紋章
聖徳太子は 皇族であった。




お寺にお願いして 厨子を開けてもらって
驚いた




聖徳太子とその二人の皇子
の前にあたかも太子一家
を守護するかのように剣を抜いている
物部守屋




物部守屋の像

世の中には 秘仏とか称し 数年に一度しか 御開帳しない寺院もあるが
仏教は 開かれたものでなければならないというのが俗人の私の意見です。
守屋の像は すばらしい。 

文化財保護の点からいえば 日光に当てるのはあまりよくない。 二条城の
中が 暗いのは 保存のためである。 現物は 宝物館、博物館に保存し、
写真、復刻したものを安置するということもできる。

また 昨今は 特に無人の寺院の仏像の盗難も 相次いで 起こっている。




大聖勝軍寺の門前にある「守屋池」

この池は迹見赤檮( とみのいちい )が鏑矢(かぶらや)で守屋をを射落とし、
秦河勝がその首を取って、 この池で洗ったとの伝えがある。 迹見赤檮( とみ
のいちい )
は 敏達天皇の皇子である押坂彦人大兄皇子( おしさかのひこ
ひとのおおえのみこ)の舎人(とねり)であった。押坂彦人大兄皇子は この戦い
には参加せず、迹見赤檮( とみのいちい )を代理で 参戦させた。

大聖勝軍寺の近くに 迹見赤檮( とみのいちい )が 守屋を射落とすのに
用いた鏑矢を埋めた 「鏑矢塚」がある。 また 竜華中学校の南に 「迹見赤檮
発箭地(とみのいちい はっせんち)史跡 弓代」と書かれた 弓代塚(ゆみしろ)
塚がある。

迹見赤檮( とみのいちい )は 物部軍壊滅のきっかけとなった 軍功に対して
「田一万頃を以って( たよろづしろをもって ) 迹見首赤檮( とみのおびと
いちい )に賜う 」と日本書記に書かれている。

戦いの後、 物部の土地であった 渋川郡の弓削(ゆげ)、鞍作(くらつくり)、
志紀郡の志紀などの土地は 部民とともに聖徳太子が建てた四天王寺に
献納された。

なお 八尾市に隣接する大阪市平野区にある 「がんご寿司 平野郷
屋敷店
」の所在地は 平野区加美鞍作T丁目である。 物部の一族が
馬の鞍を作ったのだろう。 また 法隆寺の 「資材帳」には 摂津西成
が 記されているが 新世界の西側に 西成区太子という地名があるがこの
愛隣地区と呼ばれている一帯は 元は物部氏の領地であったが 物部氏が戦さ
に敗れて 聖徳太子の土地となった。 

物部氏の祖先は ニニギノミコトより前に天の磐船に乗り 河内国河上哮ヶ峯
(いかるがみね )に 天下った ニギハヤヒノミコトである。 神武天皇が 大阪
湾から難波に上陸し 生駒山の孔舎衛(くさかえ)坂を越えて大和に入ろうとした
時  ニギハヤヒノミコトに支配されていた長須髄彦(ながすねひこ)− 登美能
那賀須泥毘古 (トミノナガスネヒコ)の軍に攻撃され 兄君の五瀬命(イツセノ
ミコト)は傷を負い戦死した。 奈良県に登美が丘という地名があるが これは
(トミノナガスネヒコ)から 来ている。

神武天皇は 生駒越えをあきらめ 引き返し 紀伊半島に上陸し 熊野を通って
大和に入り 樫原で初代天皇として即位した。

物部氏は 兵器の製造、管理を担当し 皇室に貢献した。 大伴氏とならぶ有力
豪族となった。 。穂積氏、采女氏等 同族枝族が多い。

ニギハヤヒノミコトが降臨した 河内国河上哮ヶ峯(いかるがみね )は 大阪府
枚方市私市( きさいち) の磐船神社 であると磐船神社では 言ってるが 
大阪府東大阪市にある石切剣箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)(通称 
石切神社) では 生駒山の当神社だと言っている。




迹見赤檮( とみのいちい )が守屋を
射落とした鏑矢を埋めた塚









猫の額のような敷地に
弓代塚がある





物部守屋の墓

石上神宮、 近江神宮、伏見稲荷大社、春日大社、熊野那智大社、
石清水八幡宮など 玉垣は超一流の大きい神社と神社本庁、各県の
神社庁の寄進。 物部守屋が戦った聖徳太子は 皇族であったが 天皇家
ゆかりの神宮までも逆心物部守屋の墓の玉垣の石を寄進している。 






仏教導入をめぐり 蘇我と物部の確執は欽明天皇 ( きんめい てんのう )の
時代に さかのぼる。 538年 ( または 552年 )百済の聖明王の使者が 
仏像と仏典を持って来日した。 

仏教導入に関して 天皇は 群臣の意見を聞いた。 大臣蘇我稲目などの崇仏
派と大連 物部尾興( もののべのおこし ) 中臣鎌子の廃仏派が 対立した。

敏達天皇( びだつてんのう )の時、 大臣蘇我馬子は 天皇に奏上し 仏法
崇拝の許可を求め 認められた。 その後 疫病が 猛威を振るった。 物部
守屋と 中臣勝海( なかとみのかつみ )は 異国の蕃神を信じたから 疫病が 
流行った これを禁止すべきだと 奏上し 許可を得た。 守屋は 寺を破壊し
仏像を川に投げ捨てた。 ここで 二大豪族 物部と蘇我の全面対決となる。

蘇我氏は 渡来人との関係が深い新興豪族であったが 皇子の多くが 蘇我、
聖徳太子に味方し 豪族も 紀氏、巨勢(こせ)氏、 膳臣( かしわで)、
葛城氏、大伴氏、阿倍氏、平群(へぐり)氏、坂本氏、 春日氏などが 蘇我を
支持した。勝敗は 戦う前から 決まったようなものである。

「大連( おおむらじ )、 親(みづか)ら、子弟(やから)と奴軍( やっこいくさ)
とを、率いて 稲城(いなき)を築(つ)きて 戦う。 」

稲城を築いて戦ったのは 現在の八尾市南木の本(みなみきのもと)の
ある光蓮寺であったと言われている。

(稲城 − いなぎ )とは 稲で囲い矢や石を防いだ城だそうだが 実際は
どうだったのだろうか。 稲は 火をつけて矢を飛ばせば すぐ 燃える )



八尾空港



稲城址 光蓮寺



浄土宗 光蓮寺
八尾市南木の本(みなみきのもと)

聖徳太子が物部守屋の館があった阿都の桑市(現在の八尾市跡部付近)を
攻めた時、守屋は 兵を集めてこの地に稲城(いなき)を築いて抗戦したという。

光蓮寺は元々 天台宗の寺院であったが 文明7年 (1476年)蓮如上人
によって転宗した。




蓮如上人



樟本神社
八尾市木の本一丁目



樟本神社
八尾市木の本一丁目



樟本神社の創建は いつか 定かではないが 延喜式に記載されている
樟本神社 三座の一つであり 他の二座は 南木の本、北木の本に分祀されて
用明天皇(  −587年)の御世、 物部守屋の本拠地の稲城の守護神で
あったという。




太川神社( ふとかわ じんじゃ )
素盞鳴尊をお祀りしてある。

大聖勝軍寺の東側を大和川が流れていた。度々
水害に悩まされた村民は 太川神社( ふとかわ じんじゃ )
にお祈りした。

大聖勝軍寺の守護神でもある



渋川神社 ( しぶかわ じんじゃ )
八尾市 植松町3丁目

 このあたり 一帯は 物部氏の本拠地であった

大阪府の天然記念物に指定されて
いる楠の大木が2本ある。 樹齢千数百年といわれている。
その内の一本には 龍王大神が 祀られている。










龍王大神

JR 大和線八尾駅から 大聖勝軍寺の間、 植松1丁目から7丁目あたりには
古い旧家が 少し残っている。 

江戸中期まで 大和川は 大阪市内へ流れ込み 度々 洪水をひきおこした。
農民は 大和川の付け替えを幕府に再三 懇願したが 1704年 堺市を通って
大阪湾に流れるよう 付け替えられ 安中新田会所ができた。新田会所を運営
していた 旧植田家住宅は八尾市が 寄贈を受け 現在 一般 公開に向けて
修復中である。平成21年5月に完成する。








水害をさけるため 出入口が 高くなっている



旧植田家住宅 安中新田会所



旧植田家住宅 安中新田会所



 旧植田家住宅 安中新田会所



大阪 綿屋 正兵衛の供養塔

安中新田会所は 綿花栽培、 販売の会所の遺構を残していると思われる。
植田家が 移り住み 住宅として 改造しているので 近世から近代にかけて
の植田家の生活の変遷がわかる。

河内平野では 綿が主要な農産物であり 米を買う農民もいたそうである。

写真は 大聖勝軍寺の門前にある大阪の 綿屋 正兵衛が建立した供養塔で
ある。 河内で栽培された木綿は 大阪商人が 全国販売をした。 










旧植田家住宅 安中新田会所



四天王寺



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公認 スペイン語 英語 通訳案内士 佐々木博昭
 大阪



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