大 阪


大阪城 豊国神社 



大阪市中央区大阪城2−1



















大阪城 豊国神社( ほうこくじんじゃ)は 関白太政大臣 豊臣秀吉公、秀吉の
息子の秀頼公、秀吉の弟の秀長公を御祭神として祀っている。 通常 日本の
神道神社では 神世の時代の神を御祭神として祀るが 歴史上 実在した人物
を神格化してお祀りする場合もある。 例えば、 日露戦争で活躍した 元帥 
海軍大将 東郷平八郎を祀る 東郷神社、 陸軍大将 乃木希典を祀る
乃木神社がある。 

豊国神社は 明治元年( 1868年 )明治天皇が大阪へ行幸された時、秀吉は
天下を統一し 国家に貢献すること大である。 しかし 幕府を作らなかった真の
忠臣であるといわれ 豊国神社の再興を布告した。再興というのは 1615年 
豊臣宗家が滅びると京都阿弥陀が峰にあった豊国社は 徳川幕府が社領を
没収、豊国大明神の神号を無効にし、社殿も 朽ち果てていったからである。

明治になって立場が逆転した。 最後の将軍である慶喜は天皇の軍隊に歯向
かった逆賊とみなされ 謹慎した。                                     
徳川家の霊廟である東照宮は 全国に500社あったが 廃社や合祀により 
現在は 約130社となった。

1880年 (明治13年) 方広寺の大仏殿にあったところに 社殿が完成した。

大阪の豊国神社( ほうこくじんじゃ)は 京都の豊国神社( とよくにじんじゃ )
を本社として その別社として当初 中之島の公会堂のあったあたりに1879年
(明治12年)に創建された。 1921年(大正10年)、京都の豊国神社から独立し
て府社に列格した。昭和36年(1961年)、大阪城内の桜門の前の現在地へ
遷座した。なお、遷座前の社殿は豊中市の住吉神社に移築された。




桜門

桜門というのは 徳川時代 この前が馬場であり 桜がたくさん 咲いていた
からである。




秀石庭









四天王寺南大門前の 熊野権現礼拝石

神社に付属する巨大な岩の 秀石庭は 説明板に書かれているように 大阪城
のあったところは 石山本願寺があったところであり、 石山をテーマにした。

また 古来 神道では 山、川、 岩、 樹木、滝など自然に神が宿るという
考えがあった。 岩は 磐座( いわくら )、 磐境(いわさか)といって神が
降臨して宿ると信じた霊石である。 また 天の磐舟(あまのいわぶね)に乗って
降臨された神もいる。 また 天の磐舟が御神体で 本殿がない大阪府交野
(かたの)市の 磐船神社のようなのもある。

秀石庭の巨石は この庭の設計者の重森三玲氏が 会心の作の庭のため
特に保存しておられた巨石を用いて作庭された。

なお 西洋人の書いたものに 「枯山水、 すなわち 禅庭
(Zen garden ) 」
と書かれたものをよく見かけるが 間違いである。 豊国神社は禅寺ではなく
神道の神社である。

上記 京都林泉協会の説明でも 明らかなように 豊国神社の石庭
「 秀石庭 」は 禅の思想を表したものではない。 神道では 神が降臨した
岩を神格化する。 磐座( いわくら )は 神道信仰の根源をなすものである。



牛王導石神堂の牛が石に化し これを神格化し 祠の中に祀るというのも神道
思想と思われるが これについては 知識不足で確信を持っていえない。 
神仏習合の影響かも知れないが 霊石を祠の中に祀っている神社は 全国に数
多く 見られる。


大阪の豊国神社の秀石庭を設計された 重森三玲氏は 高野山の宿坊 福智院 
に 四つの庭を設計された。 そのうちの 「 蓬莱遊仙庭 」は 石庭であるが
これは 禅の思想を表したものではない。 むしろ 道教の神仙思想を表して
いる。 ただし 道教は 仏教、 神道のみならず 儒教にも影響を与えている。

重森三玲氏の設計された福智院の もうひとつの石庭 「 愛染の庭 」 は 
明らかに仏教思想を表すものであるが 禅宗の教義とは 関係なく 愛染明王
は 真言密教の思想を表す。

大阪城内にある豊國神社は 豊臣秀吉のほか豊臣秀頼、豊臣秀長を御祭神と
します。 神代の神様は 主神では ない。

京都の豊国神社の別社として1879年(明治12年)に創建された。当初は大阪市
中之島にあった。



豊臣秀吉の死去の翌年の1599年(慶長4年)、遺体が遺命により方広寺の近く
の阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され、その麓に方広寺の鎮守社として廟所が建立され
たのに始まる。後陽成天皇から正一位の神階と豊国大明神(ほうこくだい
みょうじん)の神号が贈られ鎮座祭が盛大に行われた。しかし、 1615年(元和
元年)に豊臣宗家が滅亡すると、徳川幕府により神号が廃され、社領は没収
社殿も取り壊されて廃祀された。



1868年(明治元年)、明治天皇が大阪に行幸したとき、豊臣秀吉を、天下を統一
しながら幕府は作らなかった尊皇の功臣であるとして、豊国神社の再興を布告
した。 1873年(明治6年)、別格官幣社に列格した。1880年(明治13年)、
方広寺大仏殿跡地の現在地に社殿が完成し、遷座が行われた。



 平成19年( 2007年 )12月1日 (土曜日) 銀杏が 黄色く 色ずく時、
 大阪城内の豊国神社を訪れた時、 外国人と日本人の結婚式にでくわしました。



 国際化の波は とどまることがありません。 

 新郎は外国人、 新婦は 日本人。 外国人の新郎の家族、親類は 黒 ないし
 は ダーク なスーツで 神前結婚に参列。 厳粛な雰囲気のなかで 緊張した
 面持ちでした。 黒色の礼服は 日本では 結婚式でも兼用できます。 しかし、
 黒は 西洋では 葬式と喪の色です。 日本の文化に充分敬意が 払われて
 います。














Oh, East is East, and West is West, and never the twain shall meet,

   Till Earth and Sky stand presently at God’s great Judgment Seat,

     But there is neither East nor West, Border, nor Breed, nor Birth,

       When two strong men stand face to face, tho’ they come from

the ends of the earth!


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ああ、東は東、西は西、この二つが交わることはない、

 大地と空が神の審判の前に立つ最後のときまで,

  しかし、たがいに地の果てから来ようとも、二人の勇者が

向かうときには、 東もなく西もなく、国境もなく、民族や生まれ

          の違いもない!



以上は 東と西の相互理解の難しさを表わす言葉として よく 引用されます。
この詩は 英国のルディアード キップリング ( 1865 − 1936 )の 
The Ballad of East and West( 『東と西のバラード』1889年 )の中の詩
です。

21世紀に入り 国境と民族の違いは なくなっていないが 違いを 残したまま
西と東の対話は進んだ。 情報革命により 情報は 国境を越えて 交わされ
ている。

トルコのボスポラス海峡は 東と西が出会う場所というよりは 激突する戦いの
場所であった。 日本語と同じ ウラル アルタイ語族に属す トルコ語を話す 
トルコ人の中に モンゴルの血と西洋人の血が流れている。 政治的には 
1952年から 北大西洋条約機構(
 Nato )の加盟国であり 西側諸国
と友好関係にある。 イスラム諸国で キリスト教国の 西側のクラブに入った
唯一の国である。 

トルコは現在 
EU ( 欧州連合 ) への加盟を目指している。 ボスポラス
海峡にかかる第一 第二 ボスポラス橋は 西洋と東洋を 結ぶ かけはしと 
いえる。 

第二ボスポラス橋は 東洋の国である日本の政府援助、 技術で架けられた。




メリル・ヒサル(ローマの城)
と第二ボスポラス橋
左がヨーロッパ側、 右がアジア側




豊臣秀吉像







詰襟の陣羽織は 南蛮 ( スペイン、
ポルトガルの影響である。 ) 秀吉 家康は 西洋との通商
は望んだが キリスト教を拒絶し 日本は 200数十年
の鎖国に入る。



大阪城桜門を通る花嫁


豊国神社の社殿へ向かう
新郎 新婦

外国人に日本の神式結婚の一部を見せたい人は 土曜日か 日曜日
(大安の日がよい。 )に 大阪住吉大社、 京都の北野天満宮のような
大きな神社へお連れすれば 見れます。




大阪城には 毎日 内外から 多くの観光客がやってきます。しかし 城内の
豊国神社の境内は いつも ひっそりしています。 桜門の前にあり 目だつ
ところにあります。 大阪城に来られたら 重森三玲氏が渾身をこめて作庭
された 豊国神社の秀石庭へ 立ち寄られることを お勧めします。



豊国神社



日本の庭園




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観光庁 公認 スペイン語 英語  通訳案内士
佐々木博昭