京 都
  
祇園甲部( ぎおんこうぶ )祇園町南側
京都市東山区祇園町南側















八坂神社 

寛永年間(1614−1643) 八坂神社 ( 江戸時代までは 祇園社 )の西側、
八坂石段下ともいわれる 東大路と鴨川の間、四条通りに面して 知恩院、
八坂神社の参拝客のため 水茶屋の町ができた。 八坂神社は 江戸時代末
まで祇園社と呼ばれたので 門前の茶屋町をを祇園町といった。 

京都所司代岩倉重宗によって 茶立ち女を置くことが許可された。
やがて 芸の達者な茶立ち女が歌舞音曲で お客をもてなすようになった。 
茶立ち女は 職業として歌舞音曲でお客をもてなすようになった。江戸時代末期
には 祇園に 芸妓( げいこ)、 舞妓、 娼妓を合わせて1000人いたという。

このような場所を京都では花街(かがい)という。「はなまちのはは」という歌謡曲
が有名になったため 「はなまち」という人も 今では 多くなった。

京都には 祇園甲部、祇園東、上七軒(かみひちけん)、先斗町(ぽんとちょう)、
宮川町、島原の六花街がある。 そのうち 京都花街組合連合会に加盟する5
地区を五花街”ごかがい” ともよぶ。 祇園甲部の近くに 祇園東、先斗町、
宮川町がある。

お客をもてなす芸妓(げいこ) (東京では 芸者)、 舞妓(まいこ) (東京では
半玉、 または おしゃく という。 )、仕込みさんは 置屋 − おきや/屋形 
− やかたに所属し、そこで生活し、お母(かあ)はん、姉(ねえ)さん、と
一緒に住み  京都弁、 礼儀作法いろいろなことを学ぶ。 

仕込みはんは お母(かあ)はん、姉(ねえ)さん、の手伝い、 掃除、洗濯、芸事を
学ぶため 祇園女子技芸学校で 学ぶ。日曜日は 毎月 2回だけ休日である。
置屋は 仕込みさんの食事、 着物、稽古事の月謝など 多額の投資をしなければ
ならない。 

お茶屋に 芸妓、舞妓は 所属しない。 お客の要望により、置屋/屋形 −
やかた −に電話して彼女等を呼ぶ。 またお茶屋は 仕出し屋に電話して 
料理を持ってこさせる。すべて分業によって花街は 成り立っている。 お茶屋は
営業活動に専念できる。置屋は 舞妓の教育に専念できる。

もし お茶屋に舞妓、芸妓を置けば お茶屋は 当然 お客の好みにあわなくても
自分の店の妓を振り当てる。 また仕事のない時でも 給料を払わなければ
ならない。 タレントを派遣するプロダクションの役割を置屋はしているのである。

もし舞妓、芸妓(げいこ)になりたければ、置屋(屋形)にコンタクトして 女将さん
の面接を受けねばならない。 面接は 両親か保護者も同席しなければならない。

置屋の女将さん(お母ーかあ−はん)は 仕込みさんになりたい女の子と保護者
に 舞妓、芸妓になる前前の1ー2年の修行が いかにしんどいかを話す。

言葉は「京ことば」を学ぶ。 標準語でしゃべってはならない。 13歳から15歳なら 
義務教育を受けなければいけないので 仕込みはん、舞妓は弥栄(やさか)中学校に
通った。 この中学校は 平成23年より 小中学校の一貫教育の 京都市立開晴小
中学校
 になる。

坂女紅場学園の経営する 祇園女子技芸学校では京舞の他、茶道、三味線、鳴物
(笛と太鼓、鼓(つつみ)、長唄、 常磐津、地唄、 小唄、 清元、能楽、
華道、書道、書画などの科目も学べる。生徒は 15歳の仕込みさんから、 舞妓、
80歳過ぎの芸妓まで 幅が 広い。 芸事に終わりはないというが 卒業はない。

明治18年 ( 1881年 ) 京都府第三代知事北垣国道の命により 祇園甲部
より分離され 祇園乙部となった。 1955年頃から祇園乙部は祇園東と称される
ようになった。

2009年 現在、祇園甲部には お茶屋66軒、 芸妓87名、 舞妓32名 
計119名。 京都の五花街のなかでは 最大である。 また、西洋料理店、
バーもあるが、 祇園の景観は よく 保存されている。


同じく 2009年 現在 五花街のお茶屋数は 153軒、芸妓200名、舞妓
85名 計285名である。


祇園甲部( 祇園町南側) は 八坂女紅場学園( やさかにょこうばがくえん)
所有であるために乱開発は逃れ、歴史的風景特別修景地区に指定された。
八坂女紅場学園は 芸妓、舞妓を教育する 祇園女子技芸学校(ぎおんじょし
ぎげいがっこう)を経営している。

祇園甲部では 毎年 4月1日から4月30日まで 祇園甲部歌舞練場で
都おどりが 見れる。 敷居の高い祇園の芸妓、 舞妓の芸が 安価な
料金で見られる。

東京遷都で 疲弊した京都市の復興事業として 明治5年(1872年) 第一回
京都博覧会が 西本願寺、 建仁寺、知恩院を会場に行われた。そのイベントの
ひとつとして 第一回 都踊りが行われた。

大正2年 ( 1913年 )から 現在の歌舞練場で 都おどりは 行われる。
五花街は それぞれの歌舞練場で 芸を披露する。 祇園から 一キロ以内に
祇園甲部歌舞練場、 先斗町歌舞練場、 宮川町歌舞練場がある。 上七軒
歌舞練場は 北野天満宮の門前、 上京区今出川通七本松西入真盛町742 
にある。 祇園東は 自前の歌舞練場を持たない。秋に 祇園おどりを 祇園
会館
で 行っている。 祇園会館は 通常 世界の名画を上映している。

弥栄会館の一階のギオン・コーナーでは 芸妓、 舞妓)の京舞、 文楽、雅楽、
狂言、筝曲などの日本の伝統芸能の他、華道、茶道の実演が 見られる。

祇園は 五花街の中で もっとも格式の高い花街である。



祇園の京都市立開晴小中学校 

弥栄中学校は 2011年から 小中一貫校となり 京都市立開晴小中学校 となった。 
元は 弥栄小学校であった。 下京三十三番組の弥栄小学校は 明治2年(1969年)
に開校した。 初代校長は 一力の九代目当主であった。 その後弥栄中学校となった。

舞妓の志望者は 地方の出身者が多く、舞妓になる前の修行中の 13歳から15歳の
仕込みさんは この学校に通う。但し現在は 出身地出身地の中学を卒業してから 
仕込さんになる場合が多い。 




観光客と舞妓さん







露地の両脇には イタリア料理、フランス料理
バーなどがあるが 景観は保たれている








祇園甲部歌舞練場
京都市東山区祇園町南側祇園花見小路四条下る



八坂倶楽部
学校法人八坂女紅場(にょこうば)学園所有
1階は特等客向けの待合・点茶などに用いられ,2階は広大な132畳敷の
客席と舞台からなる広壮な舞台座敷としている。
イベントにも用いられている。


祇園甲部歌舞練場は 4月1日から4月30日まで 「都おどり」が 行われる。京都
の名所、歴史がテーマの踊りが披露される。




祇園甲部歌舞練場



弥栄会館 1階に祇園コーナーがある。




都おどり



都おどりの時 茶券付特等観覧券を買えば
芸妓さんがお茶をたて 舞妓さんが茶をだしてくれる



先斗町歌舞練場
祇園甲部歌舞練場から1キロ以内にある








先斗町歌舞練場

祇園甲部の 「都おどり」が四月に終わってから 5月1日から24日まで 先斗町
歌舞練場で 「鴨川おどり」がおこなわれる。 「鴨川をどり」も歴史が 古く 
「都おどり」と同時に 東京遷都後、 明治5年(1872年)に始まった。





先斗町 舞妓



先斗町 舞妓



先斗町 舞妓



先斗町



鴨川踊りのポスター



先斗町



鴨川に沿う納涼床



先斗町




南座 (京都四条南座)



京都南座



南座内部

11月30日から12月26日まで 京都南座(京都四条南座 )で 顔見世興行が
おこなわれる。顔見世興行は 東西の最高の歌舞伎役者が演じる一年で歌舞伎
界最高の興行である。これは 東京では 見られない。

平成22年度(2010年)は、 市川海老蔵が 不祥事のため 出演できなくなった。

京都四条南座は 元和(げんな)年間(1615−1624)から続く 日本最古の劇場
である。 現在の桃山風の建物は 昭和4年 ( 1929年)改築された。 平成3年
(1991年) 改修工事を行った。 外観を残しつつ 近代設備を設置した。登録
文化財である。

顔見世興行の期間中五日間の間に 京都五花街の舞妓、 芸妓は 模範的芸を
見るため、 京都四条南座で 観劇する。 舞妓の12月の髪飾りは 「まねき」の
ミニアチュア(紙製)に ひいきの歌舞伎役者の名前の書いたものをつける。 
楽屋へ行って ひいきの役者に名前を書いてもらう。

江戸時代 四条河原には7つの芝居小屋があったが 火事で幾たびか焼け
再建されぬまま 廃れていった。 明治時代には 南座の向かいに北座があった
が 明治25年(1892年) 四条通拡張の際、取り壊され 南座が 京都で唯一の
歌舞伎座である。

京都で東西の名優が 顔見世をするのは 京都が歌舞伎発祥の地であるから
だろう。 歌舞伎は 出雲から京都に出てきた出雲阿国が京都で始めた。
四条大橋の近くの鴨川の東側に出雲阿国の銅像が立っている。



出雲阿国像 (京都四条大橋)

出雲阿国は 出雲大社の巫女であったという。 また川原者であったというが 定か
ではない。 慶長8年(1603年) 北野天満宮で興行を行い、評判となった。男装
をして 当時流行った歌にあわせて かぶき者のしぐさをとりいれた。

かぶき者とは かぶく者、傾く者の意味で 常軌を逸した服装、行動をする者を
いった。 阿国の人気がでてくると模倣する者が 出てきた。 遊女が演じる遊女
歌舞伎(おんなかぶき )、 少年が演じる若衆歌舞伎などがあったが、風紀が
乱れるという理由で 1652年 幕府は 禁止した。 若衆歌舞伎の中には 男娼
もいたから幕府は 禁止したのである。

その後、 男優が女性の役も演じる野郎歌舞伎となった。

近松門左衛門のような劇作家が 多くの作品を書き 京、大阪で歌舞伎は
栄えた。 その後、 文化、文政時代には 江戸で栄えた。

第二次世界大戦後、 GHQは 「仇討ち物」や「身分社会を肯定する」の演目の
歌舞伎上演に制限を加えたが その後 解除した。1960年 − 1970年 歌舞伎
は 全盛期を迎えた。

現在東西とも盛んである。 平成17年(2005年) ユネスコの無形文化財に指定
された。




近松門左衛門
( 1653 - 1725 )



役者の名前を書いた南座の ”まねき”



舞妓の髪飾り 
歌舞伎役者の名前が書かれた 「まねき」が
二つ



舞妓さんは 髪かざりを 一年12ヶ月と 正月 計13 ヶ 毎月替える
11月は もみじの花かんざし。舞妓さんの髪は 自毛

芸妓の髪は かつらであるが 舞妓の髪は 自毛である。 かんざしは 一年12ヶ月
と正月用の計 13ヶ 換える。
 11月は もみじの花かんざし。12月は まねきの
形をした髪に贔屓の歌舞伎役者に名前を書いてもらう。





「都おどり」でお茶をたてる祇園甲部の芸妓( げいこ)
髪型は 京風島田
現在では 都おどり、 鴨川おどりのお茶席で
芸妓がお茶をたてる時のみ特別に
結われる。

年配の女性のフォーマル着物でもある
留袖。 帯より上は 黒一色であるが 色留袖というのもある。 
裾もとは模様がある。 髪はかつら。留袖は家紋が入っている。
舞妓は袖の長い 振袖。



留袖



先笄( さっこう、 さきこうがい )
 舞妓から芸妓になる前の舞妓最後の髪型



舞妓に変身した観光客 歩き方で 本当の
舞妓でないことがすぐわかる

一見さんお断り



創業300年 一力亭 

京都では 数百万円の金を懐に入れて豪遊しようと思っても 「一見さん お断り」
のしきたりに阻まれる。 特に 祇園のような格式が高い花街では なおさらである。

京都の花街のしきたりは 複雑で 外部の人間は うかがうことが困難である。
「一見さん お断り」のしきたりは 信用できる人のみを入れて 他の常連客に
迷惑をかけないためである。 お茶屋に行ったことがない人が お茶屋に行くには
常連客の人と一緒に行くか 紹介の連絡を女将にしてもらうかである。

もし 紹介した人が お茶屋で問題を起せば 紹介した人が 全責任を持つ。
女将と客の信頼関係で成り立っているので 金は 持って行かなくても よい。
タクシーも お茶屋が立替 支払ってくれる。 費用は 後程 請求書が 送られて
くる。

 京都の花街では 同じ花街の中で はしご酒はするべきでは ない。 はしご酒
は 一軒の店で満足しないことを意味し お茶屋に満足してないことを意味するから
である。

お茶屋だけではなく 少数の高級料亭, 高級ナイト・クラブでも 一見さんを断わる
店がかなりある。 

「すんまへんな。 あいにく 予約が 入ってまして 開いてる部屋が おまへん。」
とやんわり 断わるのが 京都流。 額面通り 言ったことを真に受けるのは 野暮
である。

お茶屋は 仕出し屋から料理を持ってこさせるが 料亭は 通常 料理人を置いて
いる。 舞妓、 芸妓(芸者)を座敷に呼ぶことができる。 かなり大きな日本庭園
がある。 東京では 政治家の密談に使われることが 多い。 料亭で 耳に入った
情報は 外部に漏らしていけない。 また 什器類は 文化財といえる高価なもの
を使用している。 

近頃は、料亭という名に値しない料理店が宣伝のため 「 料亭 」と名乗って
いるところも多い。 また 戦後の社会情勢の変化により 一見さんも 利用できる
店もあるが、 値段の方は 敷居が高い。

旅行代理店にすれば 「お座敷遊び体験ツアー」をしたいことだと思うが それを
すれば 花街は 雑居ビル街に変わってしまうだろう。 観光客用としては ラウンジ
で 舞妓と話をする店は 限定的にある。 京都の花街は 商業主義に抵抗
して 生き延びてきたのである。












美濃吉(みのきち) 粟田口本店
 竹茂楼


一見さんも入れるよう




おおきに財団 京都伝統伎芸振興財団

都おどり  

祇園ラウンジ ほのか

京懐石 美濃吉本店 「  竹茂楼」 

臨済宗建仁寺派大本山建仁寺 



祇園白川 (祇園東 )  

大銀杏とアルゼンチン力士




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公認 スペイン語 英語 通訳案内士 大阪 佐々木博昭