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口 縄 坂
Kuchinawa-zaka slope road



口 縄 坂
Kuchinawa-zaka slope road


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口 縄 坂
くちなわとは 大阪の古語
で 蛇の意味でした。
Quiet Kuchinawa-zaka slope path
Kuchi nawa ( mouth rope ) meant
"snake" in an archaic Osakan
dialect.



満松山 吉祥寺
大阪市天王寺区六万体町
Kisshôji Temple
Tennôji-ku, Osaka




                        口 縄 坂

このホームページの5枚の 口縄坂の写真には
人の子 ひとりとして 写っていません。 しかし
口縄坂は 大阪の重要な二本の幹線道路をつな
いでいる。

口縄坂は 上町台地の上にある谷町筋と台地
の下にある 松屋町筋( まっちゃまち )を
結ぶ坂道で市の中心部にあります。 大阪では 
人も車も南北の移動は 活発ですが 東西の
移動は 道が発達しておらず 交通量も 少なく
移動が不便である。

南北に走る道路は ”筋ーすじ ” といい東西に
走る道路は ” 通りーとおり ”という。 江戸
時代には東西の道路は 今よりも重要であった。

松屋町筋を含め そこから 西の筋は 古代には 
海であった。


 Kuchinawa-zaka slope road
In the 5 photos of  Kuchinawa-zaka
sloped road, not a soul appears. This is
a quiet place in the Center of Osaka,
but unbelievably this short lane of about
300 meters long connects the two
important avenues of much traffic,
Tanimachi-suji Avenue on the Uemachi-
daichi Plateau and the Macchamachi-suji
Avenue beneath the Plateau.

In ancient times, the Macchamachi-suji 
Avenue and the avenues west of it were
under the waters of Osaka Bay.
                  満松山 吉祥寺
                   義士討ち入りの像

写真の中に徳利から酒をついでいる武士は
赤垣源蔵です。多くの日本人は これを 見て
” 赤垣源蔵徳利の別れ” の話を 思い出す。


赤垣源蔵( あかがき げんぞう ) というのは
実名ではないが 歌舞伎、映画、テレビ ドラマ、
講談などで この名は広く 日本人に親しまれて
いる。


Stone Statues of 47 loyal samurai of
Ako in Kisshôji temple in Tennôji-ku,
Osaka.


One of the samurai was pouring sake into
a "sakazuki ".

This sculpture will remind many Japanese
of a touching story of  " the farewell drinking
of Akagaki Genzo. "  

He is popularly known as Akageki Genzo
in the Kabuki theather, the movie, and
T.V. dramas. Many Japanese people do not
know his real name.

I will write about the story more in detail later




満松山 吉祥寺
赤穂四十七義士顕彰碑


口縄坂 織田作之助 
文学碑

口縄坂は 寒々と木が枯れて
白い風が走っていた。

   私は石段を降りて行きながら
 もうこの坂を登り降りすること
 も当分あるまいと思った。 

 青春の回想の甘きは終わり 新しい
 現実が私に向き直って来た様に
 思われた。

 風は 木の梢にはげしく 突っ掛っていた。

  織田作之助 「 木の都 」 より 


Monument with the excerpts of the
novel " City of the woods " written
by Osaka born writer Oda Sakunosuke


The white wind was running cold through
the Kuchinawa slope lane with the
dead leaves.


Going down a staircase of the lane,
I thought that probably I will no came back
here in a short time to walk up and down
the slope.


T
he sweet reminiscences of my youth was
over, and the new reality began to face me.


The wind was running swiftly,beating
violently the branches of the trees.




旧跡 駒ヶ池
往古 ここには 池があったといわれている。
聖徳太子は 586年廃仏派の物部守屋
との戦いの際 駒をとめて
ここで 馬の足を洗ったという伝説にちなみ
駒ヶ池と 名づけられていた。


Site of Komaga-ike Pond ( Horse pond )

In ancient times, there was a pond called
Komaga-ike Pond ( horse pond )here. Prince
Shotoku fought against the the clan of
Mononobe no Moriya in the battle to defend
Buddhism in 586. He stopped here to hav
e
a rest and washed the feet of his horse.






満松山 吉祥寺 ( 大阪市天王寺区
六万体町 )
中央に浅野内匠頭長矩の墓
右に大石内蔵助良雄( よしたか ) の墓
右に内蔵助の長男 大石主税( ちから )良金
の墓 その他 義士の墓

Kisshôji Temple, Tennoji-ku, Osaka.

In the center, the tomb stone of Lord
Asano of Ako, on the right side, the tomb
stone of the chief minister of
Ako domain - Oishi Kuranosuke,
on the left side, the tomb stone of his
eldest son Oishi Chikara, who was
the youngest - 16 years old who comitted
Harakiri, y other tumb stones
for other loyal samurai.

江戸幕府の庶民への義士信仰への制圧にも
かかわらず人々の心は 益々 それに引かれ
ていった。

討ち入り後、四十七年目に上演された仮名
手本忠臣蔵の浮世絵によって巧みに表現され
ていくことになった。

義士討ち入り 後 百五十年祭には 当寺
では絵ハガキで配布した有名な木彫を建立した
が 惜しくも戦災により 本堂遺品共々焼失した。

平成十四年義士討ち入り三百年祭に当たり巧み
な石工により その時代の絵巻物の中に義士
それぞれが再現されたものであり、その緻密さと
労苦には頭の下がる思いがする。

いつの時代にも物質を超越した義士の至誠
報恩のゆかしい精神はこの討ち入り姿の石彫り
で永久に伝承されるであろう。

  平成十四年12月14日

    大阪義士会


The dedicatory words inscribed in the stone
monument to 47 loyal samurai of Ako


The Tokugawa Shogunate government
suppressed the public expression of
admiration of the 47 loyal samurai, but
people continued to admire them at heart.


47 years after their treason against the
shogunate, a Kabuki play " Chûshingura "
was staged, cleverly using pseudonyms for
the samurai's names in order to evade the
censorship of the Tokugawa government.
Many wood block pictures ( Ukiyo-e ) of the
47 loyal samurai in the play were sold.

On the 150th anniversary of the attack of
the 47 loyal samurai of Ako at the Palace of
lord Kira, the Temple made their wooden
sculptures which in later years, were printed
in illustrated postage cards, and were
distributed to many people.

Those wooden sculpures together with the
main hall of the temple, with the heritages
related to the loyal samurai and all, were
burned down regrtettably by bombings in
1945.


On the year 14th of Heisei ( 2002 ), on
the occassion of the 300th annivesary
of the loyal deeds of them, the 47 sculptures
of the loyal samurai of Ako were made
of stone.

We are deeply impressed with their fine
works of the stone sculptors, and can not
help feelng a deep gratitude towards the
artists who did the best possible efforts in
reproducing a scroll painting of the acts of
self sacrifice of the 47 loyal samurai.

We beleive that their noble spirits of
sincerity and gratitude, faithfullness to ones
duties, expressed in these images, will be
handed down from generation to generation,
for ever.

On December 14th, 2002
The Association of the Admirers of
the Loyal Samurai in Osaka.



満松山 吉祥寺
義士討ち入りの像
(日差の強い8月の午後1時頃 撮影した。
目もくらむばかり 太陽が反射した。
”写るんです”で撮影したため 
絞りで光線を調節できず 光線が乱反射し
うまく撮影できなかった。)


Stone sculptures of 47 loyal samurai of Ako





  
吉祥寺と赤穂四十七士
寺坂吉右衛門信行

赤穂四十六義士の墓が 東京の泉岳寺(せんがくじ )にあることは 衆知( しゅうち)の事実で
ある。どうして 大阪にもあるのか 疑問に思われても 無理はない。 それには あまり 知られて
いない事実があった。

吉良邸を襲撃し 本懐 ( ほんかい ) をとげた 赤穂四十七士のうち 四十六士は 幕府の
評定 ( ひょうじょう ) 待ちの間 数藩の屋敷にわかれて お預けとなる。 しかし 一人だけ 
泉岳寺へ行く途中いなくなった者がいる。 それが 寺坂吉右衛門である。 寺坂吉右衛門は 
吉良邸討ち入りの直前に逃げて 参加しなかったという説もある。 しかし 大石内蔵助の命令に
より 大事決行の後 姿を消したという説が有力である。それぞれ 真しやかな説もある。そもそも
仮名手本忠臣蔵が 書かれ 初演されたのが 事件後 47年たった寛延元年1748年であった。
47年のうちに うわさが 伝説を 生んだのは まちがいない。 寺坂吉右衛門のものと伝えられて
いる墓は 東京南麻布、五島列島( 久賀島 − ひさかじま )、出水、八女、益田、伊豆、仙台
と七ヶ所もあり、それぞれ 納得いくような 真しやかな伝説がある。

一般には 南麻布の曹渓寺に身を寄せ この寺で1747年 83才で亡くなり この寺にある寺坂
吉右衛門の墓が 彼の本当の 墓だと信じられてれている。 しかしながら 南は九州の五島列島
の久賀島 ( ひさかじま ), 北は仙台まで 寺坂吉右衛門の墓と伝えられている石碑が七ヶ所
もある。

寺坂吉右衛門は 吉良邸突入の際は 大石内蔵助を大将とし 小野寺十内秀和を副将とする
表門組24名の中で 伝令を勤めた。 見事 本懐をとげた後 泉岳寺に向かう一行から離れるよう
大石内蔵助から命じられる。 彼には 重要な任務が与えられる。 広島の浅野本家にお預けに
なっている内匠頭長矩(たくみのかみながのり)の弟 浅野大学長広( あさのだいがく ながひろ)、
内蔵助の奥方瑶泉院( ようせんいん )、その他の義士の遺族に討ち入りの仔細( しさい)を伝え
遺族の生活の相談にのることであった。 赤穂浪士の多くは出身地は赤穂ではない。 赤穂浅野
家 断絶後は 遺族は 全国に散らばるのは目に見えていた。浅野家は広島の浅野家の分家で
あったが 少数の家来を引き連れ 赤穂にきた。多くは 内匠頭( たくのかみ )の祖父の長直
( ながなお )が 採用した者であるが 出身地は 全国にまたがっていた。 
 
 吉右衛門は仏門に入り理海坊と名のり全国を巡ったのは 義士の遺族が 赤穂だけではなく
全国に散らばっていたからである。 赤穂義士はすべて 赤穂生まれで 代々 浅野家の恩顧
( おんこ )を受けたので 主君に恩義(おんぎ)を 感じ 忠義(ちゅうぎ)をまっとうしたと思われ
るかも 知れないが それは まちがった 先入観で 譜代の家来は少なく 中途採用で浅野家の
家臣となったものが 多かった。 赤穂義士の中で最年長者は 74歳であった堀部弥兵衛金丸
( ほりべやへい あきざね )であったが 弥兵衛は 肥前島原松平家の家臣であった。 弥兵衛
は 当然 隠居の身であったが 養子の安兵衛は200石の禄であったから 寺坂吉右衛門の主人
である吉田忠左衛門と同格であった。吉田忠左衛門は 浅野家代々の家臣の家に生まれ 学識
もあった。 原惣右衛門 ( はら そうえもん )は 奥州 花沢の出身であったが 赤穂藩では
出世して 300石の禄であった。 当時 浪人の再就職は 極めて難しかったが 不可能ではなく
現在の大企業のように 家臣の出身地は 全国にまたがっていた。 

日本では 江戸時代から 韓国 中国のように地域閥というものはなかった。 学閥はあるが 特定
の地域の出身者が差別されることはない。

元禄15年(1702) 12月14日 の吉良邸討ち入りの翌 元禄16年(1703)年 大石内蔵助良雄
( おおいしくらのすけよしたかー 註 : ”良雄 ” は 一般には ” よしお ”と呼ばれているが 
” よしたか ” が 正しい読み方である。)を含む46名は 切腹する。軽輩故 切腹を免れた寺坂
吉右衛門は 仏門に入り 諸国の義士の遺族を訪ねた。 

ある日 浅野家の大阪の菩提寺(ぼだいじ)である吉祥寺( きっしょうじ )を訪れ 46義士の遺髪
遺爪( いそう )に銀10両をそえ義士の冥福( めいふく)を祈り 石碑を建ててくれるよう吉祥寺の
住職に依頼した。 江戸の泉岳寺では 義士義士崇拝は 幕政に対する批判になりかねないので 
幕府は目を光らしていた。 大阪なら幕府に気兼ねなしに仏事 法要ができると考えたに違いない。
これは おそらく 大石内蔵助の遺言であったと思われる。 泉岳寺に行く前に姿をくらました者が
どうして 四十六士の遺品 遺髪を持っていたかを考えれば 寺坂吉右衛門が 逃げて 姿をくら
ましたのでは ないことは 明白である。 

その後 大事決行後 一年たち 大目付に自首したが、 吉右衛門は軽輩でもありすでに 四十
六士の刑の執行も終わっていたので 厄介な 再審をしたくないこともあり おかまいなしの無罪
放免( むざいほうめん ) となった。 自首してでたということは 吉良邸 討ち入りに参加した
ことを認めることである。 大事決行前に 怖気(おじけ)づき 姿をくらましたという説はこれで
根拠をうしなう。 主人の吉田忠左衛門が ” 吉右衛門は 臆病者( おくびょうもの)である。 ”
といったのが 本当だとすれば それは吉右衛門に罪が及ばないようにわざとデマを 流したに
違いない。

武士は二君に仕えずというが 二君どころか 三君に仕えたものもいる。 アメリカのように 大統領
が代われば 主要スタッフをすべて 総入れ替えというのは 我が国では 考えられない。最近 
道路公団の総裁の首を すえかえようということになり 国土交通大臣がやめさせようとした時も 
やめさせられるのは 不法であると 総裁は ごねた。日本では 免職というのは なかなかでき
ない文化的風土がある。私事になるが筆者の長女は 高収益 高成長のアメリカの企業に務めて
いるが 10年の内にかなり大量の解雇が数回あった。日本では 赤字でもないのに 収益減で
社員を解雇すのは考えられない。 

吉右衛門も 無罪と幕府に認められた後元主人であった吉田忠左衛門の女婿の姫路藩士 伊藤
十郎太夫のもとで 下男として 12年働きその後江戸に出て 山内主膳豊清家に30数年仕えた。
『 武士は渡り者 』 という言葉さえあった。

吉祥寺は 道元禅師を開祖とする曹洞宗(禅宗)の寺で 寛永7年( 1630年 ) 創建と伝えられ
ている。 吉祥寺は 浅野家の大阪の祈願所であり赤穂藩主浅野長矩侯 (あさのながのりこう)は
参勤交代( さんきんこうたい )の途中 必ず 立ち寄りよって寺の護持(ごじ)に 気をくばった。 
当時の住職縦鎌( じゅうけん ) 和尚(おしょう)は赤穂の出身であった。 

九州五島列島の久賀島 ( ひさかじま ) に残る伝説に拠(よ)れば この島の恵剣寺( えけん
じ)という寺にある碑面のはっきりしない御影石(みかげいし)の墓石が寺坂吉右衛門の墓であり
兜塚( かぶとづか )と 呼ばれているは 吉右衛門の武具(ぶぐ)を 埋めた塚だといわれて
いる。僧侶となった吉右衛門は 死の直前 自分が 赤穂の浪士であり 大石内蔵助の命により
生きながらえたことを 告白したといわれている。

ちなみに 久賀島 ( ひさかじま ) は キリシタン殉教の島である。 手元に 「 方丈( ほう
じょう )の 記 」 という本がある。 これは カトリックの神父 宮本勝美師が司祭を引退されて 
85歳の時に書かれた本である。 「 方丈の記 」 というのは 鴨長明( かものちょうめい ) が
鎌倉時代に書いた随筆集である 「 方丈記 」 より 採ったものである。 師の御出身地は
五島列島の久賀島( ひさかじま )である。 鴨長明( かものちょうめい )の 「 方丈記 」は 
仏教思想の色が濃い随想であるが 宮本師は 偏狭 ( へんきょう ) な カトリック信者では
なく仏教、神道も研究され天皇家にも 敬意を 払っておられる。 この本の表紙は どういうわけ
か 仏教の象徴である 蓮の写真である。

東大阪市の知人宅の畑の 「原始ハス 」 と書かれてある。 宮本神父師は 主として大阪の
教会で 布教をされて こられた。 私の住んでいる近くの城東区関目教会を皮切りに玉造、
福島、 北浜、大阪田辺、 枚岡 ( ひらおか )、浜寺で 司祭を務められた。兵役にも就か
れたことがある。残念ながら 「 方丈の記 」 は 2003年12月25日に発行されたが カトリック
信徒向けに書かれたようで非売品である。筆者は 玉造、 浜寺、北浜について書いたが 現在
住んでいる関目についても いずれ書く予定である。
 
九州五島列島よりはるか 離れたみちのく 仙台にも 寺坂吉右衛門の墓と伝わっている
のがある。 地元の伝説によれば 諸国を巡り歩いた末 寺坂吉右衛門は この地にとどまり
手習いの師匠として 余生を過ごした。 討ち入り後 40年たった 寛保二年( 1742年)
亡くなった。 

子供47義士
47 little loyal samurai

天王寺区役所
区民企画室 掲載御許可
遺品を整理して はじめて手習いの師匠が吉右衛門であることが
わかった。元教え子180人が ねんごろに葬儀を 行った。 

これが 仙台市教育委員会公認の 史実である。墓石の側に
仙台市教育委員会の説明板がある。 

教育委員会の お墨付きがあるから あながち でたらめでっち
あげと きめつけることはできない。 この墓は仙台市泉区市
名坂( いちなざか )の実相寺にある。

大阪にある吉祥寺は 先の大戦により 灰塵( はいじん )に 
帰したが義士の墓は 戦災を免れた。

昭和28年、講和条約の締結の年に 『 青少年の心に火を灯(とも)す運動 』 の一環として大阪義士会が結成され 戦中 戦後 途絶えていた 義士祭りが復活した。 毎年 12月14日の討ち入りの日に 午前9時より墓前法要、山伏の護摩焚き、奉納琵琶( ほうのうびわ)、奉納剣道試合などが 行われ午後から子供 四十七義士時代行列が寺を出発する


  赤穂義士 討ち入り 時代背景 − 元禄時代 

元禄15年( 1702年 ) 大石内蔵助良雄 ( おおいし くらのすけ よしたか )他 46名の
赤穂浪士が本所(ほんじょ) 吉良邸に 討ち入り 首級(しゅきゅう)をあげた。 徳川家康が
1603年江戸開府して すでに約100年、大阪夏の陣の戦い( 1615年 )後 87年たち 江戸
市民は 太平の世を謳歌(おうか)していた。

大阪では 作家 井原西鶴、劇作家近松門左衛門が 活躍し 文楽 歌舞伎が 栄えた。 江戸
では 松尾芭蕉、尾形光琳(おがたこうりん)、菱川師宣(ひしかわもろのぶ)などの画家が 活躍
する。町人の文化は栄え 商工業が発展する一方、 幕府の財政は 悪化していた。五代将軍
綱吉 ( つなよし )は寺社造営に多額の金をついやした。質を落とした元禄貨幣を大量に発行
したため インフレが進行した。

綱吉( つなよし ) は 徳川三代将軍家光の第四子として 側室( そくしつ ) 於国( おくに)
( 後に桂昌院 ) と家光の間に 天保(てんぽう)三年( 1646年)に生まれた。 於国は 京都
の八百屋の娘で お玉といった。 庶民の娘のお玉が 将軍の側室となったことから 裕福でない
庶民の家の娘が 金持とか 上流階級に 嫁ぐことを 『 玉の輿( たまのこし) に乗る 』 と 
いうようになった。玉というのは 宝石とか すばらしいという意味ではなく 八百屋の娘の名で
あった。 綱吉は 徳川五代将軍綱吉( つなよし )は 学問を奨励(しょうれい)した。儒学を
奨励し湯島聖堂 ( ゆしま せいどう ) を建てた。

綱吉は 上野国( こうずけのくに )館林藩( たてばやしはん ) 25万国の領主であったが
兄である徳川四代将軍家綱( いえつな ) が 亡くなったので 五代将軍を継ぐことになった。 
息子徳松を館林藩主にしたが二歳で亡くなり その後 世継ぎが 生まれなかった。 綱吉は母
桂昌院に影響され 信心深かったが 世継ぎが生まれなったのは は 前世で 動物を を虐待
したからだと考え 極端な動物愛護政策をとった。 動物愛護のために使った予算は 莫大なもの
であった。

野良犬10万頭を収容する犬小屋には 20万両をついやした。 野良犬が 増えたのは 犬が
怪我をすると罰せられたので 市民が犬を捨てたからである。 江戸市民は 彼に 『 犬公方 −
いぬ くぼう 』 というニックネームをつけた。 次々 発令される 『 生類憐れみの令 』 は狂気
じみたものであった。 しじみを食べてもいけないという法令まで だしたが 漁師と世論の反対に
より2ヶ月で廃止となった。動物虐待の最高刑は 死刑であった。

他方 幕府の綱紀( こうき ) の粛清( しゅくせい )に 努め、 悪代官を摘発し 罷免( り
めん )した。悪政をとった大名は 処罰した。 

綱吉は文治政策をとり 武士は 弓馬の道をわすれていた。赤穂義士の吉良邸は 太平の世に
なれた江戸市民を 驚かした大事件であった。


                     赤穂47義士 討ち入りの真相               

元禄14年3月14日 ( 1701 年 )赤穂藩主浅野内匠頭長矩 ( あこうはんしゅ あさのたくみ
のかみながのり )は江戸城内 松の廊下にて 吉良上野介義央 (きらこうずけのすけよしひさ )
の数々の愚弄( ぐろう )に耐えかね 刃傷( にんじょう ) に 及ぶ。 浅野内匠頭は 即日
切腹、吉良上野介はお咎(とが)めなしであった。 辞世の句は :

      ” 風さそう 花よりもなお 我は また 春の名残りをいかにとかせん ” であった。

当時 大名の喧嘩(けんか)は 喧嘩両成敗( けんか りょうせいばい ) が 幕府の定め
であった。吉良上野介がお咎( とが )めなしであったのは 喧嘩では なく 浅野内匠頭
の一方的な刃傷と見なされたわけである。赤穂藩は お取り潰しとなった。 同年4月19日 
赤穂城は明け渡される。 

藩主の弟 浅野大学長広 ( あさの だいがく ながひろ ) の家督相続 ( かとく そう
ぞく )による お家再興に 希望を託すが 大学長広は広島の浅野本家に お預けとなる。
元禄15年(1702年) 7月 お家再興の夢たたれ 京都 丸山にて会議を開き 吉良邸討ち
入りの最終決定をする。 大事 決行までの5ヶ月間 吉良邸の情報収集を 念入りに 行う。 

元禄15年( 1702年 ) 12月14日 深夜 吉良邸に討ち入り 吉良上野介の首級
をあげる。 その後主君の墓のある泉岳寺に 向かい 吉良上野介の首級( しゅきゅう )を
内匠頭の墓前にささげ 仇討ちの成功を報告する。 

その後46義士は 熊本藩細川家、 松山藩松平、 長府藩毛利、 岡崎藩水野家に
分かれてお預けとなり、幕府の評定(ひょうじょう)を待つ。 翌 元禄16年( 1703年 )
2月4日 切腹の刑が執行される。 浅野内匠頭の切腹は 即日 判決 刑執行であったが、 
46人の評定には刑執行まで 約50日かかっている。 幕閣は この評定に 頭を 悩ました。

主君に忠義を尽くしたのは あっぱれだという意見の幕閣のメンバーも 無罪にすれば 義士
の面目が たたない。やはり 彼らにとって栄誉である 切腹の刑にすべきだと考えた。 また
幕府の法律通り 厳正に 裁かなければ 幕府の威信は失墜し 世のみだれともなると主張
する 者もいた。結局 全員切腹の刑となった。 将軍綱吉は 46義士に同情し 切腹の刑
には反対のようであったが、将軍たりとも 法律は守らなければならないという考えが 幕府に
定着していた。

この当時 日本は 世界唯一の法治国家であったようだ。 独裁は 許されなかった。
現在の日本は 明らかに 独裁国家ではない。 しかし、 江戸時代以上に 法治国家で
あろうか。 ? 江戸時代の法律が 正しかったがどうかは 別にして 『 すべて 御法
通り 』 『 それでは 御政道 が なりたちませぬ 』 と いう 順法精神が 現在 国民の
間に浸透しているであろうか ?

『 法律などというものは その時代の要請で 解釈が 変わるのは 当然である 』 という
国会議員もいる。 法律が 時代のニーズに合わなければ 変えればよい。 どうでも 解釈
できるような 法律など 作らない方が ましである。

 浅野内匠頭 刃傷のいきさつ

赤穂藩主浅野内匠頭は 江戸城 松の廊下にて 吉良上野介義央に 斬りかかった時 『 この
間の遺恨( いこん ) 覚えたるか 』 と叫んだといわれる。 浅野内匠頭が 具体的にどのような
仕打ちを吉良上野介に受けたのか 詳しくは わからない。 しかし 当日は 勅使( ちょくし )
が将軍に 別れを告げ将軍は勅使に江戸城訪問のお礼の儀式が 行われる日であった。 吉良
上野介の勅使饗応( きょうおう)の指導が適切でなかったにしても 特に お咎(とが)めを受ける
粗相( そそう )もなく天皇からの使者への饗応は最終日を迎えたわけである。この日に また
よりによって江戸城松の廊下で 刃傷に及ぶというのは切れやすい体質であったと考えられる。
しかし 当時の 考えでは 、「君、君たらずとも、 臣、臣たれ」という考えがあった。 主君が主君
らしくなくとも 臣下は 臣下らしく 君主に忠実に仕えなさいということであった。

また 慣れない勅使饗応( ちょくし きょうおう ) に神経をすり減らし ストレスが たまっていたと
考えられる。 吉良上野介は高家筆頭( こうけ ひっとう )の家柄であった。 高家筆頭という言葉
から 名門有力大名と誤解されがちであるが 室町時代から 続く 名門では あったが 大名では
なく 旗本であった。

芝居では上野介が 浅野内匠頭を 田舎大名とののしるが 将軍と江戸常住の御三家の水戸藩と
その支藩を除けば 大名は すべて田舎大名である。 また 参勤交代があるので 江戸の文化に
すべての大名はなじんでいたはずである。

京都 大阪は 幕府の天領(てんりょう)で 大名は いなかった。 浅野内匠頭は 53,000石
の赤穂藩の藩主であった。大大名では ないにしろ 中堅クラスの大名である。 士分の者だけ
でも 306名いたといわれている。 表向きの石高の他に製塩業の収入があり 豊かな藩であった
はずで 勅使饗応(ちょくし きょうおう )の費用を出し渋らなくても よかったと思われる。 

これに対して 吉良上野介は 矢作古川( やはぎふるかわ )の 河口地帯の 三河の国吉良
荘に領地を持ち 石高は 4,200 石であった。 その上 高家筆頭の役職にたいして役高
2,000石を幕府よりもらっていた。 石高 4,200 石というのは 領主の純利益ではない。過酷
な年貢(ねんぐ)取立てをしても六公四民が 限界である。 収穫の約半分は領民がとる。残りを 
家来に分配すると 藩と藩主にはあまり 残らない。 しかし 役高2,000石の特別手当は丸もうけ
である。芝居では 吉良上野介がひつこくワイロを要求することになっているが ワイロなどもらわ
ずとも 高家筆頭の対面を充分維持できた。儀礼以上の金品を本当に要求したのかどうかは
はっきりわからない。

高家とは 儀典 ( ぎてん ) をつかさどる家柄である。 高家筆頭とは 儀典長の家柄という
ことである。高家筆頭でさえ 4,200 石であるから 他の高家は 中堅の上クラスの旗本で 
あったが 役高は 1500石以上で 室町時代から続く 織田、上杉、武田、畠山、 吉良等
の名家が なった。

天皇の使者を迎える 儀典は 昔からのしきたりを熟知する必要があり 高度の知識を必要と
する専門職で あった。 しかし いいかえれば 司会者 イベント屋に 過ぎず 重要な国政を
になう要職とはいいがたかった。

今も昔も 失業者というのは 惨(みじ)めなものである。 お家お取り潰しというのは 元禄の赤穂
藩 お取り潰しの以前にも よくあった。 浪人と言う名の元国家公務員 元地方公務員は たく
さんいた。 再就職は 非常に 難しかった。 徳川幕府は 三河以来の譜代大名  旗本に 絶大
なる信頼をおき 主に江戸の周辺に封土を与えた。 しかし再就職した武士の方が より 一層
主君に忠義を感じるということもある。

再就職できれば 主君への恩義は譜代の家来に 劣らない。 また 不始末を犯して 藩から
逃げ出し 他藩に 再就職というのも 寛文年間( 1660 − 1670) 頃まではよくあった。
逃げ出した元の藩から 身柄を引き渡せと要求があってあっても 守り通すのが 大名の面目
であった。 他藩で 処刑されたかも 知れない者が 守ってくれた主君に 恩義を感じるの
は 当然である。

藩主が無能、愚鈍 不始末で 罷免(ひめん)されても 必ずしも お家 お取り潰しとはならな
かった。 伊達藩第三代藩主 綱宗は 酒色におぼれ 罷免された。 その子供である亀千代は 
わずか2歳であった。 二歳で藩政をおこなうのは 不可能であったが 藩主の親族が 後見を
するということで 伊達藩お取り潰しは 免れた。 藩主に嫡子(ちゃくし)がなくても 養子をとり
お家を存続することができた。 しかし 「末期養子の禁」といういう法律があった。 これは 藩主
が亡くなってから 養子の届けを幕府にだしても 認めないというものであった。 五代将軍の
綱吉の頃は お家取り壊しにより 浪人が 増え これが 社会不安の本となっていた。 幕府は
1683年の天和令により 『 武家御法度の法 』 を 改定し 藩主 旗本の当主が 没した後の
養子の届出による お家 存続も 吟味の上 許されることとなった。 この法改定により浪人が
増えるのを防ごうした。 しかし 生前に養子をとっておいた方が お家存続のためには 無難で
あった。 浅野内匠頭は嫡子がいなかった 生前 養子をとっていなかった。 そこで 藩主の
弟 浅野大学長広を養子として お家再興を 図ったが 幕府の吟味では 認められなかった。
また 浅野内匠頭は 幕府の尋問にたいして 乱心したのかたずねられ 乱心では なかったと
答えた。 これは 乱心したと答えるべきであった。 乱心では なかったという答えは 確信犯
であったという自白を意味した。 伊達藩は 後に 「伊達騒動 」 という問題を起こしているが
お家お取り潰しにはならなかった。 このような 大藩を取り潰すと大量解雇による社会不安を
招かざるを得ない得ない。すでに 三代将軍家光の時 お家取り潰しによる浪人の数は 増え
続け 軍学者 由井正雪 ( ゆいしょうせつ )は 丸橋忠弥 ( まるはし ちゅうや )と 浪人
を集め 幕府転覆( てんぷく )を企てたが 露見し 処刑された。 綱吉は なるべく 浪人
を出さないよう 養子による家督相続をしやすいように 幕府の政策を転換したが 館林藩主に
した息子徳松が二歳で亡くなった後 二十五万石 館林藩を取り潰し 100石以上の家臣は
再雇用したが 100石以下の家臣は 切り捨てた。 幕末になるまで 武士は 過剰雇用で
あった。 戦争のない太平の世に 武家が 国民の10 % 以上というのは 過剰雇用で 
あった。 旗本 勝海舟は 小普請組に属していたが 殆ど 仕事はなかった。 常勤の
役職を持たない 旗本は たくさんいた。

 文楽 歌舞伎 仮名手本忠臣蔵




私事になるが 私の父が 『 おかずに飽いたら 湯豆腐、 芝居に飽いたら 忠臣蔵 』 と
生前 よくいっていた。 私が子供の頃 冬の寒い夜 母が 不在のときは いつも 湯豆腐
であった。

1748年( 寛延元年) 大阪竹本座で人形浄瑠璃 ( にんぎょうじょうるり )「仮名手本忠臣蔵
(かなでほんちゅうしんぐら)」が 初演されて 以来 この作品は 幾たびか上演されたが
国民は 忠臣蔵にあきることはない。我々日本人は 250年にわたり 忠臣蔵を 見続けて
きた。 

二世 竹田出雲・並木千柳・三好松洛によるこの合作は 人形浄瑠璃で ヒットとなってすぐその
後 大阪の嵐座(現在の角座)で 歌舞伎として上演され 大好評であった。原作者 3人のうちの
一人である竹田出雲の墓は吉祥寺から あまり遠くない 上町台地の生玉町の清蓮寺にある。

平成15年( 2003年) 11月7日 文楽は 『 人類の口承 および 無形遺産の傑作 』 
であると ユネスコにより 宣言されました。

近世に入り 「忠臣蔵」はしばしば講談、浪曲、小説、映画、芝居に取り上げられ 戦後は 
幾たび テレビ化されたか わからない。忠臣蔵の映画が 初めて上演されたのは1907年
( 明治40年 )東京 本郷座で 封切られた 『 忠臣蔵 5段目 』だといわれているが 
その後 1994年の『47人の刺客 』 まで 約50本の忠臣蔵の映画が製作された。 また
これとは 別に 四十七士の特定の人物に焦点をあてた映画も数々製作された。

堀部安兵衛、 神埼与五郎、赤垣源蔵、 その他 吉良家の剣豪 『 清水一角 』 というタイトル
の作品も数本 作られた。 赤穂四十七士にまつわるドラマは 我々 日本人は いくら見ても
見飽きることはない。 毎回 俳優も監督も違い 焦点のあて方が ことなり 脚本家もちがう。
明治以降 名優で 忠臣蔵の中の人物を一度も演じなかった者は いないと思う。

赤垣源蔵に焦点をあてた映画も数本 製作された。 戦前では 1938年 日活製作の映画で
名優 坂東妻三郎が演じた赤垣源蔵は 名作である。

仮名手本忠臣蔵は 義士討ち入りより 半世紀たって 書かれたものであるが 四十七義士を
美化することは 幕政に対する批判ととられかねないので 時代を室町時代に設定し 義士の
名前を変えた。 大石 内蔵助( おおいし くらのすけ)は 大星由良之助( おうほしゆらの
すけ)、赤埴源蔵重賢( あかはに げんぞう しげたか ) は 赤垣源蔵( あかがきげん
ぞう )と換えた。『 あかはに 』 を 『 あかがき 』 と 読み間違えたと書かれたものもある
が それは間違いで 幕府の検閲をさけるため 故意に 芝居では 名前を 換えたのである。


赤穂大石神社境内大絵馬
赤垣源蔵徳利の別れ
( 赤穂大石神社 御許可 )


仮名手本忠臣蔵の 大星由良之助の実名が大石内蔵助
で あることは 日本人ならだれでも知っていることであるが、
赤埴源蔵は 赤垣源蔵という名で あまりにも 有名になり
すぎ 近代になってもドラマでは 赤垣源蔵という名で登場
するため 国民の多くは その実名を知らない。 また
” あかはに ”という姓は めずらしい姓であり 読みに
くいこともあり 大星由良之助は 大石内蔵助と歌舞伎以外
は実名となったが 赤垣源蔵という仮名手本忠臣蔵の原作
の中の名がつかわれている。

また 他の事柄も 事実と芝居の中のフィクションの混同もめだつ。

赤垣源蔵徳利の別れ 』 ( あかがきげんぞうとっくりのわかれ )のエピソードは 様々に脚色され 芝居、映画になり テレビでも 放映されたが筋書きは ほぼ 下記に 述べるようなものである。

元赤穂藩浅野内匠頭家来 赤垣源蔵は 浅野家お取り潰しの後 浪人となり 兄の家に居候
(いそうろう)し、 毎日 酒ばかり飲んで 自堕落( じだらく)な生活を 送っていた。 ある日 
兄は源蔵に 主君のあだを討つ気はないのかと尋ねる。 源蔵は 仇討ちなど する気は 全然
ないと答える。 兄は お前はもはや 武士でないと立腹し 源蔵を 家から 追い出す。

その後も 源蔵は 酒代 ( さかだい )の無心のため しばしば 兄の家を訪れ 家人に煙た
がられた。

しかし 源蔵は 主君のうらみをはらす決意を秘めていた。 大事決行の直前のある雪の降る夜
たっぷり酒の入った徳利をぶら下げ 今生( こんじょう )の別れの一献(いっこん)を 兄とかわす
ため 兄の家を訪れた。 兄は あいにく 不在であった。 

兄嫁はまた 源蔵が 無心に来たと勘違いし 仮病をつかって 応対に出なかった。 彼が
かわいがっていた 甥にも 邪険(じゃけん)にされる。 源蔵は 応対した下女に 『 この度
西国の大名家に仕官することとなったので 別れの挨拶にきた。 』 と告げ 兄が不在である
のは誠に残念である。兄の羽織をだして欲しいと下女にいい それを 衣紋掛け( えもんかけ )
に掛け 兄の羽織に向かって 話しかけ 一人で酒を 飲む。 その後 兄の羽織に 深々を
頭を下げ 雪の中を寂しく去っていく。 

帰宅した 源蔵の兄は この話を聞き 源蔵が吉良邸 討ち入りをするに違いないと確信した。
大事決行前に 永(なが)の別れをを告げに来た 兄をどうして 充分 もたなさなかったのかと 
切々と妻を 諭(さと)す。 

吉良邸 討ち入りの翌朝 このニュースは 江戸中に 伝わる。 ここまでが フィクションの
の あらすじです。

事実は 赤垣源蔵には 実兄は いなかった。 しかし 江戸には 妹がおり、 妹の嫁ぎ先へ
挨拶にいっている。 妹のしゅうとは 赤穂浪士は こしぬけばかりだと 非難するが 源蔵は
討ち入りの決意を知らさずに 辞す。翌朝 吉良邸 討ち入りを知った 妹の舅 ( しゅうと )
は どうして もっと もてなしを してやらなかったのかと 悔やんだ。 

実際は源蔵は あまり 酒が 飲めなかったそうだが 国民の多くは 芝居通り源蔵が 大酒飲み
であったと信じている。大阪 吉祥寺にある四十七士の石像の中にある赤垣源蔵の像は 立った
まま 酒をついでいる。

時代が 変われど この物語は 我々 日本人の心を 切々と 打つものがある。
                                 


新渡戸稲造
Nitobe Inazo
( 1862-1933)
日露戦争の後に アメリカ大統領 セオドアー ルーズベルトは 日露講和
条約の仲介をした。 彼が仲介を引き受ける前に 忠臣蔵の話に感動し
仲介の労をとろうという気になったといわれている。

ある日 大統領は ハーバード大学の同級生で あった 金子堅太郎子爵に
日本のことは なにも知らないので なにか適当な 本がないか と訊ねた。
金子は 新渡戸稲造 ( にとべ いなぞう ) の 「 武士道 」 を ルーズ
ベルト大統領にプレゼントした。 大統領は  「 武士道 」を読んで感銘を
受けた。

新渡戸稲造は 東北の盛岡で 1862年 武士の家庭に生まれ 1933 年
カナダのバンクーバーで 亡くなった。 新渡戸稲造を記念する ブリティッシュ コロンビア大学の 新渡戸記念庭園は 日本国外では 五本の指に入る 回遊式 本格的日本庭園である。

「 武士道 」の中で 新渡戸稲造は 赤穂四十七士についても書いている。 
「 武士道 」 を読んで感銘を受けた 大統領は 多くを 買い求め政府の文武高官、個人的な友人にプレゼントし 読むよう勧めた。 新渡戸稲造は 聖書 ヨーロッパの古典にも詳しく 外国語にも堪能であったで 西洋の思想 西洋の騎士道 西洋の故事を引用し 西洋人に分かり易いように 「 武士道 」 について書いた。

新渡戸稲造は バルティモアで勉強していた時 フィラデルフィアの企業家 マリー ウェンキン
トンと結婚し クエカー教徒となった。  

新渡戸稲造は 5000円札で親しまれてきたが 本文を書いている2004年11月現在 樋口
一葉の肖像の5000円札に代わりつつある。  樋口一葉は 24才の若さで 亡くなったが
わずか4年の作家生活で 20数編の作品を残した。 

新渡戸稲造は武家の家に生まれたが 国際交流と世界平和に生涯を捧げた。 第一次世界
大戦の後 国際連盟事務局次長に選ばれ 知的交流委員会を設立したが これは 第二次
世界大戦後 発展してユネスコとなった。

贔屓筋 (ひいきすじ )  − ” 谷町 ”の由来

大阪城の梅が 見頃となる三月は 大相撲大阪場所がある。 この頃上町台地では 相撲力士の姿
をよく見かける。上町台地の上と下とに多くのお寺がある。 天下統一を果たした秀吉は大阪各地に
散在していた寺院をここに集めた。 仁徳天皇が国見をされた高殿があったといわれる高津神社も
大阪城の辺りにあったが現在の谷町九丁目の辺りに遷座した。大阪場所の頃には このあたりの多く
のお寺は臨時の相撲部屋となる。

明治時代 谷町筋に相撲が好きな 歯科医が住んでいた。 力士がよく訪れたが 治療代は とらな
かった。歌舞伎俳優、 相撲力士を谷町とか 谷町筋というのは これから 始まった。 この歯医院が
どこにあったのか 調べているが今だに分からない。 

相撲力士の谷町になろうと思えば よっぽど 金持ちでないとなれない。 普通の人の何倍飲んだり
食べたりするか 分からない。 それに 付け人( つけびと ) もついてくるに違いない。 十両に
なれば 2−3人の付け人がつき 幕内になれば 5−6人の付け人がつく。横綱になれば 10人
位の付け人がつく。

その上 大関 横綱を招待するとなれば 一流の店に連れていかねば ならない。 力士は ご馳走
しても 丁重に礼を言うわけでは なく ” ごっつぁん ” というだけである。 これは 相撲の世界では
認められている慣習である。 

横綱の基本給は 月額 282万円である。これは 野球 フットボール の一流選手とくらべれば 
極端に少ない額である。 しかし 場所手当て 褒章金 ( ほうしょうきん ) 懸賞金など 複雑な
手当てがある。 現在の横綱朝青龍関のように 年間6場所のうち 三場所も優勝すれば 土俵で
稼ぐ年収は 1億円を越す。

その他 谷町からの祝儀 ( しゅくぎ )、 CM の出演、宴席に出ること等の 副収入は 位が
高くなるほど 金額が 多くなる。 「貴乃花親方の全盛期には 副収入を合わせて年収は 2億円
を超えていたといわれている。

元横綱曙関は 横綱は 神様のようなもので 自分はなれるわけは 信じていたといった。





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上記のサイトをクリックすれば 礼雄錦 ( レオニシキ ) こと エドアルド デ パス グティエス
( Eduardo de Paz Gutiés さんの相撲に関するホームページを見れる。 エドアルドさん は 
スペインの レオン市在住のスペイン人である。 この ホームページは 相撲用語、相撲の歴史
決まり手など スペイン語と英語で紹介されている。

大相撲は 1992年にスペインに巡業しているが エドアルドさんは インターネットと テレビで
相撲を研究しただけで 2004年11月現在 いまだ 憧れの日本の土をまだ 踏んだことがない。
ホームページには 少し まちがいもあるが 私の知らないことも書いてある。その努力と根気に
は 驚かざるを得ない。 間違っている内容の記事に関しては 少しづつ 情報を提供している。
外国人の興味の対象は 芸者 フジヤマの段階から 多岐に及ぶようになったが 個人の知識と
いうものは 限界が あり 畑違いのことを 書くのは 骨が折れる。

エドワルドさんは相撲の研究のため 訪日を希望しているが 経済的な理由から ままならない。私も
谷町筋になれるぐらい資力があれば日本に招待したいところであるが そんな経済的余裕は ない。

大阪で生まれ 長年 大阪に住んでいながら お恥ずかしい限りだが 大石内蔵助 主税 親子と寺坂
吉右衛門の墓が 大阪市内にもう一ヶ所あることがわかった。 住吉区住吉2丁目の 一運寺 (浄土宗)
にある。 元々 龍海寺というお寺に 赤穂四十七士すべての墓があったが 明治に入り 廃寺と
なった。 三基の墓は 一運寺で 引き取った。 一運寺は 聖徳太子御創建といわれている。

龍海寺というお寺は 赤穂武士に武具を調達した堺の豪商 天野屋利平の菩提寺であったが天野屋
四代目の当主が赤穂四十七士の墓を建てたといわれている。

一運寺 最寄駅 : 阪堺電車 住吉駅下車 東



  大阪の歴史の宝庫 ⇒ 天王寺区役所
  
  日清 日露戦争秘話

 本文は スペイン語圏の日本文化、 日本の歴史に興味を持っている人、 日本語を学習中
  の 人を 対象にスペイン語で書いたものを 英文に翻訳し それを 更に日本語に翻訳した
  もの です。

 この日本語のサイトは 日本人の読者には 書く必要がないと 思われるところなど 一部
  翻訳されていないところがあります。 また 日本語で書きたして 英訳 スペイン語訳
 されて いない文章があります。 最初の部分は 英訳をつけていますが 下記 クリック
 していただけれ 後半の忠臣蔵に関する 英訳 スペイン語訳が 見れます。

© copyright 禁不許可転載 佐々木博昭 ( ささき ひろあき ) 2004年11月13日 脱稿
   
英語 スペイン語
 平成つれづれ草 ー 歴史随想
お問い合わせ 御質問                 
 
本文で 宮本勝美神父について少し 触れましたが 平成十六年一月三十一日 神奈川県横須賀市
在住 の久賀島御出身の K.H.という方から宮本勝美神父は 私の伯父でございますというメイル
をいただきました。 私の伯父について書いて頂き有難う御座いますというご丁寧な 礼状でしたが
K.H.さんのお父様が寺坂吉右衛門が大石内蔵助にあてた手紙を収集されていたそうである。 

Google の検索で ”宮本勝美神父”では 2件の情報で 本稿は出てこないが ”宮本勝美 神父”と
一文字あけると4件で 本稿が 検索で ひっかかることがわかりました。
 一文字空ければ 検索
件数が倍増することもあり得るということがわかった。