がんばろう! 日本



     
  大 阪

 大阪府 東大阪市


国指定 史跡 重要文化財

鴻池新田会所
( こうのいけ しんでん かいしょ ) 



全景



〒578-0974 大阪府東大阪市鴻池元町2番30号
Tel : 06-745-6409  Fax : 06-744-7498











河内湾 紀元前 6000年 縄文時代

紀元前 6000年 ( 縄文時代 ) 大阪府の広範な部分は 大阪湾と河内湾の中に
あった。




河内湖 古墳時代( 中期 )
5世紀


大阪湾は 河川が運んでくる土砂の堆積により 上町台地が 北進し、河内湾は 
弥生時代後期 古墳時代(  5世紀 )には 河内湖となった。 河内湖は 次第に
小さくなり 消滅し、 深野池、 新開池、 低湿地の大阪平野が 形成された。

大阪平野の上町台地を除く、 低湿地には 淀川、 大和川とその支流が 流れこみ
しばしば 大洪水を引き起こした。




1704年 大和川付け替え

1704年 大和川付け替えの前は、 奈良に源を発するいくつかの川は生駒山
の手前で大和川となり 河内に入ると旧柏原村で 南から流れてくる石川と 
合流し 久宝寺川(長瀬川)と玉串川(玉櫛川)に分かれ、他の川と合流し 深野池
(ふこのいけ)や 新開池(しんがいけ))に流れ込み 淀川に入る川とつながって
いた。

川が運んでくる土砂の堆積により 川は 天井川となり、 大雨が降れば 大洪水
の被害を流域の村々に与えた。

古来 大阪平野の治水には 多くの人が取り組んできた。 788年 摂津太夫 
和気清麻呂が 平野川、 大和川から 堀越神社の南側で 上町台地を横断して
運河を掘って大阪湾に流そうとしが 完成しなかった。

江戸時代、 十数回の大洪水が 起こった。 今米村 - いまごめむら 
( 現在の東大阪市)の庄屋中甚兵衛は 50年 近く  柏原村の大和川と石川
の合流点から 川を真西に 堺港に通す 大和川の付け替えを幕府に陳情し続けた。)

1639年( 寛永16年 )甚兵衛 生れる。 
1652年(承応元年 ) 大和川の支流である吉田川の堤防 決壊する。
1657年( 明暦 3年 ) 甚兵衛19歳の時、 江戸に下がり、 15年間程、大和川
の付け替えを訴え続ける。

1660年 (万治3年) 幕府の役人が初めて派遣され 大和川付替えの検分を
行う。 新川筋の農民は 大和川付け替えに反対する。
その後。 1665年、1671年、1672年 検分が あったが 大和川の付け替え
は 認められなかった。 34歳の時、今米村に帰る。

1700年( 元禄13年)、 1701年(元禄14年 )、 河内低湿地で大水害。 
1701年 本年貢 免除。

1703年 大和川 付け替え決定。  大阪の代官 満年長十郎が普請奉行
に任命され、 甚兵衛の力量を信頼し 甚助に 普請御用を 仰せつけた。 

幕府の大和川付け替え工事の担当者の中に 目付大久保甚兵衛という人物が
いたため、甚兵衛(65歳)は甚助と改名  1704年 大和川付替え完成。 
甚助(甚兵衛)66歳。

1705年 中甚助 大阪北御堂で剃髪。 乗久と名乗る。

1730年  中甚助 死去。 享年 92 歳。

 


和気清麻呂
(733-799)

Wake no Kiyomaro
( 733 - 799 )




大阪府都市整備部 西大阪冶水事務所
現在の大阪平野

明治元年(1868年) 5月、高槻の前島村、 広瀬村で 淀川の堤防が数ヶ所 決壊。
明治4年 (1871年) 宇治川左岸 決壊。 巨椋池周辺 水害。
明治9年( 1876年 ) 10月 高槻 前島で淀川決壊。
明治18年 ( 1885年) 6月、7月 枚方の三矢、伊加賀で堤防が決壊し下流の
堤防が次々と決壊、大阪市街の15,142 ha. 大阪府全体の世帯数の約20%の
71,000戸が浸水、 家屋流失 約1600戸、15,000 損壊、被災人口27万人、
市内の交通は 寸断された。


明治29年( 1896年 )から 明治43年(1910年 ) 淀川改良工事が行われた。

2012年 寝屋川市から大阪市都島区の道路の下に 11.38 キロメートル、 
毎秒250立方メートルの排水量の寝屋川北部地下河川を建設中。 東大阪から
大阪市西成区まで 13.65 キロメートル 毎秒 180立方メートルの排水量の
寝屋川南部地下河川を建設中。 2011年から 一部 共用開始。 1 時間に
40 ミリの雨が降っても大丈夫。




大阪府 都市整備部 



淀川大堰 ( よどがわおおぜき ) 
( 画像をクリック)

現在の淀川大堰から大阪湾まで 16 キロの新淀川は 明治29年(1896年)
から始まった淀川改良工事で 開削された。 工事は 明治42年(1906年)
6月1日竣工した。

淀川大堰は 1984年 建設された。 下流への水量を調節し 下流から 上流
への高潮を防いでいる。



旧毛馬第一閘門( こうもん)

平成20年(2008年) 
国の重要文化財に指定された

旧毛馬の第一閘門 明治40年(1907年) 完成した。大阪市内の淀川下流に土砂
が流れ込み 川が浅くなり洪水を引き起こすのを防ぐため、また大川( 旧淀川下流 )
と淀川本流との推移差を調整して 船の航行を可能にするため建設された。 

しかし、 大川の浚渫により 新淀川と大川の水位差が 大きくなり第一閘門が対応
できなくなり、 水位が 以前より下がったため 大正7年(1918年)に 第二閘門が
設置された。1974年(昭和49年)に現在使用されている閘門が完成、第一閘門、
第二閘門は1976年(昭和51年)まで併用され、その後第一閘門周辺は公園施設
として整備された。第二閘門水路は現在は舟溜まりとして使用されている。
 



1885年 明治18年 淀川大洪水の後
オランダ人技術者ヨハネス・デ・レイケ (
 Johannis de Rijke )の指導の
下 最新技術を用いて 1911年完成した
毛馬の閘門(こうもん)





旧毛馬洗堰 ( きゅう けまあらいぜき ) 
2/3は 撤去された。 国の重要文化財

昭和49年( 1974年 ) 新水門 閘門完成。 1911年 当時の先端技術を
駆使して建設された旧毛馬閘門、洗堰、任務を終え 保存されることとなった。



毛馬の閘門( けまのこうもん)と水門

毛馬の閘門 
video



昭和49年( 1974年 )に完成した 新水門 閘門



深野池(ふこのいけ )



深北緑地( ふこきた りょくち)の深野池(ふこのいけ )

1704年 大和川の付け替えの前は 河内平野に 新開池( しんが)、深野池
(ふこのいけ)という湖のような大きな池があったが、新開池は 新田開発で完全に
姿を消した。 

深野池には 恩智川が 注いでいたが 大和川の付け替えで 出口を失い、次第
に水量が 減り 干上がった土地は 新田開発が行われた。恩智川は 学研線
の住道駅前で 寝屋川と接続されている。

深野池のあった所に 面積 30.6 ha.の深北緑地がある。深北緑地の中には
昔の深野池を偲ばせる 深野池がある。 緑地は 寝屋川の東岸にあり、 普段
は 公園であるが 遊水地として利用されている。 寝屋川が増水した時、 水を
緑地の A ゾーンに流す。 A ゾーンが 満たされるを B ゾーンに流れ、C 
ゾーンに流れる。 C ゾーンまで 一杯になれば 最大 146万m3が 貯水される。
C ゾーンの水は 寝屋川に戻る。




深北緑地排水門
寝屋川が増水した時 深北緑地に排水する
深北緑地の有効貯水容量は146万m3



農業用水の権現川



四条畷方面
深野池の一部だったと思われる




鴻池新田会所は 両替商で財をなした 江戸時代の豪商 鴻池家が 開発した
新田の管理、運営を行った場所である。 江戸時代、幕府の検地と許可をもらって
から新たに開拓した農地は 水田、畑にかかわらず 「新田」と呼ばれていた。

大阪府河内平野南部では 宝永元年(1704年)、 大和川の付け替えにより、
流れの途絶えた大和川の川底とその支流が 水田に変わった。

旧大和川と寝屋川が流れ込んでいた新開池(しんがいけ)は 水量が 減った。
その低湿地の約200町歩の土地の土地の開発権を 大和屋六兵衛と中垣内村
の庄屋長兵衛が落札し、 最終的に 鴻池家三代目 鴻池善右衛門宗利が権利
を買い取り1705年から1707年に約158ヘクタールの農地を造成した。 後に 
200 ヘクタールとなった。

河内、摂津、大和の天領から 入植者を募り、家を与え 新田内に住ませた。 
これを村抱え百姓といった。村抱え百姓は 土地、家、農機具も貸し与えられた
が 新田内の道路や水路の補修などの労役があった。

村の外に住み 新田内で耕作する百姓を入作百姓といった。

新田会所では 鴻池家から派遣された支配人が 新田の管理、 運営をして
いたが、 農民から小作料を取り立て、肥料代の徴収、幕府への年貢上納、家屋
の管理、補修、 宗門改帳の作成、老人への孝養米( 老齢年金 )、幕府や
鴻池家の指示伝達、 新田内の争いの裁定を行った。 また 飢饉の際は 
鴻池新田の外の近隣の村にも米を支給した。

鴻池新田では 6~7割の農地で綿を栽培し、 残りは 米、 野菜だった。

 

鴻池家始祖 山中鹿之助



鴻池第11代 男爵 
鴻池善右衛門幸方(ゆきかた)
(1865-1931)

大阪歴史博物館


鴻池の先祖は 山陰の戦国大名尼子(あまご)氏の家臣 山中鹿之助(鹿介)幸盛
(こうのいけ しかのすけ ゆきもり )だったと言われている。

16世紀の中頃まで 尼子( あまご ) 氏は 山陰 山陽地方 11ヶ国を領有
する勢力をもっていたが 毛利氏の台頭により 徐々に勢力が衰える。

天文24年 ( 1555年 ) 毛利元就 ( もうり もとなり )は厳島( いつくしま )
の戦いで 陶晴賢( すえ はるたか )を討って 山陽地方を手中に収め九州
豊後( ぶんご ) (大分県 ) の大友氏と和解した後 1563年 全力で尼子
制圧( せいあつ)に乗り出した。 

毛利元就の子 小早川隆景と吉川元春 ( きっかわ もとはる ) は尼子氏の
支城を次々と落とし尼子氏本城 月山富田城(がっさん とだじょう )の近くの
白鹿城(しらがじょう )を落とす。

1564年 毛利軍は 月山富田城を攻め 苦戦するが 1566年 尼子氏
は遂に 降伏し 開城する。 

尼子の家来であった 山中鹿之助は 尼子家再興の望みをかけ 尼子勝久を
還俗させ 出雲で尼子再興を一時的に果たすが1570年 山中鹿之助は
毛利輝元 吉川元春 小早川隆景13,000の軍勢に攻められ布部山(ふべやま)
の戦いで大敗する。

山中鹿之助(鹿介)幸盛の長男の山中幸元( 直文 - 新六)は 武士をやめ
1578年摂津国長尾村鴻池( 現 兵庫県伊丹市鴻池) に移住し 鴻池新六
と名乗り、 酒造業を始めた。

最初は 濁り酒を造っていたが、1600年 日本で初めて 清酒 ( 双白澄酒 -
もろはく すみざけ )の醸造に成功した。新八は 1619年に大阪内久宝寺町
にも店を持ち、1625年 海運業を始めた。

新八の子供 正成は 初めて 善右衛門を名乗った。 正成は 1656年 
両替商を始めた。 1670年 幕府御用の両替商として 十人両替に選ばれた。

鴻池家 三代目 鴻池善衛門宗利は 1695年 本店を大阪今橋に移した。
海運業、 酒造業は やめた。 1705年から 新田開発に着手した。

幕末には 100数藩に資金を貸しており、 「天下の富の七分は 大坂にあり、
大坂の富の八分は 今橋にあり」といわれた。 今橋、高麗橋は 有力な両替商
が 軒を並べていた。

明治維新では 廃藩置県で 大名貸しの貸しだおれにあって莫大な損害
を受けたが、 10代鴻池善右衛門幸富は 三井家と共同で堂島両替店
( 後の三井銀行)を設立し、 鴻池銀行を設立した。 鴻池銀行は 三和銀行
となり、 合併により 三菱東京UFJ銀行となった。

第11代善右衛門幸方は 大阪倉庫株式会社( 後の三井倉庫会社 )、
日本生命保険会社にも出資し、 社長となった。

敗戦後、1947年 農地改革により、農地は 小作人に払い下げられた。

また 財閥解体で大きな打撃を受けた。鴻池新田会所は昭和25年(1950年)
240年の幕を閉じた。

鴻池家の文献、美術コレクションの保存などをしている 鴻池合資会社は 
鴻池新田会所の東側に ショッピング・センター 「グラナリー・コート」を保有し、
マンションを経営している。



以前の ショピング センター ”Granary Court "





2012年10月10日現在
ショピング センター ”Granary Court "
鴻池家の資産管理会社の鴻池合資会社
が運営している。また 鴻池家の文献、美術コレクション
を管理、 保存している。美術コレクションの一部は
大阪歴史博物館などへ
寄贈された。




本屋
素晴らしい松の枝ぶり


本屋は、新田経営 (しんでん けいえい )の中心的(ちゅうしんてき)な役割
(やくわり)を果(は)たす建物として 宝永(ほうえい)四年(1707年)に建てられ
また。 現在の建物は 昭和62年 ( 1987年 ) 嘉永( かえい )六年
( 1853 年 )の状態に復元整備(ふくげん せいび) された。広さ 660 平方
メートル。

本屋は 土間( どま )、 勘定間( かんじょうま )、座敷( ざしき )からなり、
機能性( きのうせい )を重視(じゅうし)した造(つく)りになっています。 座敷
( ざしき )は 役人( やくにん )の接待( せったい )や村の会合( かいごう )
に使われた。


土間では 災害( さいがい )の時など 大かまどを使って 炊き出しが行われ
ました。





鴻池新田へは 京橋より学研都市線( 旧片町線 )で鴻池新田駅で
降りる。学研都市線は 片町まで走っていたので片町線と呼ばれたが
1997年3月7日 廃止され 線路は 取り払われた。学研都市線線の
ターミナルは 現在 京橋駅である。旧片町駅界隈は商業施設は 
ほとんど なにもなく 明治期の財閥 藤田伝三郎の藤田邸( 現 太閤園、
藤田美術館、 藤田邸跡公園 )があるのみ
である。

鴻池新田駅と片町駅の沿革

「 汽笛一声新橋を。。。。 」と我が国に鉄道が導入されて以来 鉄道建設熱が
全国に高まり ここ東大阪にも 明治28年8月浪速鉄道KKが片町-四条畷
( しじょうなわて ) 間を開通させました。明治30年関西鉄道KKと合併、 翌31
年には木津まで延長し  今の片町線ができたのです。また 当時  大阪 - 
名古屋間の最短経路として 本線の大任を果たしてきました。 明治39年鉄道
公有法が制定 され 鉄道省片町線となり 現在に至ったのです。

「 鴻池新田とは 江戸中期 河内農民の水過を救おうと 元禄16年 ( 1703年 )
今米村の庄屋 「中甚平」 が 大和川を柏原から堺の方へ付替えた際できた大池沼
を戦国の武将山中鹿之助幸盛の孫 正成が 「 鴻池善右衛門 」 と名乗り商業を
営み 幕府御用役 大阪両替奉行掛屋などを していた大阪一の富豪 「 三代目
善右衛門幸昌」が幕府から新開池の開発権を譲り受け 宝永(ほうえい) 2年-4年
に119ヘクタールの広大な田地を開発し 「 鴻池新田 」の名が与えられたのです。

鴻池新田駅は明治45年4月21日 ここに地元の請願により 簡易停車場
( かんえき ていしゃじょう ) として発足(ほっそく ) その後 「 十二代目
鴻池善右衛門氏 」により 用地 駅舎など建設費用 一切の寄付を受け 翌
大正二年 一般運輸営業を始めました。

( 註 : 掛屋とは 江戸時代に幕府や諸藩の蔵屋敷に出入りして蔵物の
販売 出納 金融などを行った御用商人 )





鴻池橋
寝屋川が 天井川であるので坂を上った
ところにある。 川向こうは 大東市諸福(もろふく)、
手前は 東大阪市

この辺りは 古代より 洪水に悩まされてきた。仁徳天皇が築いた茨田の堤
( まむたのつつみ/まんだのつつみ/まぶたのつつみ )は 847年 決壊した。

鴻池橋の両岸は 坂になっている。 寝屋川( ねやがわ )が天井川( てん
じょうがわ)であることがよくわかる。橋を越えれば 大東市諸福(だいとうし もろ
ふく )。寝屋川は高い鋼矢板( こうやばん)とコンクリートに囲まれている。 

鋼矢板による護岸工事は1969年-1981年に行われた。 自然の脅威は 計り
しれないものがあるが この護岸工事の完成により この地域の住民は 一千
数百年に及 水害の恐れから解放されたといえる。

このあたりでは都市化が進み1970年頃から保水性のある水田は姿を消した。
1972年7月の集中豪雨では 寝屋川が決壊( けっかい )し 40,000戸が
浸水した。 住民は 国と大阪府、大東市に対し集団訴訟をおこした。 これは
全国の住民集団訴訟のきっかけとなった。 また 1975年(昭和50年 )にも集中
豪雨により 未曾有の水害に襲われた。




寝屋川の橋は 坂の上にある



刑務所の塀のように高い寝屋川の護岸壁



コンクリートの間には 防水性
のゴムのようなものが挟まれて
いる











鴻池橋より 大阪方面を望む



鴻池橋より 生駒山( いこまやま )方面を望む



 寝屋川 の護岸 - 排水孔のふた ?このふた
を開ければ 浸水するが
なぜ ふたがあるか わからない。



住道駅前付近
大阪府大東市赤井



大阪府大東市三箇(さんが)5丁目付近



鴻池新田会所 入口





鴻池新田会所 入口



本屋と米搗き場



受付
元は 火の見小屋であった。
新田の農民達が 毎晩交代で 詰め
大阪今橋の本宅のあった方を見つめて
いた。 火事が あれば 駆け付けた。



朝日社
立ち入り 禁止 鴻池合資会社
が 所有している



朝日社

表長屋門の右手にある。 立ち入り禁止で
鴻池合資会社が所有している。
鴻池新田が開発された時に、
その氏神として天照大神を勧請して
祀った。 その後 新田開発者の三代目
新田開発者の三代目鴻池善右衛門宗利も
合祀した。 町人で 神として祀られて
いるのは 珍しい。




周濠 南側 



周濠 南側 



周濠 西側



周濠 東側

鴻池新田会所は かっては 水をたたえた周濠で囲まれていた。 会所の周囲は
井路川( いじがわ )が はりめぐらされていた。農作物は 井路川を通って
裏長屋門の前の船着場で 降ろした。

北側にも 周濠があった。周濠は 鴻池井路、 六郷井路、五箇井路、六郷
井路につながっていた。

東大阪市、大東市のみならず、守口市、門真市、寝屋川市、大阪市住之江区、
住吉区、西区、 東成区、生野区、旭区、城東区、 鶴見区、 都島区には 
かっては 井路川( いじがわ)が流れていた。

道端に 地蔵さんがあったり、かっては 農家であったと思われる家、 石垣の
高い土蔵があったりする道はかっては 水路であった。

農村の都市化によって 水田、 畑が 宅地、工場、鉄道用地、道路となり、
逃げ口の無くなった水路は 汚染され、 埋め立てられて道路となった。

残った水路は せせらぎの路などと整備され始めたは 昭和末期から平成
に入ってからである。




鴻池四季彩々 ”せせらぎの路”
鴻池新田内の 井路川は用水路
としての使命を終え 平成16年
鴻池水みらいの高度処理水を利用して
鴻池四季彩々という遊歩道とせせらぎ
水路が整備された。










かっての船着き場





裏長屋門 



北側は JR 学研都市線の建設で周濠
は 埋め立てられた。



学研線





井路川船 ( いじがわぶね )

井路川船 ( いぢがわぶね )は、 新田内( しんでん ない )に造( つく )
られた 井路 ( いぢ )という水路( すいろ ) を通って 穀物( こくもつ )や
荷物( にもつ )を運んで いた川船 ( かわぶね )である。新田内でとれた
米や綿( わた ) は この 井路川船 ( いぢがわ ぶね )で 会所 ( かい
しょ )まで 運( はこ ) ばれてきた。 

井路川船は 剣先船 の構造を受けついだ小型船 ( こがたせん )です。 
これらの船は 戦後も使われていた。


大東市 水郷 御領



大東市 御領 船は 三枚板



 水害から守る大東市御領の段蔵 ( だいとうし ごりょう の だんぐら )

大東市 水郷 御領

井路川



本屋( ほんや )の土間(にわ)には 
樹齢400年のクロマツの梁が使用されている






左奥 上台所(しょくどう) 右奥(畳の間) 勘定の間、
手前 下台所



かまど



飢饉とか災害の時は
おおかまどで 炊き出しをした。 大きな
かまど、 鍋がある。



勘定の間



座敷



座敷





文書蔵

1802年頃建設された。復元整備された。
新田経営の書類が保存されていた。




道具蔵は 1740年 建てられた。
現在の建物は 1856年の状態に
復元された。




 



米蔵内部



水車



田舟、 苗かご

田船は 脚を入れる腰まで沈んで
しまうような 深い田圃で作業をするのに
使用した。苗かごは 苗を運ぶのに
使用した



乾蔵
道具蔵に入りきらない道具、
米蔵に入りきらない米などを入れた




居宅



居宅 (きょたく) : 
鴻池家( こうのいけけ)から派遣( はけん )された 支配人
の住居来客用にも 使われたと思われる。 明治30年 ( 1897年 ) 
鴻池銀行新田出張所として使用された。






米搗場(こめつきば )




江戸時代末期を代表する池泉鑑賞式の庭です。








鴻池新田会所 庭




綿花



菱垣新綿番船川口出帆図
安治川河口から天保山沖を描いた図
大阪地方で秋に収穫した新綿を積んだ
船の勢揃い。 江戸の経済力、消費量が
いかに大きいものであったが分かる。
また 大阪が 天下の台所
といわれたのがわかる。
上原芳豊
 

江戸時代 日本の綿花栽培は 河内、 摂津、 大和で 栽培され 自給、自足
であったが明治時代に関税が撤廃され、安い外国産の綿花が輸入され、 国内
の綿花栽培は 廃れた。 2011年116,000 トンの綿花が 輸入されたが 米国
から 33.8%、 ブラジルから19.5%、 オーストラリアから 17.3% 輸入された。
国内栽培は ほとんどゼロである。 

綿花栽培はゼロになったが 1932年(昭和7年) 綿製品の輸出は 総輸出額
の25% であり 生糸の輸出は 21% であった。 日本は イギリスを抜いて
世界一の綿製品輸出国であった。





庭園の出口
水路は 枯れている



かっては 生駒山は 庭園の借景で座敷
より 見えたが 今は 高いビルが
建っていて 見えない。



御白州(おしらす )

ここには 写真の植え込みはなく、白い
砂が敷きつめてあった。

天領では 裁判は 代官が 行う
のが 普通であったが 鴻池新田内では
支配人が ここで 訴え事を 受け付けたりした。
幕府も諸大名も 鴻池家から 借金しているので
特権を与えざるを得なかった。



 水害から守る大東市御領の段蔵 ( だいとうし ごりょう の だんぐら )


1587年 秀吉は 伴天連追放令を出した。 

1612年 徳川幕府は 直轄地でのキリスト教の信仰を禁止した。 1613年 禁教令
を全国に広めた。 キリシタンは 隠れキリシタンとなり、 密かに 燈籠に慈母観音像
に似せた 十字架、マリア像、 キリスト像を刻み、また 慈母観音像を 聖母マリア
に見立てて信仰した。


 

マリア像か
キリスト像が刻まれている

 

キリシタン燈籠といわれて
いる。京都 北野神社
織部燈籠


古田織部重然 (ふるた おりべ しげなり )(1544-1615)は 安土桃山時代の大名
で茶人。 織田信長、豊臣秀吉の茶の師匠であった。 茶道具、庭園、 建築で
織部好みと呼ばれた意匠を考案した。 

織部燈籠は 茶室の庭に好んで置かれた。 竿の部分に キリストを意味する
アルファペット文字、 聖母マリア像、 キリスト像を 陰刻し、 信仰した。




かなりな豪邸 代々 地元に住んでいる人は
豪邸に住んでいる 大東市 氷野1丁目  




福の神
裕福さが偲ばれる



大東市 氷野1丁目  キリシタン燈籠
住道駅前の観光地図では キリシタン燈籠
と書かれてあったが 十字の印もマリア像
と思われるものも見つからない




大東市 総社 三箇菅原神社 
三箇(さんが) 五丁目
大東市には 御領にも 菅原神社
がある。 氷野には 菅原道真公
を祀る北野神社もある



三箇(さんが)城址
深野池の中にあった島に三箇城(さんがじょう)

大東市 総社 三箇菅原神社の辺りに三箇城があったといわれている。 三箇城
は キリシタン大名 三箇氏が 統治していた。 深野池には いくつかの島があった
が 水量が減ると三つの島が見えた。 それが 三箇の地名の由来である。

三箇城は 畿内を統治して三好氏の居城 飯盛山城の西方にあり その支城で
あった。 三箇サンチョ頼照は 三好義継の領地を安堵され ついで 織田信長
に安堵された。 宣教師、キリシタンを保護し 領内には 1500人のキリシタン
がいたという。 三箇の教会は 現在の住道駅前辺りにあったといわれている。
イエズス会宣教師 フロイスは 「五畿内で最大にして 美麗 」 とローマの
イエスズ会本部に報告している。

頼照から 家督を継いだ頼連(よりつら )マンショは 1582年 明智光秀が
本能寺に宿泊していた織田信長を攻めて 自害させた時 光秀に加担したため
三箇は 秀吉の諸将に攻められ 三箇城、教会は 焼き払われて 跡形も
亡くなった。 その後 頼連(よりつら )は 伊賀上野城主 筒井定次に仕えた
後 肥後宇戸(うと)領主 小西行長に仕える。 関ヶ原の戦いに参戦するが敗れ
小西家は 取り潰され その後の消息は わからない。




大東キリスト教会
宗教法人 インターナショナル・チャーチ
プロテスタント 女性の牧師さんも
おられる。  三箇(さんが)にあった教会
は 四百数十年前に跡形もなく破壊されたそうである
が この教会は 三箇菅原神社から寝屋川
を越えた対岸にある。



住道駅のタイル画 教会が見える



慈母観音を聖母マリア
に見立てて 隠れキリシタンが
信仰した



Pierre Mignard,
葡萄の聖母マリア



水子観音
高野山 御室派
太子山 大宮寺
大阪市旭区中宮1丁目



水子観音
高野山 御室派
太子山 大宮寺
大阪市旭区中宮1丁目





水子観音と水子地蔵
浄春寺 
大阪市 天王寺区
夕陽丘町5



水子地蔵


清水寺 子安塔
子安観音(千手観音)を祀る
安産祈願の三重の塔

大阪府大東市北条5丁目
寝屋川の岸




河内 田原城主の菩提寺である
千光寺跡より 「天正9年(1581)年8月7日 礼幡 - レイマン」 
のキリシタン墓碑が2002年(平成14年 )2月見つかった。

礼幡 - レイマンは ポルトガル語では Ramão、
スペイン語では Ramón に相当すると思われる
(四条畷市立歴史民俗資料館)

十字の形の燈籠は 織部燈籠、 キリシタン燈籠と呼ばれた。 この形の燈籠は
古田織部( 1544年ー1615年 )が 創作したといわれている。古田織部は
戦国武将であり 茶人であった。 利休 七哲の一人といわれた。

小堀遠州、徳川二代将軍 徳川秀忠の茶の湯の師匠であった。

織部燈籠は 茶室の庭などに好んで置かれた。 キリシタンが禁制となってから
隠れキリシタンは 信仰の対象として 織部燈籠の笠石の下に わからないよう 
マリア像、キリスト像を刻んだ。

織部は キリシタンであった。 河内地方には 多くのキリシタンが住んでいた。
永禄六年(1563年) 三好家の家臣松永久秀( まつなが ひさひで )が 
配下の結城山城守忠正にキリスト教が邪教(じゃきょう)であることを確かめよと命
が下った。山城守と清原枝賢( きよはら しげたか )は キリシタンの神に
ついて 話を聞きたいと  堺に滞在していた宣教師ビレラ司祭のもとに使い
をだした。 ロレンソが 大和に赴( おもむ)き 宗教論議した。 

ところが 結城山城守忠正と清原枝賢は ロセンソの話に感銘し キリシタンに
改宗した。

清原枝賢( きよはらきよはら しげたか )は 公卿( くげ )であったが 唯一
神道 ( ゆいいつ しんとう )を唱(とな)えた 吉田兼倶( よしだかねとも )の
曾孫 ( ひまご )であった。 枝賢の娘 清原マリアは 細川忠興の妻 ガラシア
の侍女であった。

安土桃山時代には 6,000年前には 河内湾であったものが 河内潟(かわち
がた) 河内湖と変遷の後 大和川からの土砂の流入で 新開池( しんが
いけ )、深野池 ( ふこうのいけ )という大きな池が河内平野にできた。
新開池( しんがいけ )は 鴻池新田のあたりにあったといわれている。 
深野池には 四つの島があったがそのうちのひとつは 水位が上がれば 
水没し 島は 三つとなり これを三箇島( さんがしま )といい その中で
最大の島を大箇( だいか ) といった。 

深野池の三箇島( さんがしま) サンチョ三箇伯耆守頼照 (さんが ほうきのかみ
よりてる )という武将が治めていた。島の西岸には聖母の教会があり 天正四年
( 1571年 )オルガンチーノが三箇を訪れたときは三箇には 1,500人の
キリシタン信徒がいた。

深野池は 寝屋川市南部、門真市東部、 大東市中部、東大阪市北部、
四条畷西部にまたがる広大な池であった。 その広大な池の一部を 大東市
から寝屋川市にかけてある深北公園の深野池がしのばせてくれる。

天正十年 (1582年)、 明智光秀が謀反を起し 本能寺で織田信長を自害に
追い込む。 頼連(よりつら )マンショ は 光秀に加担(かたん)したため 教会は
焼き払われてしまう。

三箇(さんが)は その後 河内岡山のキリシタン領主ジョアン結城の領地と
なった。ジョアン結城はその後 移封となり 1587年 秀吉は キリシタンの
弾圧を始めた。キリシタン燈籠や十字架は 河内地方の他の場所からも
見つかっている。 彼等は禁教令の後も 隠れキリシタンとして 信仰を持ち
続けたであろう。 




深北公園の深野池



剣先船

綿の生産と物流

綿は 河内の特産品で 各地で栽培されていました。 近くの村の綿商人の他、平野
や八尾、大坂からやってくる綿商人が買い付けました。集積された綿のほとんどは
大和川を上がり 下りする 「剣先船」に積み込まれて運ばれた。剣先船は 上流は
大和との境、 南は 柏原市、下流は 大坂京橋あたりまで 行き来していた。
享保年間には 約500隻が使用されていた。

江戸へは 菱垣廻船によって運ばれた。 鴻池新田の七割は 綿畑だった。

新田経営は 必ずしも 利益が 上がるものではなく 持ち主が変わったが、
鴻池新田は 戦後まで 鴻池家が 経営していた。 

 
年度
  
収入
年貢

   
支出
(百万円)
   
 
利益
(百万円)
  

年号 

西暦
 
 幕府へ
の年貢
 新田
維持
管理費
会所
管理費 
 享保
2年

 1716
 
6億8000万円
 
181
 
31
 
42
 
126
安永
8年

1777
 

4億2500万円
 
117
 
129
(中新田
東寺島
買収)
 
58
 
121
享和
2年 
 
1802


2900万円
 
700
 
363
 
75
 
-418

新田は 凶作で利益の上がらない年もあった。 また水害で莫大な損失を被る
こともあった。 享保2年 (1802 )は 収入は 少なく、 経費がおおきかった
のは 水害によるものと思われれる。また 幕府への年貢の貢納が極端に少ない。
年貢貢納額に大きな差があるのは 所得に応じて 納めているのがわかる。 現在
の税制によく似ている。 淀川が 点野(しめの)、 仁和寺 ( 現在の寝屋川市)
で決壊し、 河内の国149ヶ村が浸水した。

鴻池家の家訓は 本業以外 手をだしては いけないと記されていたので 住友家
のように 多角経営に乗り出さなかったが 新田経営は 鴻池家の唯一の金融業
以外の事業でだったが やはり 事業には リスクがつきもので 大赤字の年も
あった。 しかし、豪商 鴻池家にとっては 新田経営は 企業の社会貢献と
考えられていたのであろう。




龍吐水 (りゅうどすい)

江戸中期から国産ポンプが発明された
明治17(1884)年頃まで 使用された。



”るろうに剣心”の撮影が 鴻池新田新田
会所で 行われた。 予告編

『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』(るろうにけんしん めいじけんかくろまんたん)
は 和月伸宏( わつき のぶひろ )の漫画作品。1994年 ( 平成6年)から
1999年( 平成11年)まで 集英社の少年漫画週刊誌 「」週刊少年ジャンプ」
で連載され、 その後 アニメ化された。

鴻池新田会所ののロケでは 東京警視第四署という設定でなされた。


 

江戸時代の大和川

 

現在の大和川



堺市 大道筋 ( 旧紀州街道 )

1704年の大和川の付け替えで 紀州街道。 熊野街道は 分断された。 幕府
は  直ちに 大和橋を架け 紀州街道は つながった。 大和橋は 大和川に
かかる 唯一の公儀橋であった。



大正初期の今橋
鴻池本邸 




現在の中央区今橋2-1-12
に鴻池家の本宅があった
間口30間 江戸時代
天下の富の七分は 大阪
にあり、 大阪の富の
八分は 今橋にありといわれた.
本宅は 取り壊されて
大阪美術倶楽部
となった。





V 字形に橋が架かって
いる

左(南)へ行けば 鴻池善衛門 
天王寺屋五兵衛 平野屋五兵衛等
の一流両替商が軒を並べていた
今橋に通じる。
。現在も證券会社、保険会社、銀行
が立ち並ぶ大阪の金融街である。

右(北)へ行けば1784年 
葭屋庄七らによって開発された
蟹島(かにじま ?)遊廓への通路
として 建てられた。 江戸時代
二つの橋は 少し 離れて
いた。 


親柱には ”今橋” と ”よしやばし”の名が刻まれている。 V 字形に 
二つの橋が東横堀川にかかっている。 今橋は 船場今橋に通じている。

葭屋橋( よしやばし ) は 北浜に通じる。 江戸時代には 今橋は  鴻池
善衛門 天王寺屋五兵衛 平野屋五兵衛等の一流両替商が店を構える金融
街であり 葭屋橋( よしやばし)は 大川の眺めが素晴らしい蟹島遊郭
( かにしまゆうかく ?) に通じていて 遊興の場であった。


今橋は 今でも銀行、証券会社、保険会社などが軒を並べる大阪の金融会社
であった。 鴻池家の事業を引き継いだ鴻池銀行本店は 今橋3丁目にあった。
鴻池銀行は 三和銀行となり 東海銀行と合併して UFJ 銀行となり UFG銀行
は 東京三菱銀行と合併し 三菱東京 UFJ 銀行となった。


 大和川の付け替え 

大和川は 河内平野を通って大坂の南部から大坂に向かって北上し 
大坂市内の川とつながっていた。 17世紀中頃から 度々 大坂
奉行所へ治水工事の嘆願書がだされたが 部分的な 河川の改修のみ
で 抜本的な工事は見送られた。

大坂市内は 幕府は 河村瑞賢 ( かわむらずいけん )に命じて 新しい川
の開削( かいさく )、川幅の拡張、川底の土砂さらえ、 港の整備、 新地の
開発などを行ない 安治川新地 堂島新地曽根崎新地などが開発されたが 
河内平野の治水は あまり考慮がはらわれなかった。 

元禄16年 (1703年 ) 幕府は ついに 大和川の付け替えを決定し 8ヶ月
の突貫工事で 翌 1704年工事は完了した。 総工費は 71,500 両
であったが 幕府の負担金は 37,500 両で 工事を負担した諸大名は
34,000 両 出費した。 新田開発の地代金は 37,000 両であったが
三年の開発期間の後は 年貢をとったので 幕府の財政に 貢献した。 

旧大和川流域で 新田開発により 1710年頃までに 増えた田畑は
1,050 ヘクタールで 失われた土地は 275 ヘクタールであった。

新田開発の売却先は 町人請合 ( ちょうにん うけあい )という大資本家、
寺請 (てらうけ)という寺社によるもの、 農民の団体である 農民寄合 
( のうみんよりあい ) などがあった。 



鴻池家は 入札を落とした土木請負人から 開発権利を買い取り 1707年
開発は 完了した。

稲作の田は 3割、河内木綿の畑が7割であった。 農民は 小作料、年貢
を米の場合は 現物で支払ったが 木綿の場合 綿商人に売り 銀で 
支払った。 木綿専業農家は裕福であった。 

享保二年(1716年)の収益は 現在の貨幣換算で 4億2600万円で その
内訳は 

    収入            幕府への年貢             新田維持費       会所維持費

6億8000 万円   1億8,100万円           3,160万円       4,200万円

享和2年 ( 1802年 )は 大赤字であった。 大洪水が あったと思われる。
4億1,800万という赤字を計上している。収入は 2,900万円しかないのに 
新田維持費3億6,300万円にも達した。会所維持費も 例年より多い 7,500
万円にもなっている。 

災害があれば 水路、道路、 橋などの補修に多額の費用がかかる。
また会所維持費も 農民救済のための出費が かさむ。 会所内は 災害時
の炊き出し用の大きな釜( かま )が 数個ある。また畑仕事ができなく
なった老人には 米を配布した。 これは 孝養米( こうようまい )といわ
れ 老齢年金のようなものであった。 

新田開発は リスクの大きい事業で 天候に左右され 赤字の年が
多かった。鴻池善衛門は 金融業以外の事業は 今後 一切 しては 
ならないと 家訓を残しているが。

徳川幕府の大和川付け替えにより 河内平野 大阪平野の浸水の危険が
完全になくなったわけではない。

明治18年 ( 1885年 ) 淀川大洪水により 河内377ヶ村が浸水し 
一ヶ月間 水が完全には 引かなかった。 鴻池新田会所も 軒下まで
約 2.5 メートル浸水し 新田の人々は 生駒山麓の日下( くさか )
に避難した。 

第二次世界大戦後 新たな問題が持ち上がった。 寝屋川流域は かっては 
保水能力の高い 水田れんこん畑が広がっていたが 流域の都市化と工業化
により 田畑は 住宅地 工場となり 地下水を工業用水として利用したため 
元々天井川であったものが 川の両側の地盤沈下により 1970年以降度々 
洪水に 見舞われるようになった。1972年7月の集中豪雨では 寝屋川流域
で40,000戸が浸水した。 住民の代表が 川を管理する市、府、 国に
対して集団訴訟を起こした。

現在 第二寝屋川、 城北川、淀川への分流調節により 洪水の心配は なく
なった。寝屋川は 大東市附近では 高い鋼矢板とコンクリートの壁で両岸が
覆われ 親水性と川の景観が損なわれ かっての船による野崎参りの景観は
想像もできなくなっている。 あまりにも殺風景なので JR住道駅のあたりの
護岸璧には 画が描かれている。




るろうに 剣心 (予告篇 )( スペイン語 字幕付き )

るろうに 剣心 





El rodaje de la película "Rorouni Kenshin" ( "Samurá1 X en América Latina)
fue hecho en la antigua Oficina de la Hacienda de Kônoike, que aparece en la
película como la comisaría cuarta de la Policía de Tokio.

En Japón, fue estrenada el 25 de agosto de 2012. Se estrenará en 64 países
en varios idiomas. Rurounin Kenshin conocido en España como Rurouni
Kenshin, guerrero samurái, y América Latina como Samurái X es un manga
creado por Watsuki Nobuhiro. Fue publicado en la revista semanal del manga
para niños "Shonen Jump" de la editorial Shûeisha entre el número 19 de 1994
y el 43 de 1994. Es una ficción pero se tratan algunos acontecimientos históricos
reales y los personajes que realmente existían en los primeros años de la era
Meiji.

Fue llevdo a la versión anime por Furuhashi Kazuhiro.











 


 



アクセス : 学研都市線 : 京橋より 鴻池新田
鴻池新田駅より 徒歩 5 分

地下鉄 今里線 鴫野下車
学研都市線 鴫野から鴻池新田下車
徒歩 5 分


 観 覧 期 間   平成18年4月1日より通年公開に
     なりました。
   随時 特別公開あり
 観 覧 時 間    午前10時~午後4時まで
 休 館 日    月曜日・祝日の翌日
   (月曜日が祝日の場合はその翌日)
  年末年始(12月29日~1月4日)
月曜日(祝日のときは開館)
祝日の翌日(土・日曜日は開館)
※展示準備や保全のため臨時休館する
場合があり、その際は
文化財課ホームページでお知らせします。
 観 覧 料    一般  300円
   (団体20人以上 1人1回 250円)
   小中学生 200円
   (団体20人以上 1人1回 150円)
施 設 利 用 料    座敷等の施設の利用ができます。
   詳しくは下記までお問い合わせください。
  お問い合せ先  〒578-0974 東大阪市鴻池元町2番30号
           鴻 池 新 田 会 所
       TEL 06-6745-6409
          FAX 06-6744-7498









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加賀屋新田会所



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佐々木博昭  



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