がんばろう! 日本


奈良県 奈良市

橿原神宮 






樫原神宮


御祭神 : 神武天皇と皇后

〒634−8550 奈良県橿原市久米町934
電話 : 0744−22−3271
FAX : 0744−24−7720


http://www.geocities.jp/general_sasaki/kashiwara-jingu-ni.html




英語




スペイン語




橿原神宮 第一鳥居





神橋と第二鳥居



南神門



南神門 紀元二千六百七十三年





外拝殿



平成25年2月11日 午後3時
建国記念日 式典は すでに終了



内拝殿



深田池





北神門
ここから神武天皇御陵へ行ける



神武天皇御陵への道



樫原市 市役所
のとび

日本書紀によれば 紀元前 660年2月11日、神倭伊波礼毘古命(かむやまといわ
れびこのみこと
) 日向の国から 東に向かわれ 幾多の困難の後、畝傍山の南東麓
に到着し、 樫原宮を建て 即位された。 その地と推定される場所に面積 50万平方
メートルの広大な神域を整備し 橿原神宮が明治23年 ( 1890年 )に建てられた。

祭神は神武(じんむ)天皇とその皇后・媛蹈?五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)
で、 本殿は京都御所の賢所(かしこどころ)を移築したものです。
 







手前 新燃岳(しんもえだけ) 後  高千穂の峰
平成25年 ( 2013年 ) 紀元2673年

天照大御神と高木神は 天照大御神の孫 日子番能邇邇藝命(ひこほのににぎの
みこと)に豊葦原の瑞穂の国(とよあしはらみずほのくに)はお前にまかせた。天降り
せよとおおせになった。

邇邇藝命は 筑紫の日向の高千穂の峰に降臨された。

邇邇藝命の曾孫の神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)は
兄の五瀬命(いつせのみこと)にいわれた。 「 どこに住んだら、天下を平らか
に治めることができるだろうか。もっと東に住んだ方がいいだろう」。

そこで 日向を出発して 東に向かわれた。

神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)は 難波津から川を上り 日下
(くさか)に停泊された。 その時、登美能那賀須泥毘古(とみのながすねひこ)
の軍が現れ、 弓矢で攻撃してきて、 前進を阻まれた。兄君の 五瀬命 ( いつせ
のみこと )は 手に弓矢があたって負傷され、言われた。

「我々は 日の神の子孫であるのに太陽に向かって戦ったのが悪かった。 遠回り
になるが引き返そう」といわれた。 難波津から 紀州の方へ向かわれ 大阪府泉北
の海( 和泉灘 )で 御瀬命は手の血を洗われた。 海は血で染まった。 
それ故、この海を血沼(ちぬ)の海という。 

紀州の雄湊(おのみなと)で「卑しき者に射られて 死んでなるものか 」と叫ばれ
息を引き取られた。遺体は紀の国の竃山(かめやま)に埋葬した。

雄湊(おのみなと)から迂回して 熊野村(和歌県新宮市)に着いた。大きな熊が
現れ すぐ 姿を消した。 神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)は
気を失い、 兵士もみな 気を失った。 この時 熊野の高倉下(たかくらじ)という
男が刀を神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)が倒れているところ
へ持ってきて献げたところ 目がさめた。 その刀を日の御子が手にしたところ、
熊野の荒ぶる神たちは ばたばたと倒れた。 また 倒れていた兵士たちもみな目
を覚まして 起き上がった。

神倭伊波礼毘古命は 高倉下(たかくらじ)にどうしてその刀を持って来たのか
たずめた。 高倉下(たかくらじ)は 答えた。 「夢の中で、天照大神と高木の神
が建御雷(たけみみかずちのかみ)に葦原中つ国は騒がしいようだ。天つ神の御子
達も病気で困っているようだ。 葦原中つ国は 汝が一度 平定した国だ。今より
天降りせよとおおせになった。 ところが 建御雷(たけみかずちのかみ)は
葦原中つ国を平定した太刀が ございます。 これを下界へ落しましょう。と
夢の中で 建御雷(たけみかずちのかみ)神様が私におっしゃいました。
この太刀を高倉の屋根を突き破って落とすので 受け取り、天つ神の御子に
奉れ。とおっしゃった。 朝 目が覚めて倉へ行きましたところ 太刀がありました
ので 持って参りました。」

ここで 高木の神が現れ、天つ神の御子に申された。 「天つ神の御子よ。ここから
山奥にすぐ入っては いけない。荒ぶる神が 大勢いる。 天から八咫烏を遣わ
そう。八咫烏の跡をついて行きなさい。」と 申された。

そこで 高木の神のいう通り、八咫烏についていくと 吉野川の下流に出た。そこで
やなをしかけて魚を捕っている人がいた。天つ神の御子が お前は 誰だと聞くと
私は 国つ神で名は 贄持之子(にへもつのこ)と申します。といった。 彼は 宇陀
の鵜飼の先祖である。 そこより さらに進むと尾の生えた人が 井戸から出てきた。
その井戸の中は 光っていた。 天つ神の御子は お前は誰だと訊ねた。 
その男は 「私は 国つ神で、名は 井水鹿 (いひか)と申します。」と答えた。
彼は 吉野の首(おびと)の先祖である。

更に進むと 大きな岩を押しのけ人がでてきた。 天つ神の御子が お前は 誰
かと聞くと 「私は 国つ神で 石押分之子(いはおしわくのこ)と申します。 天つ
神の御子がいらっしゃるというので 歓迎に参りました。」と答えた。彼は 吉野
の国巣( くにす)の先祖である。 それから 山を踏み穿ち 人が宇陀にでた。
であるから 宇陀の穿(うだのうがち)という。

宇陀に兄宇迦斯(えうかし)、弟宇迦斯( おとうかし)という兄弟がいた。天つ神の
御子は 八咫烏にたずねさせた。 「今 天つ神の御子が 来られた。 おまえたちは
お仕えするか。」とたずねさせた。 兄宇迦斯(えうかし)は 鳴鏑の矢を構えて
待っていたが、 八咫烏を射て追い返した。その矢の落ちた所を訶夫羅前
( かぶらさき)という。 さらに、「待ち受けて やっつけよう。 」といったが 仲間が
集まらなかった。そこで、「お仕えしようと偽って、御殿を造り、その中で、押機(おし)
を仕掛けて待っていた。

弟宇迦斯は 天つ神のの御子の下に参じて、「わが兄 兄宇迦斯(えうかし)は、
天つ神の御子の使いを射て追い返し、同士が集まらないので、御殿を造り、その中
で、押機(おし)を仕掛けて 待ち構えています。参上して、謀略を申しあげる次第
です」といった。

そこで、 大伴の連の先祖 道臣命( みちのおみのみこと)と久米直(くめの
あたい)の先祖 大久米の命の二人は 兄宇迦斯(えうかし)を呼びつけ、 ののしり
「お前が 御子のために造った大殿に まず入って、お仕えする方法を
はっきり 示せ。」というと、 刀の柄をにぎり、矛先を突きつけ、矢をかまえて、大殿
の中へ追い立てた。兄宇迦斯(えうかし)は 大殿の中に入り 自分の作った押機
(おし)で 打たれて 死んだ。 死体を引き出し、 切り刻んだ。

神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)の一向は 宇陀から さらに
進み、忍坂(おさか)の大室(おおむろ)に着いた時、尻尾のある八十建(やそたける)
の一族が 日の御子の一向を攻め滅ぼそうと待ち構えていた。

道臣命( みちのおみのみこと) は 神倭伊波礼毘古命に 戦えば 我々の多くが
戦死します。といい、 八十建(やそたける )達に御馳走をして 彼らが 食べている
間に 討ち滅ぼしましょうといった。 久米直の兵士が 刀を隠して御馳走を運び、
八十建(やそたける)一族が 酔って踊りだした時、 合図の歌を歌い 討ち果たした。

神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)より 前に 大和に天下った
神がいた。 それは 饒速日命/邇芸速日命 ( ニギハヤヒノミコト )である。天照
大御神から 十種の神器を授かり 天磐船に乗り、 河内国の河上に降臨した。
その地は 大阪府交野市の磐船神社だと言われている。 巨岩が多くあり 巨岩の
間を通る「岩めぐり」が できるが、 高さ12 メートル、 幅12 メートルの巨岩は 
御神体として 祀られている。 那賀須泥毘古( ナガスネホコ)は 妹の 登美
夜毘売(トミヤヒメ)が 邇芸速日命の妻であり、 邇芸速日命に仕えていた。 
邇芸速日命と登美夜毘売(トミヤヒメ)の間には 宇摩志麻遅命( うましまじの
みこと )という子供がいた。 彼は 、物部連、穂積臣、采女臣の祖である。

邇芸速日命は 伊波礼毘古命の所にやってきて 申し上げた。 「天神(あまつ
かみ)の御子が やって来られたというのを 聞いてやってきました。大和に住んで
いる者ですが お仕えしたく存じます。 」といって天の羽羽矢(あまのははや)と
歩靫( かちゆき )を天神の御子である証拠として見せる。

邇芸速日命は 那賀須泥毘古( ナガスネホコ)に 対立するのをやめて 伊波礼
毘古命に 仕えるよういったが 那賀須泥毘古( ナガスネホコ)は 邇芸速日命
( ニギハヤヒノミコト )の後から天下ってきた伊波礼毘古命が天つ神の子である
ことを信じることが出来なかった。それ故 伊波礼毘古命と戦い 御瀬命を死に
追いやったのであった。 兵をだして 幾たびとなく 伊波礼毘古命を攻撃した。

邇芸速日命は やむなく 娘婿の那賀須泥毘古( ナガスネホコ)と戦うことと
なった。 那賀須泥毘古( ナガスネホコ)の軍は 強く 伊波礼毘古命は 苦戦
していた時、 空が暗くなり 雹が降り出した。 その時 暗闇の中に一条の光が
さし、 金色の鵄(とび)が 現れ 伊波礼毘古命の弓のてっぺんに止まった。
賊軍は 金色の鵄(とび)が 放つ光に目がくらみ、 動けなくなる那賀須泥毘古
( ナガスネホコ)は 討ち取られた。

伊波礼毘古命は困難辛苦の後、 畝傍山の東南に紀元前660年2月11日、
樫原宮で初代天皇として 即位され 大和の国を治められた。 諡(おくりな)を
神武天皇と申上げる。

橿原建都の大詔は :

、「我東を征ちしより、茲に六年になりにたり。頼るに皇天の威を以てして、凶徒
就戮されぬ。辺の土末だ清らず、余の妖尚梗れたりと雖も、中洲之地、復風
塵無し。誠に皇都を恢き廓めて、大壯を規り慕るべし。而るを今運屯蒙に属ひて、
民の心素朴なり。巣に棲み穴に住みて、習俗惟常となりたり。夫れ大人制を
立てて、義必ず時に随ふ。苟くも民に利有らば、何ぞ聖の造に妨はむ。且当
に山林を披き払ひ、宮室を経営りて、恭みて宝位に臨みて、元元を鎮むベし。
上は乾霊の国を授けたまひし徳に答へ、下は皇孫の正を養ひたまひし心を
弘めむ。然して後に、六合を兼ねて都を開き、八紘を掩ひて宇に為むこと、亦
可からずや。観れば、夫の畝傍山の東南の橿原の地は、蓋し国の墺区か。
治るべし」 

現代訳 ;

「日向の国を出発してから六年になつた。天神の威光により 凶徒は 成敗された。
しかし 国の周辺は まだ治まっていない。 しかし 国の中心部は 平和になった。
皇都をひらき御殿を造らう。 日本は まだ 未開であるが 民の心は素直である。

人々は巣に棲んだり穴に住んだり、未開の習俗がまだ 変わらない。 そもそも
聖人が 制度、 法を定めて 正義が 行われるのである。 国民の利益になること
をすれば どうして それを妨げる者がいようか。

山林を開き 皇居を建て 平和国家の基礎を樹立しようと思う。上(統治者)は
国を授けられた御神徳に答え、 下は 皇孫の正義の精神を広めなければ
ならない。

その後 国を統一して 都を開き、 天の下を掩ひて一つの家とすべきであろう。
畝傍山の東南の橿原の地は 国の中央にあるから きっと うまく 治まるであろう。



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熊野速玉神社( くまのはやたまじんじゃ)
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和歌山県新宮市内










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お食事処


月の舟
橿原市縄手町377−7
Tel : 0744-29-1567
和食 藤原京址の近く 

豆仙坊 喜楽
八木西口駅



町家茶屋
古伊

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電話 : 0744−28−6636
橿原ロイヤルホテル 8階





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