大阪

浄土宗 板松山高岳院( ばんしょうざん こうがくいん)
一心寺 ( いっしんじ ) 



〒543-0062
 大阪市天王寺区逢阪2丁目8-69


英語



スペイン語


本堂

法然上人 ( ほうねんしょうにん )は 京都華頂山のふもと( 現在の知恩院)
で、 念仏の教えを 広め始められていましたが 文治元年(1185年)当時
四天王寺の別当 ( 管長 )であられた慈鎮和尚 ( 慈円 )のお招きにより 
四天王寺を参拝されました。

その時 四天王寺の西門から更に西へ数丁のところで 海と空を染めて落ちて
いく 夕陽を見られ 南無阿弥陀仏とお念仏を唱えられました。 上人は その
場所に四間四方の草庵をお造りになり、「荒陵の新別所(あらはかのしんべっ
しょ)」という名をつけ日想観というお勤めをなされました。 後に後鳥羽)
法皇も おいでになり、 上人と共に日想観というお勤めをなされました。

日想観というのは 西方に沈みゆく太陽に向かって念仏を唱え、 極楽往生を
願う 観無量寿経に説かれている念仏修行です。 この周辺は 夕陽ヶ丘
といい 昔から 美しい夕陽で有名です。 その時 後鳥羽法皇が詠まれた歌は 





横から見れば 軍艦のよう




ユニークな山門




一心寺 鐘楼




天王寺七坂のうち
逢坂 ( おうさか ) 
通天閣が見える





 難波潟入りにし 日をも ながむれば 

  よしあしともに 南無阿弥陀仏

 後鳥羽法皇


法然上人 の詠まれた御歌は 

 阿弥陀仏というより他は 津の国の

なにわのことも あしかりぬべし 

法然上人 

です。 

日想観の修行は 弘法大師( 空海)も四天王寺でなされました。 

一心寺の現在の境内地は 豊臣秀吉公の夫人 高台院から 拝領したと伝え
られています。 山号は  板松山高岳院 と名付けられました。  
 
元和元年(1615年)大坂夏の陣では 徳川家康公が 茶臼山から 一心寺の
一帯に本陣を敷きました。当時の住職本誉存牟上人(ほんよぞんむしょうにん)
は 寺が戦場となり 多くの無名戦士の死体が累々( るいるい )と横たわって
いるのを見て 大いに悲しみ 3000体に及ぶ死体を一ヶ所に集め ねんごろ
に供養されました。 住職本誉存牟上人は 三河の出身で 徳川家康公と
同郷でした。 縁とは 不思議なものです。

江戸末期になって、年中無休 申し込み次第の「お施餓鬼」のできる寺として、
宗派を問わず庶民に親しまれるようになりました。

また納骨が増えてきたため、明治20年(1887年)に約5万体の納骨でもっ
て「お骨佛」が造立され、現在までに12体が造立され、納骨堂には戦後の6体
が安置されております。 現在では 「 御骨仏の寺 」 として 知られています。




講堂 三千佛堂


元建築家 一心寺長老 高口恭行師の設計


神々の山 ヒマラヤの山並みと、阿弥陀佛の故郷ガンダーラの風景の中に
阿弥陀如来、観世音菩薩(右)、勢至菩薩(左)の三尊を配し、十方無量の
光明と無限の慈悲、すなわち時空を越えた無量の徳を表現しております。

無量寿経に説く「諸仏の中に於いて光明最尊第一にして、この光にあう者
をして一切の苦から免れしめる」お姿。また浄土より現世に現れて衆生を救済
される来迎のお姿を示しております

漆喰壁にレオナルド・ダ・ビンチ作の教会壁画「最後の晩餐」と同じ、テンペラ
技法で画かれています。

制作者:李暁剛(リ・シャオガン)氏。1958年中国北京市生れ。京都造形芸術
大学・大阪教育大学講師。白日会会員洋画家



雄大なヒマラヤの峰々の上にお姿を現わされる
観世音菩薩


昭和20年 大阪空襲により 堂塔伽藍(どうとうがらん ) はほとんどすべて
焼失しました。 戦後 再建が着々と進みましたが 平成14年 三千佛堂が
再建されました。  江戸時代の檀家制度により 多くの寺は門を閉ざしています。
しかし お寺は 開かれたものでなければならないと考えに 基づき三千佛堂の
数ヶ所の扉は 開かれています。開放的で明るいお寺です。 拝観料を徴収
したり 撮影禁止とか 秘仏と称して 一年に一度とか 数年に一度しか 見せな
かったり 既成の仏教寺院の概念を 打破しています。




三千佛堂の回廊




戌神伐折羅(イヌバサラ)大将




念仏堂

また お寺は 明るいものでなくてはいけないという考えから 講堂の釈迦
三尊の絵は 光輝いています。 三千佛堂の回廊は  一口20万円の寄進
10人分で 身の丈 2尺5寸の仏像を造り 100年かけて 千躰佛を 奉安
する予定です。 すでに たくさん並んでいます。








骨佛
(もっとも最近の納骨で
作ったもの )


文化勲章受賞の
日本画家
秋野不矩(あきの ふく)
の天女像


もっとも最近のお骨仏は 第13期 ( 平成9年から平成18年
−163,254 体のお骨から 作られた。 )




獅子のゴミ箱



山門の扉




一心寺長老 高口恭行( たかぐち きょうぎょう)師は
京都大学 建築学部卒、工学博士。 奈良女子大教授を歴任。
2003年 関西建築家田大賞を受賞。著名な建築家であった。 
山門その他のユニークな建築は 師の設計による。
現住職 高口恭典師は恭行師の御長男で 元獣医であった。





横から見た本堂 



開山堂



本多出雲守忠朝の墓



お礼参り





本多忠朝 ( ほんだ ただとも )
1582年(天正10年) − 1615年6月3日(慶長20年5月7日))

徳川四天王の一人とうたわれた本多忠勝の次男 本多出雲守忠朝は 
上総国大多喜五万石の城主であった。 大阪冬の陣の際 手柄を立てたい
がため、攻め口の変更を家康に願い出て 家康から 父に似ず不肖の子と
激しく叱責された忠朝は大阪夏の陣では 名誉挽回とばかり 討ち死に覚悟
で 豊臣方 毛利勝永隊に突っ込み 激闘の末 壮烈な 戦死をとげた。。。 
というのが 大阪城の 「 大阪夏の陣屏風 」 の説明である。 

ところが 一心寺の説明板は少し 違うことが書いてある。

「慶長19年(1614年)、大坂冬の陣でも活躍したが、このとき酒を飲んでいた
ため、敵の猛攻に遭って敗退した。それを家康に咎められた忠朝は翌年の
大坂夏の陣のとき、汚名を返上しようと毛利勝永と戦って奮戦したが戦死した。
死の間際、「戒むべきは酒なり、今後わが墓に詣でる者は、必ず酒嫌いとなる
べし」と言ったとされることから、死後「酒封じの神」として知られるようになった。


死後、亡父の忠勝に劣らぬ猛者であった忠朝の死を家康は悲しみ、忠朝の
遺児本多政勝を 十五万石大和国郡山城主として封じた。」

本多出雲守忠朝が 大多喜領 (現 千葉県御宿)の領主だった時 1609年
フィリッピンから メキシコの向かうスペイン船サンフランシスコ号、サンアントニオ
号、サンタアナ号が大暴風雨に遭遇し全三艘が難破し、その中でも乗員・乗客
373人を乗せたサン・フランシスコ号が9月30日上総沖、岩和田(大多喜領、
現千葉県御宿町岩和田)で座礁 した。住民が救出に向かい、317名が救助
された。 岩和田は当時人口三百人足らずの村であった。

本多出雲守忠朝も視察に訪れ 一行の保護を命じ 彼等は 37日間 厚遇
された。 ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・アベルシア・ラッソ・デ・ ラ ベガ・イ・ 
ベラスコ ( 
Rodrigo de Vivero y Aberrucia Lasso de la Vega y Velasco
前フィリッピン臨時総督は 江戸に出て二代将軍秀忠に会見し、また 翌年
駿府において 家康と面会した。

日本の支配者とスペインの高官の対話が実現し、ここに両国間通商交渉が
開始された。  家康は ヌエバ・エスパーニャ( メキシコ )との交易を望むこと、
また銀採掘のための冶金技術者50名をヌエバ・エスパーニャから招きたい
との希望を述べた。 

ビーベロはスペイン船の海難への救助協力と宣教師の保護、家康とフェリペ
三世間の友好関係の維持、及びスペインの敵オランダ人の日本からの追放を
要請した。 スペイン語の外交文書は フランシスコ会宣教師 ルイス ソテロに
よって 作成された。 日本語の原文は 残っていない。 当時は日本の
キリスト教の宣教は イエスス会によってなされていた。 ソテロは 日本での
フランシスコ会宣教を有利にするため 日本語の原文を忠実に訳していない
可能性がある。

家康は オランダ人の追放には 同意していなかったとおもわれる。 家康は 
三浦安針 ( ウィリアム・アダムズ)というイギリス人の家来 がいて オランダ人
 ヤン・ヨーステン 
( Jan Joosten Van Loodensteijn )が 外交顧問にして
いたので オランダ人を追放するはずはない。 その後追放されたのは スペ
イン人とポルトガル人であり、 オランダとの通商関係は 幕末まで 続いた。

家康は ウィリアム アダムスに船を造ることを命じスペイン人等は 帰国したが
その船には 22人の日本人が乗っていた。 彼等が アメリカ大陸の土を踏んだ
最初の日本人であった。 

 : ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・アベルシア・ラッソ・デ・ ラ ベガ・イ・ ベラスコ
に関しては 「 (前)総督 」 「(前)総督代理」 「(前)臨時総督 」 等という
肩書で紹介されているが、「前フィリッピン臨時総督と 」訳すべきである。 
彼は 臨時総督という肩書きで 1608年 就任し1609年 退任している。

任期を終えて フィリッピンより ヌエバ・エスパニャ( メキシコ)へ帰る途中
難破して 御宿に漂着した。 

歴代の総督で 臨時総督 ( 
gobernador interino ) という肩書きで就任し
任期を終えた者がたくさんいます。中には 5年も勤めた臨時総督もいます。
一年でやめた 正総督もいます。  現在のスペインでも 公務員は 仕事が


楽であるので 人気のある職種であるが 臨時雇いという肩書で 就職し 長年
勤めて退職する者が多い。

代理すべき正総督がいなかったので
 gobernador interino を総督代理と訳
するのは 間違いである。 臨時総督も 総督と同じ権限を行使した。 歴史
的事実とスペイン社会の理解がなくては 誤訳する。

日本の歴史においても 同じようなことがある。 菅原道真は 大宰府に 
大宰権帥(だざいごんのそち)として 派遣されたが 大宰権帥(だざいごんの
そち)は  大宰府の副長官である。 長官と誤って書かれているものが 多い。
但し 長官は 名目だけで 京都に居て、 副長官が 実質的に 大宰府長官
であった。

また 明治維新において、 村田益次郎は 兵部省大輔(次官)であったが
大臣の兵部卿は 皇族の 小松宮彰仁親王(こまつのみやあきひとしんのう)
で 名目的な 大臣であった。兵部省の実権は 村田益次郎が 持っていた。




メキシコ記念塔
正式名は 「 日・西・墨三国交通発祥記念之碑」
千葉県御宿町


1928年(昭和3年)に建てられました。 1978年(昭和53年)メキシコのホセ・
ロペス・ポルティーリョ大統領が御宿を訪れ 御宿町は、アカプルコ市と姉妹
都市協定を締結しました。








一心寺写経堂 三清庵の庭



一心寺写経堂 三清庵の庭



一心寺シアター  倶楽 (くら )
元建築家 一心寺長老 高口恭行師の設計


一心寺シアター  倶楽( 観る者も演じる者も共に楽しむ)と コンセプトの劇場。
大衆芸能、マイナーな演劇、 大衆古典芸能で大阪市民に楽しまれている。







小西来山









一心寺 公式ホームページ

本多忠朝

御宿町



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公認 スペイン語 英語 通訳案内士 佐々木博昭
 



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