大阪

難波大社

生国魂神社
( いくくにたまじんじゃ )

御祭神

生島大神 ( いくしまのおおかみ )
足島大神 ( たるしまのおおかみ ) 

大物主大神 ( おおものむしのおおかみ ) 





英語



スペイン語



大阪では 生玉神社( いくたま じんじゃ )または 生玉( いくたま )さんと
呼ばれているお社(やしろ)は 正式には 難波大社 生國魂神社 ( なにわ
だいしゃ いくくにたまじんじゃ)と 申します。 

社伝によれば、 神武天皇の御東征の折、難波に到着され、 現在の大阪
城のあたりに 大地創生の神 生島大神、 足神大神を祀られたのが 当社の


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創祀(そうし)だといわれています。

当社が歴史の記録に現れるのは 日本書紀に 難波に都のあった孝徳天皇の
御世 天皇は 仏法を尊び 神道を軽ん 「 生國魂社 」の鎮守の杜の木を
切ったと記されています。

中世には 生國魂神社に隣接して 石山本願寺が建てられていたが 
織田信長
の石山攻めの際、 生國魂社も炎上しました。

豊臣秀吉は ここに 大阪城の建設を決め 1585年 現在の地に 御遷座され
ました。 豊臣家、徳川家の保護を受け、 明治になって 官幣大社に列せられ
国土の守護神、難波総鎮守として 広く 崇敬されてきました。



社殿




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本殿 幣殿





本殿は 「 生國魂造( いくくにたまづくり ) 」 と呼ばれ 他に類を見ない
建築様式であり、 本殿と幣殿は 一つの流造りで 葺きおろし、 正面の屋上
に千鳥破風( ちどりはふ)、すがり唐破風 ( からはふ ) 更に唐破風に
なっています。

社殿は 明治45年の「南の太火」で焼失、 再建されものは 昭和20年の空襲
で焼失、 昭和25年の ジェーン台風で 総檜素木造 ( そうひのき しらき
づくり )の御本殿が倒壊し 現在の社殿は 昭和31年に鉄筋コンクリート造り
で 建てられました。







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地球温暖化により 平成十九年( 2007年 )3月30日 大阪 生魂神社 ( いく
たまじんじゃ )で 桜開花。 なお 大阪城 西の丸庭園では 3月29日開花。







井原西鶴



井原西鶴
( 1642 - 1693 )
俳諧師 小説家

大阪の裕福な商人の子として生まれたといわれれている。 若い時より 家業は
人の任せて 諸国を放浪した。 西山宗因( にしやまそういん)について俳諧を
学んだ。 

15歳の時から 俳諧を学び 20才頃には 点者となった。 俳諧点者というのは
俳諧の優劣を判定するプロの俳諧師です。

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俳諧師として一躍有名になったのは 寛文十三年(1673)三月 井原鶴永と
名乗っていた三十二才の時 生玉南坊で行った 「 生玉万句興行 」です。
十二日間に 俳士 200名が 百韻百巻を達成した 一大ショ−でした。

また延宝八年 ( 1680年 ) の39歳の時、 南坊( 生玉十坊のひとつ )
にて 一昼夜かけて 一人で 四千句を詠みあげました。

西鶴43歳の貞享元年(ていきょうがんねん)((1684)に住吉神社で一昼夜
23500句の独吟俳諧を興行し、前人未到の大記録を立てた。矢数俳諧と
いう文字通り 4秒に一句を矢を飛ばすように作った。 

40才を過ぎた頃から 浮世草紙というジャンルの小説を創作し書き始めた。
「好色一代男」 「好色一代女 」 「 好色五人女 」などの好色物、「日本永代蔵」



生玉真言坂 ( いくたましんごんざか )

千日前の大鳥居から 生國魂神社の北門へ行く坂道。 この坂の周囲には
真言宗の生玉十坊があったので 真言坂という。



北門
平成19年3月30日桜開花


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「 世間胸算用 」などの町人物、 「武道伝来記」などの武家物を書いた。
芭蕉、 近松門左衛門と並ぶ 江戸時代の代表的な文学者である。

52歳で大阪で亡くなった。 西鶴の墓は 長らく 行方不明であったが
明治22年( 1889年 ) 1月、幸田露伴が 大阪上本町の誓願寺の無縁仏
の墓の中から 発見した。 露伴は 住職にお金を払い、「あの墓は 井原
西鶴先生のお墓です。 別にして 弔っていただきたい。」といった。

露伴は 新しい卒塔婆を所望して

 元禄の奇才子を弔うて
      九天の霞を洩れて、つるの声
                    露伴・幸田成行 


と記した。



井原西鶴の墓





















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上方落語の祖と言われている米沢彦八は 、貞享から正徳(1684〜1715)に
かけて活躍し 生國魂神社の境内で 咄をして有名になった。 正徳4年
(1714年) 尾張の興行主に招かれ かの地で客死した。 

上方落語協会では 平成2年3月に 生玉神社境内で 彦八の顕彰碑を建立
し 毎年 9月の第一土曜と第二土曜に 「彦八まつり」が 行われ 境内は
にぎわう。









元禄9年( 1694年 ) 菊の香 薫る古都奈良をたち 9月9日 重陽の節句の
日の生玉神社の例祭日に神社を参拝し 「菊に出でて 奈良と難波は 宵月夜」
の句を読んだ。 

その句碑が 生玉神社の境内にある。 その後 大阪の名所を尋ね 句を詠んだ
が 病に落ち 同年11月12日 南御堂前の 花屋仁左衛門宅で 永眠した。





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山吹 (3月30日)



左より右へ 

    城方向八幡宮 ( きたむき はちまんぐう ) 

大阪城鬼門の守護神として鎮祭されたことから 城方向( 北向き )八幡宮
といいます。 この神社は 元々 現在の生玉公園にあった 蓮池のあたり
にあったが かっては 大阪城中の武士により 御弓神事 走馬神事が 行われて
いた。 

   鞴神社 ( ふいごじんじゃ ) :製鉄、製綱、 鍛治の神様で 火の用心の
かまどの神として崇敬されています。

   家造祖神社( やづくり みおやじんじゃ ): 家家造りの祖神である手置帆
負神( たおきほおいのかみ ) 彦狭知神( ひこさしりのかみ )を土木建築
の守護神として お祀りしています。 

   浄瑠璃神社 ( じょうるりじんじゃ ) :


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近松門左衛門他 人形浄瑠璃 (文楽 ) の成立に功のあった浄瑠璃
七功神の他 文楽の物故者を祭神として御祀りしています。 文豪 近松
門左衛門が活躍し 人形浄瑠璃 (文楽 )が栄えた大阪ならでは神社です。

なお 近松門左衛門の曽根崎心中は 生國魂神社の境内から始まります。




浄瑠璃神社




奥の方 住吉神社
手前の方 天満宮




女性の守護神 鴫野神社 ( 巳(み)いさん )


淀君ゆかりの神社です。 かって 現在の大阪ビジネス・パークのあたりに弁天
島と呼ばれるところがあり、そのあたりに 「鴫野の弁天さん」と呼ばれる 弁天社
があった。 淀君の崇敬篤く 後にその横に 「淀姫社」が 祀られるようになった。

女性の守護神として 心願成就、 縁結び、 悪縁切りまで 毎月 「巳の日」
に多くの女性が参拝に訪れるようになった。


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その後 弁天島買収に伴い 大阪城に縁の深い生國魂神社に移された。 

( 生國魂神社略誌より ) 






左 笠間藩士
島男也( おなり) 
の墓

右 水戸藩士
川崎孫四郎の墓





生國魂神社門前
の説明板








江戸城 桜田門

1860年3月24日 
桜田門外で 大老井伊直弼(いいなおすけ)を
水戸浪士等が襲撃 暗殺する。


朝廷の裁可なしに 5ヶ国条約を結び 安政の大獄で反対派を弾圧した井伊
直弼( いいなおすけ ) に対し 反対する過激水戸藩士は 脱藩し 薩摩


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藩浪士と謀り 1860年3月24日 桜田門外で 大老井伊直弼(いいなおすけ)
を襲撃し暗殺する。

井伊直弼の暗殺に呼応して 大阪でも 水戸 薩摩藩浪士による幕府打倒の
挙兵計画がありました。 彼等は笠間藩士(かさまはんし) 島男也 ( しま
おなり )の家を密議のアジトとしていました。 孝明天皇( こうめいてんのう )
の勅書を得て 幕府を打倒する考えでしたが 薩摩の意思統一がなされず
計画が 行き詰っていたところ この計画が 幕府側に漏れて 幕史が島の
家を取り囲み 川崎孫四郎は 切腹しようとしますが 傷が浅く 幕史に捕らわれ
ますが 翌日 亡くなります。 

島男也( しま おなり )、 佐久良東雄(さくらあずまお)は 捕らえられ 江戸
送りとなり 江戸伝馬町の牢獄で獄死します。 高橋多一郎 庄左衛門 親子
は 囲みを破りましたが 四天王寺境内で自刃(じじん)した。  





1月
1・2・3日


 
  
  新年祭


3月春分日

 
 浄瑠璃社春祭 


7月
11日・12日


 いくたま 夏祭

8月
11日・12日


   大阪薪能 天文15年(1546年)
   大阪城築城前に生國魂神社に
    能が奉納されたという故実にならい
    昭和32年から行われている。

    

9月9日

  例祭

9月
第1土曜日
日曜日


 彦八まつり

 上方落語協会
 

生玉界隈





日本の神道神社