大 阪
細川ガラシア夫人( 1563-1600 )とその時代
細川家
細川ガラシアの像
大阪カテドラル聖マリア大聖堂
( カトリック 玉造教会 )
大阪市中央区玉造2丁目24−22
新婚時代 - 若き日の細川ガラシアと
細川忠興
勝龍寺城 ( しょうりゅうじじょう )
細川忠興とガラシアが
新婚時代を過ごした 居城
京都府 長岡京市
本能寺の変の後 敗れた明智光秀は
この城へ 退却したことがあった。
鹿児島市 東千石町 ( ひがし
せんごく ちょう )
フランシスコ ザビエル像と記念碑
名城 熊本城
細川ガラシア夫人
『 越中井 』
細川越中守忠興公の屋敷跡
細川忠興夫人秀林院
殉節之遺址 大阪市 中央区
ガラシア夫人 辞世の句
『 散りぬべき時知りてこそ世の中の
花も花なれ人も人なれ 』
中国語 英語 訳
葛縲絲雅夫人的辭世詩句:
( ge 2 lei2 si1 ya3 fu1 ren2
de5 ci2 shi4 shi1 ju4)
Lady Gracia's Farewell poem
若 知 適 時 (ruo4 zhi1 shi4 shi2)
Knowing the right time,
消 散 世 間 ( xiao2 san4 shi4 jian1)
To vanish from the world,
花 既 是 花
(hua1 ji4 shi4 hua1)
FLowers are Truly flowers
人 是 人 也
(ren2 shi4 ren2 ye3)
Men are truly men
在 シンガポール 辜秀玲( こ しゅうれい )
Gu Xiu Ling in Singapore
中国語 訳
Flowers are flowers,
persons are persons
when they know the proper time
to vanish from the world
By Hiroaki Sasaki
スペイン語訳
La última poema de doña Gracia
Hosokawa
" La flor es la flor y el hombre es
el hombre, desfloreciendo en su
debido tiempo "
traducido por Hiroaki Sasaki
大阪市中央区森の宮中央2丁目
( 越中公園の近く )
史跡 越中井由来
ガラシア夫人の名前だけ聞いても どんな人か
知らない人が多いのでは ないでしょうか。
ガラシアは 細川越中守忠興公(ほそかわえっ
ちゅうのかみ ただおきこう )の夫人で
熱心なキリシタン信者でありました。 慶長五年
1600年)忠興公が徳川家康に従って 会津
上杉を征伐(せいばつ)に出陣した留守中 反
家康の石田三成が大名妻子たちを大阪城中に人質
にしようとしたが ガラシア夫人は 聞き入れず
石田三成に取り囲まれ ぜひもなく 家来に首
を打たせ 家屋敷に火を放ち いさぎよく 火中
に果てました。
この越中井は その屋敷の台所にあったと古く
から伝えられています。昭和九年(1934年)
当時 地元の越中町内会の人々相寄り ガラシア
夫人の徳をしのび 顕彰碑を建立したものです。
碑の正面表題の文字は 徳富蘇峰( とくとみ
そほう )先生の筆で 側面左側の由来説明は
京都帝国大学文学部長 新村出先生の文です。
改めて それを 読みながら ガラシア夫人の
壮烈な最後を想い起こして 下さい。
牧村史陽 識
越中町内
細川ガラシア夫人 顕彰 頌徳会
大阪市東淀川区東中島五丁目
曹洞宗 崇禅寺 ( そうぜんじ )
秀林院細川玉子( ガラシア )之墓
仏式の戒名で 葬られている.。 ガラシア
夫人の本名は ” 玉 ” だったと
言う意見と ”玉子 ”だったという意見
があると書かれたものが見うけられるが
墓碑には ” 玉子 ” となっている。
この写真の右側には 足利義教の
首塚がある。
鹿児島市祇園之州公園
( ぎおんのす こうえん )
フランシスコ ザビエル上陸記念碑
天王山 標高270.4 メートル
天下分け目の決戦場
京都府乙訓( おとくに)郡
大山崎町
川の向こう側( 西側 )には
JR 阪急電車が通っており
手前側は 京阪電車が走っていて
京都府 八幡市になる。
大阪市と京都市の境にあり
平野部がせまくなっている。 宇治川
桂川 木津川が合流し
淀川と名を変え 大阪府に流れ込む。
ここで合流する三川の温度差のため
霧が発生しやすい。 山麓には
1923年に建設された
サントリー ウィースキーの山崎蒸留所
がある。 多数のウィスキー 樽が
熟成を待っている。 またこの山の
清流は 万葉歌人が 『 水生野 −
みなせの _』 と 読んだ 名水で
ある。 ここは 日本ウィスキーの
発祥地である。
また 山麓には アサヒビール
大山崎山荘美術館 がある。このには
クロード モネ の 有名な 水蓮
の 画があります。
「五輪の書 」の作者としても有名な 武芸家
戦略家 作家 哲学者 画家 書道家
彫刻家 工芸家で あった宮本武蔵
(1584 −1645 )は 諸国巡歴
( しょ こくじゅんれき) の後 ( のち)
1640年 58才 の時細川忠興の 長男
初代肥後熊本藩主 細川忠利に
客分として 熊本に 招かれる。
翌 1641年 忠利の命により 兵法35ヶ条
を 書く。 この年 藩主 忠利公が 亡くなる。
1643年 霊厳洞 ( れいがんどう ) に
こもり 『 五輪の書 』 を 書く。
1645年 『 独行道 _』 を書くが 病
( やまい ) が 重くなり 62歳で 永眠
する。
熊本市 公式 ホームページ
島原城
長崎県島原市
島原四万石の大名の居城とは思えない
豪壮なものである。 一揆の原因となった
領民の辛苦がしのばれる
玉子( たまこ )は 1563年 明智光秀の三女として 生まれた。 父 明智光秀は 天下統一を
目指していた織田信長の有力な武将であった。 玉子が生まれた時は フランシスコ ザビエルが
鹿児島に上陸してから まだ 14年しかたっていなかった。
玉子は 16歳になるまで 琵琶湖( びわこ ) に面する坂本城で 過ごした。彼女は 聡明で、
活発で 明るく また 好奇心が強く 絶世の美人であったと言われている。 これは 教養人で
あった父 明智光秀の影響であろう。
1578年 玉子が16歳の時 細川藤孝 (ほそかわ ふじたか ー 後に幽斎 − ゆうさい)
の 長男 細川忠興( ほそかわ ただおき ) に 嫁ぐ。 忠興( ただおき ) は 父幽斎の
類(たぐい)まれなる 学識を受継ぎ 和歌、連歌、狂歌、絵画、有識故実、その他広くの芸道に
通じ 文武両道の武将であった。中でも茶の湯は父の幽斎、利休に学び 利休が秀吉に
切腹させられ 亡くなった後は 利休の実子 長男である道安を援助し 豊前(びぜん)の所領
300石を与えたが 千家は 利休の後妻の連れ子 小庵が父利休切腹の後会津に逃げていたが
前田利家や徳川家康の取り成しで豊臣秀吉の許しを得て赦免され京に戻り千家再興を認められ
二代目を継いだ。忠興は 利休七哲のひとりに 数えられている。
玉は結婚してから 丹波の国 勝龍寺城( しょうりゅうじ じょう ) ( 現在 京都府長岡京市 )
で 幸福な 新婚生活を二年ほど 送った。その後忠興は 1580年 父 藤孝( 幽斉)とともに丹後
を攻略し一色氏を降伏させ、信長から丹後一国を賜った。 父幽斎は 田辺城を築き 忠興は
宮津城を建て 丹後宮津12万石の領主となった。
1582年 玉子の父 明智光秀が 本能寺で 織田信長を 襲撃し 死に追いやると事件が
おこった。 信長の命により 毛利制圧のため 中国地方に出向いていた秀吉は 約150 キロ
の距離を4日で京都へ引き返す。 これが 世にいう 『 中国大返し 』 である。 明智光秀
には 大きな誤算があった。 かねてからの盟友であり 娘の娘の嫁ぎ先である 細川忠興
細川藤孝を味方にすることができなかった。 期待していた 筒井順慶 キリシタン大名 高山右近
を 味方につけることが できなかった。
秀吉軍 40,000 に対して 光秀軍16,000が 京都 天王山で 激突する。 この運命を左右する
決戦を” 天王山の戦い ” という 由来は この 戦いからくる。 この戦いで 決定的な 敗北をこう
むった明智光秀は 近江坂本城へ 落ちのびる帰途山科( やましな)小栗栖村( おぐりすむら) で
農民の竹やりで 突かれ 悲劇的な 最後を遂げる。 これは 玉子19歳の時であった。
忠興は主君に叛いた謀反者( むほんもの ) の娘である玉子と離縁せざるを得ず 玉子は二人の
幼児と引き離され丹後の山里 味土野( みどの )(現在 京都府 弥栄町味土野 −やえいちょう
みどの )の山里へ 幽閉する。本能寺の変のほとぼりがさめた 2年後 復縁を許され 大阪玉造の
屋敷に住むようになります。
玉子は 当初 義父 幽斎の姉の子供であった建仁寺 ( けんにんじ) の長老であった英甫
永雄師のもとに参禅し 禅学を学んだが夫忠興公から聞くキリシタン大名の高山右近の話に興味を
持ち 右近の元家臣の加々山少右衛門の母清原マリアにすすめられて、しだいにキリスト教に関心
を寄せるようになった。加々山少右衛門は 後に 一族そろって 小倉で壮烈な殉教をとげる。
夫人が二十五歳になった天正十五年(1587)春、豊臣秀吉の命により 夫 忠興公が 九州制圧に
出向いた留守の時、イエズス会の教会を訪れた。 その日は、丁度、復活祭の日であった。その時
スペイン人の神父セスペデスに キリスト教の教理について鋭い質問をされ 神父は 驚かれたという。
外出もままならない玉子は 宣教師と手紙のやりとりで 信仰を深め 自宅で清原マリアより洗礼を
受ける。洗礼名は Gracia で 神の恩寵という意味である。 日本では ガラシア夫人という名で知られ
ている。
その年 九州制圧に成功した秀吉は キリシタンに対する態度を 変える。 九州には 多くの
大名がキリシタンになっており教会に 土地を寄進する者もいた。 秀吉は 自分の政権基盤
をゆるがしかねないと危惧するようになった。玉子が教会を訪れた年 1587年の7月 秀吉は
高山右近に棄教をせまる。 信仰を棄てることを拒否した右近は明石の領土を取り上げられる。
8月にはキリシタン禁教令をだす。
1590年7月 天正遣欧少年使節団が 8年ぶりに ヴァリニャーノとともに 帰国した。 秀吉は
彼らを暖かく迎える。 ヴァリニャーノは日本を発つまでは 巡察師であったが 今回は インド
総督の使節としての訪日であった。禁教令は 取り消さなかったが秀吉は 西洋との交流 通商
は 望んでいた。
少年使節団は 印刷機を持ち帰っていた。 この印刷機により 公教要理や使徒行録、聖人伝
などの書物が 50数種類ほど発行された。 原マルチノの最後の翻訳は『 こんてむすむん
ぢ contemptus mundi 』 ( キリストに倣いて ) でした。 この印刷機は その後 キリシタン
弾圧が 強まったためマカオに移された。
1596年10月 フィリッピンから メキシコに向かうスペイン船サン・フェリペ号が 土佐のフィリピン
からメキシコに向かう途中 台風に巻き込まれ 土佐の浦戸に漂着し 積荷が没収される事件が
あった。 この積荷の返還を 求める交渉の中で スペイン人の不適切な 脅しの発言があった。
スペインの領土は 陽沈むことのない 大帝国であり 日本を占領するのは 容易いことだと
いった。 日本人の役人が スペイン商船には 少数の軍人したのっていないのに どうして 日本
を占領できるのかという質問に対して 宣教師のあとから 大軍を 送るかも知れないった。
この発言は 秀吉を 立腹させ キリシタン教徒に対する態度を 硬化させ キリシタン教徒大弾圧
のきっかけとなる。
京都 大阪 堺で 逮捕された キリシタン教徒は 耳をそがれ 市中 引き回しの後 大阪に
集められ 1597年1月10日 後ろ手に縛られ 長崎への1,000 キロの徒歩の殉教の旅を
始める。1597年2月5日長崎の西坂の丘で6 名の外国人と 20人の日本人が 殉教をとげる。
最年少者はルドピコ茨木( 1585−1597 )で 当時12才であった。 唐津に着いたとき 長崎
奉行代理 寺沢半三郎は ルドビコのいたいけな姿に心打たれ 棄教すれば 自分の家に
引き取って武士にしてやろうというが ロドビコは きっぱりと 断る。
日本26聖人殉教者は1627年に列福され、1862年 ピオ9世によって列聖されて聖人となった。また
殉教地は、1950年ピオ12世により公式巡礼地へ指定された。
天下分け目の合戦 ( がっせん )の関ヶ原の戦いのあった 1,600年、上記 越中井(えっ
ちゅうい)の由来に 書かれているように ガラシア夫人は家老 小笠原少斎に胸を突かせ 猛炎
( もうえん)の中 壮烈な最後を とげた。 ガラシア夫人 37才の時であった。 ガラシア夫人を
殉教者という人もいるが 『 殉節之遺址 』 と越中井の由来の説明にあるように 武将の 妻と
しての殉節をまっとうして 死を選んだのであって 信仰のため 殉教死したのではない。
家老に 殺させたとは いえ 実際には 自害であった。 カトリックでは 自殺は許されない。
しかしながらキリスト教徒で あるなしには 関係なく ガラシアは その人徳により すべての人に
敬愛されている。
ザビエルの弟子オルガンチノが細川邸の焼跡よりガラシア夫人とその殉死者の遺骨を
拾い、細川家ゆかりの現在 大阪市東淀川区東中島の 曹洞宗 崇禅寺 ( そうぜん
じ )に埋葬した。 大阪玉造カトリック教会の大聖堂の前には ガラシア夫人の像がある。
また ガラシア夫人殉死の記念碑も 大聖堂の庭にある。
昭和九年( 1934 年 ) 越中町町内会の人々が ガラシア夫人の遺徳(いとく)を偲(しの)び
顕彰碑 (けんしょうひ)を 建立(こんりゅう)した。
丹後宮津12万石の大名で あった 忠興は 関ヶ原の戦いの軍功により 豊前小倉( ふぜん
こくら)40万石の大大名となった。 更に 大阪冬の陣 夏の陣では 奮戦し 豊臣方についた
次男 細川興秋( おきあき)を切腹させた。 興秋は 母 ガラシアの影響を受け キリシタンで
あったといわれている。 もし ガラシア夫人がこの時まで 生きながらえていれば 自分の夫
が 我が子を死に追いやる悲劇には 耐え切れなかったであろう。
豊臣秀吉が 亡くなった 1598年から 徳川家康が キリシタン弾圧を始める1612年までの
約15年間は キリシタンの容認期であった。 家康 メキシコ ヨーロッパと貿易をしたかったので
バテレンの国内在留を容認していた。豊前国の領主となった忠興は 慶長六年(1601)中津の教会で夫人の記念祭を厳粛に執り行
ない 1602年にはには 完成した 小倉城に 移り 小倉にも教会を建てる。1612年から 1615年まで キリシタン弾圧は 強まり 忠興は 教会を取り壊し 領民 臣下で
キリシタンの者には 転宗を進める。
1620年に家督を忠利に譲り 剃髪( ていはつ ) して三斎と号した。1632年、肥後の加藤忠広が
改易(かいえき)され 細川家はそこに移封され、忠興は八代に移って隠居所とした。息子の細川忠利
は肥後熊本藩54万石の大大名となる。 忠興は 八代の隠居城で1645年83才で 亡くなり 京都
大徳寺 に葬られた。
寛永14年( 1637 年 ) 10月 島原の乱が勃発( ぼっぱつ)する。その当時 剣豪 宮本
武蔵は 武蔵の甥であり 養子となった宮本伊織が 家老職を勤める小倉藩に 客分としていた。
天草 島原の乱では 小倉藩主 小笠原忠真 ( おがさはら ただざね )の親類の中津藩小笠原
長次 ( おがさはら ながつぐ ) の配下で 軍事顧問として 出陣した。
武蔵の養子の伊織( いおり ) は 小倉藩の侍大将として 出陣する。 伊織は 軍功をたて
その後 4,000 石の封土を与えられる。 小倉藩主 小笠原忠真 ( おがさはら ただざね )
は 徳川家康の曾孫( ひまご ) で 細川忠利が 肥後に 転封後 小倉藩藩主となった。
彼の妹は 細川忠利の正室であったから 細川家は 親藩とつながる家柄となった。
肥後熊本藩家老 松井興長( まつい おきなが ) は 武蔵の軍略家としての才能を聞き及び
使者を遣わし 武蔵を 客分として 熊本藩に 招いた。 藩主 細川忠利は武士道を 重んじたの
で 武蔵を丁重に 迎え入れた。
天草 島原の乱は 大阪夏の陣後 幕末まで続く 太平の世のゆるがす最後の大規模な軍事
衝突であった。寛永十四年 ( 1637 年 ) 10月 島原の有馬村の領民が一揆を起こし これは
天草にも飛び火する。このにゅーすは 11月10日 幕府にとどいた。 この一揆は 地元の
藩の軍事力では 鎮圧できないものであったが 幕府は 甘く見て 板倉重昌を派遣し 九州の
鍋島藩 細川藩に兵をだすよう命じ これで 充分 鎮圧できるもの考えていた。 この乱が おこっ
たときは 細川ガラシア夫人が 37歳で亡くなられてから 37年たっている。 もし 夫人が
老齢まで 長生きしておられれば その後の 細川家のキリシタン弾圧 キリシタンであった次男
興秋( おきあき )の切腹、 ゆかりの者の処刑の 耐え難い苦難に遭遇しなければ ならな
かったであろう。
天草四郎率いる一揆軍は島原の廃城 原城にたてこもる。12月には 岩倉重昌の幕府軍が到着し
鍋島 細川の両藩と原城をせめるが苦戦した。 将軍家光は 幕府の総力をあげて戦うことを
決意し 幕閣の 最高責任者である 智恵伊豆と言われた老中松平伊豆守信綱( ろうちゅう
まつだいら いづのかみ )に 12万の兵をつけて 派遣するにした。
この報を受けた 岩倉重昌は 武士の面目がたたないと恥じて 幕府の大軍到着の直前の
1638年1月1日 無謀な突撃をおこない 戦死する。 この無謀な 突撃で 幕府軍は 4,000
人の死者をだし 一揆軍の戦死者は 100 名たらずであった。 1月4日到着した智将 松平
伊豆守信綱は甲賀忍者を城内に潜入させて 食料の備蓄を調べさせる。 伊賀忍者は 原城に
忍び込み できるだけ食料を盗みだす。 2月27日 幕府軍は総攻撃を開始し事情聴取の
ため生かされた 山田右衛門を残し 一揆軍37,000を惨殺する。
この一揆の原因を徳川体制の罪にするのは 容易いが 島原 天草の領主の過酷な税の取立て
よる 失政と 天変地異 ( てんぺん ちい )による 大飢饉 (だいききん)と凶作( きょうさく )
が 一揆を誘発した主な原因であろう。 凶作は 肥後熊本藩でも 同じようなものであったが
細川越中守忠利は 『 飢え候ものには 法度( はっと ) は 立てざるものに候 』 といった。
つまり 凶作で 飢える者があれば 定め通りの税は 減免( げんめん )するという意味で
ある。 肥後熊本領内で 一揆が発生しなかったのは 細川家の領民をおもいやる政策があった
ためだと思われる。 1635年7月 九州西南をおそった台風は 肥後熊本領内で 36,000戸の
民家を倒壊させ 海産物に甚大な被害を与えるものであった。肥後熊本が 自然災害に無縁で
あったわけではない。
また島原 島原は 一揆を誘発する要因があった。 島原は キリシタン大名 有馬晴信(ありま
はるのぶ ) ( ドン プロタシオ )の治める領土であった。有馬晴信は 肥前日野江14万石の
領主であった。 家康の信任あつく 領内のキリシタンも例外的に 認められていたが 本田正純
の家臣 岡本大八のスキャンダルに巻き込まれ 甲斐(かい)に流され そこで 自害して果てた。
本来ならばお家断絶となるべきところであるが 息子の有馬直純は 15歳のときから駿府城で
家康の近習を務めており また 家康の曾孫の国姫を正室に迎えていたため お家断絶は避けられ
日向 延岡に移封となった。
旧有馬領のうち 四万石の島原地方は 1616年 大和五条から転封されてきた 松倉豊後守
重政が治めるようになる。 重政は 1618年から 7年の歳月をかけて 安土桃山建築の粋を
集めた五層の天守閣、3ヶ所に 三層櫓がそびえたつ豪壮な城を建設する。 城の規模は十数万石
の大名が持つ城の規模であった。 今 この豪壮な城をあおぎみる時 島原の領民が蒙った過酷な
労苦が しのばれる。 島原の乱の直前には 重税とキリシタン信仰弾圧 に領民は 堪えれなくなっ
ていた。 寛永11年から14年(1834年ー1637年)にかけて 大旱魃(かんばつ)が続き これは
乱が鎮圧された 翌1838年も続いた。 乱の後 松倉勝家は所領を取り上げられ 美作(みまさか)
のお預けになった後 失政の咎(とが)により斬首された。 これは 大名としては 異例のことで
あった。
天草地方は 1600年の関ヶ原の戦いまでは 宇土( 宇土 益城 八代 天草 )24万石キリシタン
大名 小西行長の領土の一部であった。 関ヶ原の戦いの際は 西軍についたため 京都で
処刑される。 領民の多くは 行長の影響を受け キリシタンであった。 天草 島原の乱の総大将
天草四郎時貞 ( あまくさしろうときさだ )の 父は 小西行長の家来であった。小西行長が 亡く
なった後 天草42,000石は唐津城主寺沢広高の所領となる。 天草の乱は その息子の堅高
(かたたか)の時におこる。堅高(かたたか)は 天草領を取り上げられる。 数年後 天草は 天領
( 幕府直轄領 )となる。
天草 島原の乱の後 ポルトガル船は入港禁止となり オランダ商館は 長崎に移される。キリシタン
は 地下にもぐり かくれキリシタンとして 幕末まで その信仰をまもった。
肥後熊本藩細川家は 明治維新まで続いた。最後の藩主 は 熊本藩主11代 細川韶邦(よしくに)
公で 熊本藩知事を務める。 一条家 近衛家など 名門華族と姻戚関係(いんせきかんけい)を持ち
平成の現在まで 名家である。 代々伝わった 家宝は 東京の旧細川公爵邸の敷地内の一部に
建てられた 永青文庫に保存され 一般公開されている。
16代 熊本藩主 細川家当主 ( 幽斉から数えて18代) 細川護熙 ( ほそかわ もりひろ )氏
は参議院議員 大蔵政務次官などを歴任した。 熊本県知事を2期8年務め 1992年 日本新党
を結党し新党ブームのさきがけとなった。 1993年8月から1994年4月まで 総理大臣を務めた。
母方の祖父は 五摂家のひとつ 近衛文麿 ( このえ ふみまろ )公で 第三十八代 第三十九代
と総理大臣を二期務めた。 軍部の横暴を抑え切れなかったため 戦犯として出頭命令が下ったが
服毒自殺をして 悲劇的な 最後を遂(と)げた。
細川護熙 ( ほそかわ もりひろ )氏は 60歳の還暦を機に 政界からきっぱり 湯河原で 陶芸
三昧の日々を 送られることとなった。 初代 幽斉公から 続く 文人武将の血が 脈々と氏の体内
に流れているのであろう。 政界引退の際は 細川ガラシア夫人の辞世の句を引用された.
「 散りぬべき 時しりてこそ 世の中の 花も花なれ人も人なれ 」
© copyright -禁転載 ー 平成16年( 2004年 ) 4月28日脱稿 − 佐々木博昭
京都府大山崎町役場公式 ホームページ
豊臣秀吉 明智光秀 激突の古戦場 ー 山崎の戦い ( 天王山の戦い )
大阪カテドラル聖マリア大聖堂 細川ガラシア 高山右近
( 大阪玉造カトリック教会 ) 上町台地
大阪市 中央区 玉造
( 越中井の近く )
玉造稲荷神社 難波玉造資料館 勾玉
聖徳太子
稲荷信仰 豊川稲荷 伏見稲荷大社
こども太閤行列
( 越中井の近く )
大阪の見所 ー 歴史と文化