日本航空123便墜落事故




日本航空123便墜落事故


平成13年(2001)元旦。16年前の自分から年賀状が届いた。

日付は“(S)60年7月21日”となっている。
*『科学万博ポストカプセル2001』~21世紀のあなたに届ける夢の郵便~

“日航機墜落事故”の22日前に書かれたもので、何とも言えない気持ちになったものです。


遡ること5ヶ月前の平成12年(2000)8月11日。
この日は“日航機墜落事故”が再び心のメモ帳に書き込まれた日でもある。

TV『ニュース・ステーション』で123便のコックピット・ボイスレコーダーが15年の時を経て公開されたのだ。
それは衝撃的な内容だった。




18時24分35秒 (爆発音)<下田沖上空>

  まずい…何か爆発したぞ

スコーク77(緊急事態を意味する)

Ah.TOKYO JAPAN AIR 123
Request from immediate e… trouble request return bact to HANEDA
descend and maintain 220 over


この時点で垂直尾翼の大半を失い、油圧系統が切断されてしまったが
音声からコックピット内は冷静沈着に対処している様子が窺える。


18時46分33秒 これはダメかもしれんね<青梅西方上空>

  ちょっと いかんなぁ…


衝撃音から22分。機長が発した「これはダメかもしれんね」の台詞が切ない。


18時50分09秒 どーんといこうや<奥秩父上空>

  頑張れ!


奥秩父の2000mを超す山々の間で急激に降下(30秒間で約1500m)。
時速にして約180km/h(あのFUJIYAMAでさえ約130km/hである)。
しかし、神業的操縦で123便は再び上昇を始めた。


奇蹟の飛行を続けた123便であったが、最期の瞬間は刻一刻と迫っていた。


18時56分04秒 頭(機首)上げろ<三国山西方上空>

  頭上げろ

パワー!!


GPWSの警報“Whoop Whoop Pull up"が無情に響く。


18時56分21秒 “Pull up"

  あぁ だめだ…

“Whoop Whoop Pull up"

[衝撃音]

“Whoop Whoop Pull up"

[衝撃音]






20世紀最後の月にあたる平成12年(2000)12月。

私は友人の加藤君と共にTV『涙をふいて』のエキストラとして初めて西武球場を訪れた。




私にとって西武球場は聖地である。

阪神タイガースが初の日本一に輝いた場所だ。

そして、その3ヶ月前…“日航機墜落事故”の日にチェッカーズのライブが催された場所でもある。


あの頃の様々な想い出が走馬灯のように蘇る





日航機墜落。このニュースは日本中を震撼させた!
父が痛ましい顔をしながら
「昔、この便に乗った事があるんだ…」
と言っていたのが非常に印象的。

祖父は“123便”の犠牲者520名の顔写真が一面の新聞を丁寧にスクラップにして、
ペンで歌手・坂本九の写真に○印を付けていました。


夏休み明け、我が4年1組では事故の話題で持ちきり。
生存者の川上慶子さんがチェッカーズのファンだった事や
歌手・坂本九の身元が確認された事を知りました。


当時、今では考えられないのですが雑誌に犠牲者の写真が普通に載る時代だったのです。
それは手・足のみの部分遺体の写真や炭化してしまったり、
顔が挫傷している遺体など正に地獄絵図でした。


子供というものは残酷なものでそんな遺体の話ばかりしていました。



月日は流れ、平成8年(1996)8月12日。成人した私は家族旅行でブラジル行きの便に搭乗。
“日航機墜落事故”は私の心のメモ帳からすっかり消されていた。


機内TVではNHKのニュースが流れていました。
すると、女性ニュースキャスターから思わぬ言葉が発せられた。
「今日で日航機墜落事故から11年です」
私は「飛行機に乗ってる時に、こんな不安になるようなニュースを見せるとは!」
と一人で憤慨していました。


しかし、遺族の方の灯篭流しのみ(時間にして僅か15秒程度)で次のニュースへ。
これには“日航機墜落事故”の風化を感じずにはいられず、淋しい気持ちになったものです。




去来する想い出を胸に西武球場を後にしました。



平成16年(2004)9月頃であったか、友人のさんと久し振りに再会した時に思わぬ言葉が…
「いやぁーキャンプ楽しかったよ♪」とさん
「どこでキャンプしたんですか?」
「南牧村…御巣鷹山の近くや」
「御巣鷹山…あの日航機が墜落した?」
「そう…御巣鷹の尾根」


来年で“日航機墜落事故”から20年の節目を迎える。
「来年はそのキャンプに参加して御巣鷹の尾根に登ろう」
そう決心しました。

平成17年(2005)8月21日。ついに御巣鷹山登山の日がやってきた…
南牧村のキャンプ場から一人バイクで上野村へ向う。



ぶどう峠から御巣鷹の尾根まで約19km。
印象的だったのは外との気温差が10℃はあろうかというヒンヤリとしたもの悲しいトンネルで、
それは神聖なる山への序章に思えた。



登山入口前の駐車場にバイクを停め、ふと時計を見ると午後4時を過ぎていた。




注意書には不安になるような事が書かれている。
しかし、ここまで来ておめおめと帰る訳にはいかない。

「よし、行こう」

険しい道のりの途中、何人かの登山者とすれ違う。
「こんにちは!」と声を掛けられる。
もしかしたら遺族の方達かもしれない。
そう思うと、自然に背筋が伸びる。
「こんにちは!」
挨拶をする事が唯一、私に出来る事であったかと思う。

想像を絶した困難な道のりには泣かされました。
息を切りながら「ハァ…ハァ…何でこんな目に…」とついついボヤいてしまう。
何度、途中で帰ろうと思ったか!

頂上まであともう少しという所で道が二手に別れている。
一つは緩やかな斜面。もう一方は急な斜面と書かれていた。

迷わず急な斜面を選ぶ。
『急がば回れ』である



ようやく“昇魂之碑”に到着。




「ここが凶頂の地か…」


少し歩くと、厳粛な雰囲気の小屋が見えた。


緊張の面持ちで中に入ると、線香の匂いが立ち込められている。
犠牲者のプライベート写真や遺族の方からのメッセージが多数飾られ、

中にはチェッカーズのフミヤのプロマイドもあった。
幽明境を異にするというのは人生最大の悲痛事であると感じずにはいられない。




外に出て、周りを見渡しながら瞑想にふける。


凶頂の地は昭和60年8月12日 午後6時56分26秒で永遠に時が止まってしまっているように思えた。 
激突の瞬間、9歳だった私は何をしていたのだろうか?


事故の記事を丁寧にスクラップしていた祖父は6年前に亡くなった。
「おじいちゃん…」

「人は死んだらどうなるの?」と尋ねた時に
「おばあちゃん、死んだこと無いからわかんない!」
とコミカルに答えていた祖母も2ヶ月に祖父の後を追った。
「おばあちゃん…」

川上慶子さんがファンだったチェッカーズも13年前に解散している。
この伝説のバンドもメンバー同士の確執そして死によって本当の終焉を 迎えた。

4年1組の担任だった先生やクラスメートは元気であろうか?

先生…」



もう戻れない楽しい想い出の狭間に起きた大惨事の凄惨さを 肌で感じながら、
永遠に行ってしまった懐かしい人達を想い一人泣いた。