(ここでは、水月エンドと遙エンドの双方について考察します。ただし、その内容は速瀬水月に対して、極めて厳しい内容となっております。しかし、外道竜神は水月に対して何の恨みも持っていません。正直、少なくとも高校生版の水月は、2001年11月7日現在、外道竜神萌えキャラリストの中で、高い位置にいます。ここで書かれている内容は、外道竜神の解釈にすぎません。おそらく、遙好きというバイアス(偏見)故に、外道竜神が見えていない遙と水月の側面もあるはずです。もしも、外道竜神に、明らかな思い違い等があれば、ご指摘していただければ幸いです。)

☆水月エンド(救われぬ遙。遙の「救い」について考える)

 実は、このエンディングを見たときに、どうしてもある違和感をぬぐうことはできませんでした。それは、孝之と水月は単に遙と茜から逃げただけではないのか、という疑問です。孝之は会社の正社員の職を見つけるわけですが、どうしても、前向きに生きていくためと言うより、遙と茜から逃げるためのもののように見えてしまったのです。正直、水月を選ぶという主人公の選択が悪いものとは思いません。でも、葛藤の果てに水月を選んだのだとしても、いや、そうであるからこそ、孤独に残される遙のために、何ができるのかを考えるべきなのではないでしょうか。例え遙に拒絶されていたとしても。

 3年間を待つことができずに水月を選んでしまった孝之、最悪の形で遙と別れた水月、この二人が遙に対してできることは本当にわずかなものでしかありません。第2部のラストの段階では、遙の心の傷を広げないように、二人が遙に会おうとしない、と言う選択が間違ったものとは言えません。問題となるのは、二人が遙の前から消えただけで、あとは遙と茜の“許し”を待っているだけ、という状態になってしまっていることです。慎二(と茜)という、二人と遙を間接的につなぐことのできるチャンネルがあるはずですが、これが全く活用された形跡がありません。活用しようとした跡も見られません。そして、活用しようと考えた形跡も見られません。すべてのつながりを断ち切って、遙を完全な孤独へと追いやって、ただ、ほとぼりが冷めるのをじっと待っているだけです。これでは遙の傷を広げない事を自己正当化のための論拠として、遙の苦しみを見ないようにしているだけ、遙の苦しみが否応なく目にはいることから逃げただけ、とさえ見えてしまいます。自ら犠牲になってくれた遙に甘えているだけとも言えるかもしれません。孝之と水月は、自分たちの経験から知っているはずではないのでしょうか、人には支えが必要であるときがあることを。その支えは目に見えるものだけではないはずです。

 もちろん、遙と水月、この二人を取り巻く状況の違いを無視することはできません。しかし、遙エンドにおける遙が、別れゆく水月のために、水月がいつでも帰って来られるような“場”を維持しようとしているのに対し、水月エンドの水月と孝之は悲しいほど何もしていません。確かに、物語の中心である孝之、慎二、遙、水月の4人の友情は、孝之と水月を軸にしたもので、遙と水月では大きく役割が違うため、遙ができることをそのまま水月ができるとはいえません。水月にしてあげられたことを、そのまま遙にしてあげられたとは言えません。でも、孝之と水月の態度を見る限り、4人の友情と美辞麗句を掲げながら、結局、遙は異分子のまま捨て置かれているわけです。遙は見守ってさえもらえません。過去の存在として整理されているだけです。

 このエンディングでの遙はとにかく悲惨の一言に尽きます。突然、たった一人だけ3年間の空白を強制され、恋人は奪われる。せめて友情くらいは保とうと感情を抑えて、孝之と水月の二人を祝福しようとすれば、水月にとどめまで刺されてしまいます。それこそ、恋も友情も何もかも失うわけです。遙は、少なくともしばらくの間は、3年間の空白と絶望を、悔しさや憎悪といった負の感情で埋めざるを得ません。そして、ひとりぼっちで交通事故の後遺症と闘い、自分の知るものではなくなった世界を歩んでいかなければならないわけです。正直、遙が、「私は一人でできる」と、強がる様の痛々しさを忘れることはできません。あまりの追いつめられ方に、遙が自殺を図るのではないかとはらはらしながらゲームやってたくらいですから。

 最後の場面、物語から数年後、孝之が偶然見つけた絵本は、自分たちの事が書かれていると読める内容でした。作者の名前は“むらかみ はるか”。それは涼宮遙のペンネームなのか、涼宮遙は既に誰かと結婚したのか、それとも、全く別人なのか、明かされていません。ただ、これが涼宮遙と同一人物であるとすれば、遙は希望の職業という夢をかなえたわけです。

 ですが、だからといって、それで良しとされるのでしょうか?実は、この名前を見たときに、最初、いやな想像がしたのです。遙は、水月が逃避のために慎二と寝た時のような精神状態で、世間の荒波に放り出されたのではないか、と。この名字はその結果なのではないか、と。

 ゲームの第2部の段階では、遙と水月は双方ともに孝之を必要としています。しかし、二人の間には決定的な違いがあります。水月は孝之しか“見ていない”のに対し、遙には孝之しか“いない”わけです。水月には孝之の他に慎二という救いの手が常にあります。そして、会社という形で、社会や様々な人とのつながりを保ち続けているわけです。ですが、遙は3年間の空白のために、社会とのつながりは断ち切られています。遙が保護されているように見えるとすれば、それは病院の中だけに過ぎません。

 遙エンドの際の水月が最悪の精神状態になったとき、孝之と慎二の手助けで、なんとか少し自分を取り戻すことができました。でも、水月エンドの際の遙にはその手助けは全く期待できません。4人の友情と言っても、遙と慎二のつながりは極めて薄いと言わざるを得ないからです。実際に水月エンドの遙は一人で苦しまざるを得なかったのに対し、遙エンドの水月は慎二に相談や救いを求めることができているわけですから。そして、遙が書いたらしき絵本を見ても、遙と慎二の間には何の確執もないにもかかわらず、この二人の友情が断ち切られたことが示唆されています。遙にとって孝之は恋人でした。水月は親友でした。慎二にとって孝之は親友でした。水月は親友でかつ片思いの女性でした。遙と慎二の間の関係は、友人同士と表現されているとはいえ、二人とも孝之と水月の関係の“ついで”を超えていません。結局、慎二は遙に対して、悲惨な境遇への同情以上のものを示すことはありませんでした。

 結局、遙が頼れるものは家族だけとなりました。でも、このエンディングでは茜もボロボロです。茜には他の4人の友情を取り持つ役割は、もう全く期待できなくなっています。愛した人に、尊敬する人に、裏切られ捨てられた姉妹が笑いを取り戻すには、相当の時間がかかりそうです。この姉妹は、辛いときには、別のものに打ち込むことで、辛さを忘れようとするところがあります。実際作品中でも、遙はリハビリに打ち込み、茜は水泳に打ち込むことで、辛い現実を忘れようとしていました。

 孝之と遙の別れ以後、遙と茜の姉妹が互いに励まし合って生きたことはほぼ疑うことはできません。遙が絵本作家になったのだとすれば、姉妹共々、孝之と水月によってつけられた傷を、うまく職業選択上の夢をかなえるためのエネルギーに転化させたことになります。茜はついにはオリンピックの選手にまでのし上がります。でも、それは、絶望がもたらした強さだったかもしれません。人間不信に陥って、記録の世界に埋没するしかなくなったが故の強さだったのかもしれません。実は、水月の“おかげで”強くなったのではなく、水月の“せいで”強くなったのかもしれません。ただ、もしそうならそこに幸せはあるでしょうか?

 遙の父親は非常に良くできた人物ですが、この人が姉妹を諭そうとしても難しいかもしれません。二人が直面した苦しみは、とうてい一般化できません。彼の持つ人間哲学に基づいて、孝之には、自分の幸せを第1に考えられるか、とアドバイスを送ることができました。しかし、もっとも信頼していた恋人と親友に裏切られ、幸せを奪われた遙に対して、有効なアドバイスを送れるかというと疑問です。“他人がこうすることでうまくいったから、そうするのが良い”と言う類の話はまず通用しないでしょう。彼には娘が傷つく事への覚悟はあったでしょう。でも、時間による癒し以外については、精々、別の生きる目的を選ぶように誘導するのが限界ではないかと思います。遙に、お見合い等をあてがい、別の相手を見つけさせることはできるでしょう。ただ、その場合、下手すると遙を父親の敷いたレールに従うだけの単なるロボットにしてしまう危険性もあります。遙を救っているつもりで、遙の人格を無視して削ぎ落としていくことになるかもしれません。遙の母親も、ある意味同様です。

 なお、謎の“むらかみはるか”は、涼宮遙と同一人物であるならば、涼宮遙のペンネームに過ぎないと、個人的には今では確信しています。“むらかみ”という姓が、遙が新たに大切なものを見つけられた証というのは、少し考えづらいところがあるためです。まず、もしそうなら、あんな事があって、4人の関係を“ほんとうのたからもの”などと表現できるか、と言う疑問があります。遙が何らかの別の大切な人間関係を作り上げたとすれば、あんな絵本を書くのではなく、新しい人間関係をより緊密にすることに力を注ぐのではないでしょうか。仮にお見合いなどで、あまり自分が乗り気ではなかった相手と結ばれていたとしても、いや、そうであるならなおさらに新しい人との関係を深めようとするはずだと思います。彼女は時間の恐ろしさを何よりも痛感しているはずですから。また、新しい人間関係の中で、少し落ち着いて、過去を回想してみた、にしては、絵本が書かれた時期が早すぎるような気がします。さらに、絵本の中で遙を模した(かのようにみえる)オコジョがずっとひとりぼっちでさみしがっているのも気になります。ひょっとすると、水月と孝之の一件が強烈なトラウマとなって、うまく人間関係を築けなくなっているかもしれません。もしかするとそれがひとりぼっちのオコジョに現れていると見ることができるかもしれません。

 遙、孝之、水月、慎二の4人は、元の友情を取り戻せるか、と言う点でも非常に疑問視せざるをえません。絵本を書いたのが遙だとしても、そこに書かれているのはきれい事に過ぎない可能性が高いと思います。遙が高校生時代の4人の友情を“ほんとうのたからもの”と表現しているとしても、それを取り戻せるとは限りません。絵本の中に描かれている事は、ある種の感情を意図的に抑えることによって成り立っているように思われます。実際に出会ったときには、絵本の中では書かれなかったか、過小表現された遙の中の感情と向き合うことを避けることはできません。絵本に書かれているとおり、4人が一堂に会することはできるでしょう。そして、思い出話をすることはできるかもしれません。でも、4人が対等の意識で話し合うことができるかという点について、現在のところ、私は否定的です。遙が、再び孝之と水月という自分を拒絶した相手に出会って話をするとしたら、自分が夢の職業をかなえたという優越感を拠り所にして、孝之と水月を精神的に見下すことで成り立たせる可能性が大きいのではないかと思えるからです。4人が再び友人関係を取り戻すためには、遙が、孝之と水月を、“許す”ことが必要条件となります。問題なのは、“許し”という段階だけに限れば、遙に優越心があれば、比較的容易に実現しうるということです。でも、もしそうなったとすれば、そしてそこでとどまってしまったとすれば、これは友情といえるでしょうか?そこにあるのは4人がそろったという形だけ。しかし、“ほんとうのたからもの”の形だけを取り戻せたとしても、形だけでは元の輝きを取り戻すことはありません。

 では、その“許し”の向こうにあるものは、どうすれば出てくるのか?それが出てくるためには、何が必要なのか?おそらくは、時が経ち、遙が孝之と水月以上に大切で愛しうる相手を見つけた後でしょう。遙が他人を愛することで、問題の時の水月と孝之の苦しみをより深く、本当の意味で理解してあげられるようになるときでしょう。そして、遙自身の心の壁を、遙自身で完全に乗り越えたあとでしょう。その壁は、厚く高く険しく、そしてかつ、越えることは遙には全く義務づけられていません。実現するとしても、長い長い時間が必要です。絵本『ほんとうのたからもの』を遙が書いたのだとすれば、遙は、孝之と水月を許し、大きな壁を越えるために、大きな大きな一歩を踏み出しました。でも、本当に壁を乗り越えるためには、少なくとも最終段階においては壁の向こう側にいる孝之と水月の力が必要となるのではないのでしょうか。そのためには、壁を越えようとする遙の苦しみを知り、理解することが不可欠のはずです。孝之と水月が、遙の苦しみに対して目と耳をふさいで、与えてもらえる救いをただ待ち続けるだけであるとすれば、壁を乗り越えたと考え、思いこむことはできても、本当に壁を越えることができるとは思えません。孝之と水月が遙に甘えている限り、遙と二人は、対等の関係にはなれません。

 孝之と遙の出会いのきっかけとなった絵本、『マヤウルのおくりもの』。その内容は水月エンドにおける孝之と遙の関係そのままの物語でした。別れの妖精・マヤウルの贈り物は、“別れの言葉”。それを受け取ったマヤウルにとってもっとも親しい友人は、世界で一番優しい人になれたとされています。きっと遙は孝之が“優しい人”になったと信じて、新たな物語を紡ぎ、歩み続けています。遙と孝之と水月、この3人が再び出会うとき、孝之と水月は“優しい人”になることができているでしょうか?甘えと優しさを勘違いしているとすれば、孝之と水月は、遙に対して再び、取り返しのつかない裏切りをしてしまうことになります。二度目の裏切りを挽回できるほど、人生は長くないと思うのですが。

 

☆遙エンド(遙と水月の相違。優しさを与える者は?)

 個人的にはこれがベストエンディングであると確信しています。ただし、これは、自分が遙萌えであるからこそ言える言葉であって、遙と水月に関しては、どちらを好むかによって評価が180度変わりうるのではないかと思っています。いろいろと水月エンドに対して厳しいことを書きましたが、この遙エンドも、孝之とプレイヤーが同情と愛情(もしくは萌え)を混同しているのではないか、もしくは水月と過ごした年月を軽んじすぎているのではないか、あれほどすべてをかけて主人公に尽くしてくれる女性をあっさりと捨てるのか、などという批判も可能でしょうから。重視する要素によって、評価の天秤は大きく揺れることになると思います。

 孝之への愛を意地でもつなぎ止めようと、ある意味壊れていく水月の姿は、第1部の姿が好きだった人間には非常にきついものがあります。むしろ、このエンディングに至る道では、水月がある程度以上好きでないと、その良さがわからないのではないでしょうか。基本的に遙エンドは水月の話なんですよね。孝之の遙への気持ちが、自分に対するものよりも深いこと事を知り、苦しみ抜く水月。ボロボロになり、逃避のために慎二と寝たりもします。そのことが救いをもたらすどころか、孝之への一途な想いを捨てきれないばかりに逆に不安感を高め、水月の壊れっぷりは頂点に達します。終盤の水月と茜の論争では、壊れた水月がとことんに描かれます。結局、主人公から別れを告げられた水月は、遙に、祝福と自分の孝之への気持ちを告げ、5人が過ごした町から去っていきます。

 ただし、このエンディングでのみは、後にメインキャラクター5人が救われ、友情を取り戻したことが明らかになっています。遙たちは、別れゆく水月のために、水月がいつでも帰って来られるように、友人の輪という“場”を維持することを誓い、現実にそれを実現させています。

 なぜこんな事ができたのか。それはやはり、遙と水月の違いが大きかったように思われます。第2部の水月は、遙に対する不安に苛まれ、孝之への愛を独占しようとするあまり、他のことが目に入らなくなっていきました。彼女は孝之の愛を溜め込むことだけに心をとらわれていたように思われます。一方、遙は、自分が受けた愛情の分だけ、他人にも優しくしようという意識が見て取れました。水月が、厳しい言い方をすれば、体を武器にして愛を求めるだけの女になってしまったのに対し、遙は自分に愛情を与えられたら、他人にその分優しさや愛情を与えるというように、愛情の循環を作り上げていたように思われます。

 水月は、遙エンドにしろ水月エンドにしろ、孝之から受けた愛情の分を、遙や慎二、茜に対する優しさに転換することができませんでした。第2部の水月は、相手のために何かをしてあげようと言う考えがほとんど雲散霧消しています。水月にとってかろうじて愛情や優しさの循環があるとすれば、孝之との間でだけです。それも、水月が孝之に与える愛情というのは、自分に孝之の愛を求めるための手段としての側面があまりにも強く出過ぎていました。孝之のためをおもんばかってではなく、孝之を自分につなぎ止めるだけを目指す、自分のためのものにすぎません。孝之に一途になりすぎて視野を狭めた彼女は孝之以外が与えてくれる優しさや愛情にはほとんど反応がありません。孝之以外の誰かに優しさや愛情を与えるということもありません。ただ、自分に対する許しを求めているだけです。事実、水月エンドの水月は、遙に対して遙の交通事故で残された自分たちの苦悩を訴えるばかりで、すべてを奪われた遙に対して思いやりを与えることができていません。遙に酷いことをしたと気づくのは、ある意味、孝之を勝ち取って、ある程度の余裕が出てきたとき、すべてが終わったあとでした。孝之に一途になりすぎて視野を狭くした水月エンドの水月は、周囲に不幸をばらまいて、結局、友情を失いました。

 一方、遙は、孝之らから受けた愛情を、水月やその他の人々に対する優しさにうまく転換していました。与えられることの喜びと与えることの喜び、その両方を知っていたからこそ、遙エンドの遙はあれだけ自信を持っていたのではないでしょうか。自分が他人に対して与えるということを忘れてしまっていたからこそ、水月は常に不安に苛まれていたのではないでしょうか。(水月エンドの遙は、与えても与えても孝之と水月から返ってこないため、ついには資源枯渇を引き起こしていますが。主要資源供給源を絶たれただけの遙エンドの水月と比べると、その被害は甚大です。)4人の友情という救いの場を、とにかくも維持できたか否かは、こうした遙と水月の愛情に対する姿勢の違いによるものが最も大きかったのではないかと思っています。

 遙エンドがベストエンディングだったと考える理由は、はっきり言って、こうした遙と水月の違いです。水月エンドでは、孝之まで求めるだけの存在となっています。愛情の循環は孝之と水月の間でだけでずっと閉じてしまっています。一方、遙エンドでは、遙は水月など他の人間にも優しさを分け与えることで、様々な人間関係を保ちます。水月エンドでは孝之と水月が二人だけで閉じこもっていってしまうのに対し、遙エンドは開けた未来が待つ、前向きな印象をうけます。遙エンドのエンディングに出てくる複数の写真を見ると、就職したのか事務所の跡を継いだのかは知りませんが、慎二は、職場に、第1部で4人で撮った思い出の写真を飾っています。水月エンドの場合、どうしても慎二がその写真を飾る姿は想像できません。拒絶されてしまった遙の存在がどうしてもその写真を暗い記憶にするからです。

 水月が、最初から、求めるだけの人間だったとは思っていません。そうであるならば、孝之と遙の出会いをセッティングすることはありません。そもそも孝之と水月が恋人関係になることもありません。水泳での挫折、両親の圧力、遙に対する罪悪感、その他諸々の要因が、水月を変えていったのでしょう。

 遙エンドの最後の写真、それは思い出の丘で、4人が再び一緒に写った写真でした。遙の左手の薬指には指輪がはめられています。その指輪は、遙が事故にあった運命の日、孝之が水月に買ってあげた指輪でした。孝之が遅刻し、遙が事故に遭うという運命の変転の原因の一つとなった指輪でした。孝之と水月の関係のすべてを知る指輪でした。遙と水月のほんとうの和解を実現し、孝之と遙が一生を共に歩んでいくことを決める指輪となりました。

 水月エンドの水月が遙を救い得ないのに対し、遙エンドの遙は水月を理解し、助け、救うことに成功しました。4人はこれからも友情の輪を保ち続けていくでしょう。そしてきっと、4人とも、相手を思いやることができる人間として、与えることと与えられることの双方の喜びを知る“優しい人”として、これからの人生の道程を歩んでいくに違いありません。辛く苦しい苦難を乗り越えた絆が、彼らにはあるのですから。

 

(遙エンド・蛇足)

 蛇足ですが、遙エンドでの、孝之と遙たちは、どんな未来を歩んでいったのでしょう。孝之と遙はおそらく両方とも白陵大学に進学したのではないかと思います。大学受験の際には考えもつきませんでしたが、大学院に入ってみると、3年や4年の足踏みをしてきた人がざらにいることがわかります。例えば、学士編入をするだけで、2年間、余分に大学生をやるわけですから。その点の事情を、大学教授をやっているという遙の父親はよくわかっていることでしょう。少なくとも遙には学ぼうという意識がありますから、問題はありません。孝之にしても、遙と共に歩み、支えていくための手段を得るために、大学に行くような気がします。遙が行くから自分も行く、という形の考えが強そうなので、あんまり肯定しづらいところがありますが。なお、問題は入試ですが、高校3年時の二人の語られている学力から見て、遙の退院後1年くらいは二人とも準備が必要でしょうが、受かっちゃいそうな気がします。二人とも学力の基本はあるようだし、私大のレベルって軒並み下がってるしね。

 問題は、遙が絵本作家になれるか、と言う点。なれたとしても、水月エンドの時と比べるとデビューは遅そうです。水月エンドに見られる遙著(推定)の絵本『ほんとうのたからもの』は、孝之と遙の別れから4、5年以内に書かれていると見るのが妥当です。茜がオリンピック代表に選ばれた時には、既に出版されているわけですから。現在の女子水泳の状況を見るに、茜が大学在学中位の時期で、すでに絵本が出版されていると考えた方が良さそうです。間違いなく驚異的なスピードです。(だから『ほんとうのたからもの』は、遙が書いたものではないのではないか、というとんでもなく暗い想像もできてしまうのですが。)

 遙エンドの場合、特別に遙が絵本に託して伝えたいメッセージというのが、ゲームの段階では見えていません。おそらくは、大学に入って児童心理学を勉強している間は出版社に何かを持っていかないんじゃないかと思います。絵本作家事情というのをよくわかっていないので、そうそう断言はできないのですが、遙は、妙におっとりとしたところがあるので、孝之と二人でいる限り、大学在学中にデビューなりの成果を出しておかねばならない、というような考えには乏しいのではないかと思ってしまいます。絵本作家になれるかどうかもちょっと怪しいところが。大学に入ってから志望を変える人はたくさんいますから。

 水月は、どうも体育教師になったようです。ジャージ姿と、机の上にある本『水泳の科学』や名簿のファイルなどがそれを示しているように思われます。多分、遙たちと別れ、町を出ていった後で、体育大学か体育短大でも受験したんでしょう。茜は不明。オリンピックに出るほど活躍できるでしょうか?外道竜神の、“涼宮姉妹不幸を力に変える説”によると、ちょっと苦しそうですが。慎二は、親の事務所に勤めている可能性が大でしょう。

 最後の写真は、水月が体育教師になって、孝之と遙が大学に在学中の段階と推定しています。どうも遙の服装が社会人やってるようには見えなかったものですから。ここらへん、根拠は薄弱です。遙退院から3〜5年後でしょうか?(中学校の教師なら、短大卒でも教員免許が取れるはずです。)まぁ、全員、収まるところに収まったというラストでしょうね。


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