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はじめに
私は平成19年5月31日に突然、襲われた事故のため、人生が狂い、いつ死のうかと死に場所を探しているおろかな人間です。もちろん、いままでにいろいろ手を尽くしてみましたが、すべて徒労に終わり、いまのところ、何の解決策も見出せない状態です。下手すれば、自殺しかねない状況というのが、現状です。しかしながら、死ぬ前に私が経験してしまった悲惨なこの国の実態をまとめ、もし、この状況を変えようとしてくれる心ある方の目に触れることがあればと思い、恐ろしいほどの痛みの苦しみのなかから、このつたない小文をしたためてみることにしました。何かの手が差し伸べられ、現状を少しでも、変えることが出来れば、この世の中、少しはましになるのではと思います。
1)過重労働、ストレスの日々
私はK社に転職して、順調な日々を過ごしていました。しかしながら、事故2年前に部署が変わり、昔から、なじんでいた船舶代理店の部署に移動し、深夜勤務もなんとかこなしておりました。まさか、自分の体がこんな状態になるとは思わずに喜んで業務をこなしていました。しかしながら、事故のあった日の前々からI課長とは休暇の点でよく口論していました。深夜勤務の翌日も普通の出社を求めることへの反発がその一つの例です。極端に言えば、土、日も休ませず、深夜勤務のあとも休ませないというような考え方の持ち主でした。過労地獄のこの日本、どこの会社でも、いるとは思いますが、典型的なタイプです。ところが、発症6,5ヶ月前の12月、1月については、I課長自身の心臓手術のため約5週間不在で、3人体制の業務が、引き継ぎ等が不十分のまま(業務関係のEXCEL等のFILEがI氏独自のUSER設定だったが説明がなかった等)、残りの2人の課員(私と、M課員)に業務が課せられ、ほぼ連日残業、年末年始の休みも無いような状態で過ぎました。また、1、2月は、臨時船の“T”号が約2,3週間在港して、このOWNERS
AGENTとしての課業のため、朝早くから、夜遅くまでほぼ連日、船長から依頼等の電話、メールが所かまわず入り、他の業務と重なり、ほぼ毎日のごとく、24時間体制に近い状態での業務を行っておりました。船が起こした事故の処理の件も加わり、大変な手間を要しました。この件だけでも残業は優に100時間は越えていました。3月、4月も土曜、日曜の休みは、船の動静の関係で直前まで分からない状態で過ぎました。土曜も日曜も休めればラッキー状態で、休みの計画の裁量は全く与えられない状態で副課長という職名は名ばかりのものでした。2009年2月に地裁判決があったマクドナルドの店長と同様のいわゆる残業代を安く上げるためのものでしかありませんでした。深夜業務のあとも翌日の休暇は無という実態もなんら変わりませんでした。また、自宅での本船の動静確認を要望していたのですが、経費の削減のためか、自宅でのメールの確認を何度も要望しましたが、許可は為すれないままずるずる漫然と過ごされ、いちいちメール確認のために、会社に早朝や、休日でも出勤するというのは日常的になっておりました。休日はないような状態が普通になっておりました。新人から電話相談されるケースも休みもお構い無しでした。本船の入港についての典型的な例は、船の入港の数日前から官庁関係手配、船から要望の手配等に始まり、スケジュールの変更等のモニター、それに伴う、手配の変更、早朝入港に伴う、朝、5時ぐらいからのスタンバイ、入港に伴うパイロット等の手配、変更、税関、入管等、必要手続きのための本船アテンド、各官庁への出頭、荷役時間等の打ち合わせ、モニター、荷役時間の変更に伴う、出港時間変更、税関クリアランス、パイロット等、手続き変更、それが、朝の3時になっても、仮眠状態のまま、調整のためのスタンバイ、細かな本船からの要望に対する買い物、病人のケア、突発的な事故への処理、シングルウインドウと言いながらも、税関、入管、保安庁、海運管理部、検疫所、みなと総局、各官庁ばらばらなコンピューター処理やマニュアル処理の複雑さ、それに対する各役所、官庁当事者の、縦割り行政から来る対応の生ぬるさ、身勝手さ、PC上のトラブルがあっても、入力側の事情がわかっていない担当者(税関、入管、保安庁、検疫所等)が多く、特に休日でのトラブルへの対応は当事者にあるにかかわらず、他人事のような対応が多く、悲惨なものでした。また、深夜での動静変更やトラブルも起こることはしばしばあり、パイロットや、タグボート等への変更連絡は、入出港経費の余分なもの連絡等、遅滞からださないように神経を使うもので、深夜でも早朝でも、常時監視する必要があり、ずっと待機していないといけない性質のものでした。パイロット等は高い請求(一回の入出港で軽く100万円を超える)にもかかわらず高慢なもので、深夜での変更への対応は船のことは考えない等、パイロットの都合を重視しただけのものでした。そうした中でも、その空き時間を利用した車等の船積み書類のデータの細かなインプット、船会社へのパイロット等の経費をまとめる請求書の処理(みなと総局、神戸市の請求は一ヶ月分まとめてくるため、船会社にあわせるため、別の請求書作成を個別に作成しなければならない。民間の企業は各本船ごとにくるのに、神戸市だけはいくら、要望しても変更しようともしない)、NVOCC関係のDO,B/Lのカウンター発行業務、船会社の営業等、激務が続きました。そうした中、4、5月に入ると急に、Sという会社の代理店業務の引継ぎという業務命令があり、引継ぎを約2週間以上、連日フルタイムにわたり、N社に出向き、新しい業務の引継ぎ業務を受けました。そのあと、会社へ戻り、引継ぎの整理と他の業務を行うための残業の日々が続きました。最初は全く白紙の状態から始まり、だんだん様子がわかってきました。N社は神戸業務3人体制+営業数名、大阪業務数名+営業数名体制で行っていたようですが、営業成績が悪いためと、これに伴うコンテナの不良在庫が増え過ぎたためS側がこれを嫌い、N側も業務、営業利益が赤字にため、弊社に変えるという話だった様です。これを当社は神戸業務1名、大阪の業務1名+営業数名で行おうという意向が示され、この意向に沿い、弊社へ帰ったあと、業務内容を引き継ぎ、内容点検のため、連日のような残業を行うことになりました。業務の移動のためや業務内容の習得、引継ぎ等内容の濃いものでしたが、まったくこの引継ぎ専任というわけにもいかず、他の業務と平行して行っていました。あと、引継ぎの中で、コンテナの在庫管理が手作業で行われている実態が判明し、唖然としました。このための作業で、税関上のミスを防ぐため、神経質な在庫管理業務を日本包装社は手作業に近い形で行っていたため、前社では手間を要していました。しばらくして、この対策のため、急遽、EXCEL マクロ、VBAを使ったコンピューターソフトを作成する必要性に気づきましたが、ほぼ丸投げ状態でこの引継ぎ業務を課したため、課長等は当初はその実態がわからない状態で、前社どおり、手作業で行うという意見が出され、説得に時間を要しました。平行してEXCEL VBA 、マクロの作成を試みましたが、N社、その前のU社がギブアップ状態で手作業にて行っていた作業を急に変更するため、プログラムの立ち上げから、構想を練る必要があり、通っていたパソコン教室の知恵や課長の助言を求めて、業務時間外も、パソコン教室へ行ったり、家に戻ってからも考えている状態が続いていました。また、在庫管理関係レポートのNから弊社への引継ぎがうまくいかず、報告メールが届かないという日々が続き、原因の追求や調整のための業務を強いられました。また、船荷目録を税関へ提出する業務が手作業のままで放置されており、当初はそのまま引き継ぐしかなく、この業務の変更も課題でした。こうした通常の引継ぎを受ける上、それ以外の課業を平行して行うという作業が連日続くという毎日が続いておりました。こうしたひどい状態であるにかかわらず、長いことかかって教えてきた新人さんの東京への転勤も決まっておりました。
2)悪夢の日について
2007年5月31日、この日を境に私の運命が変わりました。昼前後から、肩が重く痛く、体調がすぐれない状態でした。昼過ぎに課長に早退の意向を告げましたが、伝わらなかったのか、我慢して、業務を続けておりました。ようやく午後4時前ごろ、早退でき、自宅近くのいつも通っているT整骨院に行きました。かなり肩が重い状態でした。他の患者さんで忙しい中、ベッド状のいつも使っている機械式のマッサージ機(O製作所、オスピナレータービクトリア)に横たわってマッサージを受けたのですが、これを受けたあと、体の状態が異常に変調し、歩くのがやっとの状態になり、T氏に伝えたところ、私の状態をみた彼は、治療費はいらないから、すぐ側のあるF整形外科に向かうよう勧め、歩くのがやっとの状態でたどり着き、待合室で待っている間に急に左足から、力が無くなり、ベッドに倒れこんだ状態になり、これをみたF医師が救急車を手配し、N脳神経外科へ向かった様でした。首から下の力がすべて抜けていました。手も足も何も動かなくなってしまいました。MRIをうけてあとまた転送、H医大へむかったそうでした。このあたりは意識がもうろうとした状態で、気がついた目が覚めたときにはH医大のベッドの上でした。
3)頚椎硬膜外血腫、頚椎損傷
あとで、聞いた話をまとめますと、MRIで確認すると、首の頚椎硬膜外に血の塊ができ、頚椎の神経を圧した状態で、このため、首から下への指令をする頚椎が麻痺、損傷しており、血腫を取り除く緊急手術が必要とのことで、うまく手術ができるかどうかもわからず、成功しても、車椅子の生活ができるかどうかという残酷な話を家族はきかされたようでした。6月1日、手術に同意し施術をうけました。首の後ろを10cmほど切り開き、中の血の塊を除去したそうです。このあとも、手や足が動かず、ベッドに縛りつけられたような状態で日々が過ぎ、あまりの事態の展開に、よく事態がのみこめないまま、その日その日、点滴、食べること、薬をもらうこと、等に追われてしまうことになりました。まさかその時点で、その後の身体障害、リハビリの残酷な日々が展開していくことになるとは、夢にも思いませんでした。
4)救急病院の実態
H医大では、ベッドに縛りつけられた状態が2週間ほど続き、そのあと車椅子移行へ伴い、リハビリが始まりました。最初は座ることも出来ず、手も足もほとんど動かない状態でした。転院するまで、左足はまったく動かない状態で、寝返り等もやっとの状態でした。頚椎関係でリハビリの実績のある、K労災病院への転院を希望しましたが、満床の状態とのことで、当初の話では、8月までは、開きがないとの話で、他の病院をさがし、N協立リハビリテーションへのということで転院したところ、すぐに空きがでたとの話、あわただしく、一週間あとに、すぐさま、K労災病院へ転院しました。H医大での忘れられない思い出があります。手術後、一週間ほどは、回復がスムーズに始まり、動かなかった左足にも、血が通い、神経が復活してゆく様子がわかりました。食べた食べ物、水分がそれまで、止まっていた体内のうっ血した毒素といれかわっていくような感覚を体験しました。しかしながら、それが止まってしまう事態が生じ、水分の補給が必要な場面を迎えました。私は水が欲しいと叫びましたが、気が狂っていると捉えられ、ベッドに縛り付けられて、水を与えられずに、過ごしてしまいました。医学的な根拠はないかもしれませんが、今の左足の不全状態はこのときのせいだと思っております。その後も、神経科から大量の精神関係の薬剤を投与されたせいか、異常な神経の体験しました。医大は実験材料としてしか、患者をみていないような側面を味わいました。その後も、何度か、精神科の担当がチェックをしていましたが、よく分からないようでした。担当医は水を与えなかったのは間違った判断だと思っているような心象を受けました。
5)急性期リハビリ病院の実態
頚椎関係でリハビリの実績のある、K労災病院への転院を希望しましたが、満床の状態とのことで、当初の話では、8月までは、開きがないとの話で、他の病院をさがし、N協立リハビリテーションへのということで転院したところ、すぐに空きがでたとの話、あわただしく、一週間あとに、すぐさま、K労災病院へ転院しました。こうした事務処理能力も大きくなりすぎてうまく回っていないようです。
ここのリハビリは積極的なもので、車椅子から、杖、自力歩行と当初はかなり、順調に推移しましたが、左足の回復が遅く、通常の半分程度のスピードがやっとの状態で、歩行可能な距離も1KMぐらいまで回復しました。しかしながら、寒くなるにつれて、痛みが起こり、夕方になると、痛みが始まるという毎日になりました。傷みについて、リハビリ医師は知識に乏しく、看護師、ヘルパー達も、無知でうが、これは日本の痛みは我慢するものという風土が反映しているものからくるもののようです。その後、ペインクリニックでの診療にこぎつけるまでも、またそのあと、今でも、心身を痛めつけ、冷静な判断を妨げることになり、しばしば欝状態を引き起こしております。労災病院でのリハビリはあくまで日常生活ができるレベルをめざすもので、職場復帰をめざすという労働者のための労災病院本来のあり方は考えていないものでした。労災病院といいながらも、労災での入院患者は皆無で労災関連の知識や、蓄えなども無きに等しい状態でした。一度、業務について改善の意見書を3通ほど、意見箱へ投函しましたが、何の返事も無く、放置されたままでした。都合の悪い意見は見ぬふりをするようで、旧国立病院の弊害が覗われました。また、医療改革の関係で入院期間は短く設定されており、リハビリ師ひとりあたりの患者数も多く、細かいところまでは手が回らないというのが現状のようでした。
6) 医療事故を認めない整骨院、メーカー、警察
マッサージ機が原因と思い、10月上旬に退院した後しばらくして、10月15日に、A警察刑事課(Y様)に整骨院に対しての被害届を出そうと動いたのですが、約一ヶ月後の11月15日にA警察刑事課(I様、M様)が自宅まで来られて、N外科病院、H医科大学病院(M医師)、T整骨院等との事情聴取の結果、マッサージ機に因果関係はないとの結論を口頭で伝えられると共に、原因は過重労働、ストレスの積み重ねで起こったという主旨を述べられ、労災への申請を勧められました。T整骨院,O製作所に文書で照会をしましたが、過去そうした事故が無いことを根拠に国への届出等も拒否したままです。法律上もメーカーからの提出を義務づけているだけで、被害者からの被害届は受け付けていないようです。
また、医療事故提訴を受ける窓口も弁護士事務所だけで、勝つためには診断書がポイントのようで、医療関係者はお互いをかばいあう傾向があるようで、かなり難しいようです。また、警察の態度もいいかげんなもので、調書をとらず、被害届も受け取らず、全て、口頭で処理しようとし、後日、問い合わせてみても、まるで、被害を受けたほうが悪いというような口調で応対され、警察のいいかげんさにあきれ返った次第でした。警察の説明では、医者等の話を総合すると、過労で痛んだ首部分の血管がマッサージ器を機会にあたかも風船が破裂するようにして血腫が出来、これが硬膜外血腫の原因になったのだから、労災を申請すべきということだったのですが、労災申請の結果不受理を告げると、自分のいったことははっきり認めず、裁判で争うしかないとの見解を高圧的に告げただけでした。
7)医療事故に対応が難しい社会
私個人の頭のなかでは、当初も今も、原因のひとつはマッサージ器にあると思っております。そのため、退院して、しばらくしてから、A市おこまりです課、福祉課、消費者センター、A市保健所、A市会議員K氏、Y新聞社O本社科学部医療事故担当、Hさん等、相談したのですが、積極的には動いてくれず、警察への相談をするようにとのことでした。疼痛が激しく、欝状態のなか、被害届に出向いた芦屋警察ではYさんという女性係官が話を聞いてくれましたが、連絡も無いまま一ヶ月ほどしたあと、突然、IさんとMさん、ふたりの刑事さんがこられ、T整骨院、N協立脳神経外科、H医大の調査の結果を、先にも書いたように口頭で述べられ、マッサージ機には、原因はほとんど無く、過労によるものだから、労災の申請をしたほうがいいとの見解を伝えられました。市会議員K氏も労災への申請を薦めていました。先ほど述べたような船舶代理店業等、業界の問題点もある程度理解があるようで、なりゆきによっては、F国土交通大臣への問題点の提起も視野にいれてくれる期待も持ちました。しかしながら、市役所、消費者センター、保健所、福祉課、行政相談、議員、全て逃げ腰で、係わり合いを避けるばかりでした。医療事故は決定的な証拠がない限り、訴えても無駄という現実があるようで、運悪くこうした事故に遭遇した者は泣き寝入りするしかないのかと思いました。
先ごろの毒餃子事件の件もからみ、国に相談窓口を設ける動きもあるようなので、成り行き次第では、労災、医療事故、の観点からいろいろ動いてみたいと思っております。なんどか、触れましたが、みなさん結局のところ、他人事でしかなく、そんなこと関係ないという態度がすべての対応の裏にみえていました。親が心配して宗教にも手をひろげたのですが、宗教も金儲けでしかなく、同様のことでした。こどものため、家族のため、生きなければならないなか、この件を通じて社会のために、何かが出来ればと考えている毎日を送っております。TV等、マスコミへの相談も真剣に考えている今日この頃です。行政等の生ぬるい対応、他人事の対応を肌で感じる日々を送るにつけ、同じような悲惨な次の被害者が出る前に社会への警鐘は私の義務なのかなと自問している毎日です。
8)役立たずの労災、役人
警察聴取の結果は、マッサージ機に因果関係はないとの結論を口頭で伝えられると共に、原因は過重労働、ストレスの積み重ねで起こったという主旨を述べられたため、労災への申請を勧められました。しばらくして、この結論を会社のほうへ伝え、5号様式、6号様式の申請書を作成して、N外科病院(最初に救急車で担ぎ込まれ、MRIを撮られた病院)、H医科大学病院(先の病院では、手術が出来ないため、可能なこの病院へ即、転院し、この病院で手術を、M医師等のもとで施術)に12月中旬に提出しました。このあと、翌年5月になり、やっと、返事がきましたが、それは、長期労働、ストレスと硬膜外血腫に相当因果関係がないから、労災適用は出来ないので、不支給が決定したとの通知でした。不服の場合、H労働局へ不服申立をしなさいということで申立を即刻しましたが、それから3ヶ月を過ぎてもなにも言ってこない状態が続いています。役所らしいいい加減な仕事が目に浮かぶようで、くやしくてしょうがありません。他人事だから、何もせず、ほったらかしにしておいて、時間がたてば、適当な理由をつけて、不支給にするのが、目にみえています。
9)勝つのが極めて難しい医療裁判
労災の不受理が続いた場合、国と裁判で決着をつけることになるかと思われます。二つの裁判の可能性をずっと考えています。ひとつはT整骨院、O製作所を訴えることです。もうひとつは労災の問題から、訴えを起こすことです。どちらにしろ、医者の診断書が必要になってくるようですが、手術をしたH医大病院の執刀医もマッサージ器の可能性についてははっきりと明記することを拒まれており、裁判をしても時間の無駄という気がするため、あと一歩を踏み出せない状態です。
10)詐欺的な生命保険
N生命保険の新傷害保険というものに加入していたのですが、左足が不全状態でこんなに痛みで苦しんでいる状態であるのにかかわらず、免責条項に介護の必要が書かれているために、せっかく保険に入っているのに、まったく保険金がおりないということになっています。普通、傷害保険と明記されていたら、障害者になったら、下りるのが当然というのが、一般常識ではないでしょうか。詐欺としか、思えません。営業担当者も未熟な女性で誠意はあるようなのですが、肝心な点が欠けており、こちらは振り回されるだけで、何も進展が無い状態が続いています。
11)テニス倶楽部等の対応
退院後は、約5ヶ月間のブランク、と体の障害に伴う手続き関係の処理に追われる毎日でした。定年後やりたいと準備していた、テニス倶楽部、ゴルフ倶楽部の解約等は、金銭的にも精神的にも、大きな損失を伴うもので、また、両倶楽部の対応は誠意の無い事務的なものでした。特にKテニス倶楽部は障害者のことなど、これっぽっちも考えていない冷たいものでした。K市の公的な施設を使用しているのにかかわらず、障害者のことは規則のなかにも、何も無い状態で、理事会に話をしても、休会扱いにもならず、約25年間支払った会費等は全て捨て金になってしまいました。非常に大きなストレスを伴い、この件でも考えると欝的な状況に陥りがちです。また、急にこの障害者になってしまったので、あのとき、マッサージにいかなければ、こうなっていなってかったではとの、後悔の念がいつも、頭をよぎり、なおかつ、痛さが増してくると、自殺を考える日々が続き、今もその状況からは、完全に脱しきれておりません。いつまで続くかもわからない痛みが時をかまわず襲ってきて、痛みが続くと、なんで、自分がこんな目に会わないといけないのかとい気持ちがそのたびに襲ってきて、しばしば、欝の状態に陥ります。こうしたうつ状態の中、麻痺が残ったままの手足が少しでもよくなるように、絶望感を伴いながらも、ジムのプールに通い、それ以外の時間は寒い家のなかで将来の希望が見えない生活を続けております。この労災処理の結果如何によっては、自殺してこの世を去りたい気持ちを持っております。
12)宗教について
私の母親は、熱心な宗教の信者です。最初から期待すべきではなかったのですが、ベッドで縛り付けられた状態で、何かにすがる必要があるときに、熱心に祈ってくれたようです。その効果があったのかどうかわかりませんが、全身麻痺の状態からは、脱却することが出来ました。しかしながら、救急病院で麻酔科から、大量の精神安定剤を飲まされていた時期とぶつかったため、例の水中毒事件とぶつかり、私は気が狂ったと扱われてしまいました。タイミングが悪かったとしか思えません。また、痛みがひどいことに対し、宗教は全く無力でした。かえって、痛みを増す効果があるようで、私のような不信心者には不要と思えました。現在宗教は人の弱みにつけこんで、お金を儲ける面があるように思えるのは不徳のなせる業でしょうか。
13)麻痺から欝、痛みへ
最初の頃はまったく問題がなかった体が急にこのように変わってしまい、心の整理がつかない状況は変わることはありません。子供や家族がいるので、死ぬことはできませんが、一人であれば、確実に死を選びます。不全麻痺は治ることはなく、健康であった体に戻ることはありません。お医者さんは冷たく、頚椎の再生は不可能だと告げます。楽しみも全て奪われ、将来の希望も何もありません。死ぬことができないので、仕方がないので、生きていくだけです。うつ状態になることがしばしばあります。ひとりのときは死にたいと、叫んでいます。こんなうつの状態で仕事を続けることは難しいと思っています。歩くことも中途半端な状態なので、以前のような、船に乗り込むような仕事は、出来ないでしょう。一日中、PCを打つことも肩こりにつながり、マッサージ機の事故の悪夢がよみがえります。子供が二人とも高校生なので、生活費が途切れるこの先が心配でなりません。そうした現実から、逃げたくてしょうがありません。どうしたらいいのでしょう。せめて、労災が認可されることが、わずかの希望です。この体が治らないのは、認めたくないのですが、どのお医者さんも頚椎の傷は治らないのは、厳然たる事実と繰り返されます。どうしたらいいのかわからず、叫んだり、泣いたりする毎日を送っているだけで、いつになっても、何の希望も見つかりません。こうした空虚な毎日が繰り返されるだけです。寒い日や、雨の日は特にそうした傾向が激しくなり、ぶつぶつぶつぶつ、なんでこんな体になったんや、等言っています。自殺したくってじょうがありません。自殺サイトも何度も見ました。かなり長期間、リハビリを続けていますが、この数ヶ月は顕著な改善がみられません。左足のけい性もまだ、改善せず、何の希望もなく、死にたいです。死にたいです。こうした欝状態が退院後、数ヶ月続きました。さらにおそろしいことは痛みが襲ってきたことです。
14)恐ろしい痛みの苦しみ、医療の現実
最初の頃は、痛みに関しては、あまりひどくは無かったようです。しかしながら、次第に痛みがひどくなってきました。調べてゆくと、脊椎損傷者のうち25パーセントほどの人にこの神経因性疼痛が発生しているようで、運悪く自分もその症状に直面しているようです。ひどいときには、座っていることすら出来ない痛みに襲われ、寝ることも出来ず、苦しみ、その痛みが遠ざかるのを半日、一日と待つしかないようです。基本的には、この痛みは脊椎の中の微妙な部分のためか、治癒することは無く、一生苦しむしかないようです。薬はガバペンというてんかんの薬を使うと幾分かは改善するようですが、特効薬とまでは行かず、人によっても効いたり効かなかったりでどうこの痛みに付き合うかが、大きな問題です。痛みは家族といえども理解されることができず、その苦しみは筆舌に耐えないものです。私の場合、脊髄に沿った背骨の部分の内部が痛み始めるパターン、腰の部分から傷むパターン、右足のやけどのような痛み、これは常時ありますが、痛みが強くなったり、弱くなったり、様々です。この痛みがあるために、裁判等の揉め事に投入する気力がそがれたり、リハビリのために、歩く座る、といったことの阻害材料になります。また、この痛みがこうしたレポートの作成の阻害材料にもなり、痛みにたいする医療関係者の理解も深まろうとはしない感じです。日常も生活の質なんてものにはほど遠い状態で、へたすれば、一日中横になってうんうんうなって泣き言をたれているだけになってしまいます。脊椎損傷者のうち、痛みに苦しむ方々が2006年に「麻痺と痛みに生きる」という本を出版されており、同じような苦しみにあえいでいる人たちがいることを確認することができましたが、脊椎損傷者の掲示版に書き込みをしてもあまり反応がなく、がっかりしております。多分、あまりの痛みに耐えかねているのか、ネットをみることができるような状態にないのかと思います。「麻痺と痛みに苦しむ」という本によると同様の苦しみにもがいている人はいるようですが、少数のようです。ネットで聞いてみてもあまり反応がないようで、共通の痛みをもっている方と情報交換がしたいですが、なかなかヒットしないのが現状です。
15)排便の苦しみ
事故のあと、病院では、全身麻痺だったため、寝た状態で排便をしなくてはなりませんでした。寝ながらウンチをするというのは大変な作業で、結局一回だけ成功しただけで、あとはおとな用おしめに垂れ流すという状態でした。救急病院を転院する間際にトイレですることをトライしましたが、おしりの肉がやせほそり、便器にもすわることができなかった記憶があります。労災病院に転院するあたりから車椅子からトイレの便座に移動して大をするようになれましたが、ずっとマグミット剤という薬を飲んで毎日強制的にだすようにしており、便秘になると、プルゼニド錠という頓服を飲み、それでもだめな場合はレシカルボン座薬を強制的に使い、だしていました。退院してしばらくして、使用をひかえるようにすると便意はほとんどなくなり、放っておくと1週間はでない状態が続くようになっています。一度、牛乳を大量にのむと出たことがありますが、カレンダーに付けておくようにして排便するようにしています。長くでない場合はプルゼニド錠を使い、それでもだめなら、座薬を使います。現在の肛門部分の感じは一部が不全麻痺しているようで、便がおなかの中にたまるとやっとでようとするような感じで、排便コントロールに苦しんでいます。うまくいかないとこれもストレスになるようで、例の痛みの増大に寄与するようで、大きな悩みの種の一つです。今も放っておけば、ずっと出ない状態が続きます。一週間ぐらいでないことが続くと意識して排便のトライを続けています。また、気がつくと、排便がないまま、一週間が過ぎていました。便意は無い状態で、便器に座っても、苦しむだけです。この苦しみから逃れることはできないのでしょうか。
16)将来の見えない現実、自殺への道
痛みに苦しんでいるときも、痛みから幾分解放されて時も、苦しい現実から逃げたい自分が存在しています。将来への不安はずっと存在しており、何の楽しみも無くなった自分を思うとき、いつも死にたくなります。ただ、死んでしまうと後に残された家族への心の負担があるので、踏みとどまっていますが、一人なら、死にたいです。薬漬けの毎日、治ることの無い痛みの連続に苦しむ毎日を送っているため、現実から逃げたくてしょうがない、自分がいます。この原因になったと思われる過重労働を強要した上司、事故のあったT整骨院、O製作所、みんな憎くてしょうがありません。こんな事故があっても、動いてくれない警察、役にたたない裁判制度、この国て、おかしいのではと思いながらも、痛みに苦しむ状態では、前へ進むだけ、損のようです。
17)希望、痛みのコントロールへ
痛みは依然として、毎日、朝から晩まで、程度の差はあれ、襲ってきます。私の場合、痛みの種類は2つあり、右足のひざから、足首に至る部分から始まる灼熱痛と、腰の脊髄部分から始まる深い鈍痛です。灼熱痛は程度の差はあれ、ほとんどいつもある状態で、それがひどくなったり、すこしはましになったりという感じで、腰の痛みは長く歩いたり、座ったりしていると、襲ってきます。あまりに痛くなって、横になっても、多少は楽になるだけで、痛みが頭の中を駆け巡っています。ただ、なにかに熱中したり、話を聞いてもらったり、他の事に気をとられていると、その時は痛みのことは忘れているようです。しかし、何か困難なことに出くわしたり、不快なこと、例えば、寒かったり、気圧が下がってきたり、大きな悩みごとに出くわすと、これが助長され、とんでもない恐ろしい痛みに発展してきて、収集がつかなくなります。この痛みについては、2004年に日本せきつい基金のレポートがネットに載っていましたので、ようやく、同じような悩みを抱えている方と、悩みが共有できました。このレポートが作成された頃は、新薬だったガバペンという薬が私の場合、すこしは効くようで、この薬のおかげで、少しは痛みが緩和されているようですが、完全に制圧することは難しいようです。薬を飲んですぐに効くわけではなく、2,3時間すると、多少は効いてくるような感じです。しかしながら、レポートの中には、痛みと戦いながら、復職されている方々の話を読むにつけ、自分も頑張らなければという思いを持つことが出来ました。もうすぐ、来年の春には、傷病手当金が打ち切られることになっており、高校生を二人、持っている身としては、復職せざるを得ない状況です。どなたか痛みを持っている方が、いらっしゃれば、声をかけていただければ有難く存じます。どん底状態の毎日ですが、自殺するわけもいかず、この痛みに耐えて、社会に復帰するしか道は残されていない状態です。
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