写本に挑戦!番外
ルネサンス期の音律


しばらく暫定版として公開します
補足と本文とMIDIなど手直しをしました(11/23)
本文追加(純正律)と本文とMIDIなど手直しをしました(11/26)
本文訂正(純正律など)とMIDI追加(11/26)

はじめに

 音律は古い音楽を演奏する際には避けては通れない道です。詳しい音律については、すでにネット上にも様々な資料があるので、それを参考にして下さい。ここでは、MIDIを使って我無人なりの音律についての考察を簡単に記していこうと思います。


MIDIについての注意

 このページで説明に使われているMIDIは、全てピッチベンドを用いて問題の音律に調整しています。MIDIを途中で止めて違うMIDIを聴くと、そのMIDIの初期設定にピッチベンドが入っていない場合に、前のMIDIのピッチベンドの値を引継いでしまう事があります。MIDIはすべて、全て聴き終わった後にピッチベンドの値が初期値の0になるようにしていますので、最後まで聴くようにして下さい。また、聴いているMIDIを、途中で止めてそのMIDIの先頭に戻したり、先に進める場合にも同じようなことが起る可能性がありますので、御注意下さい。

使用上の注意を読む


実例

 先ず、次のMIDIを聴いてみて下さい。これは(偽?)コンペールの「おお、善きイエスよ」の冒頭です。まずはどれがどれなのか、答えは言いませんので、先入観なしに聴いてみて下さい。各々をよく聞き直せるように、倍のテンポにしたものも置いておきます。また、楽譜も掲げておきます。




MIDI.1  MIDI.1 (ゆっくり)
MIDI.2  MIDI.2 (ゆっくり)
MIDI.3  MIDI.3 (ゆっくり)


Compere O Bone Iesu

 さて、一通り聴いたら、MIDI.1を、楽譜を見ながらじっくり聴いてみましょう。さて、聴いてみてどこか問題を感じる場所があるでしょうか。何度か聴いてみると、第3小節目で、第3声部のeが何か耳障りな音に聞こえると思います。それから、5小節目、12小節目の終止音は少し唸りが多いような気がするかもしれませんが、それ程違和感を感じない人もいるかもしれません。まずは、これぐらいにしておきましょう。

 次はMIDI.2を、楽譜を見ながら聴いてみましょう。これは耳の鋭い人なら、既に第2小節から、少し唸りが聞こえるのが分かるかもしれませんが、これも些細な違いでしょう。3小節目で、最初のMIDIで聞こえたうなりはなくなっているのが分かると思います。が、全体の印象は、何か音がずり下がっているような感じがすると思います。もし合唱団でこういう音程だと、おそらく怒鳴られることもあるかもしれません(笑)。個々の音で一番致命的なのは、9小節目の最上声のbと11小節目の第3声部のbでしょう。これは余りに音が下がり過ぎに聞こえると思います。終止では最初のMIDIほどの唸りは感じないと思いますが、全体の印象はどうでしょうか。

 次はMIDI.3を、楽譜を見ながら聴いてみましょう。おそらく、これが一番聴きやすいのではないでしょうか。唸りは多少聴かれるものの、全体としては均衡が取れていると思います。ただし、2番目のものと比べると終止音などの唸りがやや気になる人もいるかもしれません。

 音律を触り程度でも知っている方ならもう気付いているかもしれませんが、この3つは各々ピタゴラス音律、中全律、平均律です。

 全くの先入観なしにもたれた感想はどうかは分かりませんが、このうちでどれを取るべきかとなると、おそらく平均律を取る人がやはり一番多いと思います。ピタゴラス音律では不協和の部分が目立ちますし、中全律では音の印象が余りにも暗い上、旋律的にも少し問題があると思われるでしょう。何より耳に馴染んでいるのが平均律ということも、平均律にプラスに働いていることは間違いありませんが、この印象は決して的外れなものではないと思います。

 さて、実際に耳で聴いて何となく音律の問題を感じられたと思いますが、今度は音律のやや詳しい説明にはいります。


ピタゴラス音律

ピタゴラス音律によるスケール上下とドミソの和音

C D E F G A B C
±0 +4 +8 -2 +2 +6 +10 ±0
±0 164 328 -82 82 245 410 ±0
  C# D#   F# G# A#  
  +14 -6   +12 -8 -4  
  573 -245   491 -328 -164  

数字は上は平均律と比較したセント数の上下、下はMIDIのピッチベンドの値(初期設定でピッチベンドの最大幅は8191=200セントで、セント数の上下をMIDIのピッチベンドの値にしたもの((ピッチベンドの値)=(セント数の上下)×8191÷200)、ただし小数点以下四捨五入


 詳しい話に入る前に、各々の半音の間隔を示す単位を取りあえず決めて置かなければなりません。これは通常、平均律の場合の単位を用いるのが普通です。一オクターブ内には、C C# D D# E F F# G G# A A# B (C) の12の半音がありますが、これらの半音同士の間隔を全部均等にするのが平均律ですが、その場合の半音間隔を100としてやり、1オクターブの間隔を1200セントという単位に分けて、各々の半音の間隔を100とする方法が、音律の際の基本的な方法になっています。さて、こうすると、C-Dは二つの半音が入ります(C-C#-D)から、200セントの間隔があり、長3度C-Dの間はC-C#-D-D#-Eですから、4半音で、400セントの間隔があります。完全5度C-Gは700セントとなります。

 この平均律というのは、実は対数を使わなければ完全に正確な算出は出来ません。まだ対数のない時代には、協和音を使いながら調律する方法が一般的でした。もっとも古い調律の方法は、完全5度の協和を用いて調律する方法で、これをピタゴラス音律と呼びます。

 まず、基本になる音を決めます。ここではCにしておきましょう。それに対して、完全5度上のGを調律します。もちろん、C-Gは完全に協和します。さて、ではGから今度は完全5度上のDを調律します。これをずっと繰り返すとどうなるかというと、C-G, G-D, D-A, A-E, E-B, B-F#, F#-C#, C#-G#, G#-D#, D#-A#, A#-F, F-C となり、不思議なことにオクターブ内の全ての音を通って、最初のCに戻って来ます(もちろんときどきオクターブ下にしてやります)。さて、これで全ての完全5度の音が、互いに完全5度で協和する調律になったかと思いきや、最後に行き着いたCは最初のCよりも大分高くなってしまうのです。それは24セント分で、つまりこの完全に協和する完全5度は、実は700セントではなく、702セントなのです。この2セントの差を聞き分けるのはかなり難しいですが、平均律完全5度とピタゴラス音律完全5度の例を上げておきます(最初に平均律完全5度、次に少し狭い完全5度(中全律5度)、再び平均律、ピタゴラス音律完全5度。二番目の少し狭い完全5度で唸りを聴いてから、平均律の唸りを確かめてみて下さい)。

 もちろん、このことは昔の人もちゃんと気付いています。24セント、つまり殆ど4分の1半音ちかく高くなったCを使ったりできませんから、それをさける方法は2通りあります。一つは、5度を協和する完全5度よりもほんの少しずつ狭めてやる方法(つまり、普通に使われる平均律と同じ方法)、もう一つは、どこかあまり使わなそうな5度だけを狭めてやる方法。古の人は後者をとっていました。

 どうするかというと、Cのほうから完全五度づつのぼりながら調律しつつ、Cのほうから完全5度づつ下がりながら調律してゆきます(つまり、C-F-A#-D#-G#と)。そして、滅多に使わない完全5度の和音に、しわ寄せを持ってゆきます。昔は移調などはそれ程ありませんから、#のつく音同士にしわ寄せさせます。通常、完全五度ずつのぼるほうはC#まで続け、完全五度づつ下がるほうはG#まで続けます。C#までは7回5度を積み上げ、G#までは4回下げるので、各々14セントと8セントで、22セント分狭い、共和しない完全5度になりますが、そのままほっておきます(笑)。ここは特に不協和が目立ちますから、狼の音(ヴォルフトーン)と呼びます(C#-G#の完全5度の例。最初はピタゴラスでの完全5度、ピタゴラスでの狼の音。)。

 このC#-G#以外は、この音律では問題がないかというと、実はもう一つ問題があります。それは長3度の和声です。じつは、長3度は、平均律の400セントでも協和しません。協和する長3度は400セントではなく、実は386セントなのです。ところが、このピタゴラス音律からいうと、例えばC-Eの長3度は、C-G-D-A-Eと、4回702を積み重ねていますから、この3度には2×4=8セント、平均律より高くなっています。400-386+8=22セント協和する音より高いということは、4分の1半音ちかく高いわけです。ですから、ドミソの和音を出せば、ドソは協和しても、ドミは協和しないで唸りを生じます。協和する3度とピタゴラスの3度を、ここで聴き比べてみましょう(最初に平均律長3度、次に平均律と純正3度の中間の3度、協和する3度、ピタゴラス音律の長3度)。

 MIDI.1でややおかしく感じるところは長3度の和音がでる部分ですが、じっくり和音を鳴り響かせる部分でなければ、それ程違和感はないはずです。その上、高めのミの音は、長調的な明るさを強くしています。旋律として聴けば、全く違和感はないとおもいます(最上声部のみ聴いてみる)。半音はEとBとが高くなっている分だけ狭く出来ているため、導音の効果、つまり終止の前の音の不安定感から、終止音の安定感に向う効果が高くなります。MIDIでも、最後の一つ前の小節の第3声部では、CBCが出ていますが、このBは同時になっているGとは完全な長3度の協和をしていないにもかかわらず、ほかの長3度よりは違和感がないと感じられるかもしれません。

 現代ではこれなくしては音楽はあり得ない3度の和声は、中世では不協和音とされ、あまり用いられませんでした。これは逆に、ピタゴラス音律では協和しないため、不協和音に数えられていたとも言えます。また大胆な転調も殆どないため、ピタゴラス音律は中世を通してずっと使われ、初期フランドル楽派の時代まで使われ続けます。しかし、3度の和声が音楽の中心にすえられるようになると、事態は変って来ます。また、一方で、チェンバロ、クラヴィコードという楽器が、14世紀後半に生まれ、15世紀後半から徐々に使われることになります。この楽器は、かなり高い金属的な倍音が出る一方、ビブラートなどの唸りを緩和する要素もほとんどないため、ピタゴラス音律では広い3度の不協和はものすごく目立ちます。まず、先程の3度を1オクターブ上げたものをチェンバロで聴いてみて下さい(最初に平均律長3度、次に平均律と純正3度の中間の3度、協和する3度、ピタゴラス音律の長3度)。平均律でも若干幅の広い3度は、この楽器では目立ちますが、ピタゴラス音律ではかなり露骨に目立つでしょう。もう一つ、先程のMIDIの曲をチェンバロで聴いてみて下さい(実例)。音の明るさはありますが、少しガチャガチャした感じに聞こえると思います。これを解消するのに、3度を協和する方向での調律を目ざしたのは当然の成りゆきです。その実例を、先ずチェンバロで聴いてみて下さい。先のガチャガチャした音がすっきりおさまっていることに気がつくと思います。これが中全律です。


中全律

中全律によるスケール上下とドミソの和音

C D E F G A B C
±0 -7 -14 +3.5 -3.5 -10.5 -17.5 ±0
±0 -287 -573 143 -143 -430 -716 ±0
  C# D#   F# G# A#  
  -24.5 10.5   -21 14 7  
  -1003 430   -860 573 287  

 中全律はピタゴラス音律が完全5度を協和させていたのに対し、長3度を協和させる方向で調律する方法です。まず、ピタゴラスではC-G-D-A-Eで、完全5度を積み重ねると、Eは平均律400セントのそれに比べて8セント高くなり、C-Eの和音は幅広い408セントの長3度になります。完全に協和する長3度は、これよりもずっと狭い386セントなので、8+14=22セント分、ピタゴラス音律の完全5度を少しづつ狭めてやれば、この長3度は協和することになります。そうすると、結果的にこの5度は、22÷4=5.5セントピタゴラスの5度(702セント)より低くなりますから、696.5セントになります。702がピタゴラスの場合の完全5度ですから、これはやや狭いため、唸りを生じますが、3度の協和は完全なので、こちらのほうが優勢になります。3度の協和に混じって、極僅かに狭い完全5度の唸りが聞こえるという、この独特のブレンドが中全律独特の響きと言えるでしょう。この中全律完全5度の唸りは、平均律のそれより聞き分けしやすいと思います。先程の例をもう一度聴いてみて下さい(平均律完全5度とピタゴラス音律完全5度の例。最初に平均律完全5度、次に少し狭い完全5度(中全律5度)、再び平均律、ピタゴラス音律完全5度)。

 さて、この完全5度は、しかしながら700セントよりも3.5セント狭いので、これもC-G-D-A-...と5度を積み上げてゆくと、最終的には3.5×12=42セントも低いCに戻ります。これもピタゴラス音律の場合と同じように、別の所にしわ寄せをするため、Cのほうから下に5度ずつ下がりながらC-F-A#...という具合にとってゆきます。しわ寄せはC#-A#など、あまり使わなそうな5度の出て来るところに持って来ます。この5度は738.5セントになり、これが中全律での狼の声になります(C#-G#の完全5度の例。最初は平均律での完全5度、次に中全律での狼の音)。この狼の声は、ピタゴラスの狼の声の22セントの狂いよりもずっと大きいので唸りは激しく、完全に使い物にはなりません。

 この中全律は、全体的には協和している部分が多くなるのですが、我々のように平均律に馴染んでいると、全体的に音が下がっているため、暗めの印象を受けます。これは、CDEGABが、全て狭い5度を積み上げて作られていますから、全て低めになっているためです。長3度は確かに完全に協和していますが、これはかなり低くなっているので、長3度がもたらす明るさの効果の点ではマイナスになっています。平均律やピタゴラス音律のようには、この音律では長3度は明るくならないのです。協和する長3度とピタゴラスの3度を、もう一度聴き比べてみましょう(最初に平均律長3度、次に平均律と純正3度の中間の3度、協和する3度、ピタゴラス音律の長3度)。確かに、唸り自体はなくなりますが、協和する3度に近付くごとに、音が暗く感じられるのが分かるでしょう。また、一番難点なのは、今度は半音が広いために、Bの音がCに上がる際の導音の効果を大分弱めてしまうことでしょう。Bの音が主旋律で出て来るところは特に音がずり下がって聞こえると思います。

 ここでは、もう一つ聞き比べをしてみましょう。先程のMIDI.2と、最上声のメロディーのみのMIDIです。音律に知識がある程度あるかたなら、和声の中に入っているなら、この音律は問題がない、と思っていらっしゃると思いますが、どうでしょうか。メロディーだけのほうが、聴きやすくはないでしょうか。これは音律についての誤解がもとなのですが、実は協和している和声が、常にプラスに働くわけではないのです。この場合は、導音のBが解決されるCから離れる一方で、同時になっているGと完全に協和するせいで、終止音での解決の幅がますます広く感じられるせいです。この音律は、つまり、旋律と和声が実は根底では完全に損得が一致しないことを暗示する音律でもあります。

 ただし、以上の問題も、楽器の種類によってはそれ程目立ちません。先にみた、チェンバロでは、ピタゴラス音律は、明るく高い倍音が多いため、広い3度の不協和はかなり目立ちましたが、中全律ではしっとりとした仕上がりになります(その実例。参考にチェンバロでのピタゴラス音律)。それから、当時の例えば倍音の多い、独特の雑音的な音の楽器で構成されたアンサンブルでも、この音律はプラスに働くと思います(その実例)。また、ルネサンス期も中ごろを過ぎると、和声をかなり豊富に連続的に鳴らし続ける様式が非常に好まれて来ます。そういう場合には、不協和が目につくピタゴラス音律では不都合だったでしょう。つまり、ルネサンスの音世界では、この音律は十分に根付きうる下地があったということになります。

 結果的に中全律は基本的にはルネサンス中期からバロック期を通じて広く使われることになりますが、この調律の音楽的制約は、使われていた当時でも明白だったようです。中全律の書物に残された理論自体にも取り分け多くの亜種があるのは、この理論としての中全律に、実践の側が満足仕切れなかったためでしょう。実際の演奏に際しては、中全律の理論を主体にしていても、微妙に異なる調律にしていたと思います。音がある程度上下できる管楽器や弦楽器では、例えば、Bなどの音が出る時はおそらく高めに出したでしょうし、活発に動く明るい曲では3度はもう少し広くしたでしょう。この例では、低さが目立つBを平均律のBにしましたが、こうすると大分聴きやすくなると思います。つまり、中全律をピタゴラスの方向に若干緩和させるわけです。ただ、若干ABの幅が広くなりますから、これも緩和したくなります。そのようにして、他の音も、少しづつピタゴラス音律へ向わせてゆけば、その度に若干の唸りはでるものの、今度はヴォルフがなくなり、転調が自由になります。こうして出来た音律が平均律で、その最初のものとしては、1580年代に、ヴィンチェント・ガリレイによって記述されたものがあります(おそらく、実践はもっと早いでしょう)。この平均律は完全ではないものの、その差異は現代の平均律とほぼ耳で聞き分けることのできない範囲で、既に同じ音律であるといっていいでしょう。その他バロック期には中全律やピタゴラス音律の長所を生かしたキルンベルガーなどの興味深い調律法が登場しますが、ルネサンスの範囲外なのでこれらについては省略します。ただし、後で述べるように、協和する部分の多い調律が常にプラスの効果をもたらすわけではないことは念のために付け加えておきます。


純正律

 ここまで読んで、合唱などをやっていらっしゃる方は、なぜ純正律が出て来ないのか、と思っていらっしゃるかもしれません。実は、上の理論を正確に理解していないと、純正律はあまり面白くないのです(笑)。

 純正律は、ともかくできるだけ完全5度と長3度を協和させる方向で調律します。つまり、C-G、G-Dをピタゴラスの完全5度で取りますから、それぞれ+2セント、+4セント高く、FはCから下げて取りますから、-2セントです。今度はCから長3度の協和でEを取りますからEは-14、AはFから長3度で-2+14=-16、BはGから長3度で+2-14=-12となります。

 さて、これが純正律の基本的な取り方ですが、どこか忘れているところはないでしょうか。ヒントは完全5度です。

 答えの前に、表を掲げておきます。

C D E F G A B C
±0 +4 -14 -2 +2 -16 -12 ±0
±0 164 -573 -82 82 -655 -491 ±0

 次ぎに、楽譜を見ながら純正律のMIDIを聴いてみましょう。

 純正律MIDI 純正律MIDI(ゆっくり)

Compere O Bone Iesu

 長3度も完全5度も完全にハマっているはずなのに、どこか変な所はないでしょうか。普通のスピードのほうは分からないかもしれませんが、ゆっくり演奏させているほうは、明らかに分かると思います。まず、2調節目から注意するとすでにおかしいですね。それから決定的におかしいと気付くのは4小節目。共通点はなんでしょう。これは実はD-Aの和音がおかしいのです。先の調律方法では、完全5度であっているのはC-G、G-D、C-Fでした。一方で、AはFからの長3度で、-2+(-14)=-16セント低くなっていますが、Dの方はその分低くなっているどころか、4セント平均律より高くなっています。この5度は、つまり4+16=20セントも狭い5度なのです。つまり、純正律では狼の声はD-Aに入って来てしまうのです。その結果、2小節目の唸りは明らかで、4小節目ではその上に、F-Aが長3度がぴったりあっているのにDが調子っぱずれなため、ますます異常な音に聞こえてしまいます。これでは純正律は鍵盤楽器などでは使い物にはなりません。

 声の場合は、このAと一緒に使われるDを18セント分平均律より低く(つまり22セント(!)純正律のDより低く)とってやれば、唸りの問題は解決しますが、ほかのG-DなどではDは平均律より4セント高いままで協和するので、協和させるためだけならふた通りのD、あるいはふた通りのAが必要になります。実例(ふた通りのD)実例(ふた通りのA)を聴いて見て下さい。ますますひどくなったような気がすると思いますが、これはふた通りのAやDがあることでの、旋律に不均等感がでるためです。そもそも、全体として純正律の音階はあまりきれいに揃っていないのです。ピタゴラスにしても、中全律にしても、音階は均等に出来ていますが、純正律ではC-Dは204セント、D-Eは182セント、F-Gは204セント、G-Aは182セント、A-Bは204セントとなります(純正律の音階とC E G、D F Aを聴いてみる)。つまり、長2度に204セントと182セントの二つの幅の全音が出来てしまいます。これをそれぞれ、大全音と小全音と呼びます(大全音と小全音を足して2で割った193セントの全音を中全音と呼び、これを使うので中全律と呼ばれるのです)。これらの他に、転調の場合にはかなり複雑な事が起き、一つの音に複数の微細な差異の音を用意する必要があり、実現するとすれば大変な事になります(ちなみに、世界初の純正律オルガンは日本人が作っています)。その一方で、先に見たように、一つの音が幾通りもある場合、音階的には非常にひどい状態になります(特に、その音がその時その時協和してしまっている場合はもっと目立ちます)。この調律法自体も実はルネサンスの時にあったものですが、実用にはならなかったようで、結局は中全律が一般に使われることになります。


平均律=悪者?その他の音律の後書き

 平均律は、かなり多くの人が、どの音の協和しない悪い音律と見る立場、一方でそれに対する反動で、どの歴史的音律も問題があるわけだから、これが生まれたのは必然だ、とする立場もあります。

 個人的には、音律は、以上で若干論じたように、その時代の音楽世界に合致して根付くものだと思います。厳密な音律の差異の知識は、その時代の音楽を演奏する際には不可欠です。演奏された当時の音律は、その曲の前提になっていることはある程度間違いないことですが、それは美しい音律だから、という訳では必ずしもなく、その音律固有の癖(良い所と悪いところと関係なしにです)が作品の美的感覚に一致しているためで、これは特に鍵盤楽器のように、音が固定されている楽器の曲では多かれ少なかれあるようです。

 現代の平均律も、我々この時代の要求に合致したものと言えます。なにより、音律の議論をしているヒマもなく、演奏をしなければならない資本主義の時代に、調性があるものからないものまで演奏するオーケストラが、その度毎に違う調律方法をとっていれば大変なことになります。完全ではないものの、ある程度オールマイティな平均律は、やはり便利な方法であると言えるでしょう。実際、MIDIで作ったルネサンス音楽が、平均律だからといって、必ずしもそのエッセンスを失っているとは思いません。

 それから、しばしばよく誤解されますが、協和している3度なり5度に、余りにも良い印象を持ち過ぎてはいけません。純正3度などという場合の「純正」という表現は、単に物理的な問題を意味しているだけです。つまり、二つの音を出した際に、音そのものが完全に協和していれば「純正」=「唸りが出ない」、そうでなければ「純正ではない」=「唸りが出る」ということで、完全に協和した音が美的にも美しいという訳ではありません。もちろん、協和した場合の独特な音はありますが、低音での完全な協和はしばしば強いレゾナンスを伴い、これは録音などによっては不快に感じることすらあります。唸りが目立ちさえしなければ、平均律ぐらいの長3度は適度に明るく聞こえますし、この長3度に慣れていれば、中全律の長3度は、たとえ協和していても音が下がっているように聞こえるだけです(ちなみに声のように、完全なノンビブラートがほぼ不可能な楽器は、ビブラートの揺れと若干の不協和の唸りなど区別できません)。また、純正な音律にした音楽が「癒し」の効果を持つ等と言うオカルトじみた現象には全く根拠はありません(笑)。ピッチベンドで作った長3度のMIDIを聴き続けても、物理的な唸りがない事がいやというほど確認できるに過ぎません。

 こういったオカルト的純正律信仰は別にしても、完全に協和する和声が音楽的に常に良い結果をもたらすという訳ではありません。協和するということは、協和している音は独特の響きになりますから、そこの部分だけそうでない部分と比べて飛び出すことになります。ですから、フガなどで、旋律同士がたがいに独立した動きを出したい時に、この協和の音が飛び出すと、旋律同士の音が協和することで旋律が別々に流れているのがぎこちなくなってしまいます(これこそが実は平行5度の禁則の理由です)。また、しばしばそのような協和を目論んだ音律では、音の間隔がバラバラだったり、半音が広いなどの旋律的な弱点があることも忘れてはいけません。

 完全に音が協和していることだけが音楽を素晴らしくする訳では無い事を示す例は沢山あります。ホンキートンクのピアノも独特の味わいがありますし、合唱などでも最初から最後まで完璧にあわせているのがいい演奏とも言えません。音程を完璧にあわせるために目を三角四角にして必死で唱うぐらいなら、多少音が外れていても楽しげに唱っているほうが、我々聴衆もよほど安心してきけると思います。逆に、微妙に本来あるべきところからわざとずらしてやる、ということが面白い効果を出す場合があります。ビブラート、ポルタメント、言葉のアクセントにあわせてつく音程の差異などは、演奏をむしろ活き活きさせると思います。完全に同じテンポで演奏するのは、リズム感があるなどとは言わないようなものです。音楽はなにより、主体的に演奏し、自分自身と聴き手を楽しませるためのものですから、いくら不可欠と言っても、音律もそのために道具として使うものに過ぎませんし、それに縛られるものではないと思います。

 さて、楽器ではなく、声ではどうだったかでしょうか。例えば、フランドルの歌手たちは、これらの音律を厳密に理解し、実践していたか、ということになると、個人的には非常に疑問だと思います。フランドルの歌手たちは、その初歩教育では、現代の大抵の音楽教育のように、器楽から始まるわけではなく、徹底したソルミゼーションによる視唱の訓練がされます。つまり、楽器を補助に使わないで音を取る訓練がされるわけです。現代では、大抵の音感のある人はピアノの固定された音が頭に入っている絶対音感だと思いますが、当時はヘクサコードによる、頻繁にドの位置を変えるソルミゼーションですから、音の感覚は良い意味で、常にフレキシブルだったと思います。つまり、彼らにとっては、例えばミは、明るい長3度を作りだす高めの音にも、その一方で、ドと協和しうる低めの音にも、無意識的に調節されるものとして身についていたと思います。何より注意しなければならないことは、彼らは神に対する祈りを歌ったわけで、音律を歌っていた訳ではないのですから、ルネサンスの音楽を再現する際にはそれを一番考慮に入れなければならないと思います。


最後に……使用上の注意!

 最後になりましたが、このページは、どの音律が良いか悪いかを決めつけるページではありません。MIDIを使って、音律を耳で確かめることができるようにしてはいますが、これは音律を理解するためで、音律マニアを養成するためではありません。演奏会は楽しむために行くもので、音程が純正かどうか確かめに行くためのものではありませんし、アマチュアの合唱では、音が低いと注意されながら純正な3度を出すために苦労する(全く矛盾している指導です、念のため)よりは感情豊かに歌い上げる事に専念するほうがよほど楽しく、演奏する側にも聴く側にも良い結果をもたらすでしょう。拙HPの楽曲のMIDIは、どれも極普通の平均律ですが、これらを聞きながら音楽そのものよりも、2セントほど純正よりも狭い5度が耳につき始めたら、あるいは長3度が純正よりも広めになっているなどと気になり始めたら要注意です。これは例えていえば、点描による名画が絵の具の点にしか見えなくなる前兆のようなものです(笑)。(先頭に戻る)




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