ヨハンネス・オケゲム (ジャン・ド・オケゲム)
Johannes Ockeghem (Jean de Ockeghem)
1410年頃生-1497年2月(少なくとも6日以前)没



MIDIサンプル


ミサ・ミ・ミ
Missa Mi-Mi
オケゲムのミサ曲中で恐らく最大の傑作。長らく自由に作曲されたものと考えられていましたが、日本の研究者宮崎晴代さんがこの曲は「殆ど死んでいるほど」(Presque transi)というオケゲム自身のシャンソンに基づくものであるという見解を発表し、センセーションを巻き起しました。このミサはミサ「殆ど死んでいるほど」という名前にするのが適切かもしれませんが、オケゲムの死の際に書かれた追悼詩の中で、死んだ著名な音楽家たちがオケゲムの作品を歌うという場面があり、そこにはLors se chanta la messe de My My「彼らはミサ・ミ・ミを歌う」とあることから、この曲は当時からミ・ミと呼ばれていたことがわかります。この呼称はミサ各章冒頭のバス旋律が全てe-Aの音から始まることに由来しています。これはルネサンス期に一般的になったソルミゼーションの方法では、5度の跳躍の際に読み替えをしないでmi-miと唱われるようになりますが、これがこの名前の由来と考えられています(それ以前のヘクサコードのソルミゼーションの本来の方法ではla-reになるはずでした)。実にバスの旋律が魅力的な曲でもあります。

キリエ
Kyrie
(2' 17)


任意の旋法によるミサ
Missa cuiusvis toni
全ての旋法で演奏できる(はずの)ミサ曲。 曲の冒頭には、始めるべき音の高さを示すSignum congruentiae(一致記号)のみ記されていますが、 それは全声部で一致している限り、何れの音でもよいのです。 ここでは、四つの本来の旋法を取り上げていますが、 旋法の効果を比較するために(同時に音域をそろえるために) 最初の音は同じ音に移調しています。 ムジカ・フィクタの問題は非常に多く、 以下の解釈はMIDI制作者の解釈に過ぎません。 他の解釈の可能性も十分あります。

キリエ
Kyrie
ドリア旋法 フリュギア旋法 リュディア旋法 ミクソリュディア旋法
Doria Phrygia Lydia Mixolydia
(1'50) (1'26) (1'31) (1'24)


ミサ・プロラツィオーヌム(種々の比率のミサ)
Missa Prolationum

全編がメンスレーション・カノンで出来上がっているミサ。現代譜を作成したPlamenacが言っているように、バッハの「フーガの技法」のルネサンス版と言っていいかと思います。

書かれている旋律は二つですが、それぞれが二つのカノンをつくり出し、4声になります。このカノンは当時の記譜法独特のもので、簡単に言えば、現在は音符動詞の関係は、全音符は2分音符2つ分、2分音符は4分音符2つ分と、すべて2進法的に分割されますが、当時はブレヴィス□とセミブレヴィス◇とミニマMinima.jpgの関係は、3進法と2進法とふた通りあって、4つの組み合わせを設定することが可能でした。ですから、例えばブレヴィスが多く続くと、片方はセミブレヴィス3つ分、片方はブレヴィス2つ分ですから、3進法のほうは遅れていきます。ある長さ分遅らせた後は、純粋なカノンが展開されます。このミサの各章の始めの、長い音符からなっている部分が1声部の遅れを作っている所ですが、カノンを産み出すための仕掛けであるこの部分そのものが極めて美しく、叙情と数理が互いに結びついた音楽というのが相応しいミサだと思います。この音符同士の対比関係をプロラツィオ(比率)といって、これがこのミサの名前の由来です(プロラツィオは狭義にはセミブレヴィスとミニマとの間の比率ですが、広義ではすべての隣接する音符の関係を意味します)。

MIDIはPlamenacによるエディション所載の、いわゆるキージ写本と呼ばれるバチカンに所蔵されている写本のファクシミリから直接作りました。このミサは、この写本以外には、無名で、カノンを読みといた形でウィーンの1写本に伝わっている他、音楽理論書などで部分的にしか伝わっていないのですが、本来のカノンの形をとどめている唯一の写本の作成者はかなりいい加減で(例えば標題のところで、Perfectum in subdiatessaron「完全(テンプスは4度下)」とあるべき所に、Perfectum in sub in subdiatessaronと書かれていたりするぐらいです)、誤写がところどころあり、それらは場合によっては全く不可解(例えばしばしば意味もなく長い休符が挿入されている)で、肝腎のカノンの指示も不明なことさえあり、当時この写本を使って正確に歌うことができたのかどうか疑問に思われます。記譜法的にもややイレギュラーな部分が多く、Plamanacの校訂報告と現代譜を参考にしましたが、それとは異なる解読をした部分もあります。

全曲
(30' 01)

キリエ
Kyrie
(4' 06)
第1キリエ……同度のカノン/クリステ……Pausans ascendit per unum「休符の後に1音上がる」/第2キリエ……3度のカノン。

グローリア
Gloria
(5' 44)
Perfectum in subdiatessaron「完全(プロポルツィオ)声部は4度下」。

クレド
Credo
(7' 21)
5度のカノン。

サンクトゥス
Sanctus
(6' 50)
サンクトゥス……Fuga pausarum ascendendo per sextam「6度上がることによる休符のフガ(?)」/プレーニー・スント……Fuga post unum tempus descendendo per septimam「1テンプス分後れて6度下がるフガ」(2声)/オザンナ……Perfectum in c sol fa ut 「完全(プロポルツィオ)声部はc sol fa ut で(はじまる)」オクターブのカノン/ベネディクトゥス……4度のカノン

アニュス・デイ
Agnus Dei
(5' 52)
第1アニュス……4度のカノン/第2アニュス……5度の拡大カノン(2声)/第3アニュス……5度のカノン。


死者のためのミサ(レクイエム)
Missa pro defunctis (Requiem)
現存する最古のポリフォニーによる死者のためのミサ曲。記録上はデュファイのそれが最古ですが、残念ながら失われました。

入祭唱
Introitus
(4' 55)
写本を見ると、スーペリウス、テノール、コントラテノールのみの声部構成となっており、先唱がスーペリウス声部にのみついているのも、上声部のみの特殊な組み合わせを意識していると思われるため、通常の演奏のようにはバスを意識させないような音色の選択にしました(ピッコロ、ソプラノサックス、フルート)。先唱も写本に書かれているまま演奏させています。


ロンドー「私をあなたの恋の手本としなさい」
Rondeau"Prenez sur moi vostre exemple amoureux"
(7' 21)
この曲の写本画像はThe Manuscript Department of The Royal Library - Denmark Chansons d'Amourでみることが出来ます。
ルネサンスの音楽理論家によってもしばしば引用される有名なシャンソンです。一つの旋律しか書かれておらず、冒頭には♭が二つ、♭と♯、♯が二つ、たてに3組み書かれており、♭はその旋律のヘクサコードによる開始音のfa、それから♯はmiを示しています。最後の一致記号は、それぞれが1テンプスの間隔を置く事をしめしています。その結果、2番目の旋律は一番低い音に対して4度上、3番目は2番目の4度上で、1テンプス遅れて始まり、それぞれが違う旋法で唱われることになります。
この写本画像では、ロンドーの形式のaとa'の区切りがどこになるのか不明です(大抵は一致記号で簡単に示されますが、カノンなのでどの声部に一致記号をあわせるべきかが問題です。音に不都合が起きない区切り方を作るのに、2番目の旋律がaの歌詞を全部唱い、3番目は1テンプス分少なく、また、1番目は余計に唱うようにしました。これは一致記号を多分間違いと判断したロンドン中世アンサンブルの演奏による「オケゲム世俗音楽全集」の演奏と異なるやり方です。カノンの効果を中断しないために、ここではムジカ・フィクタは最後のカデンツァにのみ、一つだけ採用しました。
歌詞は、恋の手本を示してあげようと言っている人物が、恋の理不尽なまでの苦しみを数え上げて教える事で、自分自身が経験した恋の苦しさを示しているという、凝った作りがされているもので、これは次々にくり返されるカノンの旋律と対応しており、作曲技法は歌詞の文学的意図を反映しています。





CDその他



Edward Wickham指揮The Clerks' Group:
Ockeghem: Missa L'homme armé, missa sine nomine a 3.
ASV Gaudeamus, GAU 204.
NEW

 The Clerks' Groupのオケゲム全集の1枚で、ミサ「武装せる人」と3声の無名ミサが録音されています。

 演奏水準はThe Clerks' Groupとしてもかなり高い方でしょう。先に紹介しているOxford Camerataの演奏も決して悪くはありませんが、こちらのほうの演奏水準は高いです。

 大抵のミサ「武装せる人」は、冒頭に結構乱暴に歌われる俗謡の「武装せる人」の旋律が歌われて、正直もう少し丁寧に歌って欲しいような気もしていたのですが、このCDでは、まず演奏されることのないRobert MortonのシャンソンIl sera pour vous「それはあなたのため」が演奏されています。これは定旋律に俗謡「武装せる人」を取り込んだ、実に面白いシャンソンで、これでこのCDに対する印象は完全に好意的になってしまいます。この極めて珍しいシャンソンの歌詞対訳がなぜかライナーノートには付いていないのは少々残念です。

 ミサ「武装せる人」のほうは、迫真の演奏で、特に男声の低音の充実した響きが、旋法的な響きと相まってこのミサ曲の特異性を引き出していると思います。部分的には、この団体特有のちょっと上滑りしているようなところもありますが、全体としてはしっかりと安定した作りになっています。もう一つ収録されている、3声の無名ミサも、申し分のない演奏です。

 先に紹介したOxford Camerataの演奏も悪くはありませんが、オケゲムをある程度知っているなら、2つのミサと、冒頭のシャンソンが、より素晴らしい演奏で聞けるという意味で、こちらのCDをお薦めしたいと思います。そうではなく、オケゲムを、なるべく廉価で聴きたい場合には、Oxford Camerataをお薦めします。



Peter Urquhart指揮Capella Alamire:
Music of the Modes: Three Masses by Johannes Ockeghem.
DORIAN DISCOVERY, CD 471 727-2.

 オケゲムのミサ曲の中でも、いわゆるオケゲムの数理主義と呼ばれる所以の作品は、やはりミサ・プロラツィオーヌムと、このCDに収録されている『任意の旋法によるミサ』(ミサ・クイユスヴィス・トニー)でしょう。このCDでは、これに加え、バス音がラ・リュー並みに低くなるミサ、5声の無名ミサと、同じく5声のFors seulementが演奏されています(どちらもキリエからクレドまでしか残っていません)。

 演奏しているのは、アメリカの音楽学者で、現在進行中のジョスカン全集のミサ・アド・フガムとミサ・シネ・ノミネの校訂を引き受けているPeter Urquhartが率いるセミプロ合唱団、カペラ・アラミレです。

 このCDでは、『任意の旋法によるミサ』はutから始まる旋法で歌われ、現在の殆ど長調のように歌われています。演奏は若干素人っぽさは残るものの、補ってあまりある意欲と、指揮者の確信にみちたリーディングによって、これはこれで捨てがたい演奏となっています。先に紹介したThe Clerks' Groupの演奏とあわせて、これでこのミサ曲は2つの旋法によって歌われたことになります。残りの二つのミサも、低いバスと密集した5声の独特の雰囲気が味わえる名演奏になっています。オケゲムの名盤の一つに数えられるものといっていいでしょう。

 最後に、Urquhartの解説にはちょっとした素人の目からの反論を加えておきましょう。Urquartは、このミサ曲は、従来考えられている4つの旋法ではなく、3つの旋法で歌われると考えています。その理由は、グラレアーヌスが、『このミサ曲のテノールはut, re, miから歌いはじめられうる』と述べているところによるもので、ここではfaからは始められることを示唆しておらず、グラレアーヌスは、この発言によって、このミサ曲は3つの旋法から始められうると主張している、と理解しています。しかしながら、このミサ曲のキリエのテノールを見ると、2番目の音は、最初の音の4度上なのです。つまり、現代なら、最初の音をfaでソルミゼーションしたなら、次の音はsiととれるところですが、この時代のsiのないヘクサコードのソルミゼーションでは絶対にあり得ない音で、Bは必ずB♭になります(増4度で、いわゆる悪魔の音程をさけるために)。言い換えるなら、4度の上向の跳躍は、旋法の如何に関わらず、ut, re, miからそれぞれfa, sol, laに移るソルミゼーションでとられるしかないのですから、たとえグラレアーヌスがソルミゼーションの可能性を3つしか述べていなくても、実際は全ての4つの旋法が意味されていると思われます。



Jeremy Summerly指揮Oxford Camerata:
Ockeghem: Missa L'homme armé, Ave Maria, Alma Redemptoris Mater,
Josquin: Memor esto verbi tui.
NAXOS, 8.554297.

 フランドル楽派も多くの音楽家が素材にしてミサを作っている「武装せる人」によるミサ曲は、それぞれ名曲が多いですが、オケゲムのそれも名作の一つに数えられるでしょう。

 演奏はナクソスに既に多くの録音をしている、Jeremy Summerly指揮のOxford Camerataによる演奏です。メンバーは他にThe Clerks' Groupやタリス・スコラーズなどでも活躍しており、音色は若干似通っていますが、ソプラノの響きは少し暗めです。ナクソスに出している録音は、イギリス式のエージェント制で、手堅いメンバーを揃えているので一定以上のレベルには達しているものの、正直言って玉石混交で、必ずしもお勧めできるものばかりではないですが、この録音はかなりいい出来だと思います。値段もあわせて、買って損はないものでしょう。

 ミサは同じ「武装せる人」のテーマを使いながらも、しっかりとオケゲムのスタイルが感じられるものです。前半は割合明るめですが、アニュス・デイは独特の暗さになっており、印象的です。この演奏では、クレドとサンクトゥスの間にのみ、オッフェルトリウムのImminet angelus Dominiが挿入されていますが、どうも中途半端で、録音時間も十分あまっているので、固有文を全て入れるか、そうでなければミサ通常文のみ通して演奏すべきだったでしょう。

 ミサの他、オケゲムのモテットは2つ、Ave MariaとAlma Redemptoris Materが録音されています。オケゲムのAve Mariaはあまり知られていませんが、これも愛すべき珠玉の曲で、この演奏も非常によいと思います。Alma Redemptoris Materのほうも悪くない演奏ですが、ところどころテンポが間延びしている所がなきにしもあらずで、もう少し前に進むような演奏の仕方のほうがオケゲムらしいテンポ感が出るような気もします。

 もう一つ収録されているモテットはジョスカンの名作Memor esto verbi tuiで、この曲はフランス王ルイ12世に遅れている俸給のことを思い出させるために作曲したと言われています。13分に及ぶ長いモテットで、一応水準に達している演奏と言えるでしょうが、歌詞の表出や曲の起伏ももう少しあって欲しいと思いました。

 モテットに若干の不満がありますが、全体として水準以上で、しかも格安の値段ということを考えると十分お勧めできるCDだと思います。



THe Orland Consort:
Ockeghem: Missa De plus en plus.
Archiv (Blue edition) CD 471 727-2.

 オケゲムのミサ曲とシャンソン6曲を聴くことができるCDです。入手したのは発売時のバージョンではなく、再販の廉価ながらオリジナルの解説に替えて新しい解説を付け直したものです。

 オケゲムのミサ曲はバンショワのシャンソンDe plus en plus「次第次第に」に基づいて作られたものです。残念ながらこのミサ曲ではこのシャンソンは収録されていませんが、殆どはテノール声部でモチーフ的な扱いがされているだけで、原型をとどめていません(同じくジョスカンのスターバト・マーテルでもモチーフとして使われているバンショワの「絶望した女のように」も殆どもとのシャンソンの名残りは聴く事ができません)。

 ミサの演奏はたった4人による歌唱にもかかわらず、途切れ目なくうねる旋律とハーモニー、それに独特のオケゲムならではのテンポ感溢れる部分が非常によく対比され、完成度の高い演奏になっています。オルランド・コンソートの演奏としても最上の録音だと思います。

 6曲のシャンソンも優れた演奏です。オケゲムのシャンソンは、実はロンドン中世アンサンブルによる全集があるのですが、演奏は抑揚に乏しく、全曲をきける以上のメリットはないのですが、このオルランド・コンソートの演奏は実に活き活きと音楽を仕上げています。

 特に素晴らしいのは、宮崎晴代さんが、ミサ・ミ・ミの元になったと主張しているシャンソンPresque transiです。これを聴くと、確かにミサ・ミ・ミとこのシャンソンの一致は、このシャンソンの冒頭を聴けば誰でも分かるほどで、これに気がついた宮崎晴代さんも素晴らしいのですが、ヨーロッパの音楽学者がどれぐらいオケゲム研究を蔑ろにして来たかも想像が尽きます。ともあれ、このシャンソンは確かにミサに転用したくなるほど、よく出来たシャンソンでもありますが、演奏もそれに相応しい闊達なものです。

 もう一曲、素晴らしいシャンソンは、バンショワの死に際して作られたMort tu as navré「死よ、お前は傷つけた」で、これはジョスカンがオケゲムの死に際して作られた挽歌と同じように、もっと広く愛好されてもよいシャンソンだと思います。

 オケゲムの名演で、かつシャンソンがいい演奏で聴くことができる名盤で、オケゲムファンには欠かす事のできない1枚でしょう。



Edward Wickham指揮The Clerks' Group:
Ockeghem: Missa Cuiusvis toni, Missa Quinti toni.
ASV Gaudeamus, GAU 168.

 オケゲムの数理的手法を駆使した作品としては、Missa Prorationumと、このCDで聴かれるMissa Cuiusvis toniが代表的といえるでしょう。このMissa Cuiusvis toniは基準になる音をD E F Gのいずれにもする事ができ、つまりそれぞれドリア・フリジア・リュディア・ミクソリュディアの4つの旋法で演奏することが出来ます。もちろん、そのままでは増4度などの禁則が出て来ますから、適宜ムジカ・フィクタなどで調節してやらなければなりませんが。

 ですから、厳密にはオケゲム全集にするためには、このミサ曲は4つ全ての旋法で演奏されなければならないのでしょう。このCDでは全体を特に旋法の特色があらわれるフリジア旋法で演奏するほか、キリエとアニュス・デイのみ、長調的な響きのミクソリュディア旋法で演奏しています。

 このミサ曲の演奏は取り分けすばらしく、オケゲムの理想的な演奏であると言えるでしょう。テンポの取り方は躍動感に満ちあふれ、これはすでにベートーヴェンやモーツアルトの交響曲に優るとも劣らない古典的作品であることを示しています。

 もう一つのミサ曲はより知名度の低い作品ではありますが、これも3声という声部数ながら、非常に魅力的な躍動感のある曲です。ここではオケゲムは定旋律もカノンやその他の制限に捕われることなく、自由に作曲していますが、実に明朗な音楽になっており、従来言われていたような数理的音楽家などではないことをはっきりと証明しています。

 オケゲムは19世紀に、当のオケゲム研究家から「数理的音楽を目ざすために叙情性を捨てた」作曲家という全く不当な評価を受け、この評価は極最近まで、まともなオケゲムの音楽研究と紹介を妨げて来ましたが、ここ最近ようやくオケゲムの音楽の全貌が明らかになり、それどころか叙情と数理が全く背反しないことを優れた演奏が証明し、最終的にThe Clerks' Groupのオケゲム宗教作品全集の完成をもって、この19世紀の評価は完全に葬り去られた感がします。是非とも、日本のプロ・アマの合唱団でも、このような時代錯誤の評価に捕われる事無く、オケゲムを広く演奏してもらいたいものです。



ポール・ヒリヤー指揮ザ・ヒリヤード・アンサンブル:
オケゲム/レクイエム、ミサ・プレスク・トランジ(ミサ・ミ・ミ).
EMI, CC33-3630.

 ヒリヤー在籍中にヒリヤード・アンサンブルはオケゲムの作品集を2枚出しています。ここではオケゲムのレクイエムと、名曲の誉れ高いミサ・ミ・ミを聴く事が出来ます。

 どちらも名演ですが、レクイエムの方は余りにも抑揚がなく、オケゲムらしい畳み掛けるような迫力のあるリズム感が損なわれていると思います。もう少し人間味のある演奏がオケゲムには相応しいと思います。なお、オケゲムのミサの後に、グレゴリオ聖歌でサンクトゥス、アニュス・デイ、コンムニオ、ポスト・コンムニオが補われていますが、どうも取って付けたような感じが残りますし、グレゴリオ聖歌も余りにも美化され過ぎだと思います。完璧な演奏が必ずしも感動をもたらす演奏にならないという例のように見えてしまいます。

 ミサ・ミ・ミの方は、このCD以前のものは殆ど聞けたものではなかっただけに、逆に歓迎すべき演奏です。1パート二人づつで厚みがあるハーモニーと、オケゲム独特の迫力がようやく出て来たという感じです。ただ、クレドは、音域が低いせいか、カウンターテノールの代わりにロジャーズ・カヴェイ・クランプの超絶的高音のテノールが最上声部を唱っています。いくら低いとはいっても、アルトをテノールがこのレベルで歌えるというのはちょっと信じられません。

 なお、我無人のCDは日本版ですが、今はVirgin Classicsで再販されています。日本語解説では、宮崎晴代さんの論文が出された直後だっただけに、ミサ・ミ・ミはミサ・プレスク・トランジとなってしまっています(ちなみにCDの裏面曲目ではプレスク・トランチと誤植されています)が、その後もそれにはまだ完全に同意はされていないようで、シャンソンとの一致点があるのは認めるにしても、必ずしもこのシャンソンに基づいたものとはされていないようです(それには日本人研究者による発見に対するやっかみも感じないわけではありません)。一方、このミサ曲の呼称としては、オケゲムの時代ではミサ・ミ・ミが一般的であった事はほぼ確実なので、今の所はこの名前で呼ばれるのが無難なようです。なお、当時のソルミゼーションでは、e-Aなどの5度の跳躍は、元々のヘクサコードのソルミゼーションではla-reに読むのですが、5度は直感的に取る事ができるので、わざわざ読み替えない方法がルネサンス期では主流になり、そのためmi-miと読まれるようです。もっとも、これについては最近反論が出始め、mi-miはヘクサコードの読み替えの位置を示し、これはフリジア旋法であることを意味するもので、e-Aのソルミゼーションを示しているわけではない、とも言われています。



Bo Holten指揮Musica Ficta:
Johannes OCKEGHEM: Requiem, Missa Prolationum, Intemerata Dei Mater.
NAXOS, 8.554260.

 今もっとも手軽に格安の値段で、しかも一定以上のレベルの演奏でオケゲムの代表作がきけるCDの一枚でしょう。

 演奏しているのは、デンマークの作曲家でもあるBo Holtenとヴォーカル・アンサンブルMusica Fictaです。以前はBo HoltenはArs Novaというグループを組織していたのですが、Musica Fictaを1996年に新しく組織してから、ナクソスに幾つか録音を出しています。

 オケゲムの作品はどれもスタイルが大きく異なっていて、どれを聴いても新鮮な気持になれますが、このCDに含まれている2つのミサはその中でも特筆されるものでしょう。レクイエムは現存する最古のものですし、ミサ・プロラツィオーヌムはメンスレーションカノンが駆使されつつ、決してそれが叙情性を失わないという、希有な完成度の高い作品です。

 演奏はArs Nova時代に聴かれた透明な声はここでも健在で、全体的に非常に高いレベルの歌唱を聴く事ができます。

 レクイエムは既に多くの盤がありますが、この演奏もそれらに劣る事はありません。ただ、入祭唱は、写本では明らかにソプラノ声部に先唱がついていますから、それを遵守したほうが良かったと思います。

 ミサ・プロラツィオーヌムもかなりいい出来で、ヒリヤード・アンサンブルやThe Clerks' GroupなどのCDに比べても遜色がないものだと思います。何より、オケゲムらしい活き活きしたリズム感が生かされているのは、指揮者が現代音楽の作曲家で、作曲の視点で音楽を分析したためかもしれません。

 ともかく、このCDは予算と演奏レベルからいって非常にお買得なものですから、オケゲムを全く聴いた事がない人はこのCDをまずお勧めしたいです。



Rebecca Stewart合唱隊長CAPPELLA PRATENSIS:
Johannes OCKEGHEM Missa Mi-mi.
RICERCAR 206402.

 オケゲムのCDは、現在全集を含め、かなりの分量になりました。本来拙HPでは、あまり知られていないほうから紹介する、という目安があったので、全集のでてしまったオケゲムはつい後手に回ってしまいました。

 オケゲムのCD紹介は、どちらかと言えば知られていないCDで、しかも様々な意味で問題提起をしてくれる盤からになります。

 演奏をしているのは、音楽学者であるレベッカ・スチュワートが、当時の指揮者にあたる(が、現代のように前に立たず、共に歌いながらリードする)、合唱隊長(Maestro di cappella)として歌っているCappella Pratensis (ジョスカンの名前、デ・プレのラテン語)です。このアンサンブルは、CDの解説によれば、当時の演奏様式を可能な限り再現することを目標にしており、例えば当時の訛のラテン語の発音を用いる、当時の背の高い書見台に置かれた当時のままの楽譜を用いるなどを実践しています。

 このCDでは、当時の典礼の様式に倣って、グレゴリオ聖歌を織りまぜながらミサを歌ってゆきます。グレゴリオ聖歌もポリフォニーも可能な限りに滑らかに、そしてフランス語の訛りのラテン語で歌っているため、他の団体のオケゲムの演奏では考えられないような、独特の響きになっています。

 この歌い方の方針を決めたのは、ジョスカンの弟子である(とおそらく詐称している)アドリアン・小コクリコの「彼等(フランドルの歌手たち)は滑らかに、優雅に完璧に歌う」という発言のようです。一面で、これを追求するのは必要で、そしてCappella Pratensisはおそらくこの目標を達成しているとは思うのですが、すべてをこの調子で歌うのがはたして正しいのかどうかは疑問です。たとえば、ピアニストをほめるのに、「実に滑らかなタッチ」を取り上げたからといって、そのピアニストが全てを滑らかに弾くだけではないのと同じようなものです。グレゴリオ聖歌に関しては、この歌い方は大成功をおさめていると思います。しかし、それとポリフォニーはやはり比較にはならない根本的な違いがあるのではないでしょうか。オケゲムの音楽にはダイナミックな側面も多々あると思うのですが、これをただ「滑らかに、優雅に完璧に」歌うのは、オケゲムの意図とは少し違うような気がします。

 もうひとつ気になったのは、特にバスが溶け込み過ぎだということです。このMi-miの呼称の元になったe-Aの音程は少なくともはっきりと聞き取られなければならないでしょう。特にオケゲム自身、優れたバス歌手であっったそうで、そのパートがただ和声の支えになっているというのは考えられないでしょう。他の声部に関しても、滑らかではあるのですが、声の個性が削り取られ過ぎのような印象があります。結果的に躍動感が犠牲になってしまっているのは、非常に残念なことです。ただ、アルト声部は地声をまぜて歌っているため、ブルガリアの女性合唱のような響きにも近く、これは非常に魅力的です(この響きが当時のそれを再現しているかとなると、少々疑問ではありますが)。

 曲全体の解釈からいうと、音楽学者のStewart女史は、日本の研究者宮崎晴代さん(解説ではHirayoと誤記してますが)と、これは解説ではじめて知ったのですが、彼女とは別に研究していたアメリカ人のDon Giller氏による、この曲の元がPresque transiであるという研究と、彼女自身の<<Modal>>解釈その他に基づいて、この曲はキリストの磔刑を象徴しており、それを演奏に反映させたかった、とのことです(このくだりは正直何度読んでも理解できませんが)。確かにその象徴を反映させたかった気持ちは分かるものの、聴けば聴くほどオケゲムのメッセージは、どこか別のところに有りはしないか、という気持ちがするのもまた否定できません。

 ムジカ・フィクタは他の演奏にくらべるとかなり異なっており、曲の印象そのものも相当違うように感じるかもしれません。ただ、純粋に音楽的な理由というよりは、どうも前述の解釈に基づいているような気がします。

 このCDの最後には、オケゲムのモテットの名作である、Intemerata Dei mater「けがれなき神の御母」がありますが、これもやはり何か違う、という印象を逃れません。デビッド・マンロウが30年近く前に録音したこのモテットは、おそらくはマンロウの直感的解釈によってでしょうが、この演奏以上にオケゲムの本質に迫っているような気がしてなりません。

 以上の事から、聴いた限りではこの演奏はかなり特殊な位置に置かれるべきでしょうが、それでもかなりの演奏レベルで、今や膨大な量になるオケゲムのCDの中でも遜色ないできではあると思います。ただオケゲムの意図したところを再現しているかとなると、やはり疑問に思えます。




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