観察が先か理論が先か2
/観察、理論負荷性、ゲシュタルトスイッチ、多義図形、科学哲学/哲学


参考ページ 観察が先か理論が先か1





観察の理論負荷性というのは、観察に対し、理論、知識が影響を及ぼす

という考えであるが、この、理論負荷性の解説には、よく次のような図が使われる




こういった図を多義図形という。

一つの絵が様々な見え方をするから、多義の図形、という訳だ。

この図は、ある時はアヒルに見え、ある時にはウサギに見えるといった具合に、

同じ絵が違う見えかたをする。






このことから、観察というのは、与えられたままの一定のものではなく

知識や理論によって変わり得るものだ、という理論負荷性の主張がなされる訳だ。






確かに、上のうさぎアヒルの図は、同じ一つの絵が、様々なみえかたをしている。

しかしここで、多くの人はある疑問に思い当たるようだ

はたしてこれは、同じ知覚像に対し別の解釈をしているというべきなのだろうか

それとも、それぞれ全く別の知覚像を得ているというべきなのだろうか、

という疑問だ。





この事を、もう少し別の例で考えて見る。

太陽を眺める二人の観察者について考えて見る。

ここで観察者A天動説論者、観察者Bは地動説論者だとしよう。

すると、彼らは2人とも太陽を見ているといっても、

太陽に関する知識、理論というのは全く別だ





知識や理論が観察に影響を及ぼすという、理論負荷性の考え方を当てはめれば、

同じように空を仰いでいても、二人は別のものを見ているという事になる。

つまり、

 

天動説論者は、空を仰いで、天を移動する天体を見るだろう。

一方、その隣で地動説論者は、空を仰ぎながら、不動の天体をそこに見出すだろう。

そうして両者は、2人とも自分は太陽を見たと主張するわけだ。





さて、ここでまた、先ほどの疑問を考える。

はたして2人は、同一の知覚像に対して、それぞれの別々の

解釈をしているというべきであろうか。

それとも、2人はそれぞれ別の知覚をしているというべきであろうか。





多くの人は前者、つまりある同一の知覚像があり、それに対する

解釈が違うのだ、というかもしれない。

しかし、理論負荷性を唱える人は、どうも後者を主張しているようだ。

つまり、知覚像自体が違うと主張している。

多義図形ならば、ウサギを見ているときとアヒルを見ているときは、

それぞれ別のものを見ている、という事であり、

太陽を見る二人の観察者は、それぞれ別の世界をみている、という事だ。





これは、知覚、観察というものに関する考え方の違いといっていいだろう。

多くの人が考える前者の考えは、理論や知識とは別の、

純粋の知覚というものがある、という考えだ。

後者の理論負荷性論者の考えは、

理論や知識から独立した知覚など無い、という考えだ。





後者の考え、理論負荷性論者の知覚に関する考え方をもう少し見てみる。

たとえば一本のクスノキを観察する場合を考える。

観察者がクスノキに目を向ければ、網膜上にクスノキの像が写る

この網膜上の像自体は、物理的に一つに決まるものであり、

当然、理論や知識の影響は受けるものではない





ここでもし、この網膜上の像をそのまま経験する事ができると考えるなら、

それは前者の考え、純粋な知覚があるという考えになる。

あとはそれをどう解釈するかという事になるだろう。

しかし理論負荷性論者はそうは考えない。





彼らによると、網膜上の像は確かに一つに決まるものであるが、

それをそのまま経験するという事はありえない

実際に経験するのは、網膜上の像に加え、観察者の経験や知識、理論、脳の状態など、

内的な状態が加えられて出来あがったものだ、と考える。





つまり知覚するというのは、網膜上の像と内的な状態の相互作用によって

作られたものを経験するという事なのであり、

内的状態にかかわらない、網膜上の像をそのまま受け取る経験というのは、

人間の知覚の性質から外れるものであり、そのような事はありえないのである。


というような考えが、理論負荷性論者の知覚に対する考え方だ。





以上のような知覚に対する考えから、うさぎが見えたりアヒルが見えたりするのは、

輪郭線をまず知覚し、その後にアヒルとかうさぎと解釈した、という事ではなく

うさぎが見えたらうさぎを知覚し、アヒルが見えたら

アヒルを知覚した、という風に捉える訳だ。





しかしここで、一つの疑問が出てくる。

理論負荷性論者によれば、それぞれが別々の知覚像、観察であるとする訳だが、

では、なぜある一つの知覚を経験している、と言いたくなるのか

たとえばアヒルウサギの図ならば、紙の上の輪郭線という知覚を経験し、

それを元に別の解釈をしている、という風に言いたくなるのはなぜなのか





これに対する理論負荷性論者の答えはこうだ。

 

たしかに、紙の上の輪郭線こそが元にあるものだと思えるし、

それはある意味で正しいかもしれない。しかし紙の上の輪郭線が

元であると感じる理由は、それを直接観察したから、ではない

なぜ、紙の上の輪郭線というもの感じたかというと、それは、

その観察の状況から推定したからなのだ。





ウサギアヒルの図を見ているときは、同じ紙を手にし、同じ場所に視線を

向けている

観察の状況自体は、ウサギに見えた時もアヒルに見えた時も変わっていないのだ。

そういった観察の状況から推察して、自分はウサギを見ている時も、

アヒルを見ている時も、実は同じ一つの対象を見ているのだろうと考えたのだ。

その同じ一つの対象が、紙の上の輪郭線であるという考えもまた、

手にした紙や自分の位置などの、その観察状況の全体的な知識から推察すること

によって、得られた考えなのである。





つまり、紙の上の輪郭線が元であるという感覚は、それを知覚経験として、

まず初めに感じたから得たのではない

そうではなく、観察状況に関する知識から推察することによって、

得た感覚なのである。

1、ウサギやアヒルの知覚

    ↓

2、その観察状況全体の知識からの推察

    ↓

3、紙の上の輪郭線という考え

という順番なのである。






以上のように、輪郭線が元にあるという感覚は、観察状況全体の知識から

推察したものであり、観察の後に推定するものなのである。

そして、元になるものは何か、という事が、観察状況全体の知識から

推察したものであるのだから、それはつまり知識によって規定されるものであり、

元になるものは何か、という事もまた、理論負荷的である、といえるのである。





さて以上、理論負荷性の考え方を述べてきたが、ここで二つの注意点をあげる必要がある。


まず一つの注意点は、一連の理論負荷性の考え方は、理論や知識から独立した観察などない

という事であるが、だからといって、「知識や理論によって、何でも好きな

ような観察が可能だ」という事を主張しているわけではまったく無い

という事だ。


また、もう一つの注意点は、理論負荷性の考えでは、2人の観察者は、同一の知覚像を

得てそれを別々に解釈するのではなく、それぞれ別の知覚像を得ている、と

考える訳だが「二人は同一のものを見ている」という表現が

完全に受け入れられないというわけではない。この表現にも意味があるのだ。

この二つの点に関して注意が必要である。





まず後の注意点、「二人は同一のものを見ている」という表現に関してみてみる。

理論負荷性論者は確かに「二人は同一のものを見ているわけではない」と

主張する。

しかしこれは「二人は同一の知覚経験を得ている訳ではない」という事を

主張しているのであって、「二人は、物理的世界に存在する一つの

同一のものを見ているのではない」という事を主張しているのではない





具体例で見てみる

たとえば二人の観察者がリンゴを見ていた場合

一人がリンゴが好きならば、おいしそうで好ましいものとして捉えるだろう

しかしもう一人はリンゴが嫌いであれば、まずそうで嫌なものとして捉えるだろう

両者の経験はまったく違う訳だ。





しかし、経験したものが違うとしても、経験の元となった物理世界に

あるリンゴは同じものであり、一つのリンゴだ。

つまり、「二人は同一の経験を得ている訳ではない」が

二人は、物理的世界に存在する一つのものを見ている

二人は同一のものを見ている

といえるわけである。





理論負荷性論者は、理論や知識によって別々の観察をするといっても、

同一の知覚経験を否定しているのであって、

物理的世界に存在する一つの同一のもの、という事を

否定しているわけではないのだ。

これが、理論負荷性への理解に関する、注意点の一つである。





次に、もう一つの注意点に関してみてみる

もう一つの注意点は、一連の理論負荷性の考え方は、

理論や知識から独立した知覚などないという事であるが、だからといって、

知識や理論によって、何でも好きなような知覚が可能だ」という事

を主張しているわけでは全くない、という事であった。





たしかに理論負荷性の考えでは、理論によって知覚が影響を受けるという。

しかしこの事は、「何がが知覚されるか理論だけで決まる」、と

いっているわけではないのだ。

知覚というのは、外界からの感覚器官への働きかけに加えて

理論や知識の影響受ける、といっているのである。





たとえば先ほどのアヒルウサギの例では、確かにアヒルに見えたりウサギに見えたり、

様々な見えかたをする。

しかしだからといって、あの図がアインシュタインに見えたり、奈良の大仏

見えたりすることはないであろう。

つまり知覚像は、何でも好きなように見えるのではなく、

ある程度の変化が許されるだけなのだ。

なぜなら知覚像は、外界からの働きかけの影響を多分に受けるものであって、

かなりの部分はそれによって決定されるからである。





この事は、聖書を読むというたとえ話で考えて見るとよく理解できる。

例えば、聖書を読んだ場合、そこに書いてある内容は、難解で多義的で、

人によって様々な解釈が可能だ。

しかし、たとえ聖書の内容に関して意見の相違があろうとも、誰であろうと、

聖書からハムレットを読み取ったり、我輩は猫であるを読み取る事は、

ありえないであろう





理論負荷性という考えも同様に、理論や知識がある程度、知覚に影響を及ぼすとはいえども、

だからといって、知識や理論によって自由に何でも知覚できる

考えるわけではないのである。





知覚というのは、外界から得たものをそのまま経験するものではなく

かといって、内面(理論や知識や脳の状態など)の影響によって、何でも自由に

変わるものでもなく

知覚というのは、外界と内面による、相互の影響によって決まるもの

なのである。


以上が、理論負荷性の理解に対する、もう一つの注意点である





まとめ

1、別の見え方をするものは、同じ知覚像を別々の解釈をしているの

  ではなく、それぞれ別の知覚経験をしていると考える。

2、「同じ一つのもの」という感覚は、観察の全体的な状況から

  推察する事によって決まる。

3、理論負荷性の考えでは、同一の知覚経験を否定しているのであって、

  物理的世界に存在する一つの同一のものの存在を否定しているわけ

  ではない。

4、知覚というのは、外界と内面による、相互の影響によって決まるもの

  であり、内面(理論や知識、脳の影響など)によって何でも好きなものが

  みえるという事はない。





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