観察が先か理論が先か
/観察、理論負荷性、科学哲学/哲学

 


科学における、観察と理論の関係に関して、次のような考えがある。

世界を観察したとき、正常な観察者は、世界を直接、そのまま捉えている。

理論というのは、そういった世界のありのままの観察データを元に

作られたり、検証されたりするものだ。

観察は、理論の元となるものであって、理論をつくるもの

理論に先立つもの、といえる。

 



という考えだ。

しかし一見正しそうなこの考えは、少々問題のある考えとされている。

 






実際には、観察というのは、むしろ理論によって作られるもの

観察が先ではなく、理論の方が先にあり、その後に観察がくる、という方が、

正しいようなのだ。

観察とは、理論によって影響をうけるものであり、

理論の方が観察をつくるものであって、観察は理論に先立つ、

根本にあるものとはいえないようなのだ。






このような、理論が観察に影響を及ぼす理論の方が観察に先立つ

という考えを「観察の理論負荷性」という。

理論が、知覚、観察負荷をかける(影響を及ぼす)という事だ。

 

 





ただし、ここでいう「理論」というのは、科学理論の事だけではない。

もっと広く、科学理論も含めた、世界に関する知識、というような意味だ。

だから観察の理論負荷性というのは、すでに持っている

世界に関する理論や知識が、観察に影響を及ぼすという考え、といえる。

 

 




具体例でみて見る。

 

トランプを使ったある実験がある

被験者は、トランプをぱらぱらと一瞬だけ見せられ、そのカードは何かと訊かれる。

普通のトランプの場合は、とてもよく、正解を答えられる。

しかし、特殊なトランプを使った場合、

例えば赤いスペードや、黒いダイヤが混じったトランプで、同じような実験を行った場合

被験者はなかなか正しく答えることが出来ない

赤いスペードダイヤだと答えたり、黒いダイヤスペードと答えたりする。

 







これは、トランプに対する知識によって、そこにはないはずの

トランプを観察した
、という事だ。

つまり、トランプに関する理論(知識)観察に影響を及ぼした、という事になる。

観察に理論が影響したというのは、要するに観察の理論負荷性という事だ。

 

 

 

 

また、たとえば次のような記録がある。

彗星の観察事例は、コペルニクスが地動説を唱える前は、あまり無かった。

しかし、コペルニクス以後には、激増した

これは一体なぜか。






コペルニクス以前の世界観は、アリストテレスによる世界観であった。

このアリストテレスの世界観では、天の世界は永遠に同じであるとされており、

変化を伴う彗星などという現象は、存在しないとされていたのだ。

 




つまり、アリストテレスによる世界観では、彗星など無いとされていたために、

その世界観の影響によって、彗星は網膜には写っても、

意識されることなく見逃されていたという事だ。

これもまた、理論(世界観)が、観察に影響を及ぼした例と考えることが出来る。

 





 

このように、理論、知識、世界観などによって、観察するはずのものが、

観察出来なかったり別のものを観察したり、という事がある訳だ。

もし観察が、理論や知識の影響を受けないものであり、観察に先立つものであったら、

このようなことはおこらないであろう。

このような事から、観察は世界をそのまま捉えるのではなく、理論、知識の影響を

受けるものであり、観察は理論負荷的なものである、といえる訳だ。

(とはいえ、理論や知識によって、なんでも好きなものが見える、知覚される、というわけではない。くわしくはこちらへ)

 





ここまでなら、先入観によって観察が影響を受ける、というような、

当たり前と言えば当たり前の事と思えるかもしれない。

しかし観察の理論負荷性というと、さらに他の面からいえることがある

それは観察によって得る情報、意味に対する理論負荷性という事だ

 





次の例を見てみる

医者があるレントゲン写真を見る

そして、医者は腸に腫瘍が写っている、などという

これは、観察によって腸の腫瘍という観察データを得たという事だ。

 





しかし、同じレントゲン写真を、素人が診ても、腫瘍がうつっているとは

判らないだろう

そもそもそれが腸を写した写真だという事すらわからないかもしれない。

この場合、仮に経験する知覚自体は同じだとしても、

そこから読み取る、意味、情報が、専門家と素人ではまるで違う。

この違いはどこから生まれるのか。なぜ人によって、得られる情報、意味に違いがでるのか。

 

 



その原因は、観察者が、レントゲンに写った腸とはどういうものか、

腫瘍というのはどのようなものか、という事を知っているかどうか、という事であろう。

腸や腫瘍を知っているからこそ、観察から腸に腫瘍があるという

情報を得ることが出来るのだ

つまり、観察したものに関して持っている知識、先ほどの言い方で言えば理論が、

そこから得る意味、情報を規定している、ということだ。

 




先にもっている理論、知識が、観察によって得る意味や情報を決めるという事

であり、これもまた、観察の理論負荷性といえる。





先ほどは知覚自体に影響を及ぼすという意味で、理論負荷的であったが、

今回はおもに、観察から得る情報、意味、に関する理論負荷性ということだ。

 





観察から得る情報、意味にかんする、理論負荷性というのは、

レントゲンのような特殊な場合に限らない
日常のさまざまな面でみられる

たとえば台所で主婦が、ガスが漏れている、と言ったとする。

 





この観察者は、台所のにおいや音などを感じ取った訳だが、

その観察を、ガスが漏れているという意味、情報として捉えるためには、

その「ガス」というものが、どういう匂いでどのような状況に存在するものかを、

知ってている必要がある。

ガスとは何かを知らなければ、何を感じても「ガスが漏れている」などと

いう事はできないだろう。





 

また、風で旗が揺れているなどという素朴な観察に関しても、

風というものが、旗を揺らめかす事が出来るようなものとして、知っていなければ、

観察からそんな意味を得ることはないだろう。

 

 

 


このように、日常の素朴な観察でも、観察から得る意味や情報、というのは、

その観察に対する理論、背景知識があってこそなのである。

ましてや、科学の観察には、相当専門的な知識が必要であるという事は容易に想像できるだろう。

 





以上のように、観察から得る意味や情報は、ただ目を向ければ得られる

というものではなく、さまざまな理論、知識を必要とするものであり、

また、それによって規定されるものであって、理論負荷的なのである。

そして、科学で重要な役割を果たすのは、この、観察から得る意味、

情報だろう。

仮に理論負荷的でない、ありのままの知覚というものがあったとしても、

それをそのまま利用することは出来ない

科学で観察から何か得るには、その観察から得る意味、情報が重要なのである。

 

 

 

 


また次に、理論負荷性に関することとして、観察言明の理論負荷性というものがある。

自分が観察したもの人に伝えたり、それを科学で利用したりためには、

当然ながら、その観察経験、印象を、言葉などによって表現しなければならない。

たとえば、木からリンゴが落ちるのを見たとしても、見ただけで何も表現しなければ、

当然誰にも伝わらない


木からリンゴが落ちた」などと言葉にして表現しなければならない

こういった観察を人に伝える為に表現したものを、観察言明というが、

これもまた、理論負荷的なものだ

 





たとえば今まであげてきた

腸に腫瘍がある

ガスが漏れている

ガンマー線が放出されている

前頭葉が欠損している

などなどはどれも観察を表現した、観察言明であるが、これらの例を考えてみても、

腫瘍」にしろ、「ガス」にしろ「ガンマー線」にしろ「前頭葉」にしろ

漏れている」にしろ「放出されている」にしろ、

どれもすでにある、何らかの知識、理論によって意味が規定されているものだ。





たとえば「」という言葉は、人間の内臓で、食物を通すところであり・・・などという風に

さまざまな知識、理論の集合によって意味が規定されている。

ある観察を「」という言葉で表現するという事は、同時にその「」という言葉の意味を規定する

さまざまな知識、理論の集合によって表現するということでもある訳だ。

」に限らず、どんな言葉による表現であろうと、その言葉の意味を定めているのは、

その言葉を含む知識や理論の集合なのだから、その言葉による表現は同時に

その言葉の意味を規定する知識、理論による表現でもある、といえるだろう。

 

 




このように、観察を表現する観察言明は、背景にあるさまざまな理論や知識によって

規定されているものであり、そういった理論や知識抜きには、ありえない

という訳だ。

そういう意味で、あらゆる観察言明は理論負荷的である、といえる。

 

 

 

 

 

 

さらにもう一つ、観察の理論負荷性に関して、次のようなことも言える。

観察によって得た情報の重要性、また、何を観察すべきか、といった、

観察の価値もまた、理論や知識によって決まるものであり、

理論負荷的なのである。

 





をあげてみる

ある日、夜空を見上げたら、月が二つ昇っていたら、どうであろうか。

多分、多くの人は、びっくりたまげるだろう。

天変地異だと、慌てて逃げ惑うかもしれない。

 

これは、観察によって、空に月が二つ昇るという情報を得て、

それを異常事態だと判断したという事だ

だがしかし、なぜ、異常事態、と思ったのか。

それは、月は一つしかない、という知識を持っていたからだ。

仮に、宇宙人が地球にきて、夜空に月が二つ昇っているのを観察しても、

地球とはそういう星なのかと思って、べつに驚くことはないだろう

これはつまり、月に対する知識によって、観察結果の重大性、価値が決まった

という事だ。

 




 

しかしこれが例えば

水銀の中に鉄のボールを入れたら沈んだ

という事だったらどうだろうか。

 




一般の人は、このような観察をしても、そんなものかと思って何も感じないかもしれない。

しかしこれは、科学者にとっては、月が二つあるのと同様に異常事態なのだ

 





なぜなら、現代の科学的知識では、水銀は鉄より比重が大きいので、

水銀の中に鉄のボールを入れたら、浮かばないとおかしいのだ。

水銀に鉄が沈んだら、従来の理論では説明できない、何か特別な事態

起きているという事なのだ。

これもまた月の例と同じく、科学知識の有り無しによって、

観察結果の価値が決まった、という事といえるであろう。

 





このように、世界の中のさまざまな観察事例の中で

どれが重要で、どれがそうでないか、という事もまた、

世界に対する理論、知識などによって規定される、というわけだ

観察の価値もまた、理論負荷的なのである

 

 

 

 

以上みてきたような事が、観察の理論負荷性と呼ばれるものだ。

観察というのは、ただ目を向けるだけという事ではない

世界をそのまま、直接捉えたものでもなく、理論の影響を受けない、

理論に先立つものでもない。

観察観察によって得る情報や意味観察を表現した観察言明

そして観察の価値、というのは、どれも理論や知識の影響を受け

理論や知識によって規定されるものなのだ。

すなわち、観察というのは理論負荷的なものだといえるのである。

 

 

 

 

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さて、以上、観察の理論負荷性ということに関して、書いてきたが、

しかし、この事は、科学を語る上で、一体何を意味するのだろうか。

実はこの、観察の理論負荷性、という事は、科学の正しさ、正当性に関して、

非常に重大な問題を提起することになるのだ。

また、従来の科学観を覆し新たな科学観を考えさせるものでもあるのだ。

それがどういう事かというと、くわしくはこちらへ。

 





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