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額兵隊隊士 

このページでは額兵隊関連各史料にちまちまと載ってる記録&現地調査で得た情報等、重箱の隅を突付き廻すようにして、額兵隊の隊士だった人々のあれこれをまとめて行きたいと思います…気長にやらないと挫折する〜〜(>_<) ってことで、どうぞ宜しくお願いします(笑) ええと、所々に「年○○」って感じで年齢の紹介もしていますが、参考にしている史料の様子からたぶん慶応四年時点のものと思われますが?確証はありませんのであしからず♪五十音順で主だったメンバーの紹介ページです♪主な参考史料については"「北帰行」の舞台裏"のページをご覧下さい。それから、額兵隊において『改役』とは頭取や隊長と同じ意味のようです♪小隊の隊長さんです♪なお、同一人物かも判らない隊士名が見受けられると思いますが、そのあたりは管理人では判断がつきませんので〜〜〜宜しくです(笑)

河東田縫殿之助

河東田縫之進、阿東田縫之助、阿東田縫殿進と記された史料もあり
士官隊、二十才、仙台藩大番士
箱館戦争終結、秋田家預かりの後、弁天台場に於いて謹慎
明治三年五月二十五日箱館出船にて仙台開拓領蝦夷地日高国沙流郡へ赴く、後の消息不明

明治三年三月四日、降人二番長屋小野寺勇吉、同河東田縫之進、右両人昨三日台場塁上江登り候に付函衛隊秋田隊両隊江御預け禁固申付候事
>>>「箱館降伏人取締役所日誌」より

明治三年三月五日、二番長屋取扱、星恂太郎、其方去冬当所へ再渡已来二番長屋取扱申付置候所去年十二月菅原隼太不埒之筋有之、今般又小野寺勇吉、同河東田縫之進等心得違ひいたし候段畢竟其方取扱方不締より前件再度之不都合に立致り候条不行届之始末に付右役名被免候事
>>>「箱館降伏人取締役所日誌」より

明治三年三月十一日、降伏人二番入小野寺勇吉、同河東田縫殿之助、右両人先日御規則を破り謹慎之趣意越不相弁段不届之振舞に付函衛秋田両隊江御預けに相成居候処二番長屋取扱青山二郎より歎願之義も有之候に付格別之儀を以今日差許候事右差免候儀青山二郎へ両半隊長を以申達候事
>>>「箱館降伏人取締役所日誌」より


河野仙太郎正明

二番隊押伍役、調方頭取、三十二才、生国江戸小日向竹嶋町、元三宅駿河守家来、当時浪人父大助忰
箱館戦争終結、秋田家預かりの後、東京に送られる


金成善左衛門成次

軍監、星恂太郎の妻つるの兄
箱館の榎本政権下では陸軍添役、仙台藩軍務局議事応接方御用係り

元治元年但木土佐邸投毒放火のことには星恂太郎、金成善左衛門等亦与かりしといふ説あり、然れとも但木は之を一笑に付したる為、星、金成等は却て但木に傾倒し深く相結に至れりと
>>>「仙台戊辰史」より

元治元年仙台藩血気の青年等が組織した義勇血誓社の同盟者(影田孫一郎<諸生扱>、後藤正左衛門<諸生扱並>、新井常之進、玉虫左太夫、金成善左衛門、菅原龍吉、一條十二郎等)
>>>「仙台戊辰史」より

慶応四年六月新潟開港の為に仙台藩より出張の面々、葦名靱負が全権、副使は監察牧野新兵衛、周旋役金成善左衛門と石川重松、外国事情に詳しく欧文を読める星恂太郎と横尾東作が付属、白川出陣の大石源之進と牧野權十郎の二小隊が護衛、仙台発五月廿六日、米沢会津に立ち寄り六月十日新潟着、ほかに新井常之進が同行
>>>「仙台戊辰史」より

熱海貞爾、荒井平之進、金成善左衛門、横尾傳左衛門、賊論を主張し剰へ函館へ脱走するに仍て家跡収没、金成は「去年(慶応四年)十月中家出脱走に付云々」と達あり、熱海と金成は明治三年十月東京藩邸へ自訴して赦免され、荒井と横尾とは明治二年四月五日函館に於て前罪赦免の上藩へ引渡さる
>>>「仙台戊辰史」より

額兵隊にては金成善左衛門、熱海貞爾の両人をして鴫原某、新井某等と共に明治二年三月廿日出発の仏国帆前船に搭乗せしめ仙台事情探索の為遣はしたるが探索人の到着せし時は、仙台にて大捕縛の行はるる場合なりしため彼等は遁逃して免かれたりき
>>>「仙台戊辰史」より

明治廿二年四月内務大臣より家名再興差許
>>>「仙台戊辰史」より

宮城県士族、開拓使十三等出仕、壬申三十四才、明治五壬申二月二日十三等出仕拝命
>>>北海道開拓使文書より

宮城県平民、明治十年七月五日版、一等少警部、明治十一年二月五日版、二等少警部
>>>「西南戦争警視隊戦記」の幹部一覧表より

明治十一年志田、玉造郡長に任命され名声を得るが、自由民権運動が盛んになると官を辞して人力車夫となるなど、皆その奇行に驚いた、明治十五年六月五日、東北自由新聞を発行し自由民権運動を皷吹した、旧知佐和正、竹内寿貞等勤めて東京に招致し、士官を勧めたが遂に仕えず、号を眞齋といい、漢学、漢詩を好む、東京において大正四年一月十七日没、享年七十七才
>>>「仙台人名大辞典」より

以下の文章は「日本正教伝道誌」「日本キリスト教歴史大辞典」「黎明期の仙台キリスト教」「宣教師ニコライと明治日本」「森有禮全集」「高橋是清自伝」等より管理人が独自にまとめました───

金成善左衛門は箱館において(明治元年末頃か?)旧知の澤邊琢磨(正教徒で受洗名パウエル・元土佐藩士)と接触し、国事を談論する、金成は澤邊に同藩の新井常之進を紹介、のちに金成と新井は正教のニコライ司教とも会見し(ニコライは金成を武人、新井を学者と評した)正教に傾倒するようになるが、ニコライ司教が一時帰国、また仙台藩の志士と幕軍の兵士達は、官軍との交戦を控えた時節柄、金成と新井は義兵を仙台に募るため独逸船に身を投じて仙台に向かった(熱海貞爾、鴫原長太郎も同行)しかし、仙台藩地方の沿岸域への上陸は叶わず(このドイツ船はタチの悪い密漁船で乗船時の約束を果たさず仙台を通り過ぎて房州沖へ直行したため)房州沖にて漁船に移り、大房浜より上陸し、青木村の医師鈴木周平の家に一時滞在したあと、非常の困苦を忍んで明治二年四月頃仙台にたどり着いた、当時仙台藩には久我候が按察使として在り、警戒が頗る厳しい状況下で、とても募兵の目的を達し得ざるのみならず、脱走藩士の捜索もまた頗る急で(二人の仙台到着は二関源治が見国隊を率いて脱走した直後と重なる)二人は身に危険を感じ北八番町にある新井の菩提寺全玖院に潜伏し(仙台市通町一丁目、当時隠し二階があってそこに滞在していたという)世情の形勢を窺っていたが、先の見えない状況に、金成は窃に知人を通して高屋仲の寓居を訪ねて密談した、その折、高屋に新井と共に全玖院に潜伏していることも話すと高屋は大に喜び、のちに酒を携えて全玖院に来、一別後の無事を祝した、この時に詳しく、金成と新井はニコライと函館の情勢を話し、高屋は仙台の情勢を話したらしい、高屋は仙台での募兵の難しさと、城下に潜伏する危険性を説き、明治二年十二月二人を仙台から脱出させた、二人は東京に向かうが、この時も房州青木村の医師鈴木周平の家に一時滞在し、そののち東京に入り暫く旅宿へ滞在していたが、薩長の天下に身の立つ方法もなく、金成は自首して出る決心をして新井に告げたが、新井はこれに同意せず、正教の教義に傾倒していたこともあり、単身東京を脱して再び仙台へ戻った

仙台へ戻った新井は高屋を招いて正教を説いた、ほかに小野荘五郎、笹川定吉、津田徳之進等にも正教を進め、自身は明治三年一月十日再び函館に赴き、澤邊と協議して仙台に残る同志へ、函館へ招く旨の書翰を送った、二人は仙台からの同志の来訪を待っていたが、澤邊の伝教は性急で新井に謀って彼の紹介状を得、仙台藩の開拓地である沙流郡に在住する細谷十太夫を訪ねることとし、単身沙流郡へ向かった、澤邊は函館より七十余里の山河を越えて沙流郡の開拓所役場に細谷を訪ねたが、細谷は不在でついに会えず、新井の紹介状を現地の役人に託して沙流を去った(実は細谷十太夫は沙流郡に在ったが、澤邊の土佐風の言語風体に警戒した開拓所の役人が細谷の不在を装ったためで、澤邊が去った後、新井の紹介状を見た細谷は非常に遺憾に思い、細谷は自ら正教を信じることはなかったが、この後仙台出身の伝教師、教会の生徒等に対して協力を惜しまなかったという)新井からの書翰が仙台に到着したのは明治三年四月で、これに応えて仙台の同志達は次々に函館へ渡り正教の教義を学んだが、第一陣の小野、笹川が到着した明治三年五月下旬は、未だニコライ司教は帰国したままで、さらに澤邊も沙流郡へ出張中だったので彼らは随分当惑したという、また仙台からの同志が増えるにつれてその生活も苦しくなり、澤邊は苦労して彼らの生活を支えたが(自分の妻を売ろうとしたことまであるという)とうとう立ち行かず、のちに大部分は仙台に戻っている(明治三年末頃か?)

一方、自首の覚悟をした金成の方は新井の去った後、偶然の機会から森金之丞(森有礼・薩摩藩)に知られ彼の家に食客となった、当時森の所には高橋是清(変名・橋和吉郎)、鈴木知雄(変名・鈴五六郎)、一条十二郎(改名・後藤常)が匿われていたので、一条の伝でその場を得たものと思われる、金成は森に引き合わせる為に新井を東京に招き、両者は対面する、新井の人物とキリスト教に寄せる志にひかれた森は、弁務官として渡米する際、新井の随行を決め、それに伴って新井、金成らの仙台藩脱藩の罪を赦免にするよう仙台藩邸に乗り込み尽力した、明治三年閏十月十三日、金成善左衛門、新井常之進、熱海貞爾、高橋是清、鈴木知雄、一条十二郎らが仙台藩脱藩の罪を許された背景にはこのような森金之丞の力があった(また高橋、鈴木、一条の三人は身の危険を避けるため、変名、改名して森の手により薩摩藩の籍に入ったりもしていた、明治三年閏十月十七日に同じく赦免になった大童信太夫、松倉恂は福沢諭吉のとりなしによる、福沢は知己の熱海貞爾に対してはその身を匿い、身の立つように協力しており、熱海貞爾は内務省の翻訳官に就いている)

明治三年十二月、森と共に渡米の途についた新井は、森が帰国したのちも米国に留まり三十年間を米国で過ごし(キリスト教の一派ミスティックのハリスに入門する。新生社)ようやく帰国したのは明治三十二年のことである、金成善左衛門の洗礼名はニコデモ、洗礼時期と受洗教会は不明、明治四年六月中旬、細谷十太夫の松島丸で高屋仲、涌谷繁らと函館に赴き(同船に星恂太郎も在、松島丸の陸前東名港抜錨が五月廿八日、函館着港が六月八日)澤邊、ニコライに再会し(ニコライの函館再来訪は明治四年二月十五日)新井の後をとって旧仙台藩士達に正教を勧め、求道入信者を大量に出すきっかけを作った

沙流郡での伝教は前述の通り当初は失敗に終わったが、のち当地に於いて何人かの受洗者の名前がみられるので、おそらく細谷十太夫の助力によって伝教活動が行われたと考えられる、函館で生活している同志に対しても、沙流郡の受洗者や細谷からの助力が少なからずあったようだ


菅野愼齋

医師、下役、箱館の榎本政権下では箱館病院医師となる伊東友賢祐綱の項を参照


菅野秋水

医師、三等、箱館の榎本政権下では箱館病院医師となる伊東友賢祐綱の項を参照

明治二年五月十九日、大病院より高松呼出に来、伊東友賢も出る、菅野湫水も来
>>>「小野權之丞日記」より


菅野四郎

箱館戦死、額兵隊or見国隊士どちらか不明


菅野半左衛門

大砲方改役、仙台藩大番士小姓組、明治二年五月十三日討死

刑罰調、依出奔持道具欠所、菅野半左エ門、正左エ門名代
>>>「日新録」明治二年八月廿七日の記録より

寡言沈毅能く耐忍するの性あり、洋式兵法及大砲術耐を大槻龍之進に学び頗る有為の士なり、葦名靱負の額兵隊を組織するや能く砲手を訓練し、頗る隊長の器倆を具ふ、星恂太郎の松前に脱去るや従て走り、激戦数十回奮闘勇進しばしば西軍を悩まし、毎戦先頭に立ち大刀を翳して進む、敵見て菅野来れりとて遁竄するに至るに遂に敵の包撃する処となりて斃る


菊田桂三郎

士官隊、二十才
箱館戦争終結、秋田家預かりの後、弁天台場に於いて謹慎
明治三年五月二十五日箱館出船にて仙台開拓領蝦夷地日高国沙流郡へ赴く、後の消息不明

刑罰調、家跡没収家財欠所、菊田桂三郎、桂州嫡子(御絵師)
>>>「日新録」明治二年八月廿七日の記録より


菊地萬吉

楽隊嚮導役


岸浪謙八郎信明

額兵隊大炊方御尋人…(略)…気仙之高田江上陸、御歩目付へ申出候、十月廿二日仙着之積、于今不相知候分
>>>「日新録」慶応四年十月廿五日の記録より

明治三年十一月十八日より医学を学ぶため三ケ年上京、二十一才


木村文三長方

改役、改役介裁判役、二十七才、仙台藩大番士
箱館戦争終結、津軽家預かりの後、弁天台場に於いて謹慎
明治三年五月二十五日箱館出船にて仙台開拓領蝦夷地日高国沙流郡へ赴く

明治二年五月朔日、今朝第九時頃より額兵隊人数凡百七拾人斗り当台場内長屋江宿陣之事。裁番役・木村文三
>>>「箱館千代ケ岡陣中日記」より

明治三年九月十三日より西洋兵法を学ぶため三ケ年上京、兄木村大三郎所に随身、二十六才


木村陽之進

士官隊、十八才、仙台藩近習医師
箱館戦争終結、津軽家預かりの後、弁天台場に於いて謹慎
明治三年五月二十五日箱館出船にて仙台開拓領蝦夷地日高国沙流郡へ赴く、後の消息不明


熊谷豊之進

大砲方砲士、明治二年五月十三日討死


桑原平輔

士官隊、十八才、仙台藩大番士
箱館戦争終結、秋田家預かりの後、弁天台場に於いて謹慎
明治三年五月二十五日箱館出船にて仙台開拓領蝦夷地日高国沙流郡へ赴く、後の消息不明


根田昌賢

医師、三等、箱館の榎本政権下では箱館病院医師(五稜郭病院係)となる伊東友賢祐綱の項を参照


近藤辰三郎仲秀

士官隊指図役並、仙台藩大番士
箱館戦争終結、津軽家預かりの後、弁天台場に於いて謹慎
明治三年五月二十五日箱館出船にて仙台開拓領蝦夷地日高国沙流郡へ赴く

北海道開拓使文書の中に、岩内郡製塩掛、星恂太郎従者、近藤辰三郎、明治四年十二月廿日と廿一日付、函館までの?出張届書と、明治四年十月二日付の出張届書を見ることが出来る

天保十三年生、旧仙台藩士族近藤和多里の次男、青森蓮心寺、弘前貞正寺(貞昌寺)、函館台場(弁天台場)にて謹慎、放免後は日高国沙流郡詰合三好権少参事へ引き渡され詰所ビラトリ村に於いて開墾に従事する、明治四年二月小樽港に出稼ぎ中、星恂太郎の招きにより、岩内郡堀株村に設置された製塩場に八月から役所付属員として勤めた、製塩場は後に役所名を開拓使製塩局と称す、星恂太郎は開拓使中主典、製塩局主任、明治五年に大戸籍移住、明治六年に堀株村桐林善兵衛の二女と結婚、戸籍を移住したのは、明治元年箱館戦争の際、砂山に於いて戦死との誤報のため原籍除籍となっていたため、辰三郎は製塩局閉鎖後も堀株村に永住、明治四十三年二月四日没、享年六十八才、戒名勇譽元恵居士


今野音治

士官隊、二十才、仙台藩近習鉄砲組
箱館戦争終結、秋田家預かりの後、弁天台場に於いて謹慎
明治三年五月二十五日箱館出船にて仙台開拓領蝦夷地日高国沙流郡へ赴く、後の消息不明


今野七十郎秀實

器械方、差図役、三十二才、明治二年四月廿九日討死
北海道函館市実行寺の境内に埋葬したと伝わる、戒名義広院秀實日成居士

但木土佐の家来今野七十郎は慷慨の士なり、初め江戸に脱走して洋式砲術を学び、戊辰の役本藩の兵悉く破るるを見、土佐に請うて額兵隊に入り副砲長となりて松前に奔り奮戦して死す、七十郎松前に奔るに當り己の家宅を主家に献じて住しめたり

宮城県下に残る先祖累代の墓碑に刻まれた戒名は祐覺院本源宗儀居士


◇酒本

元額兵隊士で星恂太郎が居る岩内の製塩局で働くために北海道へ渡ったという


◇櫻田文太夫

士官隊、喇叭手、十八才、十六才とも、仙台藩大番士
箱館戦争終結、秋田家預かりの後、弁天台場に於いて謹慎
明治三年五月二十五日箱館出船にて仙台開拓領蝦夷地日高国沙流郡へ赴く、後の消息不明


◇佐藤喜久治

士官隊伍長、二十六才


◇佐藤熊之助信行

二番隊嚮導役、二十才、二十七才とも、仙台名取郡根岸村、神主大膳忰
木古内戦で負傷
箱館戦争終結、秋田家預かりの後、弁天台場に於いて謹慎
明治三年五月二十五日箱館出船にて仙台開拓領蝦夷地日高国沙流郡へ赴く、後の消息不明

明治三年二月十五日、降伏人、二番佐藤熊之丞、大患之趣医師申出候に付今日県病院へ入局申付候事
>>>「箱館降伏人取締役所日誌」より

明治三年三月七日、降伏人、佐藤熊之助、右之もの病気全快今日県病院退院いたし候事
>>>「箱館降伏人取締役所日誌」より


◇佐藤源吉

大砲方取締、明治二年五月十三日討死とも、千代ケ岡にて負傷とも

三番秋保八郎抱家来、薩州と唱居候、岩城赤井村出生、佐藤源吉、三十四才
>>>「日新録」慶応四年五月廿八日の記録より(同一人物か?)


◇佐藤直吉

士官隊、喇叭手、十八才、十九才とも、仙台藩近習鉄砲組
箱館戦争終結、秋田家預かりの後、弁天台場に於いて謹慎
明治三年五月二十五日箱館出船にて仙台開拓領蝦夷地日高国沙流郡へ赴く、後の消息不明

刑罰調、家跡没収家財欠所、佐藤直吉、孝吉嫡子
>>>「日新録」明治二年八月廿七日の記録より

◇佐藤陽之進

士官隊、(明治二年?)六月十二日没、戒名は忠陽信士、箱館の山瀬泊地蔵庵に埋葬という


◇澤木武治

士官隊、二十三才、仙台藩並医師
箱館戦争終結、秋田家預かりの後、弁天台場に於いて謹慎
明治三年五月二十五日箱館出船にて仙台開拓領蝦夷地日高国沙流郡へ赴く、後の消息不明


◇三分一所徳五郎景正

三番隊指図役並、二十四才、仙台藩大番士
箱館戦争終結、津軽家預かりの後、弁天台場に於いて謹慎
明治三年五月二十五日箱館出船にて仙台開拓領蝦夷地日高国沙流郡へ赴く、後の消息不明


◇鹿又文之丞一貫

四番隊指図役並、二十五才、二十一才とも、仙台藩士無役
箱館戦争終結、津軽家預かりの後、弁天台場に於いて謹慎
明治三年五月二十五日箱館出船にて仙台開拓領蝦夷地日高国沙流郡へ赴く、後の消息不明


◇失田部皐吉

額兵隊戦死、明治二年五月十一日
>>>「日新録」明治二年十一月八日の記録より


◇柴山静男宗仲

二番隊指図役、指図役並とも、二十六才、仙台藩銃隊旗手
箱館戦争終結、津軽家預かりの後、弁天台場に於いて謹慎
明治三年五月二十五日箱館出船にて仙台開拓領蝦夷地日高国沙流郡へ赴く、後の消息不明


◇島津利藏友安

嚮導役、二十三才、仙台勝田郡白石片倉小十郎家来、父文右衛門忰、見附役定府
箱館戦争終結、秋田家預かりの後、弁天台場に於いて謹慎
明治三年五月二十五日箱館出船にて仙台開拓領蝦夷地日高国沙流郡へ赴く

北海道開拓使文書中、明治六年二月二日付の書類で、嶋津利藏、二十七才、生国陸前国宮城県管下長町、鍛治職、嶋津父右衛門の次男、明治五年二月国元出立、御当郡掘村に所縁の者あり(星恂太郎のことか?)につき罷り越し、同年三月中同村寄留願上、聞き届けになり鍛治職渡世…との記録がある


◇島野翠

額兵隊皷手、のちに陸軍歩兵大佐、従四位勲三等功四級、昭和三年七月一日静岡県沼津市我入道にて没する


◇新國茂兵衛長知

四番隊押伍役、調方頭取、三十一才、三十二才とも、出羽米沢藩三拾本槍組大嶋治郎右衛門忰
箱館戦争終結、秋田家預かりの後、東京行