画伯めいか(会田洋子)
追悼個展、無事終了。
平成21年12月8日(火)〜12月13日(日)までの間、仙建ギャラリーで追悼
個展を開催しました。
期間中、ギャラリーにお越しいただきました皆様に、亡き「画伯めいか」に代わ
りまして、感謝御礼申し上げます。
11月15日
私は今、再発のため3回目の入院をし、治療をしております。
秋田県横手市にあるツインクリニックの斉藤公基先生の紹介で、同市内の平鹿総合病院の第二内科の久米政晃先生にバトンタッチです。
久米先生にバトンタッチした時には、ステージ4という(ステージ5が最高レベル)最悪な時を迎えておりました。
何故そこまでほっといたのか・・・それは違います。誰にも・・先生でさえ予測できない速度で・・私の癌の細胞は進んでいったのです。
月1回の検診で6月には、ほぼ正常だった血液での数値。何故、どうして、7月・8月・9月と、ここまで上り詰めてしまったのか・・。
癌はストレスと聞きました。ストレスは誰しも抱えております。私自身も、絵本の出版のことや、息子の自衛隊に仕事が合わず、心願病み、吐き下しをし、どうにもならず入院したりと、私も一緒に悩み、ストレスもありました・・がしかし、色々なことが治まったのですが・・7月のはじめにデパートで前のめりに転んでしまいました。(もともと治療のたびに足腰弱くなっていましたが、自転車ですいすい買い物できるくらいに回復指定ました。)すごい転び方をしたわけではなかったのですが、自力で起きれると思い、起き上がりました。恥ずかしさの方が咲き立ったのと、主人がデパートの前で待ってると思い、あせりとで急いで車まで行きました。座った時から腰痛に似たものが腰にありました。夜から言うまでもなく、痛みに変わりました。”ぎっくり腰”だと思い、(2回ほどなっているので)2週間あれば痛みもひくだろうと思い、「痛み止め」を飲んで通り過ぎるのを待ちました。まだ、その頃は歩けたし、2回の自分のベッドにもいけました。週に1回の店も何とか出来てましたが、2週間くらい過ぎても痛みが止まらず、主人が近くの「S整形外科」でレントゲンだけでも写しておいでと言うので、私も少々不安があったので、家から2,3分のところにあるから何とか歩いていけるという軽い気持ちで1人で行きました。
レントゲンを撮り、”ほら、潰れて変形してるだろ。体も曲がっているし明らかに老化だね”と言われ、48才で老化か・・とショックでしたが、日々が入っているとか折れているとかではないと言う安心感で、医師にローラーに乗るようにと言われ、乗りました。痛かったのですが、これでよくなるならと思い、医師の言うとおり我慢しました。(そういう場で治療を断れる勇気はやはり凡人の私にはありません)
帰り道はなんともありませんでしたが、家についてから激痛が始まりました。つかまりながら歩くことがやっと、ソファーから立てないのです。
主人が帰ってきてもソファーから動けず、痛みで涙が止まりませんでした。子供達の前でオイオイ泣いている親って・・・変ですよね。けれどそれくらい痛かったのです。もう2階に行くどころではありません。自分ひとりで立てないのです。立たせてもらい、目の前のトイレに行ったり、ソファー生活が始まったのです。
痛みで眠れず、睡眠剤を倍にしたり、ロキソニンを3錠にしたり、それでも痛みがおさまらないのです。 そのストレスたるもの、すごいものがありました。家の中を杖も両手で持ち、移動していました。そのとき、車椅子を買う事を決めました。
それでも8月に入り、仕事(絵本)の打ち合わせがあり、何とか話を終え店のドアを開け、見送る際によろめいて、ドアにつかまり、転びそうになり反り返ってしまいました。そのとき、やはり大きな病院に行こうと決め、主人に休みを取ってもらい、MRIにかかりました。
苦しかったです。そのときの診断が、骨折でした。その場でコルセットを注文し、1週間後に受け取りに行きました。その日から3ヶ月は付けっぱなしで過ごすようにと言われました。痛みとの戦いの中、私のストレスも日増しに増えてゆき、それと共に異常な速度で血液の数値も増えて行きました。
8月に写したMRIにはリンパ腫はなかったのですが、9月に写した平鹿総合病院でのMRIには、折れたところに集中し、リンパ腫があり、背骨や中にもリンパ腫が入り込んでいるようでした。
治療が始まる10月には痛みも少しは和らいだのですが、(ギブスしたまま)下半身にしびれがあり、特に膝から下などは、何か物が入っているかのようにしびれと共に感覚がありませんでした。癌の治療を腰痛と痺れに、10月は毎晩泣いていました。
腰と共に癌の治療ですが、ロホウ性悪性リンパ腫は、前回治療でチョップ療法の抗がん剤は、他の病院で打てるだけ打ち込まれ、使うと心臓が危ないので、その療法は使えませんでした。
久米先生の判断で、私に合った抗がん治療を見つけてくださり、12月中には退院予定です。あのままでは危なかった私が、また生きて家族のところに帰れる。久米先生に感謝です。
ただ、私の腰と足は、元に戻ることはないそうで、一生車椅子の外出となり、トイレの近くにあった寝込みのソファーはバッドに変わり、一日の大半はベッド生活になりそうです。
でも、悲しいより、家族と一緒に入れる喜びのほうが今の私には多いです。
一重苦、二重苦、三重苦、それdめお天命が来るまで生きなきゃいけないと自分に言い聞かせている日々です。もしこれを読んで、苦しいこと、悲しいこと、抱え込んで逃げたいなと思う人がいたら・・また、別の世界に生きたいと願う人がいたら、思いとどまってくださいね。
私だって、思ったりすることも沢山ある。だけど、私より苦しい人、沢山いるんだからって、自分を励ましてるし、足だって義足の人はすごいなぁって思うし、車椅子の人もすごい思う。病で苦しんでいる人もすごいと思う。心願病んでいる人もすごいと思う。だから、負けないぞ、と笑うようにしている。精一杯今を生きていれば、何とかなってくれると信じている。
前世もあれば、この次生まれ変わりもあると思う。だけど、今私達は前世の記憶が無いように、来世も今の記憶は無いと思う。だから、今が大切なんだと声を大きくし、くじけそうになる自分にエールを送っている。 我慢大会だ!!
神様は足を取る代わりに命をくれたんだと自分に言い聞かせている。何年持つか分からない命だけど、時が来るまで頑張って生きなくちゃ・・ね。
もう一度歩いていたり、走ったり、踊ったりしたい。
そしてもっと生きたい。
宮城から出たぁ〜い!
ニュースで何回扱ってもらっても(宮城県内の番組だからなぁ。)…、ミヤテレでドキュメント30分番組
してもらっても…、日本テレビで30分のドキュメント番組してもらっても…、講演会を何回やっても…、展
示会を何回やっても…、結局、宮城県内だけなんだよなぁ・・・。
当たり前だ。県内版の新聞やニュースだから・・外部に行くはずもない。
日本テレビのNNNのドキュメント番組にしても、視聴率が通常の2.5倍(しかも、真夜中の1時!)いった
と喜んでいたが、私はニュース番組の1コーナーから撮影が始まり、約1年、ほとんど、マスコミが持ち上げ
てくれているけど、宮城県から出て行けない。悲しい(うえーん(><。))。
どういう訳か、私と関係した人は、みんな栄転になってくれる。私を推してくれた人達、今、皆、東京!。
皆も仕切り直しに精一杯だ。だから我が儘、言ってはいけないと思う・・・。 わがままかなぁ・・・。
町に出ると皆に声をかけられる。・・・それはすごく嬉しいし、パワーも、もらえる。私自身、元気も、も
らえる。だけど、やっぱり、宮城から出て、絵手紙が一人歩きしてくれたらいいなぁと、思ってしまう。わが
ままかなぁ・・・。
生まれて初めて作った、CDだって、欲しいと言ってくれた人が沢山いたけど、お蔵入りにしてしまっている。
なんか切ないなぁ・・・。
ぎゃーーーーー!!!!
宮城からでたいよぉぉぉ(>□<。)。・+
実は最近、ちょっと体調があまりよくない…。血液指数もよくない。 その上、薬の副作用で、骨がもろく
なってきたみたいで、それとぎっくり腰が10日も経ちましたが治らず、病院に行ったら、なんか変な治療さ
れ、もっと痛くなって…、厳しいぃぃぃぃぃ(´□`;)(泣。)
自分の本が店頭に並んでいるのを見なければ・・死ぬに死に切れない!!
皆は、テレビ、ラジオ、色んなところから沢山お金が入ったでしょう?と、色々言われるけど、全部がボラン
ティア。本業の喫茶店まで義理堅く、閉めながら付き合っちゃったようなもので、厳しい状態でーす(><)!
だから、それくらい頑張ったからこそ、一度でいい、自分の本が店頭に並んで、売れていくのをみたい。
宮城だけでは、これ以上は無理! 誰か引っ張って〜〜;;
Help me〜〜(>□<。)!!!
今日は悲痛な叫びでした・・!
「ちょこっと、一言!!」
先日のTVを見てもらい、色々なメッセージありがとうございました。
・・・ちょっとだけ書きたいことがあったので書きます。
1回目の大きな病院では、誤診と過剰投与によって、肺に水が溜り、心臓が潰れ、危なかったので、
2度目の入院は本を見て信じ、載っていた医院に移りました。
2度目の入院期間中、見舞いに来る息子、娘、そして主人の顔色が日に日に変っていくのを感じな
がらMAXの量の抗がん剤と、ねずみの抗体の新薬を体にいれ、精一杯笑って接してきました。
入院した医院は、本に書いてあったので、最高の医療を受けられると思っていたのですが、他の病
院とは違い、悪性リンパ腫の治療ではやらない、体に針を埋め込み、逃げられない状態にさせられま
した。
目の前で仲良くなった人が、薬の過剰投与で亡くなって逝く。ある患者は、夜中に帰してくれと言
う。そして叫び(死ぬ前の叫び)。どうしてもやれないと言う家族の悲しみ、生き地獄を見せられて
きました。
医院のDr.は暴君で、患者は外泊も出来ず、風呂も入らせられず、逃げないと分かった者にだけ、
外泊させてくれた。睡眠薬も安定剤も出してはくれない。頭痛薬一錠だって、Drの許可が必要な医
院だ。そのため院内ではイジメが蔓延しており、病気と戦いながらイジメと戦い、Drへのご機嫌を
伺いながら、やっと外泊が出来た。
病院を変えようとも思ったが、その医院での治療が強すぎたため、専門センターさえもが受け入れ
てはくれなかった。
「あそこの患者は受け入れない」と決まっているのだそうだ。
私は普通の人以上に、細胞が強いらしく、輸血はなかった。そのため必要以上に薬を入れられた。
心臓を押さえながら薬を打たれ続けた。そんな異常な世界で、やめて行く看護婦も沢山いた。人間を
物として見れる人だけが残っていく。
どの患者も色んな薬を試されている。私達はモルモットだった。Drはエイズの亡き阿部医師を称
えていた。
「彼のおかげで、今、エイズの患者は死なずに済んでいる!彼は最高の医師だ!」…と。分かって
はいるが、理解は出来ない。頑張れ、とDrは言う。
色々な薬を打たれた患者は皆、死んでゆく。薬の説明もされてはいないので、何の薬なのかも分か
らない。
ラストtimeを・・・。私は負けずと明るく振舞ってきた。・・それが家族と自分へのエールだった。
そして耐え抜き退院を迎えた。その医院にしては、9ヶ月での退院と言うのは早いものらしい。もう
2回、治療入院するからと言われた。しかし私は、別の病院を探し始めた。自分の命だ。納得行くまで、
探し続けた。だが、ほとんどのDrは、自分の研究論文の文献を、学会に出すために精一杯で、3時間
待ちの3分診療だ。納得は出来ない。
私は自分の県でDrを探すのをやめ、他県に目を向けた。今、私は秋田の病院で通院治療をしている。
安心できる態勢を整えている。何よりも、心を中心にしてくれる
Drだからこそ、命を預けられる。亡くなるその日まで、私は家族と一緒の道を選んだ。退院して、
娘のリストカットには驚いた。体中に傷があった。主人は私以上に病人のような顔になっている。
なんとかしないと・・・けれど過剰投与の私の体は、全身がしびれ、まともに動かない。毎朝、背中が
つるのから始まる。これは随分苦しい。足もつるが、あまり感覚がないので、助かっています(苦笑)
そんな中で、娘と一緒に過ごす時間が増えていった。一緒に散歩、お風呂、ポーセラーツ、ビーズなど
私のリハビリを兼ね、常に一緒にいた。苦しくても笑いながら一緒にいた。店も、杖を置き、席を減らし、
営業日を減らし、禁煙店にして再開した。「どんな時でも母は頑張ってる。」そんな姿を子供達に見せた
かった。そして自分への励ましであった。
18年12月、私の血液の値は入院の値まで上っていった。再発だ。ちょうど、息子のアレルギーの手術と
重なってしまった。一緒にいてあげたかったので、入院せず、通院治療でステロイド4錠と抗がん剤治療
を始めた。付き添いで時間が有り、絵手紙を始めた。絵は苦手だったが、息子をモデルにイノシシ年の年
賀状に、と絵手紙を描いた。それを見た息子は、手術が終ったばかりなのに、鼻血を出しながら腹を抱え
て笑っていた。これが絵手紙の始まりだ。
娘とはビーズ作りは出来ても、息子とはビーズ作りは出来ない。私の絵は、ほとんどが息子へのメッセ
ージだと言っても良いくらいだと思います。ステロイドや抗がん剤治療の苦しさから逃れたいために、絵
手紙を描く事で少しでも、気持ちがそれればと思い、始めたのも正直な気持ちだ。
ステロイドの副作用で、食欲は増し、夜は興奮して眠れないから睡眠薬。抗がん剤は1週間置き。その
中でも、ラスト3日がきつい。安定剤も睡眠薬も定量なんかでは効かなく、倍以上になっている。
そんな私の様子を見ても息子は変わっていく。聞いた事のない汚い言葉を吐き、暴れる。目つきが異常
になってゆく。「心の病」だ。付き合う仲間も違ってきた。帰宅も夜の10時、11時と遅くなっていっ
た。卒業半年前にして家出を繰り返した。その度、私は安定剤を何倍も飲み、真夜中に戦いに出かける。
「何としてでも卒業させたい」、「正常な道に戻したい」と、その一念だった。
そんな息子も無事に高校も卒業し、正常な道を歩こうとしてくれた。主人と同じ自衛官だ。やっと手が
離れた。
息子と戦い、娘と戦い、病気と戦い、今は疲れきった状態だ。主人の心を癒してあげなければいけない
のだけれど、本心言って、私自身戦うことしか分からず、癒すすべを知らない。癒しを覚えようとしたら、
230枚の絵手紙は、それっきりピタリと止まってしまった。
19歳になる息子と16歳の娘。この5年は色々な想いだっただろう。「母は鬼」に見えただろうけど、
精一杯、天使だったと、自分では思っている。私と同じ戦いが出来るのなら、「やってみろ」と、大声で
言いたい。1年間TVのスタッフも常に家の中にいて、私の生き様を見てくれている。苦しい顔をした時
は、TVに写ったあの時だけだったはずだ。アレは耐えられない苦しみの時の姿だ。自分としては「悔し
い姿」だった。
現在、米国ハワイの新聞「ホノルルタイムズ」に、コラムを月1回連載させていただくことになり、先
日、2回目の原稿を送ったばかりだ。1回目は「病気に教えられたこと」、2回目は「温暖化以上に病ん
でいる日本」という題名で、このテーマで書き始めた、これからも自殺、いじめ、殺人、ゲーム、教育、
病院のあり方、色々なことをズバリと書いてゆきたい。もし、これで中傷、非望があったとしても、私自
身、後悔はしない。
趣味の絵は、大きな油絵(アクリル)に変わった。サイズ的にはF10を、月に1・2枚描いている。
文字はない。・・・1人1人が何かを感じ取れる絵になっていると思う。
多分、私は戦う生き方しか知らないのかもしれない。特に自分には異常に厳しくなってしまう。それは
それでよい。命ある限り、戦ってゆくだろう。又、その傍らで、ボランティアでネパールでの里親、今は
2人だが、10人まで増やしてゆきたい、そして、その他のボランティアも今まで同様、続けて行きたい。
主人曰く、「本当に金と手間のかかる嫁だ」と、笑いながら言っている。
追伸
お金の事を言う方々がいるが、ドキュメンタリー、ニュース、新聞コラム、全て無料でやっている。そ
れは紛れもなく事実である。
そして、また新しい戦いが始まっている。。
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