けふのお茶うけ

洗濯船店主 吉成由貴子

第5回 本家「洗濯船」の由来  2004年7月6日

 先日、おふたりの大先達からほぼ同時にある手紙をいただいた。懐かしい方からのお便りで嬉しく拝見した。 そこには「パリの秘密 洗濯船の興亡」という、仏文学者の鹿島茂さんが東京新聞に書かれた記事が同封されていた。 御存じの方もいらしゃると思いますが、わが店「洗濯船」の名は、20世紀初頭、パリのモンマルトルに、 若き日のピカソやアポリネールら画家や詩人が住んでいたアトリエつき木造アパート「洗濯船」からいただいた。 ところが記事の「洗濯船」はその老朽アパートのことではなくて、15世紀の終わり頃から20世紀前半まで、 セーヌ川の河岸に係留されていた80隻もの「洗濯船」のことだったのだ。それはまさに洗濯するための船で、 パリ市民の日常生活を伺わせる思いがけない風景に、読んでびっくりした。トリビア的には「120へー」だった。その全文をご紹介します。

パリの秘密 鹿島茂「洗濯船の興亡」

ルノワールをはじめとして、若き日のピカソ、ブラック、アポリネール、マックス・ジャコブなど、 モンマルトルの画家や詩人が家賃の安さにひかれて住みついた老朽アパート「バトー・ラヴォワール(洗濯船)」は、 その後、住人たちがみな有名になったので、モンマルトル黄金時代の象徴ともなったが、 なぜ、このアパートがこう呼ばれるに至ったかを知る人は少ない。  バトー・ラヴォワールは、敷地に段差があったため、ラヴィニャン通りには二階部分が建ち、 残りの三階部分はガロー通りに面するというように、変則的な建て方を余儀なくされていた。 詩人のマックス・ジャコブは、積み木の箱のようなこのバラック建築を見て、セーヌ川に浮かぶ洗濯船を思い浮かべたのである。  では、洗濯船とはいかなるものだったのか?  それは、文字通り、セーヌの土手に係留された屋根つき平底船で、 船縁に沿って洗濯台とベンチがずらりと並べられ、小柱で区画に区切られていた。 自宅から汚れ物をかついできた女たちは船主にいくばくかの金を払って区画を借り切ると、 そこで汚れ物をセーヌの水に浸け、布地に灰をふりかけてから、これを棒でバンバンとたたくのである。 同じセーヌの土手でも、日当たりがいい右岸に洗濯船は集中していた。  パリに初めて洗濯船が登場したのは十五世紀の終わり頃である。 それ以前には、パリ市民はセーヌの土手で直接、洗濯を行っていた。 しかし、市立病院の排水で衛生状態がよくないところでも作業を始める者が後をたたなかったので、 パリ市当局は、この新発明が登場すると、洗濯場の局地化が可能になると歓迎した。 民衆たちも、雨風にさらされずに洗濯ができると喜んだ。  こうした人気を反映してか、洗濯船はパリ市の人口増加とともに増え続け、 十八世紀の末には八十隻の洗濯船がセーヌの土手を埋め尽くすことになった。 そして、そうなると競争原理が働いて、洗濯船にも改良が加えられ、二階建てのタイプも登場する。 二階には乾燥用の広い部屋がもうけられ、女たちは洗い上げたばかりのシーツや下着をここで干すことができたのである。  たしかに、写真に記録された二階建てタイプの洗濯船を眺めていると、船というよりも、ある種のバラック建築を連想しなくもない。 事実、洗濯船が全盛を極めた十九世紀の末にノートル=ダム橋とアルコル橋の間に登場したアルシュ・マリオン号は 十二隻の平底船を連結して二百bもの長さに達する堂々たる「大建築」だった。  しかし、二十世紀に入って、家庭用の上下水道が完備するようになると、不潔なセーヌの水を使う洗濯船の人気は急速に衰えていく。  ナチス占領下の一九四二年、最後の洗濯船が廃船となり、パリ名物がまた一つ姿を消した。 ちなみに、モンマルトルのバトー・ラヴォワールも一九七〇年に火事で焼失、現在、国際芸術家コロニーとして使われているのは 一九七八年に再建された建物である。

−−−−−東京新聞 2004年5月6日より

ねー、驚きでしょ?気取ったパリじゃなくて、まるでアジアの見慣れた生活風景のようで親しみを感じます。 モンマルトルの「洗濯船」もセーヌの「洗濯船」も、ともに木造バラック。ゴールデン街のわが「洗濯船」に時をへだてて繋がったようです。 ちなみにわが「洗濯船」のカウンターの端に飾られている写真は同じ場所に再建された現在の国際芸術家コロニーです。

アーカイブへ