らい予防法国家賠償請求訴訟について(訴訟の経緯)
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 90年の歳月が問われた訴訟内容を簡潔にまとめることは出来ません。
 上記リンクからその情報を入手していただくことが一番だと思いますので、
 ここでは私用のメモとして作成したものを簡単に掲載するにとどめさせていただきます。

■ハンセン病訴訟の経過
1995年
     9月 1日   島比呂志氏(星塚敬愛園)から九弁連へ人権救済申し立て
1996年
     3月19日   九弁連理事長声明
     4月 1日   「らい予防法廃止に関する法律」施行
     6月15日   九弁連シンポ「らい予防法廃止問題を考える」
1998年
     2月28日   九弁連シンポ「人権の回復をめざして」
     3月 7日   九弁連、敬愛園調査
     4月 9日   弁護団準備会(福岡) 以後5回+検討会実施
     7月18日   星塚敬愛園聞き取り
     7月22日   弁護団立ち上げ(熊本)
     7月27日   熊本地裁提訴打合せ
     7月31日   第1次提訴(2園13人)
1999年
     3月      東京地裁に21人が提訴
     8月      元厚生省医務局長が熊本地裁で、「法は誤り」と証言
     9月      岡山地裁に11人が提訴
     *この間、原告尋問・原告出張尋問・証人尋問・検証(菊池恵楓園など)
2001年
     1月      熊本地裁第1―4次分結審
     4月      超党派の国会議員が原告を支援する懇談会を発足
     5月11日   勝訴判決
     5月23日   国の控訴断念

■何が問われてきたのか?
原告らは、以下の3つをハンセン病国賠訴訟において求めてきました。
 なぜ悲惨な人権侵害が90年にも渡って行われてきたのか、事実の解明
 国が、その法的責任を認めて謝罪し人権侵害の回復を図る、被害回復
 国が、二度と同じ過ちを繰り返さないこと、再発防止

●1907年(明治40年)法律11号の制定が隔離・絶滅政策の始まり。
治療とは名ばかりで十分な医療体制は取られていなかった。強制的に収容されたばかりか(強制収容)、療養所の維持運営のためにあらゆる作業が患者に割り振られました。(強制労働)外出規制も厳しく、退所規定がありませんでした。(絶対隔離)

逃走防止の為の園内通用券が使用され、園長にはむかったり秩序を乱したという理由で、いかに不合理であっても、懲罰として監禁室へ入れられました。(懲戒検束権)
大部屋の居住で、療養所内での結婚も当初は夫婦寮はありませんでした。夜中、女性寮の大部屋に通うという「通婚(かよいこん)」を強いられたのです。
しかも、結婚の条件として、男性の中には、子どもができないように断種手術をさせられたり、子どもができてしまった女性は、子どもを堕胎させられたのです。(断種・堕胎)

●1931年(昭和6年)には隔離対象をすべての患者に広げた旧法が制定。国は、日本にいるハンセン病患者を撲滅するための、「絶対隔離」政策を実施。地方自治体を巻き込んでの無らい県運動が行われました。(差別の助長)

●さらに、1953年(昭和28年)には、患者団体の猛烈な反対にもかかわらず、旧法とほとんど代わらない予防法改正が行われたのでした。この改正に対して、全国ハンセン病療養所患者協議会(全患協)は、猛烈な反対運動を実施しました。日本国憲法の人権意識の高揚と画期的な治療薬・プロミンがアメリカから日本に紹介されたことが大きく影響しました。この薬により、治る病気になったのに、どうして療養所に一生閉じこめられていないといけないのか、この想いが全国の患者さん達を突き動かました。
全国の療養所でハンストを決行したり、作業を放棄したり、国会に駆けつけて国会の周りに座り込み・泊まり込みを行うなど、あらゆる抵抗を試みました。それにもかかわらず、不当な差別意識のままに、1953年の改正がなされてしまったのです。
この頃の国際的なハンセン病対策は隔離の撤廃・在宅治療の推進に移行していたにも関わらずです。(国際的動向からの乖離)

●その後も処遇改善運動により付き添い看護の廃止、患者作業の廃止などを要求・実現しながら、らい予防法廃止運動についての議論が全国的に高まり、1996年(平成8年)3月、らい予防法は、やっと、廃止されたのです。


■最大の争点となったのは

●責任と隔離の必要性
1907年に制定した「癩(らい)予防ニ関スル件」に始まり、1931年に「癩予防法(旧法)」、1953年に「らい予防法(新法)」(1996年廃止)を制定し、隔離政策を続け被害を拡大させた責任が国にあるかどうかが最大の争点でした。

原告側は「治療法の進歩で1950年代から隔離が否定され、在宅治療への転換が提唱された。1953年の新法制定時に隔離は不要だった」「医学的根拠が失われたにもかかわらず、国が隔離政策を推し進め、法律を制定、放置した」と、国の責任を追及した。

国は「隔離が不要との考えが定着したのは、多剤併用療法が確立した1981年以降。隔離はそれまでの予防対策として有効だった。法廃止後も療養所での処遇を維持し、補償問題は解決済み」と全面否定した。

●損害
原告側は強制収容や優生手術(断種、中絶)などの人権侵害に加え、「法を制定し、隔離政策をとったことが差別・偏見を生み助長した」と訴えた。
しかし、国は「隔離や優生手術は強制ではない。治療薬の進歩に応じて療養所からの外出を自由にするなど、法を弾力的に運用し、遅くとも七八年以降、人権侵害はない」と反論。差別や偏見も「法や政策とは無関係」としている。

●除斥期間
一定期間(二十年)を経過すると、損害賠償の請求権がなくなる除斥期間を巡り、国側は「九八年の提訴から二十年以上前の事実については請求権が消滅した」と主張。これに対し、原告側は「隔離による被害は九六年の法廃止まで続いた。除斥期間は適用すべきではない」と反論した。