
| 身延深敬病院(山梨県身延町) 1906〜1992年 |
| 2001年6月17日(日)、駿河療養所を訪問した際に駿河療養所に暮らす友人と東京の特派員・三浦さんと3人で山梨県身延(みのぶ)町にあった身延深敬病院(深敬園とも言われている)を訪ねてみました。 日蓮宗・総本山、身延山・久遠寺の山門の横を通りすぎ右手に身延川に掛かる深敬橋を渡ると、そこが深敬病院のあったところです。 深敬病院は、明治時代後半、海外からのキリスト教系の宗教家が作った民間ハンセン病救済施設が5つ設立されていく中で刺激を受け、日蓮宗や浄土真宗など国内でも新たな活動が始まってい頃の1906(明治39)年10月、日蓮宗の僧侶・網脇龍妙上人が、ハンセン病患者を収容するための病院を設立したのが始まりです。 その当時三門付近から菩提梯へたむろしていた患者の窮状を救う為に建てられたもので、当時13人の患者を収容するため、現在布研が開設されている清兮寺内に事務所を置き、仮病舎を身延川のほとりに建てたそうです。 ここでは他の団体と異なり、健康な者と患者の恋愛・結婚が許されていたとい言いますが、その頃の世相や病気に対する認識などで大変な御苦労をなさり、深敬病院を維持してこられましたが、1992(平4)年、患者の減少に伴い、閉鎖を決め、光明園へ移った2名を除き、入園者11名、5月から5回に分け、12月までに多磨全生園へ転入園し、87年にわたる歴史を閉じました。 現在の建物は改装され、(福)深敬園の身体障害者療護施設「かじか園(荘)」として運営されていました。当時を偲ぶ建物は下記の写真のようになっています。 深敬橋の手前にあるお土産屋さんの「50年近くここで店を営んでいるが、周りの方々はハンセン病について悪く言う人は少なく、みんな温かく理解されていたよ。」というお話しが印象的でした。(KIYO) |
・1876(明治9)年1月24日福岡県に生まれる。 ・明治24年10月鍋冠日親の霊場法性寺(福岡市蓮池)貫名目良の門に入り、師匠の転任に伴い福井県妙泰寺に移り院代として寺の興隆に勤める。 ・29年9月宗学研鑽の為京都に留学、37年妻サダと結婚。 ・38年7月上京し哲学館(現・東洋大学)に学ぶ。 ・39年7月夏休みを利用し、人間礼拝の思想の布教と教化の心顔の為身延山に参詣のおり、身延河原に住むらいに罹患した少年と出会い、らい病患者の悲惨な生活を見、らい病救済を決意す。 時の身延山法主豊水日良上人の賛助により、山門の大工小屋を貰い受け仮病室を建て、10月12日身延河原より13名を収容し身延深敬病院を開院する。皇室を初め多くの御厚志を戴く一方資金調達の為「十万一厘講」を組織する事を考え、全国を寄付勧募に走り回り病舎の建設、処遇の改善に努める。 ・1920(大正9)年財団法人を設立し、理事長となる。 ・昭和5年九州分院開設、1940(昭和15)年4月より横須賀市大明寺住職兼務し、布教に勤めつつ施設の運営に当たる一方国立療養所5カ所に日蓮宗会堂建設。 ・昭和45年12月5日95歳にて遷化。法号深敬院日啄、日蓮宗大僧正、身延町名誉町民、仏教伝道文化賞、勲三等瑞宝章等受賞。 |