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ハンセン病を学ぶ為にお薦めの順番に並べています
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写真の多くは高松宮記念ハンセン病資料館と国立駿河療養所から許可を頂いて借用したものです。
WEB上での転用を防ぐ為にあえて画像は小さく粗く表示しています。ご了承下さい。

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日本の歴史にみるハンセン病者
720年の日本書紀に「癩(らい)」の言葉が登場。12世紀頃から仏教の業病、天刑病と考えられる。鎌倉時代に叡尊と忍性(律宗の僧侶が)救済。江戸時代、神社の参道や仏閣の門前などでの物乞いが主で、遺伝病だという迷信が広まる。
明治時代には「らい菌」の発見により「うつる病気である」と認識し、次第に排除し始める。

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法律第11号(癩予防ニ関スル件)
1907(明治40)年に制定、1909年施行。外国人から政府の無策(浮浪・物乞い)に非難の声が上がり、国の恥=国辱と考えた政府は、文明国を自負する体面上の理由から、放浪徘徊する患者を取り締って隔離収容(全国5か所に療養所設置)し、街頭を浄化する政策を実施。隔離を進めるために、感染力が弱いにもかかわらず、コレラや天然痘なみの恐ろしい伝染病であると強調して国民に恐怖心を植えつけた。

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収 容
最初は内務省の管轄で警察官が厳しい取締り(むりやり運搬車の荷台に放り込む、農作業中に連行など、家族と別れの言葉も交わせない状況)で患者を収容。収容先は療養所とは名ばかりで、職員は刑務所の看守のように巡回・監視し、秩序維持と称した暴力制裁が日常的に行われ、通信や面会の自由もなく、粗末な医療を除けば監獄と同様でした。
園内通用券
園券、園内通貨、園金とも呼ばれる、療養所内のみで使用できた通貨のこと。戦後ま間もない頃まで、日本銀行券の使用は許されず、入所時の所持金や家族からの送金は、園側に「保管金」として取り上げられ、代わりに園内だけで通用する金を、施設の決めた額だけ渡されました。入所者から自由に使える金銭を奪いあげた逃走防止の手段でした。


懲戒検束権と監房
満足な治療も受けられず囚人扱いされた入所者は、待遇を不満として職員と衝突。1916年、反抗を押さえ込む目的で法律を改正し、療養所長に懲戒検束権をあたえ、各療養所に監禁室=監房を設置。1931年、更に厳しくした「懲戒検束規定」 を公布。いっさい一切の司法手続きによらず、所長の一存(食事への不平、草木の伐採だけ)で監房へ。入所者の被害は、際限のないものに。

癩予防法の成立
法律第11条施行から22年たった1931年4月、前法を強化改定したらい癩予防法が公布され、隔離対象が放浪・漂泊する患者から全てのハンセン病患者に拡げられました。公立の療養所は国立に移管。軍国主義の下にハンセン病患者は病気を蔓延させる非国民だとみなされ、終生絶対隔離して国力の衰退を防ごうという優生思想・社会防衛論がありました。

無癩県運動(むらいけん うんどう)
強制隔離と根絶のために鳥取県、山口県、愛知県などが先進県となって全国を巻き込んでの患者狩りを官民一体で推進(密告・強制検診・警察による山狩りなど)。患者を収容する際、本人・家族・住まいまで徹底的にしょうどく消毒され、「らい」の誤った恐怖から、患者も家族も村八分や一家離散、商売の廃業、破談など、さまざまな差別を受ける結果となりました。
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患者作業
療養所の予算不足の施設運営のための入所者作業。重症患者の看護、病室付添い、繃帯とガーゼ再生、清掃洗濯、配食、土木や大工、養豚、製茶に至るまでの作業が、重症者以外すべてに対して強制的に。重労働も多く、体調を崩して病状が進み、手足の指を磨滅したり、失明に至るなどの重症におちいる入所者が続出。患者運動によって改善、廃止されたのは1960年代。
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療養所の子どもたち
隔離収容に年齢は関係なく、療養所内に少年舎、少女舎を設置、住環境は悪く6畳に最高5人が寝起。形ばかりの学校での勉強の一方で、大人同様に患者作業も強制され「ガーゼのばし」は、病身の子どもには重労働でした。昭和初期から軍事教練や厳しさを増した患者作業が続き、戦争末期は極度の飢えなどによって病気を悪化させ、多くの子どもたちが亡くなっていきました。

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療養所での治療
療養での治療や看護、不自由者介護は重要でしたが、医師や看護婦、医薬品の慢性的な不足のため、命にかかわる状態にならない限り病人として扱われず。病室のベッドは通路側に患者の頭がくるように並べられ(看護婦が患者の間を回り込まずにすむ)、医師は急患でない限り病室の診察はせず、診察にきた時も玄関からさきには入らずに患者を運び出させて治療しました。

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隔離政策の象徴−光田健輔
1876年山口県生まれ。医師。ハンセン病政策の中心人物で、1898年東京養育院に勤務以来60年間一貫して隔離政策を推進。早くから伝染の恐怖を語り続け、1902年に刊行した「癩病隔離必要論」が後の政府の政策を方向づ付けた。1909年東京の全生病院の院長に就任、1914年には「孤島隔離論」、翌年には断種手術を実行。懲戒検束権につながる懲罰権も提案。

「人間」を診た医師−小笠原登
1888年生まれ。医学者。絶対隔離の非科学性、非人道性を批判した数少ない医師の一人。1926年から京都帝国大学医学部でハンセン病治療にあたり、微弱な感染力で重症でない限り家庭で治療できるとして、強制隔離に反対し、断種も根拠がないと断言。しかし、強制隔離を推進する日本らい学会主流派は徹底的に攻撃、小笠原の学説を一方的に封じ込めた。彼の正しさはその後の時代が証明。

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ワゼクトミー
男性の生殖能力をなくす断種手術。ハンセン病は感染症であったが、東京・全生病院の1915年を皮切りに、全国で患者を根絶して子孫を残さない措置が行われた。断種は、人間の誇りと子孫という未来を奪う行為でしたが、1940年「国民優生法」では拡大解釈され、1948年「優生保護法」は断種対象にハンセン病患者を明記。1996年にらい予防法が廃止されるまで合法でした。

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関連ページ 重監房跡
草津の「重監房」
1938年、群馬県・栗生楽泉園に作られた特別病室入口は鉄扉、わずかな明かり窓だけの建物で、各療養所が特に重い懲罰をかけるべきと判断した患者(当局に反抗する管理上"ふつごう不都合な"患者)が送りこまれる「重監房」(コンクリート床、極端に少ない食事、冬は零下20度に達し部屋中が凍りつく)でした。人権侵害が明るみにでての廃止(1947年)までに92人中、死亡22人。「草津へ行くか」という所長の一言は「死」を意味した。

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本妙寺「らい部落」潰滅
熊本市の本妙寺は古くからハンセン病患者の信仰を集め、次第に集落を形成。1940年7月9日午前5時、県警察署員ら207名で部落を急襲、11日までに118名の患者を検挙。追い立てて路上で検診し、トラックの荷台に押し込み、住居は取り壊され部落は消滅。役員とみなされた9人は法的手続きもなく栗生楽泉園の重監房に57日間拘留。患者への迫害そのものでした。

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三園長発言
戦後、患者組織を作る運動と時期を同じくして、「癩予防法」 の改正問題が国会で急浮上。1951年参議院厚生委員会で5人が参考人として出席し、林、光田、宮崎の3三園長は、隔離の継続と患者への懲戒規定の強化を主張し、そのための法律改定の必要を力説し、患者や新聞から痛烈に批判を受けながら、2年後の「予防法」を成立させる最大の根拠となりました。

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らい予防法闘争
戦後の民主化により生活向上の要求運動は、1951年に全国国立らい療養所患者協議会(後の全患協、現在の全療協)に発展し、1953年の更に罰則を強化した改正法案に反対(各園での作業スト、陳情団の国会前座りこみとビラまき、ハンストなど)。死力を尽くした反対闘争を押し切って、「改正」らい予防法は可決成立。一方で付帯決議を獲得し結束して患者運動にとりく取組む契機に。

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改正「らい予防法」成立
1952年全癩患協(のちの全患協)は、第1回支部長会議を開き「らい予防法改正促進委員会」を発足。厚生省はさらに強化した「らい予防法案」を国会に提出。衆議院の解散で廃案後、改正案を国会に再提出。これに反対して全患協は全国の療養所で1か月にわたる闘争を繰り広げますが、法案は原案通り可決。厚生省は政策の反省はおろか検討し直す姿勢も見せなかった。

ローマ会議
1956年、51か国参加の「らい患者救済および社会復帰に関する国際会議(ローマ会議)」開催。ハンセン病は伝染性が低く治療できる病気であることが確認され「差別待遇的な法律の撤廃」「偏見・迷信をく啓蒙措置」などを決議。特に日本の強制隔離と断種・堕胎による人権侵害の事実に非難が集中。世界が開放治療へと転換する中で唯一日本は、隔離政策をとり続けました。
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竜田寮児童通学拒否事件(黒髪事件)
1954年4月8日、熊本市立黒髪小学校の校門に、「同盟休校」のビラが貼られた。校区内にあるハンセン病療養所付属の保育施設「竜田寮」の4人の児童の小学校通学に反対するPTA一部が、健康でも将来感染するかもしれないという誤解と偏見を受けて「学校をきたないらい病から守ろう」と呼びかけた。差別と偏見がいかに地域にしみこんでいるか、浮き彫りにした事件。

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療養所の「学校」
1910(明治43)年頃から教育が行われたが、正式な学校として扱われず専用施設はなく、大人の入所患者が先生をつとめる寺子屋方式の私的学習活動でした。戦後の学制改革で小中学校とも地元の分校という形で園内に開設。正教員が本校から派遣されたが、最初は教師は帽子、マスクに予防着をつけて授業だった。その後、子どもの入所者が減って園内の学校は閉校。

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軽快退所(けいかい たいしょ)
戦後、治療薬プロミンの投与で病気が治った患者が社会復帰のため療養所を出ていったこと。1950年頃より退所者が出はじめ、厚生省は1956年に「軽快退所準則」を作成。大変厳格で各療養所長が一層厳退所基準を定めることができ、「積極的に患者の退所を行わせる意図を含むものでもない」と断り書きをつけるなど、積極的に退所を勧める意志はなかった。
(詳細説明へ) ハンセン病の「大赦」
1989年1月26日、らい予防法に基づく「外出制限規定に違反した罪」が大赦の対象になったと新聞各紙で予告報道。昭和天皇の死去に伴う「大葬の礼」で実施される法律措置で、18種の対象が並びました。そもそも強制隔離法自体が間違いで、しかも誤った政策の犠牲者を罪人扱いにするに等しいものでした。結果、大赦対象から「らい予防法」 だけが外されました。

現代も残る差別
ハンセン病は差別・偏見の歴史でした。基本的人権の尊重をうたう民主主義の現代にあっても、乗車拒否、入店拒否、地域のゲートボール大会への参加拒否もありました。強制隔離を自己批判した日本ハンセン病学会の会長がらい予防法廃止後に「ハンセン病は強い伝染病で、自分は患者(回復者)に触れるのもいやだ」という、非科学的かつ偏見に満ちた発言を行いました。

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人間回復の橋
岡山県の長島愛生園、邑久光明園は、海に囲まれた隔離施設でした。自由をもと求めて海に飛び込み、速い潮の流れにのまれて命を落した患者も数多い。本州と距離わずか30Mのその海に橋が架けられたのは1988年5月。「人間回復の橋」と呼ばれたこの橋の建設は、17年に及ぶねばり強い運動の末に実現し、念願であった「社会」との行き来が自由に。

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プロミンの登場
1943年にアメリカの新薬プロミンは、ハンセン病に絶大な効果があり、長らく不治の病とされていたハンセン病は治る病気となりました。患者が結束してプロミン獲得運動を懸命に続けた結果、1948年には要求通りの予算を国に計上、治療に「生きる希望」を見いだしました。プロミンは改良が加えられ、現在では多剤併用療法で、完全に治癒できるようになっています。

(詳細説明へ) 「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟
1907年からの強制隔離政策、人権侵害を問う裁判。
1996年、国は「らい予防法」を廃止し、廃止が遅れたことを謝罪。退所者に一定の援助を決定したが、あまりに不十分なものでした。1998年7月31日、人権回復と差別偏見の解消を願い、国家賠償訴訟を熊本地方裁判所に提訴。(原告は東京、岡山を含めて740名余)
熊本地裁で第4次まで結審、2001年5月11日判決。