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■府内病院
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| (レポートはMINEさんによる) この件を調べるきっかけとなったのは、10月に訪れた草津にある栗生楽泉園で出会った方がおっしゃった「昔、大分にもハンセン病施設があったらしいね」の一言です。私たちはこれに全く答えることができませんでした。まだまだ勉強中の私たちではありますが、「灯台もと暗し」とはよくいったもので、まず知っておくべき私たちが住んでいる大分のことを学んでいないことに気づき調べることにしました。 ◇お断り◇ 1996年に「らい予防法」が廃止されたことをきっかけに、公的にも病名を「らい」とは呼ばず「ハンセン病」に改められました。しかし、参考にした本では当時の様子を表現するために「ハンセン病」とは書かず、あえて「らい」という表現を使用したとありますので、著者の意向に添い、ここでもあえて「らい」という表現を使用しますことをご了承ください。 ○府内病院設立までの道のり 時は、室町13代将軍・足利義輝の時代。1549年、のちに多くの大名や庶民に影響をもたらすことになるキリスト教が伝来した。 そんな中、世間では飢えと貧困による嬰児(赤ん坊)殺しが流行していた。豊後へ来ていたポルトガル人宣教師、ルイス・デ・アルメイダがこの現状を見て、孤児院を作ることを計画する。 そして、1555(弘治元)年に孤児の収容施設を設けた。しかし、牛乳を孤児に与えるという当時の日本にはない食習慣をとっていたため、周囲で悪い噂がたち、わずか1年で廃止された。 ※ルイス・デ・アルメイダ リスボンの商人の子として生まれ、平戸に渡って日本との貿易に従事したが、28歳のときにカトリックに入信。多額の金銭をイエズス会に寄付する。日本における慣習やしきたり、作法などに熟練しており、医術・自然現象などの知識にも富んでいた。 ○府内病院誕生 1557(弘治3)年、アルメイダが自ら院長となり、府内病院を設立。敷地内には日本初の医学校も併設していたこともあり、アルメイダから教育を受けたポルトガル人宣教師たちや日本人信者などがともに治療にあたった。また、当時の豊後の領主・大友義鎮も金銭面で多大な協力をする。 この府内病院は、日本初の洋式入院施設をもった病院であり、初めて外科手術を行ったとして西洋医学伝来の先駆であった。また、当時の日本では珍しい、らい患者を診る病院としても注目が集まった。府内病院があった場所については、およそ3つの説がある。 @現在「デウス堂址」の標識のある大分市顕徳町2丁目付近。 AJR日豊線と久大線のほぼ中間地点。 B大分市上田の若宮神社の南あたり。 ※大友義鎮(宗麟) 豊後領主。九州北6カ国を支配した戦国大名。1551年にはフランシスコ・ザビエルを招き、キリスト教を保護するとともに、1578年には自らも洗礼(洗礼名・フランシスコ)を受けるなどした。居城府内(現大分市)を南蛮貿易や布教の拠点とし、教会堂や神学校、病院などを建てた。1582年には、肥前の大村純忠や有馬晴信らと天正遣欧使節団(伊東マンショ、千々石ミゲルなど)を送るなどしたため、遠くローマにまでその名を知られるほどであった。 ○府内病院の概要 ●規模………東西が60m、南北が80m前後の約4800u(約1600坪) ●収容人員…約30名? ●診療病棟…「外科・内科棟」と「らい棟」の2棟 ・ベッド−粗末ながらも木製の洋式。藁を束ねて畳のようにしたマットが敷かれていた。 ・枕−−−白布の袋製で、中身には麦や蕎麦などが入っていた。 ・枕頭台−木箱で作られ、朝夕と堀井戸から運ばれた飲料水と配布された綿を置いていた。 ・服装−−木綿。清潔を保つため、更衣や洗濯に気を配っていた。 ●らいの診療…基本は軽症者が重症者の面倒を見ること(ほとんどが重症者だった?)。診察を担当していたのは外科主任のアルメイダ。当時約1万8千のらい舎があったといわれる欧州で学んだ方法を採用。主に大風子油の注射で治療していた。しかし、何よりも栄養物を与えることを重視していたため、治療効果もあがった。 また、キリスト教ではすでにらいは特殊な病ではないと考えられており、一時期の隔離はされたものの、差別観はなかった。よって病院内でも、どのような看護体制で接すべきか、基本的理念の指導が厳しかった。 ※大風子油 らい病の特効薬として、戦後プロミンという薬が使われるまで長らく一般的に使用されていた薬。熱帯・亜熱帯地方に自生するイイギリ科の大風子という樹木の種子から精製した油。日本に入ってきたのは明治頃といわれているが、当時、南方諸国ではすでに盛んに使用されていたようで、インドや南洋諸国から輸入し、府内病院ではいち早く治療に用いていたといわれている。 ○府内病院のここがすごい! 入院することにより治癒する見込みのある「貧民」たちを収容し、収容患者に対しては現代でいう「完全看護体制」で治療を行っていた。しかも、施術費はすべて無料。この噂を聞きつけ、遠くは関東・東北からも多くの人々が集まった。 また、死亡した患者がキリシタンであれば、病院内にある教会で葬儀をも執り行ってくれた。 ○病院開設の受難 当時、領地内に建物や施設を創る際には、領主の許可が絶対に必要であった。このころの領主・大友義鎮(のちの宗麟)は、アルメイダの考えに理解を示し、認可するだけでなく、建築費用なども援助した。しかし、その認可までには様々な問題があった。 1556年に来日したポルトガル人宣教師、ガスパル・ヴィレラが自国へ書き送った書簡に『大友殿は「病人を治療することには同意したが、貧しい錢民("らい"の人たちのことも含む?)たちを治療する施設をつくることは、重臣のものたちは反対であったので、重臣たちの擾乱の後始末がすむまで病院開設の裁可状が出せなかった」と語った』とある。このように、大友氏の家臣たちはこの貧民を対象にした施術費無料の病院開設にはあまりいい顔をしなかったようだ。特に、らい舎があることに対しては、多くの反対意見があり「大友殿もらい舎をつくることには、内心反対であるのだ」とうそぶくものもいた。 そこで、義鎮は病院に対する妨害がないように日夜、護衛を病院に置いた。 ○病院のその後 その後の病院は日を追うごとに患者数も増加。2年後の1559年7月には増改築され、新病棟ができたこともあり、外来患者は1日200名、入院患者数も100名を超えるまでになった。 そんな盛り上がりの一方で、1560年、アルメイダたちのもとに欧州のイエズス会本部から「医療禁令」が届く。この「医療禁令」とは、『聖職者の地位にあるものは、人間の生命に直接関わる医療施術、生死の判決に関わる裁判官の職に就いてはならぬ』というもので、1558年に同本部での「最高宗門会議」で決議された。 アルメイダをはじめとするイエズス会士たちはこの命令に従い、病院から一切の手を引き、九州一円や畿内を中心とした本来の布教活動に専念した。変わって、日本人の医療従事者へと引き継がれたが、財政難なども重なり衰退の一路をたどる。 そして1587(天正15)年、豊臣秀吉が行った九州平定の際、島津義久の軍が府内を陥れたときに、兵火により焼失したものとみられる。 ※九州平定 1578年、当時九州6カ国の大名であった大友宗麟が薩摩の島津義久に大敗。1586年に宗麟自ら大坂に行き、豊臣秀吉に救いを求めたのに応じて、翌年に四国の長曽我部元親・信親などの大軍を九州に派遣し、義久を降伏させた。 【参考文献】 ・「南蛮医アルメイダ〜戦国日本を生きぬいたポルトガル人」東野利夫 柏書房 ・「日本らい史」山本俊一 東京大学出版会 ・「新版 大分県の歴史散歩」大分県高等学校教育研究会社会部会 山川出版社 ・ アルメイダ病院開院十周年記念誌 ・ アルメイダ病院内研修会館メモリアルホール「府内病院復元模型」(写真) |
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