衝撃の写真との出会い ⇒ わたしたちのはじまり
   衝撃の写真
納骨堂とふるさと  
 


HOME へ

ハンセン病を学ぶ為にお薦めの順番に並べています
    衝撃の写真
    小中高生の為のハンセン病知識
    ハンセン病の歴史
    裁判の経過
    病療養所一覧と
療養所の現在
    回復者からの
メッセージ
    ハンセン病関連
書籍紹介
    ふるさとメモ
(豆知識)

    私たちの想い
■衝撃の写真

栗生楽泉園(群馬県草津町)の特別病室(重監房)の
  「明り取りの窓 縦13cm、横75cm」
     1947年9月21日 日本ニュース社撮影

私たちが、ハンセン病の問題を伝えようと思ったきっかけとなった写真です。

以下は本からの抜粋です。


『明かり取りの窓は高くて小さい故、幾重にも高い壁で閉ざされている房の中は暗く、曇った日には昼夜の区別さえつかなかったという。そして、誰かが掃除をしてくれるわけでもなく、掃除用の箒も雑巾もないから、湿気るにまかせ、冷えるにまかせる他なく、冬は吐く息が氷柱となって布団の襟に下がり、房内にびっしり霜柱が立ったというのだ。』

『中で死んだ人を運び出す話がまたすごい。死ぬのは冬であるから死体は凍りついているのである。そのため、布団ぐるみ運び出さなければならない場合が多かったが、その布団ががっちり床に凍りついているので、鉄挺(かなてこ)でも用意してゆかないと引きはがせなかったというのである。また、この中で死んでいるはずだがと言われ覗いてみるが、布団の中にそれらしい死体はない。周囲にもない。小さい窓から代る代る覗いてみるうちあれではないかというものがあってそこを見ると、片隅に薄ぼんやりと白い塊がある。そこで扉を開け、勇を鼓して中へ入りよく見るとそれが死体で、うずくまったままそこでこと切れ、びっしり霜をまとっていたというのである。まさに冷蔵庫の寒さである。』

・・・零下20度はオーバーではないかとも思ったが、戦後、放送室ができて、夜明け前の温度を放送してくれるようになったころ、よく零下18度があったのである・・・使われはじめたのは1939年から・・・入れられた人の数は92人となっているが正確には分からない・・・死んだ人は22名のようである・・・生きて出はでたものの、まったくの廃人になっていて、健康を取り戻すことなく、間もなく死んでしまった人も30人位いるようである・・・最長444日・・・1946年以降長期にわたる収監者はなく、事実上その年のうちに使われなくなり、翌年の人権闘争終了時に厚生省医務局長東龍太郎氏が、今後使用しない、と言明したのである・・・

出典(写真・文章):とがなくてしす−私が見た特別病室−
     沢田五郎 著/1998年9月20日発行/ぶどうぱん 発行/1200円 ←1916年、収容所(療養所)の中に秩序維持のための不心得者を懲罰する罰則が必要ということで、園長にこれら患者を懲戒する警察権をあたえた。のちに、らい予防法の附則として懲戒検束規定がつけられた。当時の懲戒検束規定には、監禁は一ヵ月を超えてはならないとなっていたので、一ヵ月目に入浴に連れ出し、頭髪を切り再び特別病室へいれたというのである。
(注)1916年、収容所(療養所)の中に秩序維持のための不心得者を懲罰する罰則が必要ということで、園長にこれら患者を懲戒する警察権をあたえた。のちに、らい予防法の附則として懲戒検束規定がつけられた。当時の懲戒検束規定には、監禁は一ヵ月を超えてはならないとなっていたので、一ヵ月目に入浴に連れ出し、頭髪を切り再び特別病室へいれたというのである。