応仁の乱の足跡(公家末光公墓誌より )

現在の岡山県備前市吉永町都留岐(旧大股村)には、
応仁の乱(文正の乱〜正覚寺の陣)の足跡の一つと確認される墓誌の記された藤原末光の墓が完全な形で
今もなお残されている。

大股村 藤原本家 先祖墓

末光墓

墓 碑

藤原家之御先祖様墓
〈藤原末光の墓〉
1)藤原末光墓(墓碑)
2)藤原末光塔(中央)説明文
3)藤大明神(正面)
4)宝筺印塔
※周辺耕地整理前は土中に二重円状の石垣があり現在では埋まっています。


 当該墓碑は、大納言藤光忠卿の一男 末光公のもので、その裏面には四行全七十一字にわたって墓誌が刻まれていたものの、これまでその全容を解読することができず、ここにきて初めて該墓誌(ここにあり)の全容が明らかとなったので、ここにその具体的内容を多少の付記を添えて紹介する。

 

応仁の乱の足跡
今もなお残されている。
「東備郡村誌」和気郡神根保の頃【大服村】▲鳥がなる壘址。浦上家の将明石大和守景行、或いは明石飛騨が荒壘の墟也。▲古墓。藤原末光と云人の墳と云う。里民云、末光は流浪の公家なりとぞ。何の故に此地に墓ありや未考。



末光公の妻の墓。公家屋敷より南へ約30mの場所正面に
「南無(阿弥陀)←不明仏」右一列に「末光公 御臺(みだい)」



墓誌及び墓の研究は明治中頃行っている。また、墓誌については昭和34〜5年閑谷学校三好允太先生の解読、平成16年、17年吉永町文化財保護委員会・町史編集委員会の皆様に拓本。解読指導頂く。墓誌内容の葉室教忠卿、光忠卿については、東京大学文学部内史学会資料を大阪市図書館で発見、詳細判明。

《下の■●の部分をクリックしますと情報がご覧になれます。


◎足利将軍義材公と葉室教忠卿、光忠卿の関係
東京大学文学部内史学会資料

―墓誌内容―

 「(室町第10代将軍)足利義材(よしき)の側近代表である公家 
葉室(本姓を藤原・藤・号を町口)大納言藤光忠卿は、文正の乱(1467年)において、その父である大納言教忠卿とともに親子参戦してのち立ち返った。将軍足利義材と光忠卿は、明応2年(1493年)4月、河内の国、正覚寺の陣に参戦したが敗れて共に囚われの身となり、光忠卿は数日後、殺害される。一族は、隠。跡云々。」

 【葉室教忠卿・光忠卿についての参考文献

 東京大学文学部内史学会発行 史学雑誌第96編第7号中;研究ノート 信楽薫発表『将軍足利義材の政務決裁―「御前沙汰」における将軍側近の役割―』

上記参考文献記載からの抜粋(第39頁)

 「 三 義視・義材父子とその側近

 葉室教忠・光忠父子の履歴には注目される事実がある。応仁二年(1468)十二月、西軍同意として官爵を削られた十名の公卿の中に、義材の父今出川義視と共に教忠が名を列ねている。また、文正二年(1467)正月、当時右少弁であった光忠も官を解かれており、文明九年(1477)五月の勅免出仕のことを記した『諸家伝』(教忠の条)には「去文正乱以来父子在敵陣」と伝えられている。また、『大乗院寺社雑事記』延徳二年十月十四日条によれば葉室家に仕える内者衆の頭分秋田(出羽守宗次)の弟が、以前から義材の供膳を勤める者であったことが知られる。義視・義材父子と葉室教忠・光忠父子との関係の発端については、詳しいことは分らないけれども、光忠らが義材と気脈を通ずる立場にあったことを推測しても、さして的はずれではないであろう。延徳二年八月十九日、葉室教忠は従一位に叙された。この昇進は『親長卿記』延徳二年閏八月十日条に「葉室一品、……」と記されていることから推測されるように、義材の将軍襲職と関わりを持つと察せられる。また、明応二年二月には、義材は当時中納言であった光忠の大納言への昇進を強引に朝廷に奏請した。朝廷では官に欠がなかったため、しかたなく大納言四条隆量を罷めて、光忠を任じた。しかも当官の上首八人・前官の上首十人を飛び越えての昇進であった。義視・義材父子の教忠・光忠父子に対する恩寵のほどが窺われる。 


図書館より

 

正覚寺の陣(新修大阪市第二巻)都の状況
政変の勃発4月23日派兵して義材側近の葉室光忠邸を破却し、さらに義材一族縁者の邸宅・寺庵をことごとく放火・破却した(「晴富宿禰記」)政元の酷薄な性格を反映して処分は惨鼻をきわめ、義材の姉妹が入室していた通玄寺では、殿舎の破却、略奪はもちろん、尼僧の衣装までもはぎ取り、赤裸にして追い払うという有様であった(「北野社家日記」)

河内国の状況
同月24日夕刻を期し、包囲軍は正覚寺の一斉攻撃に移った。水陸の要衝とはいえ、十重二十重に囲まれては一たまりもなく、夜を徹しての火攻めの結果、翌朝巳の刻(午前十時ごろ)ごろまで戦闘の末、正覚寺は陥落した。政長・遊佐長直らは自刃し、畠山尚順はひそかに乱軍の中を紀伊に脱出し、義材・葉室光忠らは足利家伝来の「御小袖」(甲冑)「御剣」を携えて上原元秀の陣に赴いて降伏した。前将軍が陪臣の被官に降伏するという前代未聞の結末となったが、さすがに義材は殺されず、四天王寺舎利院(生野区舎利寺)に幽閉され都へ護送された。公卿の身で河内に従軍した葉室光忠に対しては政元の憎悪が深く、助命を請うたが許されず刺客された。政長譜代の被官は大半この乱で殺され、五月一日ようやく元秀らは河内を撤兵し、四ヶ月に及ぶ争乱は終わりを告げたのである。

 

墓誌による「僧俗一類悉く隠る(殺される)。跡云々・・・
「なぜ大股村に」歴史を刻む!

●大股村の南・高雄山のふもとが和気清麻呂公の屋敷跡の伝承あり、又和気一族の医学用薬草の産地や鉄等の産地であること。
又播磨、備前、美作の境界、交通、要塞の地である事。

●海抜、539mの八塔寺山を中心に山岳仏教徒が栄えた地

●葉室一族[備前の守として季頼(1221〜)、長顕(1350〜)2件、美作の守として2件、備中の守(1549)として4件、播磨の守(1411〜)に任ぜられている。]及び阿野一族[備前権介(1249〜)(1790〜)と2件、備中介(1241)1件、備後権介(1303〜)(1453〜)2件、播磨の守(1452)1件である。特に光忠卿の義父季遠が播磨の守(1452)の頃は、文正の乱(1466)の始まる数年前である。]、葉室一族が播磨の矢野庄の書状が多く関係があった、また親戚一族、大股村等々、現在以上にこの地を理解していた。

●播磨、白旗城の戦いなどによって、赤松一族 周辺地理は都の人々も把握していた。

●豊臣庄広戸村矢櫃の城の項
正覚寺の陣で追われた将軍義植公を逃がした人々(赤松政則及び飯河肥後守細川右京大夫同六郎伊勢守廣戸刑部大夫上月民部大輔等)はいずれも大股村に近いといえる。

●公家屋敷も平安の頃より藤原一族等存在した可能性!又、元弘以来・・・

●寸簸之塵書(P-41)小川御所(日野富子)墓、同書像、磐梨郡の頃・・・省略・・・明応2年義澄へ将軍移りしより、小川御所勢おところへ・・・流浪之有 当村へたよりある事ありて隠れ住たまひ・・・。(大股村へも?村の伝承あり)

●大股村へ何故来村!日野富子の夫は将軍義政、義政の弟は義視、義視の子は義材(義稙) 。平和な時な教忠・光忠・末光と語り合うあいだがら。

●足利10代義材将軍は(1490〜1493)は後に名を義稙と改名し、将軍(1508〜1521)となっている為、末光公も将軍をたより都上か!

●昔、大股村は交通等の要所であった・・・(和気郡誌より)

●その他


上図墓誌は公家屋敷より北西約30mに一族の墓地
墓地の裏山には、樫の大木あり、その上の広場にお堂あり、観音様を祭っていたという。この山を行者山と呼ぶ。墓地は数回整理している。



公家屋敷と行者山、お堂があり焼失した。(樫の木の下が藤原家墓地)


1)藤墓として数基 左前列

2)中央に建替えた自然石は 「鳴呼・・・・追善所」を挟んでいる

3)後列中央部に藤原宗右衛門末秋、 末重等、末吉等

4)大峯大先達権大僧都 大惣院末雅良閑 林光組同行 閑居

大峯大先達権大僧都・・   末雅/秘法書表紙     御書

5)藤原末光の名前は応仁の乱が起こった時代の先祖墓、塔の二基の他江戸時代の末光と刻む墓(1767年)あり、墓の裏に碑文あり
内容(一部省略)「・・・・北村の奥西氏に末光幼少の頃・・・・・おそわった・・・・為後世子孫令知也」と刻んだ先人と奥西家に頭がさがる。隣りに妻の墓武本氏よりとあり(旧明石姓)また当墓地に奥西氏御母の墓がある。今日奥西本家は都会に在住とか、連りを整理中。

末光墓(注記:先祖として他に末光墓および末光塔が田の中に存在する)

襖の中から古文書の一節

 

6)
●藤原宗右衛門末吉の足跡は各地に残していた。大股村の藤原本家は、大藤村に江戸時代分家した。大股村の末吉は大藤村に宝篋印塔を整理し光明真言百万遍の墓を建立し「施主藤原末吉」と銘を刻む隣は観音堂がある、比地にも末吉等の信仰の足跡を残したている。

施主(大股村)藤原末吉と刻む墓。左は墓全景

●伊部の下り松に分家し吉田姓と称す。吉田系図の中に大股村藤原宗右衛門と記載されていた。また同系図には児島郡山邑、石井家の連なりを記載していた。石井家は屋敷跡そして数十メートル裏山に墓地があり少し登ると市内が一望できた。本家は外国に在住屋敷跡より大股村、伊部村、山邑等の往来等の関係、また児島地方の山岳信仰を研究中。

(左写真)藤原墓地より大股城写す。(中写真)八塔寺下り道より大股城写す。(右写真)飯盛山城の頃より永正16年(1519年4月29日)の戦火、従って戦火以前に大股城の築城か。(右端内容)北辰妙見〈藤原康琢〉



7)大股村に近い、和意谷の備前藩主の墓所が寛文7年(1667年)より4年間延べ10万人が要した。また、八塔寺は永正4年(1517年)三石城主、浦上掃部介宗の兵火で8院64坊が焼失、寛文3年(1663年)池田綱政が修理する、しかし寛政2年(1790年)失火し、三坊二ヶ寺となった。このように関ヶ原の戦い後大股村周辺に造営奉行、津田永忠等が往来する。また、八塔寺村にも屯田開墾の指導に陽明学者熊沢蕃山等が公家屋敷にも立寄った。このような背景の中で藤原末光墓、碑文、墓地および古書、系図等が語られている、そして存続していた事に意味をもっている。また、大股村の大股(俣)城〔別名鳥が鳴る城〕を本拠地とした備前明石一族について、「関ヶ原の戦い大坂夏の陣、島原の乱」による明石狩り」等の関係も調査を要す。公家屋敷も浮き沈みの中で公文書等の紛失が有る中で残った襖の下貼りの中にも禁止令等が出てきています。また八塔寺川、金剛川、吉井川周辺に備前明石一族が勢力を伸ばしたが関ヶ原の敗戦後神根村坂屋および大股屋敷と呼び伝承の残る北方村の明石屋敷等はことごとく破壊された。

和気郡史より大股村 は交通の要地

9)宗派は真言宗であるが天台宗等も混在している

藤原家お札保存状態

 

 

 


●赤線部分 (藤原末吉、後世への碑)

上記墓誌は昭和34年〜35年解読
概要:藤原宗右衛門末吉43歳の時、一族の伊部村の吉田氏の一人が僧侶に志願したとき。身分等について御會所より問い合わせあり、末光公の由来、古書、系図を提出御称美、直弟子、住職となって・・・・・後世 知也 藤原末吉 〔閑月常貞位〕  
正徳5年9月11日没(一族の系図の中に住職は多い)

大股(俣)城より備前明石一族が始まる。
公家屋敷より鬼門の方向に八塔寺山がそびえ、朝日が昇る山を
大股(俣)城(鳥がなる城)備前系明石氏とその城館の頃文面は次の通りである。
(国衆明石氏について〜より)

岡山県東部に分派した明石氏は明石大和守景行(?)を最初とし、大和守景行―原三郎景憲―飛騨守景親(行雄)―三郎左衛門景季―掃部頭全登(守重)と代々、戦国大名浦上宗景や豊臣大名宇喜多直家の重臣として活躍したようである。

景行系明石氏は、その居城として大股城(「鳥がなる 城」ともいう)・惣谷山城・山城・働城(「宮山城」ともいう)・北曽根城・保木城・物理城・黒沢山城・松撫城

  • 麦飯山城などの山城・丘城を吉井川やその支流八塔寺川・金剛川・蒲山川沿いなどへ築いている。特に働城
  • 北曽根城・保木城は山陽道沿いの重要地点にあり、経済的な地盤も確保していたようである。

 

和気絹:和気郡:大俣(股)城の頃に
一、大俣城。大俣村に有。同家臣(宗景のこと。)明石大和居城也。宇喜多士帳に、明石久兵衛・同久蔵

・同四郎兵衛など、五千石三千石の身上にて之有り。然れども大和といふはなし。右の内大和の子供か。右の外、當郡に限らず、城と名附る所多しといへども、是皆某所富有のものの屋敷跡、或いは一郷二郷の地頭などの居所也。それ故略するなり。(大俣村=大股村、現吉永町都留岐)


吉備前秘録の「和気郡古城の事」の項に
一、大俣城。明石大和守居す。宇喜多の為に没落す。其子飛騨守は宇喜多直家の臣家となる。其子掃部介全登も直家に仕へたり。


〇浦上宗景武艦より明石掃部頭(全登)は16村より約17.700石明石久茂は2村より876石。明石久兵衛殿は4村より2835石の知行とある。
〇明石全登についてフランス人、パジェスの「日本切支丹宗門史」
〇戦国の明石氏の頃、明石全登関係系図
大股村より備前明石一族が備前および九州黒田藩、秋月藩へ足跡を残す中で、明石全登(守重)について大坂夏の陣(1615年)の一部を「秋月のキリシタン書、著者H、チースリク。教文館」より引用
<年表>
関ヶ原の戦い(1600.10.21)
明石掃部、黒田長政に救出される
明石掃部、長崎へ行く(1601.6)P141
明石掃部、引退して道斎と号す(1601.6)P143
明石掃部、小田に知行あてがわれる(1602.3)
明石掃部、山口に向かう(1605.8)P146
明石掃部、都のイエズス会から援助金受ける(1612.10)P147
明石掃部、戦死する(1615.6.3)P150
神父ロトリゲス ジラン、マカオで死去(1629.10.15)
(同神父は日本に1586〜1614年滞在し国外に追放、マカオにて日本からきた年度報告を整理しローマへ送告していた、当時の外国神父からみた日本の現状・・・・明石一族のことも・・・大部分事実と考えられる。)
同本P150〜158記載の一部を記すと
慶長20年5月7日(1615.6.3)「明石掃部助全登(一説守重は)・・・比時、真田と謀を合・・・幸村も討死すとき・・・。明石小勢なれば忽に打破られ全登が首は水野家人、汀三古衛討とり(注1)・・・・水野勢は残兵を桜門まで追い込み、水野勝成は旗を桜門内へおし立てる」また、大坂の明石屋敷に戦いの当日現場にいた、助かったトレス神父の体験に基づく書簡の頃・・・・・ 「掃部の母モニカ、娘レジナやその他多くの貴婦人外他・・・・何と悲しい光景だったことより、この時、明石掃部一家は大半が死亡。次女レジナおよび二男パウロ内記は難を逃れた。二男パウロ内記は1917年10月神父の名でマカオへ出国した。このパウロ内記は幕府より追跡されていた。」
1637年キリシタン信者による「島原の乱」では明石掃部が生きている風説から幕府は全国に「明石狩」を命じている。大股村にも「キリスト教禁止令」等の書が残っている。関ヶ原の戦いから、大股城を本拠地とした、明石一族は名を改め一世をしのんだであろう。かすかに名主が残す、古城主に明石掃部としるしてある。


襖からの古文書


「参考:著者・フランス人、パジェスロ「日本切支丹宗門史」著者・小林久二「明石掃部の謎」」

〇明石景行の周辺を調べ後述報告予定。

大名宇喜多の家老
〇公家屋敷と明石全登は関が原、大阪夏、冬の戦いで敗れ敗走する中で大股(俣)村も歴史から姿を消し忘却の中で墓誌等が語っていた。
公家屋敷の庭も埋められている。又昔、山崩の地より、五輪墓も出現している。大股村の歴史に再び糸口が見つかる事を念じている。

 


(左)三人兄弟が描かれた掛け軸  (右)藤原末光肖像画

末光公は三人兄弟といわれています。 本掛け軸の他同構図で古い一幅。また50才の頃の同構図一幅存在しています。

 

《一口》プロフィールの中でルーツ等記載しました。
応仁の乱等から反省して良い環境創りのヒントにして、環境改善への貢献を念願しています。    
歴史を学ぶ中で過疎化となった大股村・八塔寺村等の村おこしになることを願っています。
江戸時代の書物に記載されていた「和気清麻呂屋敷跡」は御所が平るとよばれ、地名が残っていた。
平成の世八塔川ダムに埋没した。ダムの堤より真北遠山が八塔寺である。昔弓削道鏡が建立したという道鏡と和気公はその昔通じるものがあった。この八塔寺山麓に一つ二つと解明されることを望んでいます。

(左)八塔寺川ダム  (右)和気清麻呂公屋敷跡案内図

(左)和気清麻呂公屋敷跡説明碑 (中)和気郡史 (右)葉室家系図等

「御所がナル」 和気清麿公屋敷跡、右岸に 記念碑あり■記念碑ができるまで!!

大股村公家屋敷周辺
分家について
大股村、藤原本家より大藤村へ江戸時代分家した藤原墓地に先世万墓の他藤原与惣兵衛門末秋(寛政5年・1794年)、末喬(天保5年・1835年)、末信(嘉永5年・1855年)等が刻んでいる。 また、譜代右エ墓。徒士長野中四郎(天保)・播州富田家(天明8年)等あり。過去帳参照。
分家、大藤村の「過去帳」が三郎兵依衛末喬(天保2年・1832年)によって(写真参照)
より。

大藤村藤原家過去帳

1)藤原末満卿の字について大股村では末光公の相違の研究。・・・墓に刻む名前は全て「末光」である。

2)
大股村に末満(光)住し弟分が大藤村に住したとある。
一方:大股の紛失前(政行氏に貸し出す前) の資料では3人兄弟であり、1人は大股村、1人は伊部村、吉田氏と岡山御家中吉田氏1人とある。また掛け軸では末光公中心に2人計3人となっている。これらの研究中。

3)
藤原未友(?)の後胤とある。末友はいつ頃の方かまた、次にある「法室道泉信士」俗名藤原与三○?末友(?)同一か異なるか昔々の純友の頃との関係も研究中!

4)
末喬が天保2年よりさかのぼること209年とは(1832-209)1623年である。当時は関ヶ原の戦いから大坂夏の陣が1615年(慶長20年・元和元年)である。また明石掃部の戦死は1615年6月3日である。このような背景の中で「過去帳の法室道泉信士」俗名与三○?末友(?)は元和9年(1623年)に没している。この地にも宇喜多家→池田家への移行時敗者の状況も考虜を要す。(例えば名前など偽名等使い、しのいだ事もまた、隠れキリシタン信者との関係等研究)

5)
この過去帳は大藤村・故藤原俊輔一男より提供。また10数年前まで系図があったが同村の政行が持帰り返却しない。紛失大となっている。

6)
大股村と大藤村に分家した藤原は婚姻関係は何回か行われていた。

7)
藤原本家より大股村の分家新宅(シンタク)そして元屋

8)藤原本家より大股村の紺屋(絶える) そして新家(シンヤ)→紺屋の空地に新家より分家し現在紺屋と呼ぶ。元家とは屋号的に見るとイ)昔々この土地に元の家があったのか。ロ)元家の屋敷の条件として湿地とか朝夕の陽のあたりが悪いのか、家相などから、上の土地に家を立て直したのが本家なのか。ハ)この土地周辺では、藤原末光公墓を祭っているのが代々本家である、この事は元家とは昔誰かが住んでいた跡があり、そこに新宅より分家(明治前後)とかまたは本家より分家か、またいつ頃か元屋の墓地および屋敷跡等研究中、しかし末光公の直系ではない事は本家の墓地から疑うよちがない。

新宅(シンタク)新家(シンヤ)の吉田
新宅(シンタク)および新家(シンヤ)の吉田は明治3〜6年の法令によって吉田姓が生まれる,従って江戸時代の墓には大股村では吉田姓はない。何故明治に吉田姓をつけたか。藤原姓の上に吉田(左)近と過去帳などにあった。また伊部村の吉田姓にあやかったと聞いている。

誤った記載に大股村、藤原本家は約50年苦しみ続ける。
理由:出版書に大股村藤原本家を消し分家筋の明治につけた吉田姓を本家の如く記載している事。


昭和33年発行の「八塔寺周辺の民俗」に(誤記した所を示す)

上記の本が昭和33年に出版されるならば、つまり江戸時代の歴史では「古墓」として「大股村の藤原末光の墓・・・公家と云う」である。この上記の本によって大股村には藤原本家が消され分家筋の吉田姓が中心に記されている。また大藤村の藤原姓は大股村の分家筋である。そして大藤村の古塔婆は大股村の藤原末吉が施主と刻み周辺を整理祭っている。このことは当時内容を示した。教育長:藤原政行氏の分家筋が本家と表示する如く、道徳的に最も悪い行為といえる。

編者
/岡山民俗学会(代表:吉岡三平)調査報告書作成/落合高校歴史研究クラブ(校長:井汲裕・代表:仟宝恒治・西本紘二)関係者/吉永町教育委員長(大股の分家の藤原の同株と云う?藤原政行が記中で〈大藤村〉)P-124「古塔婆」の頃に・・・・高さ一尺四寸、九寸角の塔があって正面に藤原未光と彫ってある。共に(大股の分家の)大藤の藤原株と大股の吉田株(本家の藤原株が正しい)の先祖の塔であると伝える。
「註」岡崎春秋通巻42号にこの二基の古塔婆が共に町口大納言、藤原宗頼の〈子孫,光忠卿の子末光公の墓である。〉塔であろうと言う。藤原政行氏の一文である。〈この正行氏の推測に誤りがあった。〉
上記の内容は 大藤村、大股より分家の藤原の分家筋という方である事。
誤記とは藤原末光を語るときは、大股村の藤原本家の先祖墓が末光公である、事実である。 大藤村には末光銘の墓はない事また、大藤の古塔婆も大股村の末吉が施主として祭った事。宝篋印塔は古いが、現在地が、他から寄せたか不明、そして誰の人か、いわれれば不明である。また大股村の先祖墓は「公父町口・・・末光」であり、前ページの碑文内容から宗頼公ではない。宗頼公は当時権力があり、京都の立派な寺、墓地に存在している事。
これらの誤記が近年吉永町史、和気郡史に誤った状態で載っている事は大股村本家の藤原はどのように修正と迷惑等々誰に伝えたらよいか、どなたでも御指導下さい。特に御先祖様等々に申し訳ないとなげいていた本家康琢であった。またP-24ページ「株」の頃に大藤下、藤原(株)(三)として公卿の子孫という大股の吉田(正しくは藤原)と先祖は兄弟であったと伝える。・・・・。当時大股村の過去帳とか大藤村の分家した藤原の系図を藤原政行氏は持ち帰り未だかえさず両家で申し出ていたが他界し弱っている状況である。
上記の事はこの村の恥部であるが私が本家であるといっても友人等が疑う事40〜56年がまんの中で記することとした。このような人間関係、分家、親戚 、村づきあいの環境改善も研究中。

公家屋敷の今後の研究

1)応仁の乱(正覚寺の乱) で敗れその末光公が御先祖となった。一方この土地の屋敷の主をたよって逃げのびて来た場合、この屋敷本来の家系があった可能性ある。

2-1)
伝承の中で、藤原純友の流れともいう、この屋敷より数kmに純友部大三善文公が戦い敗れた地(天慶3年・880年)赤城郡八野郷石窟山の合戦あり。

2-2)
藤原成親の流れともいう。
備前に流された、一族は備前、美作の守としてこの地を知っていた。また光忠卿の一〜十一代前は号を町口姓を藤原宗頼卿の妻は後島羽上皇の乳母であり、児島に、寺等を祭っている、そして宗頼卿の叔父が成親であった。つまり成親とは血が繋がっている。

3)
この地に太平記と関する中で
末光と同音の季光について関係について研究すると藤原鳥丸家の三人兄弟の中に季光が存在し将軍足利家および日野家とも深い関係あり。

4)
末光と季光と同じとき、美作姓に季光ありその他の研究中

5)
末光の「末」は「徳」 と解釈あり。末光の名は他に幼少号等の研究を要す。

6)
碑文の「公父町口・・・・・跡云々一男藤ノ末光」 この中で公とは末光を示す。中で父は町口・・・・光忠となり、光忠の一男末光となる。
一方、碑文の解読の中で「跡云々」の字を研究する、研究等の指導をあおぐこと(例、跡→政、等に読めないか。するとこの地、政資とか政光とか、研究を要す。)

7)大股村先祖の墓で末光墓と末光塔として末流閑居とある。また本家墓地の末光との研究中。

8)
吉永保・春日神社文書・大明神相撲田楽番付板、吉永保・・・二番末光・正和4年(1316年)あり。また、吉永保内に末光の地名が残る。

9)
平安初期活躍した和気清麿公の屋敷跡伝承および八塔寺の開基は弓削道鏡という。また一族は医学等に優れ当地の薬草より神根薬・飯ノ成(井ノ成)薬等をつくり都へ運んでいた。飯ノ成とか検校畑(けんぎょばた)等は当時、薬草に関係していた。またその足跡が八塔寺の薬売として続いていた。これら薬草を集める場所が本家、元屋などの大股村が関係するのか研究中。

10)
伊部村/吉田姓について吉田右(左)近将監、藤原末光の吉田と関係する。各系図の中に吉田四右衛門「正光定心○」・是空法師、良翁法師、法印義海、法印宿義等々続き寛政の世へ連なっている。吉田氏は新田造りとの関係有無研究中。尚、大股の吉田姓はこの吉田右(左)近将監より明治になってつかたもである。それ以前、本家より分家した紺屋等藤原姓であった。また、末光の三人兄弟の中で伊部の吉田あり、また岡山御家中の吉田とは新田に関係の有無。

11)今後数十年先の問題なるか
平成の世に吉永より 入村した新しい藤原姓あり。公家屋敷の南方薬50m先畑に立派な墓を建てています。人間社会では本家、分家、兄弟、親戚、村、関係に道徳等がない時代が増々続けば郷土史にも載らず、強欲な強い方々によって、悪が正論にもなる。これらの心の環境問題を分析、対策研究中。

12)
その他


平成17年9月22日 備前市吉永町都留岐(大股村 藤原本家)藤原康琢一男 孝光作成
修正 平成17年12月30日 (大股村本家)藤原孝光〈みちひろ〉