第五章 現代

 

    第一節 終戦と三重

 

 一、終戦時の三重郷

新生日本と三重 昭和二十年八月十五日、終戦の詔勅が天皇自らの放送によって全国民に告げられた。この日、三重町付近は七月末から続く快晴酷暑の天候であった。正午、住民は三三五五最寄りのラジオに聞き入ったが、雑音交りでよく聞き取れないまま、なかには、戦局が重大となった、一層奮励せよとのお言葉だ、というものもあったが、やっと「耐ヘ難キヲ耐ヘ、忍ヒ難キヲ忍ヒ」ポツダム宣言を受諾したとの戦争終結のご宣言だと分かり、皆茫然自失した。

 その夜から空襲警報のサイレンが鳴らず、明るい電灯が戸毎に輝いて、住民は平和の到来を喜んだが、今後どのようになるのか不安が募り、右往左往するのであった。国内には徹底抗戦を叫ぶ者もあり、戦時統制からの解放を喜んで自由奔放に動く者あり、騒然たる日々が続いた。この間、内閣が更迭して終戦処理に忙殺されるなかに占領軍が進駐して来た。

 やがて九月二日、東京湾上のアメリカ戦艦ミズリー号の甲板上で降伏文書の調印が行われ、ポツダム宣言に規定する降伏条項が速やかにかつ忠実に実行されることとなった。このとき日本の代表となったのは、外務大臣重光葵と前陸軍参謀総長梅津美治郎とであるが、二人(海軍代表に推されたが固辞した前海軍軍令部総長豊田副武を加えると三人)とも大分県人であったことは奇縁である。特に重光葵は三重町生まれで、父君重光直愿が明治十九年から二十四年(一八八六〜一八九一)まで大野郡長として在任中、公館であった大庄屋多田五十馬(当主善雄の祖父)宅で出生、三歳まで居住した深いゆかりのある人である。このとき重光全権は、降伏文書の調印という我が国有史以来の悲痛事態に対処して、終始、沈着立派に大役を果した。しかも、その直後も毅然として交渉をつづけて、マッカーサー総司令官に、その意図していた軍政の布告を思い止まらせ、間接占領方式をとらせた功績は大きい。

 軍政は布かれなかったが、連合国最高司令官総司令部(GHQ)は、やつぎ早やに指令を出して占領政策を断行した。国家神道への保障廃止、婦人参政権の賦与、労働組合の組織援助、警察制度改正、農地解放、財閥解体、六三制をはじめとする教育制度の改革、戦争責任者の追及、公職追放などが主なるものである。それらは三重地方にも大きな旋風を巻きおこし、折からの食糧増産や強制供出などとともに、住民や町村当局を悩ました。

 その後、各方面の討議が熟して日本国憲法がなり、二十二年十一月三日に公布、翌年五月三日に施行された。象徴天皇制、主権在民、戦争放棄、基本的人権の保障、二院制民選議会、地方自治などを柱とするものである。これで、日本国の進むべき道や国民の権利・義務が明確にされた。つづいて幾多の曲折があった後、平和回復への道が開らけ、二十六年九月、サンフランシスコの講和会議で講和条約並びに日米安全保障条約が調印され、十一月国会で可決・批准を終え、二十七年四月二十八日に発効した。これをもって、ようやく五年余りにわたった占領から解き放され、いよいよ新生日本の歩みが始まることになる。

軍の終末と占領軍の進駐 終戦の詔勅に接して、三重地方で最も動揺したのは軍関係者であった。天風・母倉・松園らの各部隊では、それぞれ隊長が武器・弾薬・その他の軍物資の整理や書類の焼却をさせた上、順次除隊を下命した。このとき俄かに敗戦部隊となったため、隊員は秩序を失い、規律のない行為が続出した。

 三日を経た十九日の朝、天風隊長細田留喜陸軍中佐が自害した。部隊長室に当てられていた三重農学校の図書室の中で、自らの足で小銃の引き金を引いての覚悟の死で、夫人・船山副隊長・岩本農学校長宛ての遺書を蔵していた。終戦直後の一部の隊員の行動を悲しむとともに、軍管区や司令部などからの情報がさまざまに入り乱れて除隊命令の判断を誤ったのではないかとの苦慮もあって、すべての責任を一身に負っての自決であったようである。翌日、しめやかに葬儀が営まれ、広島から富士川師団参謀が飛行機で駆けつけて参列した。大原飛行場に降り立ったのはこの一機だけで、四か月の日子と、延べ数万人の学徒・住民の協力で作られた施設は無惨にも見捨てられることになった。

 飛行場の敷地は、軍の借り上げであって、借り上げ代が終戦の日から順次支払われ元の地主に戻ったのであったが、迷彩のための樹木や膨大な数の敷石などまたたく間に付近住民によって取り除かれ、開墾されて食糧増産に供せられた。

 事実上の連合軍の日本占領は、八月三十日のマッカーサー元帥の厚木上陸にはじまった。大分には、十月四日のベーカー大尉らの先遣隊につづいて、同十三日にコリンス中佐を隊長とする第五海兵師団第五戦軍大隊が進駐し、その他の隊員が大野郡にもやってきて、三重町の橋本屋を本部とした。軽快にジープで駆け廻わり、役場や学校を調べたり、旧軍事施設を点検したり、隠匿資材を摘発したりした。銃砲刀剣類の供出が強制されたのもこのときで、隠匿の発覚を恐れて三重町民のなかに自殺するなどの犠牲者もでた。

引揚者と沖縄県人の援護 終戦の日、いち早く大分市や佐賀関町などの海岸地域に米軍上陸のデマが流れ、婦人・子供を乗せた臨時列車が久大線や豊肥線に走った。婦女子は危険だから避難せよとの情報が伝わったからであった。知人などをたよって三重町駅に降り立った人も多く、一時騒然となった。二、三日後、米軍は野蛮なことはしないとの警察の呼びかけによって大部分は引き返したが、そのまま三重町付近に住み着いた人もいた。

 十六日に正式の武装解除命令が大本営から出て内外地から陸続と復員軍人が帰郷した。傷痍者も多かった。同時に戦場からの戦没者英霊の帰還が相次ぎ遺家族は悲しみの涙にくれ、住民も今更ながら戦争の惨禍に胸をうたれた。このころ、三重町の麻生益夫らが発起して正竜寺に集まり、遺族相互の慰霊と援護について協議懇談を重ねたが、三重町戦没者遺族会の濫觴で、遺族会としては県下で最も早かった。一方、内地戦災地をはじめ朝鮮・満蒙・台湾その他海外からの一般邦人の引き揚げが始まるにつれ、それら引揚者の援護が問題となり、三重町でも内外戦災引揚者同盟会が生れた。

 十月、フィリピン引揚の沖縄出身の軍人や県人の引き受け援護が九州各県に要請され、三重郷各町村にもその割当があった。各町村では協議の上、地区単位で受け入れて援護するとともに、個人の篤志家にも協力を依頼することとなった。物資不足等のためいろいろと困難が伴ったが、戦禍を受けて帰るべき郷里を失った沖縄県人の窮状を察して心よく援護に当たった。地区によっては、寺社の一隅・公民館・消防小屋などを提供し、また仮小屋を急造したりなどして、それぞれ十数名宛受け入れた。援護は沖縄の事情が好転に向かう二十一年の秋まで続いたが、その間、始めて白雪を見て喜ぶ子供があり、出産する婦人があり、また税務署や役場に勤める人もあるなどして、町村民との間に美しい融和交誼がみられた。三重町市場の篤志家で和傘製造業の赤嶺和豊に引き取られた元軍人の高良光亀は、懸命に働いて和傘や大工の技術を憶え、沖縄に帰県後、成功して実業家となったが、滞在中の恩義を忘れず、未だに厚い情誼を続けているという佳話も遺されている。

戦後の諸情勢 軍事施設ではないが、大分燐寸会社は戦時の緊急対策として設けられたもので、燐寸の早急製造開始が期待されていた。ところが、建築や設備資材の輸送難や現地での労力不足が禍して、終戦時までに間に合わなかった。二十年十一月に至り、古味社長や上松工場長らの懸命の努力により建築と設備が完成した。総坪三千六百坪、建坪千坪、二一棟より成る地方まれに見る大工場で、直ちにマッチの製造が開始された。将来工員規模数百名が見込まれ、製品は九州全域の家庭を潤わすことになっていたが、発売早々、「大根マッチ」と呼ばれて何故か不評であった。品質資材不良で発火に難があったからで、「大根マッチ」とはレッテルの意匠が大根であったが故である。そのうち、待遇改善を求めて工員がストライキを起こすなどのこともあり、朝鮮戦争勃発後、朝鮮への輸出も試みられたが、二十六年十月のルース台風の際に出火するなどして、売れ行き不振のまま操業中止となった。その後、しばしば再開ないしアルコール工場等への転換などが図られたが功を奏せぬまま閉鎖された。現在、その敷地に住宅並びに三重建設有限会社が建っている。

 食糧不足の厳しさは、戦時中にも増して深刻となり、消費者はわずかな配給に頼り、買い出しに奔走して飢えをしのいだ。街の飲食業者が瑞穂食製造所をつくり、久知良の久丸酒屋の倉庫を借り受けて海草加工の食品を製造販売したのもこのときである。調味料も味噌・醤油等すべて配給で、食塩も岩塩が微量に渡るだけであった。二十年秋、大分県農業会大野支部長の波多野政男が主唱し、大野・直入・玖珠・日田・四郡に呼び掛けて自給製塩組合を作り、大分弁天海岸で製造を開始した。この事業に三重郷各町村も協力し、薪の供出と労力提供を行い、製塩し家庭の窮状を打開した。施設の建物は旧造兵廠のものであったが、製塩廃止後新田村が払い下げを受け中学校の校舎とした。

 

 二、地方自治法の施行と対応

新しい自治の確立 日本国憲法には「地方自治」という一章を設け、首長及び議会議員の公選などの規定とともに、「地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基づいて、法律でこれを定める。」(日本国憲法第九十二条)とした。旧憲法になかったことで、ポツダム宣言の受託により要請された我が国の民主化を、末端組織である地方公共団体まで掘り下げて、徹底的に浸透・実施するための措置である。憲法施行の二十二年五月三日、旧制度が廃止されて地方自治法が施行された。別途実施された警察制度・教育制度の改革と併せて、国家の統制を抑制して自主性・自律性が強化され、住民の総意に基づき産業・文化・福祉の向上を実現するための地方制度が新しく生まれたのである。

 旧制度との大きな違いはおおよそ次の点である。婦人参政権の付与。選挙権の年齢要件を二十歳以上に引き下げ、被選挙権を二十五歳以上の男女に付与。首長の直接公選。部課を設けることができる。選挙管理委員・監査委員の設置。住民に条例の制定改廃、事務の監査、議会の解散、首長・議員の解職等の直接請求権付与。議会を自主的な議決機関とし執行機関の議会への出席はその要求により行う。議長・副議長を議員中より選挙。常任・特別委員会制度。同上委員会は付議案件については休会中も審査ができる。定例・臨時議会制。休会中も議会活動ができる。その他。

 以上のうち、一部には自治法の施行をまたず旧制度において実現されたものもあるが、大きな変革は府県の完全自治体化と知事の公選制であって、大分県では二十二年四月五日の第一回選挙で、官選知事であった細田徳寿が立候補して初の公選知事となった。他の大きな変革は、婦人への参政権の付与で、昭和の初期から普通選挙制と称せられながらも男性のみであったのに、初めて政治への平等な参加が認められたのであった。前年の衆議院総選挙において全国で三九人が当選していたが、二十二年四月三十日の大分県議会議員選挙で三重町の長田シスが大野郡で当選、大分郡の佐藤テイと並び初の婦人議員となった。長田県議は、つづいて二十六年、他の二人とともに当選し、県政、特に県民の生活問題と取り組み活躍した。

 この自治法の施行については、各地で説明会を開くなど軍政部の積極的な指導が行われ、各町村執行部でも法規に取り組み、条例の制定や組織の改廃を行い、民主化の早期実現に努力した。この間、首長では三重町で伊東東町長が、戦後、自発的に辞職した後、新たに町政を担当した新進の伊藤又男町長も翼賛壮年団長であった廉により辞職するなどのことがあったが、二十二年四月五日に選挙が行われ、一方、暫定的に任期が延長されていた議会議員についても四月三十日に選挙が行われ、それぞれ次の者が選ばれた。

 

 《町村長》(菅尾)藤田敦美 (百枝)神品安久 (三重)首藤卓美 (新田)佐藤束

 《議会議員》(菅尾)伊美利夫 大津日露 甲斐伝 佐々木静 土谷十郎 土谷不美夫 十時肇 難波栄

  波津久益美 深田猛彦 藤田秋生 三浦益三 村上清 村田為雄 森迫秀男 和田幸弘

  (百枝)麻生勘解由 麻生照夫 麻生林 加藤明生 川辺角一 神田一丸 神田善 神田直志 神田直利   久保田成美 神品一善 後藤靄 後藤恵 佐保豊茂 長瀬碩夫 羽田次生 

  (三重)赤嶺和豊 赤嶺一 赤嶺文利 赤嶺益生 赤嶺磨 芦刈岩見 足助五十一 麻生覚 麻生新助

  麻生武士 麻生益夫 大観慈長 岡本和 神山広喜 工藤国臣 桑原文士 小並鶴家 佐藤武夫 高野登   玉田虎三 玉田実 土谷清太郎 渡海武 平岡英太郎 曲正文 森迫隆雄 

  (新田)赤嶺芳弘 足立隆 江藤定男 加藤喬木 佐藤明 佐藤昇 佐藤軍平 首藤孝士 多田一三 

  多田忠恕 利光琢磨 中屋直 波多野勇 藤田賢 三浦静 矢羽田寿武

 

右の首長や議員は、新自治法に基づく最初の栄ある公選者で、四年の後、三重郷合併によって各町村議会議員の職を退くことになったが、戦後の我が国最大の課題であった地方分権の確立と民主化のため尽力して、町村発展のため大きな成果を上げたのであった。

自治体警察の設置と廃止 終戦後の地方住民にかかわる大変革の一つは警察制度である。従前の警察は住民の財産保護や犯罪捜査等の域を越え、思想の自由や個人の行動を抑圧することも多く、これは警察が国家権威を行使するところに由来するものであった。そこでGHQ(連合軍総司令部)は、戦後の日本の警察制度に関する具体的指示を片山内閣総理大臣への書簡として送ってきた。形式は書簡でも占領下のこと、実際は命令であったので政府はこれに基づいて警察法を制定公布した。

 昭和二十三年三月から発足した警察制度がそれで、従来の国家支配を排除し、警察力を地方自治の原則によって地方に分散しようとするものである。警察はすべて公安委員会の管轄下におかれ、人口五千以上の市街的市町村は自らの警察を自らの手で維持し、五千未満の自治体だけが国の機関である国家地方警察の所管に属する。相互の協力は認められるが費用の負担が定められ、ただ国家非常事態の場合国が全警察を統轄することとなった。捜査や治安の維持の面から異論があったが、民主的な理想を実現しようとするGHQの意向のもと、全国にもれなく実施された。

 三重町も該当町として二三年三月七日、公安委員会を置き、町警察署を開庁した。公安委員長には大塚俊之が当り警察署長に宮崎満警部が任命され、町議会で議決された予算でもって警察業務が運営された。独立庁舎がないため当初国家地方警察大野地区署(もとの三重警察署)の一部を借用したが、国県よりの補助、町費のほか町民の寄附金を集め平吹官公署敷地に二階建庁舎を新築した。

 ところが、昭和二十五年の朝鮮事変勃発は、警察予備隊(後の自衛隊)の発足をもたらすなど治安体制の強化が迫られ、警察制度の一部が改変された。その主なるものは、自治体警察についてであって、自治体警察をもつ町村では実情に応じて住民投票により警察を維持しないことができることになった。すなわち、警察の存廃について住民の意思が問われることになったのである。このとき、県下では鶴崎町等一〇町で異論少く議会の議決を経て住民投票を実施し廃止を決定したのに反し、三重町では長州町と共に存廃両論が対立した。

 存置論は、自警は町に置かれた公正な公安委員会の下に運営され、民主的で親しみ易く公平である、費用も多くが平衡交付金で賄われさほど町の負担とはなっていない、地方自治の本旨に副う立場からもあくまで町民の手で警察を維持育成すべきである、というもので、廃止論は、自警は検挙率が低く捜査活動が限定され、警察人員の数も少く非能率であり、増員等しても平衡交付金の増加は望めず町負担の増加は必至である、住民投票に付してその結果に従うことが民意を尊重するゆえんである、というのである。

 八月七日の町議会で一六票対一二票で住民投票実施が可決されたものの、片方が存置同志会を組織するや、他方は廃止同盟会を結集するなど町民を真二つに分けた。両陣営の抗争は、ついに投票前夜、乱闘騒ぎを惹起するなど激化したが、九月七日の住民投票実施の結果、廃止賛成四五〇二票・廃止反対二三〇二票となり、廃止が決定した。すなわち、九月三十日をもって三重町警察署は廃庁、十月一日から大野全郡を管轄する国家地方警察三重地区警察署が発足した。署長には田原正彦警視が就任、職員・備品等の国警への引き継ぎが行われたが、宮崎署長・深田署僚は国警入りを辞して他の自警に転じた。

 かくて、熾烈を極めた自警問題も沈静したが、その後、講和発効とともに国家の大勢は、治安の確保や捜査の実効を上げる必要から更に警察法の大改正を行い、昭和二十九年から全国の自治体警察を廃し、都道府県警察一本に機構を整備した。現在、三重町は大分県警察三重警察署の管轄下にある。

三重町役場庁舎の新営 役場庁舎は町村行政の中心で中核施設であり、菅尾・百枝・新田各村では、それぞれ浅瀬・百枝・久田の地に早くより庁舎を建設して現代に至った。ところが、三重町では泉原の学校隣にしばらく在った以外、いろいろの理由から一定の地に庁舎を建てる運びに至らず、長く民家を転々とする有様であった。大正九年(一九二〇)に市場泉原の小学校隣に庁舎を建築、つづいて大正十五年(一九二六)に廃止後の大野郡役所跡に移ったのも束の間、昭和十七年に大野地方事務所設置の際に県に貸与して以後、再び民有家屋や学校の一部へ移動を続けた。二十二年、戦後改選の第一回議会で自治確立のため緊急課題として庁舎問題を取り上げ、市場平吹の土地に建築することを決定した。もっとも、前議会時代に敷地として駅前二村良一・その他諸氏の所有地を購入済みで、その地に大野町吉岡興業所有の田中・緒方両劇場の建物を買収して建築する計画が進められていたが、将来計画としては適当でないところから新構想が樹立された訳である。曲建築常任委員長はじめ議会議員等有志の尽力で建築許可を得たものの、財政並びに資材事情が悪く、事業遂行は極めて困難であったが、多額の町民の寄付を仰ぐとともに、整地などに特に青年団の協力を受けるなどして、二十二年秋、大分市後藤組の手によって施行されるに至った。

 二十三年十月に竣工し、同時期に落成した裁判所・検察庁とともに盛大な祝賀行事が挙行された。広々とした庁舎には、肥料倉庫等の提供を受けた関係もあって、三重町農業協同組合の事務所に一部を貸与、構内にパン工場も付設されたりした。農協が他に転じた後は、引き続き合併後の新三重町の中核機関として使用され、四十九年に庁舎が新営されるまでの二十六年間、町民の役場として親しまれたのであった。

官公衙の設置と推移 三重町役場庁舎の敷地となった平吹の土地は、市街地の南に拡がる平坦な元水田地帯で、政治・経済・文化・交通の中心として官公衛を設置するにふさわしいところである。その見地から役場庁舎建築に際し、併せてその用地を確保しておくことになり、農地所有者の特別の協力を仰ぎ、農地買い上げ計画の中に織り込み、ほぼその目的を達成した。まず都市計画幹線街路が中央に貫通し、その両側に順次諸官公衙が建築されていった。多くは戦後制度の改正によって必要となった機関で、おおよそ次のとおりである。

 

 三重簡易裁判所・大分家庭裁判所三重出張所・三重区検察庁・三重税務署・三重労働基準監督署・三重公共職 業安定所・大分統計調査事務所三重出張所・大分食糧事務所三重支所・三重保健所・三重町警察署(のち町公 民館に変更)・三重町商工会館

 

 右のうちには移動したものや取り壊したものもあるが、同地域には引き続き、三重電報電話局・大分県総合庁舎(三重事務所・出納事務所・福祉事務所・土木事務所・保健所・農業改良普及所・病害虫防除所・家畜保健衛生所・養蚕指導所・竹田教育事務所三重出張所)・大分地方法務局三重出張所・大野郡椎茸農業協同組合・大野郡東部消防組合本部・同消防署・大野郡急患センター・三重勤労体育センター・三重町中央公民館・三重町立図書館・三重町森林組合などが建てられた。このように町の中心部に施設が集中していることは県下でもまれで、事務連絡並びに住民の用務に至便なため一般から喜ばれているが、歴代の町当局者が町発展に積極的であった成果である。

 なお、時期は三重郷合併後のことであるが、記述の都合上、ここに大分少年院のことを記述しておこう。昭和二十七年四月、法務省当局が九州で特別少年院設置の用地を探している情報がもたらされた。少年院は、法務省の管轄に属する矯正施設で、非行少年を収容し、その矯正教育を行うところで、特別少年院は、そのうちでも非行性の進んだ一六歳から二〇歳までの少年を対象とする国立の施設である。

 三重町では調査研究の上、議会を開き、その施設を誘致することを決定した。気の毒な少年の更生のために力を貸すことは大切なことであり、同時に国の施設を町内に迎えることは町の発展策の一つにもなるとの見地からである。直ちに各種団体の協力を求めた上、当局への陳情を重ねた。九州内に競争相手もあり、また、町内にも反対の意向もあったので迂余曲折があったが、三重町の誠意と立地条件の優秀性が当局から認められ、六月末に至り三重町設置が決定した。設置場所は、三重町駅背後の上赤嶺・下玉田・百枝一帯の台地で、地域内には農地のほか旧競馬場・国有林があり、面積十五町歩にわたる地域である。町では早速用地の折衝に乗り出したが、農地解放とからんで転用や耕作権問題等困難な事態のなか、関係者の理解と協力が得られ、法務省希望通りの敷地の確保ができた。

 町では契約条項に基づき整地作業も行ったが、建設は勝呂組の手によって二十八年四月着工、三十年三月開庁の運びとなった。少年の収容はこれに先立ち二十九年三月より始められ、ここに関係者の尽力と地域民の少年への愛情が結実した。国の大きい施設を誘致し、その建設に協力したことは三重町はじめてのことであるが、この大きな事業が遂行できたことは、三重町合併直後で地の利と人の和があったことによるものであろう。

町章の制定 国に国旗があり、家に家紋があり、団体に記章があるように、町民の共同体である「町」にも「町章」があるということは意義あることである。戦後復興期を迎え、まさに町勢が躍進しようとするに際し、三重町民のなかから「三重町章」の制定を望む声が高まってきた。そこで町議会の賛同を得て、昭和二十四年に町長を委員長とした町章制定委員会を設けて公募することとなった。短期日にもかかわらず、応募数一六四点にのぼり審査に付されたが、そのまま採用できる作品が得られなかったので、六月十三日審査委員の合議で左記の記章を町章に制定することに決定した。

 

 意匠 三重の円を規格どおりに図案化したものである。町名「三重」を表現するとともに、三重町の円満と平    和と無限の発展とを象徴する。

 規格 大きさは自由であるが、中心点より最内円の内側に至る間隔と最内円の内側と最外円の外側との間隔の    比は二対一であるとともに、各円の巾と各円の中間の巾とは同一の巾であること。

 

 三重町章は制定後、簡明直截ながら深遠な意味を内蔵する町章として、公式・非公式を問わず広く愛用され、二十六年の新町誕生に当っても町名が三重町と定められたので引き続き利用され、町民の意識昂揚と融和連携に役立っている。

大野川河水統制事業 大野川は県下最大の河川であるが、三重郷の地域では小規模の潅漑用水として利用される以外、未利用のまま放置されてきた。しかし、その豊富な水量を水力発電並びに潅漑用に利用するとともに、出水期に備えるため河水を統制することは緊要な措置で、つとに戦前から計画されていたが、戦時中の資材及び労力不足のため中止されていた。戦後、食糧増産と電力不足緩和のために緊急対策として取り上げられ、実施に移され、昭和二十三年から本格的に着工、二十七年に完成を見た。

 事業の中核は川辺ダムで、百枝村の川辺―向野間で大野川を堰止める、高さ八.四b、長さ一〇一.五bの溢流型重力式コンクリート造取水堰堤である。そこから毎秒二四.五立方bを取水し、なお南野津村柳井瀬地内の三重川の取水も併せ、送水管により戸上村地内の水力発電所に送り発電するとともに、下流の大分郡内の開田・補水の潅漑に供するのである。事業は国の補助と県起債により、大分県営で五か年計画で実施された。工事期間中、百枝及び菅尾村内に工事事務所や関係施設が設けられ、地域内で多くの労働者が稼働するなどして、一時は河水統制ブームが見られた。

失業対策事業と都市計画事業 大野川河水統制事業の終了により、多くの失業者が出るようになったので、その就労を斡旋するため三重町では、急遽、失業対策事業施行の許可を受けた。当初の規模は一日平均三〇人で、対象事業として駅前通りの道路の舗装工事を行うこととした。その後、順次規模を拡大し、町民福祉の増進に併せて、多くの道路・公園・施設の建設に努めた。

 なお、三重町ではこれに先立ち、昭和二十三年に都市計画実施地域の指定を受けた。まず、二十四・二十五両年度において重要幹線街路整備事業として高太郎―深田線一三九七bを完成したが、その後、道路を延長し公園等の計画も取り入れて、都市的形態の整備充実に当たった。

 

 

 三、農地改革と農業委員会

農地改革 昭和二十年十二月九日、占領軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥は、日本政府に対し農地改革を指令し、日本社会、特に農村に於ける民主主義発達を阻止する障害を根絶するために、農地を不耕作者より耕作農民に公平かつ確実に移転せしむるための積極的措置を講ずるよう命じた。これを受けた政府は、農地調整法(昭和十三年施行)を改正した。いわゆる第一次農地改革である。この改革では、在村地主の所有する全国平均五町歩を越える土地を解放するとしていたので、中小の在村地主には影響がなく、したがって不徹底であるとして連合軍総司令部に拒絶され、第二次農地改革が進められた。「自作農創設特別措置法」と「農地調整法改正法」が二十年十月二十一日に公布された。その内容の骨子は次のとおりである。

 

 (一)不在地主の全小作地の解放

 (二)在村地主の所有地は北海道を除き、内地平均一町歩以内。

 (三)自作地は内地平均三町歩以内。

 (四)農地は直接国が買収し、小作人に年賦で売却する。

 (五)農地の価格は、第一次改革案の価格とする。

 (六)小作料の金納化・最高小作料の制限(田二五l・畑一五l)

 (七)小作地取上げの制限(農地委員会の許可を必要とする)

 (八)市町村農地委員会の構成は、地主三、自作二、小作五の割合とし、委員を公選する。

 

 農地改革は、直ちに実行に移され、二十一年十二月下旬には市町村農地委員の選挙が行われ、旧市町村毎にそれぞれ一〇名の委員が選任され、事務局を設けて、(一)農地の買収、(二)農地の売渡し、(三)牧野の買収と売渡し、(四)農地の所管替え、(五)農業用施設の買収、(六)登記等の事務を執行した。

 昭和二十二年初めから着手し、ほぼ二年間で大半を達成し、二十五年まで約四か年を要して完了した。この間、委員会活動を助長するため各地区に補助員が設置された。旧町村ごとの地主よりの買収と小作者への売渡しは別表のとおりである。かくして、有史以来の大事業と言われた農地改革は断行され、全耕地面積の約三〇lに当たる六六四町歩が二千三百余りの農家に売り渡され、耕地の所有形態が大きく変化し、「土地は自ら耕作する者が所有する」の原則によってほとんどが自作農となった。短期間に、強権によって実施された改革であったため、各地に若干のトラブルもあった。ともあれ、小作料も物納より小額金納へと変わり、土地にまつわる旧慣も一変した。この農地改革によって農民の地位の安定は生産力の増進となり、農村の民主化も進み、日本農業史上画期的なことと評されている。

農業委員会の成立 敗戦後の政治の最大の課題は、国民の食糧確保であった。そのため、国は市町村に七名の供出委員を設置した。さらに昭和二十一年七月八日、市町村に耕作者代表及び学識経験者より成る「食糧調整委員会」(委員数一五〜二〇名)を設置し、食糧の供出を督励した。二十三年七月二十日に公布施行された「食糧確保臨時措置法」により、食糧調整委員会は「農業調整委員会」と改称、改組された。公選委員一五名と市町村長が学識経験者から選ぶ選任委員三名とから構成され、主として供出を含む市町村農業計画の議決などを任務とした。二十三年十一月二十三日、全国一斉に選挙が行われた。

 二十四年に入ると配給量は、一人一日二合五勺より二合七勺(約四百c)に引き上げられた。いも類の配給辞退も出始め、食糧事情は漸く好転に向い始めた。昭和二十五年八月、農林省は農地委員会・農業調整委員会・農業改良普及委員会の三委員会を統合して「農業委員会」を設置することを決定、翌二十六年三月三十一日に農業委員会法が公布、即日施行された。

 これに基づき三重町においては、同年七月、全国統一の第一会農業委員選挙を実施して一五名の委員を選び、町長が五名の選任委員を選出して委員会を構成した。主な所掌業務は次のとおりである。(一)自作農創設及び維持、(二)農地・採草地・放牧地又は薪炭林の利用関係の調整、(三)農地の交換分合、以上が必須業務で、他に農地の開発・改良、土地利用の高度化、農業技術の改良、農畜産物の加工・販売・処理、農業経営の合理化、その他に標準小作料の設定、農業者年金、農業後継者の育成、農家花嫁銀行の推進などの巾広い領域で、土地と人を中心として三重町農業の振興に取り組んでいる。

農業団体の改編 終戦と同時に、戦争遂行のための諸制度等は、ポツダム宣言の趣旨に沿って改編されることとなった。戦時中、農民の統制組織として編成された系統農業会の変革は当然のことであった。

 昭和二十年十二月九日、連合軍最高司令官よりの覚書、いわゆる「農民解放指令」が発せられたが、その中味はより徹底した農地改革の計画とともに、その結果解放された農民が再び小作農に転落しないための諸計画を作成することの要求であったが、その計画の一つに「非農民的利害に支配されない且つ日本農民の経済的文化的進歩を目的とする農村協同組合運動の醸成および奨励の計画」という一項があった。その後、政府・GHQ間の曲折を経て、やがて農業協同組合法が昭和二十二年十一月十九日、法律第百三十二号(以下「農協法」と略称)の制定となった。

農業協同組合 こうして法制定とこれを受けた行政指導により、三重地方でも農協結成の準備が進められ、翌二十三年四月三十日に三重町農協と新田村農協が設立された。つづいて六月二十二日に百枝村農協が、八月十五日には菅尾村農協が誕生した。白山地区においても二十三年七月二十二日に白山村農協と山村南部農協の二つが結成された。白山地区の二農協は、のちに昭和三十年代の高度経済成長に追随できず、南部農協は三十二年六月二十五日、白山農協は三十九年七月二十九日に解散し、組合員はそれぞれ三重町農協の傘下に入った。

 この六農協のほか二つの開拓農協が設立されているが、開拓農協設立についての事情に少し触れる。

開拓農協 戦後の異常な食糧不足に対処して、昭和二十年十一月に「緊急開拓事業実施要領」が制定されたが、二十二年十月には同要領を改正するとともに、新たに「開拓事業実施要領」を定め、具体的な入植制度を確立した。開拓者に対する資金融通の制度についても「開拓者資金融通法」が施行され、政府の資金によって営農資金が貸付けられた。更に農業協同組合法の制定によって開拓農協や同連合会の設立が行われた。

 町内では大原開拓農業協同組合が二十三年六月十四日に設立された。二十三年十二月二十七日には大野協和開拓農業協同組合が設立された。大原開拓農協は二十九年十二月二十三日、田野村開拓農協・犬飼開拓農協と合併し大野第一開拓農協を結成したが、  年  月に所定の任務を終えて解散した。大野協和開拓農協は四十七年三月三十一日まで存続したが、県の指導により県内農協を一本化した大分県開拓農業協同組合に合併した。

農業共済組合 農業共済組合も戦後の農業団体再編成の嵐の中で、農業協同組合などとほぼ同じ道をたどった。すなわち、従来農業会で扱われていた農業保険は農業会解体とともに無くなったことから、政府はこの業務を新しく発足する農業協同組合に継続させたいと考えた。しかし、GHQは保険制度の本質的な機能が政策的に歪められることを恐れ、単独の事業団体で行うべきとし、これを受けて政府は二十三年十二月に農業災害補償法を施行し、農業共済組合が誕生するに至った。三重地方の旧町村における農業共済組合の設立は、三重町・菅尾村が二十三年五月十五日、百枝村が同年七月二十五日、新田村が同年八月五日、白山村は同年九月五日であった。

 昭和二十六年四月一日、菅尾村・百枝村・三重町・新田村の合体合併が行われたこともあって、三十年七月四日に四町村の農業共済組合は合併した。白山農業共済組合もまた白山地区の三重町編入直後、三十二年六月一日付で三重町編入部分の一部合併を行った。三十八年八月一日には県の行政指導等もあって農業共済組合を三重町に委譲した。五十五年から大野地区農業共済組合等組織整備推進委員会が設置され、郡内の農業共済組合の広域合併についての協議が重ねられた。その後、約五年間の曲折を経て五十九年四月一日に大野地区農業共済組合として発足するに至った。

産業の復興 当時、三重町の最も大きい産業は農業で、農業就業人口は全体のほぼ七割を占めていた。これは昭和十五・二十二・二十五年の各統計を見てもほとんど変わっていない。

 戦時中の農業生産が低下していたであろうことは、労働力の不足、生産資材の欠乏などからおよそ想像がつく。終戦の年、昭和二十年産の三重地方の供米状況は別表の通りであるが、割当量の五七六三俵はやはり低い。生産性が低落していたためであろう。合併後の四年間の供米割当量を併記したので比較されたい。二十一年から二十五年産の農産物の状況について旧町村の資料を漁ったが目ぼしいものはない。

 しかし、農地改革による耕地の自作化、農業技術の普及向上、生産資材の供給の復活、労働力の充実などから食糧の生産は徐々に戦前の水準に回復してきたとみられる。特に農業改良普及員制度を規定した農業改良助長法(昭二三年法律第一六五号)は、合理的な農法の普及、農民生活の改善など農村の民主化促進に大きな役割を果たした。総じて、戦後から町村合併までの五年間は、新町成立後の産業振興が順調に振興するための基礎作りの期間であったともいえよう。

 

 四、教育改革と文化活動

戦後の混乱と六・三・三制の実施 終戦が夏休み中であったので、戦後の学校教育は九月から始められた。これまでの軍国主義教育が民主化の方向に改革され始めたのである。学校では、まず校庭にあった奉安殿・御真影・神棚などが撤去され、教科書の訂正と削除がされた。軍国主義的記述や語句・写真等は墨で黒く塗りつぶし、または切り取るなど、惨たんたる状態の教科書で授業がなされた。軍隊に行っていた教師もおいおい帰還してきたので、老人と女性ばかりの職員室も活気を取りもどしてきたが、敗戦によるショックと新しい教育方針に対するとまどいもあって、教育現場にも相当な混乱があった。

 この年の十月から、連合軍最高司令官総司令部(GHQ)は教育改革を矢つぎばやに出した。最初、十月二十三日付の指令では、「日本教育制度ニ対スル管理政策ニ関スル件」が発令された。その内容は@軍国主義教育の廃止と議会政治・国際平和・基本的人権思想の育成、A教育関係者の審査、B人種・国籍・信教・政見または社会的地位による差別待遇の禁止、C教育内容批判の許容、政治的・公民的・宗教的討論の自由、米軍の占領目的の理解、軍国主義指導者の犯した誤りや悲惨な結果をもたらした情況の周知、D教科書や教材を速やかに検対して、軍国主義またはそのイデオロギーを助長する箇所の削除、E平和で民主的な公民の育成を目的とする教科目・教科書を早く準備し、現行のものとの取替え、F教育施設をできるだけ早く再建し、設備不充分の場合には初等教育及び教育養成を優先、等であった。

 つづいて、十月三十日には「教育及ビ教育関係者ノ調査・除外認可ニ関スル件」、十二月十五日には「国家神道・神社神道ニ対スル政府ノ保証・支援・保全・監督ナラビニ広布廃止ニ関スル件」、十二月三十一日には「修身・日本歴史及ビ地理教育停止ニ関スル件」等が公布された(以上大分県教育百年史より)。これによって、大分県教職員適格審査委員会による戦争協力者のパージや教師と神職との兼職の禁止などが行われ、県下では一〇六名の追放者が出た。新教科書は、新聞紙のように印刷されたものを児童自身が折りたたんで切り、製本するというようなものが発刊された。

 二十一年三月、アメリカ教育使節団が来日し教育改革が勧告された。二十二年三月には日本国憲法にのっとった教育基本法が公布され、教育勅語による教育方針は廃止されて、教育の機会均等、男女共学、教育の不当支配の排除など新教育の基本方針が示され、四月一日には学校教育法が定められた。ここに六・三・三制の教育制度・男女共学・義務教育年限の三か年延長となったのである。また、昭和十六年以来の国民学校は、各市町村立小学校と改称されるようになり、翌年青年学校は廃止された。PTAの組織が導入されたのもこのころである。

 新しい教育への改革には教職員の研修が不可欠である。カリキュラム論議やガイダンス講習など教職員の研修は非常に多く、新しい語句も多かったので、ガイダンス講習会にズックの靴を持って行ったという話しもある。二十三年七月には教育委員会法が公布され、十月から都道府県には公選の教育委員会が設置されたが、市町村では二十七年十月に教育委員の選挙が行われ、十一月一日から市町村教育委員会が発足した。

新制中学校の発足 昭和二十二年に新設された新制中学校は、男女共学の義務教育となったが、財政難のなかで校舎や設備の確保は困難を極めた。当初は一町村一校主義をとったので、県内では二五六校が開設されたが、準備期間がなかったので各校とも五月か六月の開校となった。しかし、小規模校が多く経営が困難であったので、二十四年度から一校九学級以上で独立校とするよう指導がなされた。

 三重町では五月三日、三重中学校を重政の国民学校(高等科)跡に、他の四か村では小学校の間借りで発足し、おいおい校舎を建設するという状態であった。長い間の戦争のため、国も地方も財政が困窮していたので、建築についての補助金も少なく、市町村が二〇l、父母や地域の負担が三〇l、残りが起債と国庫補助という有様であり、各町村とも校舎の建設には苦労し、新田中学校などは製塩工場を移築したもので、天井も低く暗い校舎であった。それでも、菅尾中学校が二十三年十月、百枝中学校が二十四年六月、新田中学校が二十四年五月、白山中学校は二十六年十月に校舎が落成した。また、白山中学校は二十三年四月、久部に南分校を設置したが、その後、二十六年十一月には本校に合併した。

高等学校の開校 昭和二十三年四月、学制改革により各地で新制の高等学校が設置されたが、おおむね従来の中等学校が昇格編成替えをして高校となった。三重地方でも、県立三重高等女学校と県立三重農学校が合併して、新制の三重高校として開校された。同時に、新たに定時制高校が発足し、三重・千歳・緒方・野津に分校が設置された。

三重高等学校 三重高等学校の前身は、明治三十五年四月の実業学校令に基づく大野郡立農学校に始まる。明治三十八年に女子部が附設されたが、大正六年には男子部が県立三重農学校に移籍されたので、女子部のみ残された。その後、大正十年に大野郡立大野実業女学校と改称、大正十二年には県立三重高等女学校と改称されて、この地方の女子教育に多大の貢献をして来た。

 昭和二十三年の学制改革により、大分県立三重高等学校第一部として発足、翌二十四年には三重高等学校東校舎と改称された。これによって、当時、旧制高等女学校に入学していた生徒は、四年課程の旧制女学校で卒業するもの、一年延長の五年制女学校を卒業するもの、新制高等学校へ進んで六年間学習するもの、三年課程の附属中学校を卒業するものとさまざまであった。(当時の生徒数二四二名)

 二十六年に独立して大分県立三重東高等学校内田校舎となり、二十八年に三重高等学校内田校舎、二十九年に同三重校舎とめまぐるしく改称が続き、三十六年四月に大分県立三重高等学校本校となり、四十五年には犬飼校舎も統合して現在に至っている。その間、三十二年三月には本館講堂等を焼失するなどの事件もあったが、着々と整備が進められて、高等学校としての威容がととのって来た。(現在生徒数六七五名)

三重農業高等学校 三重農業高等学校の歴史は古く、明治二十六年に臼杵市に大分県農学校として開校、その後、別府石垣原に移転、大正七年には三重町に移築が開始され、翌八年に落成している。大正十二年に大分県立三重農学校と改称された。開校以来多くの人材を養成し、県下の農業振興に多大の成果を上げて来た。

 また、大正十二年には大分県実業教員養成所を併設、実教と称して農業教員の養成をして来たが、昭和十一年、これは大野町に移転、のちに青年学校教員養成所・青年師範学校となった。昭和十二年には大分県立産業組合講習所を設置、その後、県立協同組合専門学校となった。

 昭和二十三年の学制改革により県立三重高等学校第二部となり、翌二十四年に三重高等学校西校舎と改称、二十六年には独立して大分県立三重西高等学校となり、大原・緒方・千歳の定時制高校も併設となった。昭和二十八年から現在の大分県立三重農業高等学校と改称され、四十五年からは久住分校が竹田高校より移管されている。五十八年十一月には創立九十周年の式典が盛大に行われた。

 現在、農業科・園芸科・畜産科・農業土木科・生活科の各科目があり、校地約二〇万平方b、職員数八〇名となっている。

定時制高校の推移 昭和二十三年四月、新しい学校制度として定時制高等学校が設けられるようになった。「高等学校には、全日制のほか、定時制の課程を置くことができる(学校教育法第四十四条第一項)」という規定によるものであるが、働きつつ学べるこの制度は、家業や職業に従事している勤労青少年にとって大いなる朗報であった。二十三年七月、大分県教育部長から大野郡内町村に、三重高等学校に定時制課程を設置する旨の通牒があった。人件費は県負担であるが、経常費や校地・校舎・施設費は地元負担で、また、三か年以内に基準に見合う設備をととのえるという条件であったので、地元は驚いたが、幸いにも各地とも元の青年学校の土地建物が残っていたので、それを定時制分校に提供することで県の申し入れを受け入れた。

 三重郷四か町村でも元の青年学校の土地・建物を提供することにし、菅尾・百枝・三重・新田の四か町村で後援会を組織して協力することになった。分校名を大原分校としたが、元飛行場を含む五町歩(実質八町歩)の広大な台地を生かして、二十三年五月二十四日から農業・家政両科生徒の教育が始められた。校長原尻文重・主事志賀正道・教務主任(後校舎主任)土生米作が中心となって諸職員とともに指導にあたった。

 その後、学制の改革などにより、二十六年に野津分校は三重東高校に、大原・緒方・千歳分校は三重西高校に併設となったが、二十八年七月の高等学校の定時制教育及び通信教育振興法の施行を機会に、大野郡内にも定時制高校独立の機運が起こり、三十一年二月に大分県立豊西高校として発足、本部を緒方に置いたが、翌三十二年九月には大原校舎に移した。独立した豊西高校は、定時制の特色を生かして、農事や家政等の研究発表を行うなど優秀な成果を上げた。

 しかし、昭和三十年代後半の高度成長に伴い、農村人口の過疎化のため生徒数の減少を来し、三十七年三月に千歳分校が廃校となり、三十八年四月には残る分校も全日制に転換して、野津分校は三重高校に、大原・緒方分校は三重農業高校に移管したが、三十九年には緒方分校が、四十年には大原分校が廃止され、野津分校は全日制普通高校の県立野津高等学校として独立したので、この地方における定時制高校の制度は終焉したのである。

文化・体育活動の進展 敗戦の虚脱から一番先に立ち上がり、民主主義時代の先取りをしたのは、何と言っても当時の青年たちであった。各町村とも、戦時中はほとんど青年の組織がなくなっていたが、二十年の秋には多くの青年が復員して来たので青年組織が再編成され、新時代の先駆として活動を始めた。各地域には自然発生的に青年演劇集団が結成されて、各所で発表会がもたれた。また、青年組織による文化講座や講演会等の文化活動、体育大会や駅伝大会等の体育活動が活発となったが、その他、成人式や戦没者慰霊祭も青年の手で行われた。

 また、町内では町民による文化活動も盛んになり、三重町文化協会(長田成博会長)が二十三年四月に結成され、機関誌の発行、文化祭や音楽会・演劇鑑賞会・町民卓球大会や登山会など、幅広い活動を行っている。その他、文芸集団「青葉」(多田重信会長)・三重混声合唱団(後藤初男教諭指導)なども結成されて、それぞれ独自の成果をあげてきた。一方、婦人も各町村単位に地域婦人会を組織し、地域の生活改善・文化振興・教育・福祉等に大きな改革をもたらしたが、折から婦人参政権が認められたので政治的関心も高まり、県議選では長田シスが婦人会の後援を得て、婦人県議第一号の栄誉を獲得した。

伊東東と修史事業 伊東東は明治十九年(一八八六)十月二十九日、大字秋葉羽飛に生まれた。父は伊東基、母はヤヱである。二十九歳のとき、大正四年(一九一五)十一月にシュクと結婚。同時に伯父母伊東古五郎・マサの養子となった。明治三十八年(一九〇五)四月、大分県立臼杵中学校(現臼杵高校)卒業後、一時軍籍に身を置いたが(のち陸軍少尉)、明治四十一年(一九〇八)八月に税務官吏となり、臼杵・玉津(西国東郡)税務署に勤務した。大正元年(一九一二)十一月には税務官吏を辞任し、家業の酒造業を継いだ。

 この家業に精励する一方、政治・経済・司法・教育の各界に身を投じ、多彩な活動を行った。大正十四年(一九二五)五月、三重町会議員に初当選以来、五期にわたって議員を勤め、昭和十八年六月には三重町長当選し同二十年十月に退任、昭和二十一年十月に三重町会議長当選し翌二十二年に辞退と、戦前・戦中・終戦時を通じて未曾有の町行政に尽すいした。その間の該当団体長の職歴だけでも、大分県酒質鑑査会大野支部長(昭十七)・大野郡中部耕地整理組合長(昭十八)・三重町警防団長(昭十八)・大野郡養蚕業組合三重支部長(昭十八)・三重町農業会長(昭十八)・三重町森林組合長(昭九)・帝国在郷軍人会大野郡連合分会長(昭二十)・財団法人国民勤労動員援護会大分県支部三重町分会長(昭二十)の多数にのぼった。

 伊東東が郷土史研究に手を染めたのは臼杵中学校在学中からであったが、本格的な歴史研究や土器・石器・関係図書の収集は、家業を継いだ大正元年ごろからであったらしい。まれには中央学界との接触があったものの、文献研究と実地調査によりながら、大野の十時英司・工藤雄一郎・竹田の北村清士らと共に豊肥地区における歴史研究者としての地位を確立していった。次に公刊された研究業績を掲げてみよう。

 

 増穂残口に就て『臼杵史談第二号』昭和六年。大野郡野津村のクルス『臼杵史談第九号』昭和八年。クルスバ と了仁寺『郷土研究』刊年未詳。シャー村のことども『郷土研究』刊年未詳。豊後国図田帳の柴山村と毛井村 『大分県地方史第三号』昭和二十九年。竃八幡の写経『大分県地方史第七〇八号合輯』昭和三十一年。内山観 音雑考『三重町史資料第二集』昭和三十四年。

 

などで、その数は必ずしも多い方ではない。しかし、学理に徹し、確実な史料に基づいて論及しているため、現在なお、その業績を汲む後学が多い。長年月にわたる調査・研究実績のため、昭和三十年四月、大分県文化財専門委員に任命、同三十二年十一月には文化史研究の功労によって知事表彰を受けるに至った。

 また、自らの収集図書及び写本、土器・石器などの史料を一括して秋葉文庫と命名、郡内外はもちろん、県外の研究者に公開され、研究の便宜に供された。没後、秋葉文庫は三分され、三重町関係史料は家族から三重町へ寄贈、大分県関係史料は大分県立大分図書館が買収、その他の一般史料は東京都古書籍商の取得するところとなった。

 昭和二十七年八月十九日、三重町史談会が設立され、伊東東は会長に推挙された。この三重町史談会活動を通じて、三重町の歴史を明らかにすること、終生の研究である大野郡金石年表を完成し、文化財として保護すること、三重町誌を編纂することが目標であったと思われる。町誌編纂については、昭和三十年ごろには立項を完了していた。この事業は町財政及び昭和二十九年以来の本人の病臥などの理由によって、昭和三十四年十二月四日の永眠まで実現できなかった。その意志は土生米作らが継承することになる。

 

 

    第二節 新三重町の誕生

 

 一、三重郷四か町村の合併

合併への歩み 政府の手によって行われた明治末期の町村合併勧奨については、近代篇「町村財政の窮乏と新三重町・東三重村構想」記述のとおりで、結局、菅尾と百枝、三重と新田の合併は成立しなかったが、その際、新田村の答申中に「三重町・新田・百枝・菅尾村ヲ一区域トナスニ於テハ諸般ノ点ヨリ観察スルモ適当ト認ム」とあったということは注目に値することである。この三重郷四か町村合併のことは、昭和に入って一時郡選出県会議員間で話題になったこともあり、また、先の大戦下翼賛会活動の一つの目標ともなったことがあったが、いずれも実を結ぶことなく終っていた。

 戦後地方自治法のもとに新生した各市町村は、従前の中央集権から地方分権へと大きく転換した。そのため新制中学・警察・消防・国民健康保険・道路・水路等公共事業など、新たに重大案件が町村に課され、これに戦後の復興も加わって町村は事務の累加に忙殺されるに至った。昭和二十四年、シャウプ博士を団長とする使節団が来日し、地方自治と財政に対し根本的な改革を勧告した。すなわち、国と地方との事務を再配分して大幅に市町村に権限を委譲するとともに、市町村税の独立など市町村の責任において税を決定・徴収するよう税財政の確立を要請した。このことは市町村の徴税機構はもとより、一般の行政事務量を増嵩し、旧来の小規模町村では到底処理して行けないようになった。

 ここに町村の基盤の強化のため合併が要請されたわけで、昭和二十五年、県は国の方針に従い町村合併勧奨に乗り出した。大野地方事務所においても、加藤武馬所長は神田学総務民生課長らと精力的にこれと取り組み、郡内町村に呼びかけるとともに、まず三重郷四か町村の合併を斡旋した。

 七月二十七日に四か町村長協議会で提唱したのを皮切りに、八月十六日に議長・副議長協議会、同三十日には青年団・婦人会・農協各代表者協議会など相次いで開催して協議に付した。正式に議題として審議に付されたのは十一月四日の町村長・助役・議長・副議長協議会であったが、全員熱心に討議した結果、趣旨に賛同し、各町村とも歩を一つにして合併の方向に進むことを約した。

 十一月十七日の三重町議会での検討に始まり、二十六年一月二十三日に新田、二十五日に菅尾、二十六日には百枝と、それぞれの議会での審議が進み、特別委員会の設置、先進町村の視案、地区説明会などが着々と実施された。各町村は昔から三重郷の総称の下に密接不離の関係にあり、住民また人情・風俗・習慣等生活環境を一にし、経済圏も同一である等よりして、根本的に合併をはばむものは何もなかったが、各町村それぞれの特殊事情があって慎重に考慮が払われなければならず、殊に意が用いられたのは地区民の意向であるので、二月以降、連日のように地区集会が行われ、菅尾村では資料を図示して職員が巡回するなど、三重町においても昼夜にわたり二十数会場で協議されるなど運動が展開された。

 こうした動きを経て、各町村とも合併賛成が絶対多数であると確認されたので、三月十六日に正式に選出された四か町村合併推進委員会の席上、次項の合併基本方針が審議され、慎重討議の上これを確認し、ここに四か町村合併の方針が決定した。

 

 合併基本方針

 一 合併実施目標

    1、時期 昭和二十六年四月一日

    2、対象 菅尾村・百枝村・三重町・新田村の四か町村合併

 二 合併形式 

    合体合併(無条件平等を原則とする)

 三 合併後の行政の中心地

    三重郷各町村の現状より見て、経済の中心と行政の中心とを一致せしめるため、現在の三重町市街地に    役場を設置すること。

 四 合併後の新町名の選定

    暫定的に「仮称三重町」で出発し、合併後速やかに正式名称を決定すること。

 五 合併態勢の確立

    1、旧町村有財産の処理

       現状のまま、旧条件を尊重しつつ一応統合する。

    2、滞納処分の措置

       可急的速やかに整理し、合併後の障害とならざるよう措置する。

    3、旧町村単位にて施行予定の諸事業の措置

       原則として、合併後もこれを踏襲することとする。客観的に判断して不急不要と認められるもの       については、協議の上その施行か否かを決定する。

(六)役場等の統合によるその後の措置について

    1、必要により、支所又は出張所を設けることができる。

    2、議員選挙につき、初回選挙に限り、旧町村単位に設定する。

    3、吏員は、原則として現状のまま引き継ぐ。

    4、小中学校通学区域変更の要否については、合併後の研究に委ねる。

    5、消防団の組織は、合併後統一へ進める。

    6、農協についても、合併後の研究に委ねる。

    7、地区の構成は、現在のままとする。

(七)合併後の政策

    1、中心地行政に堕することについての懸念を一掃することに努めること。

    2、合併による利益を現実に実証するよう努めること。

    3、旧町村意識の一掃を図るための事業遂行に努めること。

(八)産業開発並びに観光行政の確立

    各地域の産業を開発すると共に観光資源を紹介し、道路及び施設の拡充を図ること。

(九)合併後、地区連絡協議会の如き組織を設けることの要否

    合併後必要あれば正式に設けること。

 

暁の議会・劇的な合併議決 合併基本方針を決定した後、直ちに合併推進委員協議会では四月一日の発足を実現するべく、三月二十四日に四か町村の各議会を同時に開き、議決することを定めた。そして、その場所として三重高等学校大原校舎を選んだ。けだし、同所は昭和十八年以降、四か町村組合立青年学校を創設・経営して来ており、二十三年の定時制高校への移行後も共同して後援組合会組織を継続している四か町村融和ゆかりの地で、合併議決の会場としてふさわしいからである。こうして関係者一同和衷協同の気溢れるなかに、まさに四か町村が発展的解消を遂げ新町誕生の日を迎えるばかりになった。しかるに「同日に至り新田村に反対の与論あり議会人が出席できぬという事態が起こり、三町村議会は全員の協議会をもって之が対策を練った結果、新田村の反対は一部の動きであるので誠意をもって反対者に説得にあたることとなり、議会の開会は一日延期さるるところとなった。翌二十五日、地方事務所長より、新田村の反対者の状況は予想以上である旨、住民の反対が出た点遺憾であるが、四町村合併は出来ぬこととなったという結果報告により、将来三町村合併でもという空気のまま見送りという事態にまで至った。

 憂色の二十五日、四町村青年団代表者は、この時期に合併ならざれば悔いを千載に残すことあるとて、地方事務所長と接衝、内諾を得て新田村に急行、青年団員に協力援助を求め、急拠各界層の有志・知識人の協力を求めつつ合併を推進した結果、二十七日払暁に至り、新田村議会全員賛成の議決成り、各町村また議会を招集、それぞれの議会において同時合併承認の決議を見た。」

 右は、当時の青年団幹部たちで組織された大原会が編纂した「三重町の展望」誌のなかの「三重町合併史抄」の記述であるが、当時の実状を適確簡潔にとらえているので引用した(なお、当時の鎌手三重青年団長の手によって「三重町合併秘史」なる詳細な記録が遺されている)。

 合併問題台頭当初より、終始熱意をもって協力して来た四か町村の青年団であったが、思わぬ支障の勃発を知って、是非とも青年の若さと熱情でもって難関を切り拓いて合併の実現を図らなければと起ち上ったもので、安藤菅尾・赤星百枝・鎌手三重・玉田新田の各団長以下、幹部の献身的な推進活動が展開されたのであった。容易ならぬ事態であったが、熱誠な努力の結果、上述の成果を招来し、円満裡に合併を実現したのであったが、合併に寄せられた加藤地方事務所長らの盡瘁、藤田菅尾・神志那百枝・首藤三重・多田新田の四町村長はじめ議会当局者の努力、地域住民の理解等と併せて、合併史上銘記さるべき事柄である。

三重町設置の申請と決定 四か町村長は、直ちに議決書・その他の必要書類を添え、連署して県知事宛に三重町設置申請書を提出した。次は、同書に添付された合併理由書である。

 

 菅尾村、百枝村、三重町、新田村の四か町村はその位置大野郡の中央に位しているが、東方は三重川を以て野津郷南野津村、戸上村と、北は大野川を以って井田郷犬飼町、千歳村と、西は代三五山、大野川を以って大野郷大野町と、奥嶽川を以って緒方郷牧口村と、南方は奥畑川、三国峠を以って同郷白山村と、佩楯山を以って南海部郡因尾村と境する等、その四圍は凡て自然の地形に依って圍まれており、地勢的に他郷他地域と判然と劃しているために、古來文献にも誌されてきた通りこの地方は三重郷と総称され、行政・産業・経済・交通・文化等凡ての点に於いて密接不離な関係を続けてきた事は事実である。ために郷内の住民の人情・風俗・習慣等生活環境は全く軌を一つにし、婚姻・養子縁組等によって郷内に多数の親戚を有し相互の行き来極めて頻繁である。殊に生活上の必要物資の購入を初めとして生業上の諸取引において殆ど全部三重町市場の商店や諸機関を利用すると共に、交通上においても三重町駅を中心として旅行並びに物資の集散を行ってきており全く同一生活圏内にある訳である。

 かかる状況下にある四か町村が行政的にも一体となることは極めて自然的なしかも必要な事柄であり、且つおおくの利点も考えられるので、この三重郷の合併は識者においてその実施の必要が唱えられ、既に過去において数回その議が起こりつつも機運熟せぬまま経過し今日に至ったのであるが、昨年来シヤウプ勧告に端を発する地方自治の強化拡充は行政の大幅委譲等の方策の結果、各町村共弱少な行政力・財政力では自治の目的を達することが不可能であることをいよいよ痛感してき、加えて政府よりの勧奨もあるので、茲に昨年末来合併実現の機運が再び強く台頭してきたのである。

 この間四か町村が組合立によって昭和十八年以来創設維持してきた青年学校の校地校舎を継承して昭和二十三年度に定時制高等学校を創立し、爾後これが後援組合会を円満裡に組織経営してきていることは、四か町村の行政並びに文化の融和に好影響があると共に、この点において既に合併への一歩を踏み出したと見ることができるのである。

 各町村共合併への動きは本年に入ってより本格化し、二月以降合併促進協議会又は委員会を組織し、地区毎に公聴会を開いて輿論の聴取並びに促進に当ったが、その結果各部落民は大体において慎重に協議調査の上合併の線に進むを可とする説が多数であることが認められたので、各議会においても特別委員会等の下に県内外既合併・分離町村並びに合併機運町村等の実地調査を行った上慎重に審議を進め、特別な条件を附することなく合併に進むことは是なりとの対策を樹立するに至った。かかる間、大野地方事務所斡旋のもとに三月十六日開かれた四か町村代表委員会で全員が合併原則を承認する運びとなったので、茲に三月二十七日を期し四か町村共それぞれ議会を開いて合併議決をするに至った次第である。

 

この合併申請は、三月二十八日、折から開会中の定例県議会に提案され、審議の上議決されたので、県知事は同日付で次のとおり決定した。

 

 達地第一七三九号                                               大野郡三重町

          大野郡百枝村

          大野郡新田村

          大野郡菅尾村

  大野郡三重町同郡百枝村同郡新田村及び同郡菅尾村を廃しその区域を以て三重町を設け昭和二十六年四月一  日から施行する。

          昭和二十六年三月二十八日

                            大分県知事 細田 徳寿

 

 二、新三重町の成立

町名の決定 昭和二十六年四月一日、新三重町が誕生した。明治二十二年(一八八九)に旧町村が成立して以来、実に六十二年ぶりの変革・躍進で、全町民の感激ひとしおであった。前日までに、それぞれあわただしい中にも厳粛な廃町村の行事と引継事務を終えていたが、この日定刻、町長職務執行者首藤卓美はじめ全職員、並びに関係者が役場に参集、新町の発足を祝い、決意を新たにして新町の事務を開始した。

 新町として果たさなければならない要件の第一は、町名の決定であった。というのも暫定的に仮称「三重町」で発足するが、正式には新町民の総意によって決定しようということにしていたからである。五月十日招集の第一回三重町議会の第一号議案として、「町名は三重町とする」ことが提案され、満場一致で決定した。その理由は、この地域が古来「三重郷」と称せられ、郷内の住民が三重町を中心に政治・経済・文化等各方面において常に密接につながり、「三重」の名に親しんでいたからである。

役場の位置 新三重町の役場の位置についても、第一回の町議会の議決を経て、条例第十号で「大字市場字平吹千二百番地」と定めた。地方自治法で地方公共団体の事務所の位置は条例で定めなければならないと規定されているからである。この位置は、旧三重町役場の庁舎のある所であるが、三重町のほぼ中央、市街地の中心地で、庁舎も昭和二十三年の建設で、新鮮かつ広大でそのまま新町の事務が遂行できるからである。

町議会並びに諸機関 最初に行う町議会議員の選挙につき、旧町村を区域とする四つの選挙区を設け、選出議員数を旧三重町選挙区一五名、他の選挙区五名ずつの計三〇名とした。民意を尊重して、全地域へ新町行政の浸透を図るための特別な措置であった。選挙は五月に施行され、十日に初議会が開かれ、議長に難波貞が選ばれた。選挙管理委員は臨時に互選で旧町村委員中一名ずつがこれに当たって諸選挙を執行し、新議会で新たに四名が選挙された。農地・農業調整の両委員会は、暫定的に旧委員会を認め、八月の農業委員会発足に際して一委員会に改組した。

事務部局 合併直後の町長職務執行者には、旧町村長間の円満な協議により旧三重町長首藤卓美が定められたが、最初の選挙で当選したので第一代首長として引き続き職務を遂行した。また、旧首長以外の職員が四月一日付きで新町に引き継がれ、部課を定める新条例の施行後、一部勇退者を除く全員がそれぞれの部署についた。役場事務は、原則として新役場で処理されたが、住民の利便のため暫定的に菅尾出張所(配給・徴収・戸籍)・百枝連絡所(配給)・新田連絡所(配給)が設けられた。行政の末端組織としては、各地区の区長の職にある者を駐在員に委嘱、また、農事に関しては農業嘱託員を置いた。消防団については、八月に全町二四分団と本部班の組織に改めた。

 教育機関中、小中学校はそのまま新町に引き継がれた。定時制高校については、従前の後援組合会を後援会と改めて、引き続き新町で後援することになった。

合併の成果 町長及び町議の選挙が終わり、条例の制定や機構整備が進んだ五月十九日に、合併祝賀式典が自治功労者表彰式に併せて行われ、町を挙げて新町の誕生を祝った。合併の結果、事務能率が上がって住民の利便や福祉が増し、議会と執行部での人件費及び事務費の減少により財源が生まれて、学校・道路・産業などの緊急事業の遂行が可能となり、更に少年院の誘致やその他の町発展のための新規事業にも手を伸ばすことができるようになった。合併の成果が上がった理由はいろいろ考えられるが、平等無条件を原則とし、例えば旧三重町独自の財産の灰立や芝尾の山林なども財産区の設定をなさずに全地域にその収益を使う一方、職員全員を引き継ぎ、また、菅尾・百枝・三重・新田各地区の議員選出員数を五・五・一五・五の比率によるなど、すべてにおいて全町の円満融和を図ることを最優先に取り上げるなど配慮したことによると思われる。

 このような合併の成果は、県内外の注目を浴び、折から全国的市町村合併実施期を迎え、他町村からの視察者が相つぎ、百十数回、一千数百人に及んだ。

 

 

 三、町村再編成と三重町

町村合併促進法の公布と三重町 明治二十二年(一八八九)の町村合併以降、全国の町村数はほとんど変わらず、多くが弱小で財政基盤も強くなく、戦後、俄かに激増した住民福祉のための諸施策や複雑な事務に対応できないようになってきた。町村によっては自主的に合併するところもあったが、それも遅々たるものであったので、国は昭和二十八年九月一日に町村合併促進法を公布して強力に勧奨促進することになった。おおむね八千以上の住民を有するものを標準とし、人口密度・経済・その他の事情に照らして行政能率を高くして住民の福祉を増進しようとするもので、行財政上、種々の助成の道が講じられた。昭和三十一年九月末日までの時限立法で、国のねらいは三か年間に全国町村数九千六百余を約三分の一の二千三百余に減じようとするものである。

 三重町では、既に法の施行に先だって、自主的に三重郷合併を実現して新町建設に邁進しつつあったが、促進法の趣旨を体し、近隣の住民と協同し、一層強力で効率ある自治体を実現して行くことが必要であるとの世論が高まり、町議会においても次のとおり決議した。

 

町村合併に関する決議

 今回、国において町村合併促進法を制定して全国に亘って大規模の町村合併を実施されつつあるは地方自治強化の見地より大いに共鳴する所である。しかも町村の標準として人口八千以上出来るだけ規模を大きくすること並びに郡又は町村の境界に抱泥せず、地勢交通文化産業などの相互関係に基いて真に住民の福利増進を図る目的の下に、各町村が進んで町村の再編成に向って邁進することが強く勧奨されているのである。本三重町は既に全国にさきがけて二十六年四か町村の合併を実現し、県内においても理想の町として知られ、県内外よりの視察者相次ぐ有様で新町としての面目次第に高まりつつある現状であるが、前述の趣旨に鑑みるとき本町としては、更に平素親交ある隣接町村との友好関係を増進すると共に、一歩進んでこれと融合一体となり時代に即應した自治体を形成することが適正且つ必要な措置であると考えるものである。即ち、今回の全国的町村合併に際し、本町は隣接町村並びに部落と相計り相提携し、或いは進んでこれと合体し、或いは心からこれを歓迎して受け容れる等強力な新町の実現に邁進しもって関係地域住民の福利増進に貢献せんとするものである。

 右決議する。

       昭和二十八年十二月二十一日

                     三重町議会

 

 そして翌年一月五日、町村合併対策委員会を組織し、南野津・大野・因尾・白山各町村別に実地調査や研究を始めた。

入北地区の編入 三重町の隣接村である大野郡南野津村は、野津郷圏内にある関係もあって、昭和三十年三月二十八日、同一郷内の川登村・野津町と合併して新たな野津町となった。しかし、そのうちの田平地区は、合併前の二十九年早々から、従前よりの希望の三重町合併を実現すべく合併促進委員会を組織、要望書を作成して運動を開始した。理由は、田平地域全般は、佩楯山の東北麓、三重川を挟んで小坂及び菅生と接し、住民の山林・耕地が交錯するなど、地勢上三重町と一体をなした地域であり、三重市街地への距離も野津市と大差なく、その上国鉄を利する便があり、また教育・文化、なかんずく経済関係ではほとんど三重町に関連依存している状態で、住民は久しい以前から三重町に親近感を抱いているからというのである。

 三重町では議会の協議を経て受け入れ方を進めたが、南野津村では、川登・野津両町村との合併の急速な動きに押されて容易に進展しなかった。やむなく構想を改め、新野津町に対し分離運動を展開したところ、田平全地域のうち入北地区のみ分離が認められ三十一年四月四日議会で議決されたので、これを受けて六月十四日の三重町議会で編入を議決し、県・国の手続を経た上、十月一日から実施された。

 入北以外の東光寺・田中・鼓石・竹脇の四地区では、最後まで初志を貫くため運動を強く継続したが、折から戸上村合併問題の渦中にあった野津町は、田平全地区を失うこととなれば町政の破壊にもつながるとして、極力分離中止の説得に努めたので、いくつかの条件を容れて断念した。

 結局、境界変更は入北地区だけとなった。大字西畑のうち、左迫など二八の小字の区域で、面積〇.九五二平方==、世帯数四五戸、人口二五六人である。三重町では十月十六日に現地で合併祝賀式を行い、三重中学生への自転車通学費補助、職員の採用、旧町公職在職者等の処遇、道路の整備等の対応策を実施した。既に林業面では入北地区道路を尾畑町有林育成のため利用するなど共同体制下にあったが、一般産業面でも、西畑ダムの実施によって畑作潅漑を実現するなど町政の浸透に努めた。

片内地区の編入 因尾村(現本匠村)大字山部の片内・樫峯両地区が、三重町への編入希望を表明したのは昭和二十三年九月で、村当局及び三重町へ陳情をしている。このときは進展を見なかったが、合併促進法が施行され町村合併の動きが高まる機をとらえ、二十九年から念願を新たにして分離編入運動を展開した。

 片内・樫峯両地区は因尾村の西端に位置し、村の中心部の堂ノ間まで一四==、南海部郡の中心佐伯まで四〇数==も隔てていて別天地の環境にある。その交通路も、昭和十八年の大災害後はほとんど杜絶に近く、新開にあった分教場も崩壊後はるか下流に移るなどして、生活物資の購入や児童生徒の通学など、すべて三重町(一部は小野市村)に依存するほかない状況下にある。もともと三重町とは農林産物の取引等、経済基盤に密接な関係があるばかりでなく、文化・医療の面での依存度も高く、親族等相互に結ばれている家族も多い。従来、多くの不利不便を忍んできたが、住民の福祉を図る道は三重町編入のほかにないというのが、両地区一致した念願であった。

 諸種の事情より因尾村では断を下し得なかったが、昭和三十年六月一日に中野村と合体して本匠村となる際、「本匠村成立後、県・地方事務所と共に実情調査の上、要望の実現を図る」旨が協議決定された。爾後、分離運動が続けられたが、本匠村当局の斡旋中、樫峯地区は電灯・道路等の条件を容れ片内との連携を断って本匠村に止まることになり、片内地区のみが素志を貫らぬき、ようやく村当局の認めるところとなった。編入地域が地区全域の約四分の一で、多くの山林地帯が除かれ住居と耕作地域のみに限定された遺憾な点があったが、今後、必要箇所の追加編入を期待し、住民は多年の念願を達したことで忍ぶことにした。編入の実施は、本匠村議会での議決後に、それを受けて三重町議会で五月十七日に議決、県・国の手続きを経て、同年七月一日から実施された。

 片内地区は、三国峠の東麓の山嶽地帯で、南は陣地峠で樫峯地区と境し、北は芝尾連峯で鷲谷地区と接しており、地区の中央を番匠川の源流である因尾川が東流して若干の耕地を成している。編入地域は、南海部郡本匠村大字山部のうち、神ノ谷など三十の小字の区域で、面積〇.七平方==、世帯数一二戸、人口七六人である。三重町では、七月二十日に現地で祝賀式を挙げ、行政区の一つに組入れ、道路の改良などを早急に実施した。やがて電灯も点じ、松尾・鷲谷にも通じた県道三重堂ノ間線(現弥生―三重線)が整備され、昭和三十八年七月には宿願の国鉄バスの乗り入れが実現するに至った。

白山村の廃村と清川村の成立 町村合併促進法施行以来、町村再編成のあわただしい動きが胎動し、各地の住民間に大きな衝撃を与えたが、県下でも最も劇しい紛争が惹起したのが隣村白山村であった。

 もともと、白山村は藩政時代から岡藩の領域で、大野郡南西部各村と同一圏内にあり、その関係から町村制実施以降も、緒方郷内の一村として政治・経済・文化等の面で密接不離の関係にあった。しかし、大正期以降、交通機関の発達や道路の整備によって、次第に緒方郷との関係が薄らいできた。殊に豊肥線の開通、久原墜道の掘削、下田橋の架橋等は住民の産業並びに生活上の三重町依存度を増し、昔時の態容を一変した。

 合併問題に直面して村民の意向が問われたが、二十九年七月から自主的に行われた署名運動でも、同九月の村の合併促進委員会の協議でも、三分の二以上の多数が三重町合併を希望した。また、県に設置された町村合併促進審議会での当初の構想も、緒方郷全町村を合体する、ただし白山村は交通の関係もあり三重町へ合併するというものであった。

 ところが、牧口・合川・白山三村のなかに三村を合併して清川村を成立しようとする動きが台頭し、世論をかえりみず、反対を押し切って合併を実現しようとした。すなわち、急遽九月二十六日、白山村議会は牧口・合川両村と同時に三村合併を議決したのである。賛成九票、反対六票であったが、ここに、はからずも多年にわたり住民が二派に分かれて紛争する事態を惹起するに至った。

 三村合併派の意見は、三村は他と境界がはっきりしていて地理的にも纏った純農山村であり、旧藩以来岡藩に属し、人情風俗も類似して、産業・文化等からみて一体性が認められ、合体することが住民の福祉を増進する道であるというものである。

 三重町合併派の主張は、三重町とは地理上交通至近の距離にあり、日常生活はじめ経済・教育・文化等あらゆる面で繋りがあり、三重町との合併によってこそ山村で、かつ鉱物資源に富む白山村の特殊的な地域の発展が期せられるというものである。

 両派の意見は次第に対立し、三村派では各方面に訴えたり建設青壮年同盟大会を開くなど、三村合併運動を展開した。一方、三重町合併派は、特に奥畑・代・板屋・大無礼・中津無礼・内平・中津留・久部・白谷の九部落が中心となり、三村合併反対期成同盟を組織して対抗し、また、村長及び三村派議員の解職請求の署名運動を実施した。リコールは村当局の強力な措置で無効とされたが、住民の一部が村政を否認し、三重町合併を要求して白山特別自治体を組織するなどの非常手段に出たのもこの時であった。

 この間、県の合併促進審議会では現地調査や事情聴取を続けたが、十二月二十三日に至り次の答申をした。

 

 「一、及び二、の地域については、清川村発足について本年九月二十六日議決以来反対運動を続け、現在なお地元においては三重町に或いは緒方町に編入されたいと熾烈な希望を持っていることが確認される。のみならず地域を挙げての陳情、反対運動は農民の健全なる生活を破壊し、地区間の感情の融和を阻害し新発足する清川村の運営に支障を来たすことが思惟され、且つ地方自治の精神にももとると考えられるので、合併後速やかに勧告を行うべきであると認める。」(緒方町への分離についても併せ答申したもので、一、は三重町合併希望地域、二、は緒方町合併希望地域をさす)

 

これを受けて翌二十四日、県議会で次の議案が議決された。

 

 「地方自治法第七条第一項の規定により、昭和三〇年一月一日から、大野郡牧口村、合川村及び白山村を廃し、その区域をもって清川村を置く。」

 

こうして昭和二十九年十二月三十一日、明治二十二年以降六五年九か月続いた白山村の歴史に終止符が打たれたが、論争中の住民には感慨にひたる余裕もなく、従って廃村式も行われずじまいであった。

 

 

白山地区九地区の分離 昭和三十年一月一日は清川村発足の日であったが、その日、知事は県独自の調査検討に合わせ、前項の審議会の意見を容れて次の勧告を発した。

 

               大野郡清川村

               大野郡三重町

  町村合併促進法第一一条の三第一項の規定により大野郡清川村大字奥畑・大字中津留・大字伏野のうち字中 津無礼・内平・大無礼及び大字大白谷のうち久部、白谷の区域を三重町に編入することを勧告する。

 

 これを受けた三重町では白山地区分離希望住民の意向もくみ、一月三十日に臨時議会を開き審議の上「清川村議会が勧告通りの議決をした場合又は当該勧告地区の住民投票により編入の効力が発生した場合は編入する」ことを議決した。

 一方、同日行った清川村議決は、大字奥畑三地区と大字伏野のうち大無礼のみを三重町に編入するというものであった。すなわち、旧白山村議会が二十九年九月の三村合併議決の際に、将来希望があれば分離すると協議決定していた四地区のみの議決であって、知事勧告に従わなかったのである。その理由は、勧告は清川村の適正規模を壊すものである上、他の五地区には大半の分離反対者があることから見ても極めて不当なものであるからというのである。

 清川村側に勧告受け入れの態勢が見られないので、県は勧告地区での住民投票を行うよう指導したが、それに対しても中津無礼・内平・中津留・久部・白谷の五地区にだけ実施した。もちろん、それは認められないものとして勧告を繰り返し、更に、一度は予定していた選管代執行住民投票も見合わせ、自治庁と協議の上、調停委員会の調停に付するなど八方手をつくした。この間、両派は五地区の住民投票の有効・無効を争い、最後は分離派の勝訴に帰したが、訴訟事件へ進む騒ぎともなった。また、両派とも県や中央まで人員を繰り出して陳情合戦を繰り広げる一方、分離派は学童の登校拒否を実施し、残留派は軍隊まがいの自衛隊による示威運動を行うなど、紛争は日増しに激化して行った。

 こうした止まることのない紛争に対し、県連青年団は地元青年団と連絡をとり斡旋の労を惜しまなかったが、事態を重視した自治庁は解決に乗り出し、県と協議して、昭和三十二年二月十二日に最終結論を下した。知事の分離勧告地域の一部を修正し、「大字伏野のうち通称内平及び中津無礼の区域のうち中津無礼川以西の区域を除く」というものである。すなわち、先の知事勧告地域を他はそのままとし、大字伏野のうちの内平と中津無礼だけは中津無礼川以東の部分に限るとしたのである。

 この最終結論に対しても、なお残留派は異論を唱え受け入れず、三重合併派も早期解決のため住民投票実施を求めて止まなかったが、もし投票ともなれば不測の事態の惹起が懸念されるので、三月十一日以降連日、首藤・神野両県議並びに藤原大野地方事務所長の三者は最後の斡旋を行った。その結果、清川村は議会を開き三日間審議を続け、三重町が後日協議調査の上、編入地区の一部の境界変更を行い、かつ吏員の受け入れに応ずることについて斡旋者から保証を得たので、十三日午前三時に至って諒承し、自治庁修正案通りの勧告地域の三重町編入を行う議決を行った。

 これを受け、同日午前、三重町でも議会を開き、大筋において諒承されるので斡旋を受け容れ、清川村と同様の議決をした。

 かくて、憂慮された住民投票の代執行実施を目睫にした正に最後の瞬間に、長年の紛争が議会議決によって解決するに至ったが、双方の愛郷と互譲の精神によってもたらされたもので、住民はじめ関係者一同無慮の感慨にうたれた。

 両町村からの申請は、三月十八日の県議会の議決を経て、次のとおり実施された。

 

 指令地第一〇一六号

           大野郡清川村

           同 郡三重町

  地方自治法第七条第一項の規定により、昭和三十二年四月一日から、大野郡清川村大字奥畑、同中津留、同 伏野のうち別表第一及び同大白谷のうち別表第二の区域を同郡三重町に編入する。

   昭和三十二年三月二十日

                              大分県知事 木下 郁

    (別表第1、第2略)

 

 この編入によって三重町は、面積六一.一〇平方==、戸数三八四戸、人口一九八九人を増し、面積一六〇.一四平方==、戸数四二九一戸、人口二万三五七五人となることになった。

白山地区九地区編入 昭和三十二年五月三日、白山地区三重町編入祝賀式が白山中学校々庭で挙行された。式典には編入地区住民多数参列し、三重町長・議会議長らと共に白山地区民代表佐藤登が挨拶し、来賓県知事代理・県会議長代理らの祝辞があった。この日、三重町商工会員が六〇台のオ−トバイを連ねて全地区をパレ−ドし、地区民の神楽や音頭なども繰り広げられ、まれに見る盛大な式典となった。特に住民の感激は、四年間の争いが激しかっただけあって、ひとしお大であったが、その間に拂った多くの犠牲の跡を省み、この日を期として、道路橋梁の復旧、山野の復興、諸施設の再建等に立ち上がることを誓ったのであった。

 この日に先立つ四月早々、三重・清川両町村で戸籍・選挙名簿・その他公簿の引き継ぎが行われた。財産処理は時日を要するところから後日に持ち越されたが、早急に取り極めの必要がある消防は要員・器材等について協定がなされた。学校については教育に支障を来たさぬ措置がとられた。すなわち、旧清川南小学校と旧清川東小学校奥畑分校はそのまま三重町所管となり、それぞれ久部小学校、同奥畑分校となった。また編入直前に清川東小学校と清川東中学校とが校舎の交換を行ったのに伴い、旧清川東中学校を三重町所管に移して白山中学校とした。そして児童・生徒については、各校とも両町村相互委託を行うことと定めた。

 三重町では編入地区の行政上、支所を設置し、同所で連絡・戸籍・配給・町税及び国保等の徴収事務を行い、他の事務は本庁で行うこととした。庁舎は財産処理末了のため三浦郵便局長宅を借用してこれに充てた。支所に吏員四名を配置し、支所長には真名井元白山村助役が任命され、このとき地区から七名が町吏員として採用された。

 編入前の村会議員は三重町議会建設参与とされ、教育委員や農業委員等についても準じた措置がとられ、その他、公職者の推薦、駐在員の委嘱も行われた。

 編入に伴う境界線の確認は、建設省地理調査所(現国土地理院)の地形図修正の必要もあるところから、三十三年七月、両町村職員並びに地元関係者が境界全域を実地踏査して行った。

財産処理と境界再変更 解決が後日に回された財産処理は、両町村並びに斡旋者の意向が錯綜し、早急には進展しなかった。それは、白山地区分離の最終斡旋に際して、清川村から三重町に、編入地域の一部再変更と清川村内に居住する旧清川村吏員の採用とを申し入れた覚書が作成され、三重町がその申し入れを受託したと斡旋者が保証していた事実があったのに、三重町側にはその覚書が示されていなかったという経緯などがあったからである。しかし、両町村関係者は協議を重ねた結果、分離問題が落着して以後、それぞれ懸命に新町村建設に取り組んでいることに鑑み、一切の行きがかりを捨てて円満解決へと話し合いを進めることとした。そして最終的に、岩尾三重連絡事務所長が提示した左記調停案の受入れ並びにそれに伴う事務処理案を、三十四年十月二日、両町村議会で議決した。

 

   調 停 案

 両町村の融和と新町村としての伸張発展をこいねがうため、本調停案により、双方とも互譲和解の精神に立ち円満解決するよう勧奨します。

    記

一、境界変更について

   境界については、覚書に添付された地図のうちB地区の中央に現在の境界線に副って線を引き二分する。

二、財産処理について

 1、土地、建物(旧白山村有財産)については、新しく画される境界線により、それぞれそのものが所在す   る町村の所有とする。(松添四郎と清川村との共有地を除く)

 2、分収契約にかかる山林については、奥畑次坂の約八町歩(杉・松・桧・雑木約一五年生)、及び大白谷   大久保の約一八町歩(杉・松・桧・雑木約五年生)は三重町の権利とし、中津留太田の学校林約二町歩   (杉・雑木約二〇年生)の立木は三重町の所有とする。

 3、松添四郎と清川村との共有地(三分の一清川村所有のもの)については、四分の三を三重町、四分の一   を清川村の所有とする。

 4、松添四郎との関係の右第三項の土地に生ずる採掘権については、三重町、清川村の共有とする。

 5、松添四郎と関係のあるものを除く清川村所有の鉱業権については、三重町は何等関知しない。

 6、営林署の軌道については、両町村において、それぞれ関係部分の拂下げをうける手続きをなし、公道と   して使用管理する。

 7、旧白山村の起債は清川村が償還する。

三、吏員の採用について

   旧清川村内に居住する旧清川村吏員二名を三重町職員として採用する。(人選は三重町に一任する)

      昭和三十四年九月二十三日

                         大分県三重連絡事務所長 岩尾 諄一

    三重町長 芦刈 幸雄 殿

    清川村長 和田 至暁 殿

 

 この議決で、両町村間に残された懸案事項がすべて解決したわけで、財産の帰属、職員の採用等もとどこおりなく行われた。

 境界の再変更については、実地につき両町村並びに営林署関係者立会の上、測定して決定し、県議会の議決を経て、十一月一日より次のとおり発効した。

 

総理府告示第三八四号

   町村の境界変更

 地方自治法第七条第一項の規定により、大分県大野郡三重町の次の区域を清川村に編入する旨、大分県知事から届出があった。右の境界変更は昭和三十四年十一月一日からその効力を生ずるものとする。

        昭和三十四年十月三十一日

                          内閣総理大臣 岸 信介

    大野郡清川村に編入する区域

 大野郡三重町大字大白谷字藤ヶ谷一五三六及び一五三七、中山堺二の一五二三の一、二の一五二三の二及び二の一五二四、桃木久保二二六八の一から二二六八の八まで並びに次の三重町大字大白谷字大久保、彦惣、傾山附近平面測量図大久保bPから傾山12までの各点を結ぶ線の区域。

 

 現地は、傾山の東北方、稜線に副うた大部分が山岳の帯状地帯で、先の分離の際に三重町地域になった大字大白谷の藤ヶ谷・中山堺・桃木久保・大久保・彦惣・傾山のうち計二〇筆、台帳面積四三町五反二畝二歩(約〇.四三平方==)の地域である。

市制実現構想 国は市町村合併促進法に続いて、成立した町村の助成を図るため市町村建設促進法を施行するとともに、更に充実した自治体の実現を期待して三十三年四月に地方自治法の一部改正を行った。内容は三十三年九月末までに申請がなされるときは、市街地形成の諸条件を備える場合、人口三万以上あれば市制をしくことができるというものである。

 促進法の施行に先がけて合併を実施した三重町であったが、同法施行後もその趣旨を体し、一層効率的な自治体を形成して住民福祉に努めてきた。その結果、入北・片内地区及び白山九部落の編入が実現したが、市条件緩和の措置が行われるに際し、住民の間に俄かに市制実現の希望が高まった。

 市となれば、行政事務が簡素化されて処理が迅速になるとともに、国よりの行財政上の援助が強大となって自治体としての活動が活発となり、対外的信用が増大して住民の経済力や福祉の増進が期待されるからである。もちろん、三重町の現在のままでは人口二万二千余であるが、近隣の志を同じくする町村と協同して一体となれば、優に三万を越えて市の要件が満たされるわけで、市制実現の可能性は充分あり、しかもまたとない好機である。市制実現は三重町だけの発展を望むのでなく、広く大野郡の政治・産業・文化の向上のため希望されることである。農工併進といわれながらも臨海地帯が優先されがちのなかにあって、地方の発展を図るためにも、郡内に一つの市の誕生を見ることは意義が深い。

 こうした意向から、三重町では県当局・県議等の理解協力を仰ぐとともに、三十三年六月に各階層を網羅した市制促進委員会を設置し、爾後、議会・区長会・商工会・農協・青年団・婦人会等がそれぞれ手分けして隣町村への親善訪問・懇談会開催・共同研究等の活動を展開した。

 隣接町村の清川村・千歳村及び犬飼町等においても多くの関心が寄せられ、住民の中から賛同の声が高まった。なかには分村しても市制実現のため合併へ向かおうとする地区も生まれた。議会協議会や地区集会がもたれ熱心に討議されたが、主唱側三重町の市制実現へ進もうとの意向は、最終的に拒否されることになった。それぞれの町村内に存在する諸種の事情からであるが、一つには充分に検討の余裕がなく、時日に制約された点も大いにあったと思われる。三重町では、九月二十六日の促進委員会全体協議会で断念を決定するとともに、将来への飛躍に備え、一層、町勢の発展強化に邁進することを申し合わせた。

国有林の払下げ 林野庁所管の国有林は、八百三十余万fで、全国林野面積二千五百余万fの三三lも占めているため、従来、地方の開発や地元民への活用が要望されながら、その解放は遅々としていた。ところが、国は新市町村建設促進法に規定を設け、積極的に国有林を払下げて、合併した公共団体等を助成することとなった。該当市町村に伍して三重町でも払下げを、三十二年以降、林野庁・営林局等に陳情を重ねた。ただ町の場合、促進法施行以前の合併であったため条項適用に難点があったが、白山地区編入に関連して促進法の特別規定を適用する措置により、三十五年二月に払下げが実現した。

 払下げられた国有林は、大字奥畑字熊ヶ谷二二五〇番の一の山林(通称五十林班)である。この山は五十数年前、国が雑林を拓いて植林した台帳面積四九町六反八畝歩の九州でも有数の美林である。主要樹種スギ・ヒノキアカマツ等七万千余本、材積約一万六九五〇立方b(約六万一〇〇〇石)、他に薪炭木七万七〇〇〇余本あり、払下価格七九五〇万円であった。町ではこの買受けのため全町有林を担保とし年賦償還の計画も樹てたが、早期処分を有利として、同年五月の入札を経て、菊池製材株式会社に一億七八〇万円で売却し、差額益二八三〇万円を得た。この益金は、緊急を要した白山地区の久部・白山等諸学校の整備や道路改良に充てるとともに、第一小・菅尾・百枝中学の増築、上水道建設並びに災害のための復旧に用いたが、まっ先に同益金でもって伐採後直ちに新植をすました。数十年後、再びかつてあったような美林の造成が期待されている。

 

 

 四、旧町村及び旧地区の推移

新三重町を構成した旧町村及び旧地区の沿革 昭和三十四年、清川村とすべての折衝が終わった時点で新三重町の規模が確立し、将来への躍進が約束されるに至った。ここで、新三重町を構成することとなってそれぞれの歴史を閉じることになった旧町村及び旧地区の推移を記しておこう。

旧菅尾村 旧菅尾村の地域は、宮尾・深野・浅水・宇対瀬・森迫・又井の各村からなり、古来、臼杵藩に属していた。明治四年(一八七一)の廃藩置県の際に臼杵県、つづいて大分県臼杵支庁の管轄となり、第五大区に属するに至った。六年(一八七三)に小区が劃された際は五ノ小区となり、八年(一八七五)に大小区制が改正されて町村区劃ノ分合改称がなされたとき、各村はそれぞれ合併し、宮尾・深野両村が宮野村、浅水・宇対瀬両村が浅瀬村、森迫・又井両村が井迫村となり菅生村とともに第五大区五小区に編入された。十七年(一八八四)の町村役所所轄区域の制定の際、上記四村が連合して菅生村外三村連合村を組織し、菅生に役所を設けた。二十二年(一八八九)四月一日の町村制実施により、宮野・浅瀬・菅生・井迫の四村が正式に合併して菅尾村が成立した。菅尾村の名称は、全村の中央に位する菅生村と宮尾村から一字ずつ採って付されたものであろう。役場は菅生に置かれたが、爾後、明治・大正・昭和と自治の歩みを続けて今日に至った。

 村内での主な事業に、菅尾石仏の開明紹介、菅尾停車場道路の開設、産業組合を中心とする農業の振興などがある。歴代の村長は、神志那政太郎・難波直猪・渡辺幸太郎・深田太利木・藤田博美・波津久齊・土谷伝・     ・藤田敦美である。

旧百枝村 古来、牟礼・田原・西原・法泉庵・川辺・向野の各村から成り、臼杵藩に属していた。明治初頭に臼杵県、つづいて大分県臼杵支庁の管轄となった。五年(一八七二)に大分県第五大区に編入、六年(一八七三)には同大区五ノ小区(向野村のみは十七区ノ小区)に組み入れられたが、八年(一八七五)の大小区制改正・町村区劃ノ分合改称の際、牟礼・百枝両村が百枝村、西原・法泉庵両村が西泉村となり、田原村(のちの上田原村)・川辺村とともに第五大区五小区に編入された。このときも向野村のみは、前田村・下山村・その他の諸村のなかに加えられて第五大区十七区に編入された。恐らく、歴史的背景によらないで地理的関係によったからであろう。のちにこの点は是正され、十七年(一八八四)の町村役所所轄区域制定の際には、向野・百枝・川辺・上田原・西泉諸村が連合して百枝村外四村連合村を組織した。二十二年(一八八九)の町村制実施に当り、上記の百枝村・西泉村・上田原村・川辺村・向野村の五か村が正式に合併して百枝村を形成し、以後、村治が円満裡に続けられてきた。

 西泉・向野両部落の揚水開田事業、百枝・菅尾組合道路の開設、原田橋並びに向野橋の架橋、河水統制事業川辺ダムの建設などが主なできごとである。歴代の村長は、神田退蔵・山本喬・江藤弥作・江藤幸太郎・  多里穂・三浦浪夫・久保田澄蔵・神田重人・神品安久の諸氏である。

旧三重町 古来、臼杵藩に属し、芦刈・上小坂・中小坂・下小坂・広瀬・高屋・松尾・上鷲谷・下鷲谷・内田・久知良・内山・松谷・山中・上赤嶺・下赤嶺・市場・肝煎・鬼塚・羽飛の各村を包含していた。廃藩置県の際に臼杵県、つづいて大分県臼杵支庁の所轄となった。明治五年(一八七二)に大区制により第五大区に属し、会所が犬飼にあった。六年(一八七三)に大区の下に小区が区劃されたとき、芦刈村は五ノ小区、上小坂村ほか一二か村が六ノ小区、上赤嶺村ほか五か村が七ノ小区に編入され、小区ごとに戸長が置かれた。八年(一八七五)に大小区制が改められ町村区劃ノ分合改称が実施されたとき、それぞれ合併して芦刈村は五小区に、小坂三村が小坂村、広瀬・高屋・松尾三村が松尾村、内田・久知良両村が内田村、内山・松谷・山中三村が内山村、上・下鷲谷二村が鷲谷村となり六小区に、上・下赤嶺両村が赤嶺村、肝煎・鬼塚・羽飛三村が秋葉村となり市場村とともに七小区に属することになった。その後、行政上の措置として十一年(一八七八)の郡区町村編成法実施の際、小坂外一村、松尾外一村、市場外一村、内田外一村の四つの連合村、十七年(一八八四)の町村役所所轄区域の制定の際、小坂外三村、市場外四村の二連合村の組織ができ、小坂並びに市場に役所が置かれた。二十二年(一八八九)四月一日の町村制実施によって、芦刈村・松尾村・内田村・内山村・鷲谷村・赤嶺村・市場村・秋葉村の九村が合併して三重村が成立し市場に役場を置いた。ここに旧三重町の基盤が固まったが、三十五年(一九〇二)四月十一日に三重町と改称し、爾後、三重郷の中心地の自治体として発展してきた。

 この間の町内での主なできごとは、郡役所の設置並びに廃止、川登村外三十村立尋常高等小学校の消長、豊肥線三重町駅の開業、郡立農学校の創設と発展、県立農学校の三重町移転、灰立町有林の育成確保、市場対農村部の対立争擾、町政への政党政治の浸透、大野成業銀行の消長、大野中部水路の開設、役場を中心とする官公衙街の建設などである。

 歴代の町(村)長は、赤嶺左右平・広田静香・広田武人・有田政太郎・深田稼・伊藤清一・芦刈宇市・伊見寿煕・宇薄恕平・三浦覚一・伊東基・赤嶺九州士・    ・多田虎生・平山登美男・長田松三郎・多田盛雄・伊東東・伊藤又男・首藤卓美である。

旧新田村 古来、高寺・深田・中玉田・下玉田・山方・中尾・久原・小津留・田町の各村からなり、うち高寺のみは岡藩に、他は臼杵藩に属していた。廃藩置県の際に臼杵県、つづいて大分県臼杵支庁の管轄となり、のち五大区七ノ小区に属することとなった。大小区制が改正され、町村区劃ノ分合改称がされるに際してそれぞれ合併し、高寺・深田村が本城村、中・下両玉田村が玉田村、山方・山田・中尾・久原の四村が久田村、小津留・田町両村が小田村となり、ともに第五大区七小区に編入された。十七年(一八八四)の町村役所所轄区域制定の際には、上記の四村が玉田村外三村連合村を組織したが、これは村の地域が狭小では住民の負担も重く、行政上の不便を招くからとの理由から取られた措置であって、四つの村が従来どおり基礎であった。その後、二十二年(一八八九)四月一日に町村制が実施され、本城村・玉田村・久田村・小田村・本城村が合併して新村を形成した。名称が「新田村」と定められたが、けだし、玉田・久田・小田・深田等の旧村名中の「田」に由来したのであろう。新田村は、爾後、明治・大正・昭和と伸展して今日を迎えた。

 この間、諸学校の整備、村内道路網の完備、村有林の造成等が行われた。歴代村長は、多田茂穂・江藤市郎治・    ・佐藤武生・佐藤静・多田豊馬である。

旧野津町入北地区 入北地区は、古来、野津院内の一村で藩政時代には臼杵藩に属し、廃藩置県により臼杵県となり、つづいて大分県臼杵支庁の管轄となった。明治八年(一八七五)の町村区劃の分合改称の際、尾原・谷平・栃原・石上・徳瀬・風瀬・東光寺・鼓石・竹脇・田中の諸村とともに西畑村を構成し第五大区四小区に編入された。この西畑村は十七年(一八八四)の町村役所所轄区域制定に際し東谷村との連合村を組織したが、二十二年(一八八九)の町村制実施の際、西畑村・東谷村・秋山村・吉田村・前河内村が合併して南野津村となった。南野津村は、爾後、川登・野津各村とともに野津郷の一村として、明治・大正・昭和と伸展してきた。その中にあって、入北地区は、同様の事情下にある隣接地区と一緒に田平地区の一員として三重町編入を希望してきた。種々の理由から田平地区内の他地区が断念した中にあって、ひとり運動を続け、ついに野津町(三十年三月南野津村と野津町が合併)から認められ、三十一年十月一日より分離し三重町へ編入された。

旧本匠村片内地区 片内地区は、藩政以来、佐伯藩管轄下の因尾地方の西端に位置して一村を成してきた。廃藩置県により佐伯県、つづいて大分県佐伯支庁に属することになった。八年(一八七五)の町村区劃の分合改称の際、近隣の山部・樫野峯(後樫峯)・腰越の諸村と合併して山部村となり第四区二十三小区に編入された。その後、山部村は十七年(一八八四)の町村役所所轄区域制定のとき、近隣四村と連合して堂野間村外四か村連合村を組織したが、二十二年(一八八九)の町村制実施に際し、改めて上津川村・堂野間村・因尾村・井ノ上村と合併して因尾村となった。爾後、片内地区は因尾村の一区として、明治・大正・昭和を歩み続けてきた。もともと片内地区は、南海部郡はもとより因尾村にあっても最西端の辺境であるので、本村との連絡よりも隣の三重町との交流が繁く、同じ事情下の隣の樫峯地区(のちに三重町編入断念)とともに三重町編入運動を続けた。この間、三十年六月に因尾村が中野村と合併して本匠村となったので、片内地区も、一時同村に属することになったが、三十二年七月一日に本匠村より分離、三重町への編入が実現した。

旧白山村九区 旧白山村の地域は徳川時代岡藩の管轄で、中川氏の領するところであった。管内の組に伏野組・中津留組・宇田枝組・小野市組とがあった。伏野組は三重郷地域内の高寺を含んでいた。また、宇田枝組の一部は旧合川村管内に属し、小野市組の一部は旧小野市村管内であった。管内の村には伏野村ほか一三村があった。いずれも廃藩置県の際には岡県に所属し、つづいて大分県岡支庁の管轄となった。明治八年(一八七五)の町村区劃の分合改称に当り、十四村はそれぞれ合併して第五大区十小区に編入された。すなわち、伏野・中野・内平・大無礼・中津無礼の五村が伏野村、中山・近郷・久部・大白谷の四村が大白谷村、押川・中津留の二村が中津留村、奥畑・板屋・代の三村が奥畑村となった。十七年(一八八四)の町村役所所轄区域の制定の際、上記四村は連合して伏野村外三村連合村を組織し伏野に役所を置いた。そして、二十二年(一八八九)の町村制実施に際し、正式に伏野村・大白谷村・中津留村・奥畑村の四村が合併して白山村が成立した。

 ところで、この時の合併は他の町村と同様であるが、次の県令に基づいたものである。

 

 「県令甲第十二号

 

 町村制施行ニ付町村区域名称別冊ノ通相定本 年四月一日ヨリ施行ス

 但旧町村名ハ大字トシテ之ヲ存ス

         明治二十二年三月二日

                     大分県知事 西村亮吉」

 

そして、右県令にある「別冊」をみれば、白山村の項は次のとおりとなっている。

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ・大野郡・                 ・

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ・町村名・区域              ・

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ・シロヤマ ・                 ・

 ・白山村・伏野村 奥畑村 中津留村 大白谷村・

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

右によれば、村名に振りがなが付されているが、これは例えば「新田村」のように他の町村とも同様であった。この県令には特に注記はないが、明治八年(一八七五)三月十三日の大小区改正・町村区劃ノ分合改称の際の布達に記されてあった「村ノ名ハ往昔ヨリノ唱ヘ方又此度更ニ設ル村名ノ唱ヘ誤リナカラシメン為側ニ仮名ヲ加ヘ置ク也此カナハ唱ヘタガヘナキヲ要スル為ナレバ仮名ノ文字ヲ撰バザルナリ」との付言を踏襲して振りがなが付されたものと思われる。文字で書く場合は振りがなを用いないが、唱え方、特に新たに設けた町村名に唱え誤りがないようにとの配慮からであろう。ここで、はからずも二十二年(一八八九)の町村制実施に際して「町村区域名称」を定めた県令では、「白山村」は「シロヤマムラ」であったことを知らされる。このことは、戦後進駐軍提出書類において「SHIROYAMA」と書かれていた根拠であろう。しかし、「シロヤマムラ」という呼称は、白山村成立の当初から村民になじめないところがあったためか広く普及されず、一般には長く「ハクサンムラ」で通してきた模様である。詳しくは後日の考証にまたなければならない事項であろう。

 村内での主要事業は、国有林の育成協力、民有林の造成、村内道路の開設、大理石の採掘移出、畜産の振興等であった。歴代の村長は、吉良琢蔵・三浦清記・衞藤一・衞藤虎蔵・衞藤政次郎・和田宗照・首藤栄太・衞藤市夫・後藤幸士・和田至暁であった。

 この白山村は、森林資源に併せて鉱産物に富む純山村として、明治・大正・昭和と伸展してきたが、昭和三十年一月一日に合川村・牧口村と合体合併して清川村となり、つづいて三十二年四月一日には旧白山村地区内の奥畑・代・板屋・大無礼・中津無礼・内平・中津留・久部・白谷の九区が三重町に編入された。その経緯は別項のとおりである。

 

                                                  

清川村となり、つづいて三十二年四月一日には旧白山村地区内の奥畑・代・板屋・大無礼・中津無礼・内平・中津留・久部・白谷の九区が三重町に編入された。その経緯は別項のとおりである。