第五節 三重町の成立と産業の発達

 

  一 大野郡衙・三重郷の発展

明治地方自治制度の発足 明治二十年代の初頭は、近代政治史上の一大画期であった。明治二十二年(一八八九)に大日本帝国憲法が発布され、「万世一系ノ天皇」が国の元首として、「統治権ヲ総覧」する体制が整った。翌二十三年(一八九〇)には、天皇の協賛機関として、「立法権ヲ行フ」帝国議会が開会する。議会の権限も、議員の選挙権も、被選挙権も、きわめて限られたものではあったが、ともかく、選挙で選ばれた国民の代表が、国政に参画することとなった。初期議会では、自由民権運動の流れをくむ民党が、政府系の吏党を圧倒し、特に予算をめぐって「民力休養」を叫ぶ民党と「富国強兵」策の超然内閣とが激しく対決した。

 大野・直入の両郡から成る大分県第三選挙区の有権者は九七三名で、本籍人口の〇.八六lにすぎなかった。「国民の代表者」とはいえ、一l弱の代表者なのである。第一回総選挙以来、大分県第三選挙区からは、朝倉親為(大成会〜国民協会)が連続六回当選を果たしている。朝倉は直入郡会々の出身であるが、県官や大野郡・直入郡の郡長を経て、衆議院議員となった。吏党の朝倉に対し、三重村出身で、県会議員、三重村長をつとめた広田静香(立憲改進党)は、民党を代表して、前後四回にわたって朝倉と争い、すべて敗北した。大分県が全県一区制となった第七回(明治三十五年・一九〇二)総選挙を前に朝倉が病死し、以後豊肥地区関係では、中川久知(中正倶楽部)・三浦覚一(立憲政友会)らが当落をくり返した。このうち三浦は、百枝村の出身である。農商務省水産講習所を卒業後、大分県技師・遠洋漁業会社社長を歴任、政友会に推されて国会に議席を得ると、「水産通」として活躍した。豊肥地区では、朝倉・中川・三浦に見られるように、吏党〜政友会系の優位が目につく。明治後期から大正期にかけて、三重郷で政友会を支えたのは伊藤清一(源屋)らであり、麻生林平(大和屋)らを重鎮とする憲政会系を圧倒した。・

 憲法発布、帝国議会開会と相前後して、市制および町村制、府県制、郡制が公布され、いわゆる明治地方自治制が発足した。大分県では、明治二十二年(一八八九)四月一日に町村制が、同二十四年(一八九一)四月一日に郡制が、同年八月一日には府県制が施行された。しかし、明治地方自治制下の知事・郡長は国の官吏であり、県・郡とも、固有の財産と予算・議会を有するとはいえ、「自治」には大きな限界があった。官の強い監督を受けつつも、市町村は一応自治体としての体裁を整えていた。ただし、「公民」による自治体制である。公民とは、住民中、その市町村に二年以上居住する二五歳以上の男性の戸主で、地租または直接国税二円以上を納める者をいう。ちなみに、明治二十二年(一八八九)現在、大野郡の「公民」数は一万一一八名で、本籍人口の一四.四lであった。しかも、この一四.四lの有権者にも格差があり、町村会議員は、町村税の納税額に応じて一票の価値を異にする、等級選挙で選ばれる仕組みとなっていた。町村会で町村長、助役が選ばれ、収入役は町村長の推薦により町村会が選任した。明治期の「地方自治」は、富裕男性たちの「自治」にほかならなかった。参政権についての所得制限は大正末、性別制限は昭和二十年、等級選挙も大正末まで続いた。なお、町村吏員中、収入役・書記は有給吏員であるが、村長・助役は名誉職を原則としていた。

 表1は、明治中期の三重関係五村の村別議員数、村吏員数を整理したものである。村会議員数は、三重が一八名のほか、四村とも一二名、各村とも有給の区長および区長代理を配しているとはいえ、役場吏員数はきわめて少ない。二十六年現在で、新田・白山両村を除く三村の村長はすでに名誉職ではないが、有給の助役は三重村のみである。村事務の繁雑化にともない、村長・助役とも、名誉職の非常勤から有給の常勤吏員へとかわり、書記・付属員も増やされていく。

三重村の町制施行 明治二十二年(一八八九)の町制施行当時、県下二七九町村のうち町制施行地は一四町であった。そのほとんどが旧城下町、旧陣屋所在地であり、県下十二郡中、東国東郡・玖珠郡とわが大野郡の三郡には、町制施行地がなかった。しかし、大野郡衙である三重村は、旧市場村など九か村が合併して成立しただけに、その発足当時すでに戸数一千、人口五千を超えていた。戸数・人口とも、百枝・新田両村の二倍以上、菅尾村の三倍に近く、大野郡内ではとび抜けた規模を誇っていた。その後の五村の人口推移は、図1のとおりである。百枝・新田・菅尾・白山四村の人口が停滞しているのに対し、ひとり三重村は、明治三十年代には六千、大正初期に七千、大正後期に八千台を突破し昭和十年の八八七四に至るまで、一直線の上昇を続けている。三重村が、大野郡の政治・経済・文化の中心地として、着実な発展を続けた証左であろう。

 明治地方自治制施行時、画一的な町制施行基準はなかったようであるが、村から町への呼称変更には、村会と郡参事会の議決、県参事会の承認を必要とした。三重村の町制施行経過を記したであろう明治三十五年(一九〇三)の関係会議録は現存しないが、『大分県報』(第八百十六号)に、つぎの告示がなされている。

 

 大分県告示第六十五号

 明治二十三年法律第七十七号ニ依リ 管下大野郡三重村ヲ三重町トナス

  明治三十五年四月十一日 大分県知事大久保利武

 

 三重村の人口・戸数、大字市場を中心とする官公庁・市街地の所在、都市的業務従事者の増加等が考慮された結果であろう。三重村は県下二十七番目の町となった。すでに森町(明治二十六年)、国東町(同二十七年)も成立していたので、三重町の成立は、県下の郡役所所在地としては、最後の町制施行であった。中心地大字市場には、大野郡役所のほか、区裁判所出張所・警察署・収税署・郵便局等が置かれていたが、町制施行前後には、郡立農業補修学校の郡立農学校への転換や二十三銀行・大分貯蓄銀行の出張店設置も見られる。このうち、大野郡役所は多田五十馬宅借用ののち、明治十八年(一八八五)六月に庁舎を新築していた。一階が行政執務室、二階が大会議室であったが、のちに、一階の一部に郡農会が事務局を置くとともに、構内には気象観測所も設けられた。明治三十年(一八九七)ごろの大野郡役所は、第一課(庶務・学事・衛生・兵事・戸籍の五掛)、第二課(農商・土木・地理・出納の四掛)の二課編成で、郡長以下、書記一三、郡視学、雇い各一の計一六人を擁していた。明治三十一年(一八九八)以降、郡役所機構は県下全郡一率三課編成に統一される。郡財政は郡内町村への分賦金で成り立っていたが、歳出総額は、明治二十四年(一八九一)の郡制施行時の三九五円余が、二〇年後には四万二六五一円へと一〇八倍の増加となっている。歳出科目も、当初の会議費・郡費取り扱い費・諸税の三科目が、郡職員費・教育費・土木補助費・勧業補助費などを中心に一八科目に増加している。明治中期後・郡役所行政がいかに急激な膨張・拡大をとげたかが知られよう。郡役所行政の膨張はまた、郡衙三重町、とりわけ大字市場の膨張を将来させるものであった。

 明治四十一年(一九〇八)三月以来の「市場対在部紛擾事件」の背後には三重町内の市場と在部の不均等発展があった。和解のために結ばれた「協定書」(十月十一日)・「誓約書」(同二十日)によると、市場地区への郡事業に対する郡夫役負担問題が発端となり、共有地にからむ公民権問題が発生、絶交騒動や郷社市辺田八幡社神幸祭典非協力等の「紛擾」となったようである。十一月十日、町内全戸から一名ずつの参加を得て西宮公園で三重町平和克復祝賀会が開かれた。「平和克復」のための「誓約書」は七項目からなるが、最後に「町会議員ハ市場区ト在部ノ戸数ニ拠リ按分比例ヲ以テ配当スル事」「将来町内ニ於テ紛擾ヲ起シタル時ハ、郡長・警察署長・町長ニ謀リ、円満解決ヲナス事」の二項がある。なお三重町長には、この紛擾を機にこれまでの有田政太郎にかえて、五月衆議院議員に当選したばかりの三浦覚一を迎えたが、短期間でさらに芦刈宇市に代わった。

日清・日露戦争と三重郷 日清戦争(明治二十七、八年)と日露戦争(同三十七、八年)は明治中後期最大の歴史的事件であった。わが三重郷への影響も強力かつ広範であったことは、百枝村長が村会に対して行なった「事務報告」の中にも見られる。

 

 (二十七年度) 五月ニ朝鮮国内乱起リ、其ノ結果終ニ日清交戦ノ詔勅アリ。軍事ニ関スル事務頻ル繁忙ヲ極 メ、其ノ他通常事務ニ至テハ頻年日ヲ追ヒ繁劇ニシテ、其ノ事務ハ最緻密ヲ要シ、目今ノ景況ニ拠ルト、書記 壱名ヲ増サザレバ、処弁上甚ダ困難ナルベシ。

 (三十七年度) 当年度ニ於ケル事務ハ、世ノ進運ニ従ヒ、日ニ月ニ諸法律及ビ規則ノ改正アリテ、益々事務 ハ緻密ヲ要シ、殊ニ日露交戦ノ時局トシテ、産業発展ノ経営、記念事業ノ計画、国庫債券募集モ三回ニ及ビ、 且ツ兵事事務ハ勿論、税務整理其ノ他何レモ増徴ニ従ヒ、諸帳簿ノ改正、整理、出征軍人往復ニ関スル事務、 軍人家族ニ対スル取リ扱イ、其ノ他軍国ノ今日トシテ、平時ト異ナル非常事務ハ毎挙ニ暇アラズナリ。

 

 明治三十八年(一九〇五)三月一日から十日間にわたつた奉天大会戦にはともかく勝利したものの、戦費は国力の限界に達しつつあった。三月二十日、百枝村長山本喬は村内各区長にあてて諭告を発した。「今回露国トノ戦役タルヤ、実ニ空前ノ事変ニシテ、我国未ダ曾テ見ザル難役」だとの認識のもとに、 「泰平ノ時ニ数倍シ、精心ヲ疑ラシ、役ヲ労シ、国家ニ貢献」せよ、というものであった。具体的指示が十四項列挙されているが、その中で直接戦争に関するものとしては、「出征軍人ノ身上其ノ家族ニ対シテハ、事変アル時ハ勿論、常ニ斡旋ノ労ヲ執ラレタキ事」のほか、「常ニ各戸ニ対シ、勤勉貯蓄ノ増蓄ヲ促ス事」「時局柄質素倹約ヲ旨トシ、其ノ区内適切ノ申合セ規約ヲ成立セシムル事」「戦時記念トシテ、殖林其ノ他適宜ノ産業ヲ奨励スル事」などが見られる。

 このように、戦争の影響は全村民に及び、村政全般にかかわるものではあったが、最もおおきな犠牲を被ったのは、やはり出征軍人とその家族であった。日清戦争では県下から一八一名の戦病死者が出ているが、その中に新田村の新道熊次郎と菅尾村の波津久直五郎がいる。新道は明治二十八年(一八九五)六月二十七日に旅順口兵站病院で、波津久は同年八月二十九日に門司患者集合所で病死した。ともに混成旅団歩兵二三連隊の所属であり、下関条約調印後の死亡である。異郷の地への従軍の困苦は、直接的な戦闘死のみではなかったのである。

 日露戦争に従軍した百枝村の神田亀太郎は「戦争日記」を残している。神田は対露宣戦布告に先立つ明治三十七年(一九〇四)二月六日に召集をうけ、ポーツマス条約締結四か月後の明治三十九年(一九〇六)一月八日に北方本隊に帰隊、召集解除ののち、同十二日、なつかしい郷里の土を踏んだ。北方野戦砲兵第十二連隊所属であったが、臨津では「大川モ氷リテ人馬ノ飲水モ無ク、甚ダナサケナ」い経験をし、輪樹林子では、部隊に四百名の負傷者と三五名の死者を出す戦闘にも参加した。同氏の「戦争日記」は、親族の玉田了(市場 印判業)方に遺されている。

 なお、のちに三重郵便局長として大きな業績をあげた市場の多田隆も神田亀太郎と同時期に応召し、陸軍歩兵少尉(戦役中に中尉に昇進)として従軍した。所属部隊は北方(現北九州市)の第四七連隊第一中隊で、黒木大将の率いる第一軍に配され、第一線の小隊長(のち中隊長代理)として満洲の主戦場を転戦し、偉功を立てた。当初、靉陽辺門・賽馬集等で交戦したのち、北進して遼陽や奉天の大会戦に参加し大勝を博し、平和回復後、凱旋した。その間七百余日、多田中尉も同じく毎日欠かすことなく手記をしたためた。そして帰郷二年後、毛筆で端正に浄書し、「明治三十七八年日露戦役従軍日誌」と題してまとめたが、数十万語に達する浩瀚な全巻格調高い筆致で貫かれ、巧みに戦陣の風物を描いた挿絵も添えている。そして、戦局の推移・戦術の検討・戦闘の経過・戦友の動静・敵地の状況・家郷三重の人々との交流などが、目の当たりに見るごとく鮮明に綴られていて、単に一従軍者の戦記であるにとどまらず、時と所を超えた優れた人生記録となっている。この日誌は多田局長の没後、嗣子潔(在東京都 弁護士 元陸上自衛隊司令)のもとで保管され、さきに雑誌『軍事研究』に連載の後、昭和六十一年六月、甥の小野英雄(在三重町 会計士)の手で上梓された。

 日露戦争での三重郷四村の犠牲者数は、表2のとおりである。戦死者八名、病死者一〇名で、日清戦争時の九倍に達した。戦争に要した国家支出も、日清戦争時の二億一千万円に対し、日露戦争では一〇倍近くとなる。戦争は、時代の推移とともに総力戦化し、その犠牲も経費も、大きく膨張して行くのである。

町村財政の窮乏と新三重町・東三重村構想 「菅尾村歳入出決算表」(明治二十二年〜大正十四年)が現存している。村財政の推移を見るために、これ以上の資料はない。当時の歳入出予算は、「量出定入」方式で決定された。図2で、菅尾村の歳出決算額の推移から見よう。明治二十二年から四十五年までの四半世紀に、歳出額は約一六倍に増えているが、同時期の米価上昇は三・四二倍である。物価上昇率を考慮してもなお、村歳出は四倍以上増えた計算となる。日清戦争後の、いわゆる戦後経営期から日露戦争後数年間までの上昇率がとくに高い。表3で歳入出の内容をみよう。歳出の中心はいつも役場費と教育費である。役場費は、村長以下職員の報酬・給料・旅費のほか、需要費・通信運搬費・役場建築修繕費など、教育費は、教員給料・旅費のほか、需要費、校舎建築修繕費などからなる。明治中期と末期では、役場費と教育費の比率が逆転し、教育費が歳出のトップに出て来る。明治四十五年度(一九一二)の歳出に限れば、諸税及び負担が経常部の半分に近く、教育費・役場費をおさえているが、これは柳井瀬川魚道開削のための戸上・菅尾二か村組合の負担が巨額にのぼったためで、一時的なものである。このほかにも、隔離病院建設の三十六年度、学校建設の四十年度のように、歳出の突出した都市がある。経常部・臨時部とも、年とともに科目数が激増しており、村行政の緻密化とともに額面も大きく膨張、拡大していることがわかる。

 これらの歳出をまかなう歳入の大部分は村税である。四十五年度歳入の約三〇lに近い雑収入も、その内実は一種の村税である。村税は国税・県税の付加税で、地価割・戸別割・営業割・所得割等からなる。表4にみるように、中心の座にあった地価割は年とともに比率を下げ、代わって戸別割の比率が大きく上昇、営業割、所得割も増加の傾向にある。明治二十二年と四十五年を対比すると、地価割が三・一九倍であるのに対し、戸別割は実に三〇・三八倍となっている。一六倍となった村財政の膨張は、地主の払う地価割によってではなく、戸別割を中心とする大衆課税によってまかなわれたのである。明治四十三年(一九一〇)の町村別・税別徴税額は表5のとおりである。国や県から町村への交付額はきわめて微小であったことがわかる。多くの国政委任事務はおしつけられながら、地方から吸い上げた国税・県税の地方還元は、ほとんどなされないのである。

 こうして、とくに日露戦争後は地方細民の窮乏が著しく、各町村共きびしい財政難におちいる。各町村とも、貯蓄組合や納税組合をつくって、租税の完納にとり組まなければならなかった。

 明治四十年(一九〇七)、内務省は全国的な町村合併の指導にのり出す。「町村吏員及ビ議員ニ適材ヲ得、事務費ヲ節約シ、住民ノ負担ヲ軽減シ、教育・勧業・衛生其ノ他緊要ナル施設ヲ容易ナラシメ、(中略)……益々其ノ資力ヲ増進シ、基礎ヲ強固ナラシムル」ためであった。大分県内でも、四十年一年間に三一町村が合併して、新たに東大野村など一一町村が成立した。三重郷四か町村にも県知事千葉貞幹から、三重町と新田村合併による新三重町案、菅尾村、百枝村合併による東三重村案が諮問され、郡役所の強い指導もなされたが、実現には至らなかった。四町村がそれぞれ拒否した理由は、両案とも経済上の利益に乏しく、地域狭長となり不便だというものであった。ただ、新三重町案に対する新田村の答申書の中ですでに、三重と新田・百枝・菅尾四か町村合併への展望が示されていたことは注目される。しかしこの時点での三重郷は、合併という荒治療なしに、これまでの行政枠の中で、財政難の克服と町村勢の浮揚に励む決意をしたのであった。

 

 注(1)『大分県統計書』(明治二十三年版)

  (2)衆議院事務局『衆議院議員総選挙一覧』

  (3)小俣慧『大分県人名事典』

  (4)(3)に同じ。

  (5)(1)に同じ。

  (6)『大分県史』近代篇二

  (7)三重第二尋常高等小学校「郷土誌」(三重町蔵)

  (8)(7)に同じ。

  (9)「管内巡回取調書」(大分県立大分図書館蔵)

  (10)『大野郡会史』

  (11)「市場対在部紛擾一件書類」(三重町蔵)

  (12)「百枝村村会書類」(同前)

  (13)「百枝村申牒録」(同前)

  (14)「御祭神名簿」(大分県護国神社蔵)

  (15)三重町誌(沿革編)「人物」三八二頁〜三八六頁 多田一族参照                  (16)三重町蔵

  (17)佐藤蔵太郎『大分県町村沿革誌』

  (18)「新田村会議議決書」(三重町蔵)

 

 

  二 産業の発達と三重ん市

大野郡農会の活動と明治農法の確立 「大分県の満州」「大分県の北海道」、明治・大正期わが大野郡をこう表現した書籍も散見される。大野郡の広大さとフロンティアとしての期待から来たものであろう。しかし、フロンティアからの脱皮は一夕一朝にはいかない。「大分県農事調査」で、明治中期の大野郡農業の実態をみよう。

 大野郡は全面積の七割強が山林・原野で、耕地は二五l弱。田畑の比率は一対二。農家戸数は一万三,六七五戸に達し、全体の九四lの家が何等かのかたちで農業に従事していた。一農家あたりの平均経営面積は一町一反と広いが、水田面積は四反に満たない。農産物は穀物・根菜類・果樹・家畜など六三種で、その総価額は一一七万円余となり、すでに県下では大分郡とトップを争っている。主要産物は、粳米(三四万円)・大豆(一〇.六万円)・青芋(八.七万円)・たばこ・小麦・粟など。第一位の粳米もかなりの陸稲を含み、ほとんどが畑作物である。農産物で郡内需要をまかないきれないのは、実綿と南瓜ぐらいであった。肥料は油粕・魚鱗・厩肥・青草・人糞などに頼っており、「田ハ多ク牛馬ヲ用ユ。其ノ割合牛馬耕七分、人耕三分ナリ。畑ハ牛馬耕・人耕共ニ相半ス」という状況であった。また、「本郡ノ農業ハ旧習を固守シテ、主ニ米麦作ニ力ヲ尽シ、他ニ有益ノ特産物アルモ、其ノ培養ヲ講ズルモノ甚ダ稀ナリ」との記述も見られ、近代農業への脱皮の動きは、なお遅々としていた模様である。

 明治前期が政治的激変期であったのに対し、後期は経済・社会の激変期であった。日清・日露戦争勝利による海外市場の確保と並行して、産業革命が進行したからである。その影響は広範に及んだ。農業面では、外貨節約の意味もあって、米・麦・繭の自給体制確立が政策の基本にすえられた。上からの指導によって、養蚕が奨励される一方、水田の畜力耕・乾田化・金肥使用を根幹とする「明治農法」が確立するのである。農会がその先頭に立ったのである。

 大野郡では、まず「各村農会を確立し、進んで郷の農会を開き、遂に郡の大会を開く」という過程を踏んで、明治二十八年(一八九五)五月十三日、郡農会の結成にこぎつけた。大分県農会の設立はひと月後のこととなる。初代大野郡農会長には、川登村農会長の広田牧次郎が就任した。「大分新聞」の明治三十一年(一八九七)十一月二十六日号は、このころの熱気を「大野郡の実業会」と題して、次のように伝えている。

 

 本郡の実業会は近年著しく進歩をなし、官民常に一致協同、以て他郡を凌駕するの域に進み、天然の良地たる 美禄に愧ぢざらんことを期し、開墾に農具改良に畜産に、其の他奨励至らざる処なし。

 

 明治三十二年(一八九九)に農会法が成立すると、農会は自主団体から官主導の公共団体となる。県知事・郡長・町村長が各段階の農会長を兼ね、その財政も国県の補助金や郡町村の負担金によってまかなわれる。県農会に講師一名、各郡に技手一名を配置、各郡ごとに農事試験場を設置して、農事応用試験を行なわせた。大野郡農会の初代技手には明治三十四年(一九〇一)に佐藤真平が任命されたが、翌年農事講習会修業生によって組織された大野郡成農会の会員、郡立農学校の卒業生とともに、大野郡農業の変革につくした功績は大きい。

 なお、日露戦争後の不況の中で、大分県は千葉貞幹知事のもと、初の総合的産業振興計画ともいうべき「農事奨励に関する施設方針」を作成した。米・麦・養蚕・林業等の奨励を内容とするものであったが、各郡・町村でも細案がねられ、具体的数字をあげてのとり組がなされる。これまでの経過を踏まえた上で、明治末期から大正期にかけて、再飛躍の時期を迎えるのである。

農牧業の発達 明治後期の二〇年間で、大野郡内の米・麦収穫量は五〇l以上の増加を見せた。米麦作付面積の増加がわずかであることから、技術の進歩によることは明らかである。わが三重郷内においても、例えば百枝村で明治三十九年(一九〇六)以降、谷・上田原の両溜池の新築、川辺世原・向野辻・川辺の各溜池の修理等が確認される。用水施設が整えられたのである。新田村の玉田久田地区の排水工事(総面積一二町弱)は、乾田化をめざす郡内最初の耕地整理事業であった。完工までに八年間を要した。大正元年(一九一二)には、地目変換と揚水機設置をめざした百枝村西原組合(総面積一九町弱)も発足している。明治三十五、六年から県・郡の強力な指導で、米作技術の改良も進められた。「勧業」に関する記述はこの時期連年見られることではあるが、明治三十九年(一九〇六)の「百枝村事務報告」にはつぎのように記されている。

 

 勧業事務ハ殊ニ戦後ノ経栄トシテ、何レモ生産業ノ改善発達ヲ図ラザルナシト雖モ、米作ニ於テハ、冬期害虫 駆除ヨリ種籾ノ塩水選別、苗代田ノ共同及ビ作製ノ方法、三回以上ノ注油 採卵駆除 本田移植ノ正方形ノ挿 秧、其ノ後三回以上ノ注油、心枯穂枯ノ抜取、籾ノ乾燥等精米ニ至ル迄、米穀ノミニシテモ毎挙ニ遑アラズ。

 

 そのほかにも、農事奨励のため各町村農会が種々の取り組みをしていたことは、菅尾村農会の場合について整理した表6で読みとることができよう。

 大野郡の養蚕業の出発は、県下では最も遅い方である。明治十七年(一八八四)に郡長朝倉親為が「蚕業の有利」を唱導したのがはじまりという。以後、郡役所の奨励もあり、明治二十年代中でようやく郡内に定着し始めた。明治三十一年(一八九八)には三重村に小野官次郎らの共同経営になる蚕友社も発足し、注目された。しかしその後、蚕病が蔓延し、大打撃をうける。養蚕の前途を危ぶみ、せっかくの桑樹を堀採する者が続出した。郡内で養蚕業が再飛躍を始めるのは明治四十一年(一九〇八)からである。郡長秋吉作内のもとで、一農家繭一石の生産をめざす蚕業十か年計画がつくられた。計画達成のため、翌四十二年(一九〇九)から町村蚕業巡回教師を設置し、共同桑園の造成、稚蚕の共同飼育、蚕繭、桑園品評会、産繭整理講習会等が続けられる。やがて、第一次大戦中の品不足を背景に、養蚕業は飛躍的な発展をとげ、穀物につぐ生産価額をあげることとなる。明治四十三年(一九一〇)段階で、菅尾・百枝・新田三村はすでに、郡内トツプレベルの養蚕村となっていた(表7参照)。

 葉たばこ栽培も苦難の末に、明治四十年代から軌道に乗り始める。専売制が施行された明治三十一年(一八九八)、臼杵に煙草専売所が、三重・犬飼などにその支所が設置された。「専売法施行後四、五か年間の煙草耕作の運命たるや、殆ど風前の灯火たるの観あり」、「郡内におけるたばこ収納所の廃止論さへ唱導せらるる」状態であったという。明治四十一年(一九〇八)、郡農会幹事糸永幸作と町村長・農会長の呼びかけで、三重・井田両郷煙草耕作組合連合会が結成され、これが転機となった。

 たばこ耕作組合連合会は、郡農会を通じて郡費の補助を獲得し、神奈川県など県外先進地から指導講師を招聘したりして、耕作法の改善に取り組んだ。米価や養蚕の推移と関連しつつも、徐々に定着・発展して行くのである。明治四十三年(一九一〇)現在の葉たばこ栽培者は表7のとおり、三重町・百枝村が各二百戸前後、新田・菅尾両村は七十戸余で、四町村の賠償額は六万八千円に達していた。なお、白山村への養蚕・はたばこ栽培の普及は遅れた。

 畜産部門では、大野郡は江戸時代以来の歴史もあり、明治前期百枝の岩ノ久保や赤嶺の権現堂・大原でも牛馬市が開かれていた。しかし、畜産熱が本格的に高揚するのは、日清戦争後馬匹改良の必要性が全国的に唱えられてからである。明治三十年(一八九七)、郡予算の中にはじめて畜産奨励費が計上され、明治三十一年(一八九八)には大野郡畜産組合が発足した。三重村の獣医山住須摩吉発起になる「県下比類なき大規模の」競馬場が、百枝村に作られたのは明治三十二年(一八九九)の早春であった。明治三十四年(一九〇一)、産牛馬組合法に基づく大野郡産牛馬組合が発足してからは、牛馬飼育の重点は繁殖におかれるようになる。産牛馬組合は、畜産講話講習会、牛馬品評会を開いて啓蒙・宣伝に努める一方、熊本県種馬所や大分県種畜場からの種牛馬の借り受けと、種付場の増設、種牝牛馬籍の編成、優良種牝牛馬購入の奨励等を並行させて、飼育牛馬の改良にとり組んだ。大正期に大野郡産牛馬は、県下はもちろん全九州で認められ、「大分県の驥北」といわれるようになる。

林業・水産業の発達 表8は、大正初期の三重町の所有者別山林面積を示したものである。全体の五四lは私有林であるが、多くの場所に分散し、いくつかの例外はあったとしても、一戸あたりの所有面積は概して小さかったと思われる。私有林五〇l台は県下ではめずらしい。大野郡は県下他郡と比べ公有林の面積が著しく広いが、三重町の場合三十七lに達する「その他団体林」が特色である。学校林や部落有林もこの中に含まれるが、三重郷四町村組合林(約百町歩)のしめる比率が高い。南海部郡界の佩楯山麓を中心とするものである。幕末臼杵藩政下に杉の植林がなされたが、明治前期荒廃し、有志の呼びかけで明治二十九年(一八九六)、三重、新田・百枝・菅尾四村山林組合が結成された。以来、各村会選出の十名の組合議員を中心とする管理が続けられた。組合結成以来、明治末年までに、ほぼ四十万本の杉苗が植えられ、その後も年々三万本ずつの植栽が続けられたという。明治四十四年(一九一一)から翌年にかけて、成木の立木売却により佩楯林道の開削を進め、中尾山林道の費用も蓄積して行った。町基本財産造成のため、大字小坂での松・杉・桧の植栽も続けられた。

 県段階でも林産蕃殖奨励費下付規則(明治二十五年)・樹苗下付規則(同三十七年)の制定、林業技術員の設置(同四十二年)などを通じて林業振興に取り組んでいたが、とくに明治四十三年(一九一〇)からの郡設苗圃への奨励金交付の波及効果は大きかった。三重郷では大分小林区原山官有林伐採あとに、郡設苗圃が設けられ、ここで育てられた杉・松・桧苗が無料で配布される。公私有林を問わず、明治末から大正期の植林ブームを支えたのである。

 なお、明治三十九年(一九〇六)十月に大野郡木炭組合が組織され、事務所を三重町においた。目的は「製品ノ改良、営業上ノ幣害矯正、販路拡張」などであった。椎茸生産も、大正初期には大野郡は「その品質の優良なると産額の大きなるに於いて全県に冠た」る状況に達した。

 漁業は大野河流域の淡水漁業のみである。大野川の本支流は水質清冷で、古来鮎の名所として人々に知られていた。明治二十七年(一八九四)の『水産事項特別調査』(農商務省)においても、菅尾村の浅瀬(一二戸)や百枝村の向野(八戸)白山村の伏野(二戸)などを中心に、三村合計四〇戸近い漁家が確認されている。大野川漁業のさらなる振興をめざし、明治四十五年(一九一二)、大野郡会で魚道の開削が決議された。大分県水産技師の指導と、農商務省水産講習所長日暮技師の実地踏査による指導をうけて、大野郡技手が中心となり取り組んだ。大正元年(一九一二)十二月から四か月を要して、沈堕滝の上下をトンネル魚道・魚架でつなぎ、「曽て鮎を見ざりし緒方郷地方に多数蕃殖を見……鰻の如きも亦著しく蕃殖するに至」ったという。矢田川・三重川・野津川でも魚道開削がなされ、「何れも予期以上の好成績を得て、地方の福利を増進し」た。三重川(柳井瀬)の魚道開削負担金で、明治四十五年度(一九一二)の菅尾村予算中、「諸税及び負担金」が巨大化したことは、前節に述べたとおりである。大野郡の魚梯架設事業は、大正五年(一九一六)、東京で開かれた海事水産博覧会において、功労賞を受け注目された。

商工業・金融業の発達 商工業の発達は遅々としていた。三重郷の各小学校の教師たちによって、大正中期に書かれた郷土誌にも次のように記されている。

 

 (菅尾尋常高等小学校「郷土誌」) 本村ハ農業主体ニテ、商ヲ営ムモノハ甚ダ僅少ニテ、明治維新前迄ハ僅 カニ三・四戸アリ。……然レドモ人口増加ト交通機関ノ発達ニヨリ路傍ニ店ヲ構ヘ、商ヲ営ムモノ漸次増加ス ルニ至レリ。サレドモ其ノ営業タルヤ微々タルモノニテ、唯酒類小売、其ノ他日用品ノ一部ヲ販売スルノミニ テ、会社的組織ノモノ更ニナシ。

 (百枝尋常高等小学校「郷土誌」) 本村ハ農業大部分ヲ占メ、工業ニ従事スルモノ多カラズ。而シテ其ノ多 クハ農業ト兼業ニシテ、単独工業ヲナスモノ唯醸造者二戸アルノミ。

 

 新田村・白山村も同様であった。しかし、交通の要衝であり、大野郡衙でもある三重町は、様相を異にしていた。明治四十三年(一九一〇)現在、町内総戸数一二六〇戸のうち、農家が九〇〇戸、商工業が六三〇戸であった(表9参照)。総戸数との関係で、少なくとも二七〇戸以上の兼業はあったとしても、専業商工業者も三〇〇戸ほどには達していたことになる。市場地区を中心に市街が形成され、「三重ん市」のにぎわいが見られたのである。土生米作は往時を回顧して次のように記している。

 

 泉町には、上米屋・広島屋・泉原・神力屋・万力屋・玉置屋・柴田等の米穀問屋が集まっていた。内山方面か ら羽飛方面から、玉田方面から竹田街道から、続々と馬車や牛馬に依って運ばれた穀物が、この上市で取引さ れたのである。その運送業者の殆どは、野津、南野津方面の人たちであった。ここで仲買い商と馬車引との間 に取引が行なわれて、臼杵方面に送られた。……従って馬宿も多かった。一番大きいのが学校下の泉原の安う さん、玉田立平氏、神力屋うら等で、二疋三疋のつなぎ場は何処にでもあった。……もう一つ上市の異色は料 亭の多いことであった。綿宇(のちに日向屋)、次に玉屋(のちに知田屋)、次に川島屋、次に花月(移転新 築してのち嬉廼)、玉田屋、緒方屋。以上の様に料亭群に絃歌の絶える夜はなかった。それ等の店には田舎名 妓が必ずいた。

 

 市場周辺には、蒸気や電力を動力とする新しい工場も設立された。まず第一は、明治三十三年(一九〇〇)八月に佐藤伊吉によって秋葉に創設された三重製糸工場である。二.一馬力の蒸気を動力として生糸を生産した。当初、従業員は女子二八人であったが、明治四十一年(一九〇八)には男子二人を含む三一人となっている。そのうち四人は一四歳未満であり、労働時間も一日一一時間という長さであった。明治四十年代には赤嶺に、セメント樽製造を行う二つの製板工場が発足した。明治四十一年松尾今朝治創業の松尾製板工場と明治四十二年房崎嘉平治創業の房崎製板工場である。従業員は両工場ともほとんどが男子で、総員は前者が二三人、後者が一二人。動力はともに蒸気であった。明治四十二年(一九〇九)、大分水力発電所が沈堕滝を利用して創業し、三重町にも配電が始まった。町内に電灯がともり始め、電力を動力源とする表10のような精米所も発足する。以後、人力や水力に依存していた小精米所が急速に淘汰されたことはいうまでもない。松尾・鷲谷・内山を中心とした抄紙業の急速な衰退にも、和紙から西洋紙への転換という大きな時代の流れが背景にあった。明治三十五年(一九〇二)の三重製紙販売購買組合の結成をもってしても、「三重判紙」の起死回生はならなかった。

 こうして、日清・日露戦争後、三重郷においても産業革命は確実に進行したのである。金融業の分野でも新しい動きが見られた。江戸時代以来、一般には頼母子講や質屋が利用されていたが、日清戦争後の起業熱の中で、地場有志による銀行が発足した。明治三十一年(一八九八)十月創業の大野成業銀行(初代頭取成田重太郎。一株五〇円の株式一千株で発足し、まもなく二千株に増資した。年を追って業務も拡大し、郡金庫を扱い、三十六年には重岡と野津に支店を開業した。)、明治三十六年(一九〇三)十二月には県下最大手の二十三銀行が三重に出張店を開いた。銀行一般業務のほか、国庫・日本勧業銀行の代理店事務を取り扱った。大正四年(一九一五)には、二十三銀行とともに県下最大手の大分銀行も三重出張店を開いた。

交通・通信網の整備 明治後期はなお・大野川が物と人の遠距離・大量輸送の大動脈であり続けた。土生米作によれば、当時の大野川は「水量は豊に、両岸に樹木生い繁り、魚族は多く、白帆は風をはらむ美しい風光」であったという。細長から河口の鶴崎まで二八==の間、犬飼・田原・筒井・竹中・白滝・松岡・宮川などの渡し場に寄港しつつ、物や人を運んだ。通船時間は、上りが順風時五時間、無風時一日半、下りが六時間ほどであった。毎年秋の川さらえや無風時の引き綱など困難も少なくなかったが、米や木材・竹材・鉱石などの輸送に、大野川通船は欠かすことができなかった。まだ鉄道は開通せず、道路の整備も不充分だったからである。小倉〜大分〜宮崎を結ぶ九州東岸道は、明治前期、豊前道(小倉道)、日向道と呼ばれた。日向道は大分〜中戸次〜大寒〜市場〜小野市〜重岡を通り、明治十八年(一八八五)には国道三六号線に指定された。しかし、明治三十五年(一九〇二)に国道三六号線は現国道一〇号ルートに変更され、旧国道は県費支弁道・郡道落ちとなる。明治末期三重郷を通る主要道は表11のとおりであった。かつての岡城道・臼杵城道である竹田より臼杵港道は三重町市場以東が県道で、以西は市場より大分道・同田中道・同奥嶽道とともに県費支弁道であった。県道・県費支弁道・郡道とも幅員二間ではあったが、交通上種々の問題をかかえていた。例えば、市場より大分道について、明治四十三年(一九一〇)県会で時の大分県知事千葉貞幹は、次のように述べている。

 

 (この道は)庁下大分道ヨリ大野郡犬飼町等ヲ経テ、大野郡三重町ニ通ズル県下ノ有要ナ道路デス。然ルニ此 ノ路線ニ於テ、犬飼町・菅尾村界字細長ナル大野川ノ渡津ハ、旧藩時代ヨリ渡船ヲ用イ、而モ有料渡船デス。 故ニ貨物輸送ノ力ヲ殺ギ、且ツ交通不便ヲ極メテ居リマス。単リ交通不便ノミナラズ、一朝出水ノ場合ハ交通 全ク途絶スルコトモアルノデゴザイマス。……県費支弁ノ要路トシテ渡船デナケレバ交通ガ出来ナイト云ウ如 キハ、時勢ノ進運ニ伴ワナイ次第デゴザイマス。……

 

 明治四十年代以降、市場より宇目道・同井田道・佩楯林道・鷲谷道・赤嶺道等々多くの道路改修が進められ、細長橋架橋も昭和六年十二月に完成した。犬飼軽便線(のちの豊肥線)が大正六年(一九一七)に犬飼まで、同十年(一九二一)には三重まで開通する。大八車・大七車・荷馬車・乗合い馬車も増加しつつあったが、本格的な馬車時代に突入することなしに、鉄道時代が訪れるのである。大正期に交通網は質的な転換をとげた。通信についても一べつしておこう。三重郵便局が、外国為替取り扱い(明治二十五年)・小包郵便(同二十九年)・電報為替取り扱い(同三十年)などを始め、業務を多面化する一方、明治三十年(一八九七)から電信業務を、大正二年(一九一三)からは電話通話を始めた。通信のスピード化のための施設は、明治後期に整えられている。

 

 注(1)大野郡案内編纂会「大野郡案内」土生米作「大野郡地歴資料」

  (2)「明治中期産業運動資料」第16巻所収

  (3)波多野政男「大野郡農会史」

  (4)「大分県史」近代篇2

  (5)三重町「三重町誌」

  (6)大分県「耕地整理事業一覧」

  (7)大野郡役所「大野郡案内」

  (8)「大分新聞」

  (9)(7)に同じ。

  (10)(7)に同じ。

  (11)「大分新聞」

  (12)大野郡案内編纂会 同前書

  (13)三重第二尋常高等小学校「郷土誌」

  (14)三重第二尋常高等小学校「郷土誌」

  (15)(7)に同じ。

  (16)「木炭検査の歴史」(大分県立大分図書館蔵)

  (17)(12)に同じ。

  (18)(7)に同じ。

  (19)三重町誌資料報告第六集「三重ん市回顧」(三重史談会)

  (20)「大分県統計書」

  (21)「大分県統計書」

  (22)(7)および(12)に同じ。

  (23)土生米作「郷土史話」(「大野旬報」昭和三十八年)

  (24)土生米作「郷土史話」(「大野旬報」昭和三十八年)

  (25)明治四十三年「通常会速記録」

  (26)三重第二尋常高等小学校「郷土誌」

 

 

  三 社会生活の推移

階層分化の進展と災害・伝染病 大野郡は、県会議員選挙権者の対郡内総人口比が県下十二郡中トップ(一一.九l)であり、全県平均(五.七二l)の二倍近くに達していた。明治十年代、県会議員の選挙権には、直接国税十円以上の納入者という制度があったので、この数字は、大野郡は他郡に比してより裕福な者が多かったことを示している。しかし一方で、大野郡の貴族院議員多額納税者議員選挙権者は、明治時代を通じて第一回の森鵜吉(上井田村)一名にすぎない。全県で見るとその数は、各回とも五十人を下ることはなかったので、直接国税賦課対象所得一万円を超すような超富豪は、大野郡は特別少なかったということになる。総じて中産階級の社会構成であったと言えよう。明治三十一年(一八九八)現在で三重関係五村の多額納税者は表12のとおりである。最高は三重村の多田亮造(一二〇円)、第二位が同じく三重村の成田重太郎(一〇九円)で、十円以上の合計人員は三重村の七十人が最も多いが、対村内人口比では新田村が最も高く、菅尾村が最も低い。一方、町村税の滞納者で貧窮度を見ることもできる。表13のとおり、大野郡の滞納者数は四〇三人で、極めて少ない。特に地価割と戸数割は少ないが、営業割のみは人員・金額とも対全県比二〇l前後に達し、異常に高い比率となっている。さきにふれた三重郷の最多納税者多田や成田も商業であったが、大野郡の商業従事者の中には、営業割町村税の納入に差支える者もかなりいたのである。

 明治後期は、図3にみるように、農業従事者にも大きな変化が見られた。大野郡内の農業人口は二十年間に七千人余、自作・自小作者もそれぞれ五、六千人ほど減少し、小作者のみ倍増している。二十年代初頭一〇lに達した純小作者の割合は二〇l近くとなり、明治四十三年(一九一〇)には、自作・自小作・小作の比率は二対二対一となっている。離農者や小作への転落も少なくなかったのである。

 以上のような貧富の差、階層分化の進行は、基本的には産業革命期の政治的・経済的要因から説明されるであろう。しかしまた、副次的であれ、災害や伝染病の影響も小さくなかったと思われる。表14は、明治後期豊肥地区に影響したと思われる主要災害をまとめたものである。二十年間に計十回の災害に見舞われているが、地震が二回、干ばつが二回、風水害が六回である。発生時期は殆どが夏から秋にかけてである。畑作農業の比重の高い三重郷では、三十六年(一九〇三)と三十九年(一九〇六)の干ばつの被害が大きかったと思われるが、その程度を示す資料は殆ど見当たらない。二十六年(一八九三)の水害は絶大な被害を出した。全県にわたる詳細な被害記録が「明治二十六年十月十四日大分県水害史」にまとめられている。大野郡報告中、特に三重郷に関する部分を抜き書きしよう。

 

 本郡ハ……土地広漠ニシテ、山野最モ多ク、随テ損害甚ダ少シトセズ。被害ノ最モ甚ダシキヲ犬飼村トス…… 又大野川ノ上流ナル百枝村大字西泉船場等ノ各地ハ河水漲溢人家ニ侵入セシカバ、居民悉ク家財ノ保護ニ力ヲ 尽シ、他ヲ顧ルノ暇ナキニ際シ、水量頓ニ加ワリテ人家或ハ将ニ渦中ニ捲キ去ラレントシ、数十人ノ住民皆溺 没セントスルノ危急ニ迫レリ……本部ハ直入郡ト均シク、独リ諸川ノ漲溢シタルノミナラズ、山岳ノ潰崩セシ モノ頗ル夥シク、之ガ為、一層ノ水勢ヲ高メタルニ由リテ、被害愈多キヲ加ヘ、人畜ノ死傷数十ノ多キニ及ビ シナリ(以下略)

 

 表14には災害の記載はしていないが、新田尋常小学校「沿革記」によれば、明治後期、新田村で二十六年(焼失五十余戸―中玉田区)・三十二年(同十五戸―下玉田区)・三十七年(同二十二戸―中尾区)・三十九年(同七戸―深田区)に大火が確認される。二十七年八月の大字久田神ヶ辻の神明社焼失の記事は「沿革記」には見られない。火災もかなり頻繁だったようである。三重村でも、小坂簡易学校(二十五年五月)・浄運寺(同年十月)・宝光寺(三十六年)の火災が確認されるが、他町村の場合は明らかでない。伝染病も多くの惨禍を及した。明治期は、全県的にコレラ・赤痢・腸チフス・天然痘の流行が目につく。コレラは明治二十三〜四年、二十八年、三十五年、四十年、赤痢・腸チフスは二十四〜七年の流行が激しい。伝染経路の関係もあり、河川下流域で特に発生率が高い。天然痘については、七年種痘規則が制定され、江戸時代以来の実績の上に種痘が実施されていた。明治後期、百枝村でも「春秋両期の種痘施行、清潔掃除ト夏1回ノ臨時掃除」が毎年続けられていた。日露戦争勃発の三十七年(一九〇四)には、「交戦ノ時期トシテ(中略)満二〇歳以下悉ク皆(中略)各区ニ出張臨時種痘」を実施した。他町村も同様であったと思われる。しかし、種痘実施率は完全でなく、三十九年(一九〇六)には百枝村川辺地区で天然痘が発生、上田原・向野区に伝染、三か月にわたり十数名の患者が出ている。このような伝染病が発生すると、患者は避病院に隔離され、村内を消毒する体制もようやく整いつつあった。表15に見られる町村内居住医師をはじめ、役場の予防係、予防委員を中心に対応策がねられた。

諸団体の成立 時の推移とともに各種運動団体も興亡するが、明治期は戦争と関連して出発した諸団体が多い。佐野常民らによる博愛社は西南戦争時に発足し、局外中立と博愛主義の実行をスローガンに、二十年(一八八七)には日本赤十字社と改称した。西村亮吉知事を長とする日本赤十字社大分県委員部の発足は二十二年(一八八九)のことである。その後、行政組織を利用した上からの組織化が比較的順調に進み、四十三年(一九一〇)、県下の社員は二万七千人を超えていた。表16のとおり、三重郷各町村においても、かなりの会員数となっている。

 愛国婦人会は、北清事変を契機に設立された。婦人も出征兵士の慰問や軍人遺家族の援護にあたろうと呼びかけ、日露戦争時全国に普及したといわれる。しかし、表16のように三重郷の会員はなお少ない。三重郷で注目されるのは仏教婦人会である。本派本願寺派の呼びかけで、三重町は正龍寺、百枝村は乗蓮寺で三十八年(一九〇五)末発会した。「貞婦淑徳ノ本分ヲ守リ、尚信心ヲ獲得」することを目標にかかげ、両町村とも数百人の会員を結集した。幹事(住職)と評議員を中心に「毎月ノ会合ニ於テ、修養ノ事ヲ議」し、第一次大戦出征軍人への慰問袋送りや慈善事業への「懇志寄贈」などの事業を行っている。

 尚武会・在郷軍人会は日清・日露両戦争を機に生まれた。二十八年(一八九五)二月には小野亀齢らの発起で、大野郡尚武会が発足した。「尚武の気象を発起し、我軍の連勝を祝し、且従軍者の父兄を慰問し、或は金員物品等を寄贈する」ことを目的とした。「軍事教育を受けたる者及び後備役未入営輜重輸卒」を正会員とし、そのほかに、名誉会員・賛成会員を擁した。大原誠大野郡長を会頭に頂き、会員総数四百数十人となり、二月二十四日、三重村西の宮公園で第一回戦捷祭を催した。会則には「日清交戦終局一ヶ年後に於いて解会する」と規定している。日露戦争後には、各地の退役軍人等による尚武団体を統合して、帝国在郷軍人会が設立された。菅尾村に於いても、四十年(一九〇七)八月、波津久新を団長とする菅尾村在郷軍人団が組織されていたが、四十三年(一九一〇)、帝国在郷軍人会の成立により同会菅尾村分会となり、分会規約等を定めて組織を整備している。会員数は大正初期六、七十人であるが、青年会とも連携して活動し、軍国主義思想の宣伝・普及、国民の戦闘能力維持に力を発揮する。他町村でもほぼ同様の経過をたどった。

 青年会組織については、三十八年(一九〇五)に内務省の指示があり、四十一年(一九〇八)には大分県訓令が出された。日露戦争時の国民総動員体制を維持発展させたいという上からの意図を受けて、各町村では町村長・小学校長らが動いた。これまでの若者組を改組して、村規模の青年会のもとに統一・結集させる戦略であった。しかし、ことは必ずしも順調に進んではいない。村規模の青年会は、菅尾村で四十二年(一九〇九)、百枝村で四十三年(一九一〇)、三重町で四十四年(一九一一)に一応成立したが、支部の設立・改組に手間どった。菅尾村は比較的順調であったが、大正初期、百枝村は「各支部青年会ヲ統一スベキ発達ノ域ニ進マズ」という状態であったし、三重町も「芦刈・金田・上小坂・松尾ノ一部ノミ」にしか支部組織は成立せず、活動も不充分であった。大正五年大分県が訓令一〇号で「青年団体に関する標準」を公布すると、再度全県的な青年会の組織化が進行する。

警察署と裁判所 戦前の警察の権限と守備範囲は広範なものがあった。明治末期大分県警察部には、警務課・保安課・衛生課・警防課・高等警察課・刑事課などがあり、大正期以降さらに労政課・特別高等警察課・経済保安課などが新設された。その守備範囲は、警防・保安・高等警察から衛生・消防・経済・労政にいたるまで、実に多岐にわたっている。その下部組織である郡や町村段階の警察も、地方の政治や社会生活に広く深い関わりを持ったのである。

 大野郡における近代警察の歴史は、明治八年(一八七五)に始まる。当初第四出張所(竹田)市場屯所と称したが、その後、名称・管轄範囲とも変更を重ねつつ、明治地方自治制の確立に先立つ二十年(一八八七)六月に大野郡警察署と改称、県警本部に直結した。その後、二十六年(一八九三)十一月(三重警察署〜一〇駐在所一三村所管)と三十一年(一八九八)四月(大野郡警察署〜一九駐在所二一村および犬飼分署所管)にも名称・所管の変更がなされたが、二十六年(一八九三)六月の再度の改称以来、三重警察署の名称が定着する。三重警察署(一九駐在所二一町村および犬飼分署所管)の直轄町村は三重町と百枝村であり、四十三年(一九一〇)には警部(署長)一人のほか、巡査三一人を含む計三五人が勤務していた。菅尾村・新田村・白山村などには、それぞれ駐在所が設けられ、巡査各一人がはりついたが、駐在所はなお個人住宅の借用に頼っていた。三重警察署も屯所時代以来借家であったが、二十年(一八八七)七月、ようやく三重村大字市場字沖田に三三六坪の敷地を確保、本庁舎・人民控室・留置場・会議室・井戸の六棟からなる庁舎を保有し、四十年(一九〇七)にはさらに演武場・署長官舎を増築した。新設の演武場では町内の子弟を集めて柔道教室も開かれたという。

 表17は、明治四十三年(一九一〇)の三重警察署管内の犯罪発生状況を示している。全県比率でみると、総じて人口比に近いが、少なくともこの年は「詐欺及恐喝」「その他の犯罪」の発生率が異状に高い。「大分県の満州」「大分県の北海道」たる大野郡が、明治後期著しく生産活動を活性化させたことと関係があるのかもしれない。町村別の状況は不明である。

 なお、裁判所も竹田区裁判所三重出張所として、二十一年(一八八八)十一月六日、三重村大字市場に開庁した。しかし庁舎は、二十四年(一八九一)九月の暴風雨による倒壊後、下田仮庁舎・市後庁舎(二十五年四月)を経て、二十六年(一八九三)、末字泉原一一〇一番地に落ちつくまで転々とした。三重郷の各町村は、いずれもこの竹田区裁判所三重出張所で登記事務等を行ったが、大野郡内にはそのほかにも、臼杵区・佐伯区・大分区裁判所の各出張所が設けられていた。

 

 注(1)明治十四年『大分県統計書』

  (2)「大分県地主名簿」(大分県立大分図書館蔵)および『大分県報』

  (3)大分県立大分図書館蔵

  (4)百枝村「村会書類」

  (5)三重第二尋常高等小学校「郷土誌」百枝尋常高等小学校『郷土誌』

  (6)『大分新聞』明治二十八年二月二十一日号

  (7)菅尾尋常高等小学校『郷土誌』

  (8)(5)に同じ。

  (9)『大分県警察史』(昭和十八年刊)

  (10)『大分県統計書』

  (11)(9)に同じ。

  (12)土生米作『三重ん市回顧』

  (13)三重尋常高等小学校「郷土誌」

 

 

  四 教育の普及と人材の輩出

簡易小学校から尋常高等小学校へ 近代日本の学校教育は、明治五年(一八七二)頒布の学制により出発し、十九年(一八八六)のいわゆる学校令で組織的確立をみた。学校令は、小学校令・中学校令・師範学校令および帝国大学令からなる。我が三重郷に直接関わるのは小学校令である。小学校令では、小学校を尋常小学校(四年)と高等小学校(四年)に分け、尋常小学校を義務制としていた。しかし、当時は就学率が低かったため、授業料を徴収しない三年制の小学簡易科を置く特例が認められた。二十年(一八八七)から三重郷の各学校もすべて簡易学校として再出発した。菅尾簡易小学校(菅尾村)・西泉簡易小学校(百枝村)・三重簡易小学校(三重村)・小坂簡易小学校(三重村)・久田簡易小学校(新田村)・白山簡易小学校(白山村)である。二十三年(一八九〇)の改正令をうけて二十五年(一八九二)には大分県小学校教則が公布され、小学簡易科の特例は廃止された。学校の年度が従来の九月一日始業七月末終業から、四月より翌年三月までに改められたのもこの時期である。学区も整備され、三重郷の各簡易学校は二十五年(一八九二)から、菅尾・百枝・三重第一・三重第二・新田・白山と、各村名を付した尋常小学校(四年制)となった。尋常小学校(義務教育)が六年制となるのは四十一年(一九〇八)のことである。

 高等小学校は一郡一校を原則とした。二十年(一八八七)十二月、仮開校していた大野郡高等小学校は、二十五年(一八九二)から大野郡川登村外三拾村組合立となった。その後、田中・犬飼・野津市などに分校ができるが、三十三年(一九〇〇)、一郡一校の原則は解除され、数か村で高等小学校を開設できることになった。川登外三拾村組合は解散した。本校校舎は三重村外三村(百枝・菅尾・新田)組合が引き継ぎ、三重郷の高等小学校とした。義務教育年限の延長された四十一年度(一九〇八)には、さらに三重村外三村組合も解散し、四十二年度から各村の尋常小学校がそれぞれ高等科(二年)を付設し、尋常高等小学校となった。

 その間、就学率が飛躍的に上昇した。大野郡の就学率はたえず県平均の後追いをした形であったが、二十五年の四三.七二lが三十一年には六三.四九l、三十七年には九七.六lとなり、四十年代にはほぼ完全就学が達成されている。当初は毎年学校・村役場・郡役所等による就学勧誘が続けられた。しかし、やはり三十三年の授業料廃止が、就学率急上昇の決定要因となっている。就学率のみでなく、出席率も三十年代後半から急上昇して、四十年代には八九.〇lに達した。国民の教育要求も急激に高まったのである。明治四十三年(一九一〇)現在の三重郷各町村の学校概況は表18のとおりである。白山尋常小学校と各町村の分教場を除けば、すでに複式学級はなく、正教員は少なかったものの、教員配当もまずまずの数に達している。すでに尋常科が六年となっていることもあり、高等科は各町村とも一学級のみであった。

 しかし、教育要求の高まりは校舎敷地や運動場の確保、校舎の増改築等を必要とさせ、各町村ともその費用捻出に頭を痛めた。村財政にしめる教育費の比率が、明治後期には役場費を抜いて断然トップに躍り出たことは、本節第一項にふれたとおりである。教育費の急激な膨張は、明治後期の町村財政を窮迫させた最大の要因であった。教育内容について見ると、小学校では徳育が重視され、二十三年(一八九〇)発布の教育勅語はその後の教育の方向を決定づけたといわれる。勅語は全国の各学校に下賜され、祝祭日や式典のたびごとに「謹慎厳粛」に奉読された。新田尋常小学校の「沿革誌」は、勅語の下賜についてつぎのように記している。

 

 二十四年一月六日勅語ノ謄本ヲ下賜セラル。管理者多田茂穂、訓導田近波江、本郡役所ニ至リ拝受セリ。仝年 二月九日ヲ以テ奉読式ヲ挙行シ、村民一般ニ高諭ノ趣キヲ知ラシム。

 

 御真影(天皇や皇后の写真)は、大野郡高等小学校には二十二年(一八八九)、百枝尋常小学校には四十三年(一九一〇)に下賜されている。三十六年(一九〇三)からは小学校の教科書も国定となった。こうして、明治後期は教育が普及し、国民教育が確立するとともに、教育を通じて天皇制国家思想や国家主義思想が、確実に人々の心に根を下した時期ともなったのである。

大野郡立農学校の発足 日清・日露戦争と産業革命の進行を背景に、明治二十〜三十年代には実業教育が重視され始める。この時期、県下においても大分県農学校・大分県農林学校・郡立農学校・組合立工業徒弟学校等が発足した。

 大野郡では二十八年(一八九五)、県下で最も早く実業補修学校発足の運びとなった。大野郡川登村外三拾か村学校組合立実業補習学校である。当初の学校規則によれば、「実業に従事し、又は従事せんとする児童に、小学教育の補習と同時に、簡易なる方法を以て其の職業に要する知識技能を授くる」ことを目的とし、農業部(修業年限二年、一学年定員五〇人)・蚕業専修部(同四か月)・女子部(同三年、七〇人)の三課程を有し、郡内の各高等小学校に付設する計画であった。この計画をもとに、年間二五〇円の国庫補助金も獲得した。しかし、計画通りには実現せず、二十九年(一八九六)、蚕業専修部を核に、三重農業補習学校として出発したようである。蚕業専修部は、修身・養蚕論および養蚕実収を課し、学期を四月一日から七月三十一日までとしていた。

 『大分県教育雑誌』第一六〇号(三十一年一月)の「雑報」に、「三重農業補習学校情況一班」として次の記載がある。

 

 一現在生徒    三九名(昨年三三名)

 一教員数     専任三名(内一名養蚕教師)

          兼任二名(校長及ビ庶務係)

 一経費予算額   金九九〇円(内二五〇円国庫補助)

 一田畑反別    畑六反七畝余(内一畝桑園、他は実習地)田五畝 合計七反二畝余歩

 

 修業年限が当初の学則どおり四か月なのか、一年なのか不明であるが、学校の概要は知ることができる。三重農業補習学校は、三十二年(一八九九)から大野郡立農業補習学校と改称して、郡費による財政裏付けがなされることとなった。三十五年(一九〇二)には乙種の大野郡立農学校となり、三十七年(一九〇四)、校舎を現三重高等学校敷地に新築して移転した。農学校は、明治中後期を通じて、大野郡農業の発展と変革に大きな役割をはたした。

 なお、郡立農学校は四十四年(一九一一)四月、二年制の本科のほかに、研究部・女子部・短期講習部からなる別科を設けた。このうち女子部は修業年限一年で、実科高等女学校の教科目に園芸・養蚕の二科目を加えたものであった。「本郡は農を以て本位とするのみならず、三重町・犬飼町其の他の市街部にありても半農半商の職業状態なれば、単に女子専門の技芸を授くるよりも寧ろ、農業を加味したる教育を施し、将来農家の婦女として必要なる智識技能を授け、着実穏健なる思想を養成することこそ時宜に適したる措置」だとの認識があったからである。県立農学校の別府からの移転とも関連し、郡立農学校はやがて実科高等女学校に転換することとなる。

三重ん市の三秀才 明治時代、三重郷には普通中等教育機関はなかった。学校教育に関係なく、政界や産業界に大きな足跡を残した者も少なくないが、さらに向学の志を持つ者は、大分中学や臼杵中学・竹田中学などを経て上級学校に進んだ。土生米作の『三重ん市回顧』(昭和三十五年刊)は、最高学府まで進学した郷土の先輩たちについて、「代屋の貫さん」と題して次のように記している。

 

 今の神品雑貨店の建物が、昔の素封家代屋であった。主人を後藤茂作と言い、其の弟を貫一さんと言った。貫 さんは大中から神戸高商に進み、優秀な卒業成績であったので、政府からシドニーに留学を命ぜられた。三ヶ 年の調査研究も終って帰国の途についた。そしてなつかしい母国神戸が指呼の裡に見える時、不幸にも船火事 となり、其の災禍で死亡された。郷党はあげて哀惜した。

  この貫一さんと同時代に、成田惟忠さん・広瀬幸吉さんの二人がある。この三人を三重ん市の三秀才と言っ て世人が讃えた。成田惟忠さんは明治三十年六月に東京帝大法科を卒業した。回顧すると私が六歳、今から六 十三年前の事である。広瀬幸吉さんは明治二十三年三月に大分師範を卒業されたが、家運に恵まれず、三ヶ年 三重第一小学校に勤め、仝三十一年に東京高師に入学されたので、卒業が遅れたのである。

  想えば六十数年前、この田舎から同時に三人を最高学府に送ったことは、後進の青年に大きな刺激を与へた ことであろう。郷党が我が事のように誇りにしたのも無理はない。

 

 成田惟忠は染物業成田豊造の弟で、帝大卒業後は地方裁判所判事等を歴任し、札幌控訴院長を最後に引退した。過去三重郷出身者中最高の、従三位勲二等高等官一等をうけた。広瀬幸吉は、東京高師卒業後、兵庫県竜野中学校教諭を経て、三十六年(一九〇三)から大分師範学校教諭となり、人材の育成と県下の教育界の指導にあたり、中津高等女学校長(大正七〜昭和七年)を最後に公職を退いた。大正五年(一九一六)には大分県教育会から表彰をうけている。三重町以外では、百枝村の伊東栄が大分中学・青山学院・一高を経て、東京帝国大学工学部を四十年(一九〇七)に卒業した。東京で内外国特許実用新案意匠商標に関する弁理事務所を開業し、活躍した。小野武夫も百枝村出身であるが、その功績は後節でふれられる。

 以上の秀才たちは、結局郷里を離れ、異郷の地で活躍した。成田碩内の場合はやや事情を異にする。碩内は大分郡鶴崎に生まれ、明治十七年(一八八四)に大分師範学校高等部を卒業した。その後の教職生活で、大分郡牧原・大野郡牧口・三重第一の各尋常小学校、犬飼・三重の両高等小学校をまわり、三重郷との深い関係が生じる。二十二年(一八八九)には三重村市場の成田家に入婿し、栗林から成田に改姓した。東京国語伝習所に遊学したり、三重村宝光寺の渡辺挟山に師事したりして、漢詩への造詣を深めた。しかし、碩内は三十七年(一九〇四)に三重高等小学校長を辞し、三十九年(一九〇六)には「漢詩の大成を志して」東京に出、さらに京城に移った。『金剛詩集』『金剛小史』『金剛百絶』等の著書を残している。『三重町誌 沿革編』に評伝がある。碩内は、「年少より書に巧みであったが、詩文と相呼応して上達、書家の位置に上った。彼の地京城や郷土三重に多くの筆蹟を残した。実に生命は短く芸術は長しの至言を思うのである」と記されている。内山観音の千体薬師堂の三重八景詩や三重第一小学校玄関の大額面(所在不明)も碩内の書蹟である。

神社と寺院 明治初期、神社合併が進められ、社格制度も整えられていたが、中・後期、三重郷には各大字に一〜五社、最も多い三重村大字秋葉には一〇の神社があった。そのうち、郷社は市辺田八幡社と菅生神社の二社、村社は各大字ごと一〜二社、他の大多数は無格社で、大野郡内には官・国幣社、県社はなかった。各神社では年に二〜四回(春夏秋冬)の祭典が催され、とくに春秋の祭りはにぎわった。「春季祭典ノ節ハ其ノ社内ニ於テ里楽ヲ奏シ、秋季ハ旅所ヘ神行アリテ、里楽・獅子舞・角力等ヲナシ、神行ノ途中ハ白熊捻リ、摺箱・棒遣等ノ催シ」がなされた。

 春に豊作を祈願し、秋に豊作を感謝する神社の祭祀の歴史は、農耕の起源とともに長いものがあろう。しかし、神社神道も時代とともにそのあり様を変えて行った。明治期神社神道は、皇室神道と結びつき、祭祀中心の国家神道のもとに再編成された。明治前期の諸施策に引き続き、中後期には皇室の祭祀を基準にした神社祭式が定められ、神宮神職は待遇官吏とされ、公的身分となった。神社の経営にも、政府および道府県市町村等から供進金が支出されるようになる。その前提として、明治末から大正初期にかけて、再び全国的な神社統廃合政策が展開された。大野郡内の神社も、明治三十九年(一九〇六)から大正五年(一九一六)までの一〇年間に、五七五社から三三八社へと実に四一lも減少した。三重郷内においても、かなりの統廃合がなされた。三重町大字秋葉字カリマタの天神社(村社)に四十二年(一九〇九)四月、同地字参内鎮座の神明社ほか、字シンガイ・平野・松迫・大石の四天神社が合祀されたのもそんな例の一つである。

 四十年(一九〇七)六月二十日、郷社市辺田八幡社が神饌幣帛料供進社に指定されたのをはじめ、郡内の指定神社も増加していく。指定神社には祭典時、郡長や郡役所書記・村長等が天皇の祭祀大権を代替発動する形で参詣することとなる。土俗ともいえる神社祭祀も、こうして皇室神道・国家権力と結合するのである。

 神社も寺院も、正式にその存在を認められるためには、明細帳に登載されることが必要であった。大野郡分についても、明治二十三年(一八九〇)の「寺院明細牒」が現存している。寺院の数は神社数の三、四分の一程度であるが、三重村を中心に、その数は県下でも多い方であろう。大字別では、内田(養性院・蓮昌院・浄運寺・宝光寺の四か寺)・本城(伝道院・養覚院・西蓮寺の三か寺)・市場(新蔵院・正龍寺の二寺)・久田(仙寿院・大秀院の二寺)などに多い。僧職者の還俗や無檀家寺院の廃寺化は、全県的にも明治前期に進み、中期以降は安定している。前期のような三重郷での寺院の分布状況は、その後も持続したのである。

 明治三十六年(一九〇三)、郡単位で「各町村在住者所属寺院宗派別取調」がなされている。三重郷各町村の状況は表19のとおりである。真宗が全町村で多いが、とくに白山村では圧倒的である。全県平均と対比した場合、新田村で臨済宗、三重町・百枝村で浄土宗、三重町・百枝村・菅尾村で真言宗の比率が高い。総じて、真言宗信徒の多いことが三重郷の特色であろう。しかし、廃寺となった真言宗寺院も見られる。大正元年(一九一二)、三重町大字内田字高瀬にあった養性院は、寺籍を抹消された。「明治十九年年頃ヨリ荒廃、目下建物・仏像等更ニナク、篁籔トナリ居レリ」というのが理由であった。天台宗寺院寿宝院は、三十六年(一九〇三)、百枝村川辺から新田村玉田に移転した。現在の法心寺である。

 しかし、明治中・後期、全県的に宗派別寺院数・檀家数等の大きな変動は見られない。仏教婦人会や出獄人保護宗教広済会などの社会的活動もさることながら、江戸期以来の檀家制度は、土俗的な粘着力をもって安定していたというべきであろう。

 

 注(1)各尋常高等小学校『郷土誌』『郷土史』『沿革誌』

  (2)『大分県統計書』

  (3)『大分県教育雑誌』一三一号

  (4)『大分県教育五十年史』

  (5)『大分県教育雑誌』三一二号

  (6)『三重町誌 沿革編』

  (7)小俣慧『大分県人名辞書』

  (8)「神社例祭日并神賑等調」(大分県立大分図書館蔵)

  (9)『大分県統計書』

  (10)「神社一件」

  (11)大分県立大分図書館蔵

 

 

    第六節 大正期の三重郷

 

  一 大正期の三重郷

戸数・人口・職業 表1は、三重町ほか三か村の大正期における戸数・人口の推移を示すものである。この表にみるように、三重町では大正期後半からの人口増加が著しい。これにくらべて、菅尾・百枝・新田等の農村では、わずかではあるが減少をはじめている。なお、大正九年(一九二〇)の第一回国勢調査によって、出生地を自町村と他町村の別でみると、三重町では自町村、つまり三重町生まれが六五lと意外に低く、同じように郡の中心で人口規模に大差のない国東町(人口七二五九人)では六九lとなっている。

 郡の中心という点では三重町も国東町も同じであるが、三重町の場合流入人口の割合が比較的に大きいのは、藩政時代からの市場まちとして人的・物的交流がさかんであったことに加え、鉄道の開通が大きく寄与していることも、見逃すわけにはいかない。十二年(一九二三)三月の豊肥線の開通前後、まず周辺三か村からの人口流入がはじまり、その流れは次第に他郡に波及していったものと思われる。

 表2の職業別人口では、三重町の農業人口は全体の五九lと過半数を占めているものの、商工業や公務自由業の割合が高い。これは、三重町が郡の経済・行政・教育などの機能をもっていたからである。その一方、農業人口の割合は菅尾村で七五l、百枝村で七五l、新田村では八七l、また、郡全体では七六lであった。このような職業構成から、周辺農村の景気が三重町の消長を左右していたことはいうまでもあるまい。大正期を通じてみると、第一次大戦から九年三月のいわゆる戦後恐慌までの好景気と、それ以後の長い不景気の時代とに分けられるが、三重町の市場を中心とした経済活動も、大正期の始めと終りとではその担い手達の交替がみられるのである。

農業の状況 景気の変動を表3の大分県における米および生糸価格の推移についてみたい。まず米についてみると、八年(一九一九)上期から翌年同期には二〇lと大幅な上昇となっている。しかし、この年の三月十五日には株価暴落、戦後恐慌となって、下期には米価が急落し、以後十一年(一九二二)上期にはさらに落ちこんで底値となり、その後、十三年(一九二四)下期になって八年上期の価格にまで戻しているが、このあとさらに低落傾向が続くのである。この間政府では、米の需給調節をはかることによって米価を維持するため、十年(一九二一)四月に米穀法を公布し、同年六月、この法律に基づいて米の買い上げを実施するのであるが、その数量に限度があったため、効果は十分なものではなかった。

 米にくらべて、さらに値動きの激しいのは輸出商品である生糸であった。生糸の価格は、九年(一九二〇)上期には前年同期の二倍にはね上がっているのである。この年の一月には生糸相場が高騰して、横浜生糸取引所は開設以来の最高価格を記録した。ところが、三か月後になると相場は一転暴落、このため、政府は九月に帝国蚕糸鰍設立して特別融資により生糸の滞貨を買い取り、価格の維持につとめたのである。その結果、生糸市況は十年(一九二一)上期になってようやく回復し、帝国蚕糸は十一年(一九二二)十二月に解散した。その後、十二年(一九二三)春まで好況が続くが、同年下期にはまた下落というように、生糸価格の変動はめまぐるしいものであった。したがって、養蚕家・製糸業界はその都度一喜一憂を余儀なくされていたのである。

 これより先の五年(一九一六)、山内郡長(四年一月から六年三月まで在職)のときに産業計画が立てられ、この年から実施されている。これは、五年(一九一六)を基準年次とし、九年(一九二〇)を目標年次とする生産性向上運動ともいうべきもので「本郡の農法乃至各種産業経営法未だ粗笨にして改良開拓の余地が甚だ多い」(『大野郡案内 大正六年』)ところから、技術指導を重点的に行うために企画されたのである。この産業計画のうち、農事五か年計画についてみると、次のようになっている。稲(水・陸稲)については作付反別を七.九l増やし、収穫高を五七.三l増やすこと、麦では作付反別で五.〇l、収穫高で七五l増加、粟では作付反別を据置きのまま収穫高を五八.七l増加する、となっている。以上のような計画の概要からみられるように、作付反別の増加よりも反収の増加をねらいとした戦略であったわけである。そして、そのための実行方策として、農事小組合の設置と技術員の分置とが行われた。このうち技術員の分置についてみると、全郡を八農区に分かち、各農区ごとに郡農業技手を駐在させ、「朝夕当業者に接触し、実地を主として指導啓発の任に当らしめた」のである。戦後の「農業改良普及員制度」の大正版ということができる。

 このような指導の結果、目標を達成できたかどうかについて資料はないが、八年(一九一九)における米の生産額は一五万一六三六石となっており(『大分県各郡々史 大正十五年』)、この数字は基準年次における生産額の二三.九l増にあたるところから、翌九年(一九二〇)には目標に近い成果がえられたのではあるまいか。というのは七年(一九一八)七月にみられたような洪水もなく、八、九年は天候順な年であったからである。

 つぎに蚕業五か年計画についてみると、目標年次は基準年次に対し、桑園反別で四五.四l増、養蚕戸数で一〇〇l増、蚕繭額で一五三l増、蚕繭価額で一五七l増となっている。

 蚕繭価格の問題はさきにも述べたように、生糸が輸出商品であり、市場での投機性つまりアメリカの景気に動かされて不安定であり、とくに九年(一九二〇)三月の戦後恐慌以後はきびしい底値が続いていたのである。したがって、桑園反別と養蚕戸数の増加はみられたにせよ、蚕繭額・蚕繭価額については目標を下廻ったのではあるまいか。

 なお、『大分県各郡々史』は次のように述べている。

 

 「本郡ノ蚕業ハ大正五年ニ至リテ、欧州戦乱ノ影響ニヨリ大躍進ヲ為シ、大正八年ニ於テハ殆ンド其ノ絶頂ニ 達セリ。而カモ桑園反別ノ如キハ、畑総反別ニ比スレバ僅ニ一割ニ分強、又飼育戸数ハ農家総戸数ニ対シテ五 割ニ分ニ過ギズ。以テ其ノ将来ニ於ケル発展ノ余地ヲ察スベキナリ」

 

 大正十年(一九二一)末現在、郡内には豊国製糸井田工場(職工七九四人)・同牧口工場(同九七人)が操業しており、そのほか県内では片倉製糸の大分(同一一五〇人)・宇佐(同三三九人)の両工場、大和組豊後製糸所(大分市同五九五人)・豊中製糸の柳ケ浦(同三三一人)・豊田(同二九一人)・高田(同三六二人)の各工場、豊国製糸鶴崎工場(同二三三人)・九陽館(同一二〇人)などのほか、高田町・三浦村・竹田津町・安岐町・富来町・日出町・滝尾村・戸次町・大在村・臼杵町・佐伯町・日田町に製糸工場があった。

 当時、郡内産繭の六五lが郡内の工場で消化されるにすぎなかったから(『大分県各郡々史』)、その他はこれら県内の各工場に買いとられていたわけである。繭の出荷時期には多くの仲買人が集まり、まちのなかを、繭の入った大きな竹籠を積んで馬や馬車が通り、そこここに馬糞の山がみられた。そして、昼すぎになると、一杯機嫌で千鳥足の人、金をふところに買物をする家族など、三重町の中心地帯は「市場」の名にふさわしい活気がみなぎっていたのである。

 

 

  二 三重町の状況

市場の発展と変ぼう 大正二年(一九一三)、市場には四百有余の商家が軒を並べており、そのうち最も多いのは旅宿業・飲食店および雑貨商であったとしるされている(『三重第二小学校編 郷土誌』)。

 参考までに八年末の大野郡の商業戸数をみると、飲食店(三七六)・酒類(二三〇)・菓子(二〇〇)・豆腐(一五〇)・牛馬商(一五〇)・醤油(一三二)・足袋(九五)・履物(九二)・煙草(八六)・雑貨(七〇)・仲買(六八)・油類(六五)・金銭貸付(五一)・酢(五〇)・担魚(四八)・紙類(四七)・ろうそく(四六)・仲立(四三)・呉服太物(四二)・文具(四一)・薪炭(四〇)・鳥獣肉(四〇)・旅宿(三九)・肥料(三五)・竹製品(三五)・料理屋(三二)などとなっており、書籍(九)・時計(六)・質(六)・靴(四)・漆器(四)・楽器(一)などもみられる。郡内では犬飼町・東大野村・牧口村・重岡村に市街地がみられ商業活動がいとなまれていたから、三重町にどのような商家がどれ程あったかははっきりしないが、大部分のものが市場にあったのではあるまいか。大正から昭和にかけての市場の状況を復元してみれば次のようである。

 市場のとりかかりが上市。ここは内山・羽飛・新田村中玉田からの道が三又路になっており、その農学校よりに郡農会の成業館と熊本専売局の葉煙草取扱所。ここには、入荷の時期葉煙草を運んできた馬がつながれ馬糞のにおいがした。その反対側に児玉眼科があり、隣が県立農学校御用達の佐藤洋服店であった。羽飛への道に沿って金光教三重教会と平山精米所。中玉田への新道沿いに岡本金物屋・橋本指物店・柴田米屋・麻生荒物屋、そのさきに樋口材木店があった。

 三又路のところには道標が立てられており、ナツメの木があった。ここは臼杵藩の高札場であった。そのうしろの藍沢鍛治屋では鍬や鎌を打っていた。住吉屋紺屋・山本写真館があり、これらの店の間には茶店や駄菓子屋があった。三又路が一本のまちなみになったところに多田精米所。その隣に大学目薬の看板がかかっていた阿南薬店があった。このあたりの背戸を入ったところにキリスト教三重教会があり、日曜学校が開かれていた。通りには三浦床屋・玉田菓子屋が並び、麻生醤油屋があった。その横を入ったところが料理屋の嬉廼亭で、大きな建物と手入れのゆきとどいた庭とが子供心にも印象に残っている。この附近一帯にはあちこちに自然の湧水があり、井戸は浅いが豊かな水量があった。「泉原」の地名にふさわしいところである。因に現在の一区は「泉町」、二区は「戎町」と呼ばれた時期があったが、泉町はこの泉原にちなんだ名前であった。戎町は西ノ宮のえびすさまに由来している。

 さて、阿南薬店の向い側が平源で、ついで高松下駄屋・深田畳屋・川辺自転車屋があり、その向いに人力車の車屋があった。三栄館に芝居のかかるときには、衣裳をつけ厚化粧をした役者衆が人力車を連ねて、顔見世にまちを練って廻った。車屋の隣が玉田うどん屋、ついで早川紺屋で、ここは三玉屋紺屋ののれん分け。おとこしが藍がめの上に両足をふん張って、束ねた糸を絞ると藍がにおいたった。つぎが住田屋下駄屋で、有田米屋はこの辺に地所と借家をもっていた。そして米屋の横を入った突きあたりに、有田鉄平の所有になる竹田区裁判所三重出張所の一風変わった庁舎があった。有田米屋の前の坂を登った台地(泉ケ丘)に三重第一尋常高等小学校があった。『町会会議録』によると、大正十三年(一九二四)二月の町会では、積立金不足のため校舎の建築を一か年延期したい、としている。当時の校舎はバラックのため冬の寒さは格別なものであったらしい。十四年(一九二五)には新築に着手したが、予算の都合で工事が大幅におくれ、昭和五年になってようやく完成した。その裏手が白ペンキを塗った洋館風の三重町役場で、ここまでが上市であった。

 上中市のはじまりは、大野成業銀行取締役で大野勧業無尽もやっていた成田豊造の三玉屋紺屋で、その横を入ったところが料理の橋本屋。三玉屋の前がかぎや酒場であった。大野郡役所は坂をのぼったところにあり、その近くに三重郵便局・大野成業銀行・二十三銀行三重支店・大分銀行三重支店などの金融機関があって、このあたりが行政・金融の中心であった。旅館には唐津屋・川乃屋があり、料理仕出しの三倉屋・かねぜんがあった。呉服太物の大和屋・薬種商の明石屋・児玉薬店・岡本医院・横田医院・大塚歯科・杉洋服店・柳井桶屋・多田自転車屋・源屋酒場などは上中市であった。

 下中市には種油の三玉屋本家・呉服の菊野屋・大庄屋あとの多田銃砲火薬店・太物雑貨のみのや・平岡呉服店・玉田金物店・青田呉服店・青波家具店・卯之町銀行三重支店・油屋酒場・洋品の一丸支店・岡本下駄屋・はりまや金物店・菓子の松栄堂・石油の二村商店・料理仕出しの長寿屋・沢田洋服店などがあり、通りの裏に近藤写真館と三栄館があった。三栄館ははじめ芝居小屋で、なかはうすべりをしいたマス席になっていて、下足番が履物をあずかっていた。芝居から連鎖劇になり、活動写真の常設小屋になった。このころから内部が改造されて長椅子がおかれるようになり、最後列の中央うしろに臨監席があって制服の巡査が腰をおろしていた。活動写真は専ら無声映画で、舞台しもての活弁が声色をつかって観客をひきつけた。

 下市には味噌・醤油・種油の豪商本家油屋があり、質屋もいとなんでいて市場屈指の資産家、広い屋敷の大きな構えであった。三重町駅よりに三重警察署・首藤酒場・長田医院・広瀬家畜医院、そして奥まったところに正龍寺。駅前通りには成田運送店・平川運輸店・成田書林・一六菓子店・羽田歯科・麻生運送店があり、すこし入りこんで植田豊乳舎・二村竹屋などがあった。

 大正十年(一九二一)三月に豊肥線が三重町まで開通すると、市場の中心はそれまでの上市・上中市から次第に上下の中市へと移っていくのである。なお、三重町長は大正期の初めの芦刈宇市から伊東基・赤嶺九洲士ののち、再び芦刈宇市となり、十一年(一九二二)四月以後は多田虎生であった。

道路と交通機関 市場からの道路は放射状に郡内各地にのびているが、豊肥線が開通するまで、最も重要なものは、藩政時代から臼杵への道であった。これは「竹田・臼杵港道」(当時県道)とよばれ、現在、国鉄の臼三バスが通っている。そのルートは市場から三重原を通り、柳井瀬橋で三重川を渡り、南野津を経由して野津市で国道(当時三六号線)に結ぶもの。臼杵へはさらに都原を経由、臼杵川沿いに平清水に出る道である。この道路によって臼杵と結ばれていた三重町市場は、臼杵を本家とすれば、野津市とともに分家すじであった。郡内の畑作地帯である南野津・菅尾・百枝・新田・牧口・白山・合川・南緒方の各村と、三重町を収納地域とする三重葉煙草取扱所では、厳重な検収ののち、この道を馬車によって臼杵の工場に運ばれた。その意味ではタバコ・ロードでもあったわけである。この道路の臼杵・野津市間を、十一年(一九二二)秋から豊陽自動車鰍ェ乗合自動車の運行をはじめている。臼杵町と野津市から一日四便で、往復二円の運賃であった(『大分県大野郡々史 大正十四年』)。

 臼杵への道についで重要なのが「市場・大分道」(当時県道)であった。この道は三重原から分かれ、菅生・深野・細長・下津尾を経由、犬飼から大野川左岸に沿って竹中・判田を通り大分に出る道で、豊肥線に平行している。豊肥線の三重町駅開通以前は、大分・三重町間に一〇時間かかっていた。これが鉄道の開通によって一挙に一時間半に縮められたわけである。そのお陰で大分から新鮮な海魚がはいってくるようになり、食生活が改善された。鉄道の開通による大きな福音のひとつといえるであろう。

 このほか「市場・田中道」(新田村中玉田から岩戸・矢田を通り東大野村大字田中まで)・「市場・奥嶽道」(岩戸から牧口村大字砂田を通り長谷川村大字冬原まで)・「市場・宇目道」(新田村、白山村大字中津留から梅津越を経て小野市村まで)・「市場・井田道」(百枝村大字上田原から柴原村を経て井田村大字新殿まで)などが市場からの主要な道路であった。

 交通機関としては乗合馬車・荷馬車・人力車があった。乗合馬車は三七台あり、市場を起点に竹田・犬飼・野津市・佐伯方面への路線があり、一里(三.九==)に付平均八銭、田中・小野市方面は九銭であった。荷馬車は八四七台あり、臼杵町まで一円五〇銭、竹田町まで一円二〇銭、佐伯町まで二円五〇銭となっていた。人力車は二一台あり、三重町の市内一〇銭、一日雇い切り九〇銭、半日雇い切り五〇銭。犬飼・竹田・臼杵・佐伯町へは一里に付一八銭であった(『大野郡案内 大正六年』)。これらの交通機関は、豊肥線の開通以後次第にかげをひそめていったのである。

豊肥線三重町駅開通 大正十年(一九二一)三月二十七日、待望久しかった豊肥線三重町駅の開通式が行われた。このときの臨時列車は、大分駅発九時五〇分、三重町駅着一一時二二分。開通式の出席者は、新妻知事・佐藤大分建設事務所長をはじめ沿線町村からの来賓、地元から赤嶺町長・宇都宮郡長・楢林農学校長・麻生三重商工会長・その他郡内町村長など有志多数が出席し、空前の賑わいであった。当日の新聞はその模様を次のように伝えている。

 

 「三重町にては開通式の盛典を祝すべく、全町国旗を掲げ、華麗なる装飾を施し、満街花のトンネルをつくれ り……駅附近は朝来湧き返る賑ひにて、芸妓の市隊はその人波をわけて練り歩き、青年連の仮装行列等にて興 を添へ、夜にいるやこれらの連中はさらに競ひ立ちて全町を押し廻し、徹宵賑ひ明かしたり」(『大分新聞  大正十年三月二十七日』)

 

 さらに、当日の社説から引用すると、「郡内における米・麦その他の農産物をはじめ蚕繭・林産物・椎茸・木炭・牛馬等すべてこの地を経由して富源の移出が実行されているのである。この地は従来交通機関の設備に乏しかったため、いささか発達上に支障をみていたが、今次の鉄道開通とともに一躍拡大せんとし、犬飼・臼杵に馬車をもって搬出されていた各種の産物はすべて鉄道を利用することとなり、三重町の将来は実に黄金の如きものがあろう」と、鉄道の開通による開発効果を大きくとりあげているのである。

 これまで三重町は日豊線沿線や下毛・宇佐両郡のように、私鉄による開発が進んでいる地域にくらべ、とり残されたような状況にあったことは否めない事実であろう。そこで、大正期になってからの県下の鉄道網の発達についてふれてみたい。

 まず、三年(一九一四)には日豊線大分―幸崎間開通、大湯線(久大線の前身)大分―小野屋間開通、犬飼線(豊肥線の前身)大分―判田間開通、豊州鉄道(私鉄 戦後廃止)豊前善光寺―新豊川間開通、耶馬渓鉄道(私鉄 戦後廃止)中津―柿坂間開通。四年には日豊線幸崎開通。五年(一九一六)には宇佐参宮鉄道(私鉄 戦後廃止)宇佐八幡―豊後高田間開通、犬飼線判田―竹中間開通、日豊線臼杵―佐伯間開通。六年(一九一七)には犬飼線竹中―犬飼間開通。七年(一九一八)には国東鉄道(私鉄 戦後廃止)杵築―杵築町間開通。八年(一九一九)には豊州鉄道が円座まで開通。九年(一九二〇)には日豊線佐伯―神原間開通となっている。

 以上が十年(一九二一)の三重町駅開通までの概況であるが、豊肥線は犬飼・三重間が開通するのに四年もかかっているのである。犬飼からのルートを田中(東大野村)経由とするか、三重町経由とするかが問題であった。当時の寺内内閣(大正五年十月から七年九月まで)は官僚出身者で組織されていたから、政友会色の強い田中ルートをとらず、開発効果の大きい三重町ルートに決定したのではあるまいか。その後、豊肥線は十一年(一九二二)に三重・緒方間開通、十二年(一九二三)に緒方・朝地間開通、十三年(一九二四)に竹田まで開通、十四年(一九二五)に玉来まで開通して順調にのびている。鉄道の開通により、それまで臼杵の後背地として発展してきた三重町は、県の政治・経済・教育・文化の中心である大分市により強く結びつくようになり、大正末期から昭和初期にかけて、次第に変ぼうを遂げていくことになるのである。

 

 

金融機関 三重町に豊肥線が開通した日の新聞広告に、大野成業銀行と二十三銀行・豊後銀行・臼杵銀行・卯之町銀行(本店愛媛県)の各三重支店および大分銀行三重出張所の六つの金融機関名がみられる。このうち大野成業銀行は唯一の地元銀行で、明治三十一年(一八九八)、百枝村の神宮弥三郎はじめ、三重村の多田亮造・成田豊造・成田重太郎・岩井嶺吉・麻生林平・田中平七・多田五十馬・多田寿一・青田茂一らによって設立され、以後、大正十一年(一九二二)十二月、大分銀行の休業のために連鎖的に休業・解散するまで二十四年余にわたり、大野郡の金融界で中心的な役割を果たしてきたのである。そこで、同行の足跡をたずねてみることにするが、その前に、この銀行と終始密接な関係にあった大分県農工銀行にふれておかねばならない。

 大分県農工銀行は、農工銀行法に基づいて明治三十一年(一八九八)六月に設立された特殊銀行で、当初の資本金は四五万円、そのうち約三分の一が大分県の引き受けとされた。また、その営業種目をみると、三〇か年以内の年賦償還および五か年以内の定期償還による不動産を抵当とする貸付、公共団体に対する無抵当貸付、二〇人以上の連帯責任による五か年以内定期償還の無抵当貸付などが定められていた。このような長期の無抵当貸付は、他の銀行にはまったく例のないことで、農工業振興の上から画期的なことであった。

 県農工銀行設立にあたっては、各郡から発起人として大地主(大野郡は野津市村 赤嶺岩三)が指名され、初代の頭取に小野吉彦が就任、その後は原大三郎がひきついでいる。両者とも大分銀行の頭取であった。このようないきさつから、大分銀行は県農工銀行と癒着して地主資本をかため、商人資本による二十三銀行とはきびしい競争と対立の関係にあった。

 大野成業銀行は設立の翌年県農工銀行と代理店契約を結び、支店をもたない同行の業務を取り扱っている。なおこのとき他に大分銀行系の一三行が代理店となっている。これによって大きく前進することができたわけである。当時「貸付金中大部分ヲ占ムル農業資本ハ大野・直入モットモ多ク……」(『大分県農工銀行 第二期営業報告書』)とあるところからみても、順調なすべり出しであったということができるであろう。

 大正三年(一九一四)四月、黒金知事(三年四月から四年八月まで)が就任、憲政会の知事として「着任早々郡長・署長・米穀検査員にいたるまで人事の刷新を行い、県金庫事務の取り扱いを二十三銀行から県農工銀行に移した」(『大分県政史 県政篇』)のである。このような県金庫の変更によって郡金庫も変更されたが、大野郡金庫は引き続き大野成業銀行であった。なお、『菅尾村 基本財産台帳』によると、七年(一九一八)八月に受け取りの県農工銀行株券利子配当金を、同じ日に大野成業銀行に振り替え預金しており、その他債券・公債などの利子も毎年同様に取り扱っているところからみて、同行が菅尾村金庫事務の取扱機関であったことは疑問の余地がない。

 ここで大野成業銀行の役員をみると、五年(一九一六)一月現在、つぎのとおりであった。頭取は神宮弥三郎(百枝村)、常務は麻生林平(三重町)、取締役は猪野又菊蔵(重岡村)、矢野副治郎(小野市村)、西島又四郎(川登村)、田中平七(三重町 以下同じ)、成田豊造、青田源三郎、岩井嶺吉で、このうち三重町の五名は市場の商家で、町外の四名は醸造家である。

 大野郡では、大野成業銀行が唯一の地元銀行であったことは、さきにも述べたとおりであるが、県全体をみると正に濫立の状態であった。政府ではすでに五年(一九一六)十月の地方長官会議で、銀行認可の方針として最低資本金を五〇万円とすること、また七年(一九一八)五月には合併によって資本金の増加をはかること、さらに九年(一九二〇)八月には銀行条例を改正して銀行合併の手続きを簡素化するなど、増資または合併による銀行の信用強化を推進してきたのであるが、本県では一向にその実施をみることがなかった。

 表4は十年(一九二一)末における県内の銀行の概況をしめすものである。この表にみるように、政府がさきにあげた最低資本金五〇万円以上のものは全体の半分にあたる二四行にすぎず、さらにこのうち払い込み額が五〇万円以上のものは臼杵・二十三・大分・両豊および県農工銀行の五つの銀行にすぎなかった。しかし、この年大分銀行は豊後・別府・豊岡実業・豊岡貯蓄・萩原・大分貯金の六つの銀行を吸収合併している。これらの銀行はいずれも大分銀行の系列のものであるが、合併を非常に高く評価されたのは、銀行合併がいかに困難なことであるかを物語っている。十一年(一九二二)一月、貯蓄銀行法が一部改正されて施行になり、貯蓄銀行による普通銀行業務の禁止と規制の強化がはかられるようになった。このため県内八つの貯蓄銀行が普通銀行に切り替えを行ったので、改めて銀行合併の問題がおこったのである。

 そこで田中知事(十年五月から十二年十月まで)は銀行家協議会を開き、銀行数が多過ぎること、一行あたりの資本金が過少であること、などをあげて合併推進を要請したのである。この協議会には大野成業銀行から代表として麻生林平が出席した。しかし、このような指導にもかかわらず、銀行の合併は一向に進展をみることがなかった。そしてこの年の十二月の始め、大分銀行が取付け状態になり、二十一日には遂に休業を余儀なくされてしまったのである。このため大分銀行系列の大野成業銀行も取付けにあい、支払不能となって整理にはいった。これよりさき、菅尾村では十二月十三日に公債利子を受け取り、同日大野成業銀行に預け入れている。これからみると、同行の休業は全く予想されていなかったのではあるまいか。大分銀行の休業は各地の系列銀行に波及し、破産者が続出した。三重町でも大野成業銀行の休業によって、公私を問わず地域経済が大きな打撃をうけ、市場をリードしてきた指導者たちのなかには再起不能となった人達の姿がみられたのである。

 これから一年余りののち、十三年(一九二四)一月二十九日に大分銀行はようやく営業再開にこぎつけることができた。しかし資産内容が悪かったため、即時払いができたのは純預金額のほぼ半分にすぎず、残額の六五lは切り捨てられ、三五lが株式に振り替えられた。したがって、営業再開とはいうものの、預金者は預金の半分を失い、無残な整理のために犠牲とされたのである。なお、大分銀行は昭和二年十月十八日、二十三銀行と合併して大分合同銀行となるが、その翌年一月には資本金の半分を切り捨てるという過酷な荒療治を行い、その後も長期にわたる整理計画のもとに苦難の道を歩むこととなるのである。

 なお、豊後銀行は大正五年(一九一六)四月に設立されたが、十年(一九二一)九月には大分銀行に吸収合併された。臼杵銀行は明治三十三年(一九〇〇)に設立されたが三十六年(一九〇三)には二十三銀行に吸収合併、同じ名称の臼杵銀行が大正三年(一九一四)八月に設立されたが、十三年(一九二四)四月、再び二十三銀行に吸収合併されている。したがって、以上二つの銀行の三重支店は、比較的短い期間営業を行っていたわけである。卯之町銀行三重支店は、終戦後も予州銀行三重支店として存続した。

 これらの銀行の利用状況であるが、郡金庫・町村金庫指定の場合は別として「普通民間ニ於テハ殆ンド利用スル場合ナシ。主ニ市場商人ニ於テ商業上ノ資金ニ融通ス」(『三重第二小学校編 郷土誌』)とあり、一般的には頼母子講や無尽、質屋などが利用されていたのである。

官公衙 三重郵便局・三重警察署・竹田区裁判所三重出張所・三重税務署・熊本専売支局臼杵出張所三重葉煙草取扱所・大野郡役所および三重町役場などが主なものである。ここでは大野郡役所についてふれてみたい。

 大野郡役所はすでに、明治十一年(一八七八)十一月、初代郡長に桂淳一郎が就任、以後、県の出先機関として続いていたが、二十三年(一八九〇)の郡制改正により、郡は単なる行政区画から地方自治体となったのである。そして二十四年(一八九一)には郡会が設置され、郡会議員は選挙によって決められた。郡会は大正十二年(一九二三)三月に廃止されるまで、三三か年間にわたって通常会三二回、臨時会二六回が開かれている。

 大正期になってからの郡長は、財前元三郎・陣軍吉・山内忠一・赤鉾文太郎・酒巻芳男・藤崎供義・瀬戸山高光・宇都宮喜六・三木進一・井口俊逸の一〇名、郡会議長は、甲斐忠雄・伊藤清一・後藤粛蔵の三名であった。

 このうち政友会の伊藤清一は、すでに明治期に四年間、大正期になって五年八か月の間議長をつとめ、政友会系で警察畑出身の新妻知事(六年一月から十年五月まで)を背後にひかえて権勢をふるったが、最後は刑事事件(『大分新聞 大正十年七月二十三日に予審終結後公判に付される旨の記事』)のために議長を辞退している。大正十年(一九二一)四月、郡制廃止法が公布になり、郡長・郡役所を行政官庁とすることになったが、この法律は十二年(一九二三)四月一日の施行で、それまで郡会は存続した。

 郡会によって郡民の自治意識が高められたことの効果は大きいが、多数派が強力を濫用し、執行権に介入することも多かった。さきの憲政会黒金知事の人事に対して政友会新妻知事は報復人事を行い、「部課長は勿論、巡査・米穀検査員までが切り替えられた」(『大分県政史 県政篇』)のである。郡会もその一翼をになっていたため、政争にあけくれる議員に対し批判の声が高かったことは当然といえるであろう。郡役所は、郡の営造物・事業の処分および権利義務帰属のための残務整理を行い、十五年六月二十四日に廃庁式を行っている。

 ここで大正初期における大野郡役所の予算についてふれてみたい。歳入をみると、毎年度その九二lが各町村分賦金(郡費)と繰越金とからなっており、国および県からの補助金は六〜七lにすぎない(表5)。ほぼ完全に町村負担に依存していたわけである。表6は、三村の郡費がそれぞれの村の歳出予算に占める割合を示すものであるが、年度によって一定しておらず、また、村ごとにばらつきがある。しかし、毎年一〇数lをこえており、なかには二〇lをこえるものもみられ、かなりの負担であったことがわかる。郡歳出(表7)のうちの教育費は大野郡立農学校の経費で、その他土木・教育・勧業・衛生の補助金として町村に還元されている。

教育 大正六年(一九一七)三月、大分県立農学校は掛飛作太郎校長のとき、文部大臣の認可を得て速見郡石垣村(別府市)から三重町に位置を変更、翌七年(一九一八)六月、第一期移転校舎の竣工により、職員生徒は御真影を奉持して移転を行った。ところが、このときはわずかに本館と農具室・堆肥舎・病体解剖室(畜産科)の四棟しかできていなかった。その他、寄宿舎もできていなかったので、大野郡農会の成業館や丈六寺・浄運寺の本堂を仮寄宿舎とした。翌八年(一九一九)四月に移築工事が完了し、七月にはこれを記念して大野郡主催の移転祝賀会が開催された。

 三重町は移転のために田畑合計四町八反六畝一歩(約四.八六f)を校地として提供、これが県に移管されたのち、校舎敷地として一町八反六畝(一.八六f)、運動場七反(〇.七f)、実習田五反(〇.五f)、実習畑一町八反(一.八f)の利用区分をきめた。

 十二年(一九二三)四月には校名を大分県立三重農学校と改称、同時に大分県立実業補習学校教員養成所(実教 一年制 定員四〇人)を併設した。因に、補習教育に熱心で、郡中の模範校とされていた新田農業補習学校では、十二年(一九二三)から月俸六〇円の専任教員を設置した。当時、同小学校教員の平均月俸五三円にくらべると、かなりの優遇であったといえるから、「実教」の生徒は蛇腹の布をまいた帽子をかぶり、胸を張ってまちを歩いていた。十四年(一九二五)には学則改正によって、畜産科の修業年限が四か年となり、同科の生徒募集は四年目ごとに行うこととなった(『大分県教育史 第一巻』)。

 県立三重農学校は、農業専門の教育機関として権威があり、町民に広く親しまれた学校であった。大正期から昭和期にかけ、長年月にわたって在職されたのは浜岡・神田・佐々木・小山・乙益・高橋・権田(旧姓 塙)などの諸先生で、このうち佐々木先生が最も長く、大正十二年(一九二三)四月から昭和十八年九月まで二〇年六か月にわたり、教壇に立たれている(『県立三重農学校沿革』)。同校卒業生は表8にみるように、毎年次ほとんど県下全域にわたっており、八年(一九一九)までは速見郡、九年(一九二〇)以降大野郡が多いのは学校の移転によるためで、十五年(一九二六)の卒業生が少ないのは、畜産科の卒業生がなかったためである。十二年(一九二三)の郡制廃止にともない、四日市および玖珠の両農学校も県立移管となり、国東農学校は昭和二年に県立移管となって、これら遠隔地からの卒業生は次第に少なくなり、大野郡出身者が多くなっていくのである。

 つぎに、県立三重高等女学校についてふれてみたい。この学校の前身は、明治三十五年(一九〇二)四月誕生の大野郡立農学校である。これは、町村組合立として発足した本県最初の農業補習学校を、三十二年七月郡立に移管、組織を変更して乙種(二年制)農学校に改めたものである。したがって、校舎も三重高等小学校におかれていたが、翌年、現在の県立三重高等学校の場所に移転新築されたのである。

 その後、四十四年(一九一一)一月から別科を設置し、大正六年(一九一七)、県立農学校が三重町移転の際に男子部を別科として吸収し、女子部は大野実業女学校として存続、十年(一九二一)四月から郡立高等女学校となった。その敷地総坪数は六二六八坪、十一年(一九二二)には六万円で校舎の増築を行った。県立移管後四年制となり、生徒定員四〇〇名、八学級職員二〇名で、初代県立三重高等女学校長は、東国東郡出身の内林佐吉であった。

 このほか、私立学校に三重実科女学校があった。この学校は大正十年(一九二一)四月、永沢イシの設立になるもので、二年制の本科と六か月の研究科をおき、教科は裁縫・家事・手芸のほか修身・国語・体操だけの経営であったが、生徒数は一〇〇人をこえていた(『大分県教育史 第一巻』)。永沢イシは三十余年間小学校補習科の専科(裁縫)訓導をつとめたのち、私立学校の設立に踏み切ったのである。学校の場所は、駅前通りの三重郵便局横を入った左側のところであった。

 なお、時期は下がるが、長く小学校長を歴任した市場出身の広瀬戸市も、退職後、内田区扇田に女学校を開設した。当初、裁縫練習所として発足し、昭和八年四月、正式認可を受けて私立三重扇田女学校と称した。嗣子藤子及びその家族のほか町内有識者の協力を得て、裁縫のほかに、修身、国語、算術等の諸教科にわたり大野郡内の女子の教育に当たった。

宗教 大正期になって設立された天理教・金光教・キリスト教の各三重教会についてふれてみたい。天理教会三重宣教所は大正二年(一九一三)、大字市場字下田に移転新築された。これより先、明治三十年(一八九七)には高知県から教訓者がきて布教を行い、三十三年ごろには信者がすでに数百人になっていたという。天理教は県下では宇佐が中心。明治三十年代初頭には新興宗教の活動は、権力や仏教勢力のほか、ジャーナリズムや一般民衆の敵意と警戒・猜疑の中で展開しなければならず、政府による教派としての認可はおくれ、明治四十一年(一九〇八)のことであった(『大分県史 近代篇U』)。

 三重金光教会のはじまりは明治三十八年(一九〇五)の教会所設置からである。大分県での布教は、二十九年(一八九六)、臼杵にはじまり、三十三年(一九〇〇)、政府による認可ののち、国東・佐伯・大分・三重・別府・竹田・日田と教会所が設置され、大正二年(一九一三)には大分県連合会が結成された(『大分県史 近代篇U』)。三重金光教会は大正二年(一九一三)に肝煎に新築された。当時の信者数は千人をこえ、大字市場および小坂、百枝村・柴原村に多かった。臼杵出身の酒造家(かぎや)足立惣次郎は熱心な信者で、教会長は藤井恵治であった。

 キリスト教(大野メソジスト教団とも呼ばれていた)のはじめは、大正三年(一九一四)一月、愛媛県人向井安胴の伝道による。向井牧師は当初は向野屋に止宿し、二月八日の聖日に初めて聖書研究会をひらき、また、日曜学校を上市の三谷方と下市の向野屋の二か所にひらいた。その後、臼杵から今井牧師、佐伯から渡辺牧師、松山からデマリー牧師、別府からキャラハン牧師が巡回伝道に訪れ、五月十七日、はじめて洗礼が行われた。このときの受洗者は一三名で、キャラハン牧師によって特別伝道説教があり、六〇名の人達が参加している。以後、下市の小笠原方二階、つづいて上市の民家をを借りて日曜礼拝・日曜学校・祈祷会などが行われるようになった(『三重第二尋常高等小学校編 郷土誌』)。現在の市場三区の日本キリスト教団三重教会の前身である。

災害 大正七年(一九一八)七月十日から十二日にかけて県下は豪雨におそわれ、大野川下流の鶴崎・高田・戸次では洪水による被害が大きく、大分市・中津町でも多数の家屋が浸水した。郡内では犬飼線が不通となり、道路は犬飼町田原・渡無瀬、菅尾村細長附近で決潰、交通が途絶した。なお、沈堕発電所は浸水土砂のため操業不能となったが、さいわい停電にはならなかった。このとき三九四_の降雨量を記録している(『大分新聞 大正七年七月十四日』)。

 十三年(一九二四)七月十七日から十八日にかけて、はげしい豪雨があり、三重川は十八日午後二時頃、増水九尺(二.七b)に達し、下田橋・御手水橋が流失、高市で三〇戸が浸水した。豊肥線は滝尾・朝地間の各所で土砂崩壊があり、二日間不通。このときの三重町の降雨量は一九三_であった(『大分新聞 大正十三年七月十八日』)。これらが大正期を通じてみられた三重町での主な災害である。

 

 

  三 菅尾村の主なできごと

産業組合と頼母子講 明治三十三年(一九〇〇)九月に産業組合法が施行され、県内では同年十一月、小野市村に木浦製紙組合が設立された。これが産業組合の第一号である。しかし、組合設立はあまり進展せず、三十九年ごろからようやく各地に設立をみるようになった。菅尾村では四十五年(一九一二)から大正二年(一九一三)にかけて、宇対瀬・宮尾・深野・又井の各集落単位に産業組合(信用購買販売組合)が設立された。

 このうち宇対瀬産業組合は、当初の組合員数九五、出資口数一六〇(出資一口五円)で、四つの組合のうち最も大きかった。産業組合の事業のうちでは信用事業がよく利用され、貸付限度を宇対瀬・深野では五〇円とし、宮尾・又井では二〇円、また、貸付金利を年一割二分としている。

 又井産業組合は大正三年(一九一四)に県農工銀行から日歩三銭で一五〇〇円の借り入れを行っているが、これは例外的で、貸付は自己資金の範囲内に限っている。これは、県農工銀行の貸付金利が一割をこえ、農業資金としては高利についたからであろう。

 購買事業としては肥料が最も多く、その他、耕作用牛馬・桑苗・蚕具・農具などがあげられる。深野産業組合では特約店から肥料を購入するとき割戻金をとっているが、他の組合にあってもこれは商慣習となっていたものと思われる。販売事業としては米・麦・繭などがあるが低調であった。当時の組合は信用事業が中心で手近な金融機関であったが、購買・販売の共同化が進んでいなかったために、そこから収益をあげることができず、貸付資金は専ら組合員の貯金によっていた。三年(一九一四)末における四組合の貸付金合計は一三五四円となっている。なお、日常生活での金融のためには頼母子講が利用されており、宇対瀬五、深野四、宮尾三、又井一と一三あって、大正初期における毎年の融資額合計は、ほぼ一万円に達していた。

村役場の改築 菅尾村役場は、初代村長神志那政太郎によって、明治二十三年(一八九〇)十二月に新築された。場所は大字菅生と大字宮野の境で、県道沿いのところであった。その後、難波直猪・藤田博美・渡辺幸太郎・深田太利木の各村長を経、大正五年(一九一六)、再度藤田博美が村長に就任したころには、すでに三〇年が経過し、老朽化していたので改築が行われたのである。新しい村役場は、木造瓦葺二階建二七坪の本館に玄関と便所をあわせ総建坪三〇坪で、営繕費は三六八九円であった。この建物は九年(一九二〇)三月に竣工、村長は波津久斉にバトンタッチされ、さらに二年後、土谷伝になる。

トラホーム予防 大正二年(一九一三)十二月にトラホーム治療費補助規定が制定され、市町村に補助金が交付されるようになって、トラホームの治療は大正期を通じて学校保健衛生の重要な施策であった。大正五年(一九一六)、大分市内小学校でのトラホーム患者は六四lであった(『大分県教育史 第一巻』)とされているから、農村ではこれを上廻る高率ではなかったろうか。八年(一九一九)にトラホーム予防法が公布され、翌九年(一九二〇)からトラホーム予防費補助として、県および郡から補助金が交付になる。これは、主として徴兵検査の際に患者の多寡が指摘されるようになったからで、そのため、市町村当局では壮丁にトラホーム治療に熱心に取り組むようになった。

臨時手当の支給 大正七年(一九一八)七月の米騒動以後、米価が上がり、給料生活者は大きな打撃をうけた。このため翌八年(一九一九)には月給六か月分、九年(一九二〇)には八.四か月分の臨時手当が小学校教員と役場職員とに支給された。大分市における玄米一石の価格は、大正三年の一四.二円から七年には三一.六円、八年には四四.一五円と大幅に上昇しているので、臨時手当の支給程度では物価値上がりに追いつくことができなかった。そのため、九年九月には臨時手当を本俸に引き直し、給与の改善が行われている (『大分県教育百年史 第一巻』)。

停車場道路 大正九年(一九二〇)八月の追加予算で、道路橋梁費三五五三円、敷地買収費九〇〇円とその他の経費をふくめ、停車場道路新設のために土木費四五五三円が議決され、翌十年(一九二一)三月の菅尾駅開業に間に合うよう工事が急ピッチで進められた。菅尾村役場の「鉄道用地土地分割登記」によると、六年(一九一七)十二月二十八日に、三重町大字市場 有田鉄平所有の菅尾村大字菅生字大屋田の水田一.六反余りの買収が行われている。これからみると、菅尾村での鉄道用地の買収は六年から七年にわたって行われたものと思われる。

 

  四 百枝村の主なできごと

百枝・菅尾組合道路 明治四十三年三月に道路建設のために組合が設立され、大正二年(一九一三)十月工事に着手、翌年(一九一四)三月に完成した。道路延長は六二四五間(一一==)、工費は三万五八八三円であった。当時の村税収入は両村合わせて一万円程度であったから、おそらく、百枝村有志の寄付によるところが大きかったのではあるまいか。この道路は百枝村百枝から大字法泉庵・上田原を経て大辻山を迂回し、宇対瀬から深野で県道(現在国道三二六号線)に合するもの。百枝から犬飼に出るには、大野川の田原渡しで大野川通船にのり川を下るルート、田原渡しから対岸の柴原村経由のルートの二つがあるが、いずれも田原渡しを利用しなければならず、出水期には不通になり、危険でもあった。組合設立の前年、四十二年(一九〇九)八月六日には、大分県全域にわたる中規模の暴風雨洪水が記録されており(『大分県の気候誌』)、このとき人命にかかわる事故でもあって、このような大工事に踏み切ったものかと思われる。

農事小組合の設置 大正五年(一九一六)四月、上田原農事小組合が設置され、これはさらに土柳・中原・馬場・下津留の四つの集落別の実行単位をつくっている。小組合の事業は、普通農事では米の品種統一、病虫害の駆除予防、肥培管理の改善、収穫・利用および販売の改善、耕地整理。養蚕では共同消毒、稚蚕共同飼育、繭の共同販売などがきめられ、その他、煙草・畜産・林業・副業と各部門ごとに作業・技術基準や実施時期などについてこまかく明文化している。そして、実施にあたっては「同心協力利己主義ヲ矯正シテ部落ノタメニハ何事モ平和的相談ヲナシ互ニ尽力以テ向上発展ヲ計ルコト」としている。

 このような農事小組合設置規則をみると、郡役所から準則がしめされ、それに基づいて設置が義務付けられたものと思われる。内容が網羅的であるだけに、どれだけ実効をあげることができたであろうか。農業の「共同化」はむずかしいことであり、その点は昔も今も変わりがないのである。上田原と同じ時期に、向野にも農事小組合が設置されている。

煙草耕作組合の設置 大正四年(一九一五)の煙草作付面積は全県で六二〇町歩(『統計でみた大分県』)、そのうち大野郡は四四〇町歩(『大野郡案内 大正六年』)と約七一lを占め、県下最大の煙草生産地であった。百枝村での煙草作付面積は二三町歩で、大字向野がその中心であった。

 大正四年(一九一五)に百枝村煙草耕作組合が設置されている。その規約によって組合の事業をみると、煙草耕作反別の配当、種子の採取分配、施肥耕耡・乾燥調整の改善、煙草の査定および納付、耕作資金の融通、煙草耕作物品の共同購入など、一般の産業組合とは別の組合機能をもっていたことがうかがわれる。煙草が専売品であったために、きびしい管理と規制のもとに耕作が行われたのである。

村役場の改築 大正八年(一九一九)九月に村役場の敷地買収費二四〇円と建築費二二六〇円が議決され、二か年間の継続事業として九年(一九二〇)に完成、工費総額は四二六〇円であった。なお、大正期の村長は江藤弥作、江藤幸太郎、久保田多里穂、さらに八年以後、再度江藤幸太郎であった。

原田橋の建設 三重町から柴原村に通ずる郡道は、上田原から坂道をおりたところが大野川で、ここに田原渡しがあった。このあたりの川幅はひろいものではないが、対岸ががけになっているところから、ここに釣橋が架けられ、大正十二年(一九二三)に完成した。この年七月五日、県西部に降った大雨のため、大野川は犬飼橋付近で二五尺(七.六b)の大増水となり、沿岸一帯が危険にさらされた(『大分新聞 大正十二年七月六日』)。したがって、田原渡し付近も当然大増水となったであろうが、釣橋のおかげで通行に支障はなかったのではあるまいか。現在この釣橋は撤去され、五〇〇b余り上流に鉄筋コンクリートの原田橋が架けられている。

 

  五 新田村の主なできごと

村役場の新築 大正三年(一九一四)十一月に役場新築が議決された。その場所は大字久田字津留前で、佐藤岩蔵の所有地であった。役場の敷地は一二〇坪、建物は木造瓦葺二階建二四坪、ほかに玄関と便所を合わせて総建坪二九坪、工費一四四〇円で四年(一九一五)三月に完成した。この役場は昭和二十六年四月の三重町との合併まで存続した。大正期の村長は佐藤武生および佐藤静である。

新田小学校補習科 明治四十二年(一九〇九)、三重町にあった三重町外三村学校組合立三重高等小学校が解散し、新田尋常小学校に高等科がおかれ、新田尋常高等小学校となった。同時に修業年限二か年の補習科が設置された。この年五月には新校舎が落成、なおその後の生徒増にともない、大正十三年(一九二四)四月には第二校舎が完成した。補習科(新田農業補習学校)の教員は、ほとんど小学校教員が兼務し、農閑期だけの季節制であった。

 大正八年度(一九一九)新田村予算に、はじめて補習科兼務の教員五名に対し、一期間一人あて二円の手当が計上されているが、正教員一か月平均給料二三円に比べると、低すぎることは否めない。そこで、管理者に対して補習教育への財政支出の増加が求められ続け、ようやく十二年(一九二三)になって関係予算が前年の六.七倍にのび、専任職員が設置されるようになった。これは、この年からの郡制廃止により郡費負担がなくなり、財政的に可能になったからである。

 なお、同年、県立三重農学校に実業補習学校教員養成所(実教)が設置され、実業補習学校専任教員が養成されるようになって、各市町村において、実業補習学校の運営がようやく積極的になり、とくに新田農業補習学校は成績良好で、郡中の模範校として認められ、実教附属校として実地授業が行われた。佐藤静村長の補習教育に対する熱意のたまものといえるであろう。

水力発電 大正七年(一九一八)四月、大野電気工業鰍フ代表者から新田村々長代理助役佐藤静あてに水利権承認願が提出され、五月の村会で承認の議決があった。承認願によると、合川村大字宇田枝字ツルの奥嶽川堰口と、新田村大字久田字ヤナセの中津無礼川堰口から水をひき、大字久田字戸ノ口で発電を行うというもの。しかし、八年(一九一九)の大分県統計書には国東電気・竹田水電・湯ノ原水電・森水電・蒲江水電はあるが、大野電気工業の名はみられない。事業実施とまではいかなかったのであろうか。

御下賜金 米騒動のとき御下賜金が交付された。これをどうやって分配するかに智恵をしぼったうえ、外米を購入して配付した。その結果「聖恩ヲ一般村民ニ伝ヘ、貧民ニ対シテハ施米或ハ廉売ヲナセルニ、一般貧民ニ於テハ高恩ニ感涙シ拝受セリ……」(「大正七年 事務報告)とある。しかし、なおまた給付すべき対象者の調査や結果報告の事務に忙殺されたとあり、このあたりが本音であったろう。

シベリア出兵 大正七年(一九一八)八月二日、第一二師団に動員令が下り、在郷軍人のうち二六名が応召し、このうち一七名が七年中に解除になって帰郷したが、残り九名のうち三名が出征後帰郷、六名が八年二月現在、シベリアに駐屯していた。八年(一九一九)二月二十五日にはユフタで田中支隊が全滅している。六名の安否はどうであったろうか。日本軍がハバロフスクからの撤退を完了したのは九年(一九二〇)十二月で、シベリアからの撤兵方針を閣議決定したのは、十年(一九二一)五月のことであった。

 

 

  二 戦時下の住民生活

統制経済と配給制度 時局が緊迫し総力を軍事目的に集中する必要から、政府は総動員法を発動して、強力に国民生活全体を統制するに至った。経済統制はその一つで、まず企業合同を強力に押し進めた。その結果、あらゆる業者は組合を組織し、または合同するに至った。三重町における紙文具図書関係の大和紙文具組合、印刷界の三重合同印刷会社、木工業者の三重木工会社などがその一例である。

 一方、日常生活必需品のほとんどすべてが統制され、その統制品を取り扱うため、食糧公団・繊維組合・生活必需品組合などが生まれ、その事務所が市場に置かれた。米穀が一番早く、昭和十六年から米穀通帳による一日大人一人二合三勺を基準とする配給制がとられた。重労働者は二合八勺、老人・子供は段階的に漸減されるのである。衣料についても、十七年二月から衣料切符制が実施された。衣料品それぞれの単位毎に点数を付し、一年間八十点(市並びに大都市隣接町村は百点)の範囲だけ購入が認められたのであるが、切符はあっても品物のないこともあった。対象はあらゆる衣料品にわたっていたが、主なるものは作業シャツ・ズボン・絣木綿・軍手・地下足袋などで、国民は最大限の忍耐を強いられた。

 ほかに味噌・醤油・砂糖・塩・酒・タバコ・ローソク・石油などみな統制品となった。ガソリンも統制品となったため、木炭が代用燃料となり、各所で窯が築かれ木炭が製造された。自動車燃料も当然木炭ガスに取って代えられたが、馬力不足でバスなど坂路にかかると乗客が後押しを余儀なくされた。せっかく開通した三重〜小野市間バスも運行不能となり、このことが延いて配給関係などから、小野市・重岡両村の南海部郡転属を実現したことは、大野郡、特に三重町にとり遺憾なことであった。配給品やその切符は、役場を通じ各区長に渡されたが、数量が少なくて配分に頭を悩ます上、やっと各戸への配分が終わったと思うとまた次の配給品がくるなど、末端の隣保班長の心労は大きかった。

金属回収と供出 昭和十六年四月から、官公署並びに団体の金属類の特別回収が開始された。古鉄・故銅等の金属類を回収して、総力戦遂行のため役立てようというのである。支那事変勃発後、軍需の激増のため多量の屑鉄を海外から輸入していたが、国際情勢が緊迫して杜絶してしまって、自給自足を図らなければならなくなったからである。官公署・団体は、その建造物などから鉄や銅製品を撤去回収したが、つづいて一般家庭にも要請した。すでに行われていた廃品回収を現用品回収にまで拡げたもので、その実施には翼賛壮年団員や国防婦人会員などが先頭に立った。その種類は弁当箱・火鉢・仏具・花瓶・タンスの取手・蚊帳の釣手・鉄瓶・鉄釜・扇風機・看板類に及んだ。

 最後の思い出に、朝茶の湯を沸かして冷めやらぬ熱い銅壺を差し出す老婆があり、テニス大会で優勝した記念品だよと、思いをこめて銀杯を届ける紳士があり、回収に当たる者達が泣かされる場面が繰り返されたが、住民はみな真剣に回収に応じた。貴金属は僅少ながら有償で回収された。回収の対象は寺院の梵鐘にも及んだが、出征兵士同様の扱いで、祝応召と書き抜かれた赤いたすきが懸けられ、日鉱佐賀関製鉄所方面に向けて送られた。 このとき、地区の消防組から古い腕用ポンプが何台か送り出された。大阪など大都会の隣保班の初期防火用のものであったが、ポンプまで供出とは住民も予期しないことであった。

  供出といえば、住民にはこのほか数多くの種類の物資の供出が要請された。農家からは、米・麦・甘藷等本来の食糧の増産と強制供出のほか、軍用食として乾燥野菜の供出も課され、一般家庭にも、梅干し・ズイキ・ヨモギ・ヒマ・干し草などが割り当てられた。児童生徒らも学校から桑の皮・ススキの穂・どんぐり・イナゴ・茶の実らの収集が課された。また、国防婦人会員が集まり、繭から糸をとり真綿を作って供出する姿が各所に見られた。いよいよ戦争が激化すると、飛行機の高品位の燃料に充てるためとの呼び掛けで松根油の採取が命じられ、各地区民が出動して松の根を掘り、また、幹を刻んだりして油をとり内山などで蒸溜した。

防空演習・奉仕作業並びに勤労動員 昭和十九年に入って、全国各地への無制限爆撃が始まったのを機に、それまで都市に重点が置かれていた防空体制が、地方のすみずみまで拡げられることになった。日本の大部分の家屋が木造であり、投下されるのは焼夷弾であると考えられるところから、その落下直後火災に至るまでに、住民の手で鎮火するのが狙いである。その結果、三重地方の隣保班にも防火組織が結成された。家族の全員が防火従事者となり、隣保班に落ちた焼夷弾は、班内の家族総動員で消すという体制である。隣保班が単独または組んで、防火水槽・バケツ・砂・莚・火叩き・長棒・梯子などを備えつけた。警防団員の指導で、「○○屋上に焼夷弾落下!。」という想定で全班員が出動してバケツの手送り、バケツの防水で消火するなどの防空演習が毎日繰り返された。

 やがて陸続と応召者が続き、国防婦人会員が駅通りに並んで見送らない日はないようになった。出征兵士への慰問袋の発送、留守家庭の慰問も婦人会の大事な勤めとなった。また、働き手を欠いた農家への勤労奉仕は、翼賛壮年団員や三重農学校生徒が担当し、時には女学生も協力し麦刈り、田植などに従事した。

 工場での労力不足が深刻となり、兵役関係以外の多くの男子は徴用令で軍需工場に徴用された。徴用されない者にも勤労動員の命が下り、商店主で組織する三重町商業報国隊員なども、三菱尾平鉱山や大分その他の軍需工場で働いた。三重農学校生は農事作業を中心に各所に出動し、三重高等女学校生も動員されて、大分の第十二海軍航空廠などに勤務した。上野寮や新川寮に分宿し、なかには湯平作業所に赴く者もあり、のちには三重町から通勤して深夜帰宅する者もあった。三重町より通学していた大分中・大分工・大分商・岩田女・竹田中らの各校生徒も、ほとんど同様に軍需工場に動員された。みな空襲の危険に脅えながら、慣れない労働とつらい空腹に耐えて黙々と働いた。

出征兵士と家族 戦禍が拡大するにつれ、出征兵士は日ましに増加していった。出征者の家では親族・友人・地区民が集まり、盛大な壮行の宴が開かれた。家の前には青年団員の手によって杉の門が立てられ、大きな幟が翻り、出発当日出征者は見送り人と共に神社に参拝したあと、菅尾駅または三重町駅から乗車した。駅前広場で出征者をとりかこんで町村長や婦人会長が激励し、武運長久を祈って万歳を三唱した。町村の出征者が重なるときは、三重町駅前は三重郷民で混雑した。三重町長伊東東は在郷軍人分会長でもあったので、しばしば軍服姿で駅頭に立った。

 郷土から首藤正義少将(白山村久部出身)や佐藤盛雄中尉(新田村高寺出身)はじめ多数の軍幹部が、出征または内地勤務につき各方面で活躍した。しかし、大部分の出征者は無名の召集軍人で、年齢の高い人も多く、いずれも一家の柱であったが、すべてを棄てて国家の急に赴いた。その数は測り得ないが、青壮年層の大半が軍務に服したのであった。出征先は、最初、満洲・中支が主であったが、戦線の拡大に伴い陸・海・空三軍にわたり、北はアリューシャン列島・北満国境、南は南太平洋・豪州・印度方面まで東半球のほとんど全域に及んだ。戦場や兵種によって様相こそ異なれ、みな筆紙につくし難い艱難辛苦の戦いに臨んだ。そして、多くのかけがえのない人々が戦死し、戦傷病者となった。

 町村では全住民が銃後奉公会を組織し、児童生徒や国防婦人会員が中心となって、留守家族の援護や戦死者家庭の慰問に当り、また、慰問袋・慰問文の送出などを続けた。出征者にあっても、軍規の厳しいなかをかいくぐって郷里への連絡をとるのであった。三重町市場の呉服店主青田久生は、昭和十九年春、三三歳にして西部第一七部隊に召集されて中国大陸各地を転戦したが、軍務の暇をみつけては郷里の夫人や母堂に消息を送りつづけた。戦場のことゆえ、「軍事郵便」「検閲済」の印をうたれた一片のハガキによってだけであるが、駐屯地の状況や軍隊生活の記事などを克明にしたためた。絵画の心得があるところから、そのハガキの多くに色鉛筆を用いたりなどして、巧みに中国の風物や軍務の模様を描き、俳句なども加えて濃やかな心情を吐露しつづけ、その数九十余通に上った。終戦後二十一年四月に郷里三重町に引き揚げ、家族と再会を喜び合ったが、はからずも戦地からの軍事郵便ハガキのほとんど全部が届いていて保管されているのに胸をうたれた。写真はその一部であるが、殺伐凄惨な戦争の陰に秘められた、出征軍人と家庭とを結んだ温かい交流の一つのあかしである。

 大戦中、三重郷土住民も全国民と同様、戦場・銃後を問わず、各層各域にあってさまざまの体験をしたが、それらの体験記は、三重町で編集して昭和六十一年刊行した「戦争体験記録集三重町版」に、詳細に記されている。

 

  三 臨戦体制と三重

青年訓練所から青年学校へ 明治末から大正初年にかけて、農業または実業に従事する青年に必要な知識技能を授けると共に、小学教育の補習をする目的で各町村に農業(または実業)補習学校が置かれたが、大正十五年四月の青年訓練所規程の公布に基き、改めて青年訓練所が置かれるようになった。修身・公民・教練・職業の課目を履修するものであるが、四か年間八百時間中の四百時間を充てるほど、特に教練に重点が置かれた。小学校卒業後、上級学校に進まない農村青年は、徴兵検査を受けるまで、みなこの訓練所の門をくぐらなければならなかった。

 つづいて戦時色濃厚となった昭和十年四月、青年学校令が公布されて、青年訓練所は青年学校に衣替えした。農繁期は農業に従事し、農閑期に教練その他の学科を教え皇国青年を練成する場であるが、ここでも教練が中心で、戦局の進展に対応し、入営前に軍隊教育を施し、直ちに銃をとって第一線に立つことができる体制がととのえられたのである。校長は小学校長が兼任し、教練指導員には優秀な在郷軍人が任命された。また、教師は三重農学校(のち大野中学校に移る)に置かれた青年学校教員養成所の卒業生が、小学校教師と共に当った。

 この青年学校は、各小学校ごとに置かれたが、時局の急迫と共に充実強化することが要請されたので、菅尾・百枝・三重・新田の四か町村は昭和十八年に協議して、四か町村組合立の青年学校とすることになった。三重青年学校がそれで、三重町久知良重政の三重国民学校の一隅の仮校舎で開校した。学校敷地のまわりの武装走路などを舞台として激しい訓練が繰り展げられたが、さらに徹底した軍事訓練を実施するためには、広大な場所が必要となったので、十九年四月、三重町は上赤嶺大原の地に校地を購入した。城ケ平・松久保・北久保にまたがる高燥な台地で、山林・原野など四町八反余歩(実測約八町歩)に及んだが、三十余名の土地所有者などの関係者は時局を認識し、大きな犠牲を払ってこれを提供した。

 重政の仮校舎からは、戦局いよいよ激化した十九年秋に移転した。本部兼武器庫は重政から、教室棟は百枝村向野からもと公会堂の建物を、それぞれ解体して移築したが、労力不足のため、男女生徒らが資材運搬に奉仕した。新校地は青年訓練の場として最適地として軍部からも絶賛され、やがては大野郡中の青年も集まることになっていた。昭和二十年、一部分を飛行場に提供したが、やがて終戦を迎えると共に学制改革により青年学校は廃止となり、校地校舎は県立三重高等学校定時制大原校に引き続がれることとなった。その後増築された大原校舎が、昭和二十六年三月、四か町村合併の際、最後の協議の場所となったが、思えば、かつての組合立青年学校の創立が四か町村を結合さす端緒であった訳で、まことに奇縁である。

防空監視哨 空襲がはげしくなるにつれ空の監視と情報の連絡のため、大分市に防空監視隊本部が設けられ、県下二十八か所に防空監視哨が置かれた。監視哨には防空監視隊員が勤務し、敵機の飛行音をとらえ、その動静を電話で本部と警察署に連絡する。単純な作業ながら探知や通信機能が幼稚な当時にあっては、極めて重要な防空体制で、監視哨は空の触角といわれた。郡内では温見・緒方・重岡等に置かれたが、南方基地から本土空襲へのルートとなった三重にも、当然監視哨が置かれた。

 当初、簡易なものが三重地方事務所の屋上に設けられていたが、戦争の激化に伴い、本格的設備を重政丘の一隅三重国民学校の校地内に設けた。簡単に屋根を覆った深さ三b、直径七bの壕の中に、昼間は二人が向き合って立ち爆音を開きとり、濠の外の者が機影に目を注ぐ。夜間は外に出て監視する。そして常時本部に連絡する。傍に小さな畳敷の小屋があり、非番の者が休息する。隊員の多くは青年学校生徒かその卒業生で、主に内田・松尾・鷲谷方面から集められていた。始めは男子が多かったが、応召や徴用のため後には女子隊員の方が多くなった。教練指導員の深田龍雄哨長のもと、十数名が二十四時間交代で勤務し、空襲がはげしくなった二十年春以降は不眠不休の日々が続いた。

 二十年七月十六日深夜から十七日未明にかけての大分大空襲の際は、特に劇的であった。頭上にはB二九の編隊が絶え間なく爆音をとどろかせて旋回し、北方の空は紅蓮の炎をあげて燃えている。その中を隊員は、刻々に必死となって電話連絡をつづけた。終戦後数日にして解隊の日を迎えたが、三重町では僅かにぜんざい会を開いて、隊員の労を犒うほかなすすべがなかった。事実、監視隊員の働きは、兵役でもなく徴用でもないため、報いられること少なく、全く青春を捧げ尽した無私の奉公であった。重政の監視哨跡は終戦後埋められ、土盛りされて青々とした小山を成している。三重中学校生徒から重政富士と愛称されているが、軍事施設から鮮やかに転換したこの小丘は、平和のシンボルとして永く伝えられるであろう。

軍需工場と官公署 戦局の進展に伴い、全国的に工場の地方分散や官公署の疎開が断行された。工鉱業とは殆んど縁故のなかった三重地方にも、時局の波が押し寄せて来た。昭和十九年夏、突如として神戸から燐寸会社が疎開してくることになった。駅に近い平坦な土地が良いというので、三重町内田の桑畑が選定され、地主の絶大な協力を得て工場が建設されることになった。近隣の山の木を切り出して軸木を作り、加工し燐寸を製作し、九州一円の需要にあてようというのである。三重町駅より引込線を引いて製品を貨車輸送する計画があり、工場の規模も相当大きなもので、解体された建物や設備の資材が神戸方面から陸続と運搬されて来た。

 つづいて寿屋が、三重地方がウイスキーの原料とする甘藷の生産地というところに目をつけて疎開して来た。資材が駅前に山積され正に建設が始まろうとしたところで、大原飛行場建設の情報が入ったため、急に中止となり臼杵の方に転じ、寿屋臼杵工場(現サントリー臼杵プラント)となった。

 地元の事業家たちにも、軍需省の懸け声に応じて工場を開いた人もいた。金物業の玉田哲三らは永沢女学校跡を利用して、三重鉄工所を設け軍需品の部分品を製作した。元海軍軍人の小島猛雄は、内田で南邦繊維会社を作りロープ製造に従事していたが、原材料のマオランの輸入が途絶えたので軍需省指定の木工所に転換し、企業合同した木工業者を集めて軍用品の製造を始めた。三重木工所と称し、製品は主に弾薬箱であったが、内田から三重町駅まで婦人会員などが列を作り、手送りで運搬した。

 昭和十六年ごろ、上海引揚者の高橋周二が千歳村の田原園や倉波の亜炭鉱山を開発し、亜炭の採鉱とその乾溜製品の産出を始めた。軍需や一般産業上石炭飢饉が迫って来て、亜炭の価値が見直されたからである。その後、軍需省の要請もあって事業の拡大が図られ、二十年大分亜炭鉱業株式会社を設立、事務所並びに鉄工所を三重町駅前に置いた。千歳から運ばれた亜炭が下田の溜池傍に山積みされて、毎日駅から積み出され、二十三年亜炭公団廃止に伴い事業が中止になるまで続いた。

 この時期、三重町役場は市場四区の首藤獣医倉庫跡にあったが、空襲の危険を避けて重政に疎開した。三重国民学校の建築中の教室で、何等設備もなく、町民にも多くの不便を与えたが、そこで戦時事務が処理された。また、登り道の傍の山肌に壕を掘り、重要書類の格納と住民の避難に備えた。同じく四区にあった三重税務署は内山の蓮城寺に移り、登記所も松尾の吉祥寺へ疎開の準備を進めた。

大原飛行場の建設 昭和二十年を迎え沖縄の戦局が激化して、本土決戦の色が濃くなった。鹿児島や宮埼の海岸に上陸しようとする米軍に、水ぎわ作戦を仕掛ける特攻飛行機の基地が必要となって来た。三月末、西部軍司令部から係官が三重町や百枝・新田村役場に来て重大な事項を伝えた。軍の機密事項であるので絶対秘密であるが、特攻機基地として秘匿飛行場(正式名称豊後秘匿飛行場)を建設するので協力せよとのことである。急を要するというので三重町長は、即夜全区長を招集して軍命令を伝えた。陸軍の部隊が来て軍用道路を急造するので、大釜、平鍋などの炊具を提供して、明朝地区の道路わきまで搬出せよとの告知である。あまりに急なことで地区民は驚いたが、軍の至上命令なので徹宵して準備し、要請に応えた。数日後には用地所有者が正龍寺に集められて、有無を言わさず提供を承諾させられた。

 つづいて作業部隊が来町し、天風隊は三重農学校、母倉隊は三重高等女学校、松園隊は大野郡畜産組合にそれぞれ本部を置き、駐屯して建設の指揮に当たった。作業用員として大野郡内はじめ遠く宇佐・国東方面まで国民学校や中等学校の児童生徒が動員され、地元では一般住民も勤労隊員として出動が命ぜられた。部隊要員や遠隔地の勤労隊員は寺院・農学校・女学校・市街地民家等を宿泊所とし、三重の国防婦人会員が未明から出動して炊事に協力した。毎朝作業場に向って、軍歌を歌いながら行進するゲートル巻きの国民学校児童の可憐な姿が、駅通りに続いた。

 飛行場の位置は、三重町駅裏の丘陵地帯で、通称大原といわれる一帯、西端は新田村下玉田、東端は三重町下赤嶺、ここに巾八〇b、延長二千bの滑走場が建設された。作業は平らに整地した土地に川石を並べて沈圧し、その上に土をかぶせて芝を覆う単純なくりかえしであったが、用具として、もっこ・たんか・鍬・ざるしかなく、すべて手作業で骨の折れる仕事であった。川石は郡内の小運送組合員が動員されて、大野川の原田橋付近から荷馬車で運搬した。百枝村役場がその本部で、毎日、大野川から大原まで延々と馬車の列が続いた。作業中に敵機の爆音や機影に接すると、作業員は樅の大木の樹上に設けた司令所からの太鼓の合図により、迷彩用に準備された根付きの小松を滑走路上に運んだ後、雑木林に待避した。

 なお、このとき飛行場の東南端、下赤嶺中原赤嶺秀人方山林内に、約二〇〇bの待避線路が敷設された。軍の要請に応え、空襲時に列車を護るため鉄道省が作ったもので、いまもその跡が見られる。また、下赤嶺地内には格納庫など二か所、三重原に秘匿所などが設けられ、それらに誘導するため並びに、同時に作られた千歳村の鹿道原飛行場と連絡するため、あちこちの県道の幅員拡張が勤労隊員の手で行われた。他方、百枝村牟礼の木元山には通信施設が築かれ、付近には巨大な地下壕が掘られた。

 四月から始まった飛行場の建設作業は、延々三か月の日時と十万余の勤労隊員を動員して、八月初めようやく完成した。この時点で、特攻機が飛来し、いよいよ秘匿飛行場の使命が果されるところであったが、すでに資材がなく飛行機の補充がつかなくなったからであろうか、一機も配備されなかった。劇しい勤労と奉公の結晶である施設が日の目を見ないことになって、住民は複雑な気持ちを抱いたが、言論が統制され情報網が閉ざされて、住民には何も知らされていなかった。

ポツダム宣言の受諾 戦争の帰趨がほぼ明らかになった七月十七日、トルーマン・チャーチル・スターリンの三者がベルリン郊外のポツダムで会議を開いて協議し、同二十六日、蒋介石の同意を得て、米・英・華三国連名で戦勝後の日本処理方針を発表した。ポツダム宣言といわれるもので、その内容は、連合国軍による日本占領、軍隊の武装解除、軍国主義勢力の除去、日本国民の民主主義傾向の復活と強化、基本的人権の尊重など十三項目にわたるもので、まさしく日本の無条件降伏を要求する最後通告であった。

 当初、日本政府はこれを黙殺し、最後まで戦争を継続すると説いたが、事態はますます切迫した。八月六日、広島に世界最初の原子爆弾が投下され、八日、ソ連がポツダム宣言に調印するとともに日本に宣戦を布告した。つづいて九日、長崎にも原爆が投下され、我が国は瀬戸際に立たされた。同夜開かれた御前会議で、本土占領、武装解除、戦争犯罪人の処分に条件を付せよとの軍部の主張を排し、天皇は国体護持だけを条件としてポツダム宣言受諾の聖断を下された。

 この決定は直ちに米英ソ華各国に伝えられ、四国の回答に接して軍部は再び抵抗を示したが、十四日、御前会議で天皇は最終の聖断を下され、無条件でポツダム宣言を受諾することが決定された。ここに、開戦以来三年八か月余り、幾百万の人々をいため、日本の隅々まで荒廃させ、僻地の三重地方までも飛行場建設をはじめとする戦時体制に巻き込んだ第二次世界大戦は、我が国の完敗によって幕を降ろすこととなったのである。

 

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                                                      第七節 昭和の幕あけ

 

  一 深まる戦時色

昭和の幕あけ 大正十五年(一九二六)十二月二十五日、病気のため長期にわたって療養中であった大正天皇が崩御された。哀愁のなかにも、皇位は一刻も空けられぬところから、即日、皇太子裕仁親王が践祚された。すでに五年前から摂政宮として政務を執られ、国民に親しまれていたから、みな明るい気持ちをもって新しい幕あけを迎えた。このとき定められた元号が、「昭和」という「尚書」尭典篇の「百姓昭明、万邦協和」に基いた「明るい社会、平和な世界」を象徴するものであったからでもある。まこと、「明治」の国家躍進から「大正」のデモクラシーを経て、希望に満ちた新しい時代が到来する筈であった。

金融恐慌のあらし ところが、昭和時代は幕あけ早々から激動と苛烈な様相を示し、国民は国家と共にけわしい道のりを歩むことを余儀なくされた。まず最初に金融恐慌が訪れた。昭和二年三月、渡辺銀行の破綻を発端として全国銀行に取り付け騒ぎが起こり、このとき三重町でも、二十三銀行の支店など影響を受け一般金融界が混乱した。

 その後間もなく、ニューヨークの株の暴落に端を発した世界大恐慌の波が押し寄せて、その結果、貿易不振は商工業の不況、農産物価格の大暴落をもたらし、国民生活は苦しくなり失業者が急増した。わけても農村の疲弊は極度に達し、国を挙げて農村更生運動が繰り展げられ、時局匡救のため土木事業が掘り起こされた。三重地方でも負債整理組合がつくられ、また、救貧政策によって県道や町村道の整備等が行われた。

ファシズムへの道 つづいて到来したのはファシズムである。大正末期に実現した普通選挙制度の結果、地方にも普通選挙が実施されて、はじめて民意がひろく政治に反映する道が開かれた。政憲政治が活発に進むなか、政争が激化し、一方、財閥等と結んで私利を貪る政治家も輩出し、適切な政策が行われず、ようやく政治不信が募るようになった。特に軍部は、農村政策の不徹底や財閥との癒着を突き、青年将校を中心に右翼勢力とも結んで国家革新の炎を燃やした。五・一五事件、二・二六事件などが相次いでおこった。

 折から、中国大陸で、在留邦人の権益擁護を名目に、関東軍が勢力を強化してたびたび出兵を繰り返し、ついに満洲事変、日中戦争へと進展していった。その結果は、満洲国の独立承認、国際連盟の脱退、枢軸外交への転換などによって我が国は世界から孤立するに至り、最後には石油等重要資源の凍結を招く羽目になった。

 やがて窮地を打開するため始められた日米交渉も、延々と続いた後ついに破綻し、昭和十六年十二月八日、米・英両国を相手に戦端が開かれるに至った。以後、二十年八月まで三年八か月余続く太平洋戦争(第二次世界大戦)がそれで、名目上は国益擁護のためとはいいながら、長年にわたる軍部独専のもたらした暴挙で、国民は引きつづきますますけわしい道に立たされることとなった。この戦争には、郷土の青壮年がさきの満洲事変に引きつづき、長谷川部隊・園田部隊等の郷土部隊はじめ陸海空軍各隊に加わって相次いで出征した。同時に、銃後の郷土民も総動員されて、老幼男女すべてが戦争一色に染められ、不幸なあらしの中に巻きこまれて行くのであった。

郡役所の廃止と地方事務所の設置 大正十五年(一九二六)七月一日、大野郡役所が廃止された。すでに三年前の大正十二年四月一日、郡制廃止令の施行によって、県と町村との中間自治体としての郡が廃されていて、郡役所は単に事務機関として残っていたのに過ぎなかったが、政府の緊縮政策により、行政事務の簡素化を図り、町村財政の負担を軽減する目的から廃止されたのである。

 明治十一年(一八七八)七月、郡区町村編成法の実施で、大野郡役所が元大庄屋多田五十馬方に置かれてから満四十八年目に当たる。設置以来、郡内三十一か町村(明治二十二年町村制施行当時)を包含する、県下で一番広い区域を管轄する事務所であったので、郡内各地よりの来庁者はきわめて多かった。特に今市・小野市・重岡など遠隔地の人は、会議のたび宿泊を余儀なくされ、ために事務所のある市場の上市一帯には旅館・料理屋・商店などが立ち並び、いつも大野郡の中心都としての繁栄ぶりをみせた。それゆえ、郡役所の廃止は地元三重町にとり大きな痛手で、殊に上市方面は衰微するばかりであったが、これも地方自治体の独立強化のためとあれば致し方なかった。

 廃庁後の郡役所の庁舎は、やがて三重町に引きつがれ町役場の庁舎となったが、昭和十七年、今度は県の出先機関として三重地方事務所が置かれることになる。戦時下、統制経済や軍事用務の緊急迅速な処理が要請されたからである。この時、緒方町が大野・直入両郡の将来を見通しその中心地という立場から熱心に希望したので、対策上、三重町では急遽役場を立ちのき民家に移り、地方事務所のために庁舎を提供した経緯がある。

部落有林野統一と小野武夫博士 明治末から大正にかけて、公有林野の整理統一が政府の政策としてとりあげられた。すなわち、明治四十三年(一九一〇)に「公有林野整理ニ関スル件」なる農商務・内務両次官通牒を発した。部落有林野が管理が不充分で荒廃しているから、これを町村有に統一してその基本財産とし、公の力で植林して、町村財政の基盤を大にするようにとのことである。

 元来、部落有林野は部落民の共同使役に委かされ、それからの収益によって農業再生産及び農民の自給生活が確保されるところの、農民の日常生活上及び部落活動上の重要な拠点である。それゆえ、部落民は挙って政府の政策の非を訴えて抵抗したので統一の実行は遅々として進まなかった。しかし、依然として町村の財政基盤が弱いので、これを強化する必要から統一の実施をはげしく迫り、半ば強制的に町村に断行させた。そこで昭和のはじめ、菅尾・百枝・新田各村でも部落有財産整理統一案を策定した。その案は、村内の部落有林野を甲号及び乙号に区分けし、甲号は条件をつけて無償で村に提供統一し、乙号は縁故部落民に特売する。その条件には、契約締結当時現存する立木の権利関係を明らかにし、農牧畜用秣並びに屋根萱採取の必要の場合は、従来の慣行を認めるなどの項目が定められていた。各村では異議も多かったが、結局、国の政策に応えて議決した。各村では村有とした林野を基本財産に組み込まれ、苗木代等の補助を受けて植林撫育に努め、財政基盤の強化に務めた。この間ひとり三重町は、その理由は明確でないが部落有林野の統一を実施しなかった。おそらく部落有林野の本旨に鑑みてのことであったであろうが、このため三重町には、従来どおり部落有林野が遺された。

 ここで、百枝村出身の小野武夫農学博士が部落有林野の統一に大反対で、徹底的にその非をならした事蹟を逸してはならないと思う。農政学者であった小野武夫は、多年にわたる実証的研究と、生来の農民精神に立脚して堂々の論陣を張り、政府の政策に真向から反対した。「日本の部落有地」「近代部落有林野の研究」「部落有地」「部落有地の官有と民有」「部落有林野の町村統一」等の諸稿がそれである。博士の主張は、部落有林野は、起源や本質からみて、農村の経済及び農民の精神の拠点であり、それを破壊するのは村落制度及び歴史的因縁を無視する暴挙で農民の生命を奪わんとするものであると、あくまで農民の側に立って政府の政策を筆先鋭く糾弾したのであった。

 この小野博士は、明治十六年(一八八三)、百枝村川辺で生まれ、篤農家の祖父重五郎、父清五郎のもとで農民魂を培われつつ育った。臼杵にあった県立農学校卒業後、兵役と二、三の学校奉職のあと上京し、勤務のかたわら法政大学専門部の政治経済課程を卒えた。大正二年(一九一三)、帝国農会に入り、のちには農商務省の嘱託も受けて、全国農村の小作制度、特に永小作慣行の調査に従事し、「永小作論」を発表したが、この研究は政府の小作問題対策樹立のための貴重な指針となり、小作法制定や農地解放への素地となった。

 大正十四年(一九二五)、永小作研究の傍ら起稿した「郷士制度の研究」により学位を授かり、その後、農民経済史研究のため全国を巡り、旧家を訪ね、古文書を解明して、著作六十余冊、論文九十余編に及ぶ実証的研究の業績を挙げた。ひたすら故郷を愛し、その事例を著作の中に引用し、川辺の農村芝居「御田植」の由来を解明したり、中玉田の多田曽右衛門の事蹟を明らかにするなど、生涯を通じ農民魂を忘れなかった。

灰立町有林の確保 三重町大字松尾字灰立(大字鷲谷字芝尾の一部を含む)の百三十四町歩にわたる山林は、藩政時代の嘉永五年に臼杵藩主から藩内三重郷民に賜った山林である。そのことは三重町に残されている次の文書によって明らかである。

 

 此度三重郷灰立山御仕立の杉木、郷中為御救被下候、一統心を合御山生立候様、可致者也

 一於三重地御仕立の杉苗凡三百万本余、植込可申事、

 一非常凶作其外譯合有之の節、御代官吟味の上伐拂申付、代錢大庄屋始惣百姓中江、有米高与門与に割相、渡  可申事、

 一高屋村の儀は地元の事に付、右割を以弐人前宛相渡可申事、

 右之趣、後年無異乱、一統堅相守可申候、

  嘉永五壬子年正月    御代官三宅吉郎左衛門 印

              御郡奉行

                吉田角弥   印

                飯沼源五兵衛 印

                三村政左衛門 印

                日下藏之烝  印

 靜  衞

 長左衞門

                  三重郷中

 

土地台帳にも三重郷中(元高寺を除く)共有地とある。

 明治二十二年(一八八九)、町村制実施後は菅尾・百枝・三重・新田四村が共有し、二十五年(一八九二)四月、三重郷共有山林処分組合を組織し、大野郡長を管理者とし、各村から組合会議員を選出して経営にあたった。救い山として下賜された時から熱心に植林され、幸いに非常・凶作等もなかったので、組合組織当時、きわめて美林となって、巨木がセメント樽用材として横浜に搬出されたりした。なお引き続き鬼塚の杉谷清三郎、松尾の赤嶺浜五郎、鷲谷の多田由五郎らの指導尽力によって植林され経営が続けられたが、なにぶん組合は寄り合い世帯で行き届いた運営が出来ず、他方、三重郷の販売購買利用組合の米穀倉庫建設資金捻出の必要も生じ、昭和十年ごろには売却の話しも出るようになり、組合首脳部は苦慮した。

 協議の結果、業者などへの売却はあくまで避け、三重町が三村に歩合金を払って買い取り、単独所有とすることと決着した。この協議に参加した三重町側の議員は、長田松三郎・平山登美男・伊東東の三人で、救い山の由来を重んじ、永く三重町にとどめなければならないとの信念から、三重町買受けを三者でもって勇断したのであった。それで、万一町会の議決が得られぬときは、三者で引き受ける覚悟をかためていた。心配した三重町会もよく趣旨を理解し協議案を諒承議決した。もちろん三村も同様議決したが、左に菅尾村会の議決書を掲げる。

 

 議案第二号

 組合町村共有財産処分並びに組合解散の件、

 大野郡三重町・菅尾村・百枝村・新田村共有財産タル三重町大字松尾字灰立及大字鷲谷字芝尾ノ両山林原野ハ、 組合事業トシテ共有処弁スルヲ不適当ト認ムルヲ以テ、今般左記方法ニ依リ処分ヲナシ、組合存立ノ目的消滅 ト共ニ、大野郡三重町三村共有山林組合ヲ解散スルモノトス。

 一、共有財産処分方法、

  イ、山林売却価格ハ金四万九千二百五拾円トス。

  ロ、本財産ハ大野郡三重町ニ売却スルコトトシ、此ノ売却代金ハ左ノ方法ニ依リ、菅尾村・百枝村・新田村    ニ取得シ、三重町ニ対スル分ハソノ持分ノ収得ニ止メ、別ニ売却代金ノ提供及分配ヲ為サザルモノトス。

    菅尾村五百三十六分ノ七十九

    百枝村五百三十六分ノ八十九

    新田村五百三十六分ノ九十二

    三重町五百三十六分ノ二百七十六

 一、共有財産ハ関係町村ノ協議成立ト同時ニ、監督官庁ノ処分許可ヲ受ケ、直ニ之レガ処分手続ヲ講ズルモノ   トス。

 一、組合一切ノ事務完了ノ上ハ、速ニ組合ヲ解散スルモノトス。

   昭和十二年四月四日提出

   昭和十二年四月四日議決

               菅尾村長    土谷  伝                      

 組合は大分県知事許可の後、事務処理を終え、昭和十三年に解散し、組合管理の山林は単独の三重町有林となり、以後、熱心な歴代の首脳者多田盛雄や首藤卓美によって植林計画が樹立され関係部落民の協力で撫育されることとなった。

 のち、昭和二十六年菅尾・百枝・三重・新田四か町村の合併により、新三重町の町有林となったが、三重郷共有時代と同様、かつて藩主から拝領した当時の姿に立ち戻ることになったのである。いま、灰立町有林は再び美林となって町勢進展に大きな貢献をしているが、売却問題当時の首脳者が、旧藩主の精神に応えて三重郷民のために厳然とこれを確保した功績は大きい。また、終始植栽撫育に当たった土谷清太郎、土谷鶴見などの町有林看守人や関係部落民の努力を忘れることができない。

国民学校の発足 日華事変が終息するどころか時局がますます巌しさを加えて来た昭和十六年四月、国民学校令が公布された。時局に鑑み、小学校を皇国の道に則って国民の基礎的錬成を為す国民錬成の道場にしようと期したのである。従来、ややもすれば分離に傾かんとする教科を統合して教育の徹底を図り、国民精神の昂揚、智能の啓培、体位の向上を図り、産業並びに国防の振基を培養し、以って内に国力を充実し外に八絋一宇の肇国精神を顕現すべき次代の大国民を育成しようとするものである。そのために教科を整理統合して、初等科は国民科・理数科・体錬科・芸能科で、高等科に実業科を加え、礼法・団体訓練など規律をきびしくし、奉安殿や神棚等学校環境の整備をした。

 正に明治以来の大変革で、この機会に名実共に国民教育の面目を一新するため名称を国民学校と改めた。三重郷内各学校ともそれぞれ校名が国民学校と変わった。また、三重町の第一小学校の高等科及び権現堂小学校の高等科は、そのまえに合体して三重高等小学校となっておったので、三重国民学校と改称された。なお、昭和十九年には国民学校令戦時特例が出され、教育も戦時に即応した体制がとられることになり、児童は戦時物資の収集供出にかり出され、開墾や労力奉仕を続けるようになった。

満蒙開拓青少年義勇軍 小学校が国民学校に改編されていく時期、高等科卒業生や青年学校生を対象として満豪開拓青少年義勇軍が編成された。若い溌剌たる数え年十六歳から徴兵までの青少年を満洲(現中華人民共和国東北地区)に送り、日本の権益擁護と食糧需給の基地として満洲を開拓するとともに、国防の第一線に立たせようとするのが狙いであった。このため、昭和十二年頃から「拓け満蒙、行け満洲へ」の掛け声のもとに、大分県でも拓植教育がなされ、義勇軍志願者募集が始まった。応募者は大分県内で予備訓練の後、正式に義勇軍に採用され、茨城県の内原訓練所で一か月余の実務訓練を受けたあと渡満した。渡満後は、満洲開拓青年義勇隊と呼ばれた。「天地根元造り」といわれるアンペラ囲いの粗末な仮兵舎の訓練所で起居し、皇道精神の本義を体し、義勇隊綱領を実践し、満洲国における開拓協和の聖業を達成すべき中堅開拓農民となる訓練を受けた。まだ若くして親元を離れて遠く異境に赴いた紅顔の義勇隊員にとって、訓練所生活はつらいものであった。次の記述は、義勇隊の一人であった新田村出身の神野(旧姓川野)幸徳の手記の一節である。

 

 「私たちが満洲に渡ったのは昭和十三年で、日本の大陸政策の当初であり、私たちの渡満はこの政策の実際的 な最初の試みであったと思われる。従って病院の設備もなく、宿舎さえアンペラで囲んだ粗末なものであった。 大陸へ、大陸へのかけ声にのって渡満して見た情景が、期待にあまりにもかけはなれた現実に、郷愁に泣く訓 練生は、日々にその数を増し、病人は続出し、内地から随行して来た一人や二人の医師では、到底どうしよう もなかった……。」

 

 しかし、隊員は激しい訓練によく耐えて、設営や農耕や術科に励み、満洲の曠野に理想農村建設のため邁進した。約三か年の訓練ののちは開拓団員となり各地に入植して永住することになるが、そのうち徴兵年齢を迎え現地で兵役に服するものも多かった。

 前記の神野隊員も、最初、牡丹江省寧安県の寧安訓練所に入所、十四年、吉林省敦化県の大石頭訓練所に移って訓練を終わったあと、同省華甸県横道子に入植して第一次日東義勇開拓団員となった。二十年、召集されて関東軍に入隊、朝鮮に南下して京城近くで終戦を迎えたので帰国の機を得たが、ソ連の侵入にさらされた多くの義勇隊員や同隊出身の開拓団員は、家族と共に多年の業績をなげうって受難するに至った。

 なお、大分郡石城川村出身で三重町に移り住んだ安田陽洲も、義勇軍関係者の一人で、小学校・青年学校の教職歴任の後、昭和十六年、青少年義勇軍幹部として郷土部隊を卒いて渡満、北安省鉄嶺訓練所の中隊長として訓育に当った。のち、同省海倫県広根義勇隊開拓団の団長として入植して活躍し、終戦により三重町に引揚げたが、満洲最北端にあって終始開拓指導者としての辛酸を重ねたのであった。

満洲開拓移民団 満蒙開拓青少年義勇軍に先立って、満洲開拓移民団の計画が樹立された。その趣旨は、比較的農業収益の少ない農山村を対象として、経済の建て直しをはかる目的をもって経済更生指定町村を選定し、これに更生資金を交付し援助するとともに分村計画を推進し、農村の三分の一以上を満洲大陸に移住させ、母村の更生を計るとともに、移民開拓による食糧増産、資源開発、治安確保と国防増強を樹立するものである。二十か年に百万戸を移住させ、満洲に王道楽土を建設しようというもので、大分県でも農政部を中心に開拓団の編成が進められた。

 大分村開拓団もその一つで、先遣隊が十三年二月、浜江省珠河県元宝鎮に入植した。菅尾村の神志那権六も先遣隊の一人として渡満し、弁事務所の主任として活躍した。大分村の位置は、ハルピンの東南、汽車で六時間の珠河駅よりさらに馬車で十時間を要する僻境であったが、水田もあり、農耕は割合に堅実に行われた。三重地方からも家族を連れてつぎつぎと入植し、子女教育のために小学校教師も渡満した。団員は営農に励むかたわら匪賊の来襲に備え、防衛の責任も果たさなければならず大変であったが、酷寒冷厳な曠野で刻苦奮闘してよく国策の遂行に協力した。

 当初の目的である食糧増産と日満一体化の成果は次第に上がるのであったが、これに反し、戦局は不利となるばかりで、沖縄の全滅、広島の原爆投下と急転回し、ソ連をして宣戦布告の上、満洲侵入を許してしまうに至った。このとき、開拓団員は防衛の前線に立ち多くの犠牲者を出し、家族も四散し、辛酸の上造成した耕地を見捨てなければならない悲壮な結末を迎えることになった。三重郷各町村出身の開拓団員の記録は不明であるが、かなりの数の家族が各地に入植したものと思われる。昭和五十六年三月、大分開拓団誌刊行会から刊行された第七次元宝鎮大分村開拓団誌に掲げられた名簿を見ると、菅尾村二家族八名、三重町六家族二十二名の名があげられている。また、昭和十九年六月大野郡農会刊行の大野郡農会史の記録をみると、先遣隊を含め十開拓団に、菅尾十戸、百枝六戸、三重十九戸、新田一戸の入植者の名が見える。

大野中部水路事業 このように、すべてが戦時色に塗りつぶされてゆく中にあっても、三重地方で進められた事業がいくつかあった。その一つは大野中部水路事業である。三重郷並びに白山村一部をふくむ地域には、相当広い水田地帯がふくまれているが、古来、黒岩堤や北山堤のような溜池や稲積井路のような小地域の水路のほかは、概して水利施設がなく、しばしば植付不能や旱ばつの被害を蒙って来た。殊に昭和七年から三か年続いた大旱ばつは、三重地方一帯に大不作をもたらし、農村の不況は深刻化した。

 昭和十二年、三重町の長田松三郎はこれを憂えて、識者と共にその対策に立ち上がった。当初、内山の奥などに水源を求めたが、将来性のないことが分かったので、白山村後藤幸生、新田村多田豊馬、三重町多田虎生、百枝村三浦浪夫その他各主脳者と協議し、根本的な水利対策として、白山及び新田・三重・百枝一帯を潤す一大水路を開設する遠大な計画を樹立した。計画の策定には、県耕地係官の指導のもと、佐藤円四六(三重町久知良出身)らが中心となって当たった。佐藤円四六は当時県の委嘱を受け、緒方郷の富士緒井路水利組合に勤務して、多くの実績を挙げていたからである。

 十四年十月、大野中部耕地整理組合設立の認可を受け、組合長に長田松三郎が就任し事業に着手した。事業の内容は、水路の開設とかんがい排水で、白山・新田・三重・百枝各町村一,一〇〇戸の水田一〇〇町歩〜一五〇町歩をかんがいして旱害より護り、米作の増産を図ろうとするものであった。水源は白山地内の中津留字津留二三一番地先で、中津無礼川を堰いて取水し、東北方新田・三重・百枝へと送水路を開設していく。その第一期計画は、取水口工事と水源地より新田村中尾までの幹線導水路七,九五九bの開設であった。

 実際の工事は十五年より始められたが、水路地帯の地層悪質な上、七割以上も隧道であるため落盤が絶えず、開削には大きな困難が伴った。そのうちに時局が深刻化して来て、資材が逼迫し入手困難となり、労務者も極度に不足をつげて、特別な配慮を拂わなければならなくなり、しばしば事業の中断を余儀なくされた。しかしこの間、組合長に多田盛雄・伊東東・佐藤円四六らが相継ぎ、実務を高野登(久知良出身)が佐藤円四六を扶けるなど、事業関係者みな当初よりの念願を捨てず事業の貫徹に尽力し、受益者である地元民もまた協力を惜しまなかった。そして、ついに第一期工事が二十二年十一月に竣工し、二十三年六月には一部通水を開始した。創業依来十年にして初期の目的を達成したのであるが、戦時下に遂行された後世に伝えらるべき大事業であった。

 この後、大野中部耕地整理組合は土地改良区の公布に伴って、二十七年七月、大野中部土地改良区(四十六年町内各事業統合により三重町土地改良区となる)に改組され、当初川辺徳馬、つづいて芦刈蘭一が理事長に就任し、従前の事業を継承拡張して対象地帯全域の水田構造改善へと進めた。すなわち、二十三年より三重線・百枝線、二十九年より上田原線、三十二年より深田線とそのほか多くの幹・支線の開設はじめ、揚水事業も併せ行った。特に三十五年よりは、芦刈蘭一理事長らの努力により、戦時中の工事不充分による漏水防止のための大改修事業が行われた結果、全域の水路網が完備し、二六九fに上る水田改善事業の実現をみるに至った。歳月を閲やすこと実に四十年、ここに事業創始者の夢が達せられたのである。

向野橋の架橋 戦時体制下の郷土の事業の第二は向野橋の架橋である。百枝村の北域を流れる大野川は、大分県一の大河で、水量豊かで流れ速く、河幅も広いため、対岸への交通には多くの制約を余儀なくされた。そのなかにあって、百枝村上田原と千歳村原田との間には早くより釣橋が設けられ、つづいて永久橋の原田橋が架けられたが、向野への連絡は長く渡船によるほかなかった。百枝船場と向野淨土寺との間に、最初は向野区の輪番で、後には村よりの補助による常傭で、毎日渡船が運行し、通勤通学や村内外への用務の人々の往来はじめ、生産物や購買品の搬出入や牛馬の移動にまで利用されていた。しかし、大雨や台風時には全く杜絶してしまい、住民の日常生活はもとより、産業の進展上大きな支障を来していた。

 それで久しい間、架橋を村民が熱願していたが、昭和十年に至り村長江藤弥作はじめ村当局は世論にこたえ、一部国庫補助を受け、総工事費一万二百余円を投じて、西原園と向野瀬畑との間に橋長一二〇b幅巾三bの鉄筋コンクリート橋を架橋した。六月に渡初め式が行われ、村民は往時の辛苦を偲び歓喜したが、不幸にも十六年十一月の大出水によって流失してしまった。橋の高さが低かったためで、村当局は復旧工事を実施したが、完成直前の十八年九月の水害で工事半ばに流失し、目的を果たせなかった。折から戦局が進み、村内外に深刻な事態を迎えたため、村当局として工事継続すること極めて困難となったが、直接受益者である向野区民は、そのまま見過ごすことはできないとして立ち上がった。すなわち、区長後藤増夫のもと区民一致団結し、村に対し財源として貴重な部落財産の共有林売却代、その他の資材を進んで提供するなどして村の事業完遂に協力した。事業の遂行には多くの辛酸が伴ったが、二十二年六月に至り、ついに目的を達した。非常時局のなか、百枝村民、特に向野区民が挙って参加した稀にみる美挙であった。

 なお、後日のことになるが、向野橋は三たび水魔の襲うところとなった。すなわち、二十五年七月、台風による大出水により、復旧橋梁が流失の難に遭った。応急的な工事であったため止むを得ないことであったが、度重なる惨事に関係者は茫然自失した。このとき百枝村長は神品安久であったが、惨禍にめげず、住民の福祉と産業の進展のため、架橋は一日もゆるがせにできないと立ち上がり、上京して国会議員を歴訪して陳情し、ほとんど工事費の全額に近い多額の国庫補助を獲得した。県道でもない部落間の架橋について、かくも多額の補助が得られたのは、全く神品村長はじめ村当局、関係区民の努力と熱意によるものであった。村では困難な財政のなか捻出した村費を加え事業を実施した。工事は過去の事例に鑑み周到入念に行われ、二十六年秋、竣工した。はからずも竣工式予定の日には、またもやルース台風の襲うところとなったが、新橋梁は万全で、一か月後の十一月二十八日に盛大な竣工式が行われた。現在の向野橋がそれである。

                                                   注(1)大正十三年 巌松堂刊「農民経済史研究」二一〜五四頁

  (2)昭和九年 時潮社刊「近代村落の研究」一三〜二二二頁

  (3)昭和十一年 岩波書店刊「日本村落史概説」一八七〜二〇五頁

  (4)昭和七年 刀江書店刊「維新農村社会史論」二三一〜二三五頁

  (5)昭和十六年 東洋経済新報社刊「農村史」三六二〜三七〇頁

  (6)菅尾村会議決書綴

  (7)三重中央公民館蔵

  (8)昭和二十八年二月 三重町役場職員組合文化部刊「ひらぶき」四号『友人のこと』一九頁

 

                                                  

マ新報社刊「農村史」三六二〜三七〇頁

  (6)菅尾村会議決書綴

  (7)三重中央公民館蔵

  (8)昭和二十八年二月 三重町役場職員組合文化部刊「ひらぶき」四号『友人のこと』一九頁