第四章 近代

 

    第一節 明治維新と三重郷

 

  一 明治新政の開始

版籍奉還 版とは土地、籍とは人民のことである。江戸時代には、将軍・諸大名が土地・人民を支配した。幕府が倒れると、この版籍の支配権が明治政府に移ることになった。明治二年(一八六九)二月、臼杵藩主稲葉久通も各藩主と同様に版籍奉還の願書を朝廷に提出、六月、岡・佐伯藩主と同様の聴許書が下付された。これによって、稲葉久通は臼杵藩知事、中川久成は岡藩知事、毛利高謙は佐伯藩知事に任命され、明治新政の一翼を担うことになった。

藩政改革 臼杵藩では、明治二年(一八六九)十月、藩政改革を実施したものの、従来、藩行政の中枢機関であった会所を知政所と改称し、民政・会計・軍務・刑法の四総管が新設されたことを除いて、おおむね、旧藩の職制をそのまま継承したのにすぎなかった。地方行政組織は、次のとおりであったと考えられる。

 

 民政総管 ・==郡 尹==・==郡治主簿==・==典農

      ・(郡奉行)・       (代官)

      ・     ・==郡治書手

      ・       (附人)

      ・==市 尹==・==市治主簿

       (町奉行)・                                                 ・==市治書手

              (附人)      ( )内は旧職制。

 

この改革によって、三重代官所は三重典農所と変更された。

 もともと、この藩政改革の基本方針は、家格門流にかかわらず、才能選挙によることとされていたが、前述のように旧藩職制に基づいていたため、文武振興・人材登用が困難であり、事務の粗雑をまぬかれなかった。明治四年(一八七一)一月、第二次藩政改革を実施、地方行政組織を大幅に変更した。すなわち、郡治掛大少属を置き、次の七か所の出張所を設けて、地方行政を所掌せしめることとした。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・                                 ・出 張 所 等 ・官 氏 名 ・                                 ==================================                                 ・町并海添江無田組・中嶋大属  ・                                 ・北近在     ・稲葉大属  ・                                 ・南近在     ・福田大属  ・                                 ・三重出張所   ・菊村権少属 ・                                 ・佐柳出張所   ・井水権少属 ・                                 ・宮河内出張所  ・五十川権少属・                                 ・野津出張所   ・久渡権少属 ・                                 ・・・・・・・・・・・・・・・・・                                

これら郡治掛大少属においては、従来の典農の職務を遂行することとされたが、郡尹を経由する事務処理でなく藩庁直達とした。

 明治四年(一八七一)二月、地方行政末端組織である庄屋等についても変更が加えられ、大庄屋・小庄屋・山守等の旧職を廃止、格式・衣服等は従前どおりとし、旧大庄屋は郡治掛大少属直属とした。以後、藩内一組に一名の庄屋を取り立て、世襲を禁じ、取り立てに当たっては村民による入札選挙とした。また、従来の五人組を合併して十人組とし、組頭選挙にも入札選挙法が適用された。選挙は三重出張所で行われ、大庄屋・判頭(後の 戸主)が選挙人となった。このとき、選出された庄屋は次のとおりであった(下畑組をふくむ)。

 

・・・・・・・・・・・・                                      ・組 名・新庄屋名  ・                                      ========================                                      ・市 場・多田 実  ・                                      ・小 坂・広田 静香 ・                                      ・上玉田・玉田 織平 ・                                     ・下 畑・赤嶺 庸平 ・                                      ・菅 生・土谷 政太郎・                                      ・宮 尾・神田 多八郎・                                      ・百 枝・神宮 健造 ・                                      ・下玉田・三浦 太十郎・                                      ・・・・・・・・・・・・                                     

 岡藩の藩政改革は明治二年(一八六九)三月に行われた。七局・二港・鉱山の一〇部局を設置し、藩主は私邸と役所を区別するため、四月、自ら退城した。翌三年五月、第二次藩政改革を行ったが、海陸軍資金の上納や多額の国債償還によって、藩財政が破綻状態となったので第三次改革に着手、明治三年(一八七〇)十二月、新藩職制を発表した。このとき、会計・軍務・刑法・学校・糾弾・機務郡市・三佐港出張・犬飼港出張・貨幣・鉱山生産・郡市検地の一一分課が設置されている。

 佐伯藩では、明治二年(一八六九)十二月、藩治職制を次のように決めている。

 

 社寺局・民政局・市政局・刑法局・会計局・学校・医院・軍務局・監察使・内家

 

このうち、主として地方行政を司ったのは民政局であった。

 

 注(1)臼杵市立臼杵図書館蔵「御会所日記」明治二年

  (2)三重町立三重図書館蔵「留書」明治四年

  (3)大分県立大分図書館蔵「旧藩事蹟調 岡藩」以下所蔵者名略、および内閣文庫蔵「大分県史料二十九」

  (4)「旧藩事蹟調 佐伯藩」

 

  二 農民一揆

岡藩農民一揆 明治二年(一八六九)六月十四日から降り続く大雨は、十五日になっても止まなかった。稲葉川は平水よりも二丈ばかり増水し、このため岡城下では数十軒の家が流され、堤防の決潰、道路・橋梁の流失、田畑の荒蕪は数知れなかった。古来、岡藩朽網郷には、久住山の硫黄を採掘すると災害に見舞われるという伝承があった。今回の洪水の原因は、一昨年から岡藩が硫黄を採掘したことにある。これを中止してもらいたいという要求を掲げて、同年七月七日、朽網郷小柳村・七里田村の農民が一揆を起こした。

 たちまちのうちに、一揆は岡領内に拡大し、大・小庄屋、富豪の店を破壊した。中津留組・伏野組(三重町)も一揆に巻き込まれてしまう。七月十一日未明、中津留・伏野・宇田枝・日小田組の農民は、牧口・岩戸方面の庄屋、商店を破壊して緒方団と合流、伏野大庄屋吉良琢蔵宅および同人の酒舗を襲撃、一団は井上組・牧組大庄屋、井上村の酒舗を破壊した。岡領高寺村(三重町)へは、一揆が入り込まないかわりに役元の帳面を差出せと要求、これらを残らず持ち出して、伏野村で焼却してしまった。一揆は七月十二日朝、岡城東門滑瀬口に集結、嘆願書を藩に提出して退散した。

森迫事件 この岡藩農民一揆の動向を監視、警戒していた臼杵藩では、明治二年(一八六九)七月二十一日、突如、三重郷極楽寺僧侶および三重郷内の不審の者を捕え、寺僧は城下の寺院へ預け、その他の者も厳重処分を行った。被処分者は極楽寺探月・明道兄弟、森迫村定治・円右衛門・辰三郎・定市・市五郎、芦刈村喜兵衛・又右衛門の九名である。二十一日夜、三重代官藤田和佐助は藩から派遣された小頭・足軽十二人を率いて、この九名を逮捕、翌二十二日、城下へ拘引した。

 臼杵藩は、明治元年(一八六八)藩内の困窮者へ銭の貸付けを行った。この貸付金の利息返済が困難となったので、森迫村定治は極楽寺兄弟をはじめ、村民多数と語らい、五か年間、無利息とすることを要求して強訴に及ぼうとしたのである。事件は未然に発覚したが、この罪によって、九月九日、指導者の定治は牢舎、極楽寺兄弟は謹慎、森迫村円右衛門・定市・市五郎・辰三郎は囲入れ、芦刈村又右衛門は城下出入り禁止、喜兵衛は山守役罷免となって事件は落着した。この事件には、森迫村民のほとんどが関係しており、臼杵藩は村民を叱責処分としている。

岡藩一揆への対応 臼杵藩には、八月四日ごろから、再び岡藩民が一揆を起こし、この一揆が臼杵藩に押出すのではないか、明五日、井田郷原田組の祭礼のとき、同組の村民が一揆の評決をするらしいという情報がもたらされた。三重代官所では、直ちに岡藩境各組大庄屋、すなわち、百枝神田新之亟、上玉田玉田織平らに藩民の動向および、岡藩一揆の情報収集を指示した。井田郷原田組に接近しているのは三重郷向野村である。岡藩一揆が臼杵藩に押出すとすれば、向野村がその対象となることは間違いない。しかも、両村は、祭礼の獅子舞の交換をしている。三重代官所では、このような状況を検討したが、今度の岡藩一揆の情報で、祭礼の往来を差止めるのも不自然である、したがって、これまでのように向野村民が原田組へ獅子舞に行くよう沙汰した。この祭礼で原田組の農民から三重市の商人が打擲されただけで、向野村へは何の子細もなかったという報告が、百枝の神田新之亟から提出されている。

 こうして、臼杵藩は、隣藩一揆に対して情報収集につとめるとともに、兵力を藩境に出動させて、影響を喰い止めようと図った。すなわち、三重代官藤田和佐助に「御堺筋村々に立ち廻り、尚領内の者共、人気変動等、何となく心を付候様」申し付け、警固としては小坂鉄砲組へ、七月十一日には五〇人、十二日には八〇人を代官所へ出頭させて警固するよう命じている。もちろん、藩からも岡藩に対する加勢と自領警戒のため、七月十二日、一小隊六〇名を出動させ、市場組大庄屋多田荘之亟方へ着陣させている。

旧臼杵藩農民一揆 明治二年(一八六九)代、臼杵藩内には農民一揆が発生しなかったが、明治六年(一八七三)早々、農民一揆に見舞われることになる。一月二日の夜十時ごろ、菅生谷から無数の松明火が連なって、十二時には三重市に一揆が乱入した。暴飲飽食し終わった後、燈火を消させ、暗黒に乗じて人家へ侵入し、器物・家具を破壊、窃盗・掠奪をほしいままにした。三日朝、三重市を引き揚げた一揆は、下赤嶺権現堂に集結、臼杵へ向かった。この一揆で、三重市家屋のうち五五軒が破壊されたと伝えられている。一揆は、途中、野津市の官宅、副戸長の居宅、農家を破壊しながら臼杵へ迫った。一旦は、旧藩士・僧侶の説得を受け入れたが、四日、北方からの一揆と合流して、その数一万人以上となると秩序を乱し、市店を破壊して市民のひんしゅくを買う有様であった。折から大分県庁の発砲命令を受け取った臼杵守備者らの発砲に狼狽した一揆は、死傷者五六人、捕縛者八百余人の犠牲者を出して瓦解してしまった。

農民一揆の原因 森迫事件の原因となった臼杵藩の藩民に対する貸付額は、森迫村の属する菅生組で五三貫五八〇目である。返済は百六十か月、一年二度、一貫につき元銭三八匁五分、利息は残額につき七朱四厘四毛とされた。この貸付けは、諸色高値(物価上昇)によって、藩民の生活が困難となったために行われたのであった。岡藩においても「当今之形勢諸色高値」であるため、生活に難渋する者が多く、「掘根」(野草の採食)等でようやく露命をつないでいる有様であった。

 岡藩民一揆の嘆願書には、久住山硫黄採掘の停止ほか一五か条が掲げられている。この一五か条をまとめると次のとおりである。

 

 年貢減免関係    7

 人夫役廃止関係   3

 専売制廃止関係   2

 役人・役職処分関係 3

 

岡藩民が、このような要求をする背景には、藩の抱えている莫大な藩債があり、その返済のために、藩士に対する苛酷な削禄も実施しなければならない。一方、農民にも高負担をさせねばならないという事情があった。

 この一揆中、岡家中や郷内の家ごとに配布された石摺りの落書に「サモツ札ニテハ、ウリカイナシ(中略)ヤクニンノモノ、シホ(ボ)リアケ(ゲ)、ミナトメテヲクレ」と記されている。明治五年(一八七二)現在の岡藩札発行高は一四六万七七〇〇貫余、これに対する準備金は、わずか六一〇〇両余であり、豊後国内の次位発行高臼杵藩二万三二〇〇貫余、準備金八万九九〇〇両と比べると圧倒的な藩札発行行為である。藩民が自藩の藩札を「サモツ(雑物か)札」とよび、商取引きに不適であると嘆いたのも、このような藩札発行実態であったからであろう。「当今之形勢諸色高値」は、藩札発行過多によって引き起こされたインフレーションであり、これに悩む農民が一揆の挙に出たものと考えられる。

 

 注(1)大分県立大分図書館蔵「旧藩事蹟調 岡藩」

  (2)波多野政男「緒方村誌」五三八頁〜五三九頁

  (3)三重町立三重図書館蔵「岡藩民一揆見聞書」明治二年 以下所蔵者名略

  (4)臼杵市立臼杵図書館蔵「御会所日記」明治二年

  (5)「岡藩民一揆見聞書」明治二年

  (6)(5)に同じ。

  (7)(5)に同じ。

  (8)「県治概略1」明治六年

  (9)多田雄次郎蔵「留書」明治元年

  (10)(5)に同じ。

  (11)大分県「大分県史近代篇1」七六頁〜一〇六頁

  (12)(5)に同じ。

  (13)(11)に同じ。一〇八頁

 

 

  三 大楽騒動と三重郷

大楽騒動 大楽源太郎は山口藩奇兵隊の幹部である。明治二年(一八六九)、同藩は奇兵隊等の軍隊を解散し、士族を中心とする常備軍の編成を企図した。旧尊皇攘夷論者や常備軍設置反対派は、これを不満として反乱を起こしたが鎮圧され、反乱軍の指導者である大楽源太郎らは、山口藩を脱走して豊後国姫島へ上陸、鶴崎の儒学者毛利空桑をたよった。以後、豊後国に潜入した山口藩脱走者は、佐伯・臼杵・岡などの諸藩士、草莽層を巻き込んで騒動を起こすに至った。ことに、日田地方では農民一揆と結合したらしく、成立後、間もない明治政府を震憾させる大事件となった。この事件を大楽騒動と呼んでいる。

臼杵藩の対応 大楽源太郎らが脱走した直後の明治三年(一八七〇)五月五日には、山口藩から飛札があり、臼杵藩に対して厳重な取締りを要請してきた。つづいて八月六日、大楽源太郎四拾歳未満、富永有隣五拾歳有余の両名が主謀者であることが知らせられた。十一月には、大楽らの煽動と疑われている日田県一揆が起こったので、明治政府は陸軍少将四条隆謌を巡察使として日田へ派遣、管内の取締りをはじめ、直接、臼杵藩兵を指揮することもあり得ることを通知して来た。

 明治四年(一八七一)三月十六日、反政府活動が行われていた久留米藩内にかくまわれた大楽源太郎らが、同藩の手で暗殺された後も、この事件関係者への追求の手はゆるめられなかった。これより先、巡察使四条隆謌は臼杵藩・岡藩をはじめ、豊後国内諸藩の朝綱(新政府の政治方針)に対する認識や警備について質問状を発していた。臼杵藩では、三治一致の御政体を立たせられたことの確認、並びに止宿者が府藩県の証印を持参しているか否かについて、市中は邏卒、郷中は郡治役所が厳重な検査を行っている警備状況を、岡藩では、政令一途に出ることの認識と警備状況については、武家宿での所持藩印の点検や三佐港・犬飼港での宿泊者名簿提出の義務付けを実施していることを報告している。このことは、明治政府が豊後国内諸藩に対して、山口藩脱走事件が反政府活動であるとの認識を迫ったものと解釈される。

三重郷と大楽騒動 臼杵藩民政局の対応は三重出張所の菊村権少属へも伝達された。三重出張所では、明治四年(一八七一)四月四日から五日にかけて、郷内回村を行うとともに、七日、組々庄屋へ旅人取締りを厳重にするよう指示している。

 三重出張所菊村権少属が郷内回村を始めた四月四日、日田巡察使は、臼杵藩に対して藩士岩手喜十郎・三重郷宮尾村難波千尋を「糾問の筋有之」とし、日田県へ連行せよと命じた。藩庁は、この命令を菊村権少属から難波千尋へ伝達させるとともに、守護兵一〇名・捕亡手二名をつけて護送する態勢をとったが、翌五日、難波千尋の日田県出頭は中止となった。七日に至って、藩庁では三重郷小坂組大庄屋広田静香と難波千尋の両名に対して、日田巡察使より不審の筋があるので取調べを行う。吟味中は身柄を中村清へ預け、堅く謹慎申付けると命じた。

 難波千尋と広田静香は三重郷小坂村広田団助の子である。千尋は団助の三男、初め勇三郎、のちに千尋と改名した。嘉永六年(一八五三)四月、一三歳のとき、三重郷宮尾村難波貞一の養子となり、宮尾組大庄屋となった。静香は団助の五男、初め五郎四郎、のちに静香と改名した。慶応元年(一八六五)六月、長兄宗次郎死去の後、家督を相続、小坂組大庄屋に任じられた。

 兄弟とも、幕末には尊皇攘夷思想を信奉していたらしい。大野郡内では、緒方郷井上村大福寺住職母山・大野郷田中村最乗寺住職是中とともに、山口藩脱走者の逃亡を幇助したのではないかと推定される。預け先の中村清は広田団助の妻の父、つまり千尋・静香の母方の祖父であり、臼杵藩士であった。おそらく、大楽騒動に関係した罪に問われた広田兄弟は、母の実家に預けられて、謹慎処分を受けたのであろう。広田静香は、のち、第五大区一九小区戸長に任命された。

 西方円精は、三重郷市場村西方山正龍寺十四世の住職である。府内藩士竹内鍬吉・岡藩教授角田節三・日田郡儒者長南梁・佐伯藩教授劉新太郎に学び、若くして儒を修めた。この間に尊皇攘夷思想を抱くようになったのであろう。慶応二年(一八六六)正月、長三州の山口藩逃亡事件を援助した関係もあり、奇兵隊とは密接な関係をもっていた。明治五年(一八七二)、延岡にいた西方円精は菊村大分県属に捕縛され、日田鎮台に護送、言語に絶する拷問を受けた。四月上旬、府内商家および自宅に移されて、謹慎を命ぜられた。円精は、この事件を「爰ニ突然、大事件露見セリ、曩キニ尊皇攘夷説ニ賛成セシ事アリ、ソノ懸疑ニヨリ(後略)」と述べている。事件の具体的内容は記されていないが、幕末、長三州(円精の師長南梁の子)を通じて、山口藩奇兵隊についての深い理解が推測されること、円精が明治新政府の政治方針と異なる尊皇攘夷論を信奉していたこと、明治政府の神道保護政策および、それによって引き起こされた廃仏毀釈に大きな反感をもっていたことから考えて、大楽騒動に関係したことは間違いない。

 

 注(1)臼杵市立臼杵図書館蔵「御会所日記」明治三年 以下所蔵者名略

  (2)大分県立大分図書館蔵「旧藩事蹟調 臼杵藩・岡藩」以下所蔵者名略

  (3)三重町立三重図書館蔵「留書」明治四年 以下所蔵者名略

  (4)「御会所日記」明治四年

  (5)広田雅鑑蔵「広田氏先祖書」

  (6)(5)に同じ。

  (7)安部巌編「豊後国近世地方史料十一 村里」

  (8)西方円純蔵「雑華雲集」

  (9)(8)に同じ。

 

  四 廃藩置県

廃藩置県 明治四年(一八七一)七月十四日、明治政府は廃藩置県の詔を在京の諸藩知事へ伝えた。これは版籍奉還以後、長州藩隊士の反乱など中央政府の施策への反対が相ついだため、政府の権力強化を企図したことにあった。この詔によって、廃藩して県となつたものが二六一、従来の府県とあわせて三府三〇二県となった。これによって豊後国内には、次の諸県が置かれることとなった。

 

 (県 名)(旧藩名)(旧藩知事名)(備    考)

  岡 県  岡 藩  中川久成

  臼杵県  臼杵藩  稲葉久通

  杵築県  杵築藩  松平親貴

  日出県  日出藩  木下俊愿

  府内県  府内藩  大給近説

  佐伯県  佐伯藩  毛利高謙

  森 県  森 藩  久留嶋通靖

  熊本県  熊本藩  細川護久   直入郡・大分郡・北海部郡のうち

  島原県  島原藩  松平忠和   西国東郡のうち

 

これら旧藩主は免官となり、東京府貫属を命じられていたため、臼杵藩知事稲葉久通・岡藩知事中川久成は、明治四年、(一八七一)八月十五日、それぞれ、岡・臼杵を発して東京へ向った。旧領主、領民とのつながりを絶った明治政府は、いっそう、中央集権化を推進するため、県の統廃合を行った。明治四年(一八七一)十一月十四日、豊後国内の九県は大分県に統合され、岡山県権大参事森下景端が、初代の大分県参事として着任した。翌五年(一八七二)一月二十三日、大分郡大分町南勢家にある幸松雄三郎宅に仮設の県庁を置いて執務を始めた。

新行政区画の設定 明治五年(一八七二)六月二日、八郡を八大区とし、その下に一六〇小区を所属させた。

 

 (郡名)(国東)(速見)(大分)(海部)(大野)(直入)(玖珠)(日田)(総計)

 (大区) 第一  第二  第三  第四  第五  第六  第七  第八   八

 (小区) 二三  一九  二六  三二  二五  一七   七  一一 一六〇

 (村) 一一八  五九 一四二 一六七 一六二  六八  二六  五〇 七九二

 (町)           三   一   一   一       二   八

 

 この改正によって、大野郡は旧臼杵領、旧岡領の境界が取り除かれたが、旧藩意識は、なお、人々の間に残存することは当然のことであった。この事情は次のように活写されている。句読点等は筆者が付した。

 

 大野郡四百六拾貳村、岡藩ニ属スルモノ三百四箇村、自余ノ百五拾八村ハ、臼杵之ヲ分轄シ、共ニ藩政ナルモ、 衣服表章ノ制ニ至ルマデ、其揆一ナラズ。况ンヤ、人民制御ノ法ニ於テヲヤ。故ニ其ノ勢、人民モ亦、自然彼 我ノ ヲナス。辛未(明治四年)、廃県ノ時ニ際シ、始テ同国同郡ノ人民ナル事ヲ了知スルモ、民心仍ホ狐疑 ノ風習ヲ脱セズ。

 

 新政府の行政方針や施策を地方に浸透させるためには、確実な伝達のしくみが必要である。大分県権令森下景端は、明治六年(一八七三)八月二十九日、諸布告の到着日限を決め、この期間に県からの布告が現地に到着し、その日から三日を経た後は、区内の住民が布告を熟知していると見なすことにした。三重町関係は次のとおりである。

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ・府内駅より・距  離・到着用務所・

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ・ 二日着 ・九里三丁・ 芦 刈 ・

 ・ 二日着 ・九里  ・ 三重市 ・

 ・ 三日着 ・一二里半・ 宇田枝 ・

 ・ 四日着 ・一六里 ・ 重 岡 ・

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

つまり、芦刈用務所管内の住民は、二日の搬送期間に三日を加えた五日間のうちに新布告を閲覧しなければならないことになった。

 明治八年(一八七五)三月十三日、最終的な大小区制の改正が布達された。次に三重町関係分を掲げる。

 

 第四大区二三小区 上津川村、堂野間村(宇根原・堂間)、山部村(山部・樫野峯・片内・腰越)、因尾村           (江平・宇曽河内・羽木)、井ノ上村、小半村、小川村、波寄村、宇津々村、三股村(三          股・長崎)、笠掛村(笠掛・長野)、風戸村

 第五大区四小区  西畑村(尾原・谷平・栃原・石上・徳瀬・風瀬・鞁石・竹脇・入北・田中・東光寺)、東          谷村(山口・大内河内・津留・折立・奥畑・椎原・細枝・白岩・出羽)

 第五大区五小区  菅生村、蘆刈村、井迫村(森迫・又井)、浅瀬村(浅水・宇対瀬)、宮野村(宮尾・深野)          百枝村(牟礼・百枝)、田原村、西泉村(西原・法泉庵)、川辺村

 第五大区六小区  小坂村(上小坂・中小坂・下小坂)、松尾村(広瀬・高屋・松尾)、内田村(内田・久知          良)、内山村(内山・松谷・山中)、鷲谷村(上鷲谷・下鷲谷)

 第五大区七小区  赤嶺村(上赤嶺・下赤嶺)、市場村、秋葉村(肝煎・鬼塚・羽飛)、本城村(深田・高寺)          玉田村(中玉田・下玉田)、久田村(山方・山田・中尾・久原)、小田村(小津留・田町)

 第五大区十小区  宇田枝村(井崎・宮迫・宇田枝・津留・高城)、伏野村(伏野・中野・内平・大無礼・中          津無礼)、左右知村(深谷・左右知・轟)、大白谷村(中山・近郷・久部・大白谷)、中          津留村(押川・中津留)、奥畑村(奥畑・板屋・代)

 第五大区十七小区 向野村、前田村(原田・倉波・田原園)、下山村(大木・山久保・漆生)高畑村、柴山村          (柴山・日向久保)、新殿村

 

 この表によって、江戸時代の小村が、いくつかにまとめられて各村が成立し、その各村が統合されて小区が編成されたことがわかる。三重町関係分では、ほぼ地域性を考慮して統合されている。旧藩時代に岡藩伏野組に所属していた高寺村が、臼杵藩の村落とともに七小区へ編入されたことは、地理的にみて適正であった。逆に臼杵藩内の向野村が、岡藩原田・柴山組の諸村とともに一七小区に編入されたことは、大小区制が線引きをした結果であり、形式上の制度であったことを物語っている。

 

 注(1)歴史図書社刊『臼杵市史談』「臼杵時代考」および北村清士『中川史料集』

  (2)「県治概略1」(『大分県史史料叢書(四)』)

  (3)内閣文庫蔵「大分県史料二七」以下所蔵者名略

  (4)佐藤蔵太郎『大分県町村沿革誌』三八頁〜四四頁

 

 

    第二節 三重地方行政の進展

 

  一 諸官衙の設置

用務所と戸長 明治五年(一八七二)、大分県庁の開庁直後の二月七日、大分県は左記の一〇か所に出張所を設けて、地方行政を司らせた。

 

 日田 森 日出 杵築 臼杵 佐伯 高田 鶴崎 久住 岡

 

 これらは、旧藩時代の城下や幕府領もしくは他国領の中心地に置かれたが、統廃合を経て、明治五年(一八七二)六月二日、大・小区制の施行とともに、大区ごとに区会所を置いて執務させた。三重町関係分の区会所の位置は次のとおりであった。

 

 第四大区(海部郡)旧臼杵県宮河内出張所

 第五大区(大野郡)旧岡県犬飼出張所

 

 この大区会所は、明治六年(一八七三)三月二十五日に廃止され、各小区ごとに用務所を設置することとなり、用務所には区長・戸長・保長を詰めさせて事務を行わせ、明治政府が、県庁を通じて、町村民を支配する末端機構を整えた。明治六年現在の区・戸長は不明であるが、明治八年(一八七五)三月十八日に改正された区戸長は次のとおりであった。小区内村名は本書  頁。

 

 第四大区二三小区 戸 長 大崎護助・小野俊雄・河野柳治

          副戸長 林 嘉蔵・亀山篤郎

 第五大区四小区  戸 長 岩田左八郎・赤嶺庸平

          副戸長 岩崎雅房・中村義親・藤島赫馬

 第五大区五小区  戸 長 松井義衛・青木吉弥太・神田退蔵

          副戸長 神田真種・岡村八重太・村田 富・小野勝雅

 第五大区六小区  戸 長 宇薄増五郎・匹田幸賀

          副戸長 深田 稼・小野良平・中山茂木

 第五大区七小区  区 長 岩手 哲

          戸 長 二村三四郎

          副戸長 柳井徳四郎・多田茂雄・多田 保・玉田卓爾

 第五大区一〇小区 区 長 門石虎三郎

          戸 長 柳原翠蔵・堀卯平治・吉良琢蔵

          副戸長 上田成美・加藤郁馬・小野一郎

 第五大区一七小区 区 長 仲村十内

          戸 長 渡辺重作・大原非〃彦

          副戸長 廣瀬民蔵・上尾良蔵・赤嶺左右平・佐藤善七・武藤金吾・廣瀬専平・山本恒五郎

 

 戸長の職務は 小区内の事務を執り行うこと、県庁の布達を区内に示し、もし、その布達に違背する者があれば説諭する権限を有すること、貢租・雑税等の督促を行うこと、区内の民費の出納を行うことが主な任務とされた。その身分は、県庁に対して区内人民の総代であったため、三重地方の戸長・副戸長は、おおむね、在地の旧庄屋層や豪農層で占められていたが、大楽騒動の嫌疑を受けた旧小坂村庄屋広田静香らのように第五大区六小区の出身でありながら、同大区一九小区(現千歳村・大野町)の戸長として赴任した者もいた。

三重警察署 廃藩置県以来、各県に捕亡吏約二〇名を置いて、警察職務に当たらせたが、明治八年(一八七五)三月、捕亡の名称を改めて邏卒とし、さらに、同年十月には邏卒を巡査と改称した。このとき、三重警察署は巡査屯所と呼ばれるようになった。大分県下には五か所の警察出張所と二一か所の巡査屯所が置かれた。

 

 第一 大分出張所 屯所八(大野郡犬飼持区・巡査数四、明治九年には第一三屯所)

 第二 高田出張所 屯所四

 第三 隈 出張所 屯所三

 第四 竹田出張所 屯所三(直入郡久住持区・巡査数五)(大野郡市場持区・巡査数九、明治九年には第三屯          所)(大野郡木浦持区・巡査数三)

 第五 佐伯出張所 屯所三

 

この改正の背景には、近代的警察制度の発足を企図する明治政府の政策があった。すなわち、この改正によって各地に設置されていた捕亡吏出張所・監視屯所・邏卒屯所などの名称を統一して、警察出張所と巡査屯所とし、政府―各府県―警察出張所―巡査屯所の系統化が図られることになった。

 明治十年(一八七七)二月、出張所を警察署、屯所を分署と改称するに及んで、大野郡内の屯所は、大分警察署犬飼分署、竹田警察署市場分署・上自在分署(旧第四出張所第二屯所)となった。また、郡内には、新たに大分警察署の中に野津市分署(西畑村を含む)、竹田警察署の中に田中分署が設置された。山部村は佐伯警察署下直見分署の管轄であった。この分署の管轄は、明治十二年(一八七九)一月に改正されるとともに、竹田警察署砂田分署(伏野村・大白谷村・中津留村・奥畑村を含む)が設置され、山部村は佐伯警察署千束分署の管轄となった。明治十四年(一八八一)三月十三日、従来の警察分署を統合・整理して、市場分署が竹田警察署から独立して市場警察署となり、警部一・巡査三七・雇二計四〇名を擁する陣容となった。その後、また、竹田警察署市場分署となったが(明治十五〜十七)、明治十八年(一八八五)には、市場警察署が確定した。市場警察署の位置は、市場村字市の用務所に併設されたものと推定され、庁舎建築は明治二十年(一八八七)以降である。

郵便局 「豊後国大野郡村誌」によれば、市場村の郵便局は、「村ノ西南、字堀口ニアリ」と記されている。堀口は、いまの市場二区である。明治七年(一八七四)十一月、多田真平が明治政府の駅逓頭前島密から郵便御用取り扱いを命じられた。当時は郵便局ではなくて、郵便取扱所と呼ばれた。場所は自宅である。明治政府は、明治四年(一八七一)、郵便制度の近代化を図り、翌五年、郵便規則を発布して、全国に普及整備することとした。大分県では、明治五年(一八七二)以降、郵便制度の確立を図って、県内各地域に郵便取扱人を任命した。郵便取扱人は、財政上の問題から、官吏のかわりに土地の素封家を充てた。多田真平が郵便取扱人となったのは、このような事情からである。

 明治六年(一八七三)六月、大分県庁は府内から今市・岡・小野市を経て宮崎に達する郵便を毎日、往復させることにした。この郵便経路は未詳であるが、駅逓の制度(後述)による県内設置駅のうち、岡より日向国道筋には、岡駅・宇田枝駅・小野市駅・重岡駅があり、おそらく、白山地方を通過する経路があったものと推定される。この経路中の村民は、もし、郵便脚夫の者と見受けた場合は、通行人、牛馬を片寄せること、脚夫が病気になった場合は、代りの脚夫を差し出すように命じられていた。

 多田真平が郵便取扱所を開設したころには、大分県下四三名の取扱人がいたが、政府は、明治八年(一八七五)一月、この取扱人を一等(官等一三等)から七等に格付けし、多田真平を七等とした。このとき、郵便取扱所を郵便局と改め、五月、郵便局を町村名と一致させることとしたため、市場村郵便局名で呼ばれるようになった。明治十年(一八七七)の調査によれば、大野郡内の郵便局は次のとおりであり、五等局に格付けされていた。

 

 大寒村 市場村 神堤村 砂田村 犬飼町 田中村 小野市村 野津市村 重岡村

 

 このうち、市場村郵便局は、明治十三年(一八八〇)には四等局に格上げされ、新に後田村(大野町)・宮生村(朝地町)・原尻村(緒方町)・木浦鉱山(宇目町)・落谷村(野津町)が新設されている。このことは、郵便物の取扱が増大した結果と考えられ、明治政府の企画した郵便が普及しはじめたことを物語っているといえよう。

 

 注(1)安倍巌編「豊後国近世地方史料(十一)村里」「大分県区戸長名簿明治八年三月十八日改」

  (2)内閣文庫蔵「大分県史料一」 以下所蔵者名略

  (3)「大分県史料二〇」

  (4)「大分県史料二〇」

  (5)大分県立大分図書館蔵「豊後国大野郡村誌」

  (6)『三重町誌沿革編』一八三頁

  (7)『三重町誌沿革編』三八三頁

  (8)「大分県史料二〇」

  (9)大分県地方史料叢書(五)『県治概略U』二二九頁

  (10)『三重町誌沿革編』三八三頁

  (11)「大分県史料二〇」

  (12)「大分県史料二〇」

 

 

  二 戸籍編成と地租改正

戸籍編成のはじめ 明治四年(一八七一)三月、臼杵藩は旧大庄屋多田純内にかわる下玉田組庄屋役に三浦太十郎を選び、給米七石を下賜するとともに、組内戸籍の事をはじめ、年貢諸上納・田畑帳面ならびに諸願届等、一切の事件を掌ることを命じた。同年七月には、藩内を五〇区に分け、それぞれ区内の屋敷に番号をつけた。戸籍編成が円滑に行われるための措置であろう。下玉田組下玉田村に残っている辛未(明治四年)戸籍を例として説明してみよう。補筆分は除いた。

 

 第四十九区下玉田村

  二十番屋鋪居住

   農

    父当村百姓玉田平一次男

    玉田昆五郎辛未四十三

 第四十八区鬼塚村農鎌倉和五郎長女妻コマ同三十四 

 

 玉田昆五郎は、明治四年(一八七一)正月現在、下玉田村の小庄屋である。当村は臼杵藩五〇区のうちの四九区に当たる。この四九区には四五番の屋敷があり、昆五郎は二〇番の屋敷に居住していた。妻コマは四八区鬼塚村から嫁して来た。下玉田組庄屋三浦太十郎は、このように組内の戸籍を編成したのである。明治政府が、その新政策を徹底させるためには、直接に人民を掌握する必要性があり、統一的な戸籍を編成しなければならなかった。このため、辛未戸籍には過誤が許されない。臼杵藩には編成上の過誤によって処罰される者が相ついだ。三重郷でも市場村正龍寺・久知良村養性院は、戸籍のことについて不束の儀ありとされて、謹慎を命じられている。

壬申戸籍の編成 事実、大分県内では、辛未(明治四年)の戸籍編成に当たって、種々の説を唱え、心得違いの者もあり、前時代の宗門改めと異ならない編成が行われていた。明治五年(一八七二)四月、大分県庁は、特に戸籍編成に関する通達を行って、正確な実施を期することとした。六月二日、これまで、庄屋、戸長、副戸長とともに区内行政の執務を行わせていたことを廃止し、戸長・副戸長に土地・人民に関する事務と戸籍編成の事務を取扱わせることを決めた。大野郡では、これらに先立って、明治五年(一八七二)三月二十九日には、戸籍調査が終了していたが、全県下の戸籍編成は、やや遅れて七月十八日に完了した。

地租改正 明治政府は、戸籍の編成によって全国の人民を掌握するとともに、富国強兵・殖産興業政策を推進するため、財政的基礎を確立する必要に迫られていた。この必要から、各藩でまちまちの江戸時代の物納貢租に替えて、国民に金納地租を課する政策を実施することにした。地租改正がそれである。明治六年(一八七三)七月に地租改正条例を発布し、全国的な実施に踏み切った。これより先、明治五年(一八七二)七月、土地の所有者・地目・反別・地価などを記載する地券を発行することを、各県に布達した。

 同年十月、大分県では、県民に対して「地券のさとし」を布告、これまでの田畑は古い検地のままであり、上田が下田に変わっていることもある。二重に売買して争論をまき起こすこともある。新しく発行する地券は県庁の印に改められており、真の宝となる。一日も早く、区長・戸長・保長の指令に従って地券を申請せよと奨めた。十一月八日には、大野郡へ県官村次常真らを派遣し、地券取調べの説諭に当たらせた。

三重郷の地租 向野村後藤直三郎名儀の地券がある。この地券は、明治六年(一八七三)六月に大分県権令森下景端の発行したものである。向野村古門にある大縄田三畝二一歩五厘の地価が四〇銭と決められている。このとき、後藤直三郎は向野村保長であったため村民にさきがけていち早く、地券の授与を申請したのであろう。同年十一月には、ようやく大分県内(豊後国の分)の地券交付が終った。大野郡内の地券発行数は三一万八八七九枚であった。

 当時の地租改正法令によれば、税率を地価の三lを金納とし、納税者は該当土地所有者とすることが決められている。この地価三lの税率は、収穫高の三四lに当たり、農民の負担がきわめて重い地租となった。このため全国各地に地租改正一揆が相つぎ、政府は五年後の改正を待たず、明治十年(一八七七)一月、税率を〇.一l下げ、地価の二.五lとすることにした。次に三重郷各村の租税表を掲げる。租税のうち、地租が圧倒的に多く、近代産業の未発達の当時、明治政府の近代化政策の推進が地租に依存していたことがわかる。

 

 注(1)三重町立図書館蔵「明治四年留書 下玉田組」

  (2)三重町下玉田区長書類「辛未戸籍簿」

  (3)三重町立三重図書館蔵「明治四年留書 下玉田組」

  (4)臼杵市立臼杵図書館蔵「明治四年 御会所日記」

  (5)「県治概略T」『大分県史料叢書四』五二頁(以下叢書名略)

  (6)「県治概略T」七〇頁

  (7)「県治概略T」九九頁・一一三頁

  (8)「県治概略T」二四五頁

 

  三 郡町村の編成

町村の復活 明治十一年(一八七八)十一月一日、政府は、「郡区町村編成法」を施行して、従来の大小区制を廃止し、新たに郡町村を発足させることになった。その趣旨は、第一に大区・小区の重複を除き費用を節減すること、第二に郡町村を旧にもどし、民俗の便を図ること、第三は郡長の職任を重くして、その下での地方行政を行うことにあった。この背後には、明治政府が住民の自治への要求や国政遂行の上から旧来の町村区画を重視する必要性に迫られていた事情があった。次に、このとき成立した三重郷関係の町村と戸長給等を掲げる。

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ・村  名・戸長給・付属給・・芦刈村 ・三六 ・五二 ・・宮野村 ・三六 ・五二 ・

 ============================・井迫村 ・三〇 ・三八 ・・百枝村 ・三六 ・四四 ・

 ・菅生村 ・二四円・二七円・・浅瀬村 ・三六 ・四五 ・・田原村 ・三〇 ・三一 ・

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ・西泉村 ・二四 ・一九 ・・鷲谷村 ・二四 ・二三 ・・伏野村 ・四二 ・五五 ・

 ・川辺村 ・三六 ・四七 ・・市場村 ・三六 ・四八 ・・大白谷村・二四 ・一九 ・

 ・向野村 ・三六 ・四四 ・・秋葉村 ・三六 ・五九 ・・中津留村・一七 ・一二 ・

 ・小坂村 ・三六 ・四七 ・・本城村 ・三六 ・四九 ・・奥畑村 ・二三 ・一七 ・

 ・松尾村 ・三〇 ・三二 ・・玉田村 ・三六 ・五八 ・・西畑村 ・四八 ・九九 ・

 ・内田村 ・四二 ・七一 ・・久田村 ・四二 ・六〇 ・・山部村 ・二四 ・一六 ・

 ・内山村 ・二四 ・二七 ・・小田村 ・二四 ・一七 ・・赤嶺村 ・四二 ・六〇 ・

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 戸長は町村ごとに一名が置かれた。数か町村に一名置いてもよいとされ、「戸長選挙法」によって選挙される。戸長の資格は町村在籍でもよいし、場合によっては、他町村の在籍者でも妨げないとされた。戸長の職務は、布告・布達を管轄内の人びとに伝達すること、地租・諸税を上納すること、戸籍事務を取り扱うこと、学齢簿の調査と就学の勧誘など一三項目であった。戸長は最上等で年給八四円、最下等で一二円とし、一戸二〇銭と地租二〇分の一を目安とした。また、戸長には別に戸長付属給および職務取扱費を給与したが、この分は一戸一〇銭、地租二〇分の一を目安として徴収した。明治十六年(一八八三)六月、このうちの戸長付属給および職務取扱費の改正をみた。

 

 (村 名)(戸長付属給および職務取扱費)

  菅生村 ==              松尾村 ==              伏野村 ==       井迫村 ・              鷲谷村 == 四八円          大白谷村・       浅瀬村 ・一三三円          内田村 ==              中津留村・ 八九円   宮野村 ==              内山村 == 八三円          奥畑村 ==       芦刈村 ==              赤嶺村 ==              西畑村   八二円   小坂村 == 七八円          市場村 ・二一八円          上津川村==       百枝村 ==              秋葉村 ==              堂野間村・       川辺村 ・              本城村 ==              山部村 ・ 七七円   上田原村・一五二円          玉田村 ・              因尾村 ・       西泉村 ・              久田村 ・一四九円          井上村 ==       向野村 ==              小田村 ==                        

この表によると、二か村以上の村が合併して、戸長付属給および職務取扱費を負担している。明治十一年(一八七八)の同費と比較するとき、経費の節減を図ったことは明らかである。

連合町村の成立 明治十七年(一八八四)五月、内務卿は戸長役場管轄区域の拡大を訓示した。大分県では、同年八月、この趣旨に沿って町村の連合を行うこととした。その目的は、村費負担の軽減と戸長選任に当たって人物を得ることにあった。連合に当たっては、戸数四〇〇ないし四五〇以上五〇〇戸以内とすること、たとえ五〇〇戸以下であっても、五か町村以上にならないようにすることが原則とされた。この区域を定める場合に従来の慣行・地勢等を考え、行政の不便を来さないよう配慮されている。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ・町村役所位置・      連 合 町 村 名      ・

 ============================================================

 ・ 小坂村  ・芦刈村・小坂村・松尾村・鷲谷村     ・

・ 菅生村  ・菅生村・井迫村・浅瀬村・宮野村     ・

 ・ 市場村  ・内田村・内山村・赤嶺村・市場村・秋葉村 ・

・ 百枝村  ・百枝村・川辺村・上田原村・西泉村・向野村・

 ・ 玉田村  ・玉田村・小田村・本城村・久田村     ・

・ 伏野村  ・伏野村・奥畑村・中津留村・大白谷村   ・

 ・ 西畑村  ・西畑村・東谷村             ・

・ 堂野間村 ・井上村・因尾村・堂野間村・山部村・上津川村・

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 この連合町村は、明治二十二年(一八八九)に三重村(小坂・市場)・菅尾村・百枝村・新田村・白山村・南野津村(西畑・秋山)・因尾村が成立する基礎となった。

郡制のはじまり 町村の復活とともに郡制が発足することになる。大分県のうち、旧豊後国には八郡(大分・速見・国東・玖珠・日田・直入・大野・海部)、旧豊前国には二郡(宇佐・下毛)があった。郡制の発足に先立って、明治九年(一八七六)八月、国東・海部の両郡を地形上から、それぞれ二分し、東国東郡・西国東郡、南海部郡・北海部郡を置くこととし、県下を一二郡とした。明治十一年(一八七八)十一月一日、大小区制を廃止し郡制を実施するに当たって、郡役所の位置を次のようにきめた。

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ・郡 名・郡役所位置・ 戸  数 ・ 人   口 ・

 ====================================================

 ・西国東・ 高田村 ・一万五七五六・ 八万三二五五・

 ・東国東・ 鶴川村 ・一万一二三七・ 五万〇九三九・

 ・速 見・ 日出村 ・一万三二四〇・ 六万一一三二・

 ・大 分・ 大分町 ・二万一五五一・一〇万二〇八七・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ・北海部・ 臼杵町 ・一万五七五六・ 八万三二五五・

 ・南海部・ 佐伯村 ・一万三九四二・ 七万一七五八・

 ・大 野・ 市場村 ・一万四二八〇・ 六万五一五九・

 ・直 入・ 竹田町 ・  八九七七・ 四万〇二七九・

 ・玖 珠・ 森町  ・  四七七六・ 二万三七三三・

 ・日 田・ 南豆田村・  九四八六・ 五万二〇〇九・

 ・下 毛・ 中津町 ・一万三一四七・ 六万三四七三・

 ・宇 佐・ 四日市村・一万三六六二・ 六万四四七三・

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初代大野郡長には桂淳一郎が任命された。桂は旧岡藩士であり、大分県民会議員でもあった。桂は明治十七年(一八八四)六月まで郡長の地位にあった。その後、明治十九年(一八八六)九月まで朝倉為親、明治二十三年(一八九〇)十月まで重光直愿が大野郡長の職を継いだ。

 新たに大野郡役所が設置されたときには、独立した庁舎がなく、多田五十馬宅を仮庁舎として執務したが、明治十八年(一八八五)六月、大野郡内一町(犬飼町)一六二か村の共有家屋として郡役所が建設された。県庁までの距離は一〇里一八丁五八間であった。郡役所の事務は大別して次の三項に分かれる。

 

 1 政府の規則によって委任された事務

   徴税・地方税の徴収と不納者の処分

   徴兵取調べ

   小学校学資金

   など一〇か条。

 2 県令より特に分任する事務

   町村臨時代理戸長の任免

   天然痘および流行病予防法の施行

   酒類・売薬行商の許可および鑑札の付与

   学校新築・位置および校名変更の許可

   など四〇か条。

 3 郡役所において取調べ進達する事務

   毎年一回の郡内戸口表等の調製

   国民軍人員表の調製

   学事年報表の調製

   など一九条。

 

 このようにして、郡制が発足したが、明治十四年(一八八一)の政府財政の改革により、地方税の支出が増加し、新規事業の実施が困難となった。このため、明治十五年(一八八二)五月、郡衙の合併によって経費節減を図ろうとする建議が、通常県会に上程された。この案は、県下一二郡を八郡にまとめる。合併に当たっては大野郡を次の三つに分割しようとする計画であった。

 

 北大野郡==          中大野郡==          南大野郡==                   ==(市場以北で分割)     ==(市場以東で分割)     ==(宇目郷地方を独立)

 直入郡 ==          北海部郡==          南海部郡==              

 この建議案は、激しい論議を呼んだが、郡役所の経費節減は図られるものの、郡衙から遠距離の人民が増加し、かえって人民の負担の増大をきたしかねない。郡域の拡大は、地形の複雑さから著しい交通障碍を生む。郡区町村制施行以来、三か年しか経過していない。したがって、再度の改編は民心の安定を欠くという理由で否決された。もし、この建議案が可決されていたならば、三重地方は二分されて、現在の三重町は成立していなかったであろう。

 

 注(1)『大分県史 近代篇T』二一一頁

  (2)内閣文庫蔵「大分県史料三」以下所蔵者略

  (3)「大分県史料三」

  (4)「大分県史料三」

  (5)佐藤蔵太郎『大分県町村沿革誌』一〇〇頁〜一〇一頁、以下著者名略

  (6)「大分県史料三」

  (7)「大分県町村沿革誌」五三頁

  (8)日豊時報社『大分県大野郡々史』十月号 四一頁

  (9)『三重町誌沿革編』一五四頁

  (10)『大分県町村沿革誌』六四頁

  (11)「大分県史料三」

  (12)『大分県町村沿革誌』九二頁〜一〇〇頁

 

 

    第三節 西南役と郷土

 

  一 西南役の発端と拡大

征韓論 幕末から、わが国内には欧米列強に対抗するため、朝鮮を征討しようとする外交政略の提唱がなされていた。明治政府が成立すると、中央権力強化策の一環として、征韓論が再び台頭してきた。ことに廃藩置県後、士族の不満が高まって、新政府に対する反乱がしきりに起こった。政府高官のうち、木戸孝允・西郷隆盛らは征韓論を主張して、新政府に対する旧士族の不満解消を図ろうとした。これに対して、岩倉具視・大久保利通らは国内治政の充実を主張して勅許を得、征韓論を否定した。このため、明治六年(一八七三)、西郷隆盛らは下野、帰国した。

西南役の発端 当時、鹿児島は明治政府の施策も実施されず、独立国の様相を呈していた。明治十年(一八七七)一月、新政府に不満をもつ私学校党が反政府運動を画策したため、政府はこれを警戒し、陸軍省砲兵属廠に貯蔵している砲銃弾薬を大阪へ移送しようとした。このことを察知した私学校党は砲銃弾薬を掠奪、海軍造船所をも襲って弾薬を奪取するに至った 。これより先、政府は鹿児島事情探索のため、東京警察吏一〇余人を帰省させた。私学校党のうちには、これら警察吏を捕えて西郷暗殺の自白を強要、その口供書を印刷して県下に配布した。その後、西郷隆盛を擁して明治十年(一八七七)二月十五日、一万五〇〇〇名が北上、二月二十一日午後一時十五分、熊本鎮台と戦端を開くに至った。

 熊本城は鎮台司令官谷干城が死守したため、容易に陥落しなかった。熊本城周辺の田原坂・山鹿方面でも激戦が展開されたが、薩摩軍はことごとく政府軍に敗れた。熊本城も五十日間にわたる篭城の末、四月十五日、征討参軍黒田清隆が入城するに及んで、薩摩軍の包囲から解放された。薩摩軍は木山・矢部(ともに熊本県)に退いて抵抗線を敷いたが、ここでも政府軍の猛攻を支えきれず、人吉(熊本県)および日向に走った。この薩摩軍のうち、野村忍助らの率いる奇兵隊は椎葉・延岡(ともに宮崎県)を経て、五月十二日、数十名が大野郡重岡(南海部郡宇目町)に到着、巡査仮屯所を砲撃した。

大野郡侵入 重岡駐屯の巡査藤丸宗造(のちに薩摩兵のために斬殺された)が、翌十三日午前九時、このことを竹田警察署へ報告したので、同署では探偵を出して情勢を探らせたが失敗した。同日午後二時、市場駅(三重町)の住民が同署に次のように報告してきた。

 

 明十三日、其地通行致スニ付、人馬ノ用意ヲ為ス可シ

 

このことによって、薩摩軍は重岡到着と同時に三重市に先遣隊を派遣して、人馬の徴発を命じたことがわかる。このとき、三重市用務所の役人が全員逃走してしまったので、薩摩兵は町内各戸主を用務所に呼び出し、抜刀を携えて出金を強要した。拠出金は三千円、薩摩兵はこの金を内入金として受け取り、残額は後日に徴収するという領収書を渡して去ったと伝えられている。

 薩摩軍の行動は迅速であった。五月十三日午後四時ごろには、

 

 突如、知田・野仲・原尻(ともに緒方町)へと進行し来る一隊現はれたり。地方人民の動揺狼狽知るべきなり。 隊員は蓑笠をつけ銃を持ちその数数百人に及べり。

 

として、緒方郷を進んでいる。第五大区一三小区(原尻村他五か村)副戸長羽田野長蔵は、数百人と薩摩軍の数を把握したが、実際には千人以上であったらしい。

竹田の戦闘 竹田町(竹田市)に侵入した薩摩軍は、警察署・裁判所などの官衙を破壊、町内古町に本営を置いた。野村忍助らが竹田町に侵入した最大の理由は、旧岡藩士のうちに薩摩軍に呼応する者があり、これらを糾合して兵員の補充を行うことにあったと考えられる。五月十七日には竹田町正覚寺に集合、旧岡藩士堀田正一を隊長とする報国隊を結成させた。その数六百余名に及んだという。

 政府軍は五月二十日に攻撃を開始、戦闘は両軍勢力伯仲して一進一退を繰り返したが、二十九日に終わった。薩摩軍は器械・弾薬・死屍を捨てて敗走した。竹田町は、この戦闘で過半を焼失、このため、夕暮れになってもなお烟炎が燃えさかっていたと伝える。

 

 注(1)参謀本部『征西戦記』巻一、二

  (2)前掲書 巻三十六 四頁

  (3)佐藤盛雄『西南役に於ける豊後方面の戦闘 特に大野郡内の戦闘に就て』四七頁

  (4)羽田野長蔵『岡藩時代の雑事』一五六頁

  (5)直入郡教育会『直入郡志』九〇頁

  (6)(5)に同じ。

 

  二 三重市の戦闘

官・薩両軍の動向 竹田町を引き揚げた薩摩軍は、どのような行動をとったであろうか。その動きを政府軍は次のように把握している。

 

 賊ハ退テ三国峠・旗返峠・梅津峠(以上三重町)・葛葉峠(宇目町)等ノ険ニ拠リ、守備ヲ厳ニシテ我カ進路 ヲ扼ス

 

確かに薩摩軍は、このような作戦をたてている。

 

 廿九日 竹田の我軍守を失ふて、走って小野市に保つ。

 三十日 諸将相議して曰、一度此地(三重市)を失なはば、延岡亦、守り難からん、今の謀をなすものに、宜 しく三国・旗返等の険を扼するに若かす

 

として、竹田を退いて宇田枝(清川村)、白山(清川・三重町)地区を経て、三国峠・旗返峠方面へ向い、小野市(宇目町)に着陣している。しかし、竹田報国隊士たちのうちには、小野市まで後退せずに三重市に入った者もいた。すなわち、

 

 (五月)三十日晴天

 午前四時頃、中津無礼(三重町)引揚、三重市へ至ル、後二時頃、同所引揚、内山観音ヨリ六、七丁計、山中 迄行、又々引返シ三重市ニ泊ス、此処ヨリ山田邦直外兵士両三名脱隊、金二十円ヲ懐中シタリ、宿陣ニ二八娘 アリ、名ヲスマト呼ブ、

 

とあって、三重市への行動を知ることができる。報国隊士らの行動が、しばしば変更された背後には、

 

 三重市の地たる一たび失せば、復た得ることの難きのみならず、延岡亦保ち難からん。今直ちに軍を進め、此 敗辱を雪がんとす。敵若し先鞭し三重市を占め、三国・旗返の険に拠らば、千悔何ぞ及ばんや、速やかに彼地 に至り而して後、方略を議せん、

 

という軍議の決定があり、この決定が三重市にある報国隊士に伝えられたからであろう。

 このような薩摩軍の動きの中で、同軍の人夫としてかり出された久部(三重町)村民もいた。

 

 旧四月十七日(陽暦五月二十九日)〜十八日迄

                             八重蔵

 右ハ薩人荷物持、十一小区柏野邨〜九小区小野市旧役宅迄

 右同日(旧四月十七日〜十八日迄)

                             友太郎

 右ハ薩州人荷物持、十一小区柏野邨〜十小区中津無礼邨迄

 〆両人共、賃金不受取

 

とあって、無給で徴発された事実を伝えている。

 この薩摩軍に対して、三重市方面に関する政府軍の行動は二通りある。ひとつは、三十日、竹田攻略軍野津大佐指揮下の本隊(川上少佐、操六、のち、大将)は宇田枝に滞陣し、警視五番小隊を奥畑村(三重町)に配置して、旗返峠の薩摩軍に対応させた。いまひとつは、小倉から大分に進んだ奥少佐(保鞏、後に元帥)は、竹田町の薩摩軍を攻略するため、今市(野津原町)を経由、竹田町の野津大佐軍と合隊した。竹田勝軍ののち、向野村(三重町)を迂回、大寒村(犬飼町)に入った。これより先、大分から出発した奥少佐指揮下の別働遊撃隊二五〇名(村田成礼大尉)と大寒村で合流。のち、三国・旗返峠の薩摩軍の撃破を企画したらしい。

三重市の戦闘 五月二十九日、村田成礼大尉は三重市に進軍、その夜は市内の正龍寺に宿営した。翌三十日未明「三重市の地形は小兵を以て守備するに不適当」ということで、深野(三重町)まで退いた。竹田町の攻防に敗れて小野市に退く薩摩軍と竹田報国隊士が三重市に侵入したのは、村田大尉が、いったん、正龍寺から深野に引き揚げた直後のことであった。三重市に侵入を遂げた薩摩軍は、

 

 竹田地方潰走ノ賊徒凡百五六拾名、昨三十日午前七時頃、大野郡市場駅(三重市)ニ屯集、赤嶺村ノ内、権現 堂並ニ百枝村ノ内、木ノ許山ニ胸壁ヲ築キ守ル

 

とし、「戦闘ノ際、外賊徒来リ加リ、凡一千人余ニ及フ」と報告されている。

 竹田報国隊の三重市侵入は、深野(三重町)に駐屯した村田成礼大尉に伝えられたらしい。三重市人小野良平らの通報と云われる。大寒(犬飼町)に進軍している奥少佐の来着をまって、明三十一日、三重市の竹田報国隊を攻撃することに決定した。午前三時深野発、小野良平・赤嶺左右平・青木吉弥太(臼杵の人)が先導、権現堂・芦刈・塔の辻(いずれも三重町)等の敵塁を排除、午前六時には市場東端で戦闘が開始された。三重市に進んだ村田隊は、市場からの薩摩軍(石塚八番隊)の攻撃と重政原の政府軍を破った久知良迂回兵および下玉田迂回兵の三面からの攻撃を受けて退路を遮断された。

 村田隊は薩摩軍の猛攻を支えきれず、弁天(三重町大字赤嶺)の小径を退却中、指揮官の村田成礼大尉以下三一名の戦死者を出してしまった。戦闘は午前八時ごろまでには終わったらしい。

 

 大に官軍を敗り追撃約二里に至る。石塚隊は長七連銃五十挺、針打銃十挺、弾薬三箱を獲、大迫隊(重政原方 面隊か)は針打銃八挺、弾薬若干を獲、その他諸隊亦若干を得たり。(中略)官軍奥隊は村田大尉・安倍井少 尉以下戦死するもの三十一名。

 

とその戦闘結果を伝えている。当時、この戦闘を目撃した三重市古老の談に

 

 弁天断崖附近の官軍戦死者の大部分は、首・胴が別々にされてゐた。村田大尉や安倍井少尉の首級は、これを 竹に刺して曝首にしてあった。又、悲惨なのは、崖を登りかけて手首から斬られ、その手首だけが、しばらく は木の根を握ったまま下がっていた。

 

とあるとおり官軍側の敗北であった。

三重市戦闘の敗因 なぜ、政府軍が三重市の戦闘に完敗したのであろうか。この原因について次のような説がある。五月三十日までに三重市を中心にして、西方、宇田枝(清川村)に布陣していた野津大佐統率の青山隊と、東方、深野に布陣していた奥少佐統率の村田隊が、三重市内の薩摩軍を挟撃(はさみうち)にしょうとした。しかし、この作戦が失敗したのであると。これが真実であるかどうか、参謀本部編「征西戦記稿」の記述をもとに検討してみよう。まず、青山隊の動静について触れる。宇田枝に布陣していた青山隊は、五月三十一日午前六時に岩戸(清川村)に到着。ここから奥嶽川を越えて玉田(三重町)へ、玉田から深田(三重町)に進み、羽飛十文(三重町)にある薩摩軍水間・山口隊の陣地を攻撃している。青山隊は、この深田・羽飛方面の戦闘で薩摩軍の猛攻を支えきれず、岩戸・牧口方面に敗退した。

 この政府軍青山隊が、午前六時に岩戸に到着したとき「会々砲声ヲ三重市方位ニ聞ク、皆以為ラク、是レ大分口ノ兵ナリト、勇進シテ三重市ニ向フ」とあり、三重市の戦闘が午前六時に開始されたことを知り得る。この青山隊は斥候兵であった。それゆえに「尚ホ進テ賊塁ヲ攻ム、我カ寡少ナルヲ曉リ、亦我ヲ囲マントス」という紛争状況をもたらした。もし、政府軍が挟撃の作戦であれば、青山隊という小兵力ではなくて、岩戸口の十三連隊一大隊と警視兵四箇小隊および十四連隊三大隊・工兵二箇分隊、山砲隊の全部隊が三重市に投入されたであろう。この政府軍は午前三時に岩戸に到着すべきであった。そうすれば午前六時の三重市戦闘に間に合ったはずである。

 ところが、青山隊という斥候隊のみが午前三時に岩戸に到着して、そののち、玉田・深田・羽飛方面の偵察を行い、前夜来、この地に布陣していた薩摩軍と交戦するという結果になった。この青山隊は、深田・羽飛の戦闘に敗れ、岩戸から牧口方面へ退却した。これは、本隊が宇田枝を本営として滞陣していたからであろう。本隊は三重市戦闘後も本営を動いていなかったことを意味する。この本隊のその後の作戦行動からみて、三国峠・小野市を経て重岡・延岡の攻略を企画していたことは間違いない。

 つぎに深野に布陣した政府軍村田隊の動きについて、かんたんに述べよう。五月二十九日、一たん三重市に進出した村田隊が、三重市は小兵をもって守備するのに不適当という理由で、翌三十日深野まで退いた事実がある(既述)。三十一日、村田隊は二百余人の兵員をもって、三重市に再進出する。このとき、奥少佐の率いる本隊は深野に停止したままである。三重市戦闘後、この本隊は戸次(大分市)まで後退し、のち、臼杵戦の左翼部隊となったが、当初の作戦計画は、宇田枝方面軍と合流して、三国峠・宇目の薩摩軍を制圧しながら、重岡、延岡へ南下する戦略であったと思われる。この両軍の合流が、三重市侵入の薩摩軍に対して挟撃の様相を呈したのであろう。

 では、政府軍の敗因は何であったのか。深野方面政府軍(奥隊)は、三重市の薩摩軍を攻撃するにあたり「三重市ノ賊ハ初メ数十名ニ過キス、我軍諜シテ之ヲ知」るという情報であった。ところが薩摩軍の兵力は「昨夜ニ至リ竹田ヨリ退クノ賊、数百人皆此ニ在」るという情況であり、三十一日未明までには、薩摩軍兵力は一千人余(既述)という増強ぶりであった。薩摩軍の巧妙な三重市侵入と土民の通行の禁止に、官軍を慕う者がこのことを深野(政府軍)に知らせようとした者もあるが、果さなかったといわれている。薩摩軍の兵力が政府軍に漏洩するのを、厳重に防いだ事情を知ることができる。このことから、三重市戦闘における政府軍の敗因は、情報収集の不徹底から、敵軍の兵力を寡少評価したことにあると考られる。

 

 注(1)参謀本部『征西戦記稿』巻三十六  二八頁

  (2)「丁丑弾雨日記」『鹿児島県史料』

  (3)「報国隊士日記」佐藤盛雄「西南役に於ける豊後方面の戦闘 特に大野郡内の戦闘に就て」三九頁

  (4)『薩南血涙史』

  (5)首藤寿生蔵「御官軍様御出張諸品留」

  (6)佐藤盛雄『前掲書』四八頁

  (7)内閣文庫蔵「大分県史科二十一」

  (8)『薩南血涙史』

  (9)佐藤盛雄『前掲書』六三頁

  (10)佐藤盛雄『前掲書』五〇頁

 

 

  三 三国・旗返峠の戦闘

政府軍の動向 西南役における三重方面の戦闘は、二度にわたって行われた。すなわち、明治十年(一八七七)五月三十一日の三重市の戦闘と、同年六月十七日の三国・旗返両峠における戦闘である。次に三国・旗返峠の戦闘を述べよう。五月三十一日の三重市戦に敗れた深野方面軍(奥隊)は、深野・大寒(犬飼町)に退いたが、軍兵が整わないため、戸次(大分市)まで後退した。宇田枝方面軍(野津隊)は、六月一日、三重市の薩摩軍を攻撃するため、三重市に入ったが、薩摩軍は、すでに臼杵に向かっていた。この日、政府軍山砲隊・糧食課が三重市に進駐している。六月三日、臼杵攻撃のため、政府軍一三連隊二箇大隊は、午後一時、三重市を発し、臼杵へ進撃した。警備兵一箇大隊と警視一箇小隊は、宇田枝から中津無礼(三重町)街道の警備にあたった。

 これ以来、久部村(三重町)にも政府軍の出入りが激しくなり、村民の人夫使役、物資調達、宿舎提供が始まった。史料に

 

 一 廿銭 六月六日旧役宅小夫 御官軍入込ニ付

 一金四円 六月十二日ヨリ十七日迄、警視隊五番小隊御止宿ニ付、小使人夫弐拾人、但し一人ニ付二十銭

 

とあって、警視隊一箇小隊は五番小隊であったことがわかる。また、この小隊は三国峠陥落まで久部村に駐屯した。久部村は政府軍との間に「諸色代価定」をとりきめた。

 

 一 薪壱束ニ付     三銭

 一 松壱〆目ニ付    五銭

 一 香物壱貫目ニ付   八銭

 一 明松壱丁ニ付    四厘

 一 藁壱束ニ付     三銭

 一 小麦柄壱束ニ付   壱銭五厘

   但難道ケ所御差納候節ハ弐銭替

 一 縄壱番ニ付     壱銭弐厘

 一 塩壱升ニ付     壱銭七厘

 一 空俵壱俵ニ付    弐銭

 一 草鞋壱足ニ付    八厘

 一 梅付壱升ニ付    五銭

 一 竹壱束ニ付     五厘

 一 莚壱枚ニ付     四銭

 一 蝋燭壱丁ニ付    七厘

 一 油壱合ニ付     四銭

 

この軍需物資調達は農家の懐を潤したらしい。しかし「自然ト奢侈ノ風モ起リ、飲食店ノ如キハ毎夜大鼓三絃ノ音ヲ聞ケリ、故ニ得タル収入ハ忽チ雲烟ト化シ去リ、却テ負債ハ入代リニ生シタリ」とあって、農家経済の資とはならなかった。

 久部村に駐屯した政府軍は、三国・旗返峠の薩摩軍に対する防備を固めた。このとき、構築された台場を掲げると次のとおりである。

 

 中津留台場  五日・六日 

 黒嵩台場   五日・六日・八日・十二日

 戸ノ上台場  十二日・十三日

 葛葉峠台場  十四日

 鍋ノ鹿倉台場 十四日・十五日 

 梅津峠台場  十五日・十六日

 

 日付は、久部村民の出夫の六月の日時であるが、各台場構築の期日を示すものと推察される。また、敵に対する警戒や兵力の誇示のために「かがり焚」も各所で行われた。

 政府軍が久部地区に六月五日から駐屯をはじめ、十五日・十六日には「かがり焚」もピークに達した。

 

 千町岩かがり焚   五日・七日・十一日・十二日・十四日・十五日

 妙見かがり焚    六日

 山神 かがり焚   十三日

 鍋ノ鹿倉かがり焚  十四日 

 舟木頭かがり焚   十三日・十五日・十六日

 中津留前かがり焚  十四日・十六日

 酒屋前かがり焚   十五日・十六日

 梅津口かがり焚   十五日

 平ノ口かがり焚   十六日

 

薩摩軍の動向 次に薩摩軍の動向について述べよう。五月三十一日、三重市の戦闘で勝利をおさめたのち、夜十二時、臼杵に向けて出発。翌六月一日、臼杵城攻撃。臼杵士族・政府軍連合隊を撃破して入城。同月八日に至って政府軍が海陸から反撃、九日夜、薩摩軍は臼杵を支えきれず切畑(弥生町)に走った。ここで、竹田の回復を図って、十一日、切畑出発。同日 、午後五時三重市着。鷲谷口から三重市を攻撃しようとしたが、すでに政府軍の守備がそなわり、嶮に拠って薩摩軍の侵入を防いだので、小野市に退去した。これらの薩摩軍に加えて、六月三日、宮崎守備の軍兵が加わり、三国・旗返両峠の守備を固めた。

 政府軍は三国・旗返峠方面の敵情を全く把握できなかった。そこで、六月十二日、警視隊巡査堀江与三郎・村民佐保初治を久部村に派遣し、敵情の偵察にあたらせた。両名は敵の背後に出て探索したので、薩摩軍の防備線の詳細が判明した。この情報にもとづいて、

 

 旗返峠方面    福原大尉

 梅津・葛葉越方面 萩原警部

 三国峠方面    青山少佐

 援隊       林少佐

 司令官      川上少佐

 

を配置した。薩摩軍はこれに先制攻撃を加えるため、十三日午後六時に本城山(三重町)はじめ神明越(三重町山中)の哨線を襲撃、三国・旗返峠の二〇余塁の防備を固めて政府軍に対峙した。これにより、政府軍は次のように編成替えを行う。

 

 三重市口     青山・林少佐

 中津留口     福原大尉

 葛葉越口     萩原警部

 

こののち、三国・旗返峠の薩摩軍を攻撃したが敵塁を抜けず、兵を返した。

三国・旗返峠戦 十五・十六日ともに戦線はこう着状態となる。牧口にあった政府軍出張参謀本部は、十六日に奥畑村(三重町)に移された。同日、奥畑村民広岡初作の偵察によって、敵の背後からの襲撃を企て、十七日、三国峠に向かって、

 

 右翼隊     福原大尉

 中央隊     林少佐

 左翼隊     青山少佐

 

の三面からの攻撃を画した。午前二時、中央隊川野辺常松軍曹以下一七名が三国峠第一敵塁に突入、銃剣をもって薩摩軍市来隊一二名を倒し、第二・三塁敵塁を背面から攻撃した。旗返峠の薩摩軍石川隊一〇名も斃され、薩摩軍は、ついに諸塁を捨てて小野市に敗走した。三国・旗返峠の戦闘は午前七時には終結した。六月十三日から十七日までの、この方面の戦闘での政府軍の戦死者は三名、薩摩軍は二十余名とされている。

 六月十九日、香川大分県令は、諸軍糧食需要確保のため、県官を三重市に派遣、毎戸、草鞋三〇足、毎村、精米百石を備蓄させた。六月二十一日には三重市にあった政府軍の本営が重岡に移る。この日、熊本鎮台輜重本部が交代して三重市に移動して来る。二十五日には大繃帯所が竹田から三重市へ移動、七月三日(五日とも)大分県仮出張所が三重市へ設置されて陸軍の用度を整えた。これらの軍事部署は七月二十三日までには佐伯方面に移動して、三重市は西南役の影響から解放されたのである。市場正龍寺住職西方円精は、その日記に次のように述べている。

 

 此時ニ当リ、当寺堂庫裏ヲ悉皆官軍ニ貸シ与フ、臨時病院トナス、負傷者百五拾余名来ル、当寺ニ於テ死亡セ シ已ニ五名アリ、惨状見ルニ不忍、後チ輜重本部トナル、又タ官軍ノ本営トナル、都合六拾余日間

 

 注(1)首藤寿生蔵「御官軍様御出張諸品留」

  (2)渡辺用馬「懐古追録」佐藤盛雄『西南役に於ける豊後方面の戦闘 特に大野郡内の戦闘に就て』一二     八頁

  (3)(1)に同じ。

  (4)正龍寺蔵 西方円精「雑華雲集」

 

 

    第四節 三重地方の産業・文化の進展

 

  一 交通の発達

大野川通船 江戸時代三重町の東北部をめぐる大野川には、犬飼港が開設され、岡藩の表玄関として殷賑を極めた。しかし、それより上流の通船は、三代岡藩主中川久清以後、しばしば、企てられたらしいが、大野川が臼杵藩との境界河川であったため、同藩の合意が得られず、挫折せざるを得なかった。

 明治二年(一八六九)十月、岡藩は小原右仲・仲島物部の両名を臼杵藩に派遣、岡藩の船車運輸の不便からくる民中の困苦を訴え、もし、岩戸川(大野川中流)の通船が成就するなら、肥・豊・日の産物運輸によって、天下の貨財を富ませることができる。朝政奉行の職務を全うするためには、因循遅延は許されないと説かせた。

 その後、緒方・井田両郷において、大野川通船の協議が行われ、明治五年(一八七二)六月、「人民願書」を大分県に提出した。この願書によれば、川浚等の諸費は通船による運賃から支払うこと、人夫は関係村から出夫させることとしている。同年八月十五日、犬飼・岩戸間、五里(二〇==)の浚渫に着手、十一月に完工、入費四一四八円を要した。一方、旧臼杵藩内においても、大野川通船に尽力する者もあった。すなわち、明治六年(一八七三)、山村紋平・山内甚平・三浦歌吉・深田円平らが大野川浚渫を発起、翌七年着工、浚疏役夫三〇〇余人を使役し、明治九年(一八七六)三月、瀬頭(三重町深野)から舞田(犬飼町田原)までの航路浚渫をなし遂げた。

 大野川通船の成功によって、米穀・材木等が運輸され・価格もようやく騰貴しはじめ、岩戸・細長などの河川港が繁栄するようになった。とくに、細長(三重町宮野)には商人の移住する者も多く、市街地が形成された。

道路交通 明治七年(一八七四)一月、大分県は河港道路修築に関する布達を行い、全国の大経脈を一等道路、それに接続する脇往還支道を二等道路、村市の経路を三等道路に指定した。三重地方を通る二等道路は次のとおりであった。

 

 日向街道   大分町―中戸次―大寒―市場―小野市―重岡―熊田

 臼杵・肥後路 臼杵―野津市―市場―砂田―竹田―菅生―笹倉

 竹田・日向路 竹田―宇田枝―小野市―重岡―熊田

 

これらの道路のうち、臼杵、肥後路は峻坂嶮路、道幅狭隘の箇所が多く、物資運輸・人馬通行に不便であった。そのため、大野郡市場村から北海部郡臼杵港までの道路改良が、市場・赤嶺・小坂・芦刈・菅生・西畑他沿道の住民によって企画された。明治十六年(一八八三)三月に起工・同年十二月に竣功した。道程七里二十五町余、幅員二間、工費九,三七一円余であり、この工費のうち五,八二一円は地方税から、三,五五〇円余は沿道住民が支弁した。

 道路の整備に伴って、運輸制度も近代化された。明治五年(一八七二)六月にはじめられた陸運元会社は、明治八年(一八七五)二月に内国通運会社と改称され、諸道において公私の物資を通運することを本業とし、東京に本店を置いて開業することになった。大分町には、内国通運分社が、また、県内各地に内国通運取扱所、内国通運継立所が設置された。明治十一年(一八七八)の大野郡内の実情は次のとおりであった。

 

 内国通運取扱所 (三重)市場村・大寒村・犬飼町・田中村・砂田村・重岡村・小野市村・今市村

 内国通運継立所 宇田枝村・野津市村

 

 明治八年(一八七五)には、取扱所が犬飼町・今市村のみであったのに比べれば、その数が四倍にのぼっている。このことは、当社の利用度の高まりを示すとともに物資の運送が盛んとなったことを物語っている。なお、三等道路は次表のとおりである。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・村 名・   村 内 三 等 道 路     ・・芦 刈・百枝路・菅生路・浅瀬路・井迫路    ・==================================================・井 迫・百枝路・芦刈路            ・・菅 生・芦刈路・井迫路            ・・浅 瀬・井迫路・田原路・芦刈路・柴山路    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・宮 野・西畑路・浅瀬路・田原路       ・・市 場・内田路・百枝路・伏野路        ・・百 枝・川辺路・赤嶺路・市場路・西泉路・向野路・・秋 葉・伏野路・本城路           ・・向 野・前田路・小倉木路・代三五路      ・・本 城・伏野路・玉田路・久田路       ・・西 泉・向野路                ・・玉 田・久田路・川辺路           ・・田 原・百枝路・前田路            ・・久 田・伏野路・雨堤路           ・・川 辺・久田路・玉田路            ・・小 田・伏野路・久田路           ・・小 坂・西畑路・松尾路            ・・伏 野・久田路・中津留路          ・・松 尾・因尾路・小坂路            ・・大白谷・木浦路・中津留路・左右知路     ・・内 田・因尾路・小坂路            ・・中津留・大白谷路・奥畑路          ・・内 山・三等道路なし             ・・奥 畑・中津留路              ・・鷲 谷・松尾路・内山路・山部路        ・・西 畑・秋山路・東谷路           ・・赤 嶺・内田路                ・・山 部・不詳                ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

注(1)羽田野長蔵『岡藩時代の雑事』九一頁

  (2)臼杵市立臼杵図書館蔵「御会所日記」明治二年十月二十六日

  (3)内閣文庫蔵「大分県史料一九」以下所蔵者名略

  (4)土生米作『碑文集』「細長繁栄記」

  (5)(4)に同じ。

  (6)「大分県史料二〇」

  (7)「大分県史料一九」

  (8)「大分県史料二〇」

  (9)大分県立大分図書館蔵「豊後国大野郡村誌」

 

  二 産業の発達

農業 明治十四年(一八八一)ごろの三重地方の主要農産物は、米・麦・栗・大豆で、ほぼ全域に栽培されている。畑作物のうち、甘藷は百枝地区が六三lの栽培率を占めている。これは大野川流域の河岸段丘上の畑地であるため、耐旱害作物として植栽されたのであろう。また、これらの畑地では秋葉・本城などの台地とともに葉煙草の栽培が盛んであった。明治政府も煙草栽培に力を入れ、西洋栽培法煙草作の伝習を奨励した。大分県でも、大野郡久田村(三重町)三浦常五郎らに学ばせ、資金を貸与して試作を行わせている。

 松尾・鷲谷・内山では、農家の副業として製紙業を営んでいた。これは、背後の山地に楮を産出したこと、楮皮をさらす清水に恵まれていたことによるものと考えられる。白山地区も、また楮の産地であった。これら三重地方南部の山間部では、こんにゃく玉・椎茸・茶の生産も行っていた。

栽培法等の改良 稲作にとって、病虫害は大きな被害の原因となる。三重郷久田村の三浦常五郎は、明治十三年(一八八〇)春以来、熊本県高森町にある勧農局西洋風莨試作場で栽培法を学び帰村した。このとき、熊本県において、「サシ」草という植物を雑草とともに混合して肥料にしている様子を見た。この「サシ」草は稲虫を発生させない成分をもつという。三浦常五郎は、三重郷鷲谷村にこの草があり、当村には稲虫の発生がないことを確めて、大野郡農事会で発表している。

 各郡農事会は農業の進展に寄興することが大きかった。大分県でも、農務上の改良を行うことを趣旨とし、明治十四年(一八八一)大分県農事会を開催することとした。大野郡内山村(三重町)の宇薄惣五郎も三重郷の代表として出席し、穀物の取り入れ・貯蔵の方法、牛馬の改良繁殖・飼養、肥料の効用、虫害駆除法などの意見交換を行った。この会は、また、農事・農村に関する諮問機関でもあり、当年度は山林蕃殖・取締法、力農組合の設立、農事奨励、農家年中行事の実施についての諮問が行われている。

 農事会での情報交換や指導によって、適地適作の試験も行われた。大野郡市場村(三重町)では、明治十五年(一八八二)六月から十一月にかけて、東京・埼玉・山形・栃木・岐阜各府県産の大豆・小豆の栽培試験を行っている。また、農家の収益を増加させるため、特殊作物の栽培も積極的に取り入れられた。明治十一年(一八七八)以降、海岸部一帯に植栽された「米国産琥珀芦粟」を内陸部である大野・直入郡にも栽培しようとする試みも行われた。「琥珀芦粟」は製糖原料とする作物である。三・四年の栽培によって、大豆・粟作よりも、やや、収益が多いとの結論に達しているが、外国貿易や近代工鉱業の発達によって、これらの農事改良も、しだいに変化することになる。

河川漁業 江戸時代には、鮒魚(ふな)・鮎(あゆ)、まれには鮭(さけ)が、わずかに大野川筋と支流の小河川において漁獲されるだけであった。岡藩士嵩地白孝は庶民の食糧源を川魚に求め、岡藩庁からの拝借金と自己資金をもって、肥後国から数百尾の「カマスカ」を購入し、藩内の河川に放流した。このため、明治六年(一八七三)ごろには、直入・大野両郡にこの魚が充満するようになった。大分県庁は「カマスカ」を白孝魚と称するように伝達するとともに、土地に応じて物産繁殖の方途を講じることを奨励した。

 その後、明治十四年(一八八一)十二月、大分県庁は大野郡向野村字龍口に養魚試験場を設け、鮭のふ化を試みることにした。当所は三面絶壁で囲まれ、その半腹から泉が湧いてふ化に最適であったからである。鮭卵は新潟県三面川において採集され、翌十五年(一八八二)二月に向野村養魚試験場に輸送された。二月二十五日にふ化しはじめ三月四日までには、おおよそ、四,九〇〇尾の稚魚を得、四月十五日から十七日までに大野川に放流した。鮭のふ化・養魚に成功した大分県庁は、明治十六年(一八八三)にも、この事業を継続することにした。農務局に申請し、函館県の鮭卵一〇万粒を輸送、三月五日ふ化、同月十六日ふ化終了。四月二十四日から二十六日まで五万六,八六九尾の放流を行った。

 

 注(1)大分県立大分図書館蔵『大分県年報明治十四年』

  (2)(1)に同じ。

  (3)大分県立大分図書館蔵『大分県勧業報告明治十五年』以下所蔵者名略

  (4)『大分県勧業報告明治十四年』

  (5)大分県史料叢書(四)『県治概略T』明治六年

  (6)「大分県勧業報告明治十四・十五年」

 

 

  三 近代教育の開始

建校資金の寄付 明治五年(一八七二)六月、大分県は「さとしの文」を発布して、教育の必要性を説き、有志の人々から寄付をあおいで、学校を創立することを奨めた。同年八月、政府は「邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」という学制の公布を行って、教育の近代化を図ることにした。明治五年当時の寄付は不明であるが、明治八年(一八七五)中には、次の人々が学資金の寄付を行っている。

 

 伏野村 吉良琢蔵 衛藤玄寿

 奥畑村 小野市郎 多田源太 三浦保平 広岡初治 佐藤増太

 市場村 麻生円平 

 

また、明治九年(一八七六)の学資金寄付者は次のとおりであった。

 

 内山村 足立今朝五郎外三三名(氏名不詳)

 小坂村 広田静香 井上杏三 伊見 登 宇薄庄平 伊見太郎 佐東健三郎 川野弥四郎 藤田勘九郎 橋本     弥五郎 藤田金三郎 佐藤銀平 後藤源三郎 佐藤初五郎 藤原萩九郎 川野団三郎 森迫弥五郎      森迫治八 藤原時三郎 川野重五郎 桑原武八 桑原泰三 森迫松五郎 柴田善三郎 森竹注連 宇     薄 要 広田治郎

 内田村 伊藤徳太郎 内田兼五郎 深田富三郎 葛原嘉三郎 三浦太三郎 川野幸七 内田友三郎 赤嶺由五     郎 山崎庄作 佐藤孫三郎 伊藤政吉 川野豊五郎 川野磯五郎 渡辺市三郎 佐藤市五郎

 松尾村 佐藤半三郎 首藤玄哲 安藤八重吉 森 栄八 清水喜五郎 生野辰五郎 高野新平 赤嶺寅三郎      阿南孫三郎 阿南甚五郎 赤嶺弟三郎 佐藤伝五郎 阿南鶴吉 川野秀道 

 鷲谷村 小野兵五郎 芦刈喜五郎 安藤茂八 小野三五郎 田淵作平 深田林三郎 深田源四郎 深田寅五郎     深田勝五郎 深田長五郎 三浦鹿五郎 多田与三郎 後藤小三郎 後藤兵三郎 小野萬五郎 赤嶺勝     五郎 小野千代七 藤川兎三郎 小野庄三郎 伊藤喜勢五郎 小並喜八郎 小並房五郎

 内山村 深田与三郎 佐藤定七 田仲儀三郎 田中勝平 清水善七 麻生繁五郎 麻生国五郎 麻生寿平 麻     生駒五郎 麻生土五郎 麻生与一 伊藤萬五郎 武藤喜五郎 小野伝平 長田幸吉 川野寅五郎

 松尾村 首藤源平外三一二名(氏名不詳)

 

氏名記載の分は、金拾円以上の寄付者であるが、氏名不記載の分は、おそらく拾円未満の寄付者であろう。それこそ、「さとしの文」にいう一夕の酒肴を倹約し、四季に一枚の衣裳を省いて寄付金をつくつたのに違いない。明治十六・七年(一八八三.四)にもなお、学資金寄付が継続されている。すなわち、旧下玉田村民は、学資金寄付に当たって、各戸別地租割として拠出している。明治十七年(一八八四)度の学資金は拾円五拾壱銭四厘である。このうち、地方税の返納分が弐円八拾六銭あり、残り七円六拾五銭四厘を六拾名に地租掛としている。この年代の学資金は、建校のための資金というよりは、学校運営資の拠出と考えられる。

各村学校の開校 明治五年(一八七二)、大分県第五大区学区取締中川千叟は学校世話方を指揮して、区内村民に学校開設の必要性を説いた。このとき任命された世話掛は後藤庫太・赤嶺岩三・小野良平・赤嶺左右平らであった。こうした建校の奨励もあって、三重地方には次の学校が創立された。各学校沿革誌に創立年が記載されているが、ここでは文部省に報告されている年次を創立年とする。

 

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 ・学校名 ・位置村名・設立年 ・校舎 ・

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 ・鼓石学校・西畑村 ・明治六年・用務所・

 ・小坂学校・小坂村 ・明治六年・民家・

 ・内田学校・内田村 ・明治六年・不詳・

 ・内山学校・内山村 ・明治六年・新築・

 ・三重学校・市場村 ・明治六年・旧官舎・

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 つづいて翌七年には次の一〇校を加えることになる。このうち、小津留学校は一〇名の生徒数であったが、明治八年(一八七五)には廃止されている。

 

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 ・学 校 名・位置村名・設立年 ・校舎・・学 校 名・位置村名・設立年 ・校舎・

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 ・芦刈学校 ・芦刈村 ・明治七年・新築・・小津留学校・小津留村・明治七年・不詳・

 ・宇対瀬学校・浅瀬村 ・明治七年・寺院・・伏野学校 ・伏野村 ・明治七年・民家・

 ・百枝学校 ・百枝村 ・明治七年・寺院・・代学校  ・奥畑村 ・明治七年・民家・

 ・鷲谷学校 ・鷲谷村 ・明治七年・民家・・久部学校 ・大白谷村・明治七年・民家・

 ・高寺学校 ・本城村 ・明治七年・民家・・因尾学校 ・因尾村 ・明治七年・寺院・

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明治八年(一八七五)には玉田学校が玉田村に新築され、さらに明治九年(一八七六)には久原学校が久田村に新築された。翌明治十年(一八七七)には田原村(上田原)に龍山学校が発足した。文部省年報には掲載されていないが、明治十二年(一八八〇)には、秋葉学校が開校されている。また、松尾学校の開校も明治十年前後とみて差し支えあるまい。明治十一年(一八七八)、久原学校は高寺学校に合併して弥栄学校と改称した。明治十六年(一八八三)には弥栄学校新築、このとき、校名を変更して、久田学校と称した。翌十七年(一八八四)には小田分校が設立された。

教育のようす 大字秋葉羽飛麻生隆所蔵の記録(写真)に「下等小学七級卒業候事」とある。創設期の小学校は下等小学・上等小学の二種類があり、それぞれ四か年の修業年限が定められていた。下等小学を八級に、上等小学も八級に分けているから、一年間二級の進級試験を受験して昇級することになる。写真にみる麻生重五郎は、明治十二年(一八七九)四月に秋葉学校下等小学八級入学、同年十月に下等小学七級進級、明治十三年(一八八〇)四月、下等小学七級卒業となっている。科目は綴字・読方・諳誦・口授・習字・算術で、七級には珠算が授けられた。のちに、これらの教科は読物・問答・書取・算術・習字・復読・口授・体操と変わった。第五級以上の読み物の中には、日本地誌略や小学読本が取り入れられた。明治十五年(一八八二)六月から小学科を初等・中等・高等の三等とし、初・中等科は各三か年、高等科を二か年、計八か年の修業年数に改められた。

 

 注(1)内閣文庫蔵『大分県史料十三』

  (2)大分県教育会『大分県教育五十年史』二八〇頁

  (3)『文部省年報』明治七年

  (4)『前掲書』明治九年

  (5)『前掲書』明治十年

  (6)麻生隆蔵記録

  (7)『三重町誌沿革編』一五七頁

 

  四 神社の統合

氏子の設定 明治政府は王政復古・祭政一致を宣言し、律令制の官制である神祇官を復活し、全国の神社・神職を神祇官に付属させた。臼杵県では、明治四年(一八七一)管轄内の神社の社格を決定し、体系化の一歩をふみ出した。このときの史料を揚げると、

 

 一郷社・村社之名目相立、郷社ハ郷中之鎮守、村社者村之鎮守与致候事

 一左之神社ヲ以、郷社与相定候間、余之数社者不残、村社与相心得可申事

    郷社

 臼杵村   八坂神社   井 村  三嶋神社

 丹生原村  衣通姫神社  横瀬村  林神社

 吉野宮尾村 高尾神社   川床村  熊野神社

 寺小路村  八幡神社   下赤嶺村 八幡神社

 

これらの郷社は各郷の鎮守の役割とともに、戸籍事務を取り扱うことになった。したがって、下赤嶺村八幡神社神事掛であった三浦義孟・神田種嗣・土谷清宗が戸籍事務を執行する。村民各人は所属神社の氏子として、壬申戸籍に記載された。

神社の統合 明治九年(一八七六)六月、大分県は神社制度の統一を図り、社格に応じて神社の規模を定める告諭を発した。これによると、

 

 郷社      神殿三坪以上   拝殿十坪以上

 村社      神殿壱坪以上   拝殿六坪以上

 村社ニ非ザル社 神殿三尺四面以上 拝殿三坪以上

 

とされ、郷社・村社・無格社の格付けと規模が示されている。また、郷・村社はもちろん、無格社であっても、神・拝殿とも桧皮・粉銅・瓦葺にすること、小社に至るまで鳥居を必ず建てることが規定された。加えて、一か月六度以上の清掃日が決められ、村民の負担が大きくなった。同年八月には「修繕ハ勿論、祭典且掃除等ニ至ル迄不行届・不敬ニ相成奉恐入候」という理由のひな形を付した神社合併願を布達し、神社の統合を図った。三重町内の神社の大部分は、明治十年(一八七七)三月に合併され、現在の神社が成立した。

紀元節の開始 紀元節とは、第一代の天皇である神武天皇が即位(天皇の位につく)した日を祝う儀式をいう。この儀式は、はじめから紀元節と呼ばれていたのではない。下玉組大庄屋の留書(明治四年)に、

 

 神武天皇御祭典海内一同遵行被仰出候ニ付遥拝式左之通相心得可申事

       辛未三月          神祇官

 

とあり、遥拝式と呼ばれていた。この遥拝式は、地方では、郷村氏神の神職が司り、氏子の者に神武天皇創業の地である大和の方へ向かって遥拝させるという儀式であった。神祇官からのこの通達には、もう時間もないことであるから、明治四年の場合は吉日を選んで実施すること、明治五年からは三月十一日に遥拝式を執行することと述べてる。紀元節と唱えるようになったのは、明治六年(一八七三)二月からであった。もちろん、神武天皇が非実在の人物であることは、歴史学の研究によって明らかにされている。この神武天皇を実在の皇祖とし、その肖像すら描かれているが、その容ぼうは、明治天皇に範をとったものである。明治初期のころには、版画による神武天皇像が制作され、この掛絵が領布されて、遥拝式のおりに礼拝されたのであろう。この想像上の神武天皇の肖像が明治天皇に似た肖像に変化する根底に、国家主義体制を固めていく明治政府の政治理念をみることができる。

 

 注(1)大分県立大分図書館蔵「旧藩事蹟調 臼杵県」

  (2)大分県地方史研究会『県治概略V』明治九年

 

                                                  

驍ェ、その容ぼうは、明治天皇に範をとったものである。明治初期のころには、版画による神武天皇像が制作され、この掛絵が領布されて、遥拝式のおりに礼拝されたのであろう。この想像上の神武天皇の肖像が明治天皇に似た肖像に変化する根底に、国家主義体制を固めていく明治政府の政治理念をみることができる。

 

 注(1)大分県立大分図書館蔵「旧藩事蹟調 臼杵県」

  (2)大分県地方史研究会『県治概略V』明治九年