第一章 三重町の先史・原史時代

 

    第一節 旧石器時代

 

  一 旧石器時代の自然環境

 人類が地球上に姿を現わした約二百万年前から約一万年前までの長い期間を考古学では旧石器時代と呼んでいる。この時代は地質学上の洪積世に当たり、ドナウ氷期をはじめ、汎世界的にギュンツ・ミンデル・リス・ヴィルムという四〜五回の氷河期と、その間の温かい間氷期とが繰り返された悠久な寒暖のメカニズムの中で把握し得る。

 我が国の旧石器時代は約一万〜三万年前程度の後期旧石器時代に属する遺跡が豊富であり、三万年前以前の中期・前期旧石器時代の様相は石器の認定や時期決定の層位学的な裏付け等が希薄であり、明確な位置づけはなお流動的であるといえる。

 後期旧石器時代はナイフ形石器と細石器文化で象徴されている。この時代は最後の氷河期であるヴィルム氷期の後期に相当し、高緯度大陸を中心に厚い氷床が形成されるため、海水面が現代より百数十b以上も下降し、日本海が北と南に陸橋を持つ湖状を呈していた頃と考えられている。

大型獣であるマンモス象やヘラジカ等のマンモス動物群は北方より、ナウマン象やオオツノジカ等の黄土動物群は朝鮮海峡が陸橋と化していたころ渡来したことが化石骨の発見で立証されている。ヘラジカを除くこれらは、現在、化石骨でしか想像できない絶滅種であるが、遠い昔には人類との深い関わりがあったことは否めない事実である。

 例えば、長野県の野尻湖底遺跡ではナイフ形石器を包含する層より、ナウマン象の弓なりの牙とオオツノジカのカエデのような巨大な角が同地点で検出されており、「月」と「星」として愛称されている。

 また、県内でも大野郡犬飼町の宇津尾木川左岸でオオツノジカの右下顎骨が発見され、大分県教育委員会によって発掘調査されている。一方、大野郡大野町の代ノ原遺跡ではナウマン象の化石骨が発掘されており、調査を担当した岡山大学の稲田孝司助教授は象の骨に人工による加工痕の存在を指摘している。このナウマン象の化石は鹿児島大学の大塚裕之教授の鑑定で約一万六〇〇〇年前という数値が示されている。

 また、このナウマン象が検出された土層中よりヒメバラモミ等の植物遺体が検出されており、当時の植生の様相を復元する上でも興味深い資料となるのである。

後期旧石器時代における気候の寒冷化は当然植生環境にも多大な影響を及ぼしたことはいうまでもない。環境生態学や花粉分析学を駆使して、旧石器時代の古環境の復元が試みられているが、これによれば、当時の植生態区は現在の生態区を一地域づつ南下した位置に想定できる様子である。つまり、現在西日本を覆う照葉樹林帯は屋久島・種子島辺りへ後退し、西日本は落葉広葉樹林帯に、東日本の落葉広葉樹林帯は針葉樹林帯へという具合いにである(第1図)。

 このことは年平均気温が現在より五〜八度程低かったことを示しており、三重町一帯ではブナ林に代表される冷温帯落葉広葉樹林に覆われていたと想像しても大過ない。

 先の大野町代ノ原遺跡で発見されたヒメバラモミとナウマン象をはじめ犬飼町のオオツノジカ等は、旧石器時代の植生と動物相を象徴するものであり、三重町一帯にも同様な自然景観を想定できるのである。

 

 注(1)野尻湖発掘調査団『野尻湖発掘』共立出版 一九七五

  (2)しかし、稲田孝司氏は「縄文文化の形成」『岩波講座日本考古学 6』で、C14年代を示し、約三万     数千年前頃の所産と考えている。

  (3)安田喜憲『環境考古学事始』日本放送出版協会 一九八〇

 

  二 前期旧石器時代の可能性

昭和二十四年、群馬県笠懸村の岩宿で赤色ローム層中より、数片の石器類が納豆売りの考古学青年相沢忠洋によって発見された。我が国における旧石器文化の発見である。赤土中に文化層はないとする考古学者の常識という壁がいったん破られ問い直されるや、全国各地で同様な発見例が急増していった。しかし現在、これらは約三万年以降に属する後期旧石器の所産で占められており、それ以前の前期旧石器とみなされる資料は貧弱であり、石器群には常に異論も提出されている。我が国の人類の始源は未だ謎である。

 昭和四十年ごろ、大分市丹生遺跡や日出町早水台遺跡を舞台として前期旧石器論争が展開された。自然礫に簡単な粗い加工を施した礫核石器類(チョッパー・チョッピングツール等)の出土層位、石材、石器製作技術、石器形態等をめぐっての、ヨーロッパ・アジア地域の前期旧石器との比較検討である。丹生出土の礫核石器群は剥離面の風化変質が顕著であり、石器形態はジャワのパヂタン文化の前期旧石器に酷似し、早水台の石器は中国周口店文化に特徴的な石英脈岩や石英粗面岩を石材とし、石器製作技術の面でも対比できるとするものである。両遺跡はミンデル・リス間氷期という十数万年前に位置付けし得るという衝撃的な見解であった。しかし、前者は石器出土の層位が地質学的な立場で不明瞭であり、後者は角礫層中より検出された石器群が人工品として認定し得るかどうかという問題点もはらんでおり、前期旧石器文化の存否の結論は未だに保留されている現状である。

 さて、三重町内でも最近、前期旧石器の可能性が残る石器が確認されている。上下田遺跡である。上下田遺跡は大字川辺に所在し、眼下に大野川を望む河岸段丘の縁辺部に展開している。上層は細石器文化を主体とする遺跡であるが、最下層の凝灰岩風化土層中に安山岩製の石核、尖頭状礫器(第2図)、剥片等がブロックで検出され、各々接合している。阿蘇溶結凝灰岩は放射性炭素の年代測定で約五〜七万年前の噴出とみなされているもので、これの直上風化土層は当該時期に近い数値とみなしてよい。しかし一方、凝灰岩堆積後の段丘形成や縁辺部の土類の流落等を考慮すると、単純に時期決定することもできず、前期旧石器の可能性ある石器群としておくのが妥当である。

 

 注(1)相沢忠洋『岩宿の発見』講談社 一九六九

  (2)財団法人古代学協会編「大分県丹生遺跡発掘調査概報 総括編」昭和四十三年

  (3)芹沢長介「大分県早水台における前期旧石器の研究」『日本文化研究所研究報告』第一集 昭和四十     年

  (4)最近、宮城県の座散乱木遺跡や馬場壇遺跡より、二十数万年前頃に比定し得る石器群が検出されてい     る。

  (5)橘昌信編『大分県上下田遺跡第2次発掘調査報告書』別府大学付属博物館 一九八三

 

  三 後期旧石器時代の普遍性

百枝遺跡とナイフ形石器の文化 後期旧石器時代はナイフ形石器文化(約一万四〇〇〇年前〜三万年前)と細石器文化(約一万年前〜一万四〇〇〇年前)とに大別できる。三重町では幸いにも百枝遺跡と上下田遺跡で両者を代表する遺跡の発掘調査が実施され、精緻な分析結果が報告書として刊行されている。ここでは発掘調査成果を中心に両文化の特色について言及してみる。

 ナイフ形石器文化は後期旧石器を象徴する極めて普遍性に富む特徴的な石器である。ナイフ形石器は形態上の分類であり、機能面では切る道具か槍先の刺突具かは未分化の様相を呈する。石器の特徴は縦長及び横長の剥片を素材とし、鋭利な剥片部を刃部として利用するもので、他の縁辺部には急角度の連続刃潰し加工(ブランティング)を施した石器である。一般的にナイフ形石器は刃潰し加工が施される部分によって、二側辺加工、一側辺加工、基部加工、部分加工の石器等に細分できる。

このような形態の相違は時代性や地域性及び石器素材に伴う加工技術や機能差等のバリエーションを示唆していると考えてよい。しかし、普遍性に富むナイフ形石器にもかかわらず、機能論をはじめ、ナイフの出自や変遷過程等も十分に把握されていないのが現状である。

 このような中で、三重町百枝遺跡はナイフ形石器の変遷や文化層の推移を検討する上で極めて重要な指針を提供した希有な遺跡である。

 三重町立百枝小学校の敷地内に所在する百枝遺跡の発掘調査は、小学校施設の増改築に伴い昭和五十年(A地区)、昭和五十七年(B地区)、昭和五十九年(C地区)に行われた(第3図)。調査地点は大野川の中位段丘の縁辺部に相当し、発掘面積は総計九〇〇平方bに及ぶものであった。旧河床を示す段丘礫層上には約三bに及ぶ火山灰が堆積し、表土下約一.五b程度の地点を中心に集石遺構を伴う数枚のナイフ形石器の文化層を検出している。

 旧石器時代の遺物の時期決定や相対的な先後関係は地質学上の層位を基準としてなされる。幸いにも、百枝遺跡では文化層間に広域火山灰である鹿児島県の姶良・丹沢パミス(AT層)が検出されており、これは放射性炭素の年代測定では今から約二万一千年前と推察されることから、編年上の指標となっている。また、百枝遺跡ではAT層より下層位に肉眼識別の容易な黒色帯が存在しており、これを鍵層として遺跡相互の相対的な対比も可能となるのである。

 さて、百枝遺跡の中で報告書の出されたC地区の水平分布(第4図)と垂直分布(第5図)を瞥見すると、無数に出土した遺物は接合関係によって大きく二つのブロックに整理できる。これを垂直分布に投影すると、両ブロックには出土地点の標高に微妙な先後関係が認識できる。これを土層の変化や集石遺構の出土層位で総合的に判断し、文化層として把握すると大きく三つの文化層として認識し得る。

 各文化層には石器素材や石器製作技術・石器形態・石器組成に極めて特徴的な相違があり、石器群の様相を編年的に捉える好条件を具備しているのである。

 第6図は各文化層を代表する石器群である。文化層別に簡単な特徴について記述する。

第V文化層(第6図17〜24) 第Y層(黒色帯)の上面で二号集石遺構を伴出するナイフ形石器の文化層である。ナイフは第6図で明瞭なように、二側辺加工を施す「九州型ナイフ」と呼ばれる一群(第6図17〜19)と剥片を斜め切断する部分加工の特徴的な一群(第6図21〜23)を主体とする。これらは全て流紋岩の縦長剥片を素材としており、石核と剥片類との接合(第7図1、2)関係は縦長剥片の剥離技術を雄弁に物語るとともに、石器製作に使用された敲石類は二個単位で検出されており(第4図、第8図2〜4)、製作時の様相を反映している。本文化層は百枝C地区の中では一番古く位置付けられ、約二万五〇〇〇年前後の所産と推察される。

第U文化層(第6図6〜16) 第W層下部からX層上面に一号集石遺構を持ち、二号集石とは約四五ab程度のレベル差がある。第U文化層は石器素材がバラエティに富み、大野川流域に一般的な流紋岩にチャートや微晶質石英、姫島産黒曜石等も加わる。また、石器組成も豊富になり、ナイフ形石器に台形様石器、周縁加工尖頭器、三稜尖頭器、剥片尖頭器等が包括され、機能文化が明瞭に捉えられる。

 特にナイフ形石器は横長剥片を素材とし、一側辺全部と相対する一辺の一部に加工を施す一群であり、第U文化層を象徴する石器といえる。第U文化層の石器群は大部分が横長剥片剥離技法で製作された特徴的な一群である。分厚い剥片を石核とし、剥片の両側辺を各々交互に加撃して横長の剥片を量産する技法であり(第7図3)、瀬戸内地方の「櫃石島技法」といわれる横長剥片剥離技術に酷似している。この文化層は、絶対年代を示すAT層(約二万一〇〇〇年前)と微妙な関係にあり、約二万〜二万二〇〇〇年前後の時期が推定できる。

第T文化層(第六図1〜5) 極めて希薄であり、集石遺構等も認められず、積極的資料に欠ける。遺物は第V文化層に特徴的な縦長剥片が再び主体となる。しかし、石器形態は全体的に細味の二側辺加工のナイフ形石器であり、切出形ナイフや三面加工の三稜尖頭器等も出土している。

 以上のように、第T文化層は問題が残るとしても、第V文化層→第U文化層への石器群の変遷は明確であり、素材としては縦長剥片→横長剥片への推移である。このことは石器製作技術の相違を端的に示すものであり、それによって生まれる石器形態や石器組成等は九州地方の石器群の編年研究をする上で、閑却し得ない標式的な資料となり得るのである。

三重町では百枝遺跡の外に中玉田遺跡や惣田遺跡等でも当該期のナイフ形石器等が表採されている。また、その他の十数か所の遺跡で旧石器時代の剥片類も検出されているが、発掘調査はなされておらず文化内容を把握するまでには至っていない。

集石遺構の機能と石皿・磨石 百枝遺跡をはじめ、ナイフ形石器文化の段階で拳大の円礫を数十個集積した遺構が普遍的に検出されている(第9図)。これは集石遺構や礫群と呼ばれ、平面形態は単に円礫を集積した円形状を呈するが、基底部には浅い土坑や配石等は認められない。この集石は厳密な意味では用途が今一つ不明瞭な点が多い。しかし、構成礫を子細に検討すると、拳大礫の表面は赤く変色しているものが多く、中にはススやタール状の黒光する炭化物が付着した礫も存在している。そして、遺構内には微細な炭化物の集中も検出されている。この様相は礫群を加熱した結果として生じる現象であり、集石遺構の機能を分析する重要な手がかりとなっている。

 また、集石を構成する礫には加熱に起因する破砕礫も多く、集石内や周辺の飛散礫とも相互に接合することが可能である。このことは加熱した礫を何度も繰り返し使用した結果を示唆しているといえよう。

 つまり、一定の場所で加熱した拳大の礫群を何度も使用し、これが遺跡に普遍的に認められることは日常生活での必要性を雄弁に語っており、焼石を駆使した調理用の施設と推量できそうである。焼石を使用する場合、現在でもミクロネシアやポリネシア等の南洋諸島で用なわれている石蒸料理としてのアース・オーブン方法や水を張った容器に焼石を投入して煮沸するストーン・ボイリング方法を想起できる。土器という煮沸用の容器がない旧石器時代において、拳大の焼石を利用した特異な調理方法が存在していたことは注目される。

 では、植物質食料等の残滓が皆無である旧石器時代には、どのような物を主食としていたのであろうか。石器しか残存しない旧石器時代の中で狩猟用の道具類が大勢を占めるが、当時の食制が肉食中心の文化であると考えることには諸手をあげて賛成しかねるのである。

 百枝遺跡では植物質食料の加工と関係深い石皿と磨石等が検出されている(第10図)。これらは百枝B地区で出土したものである。石皿や磨石は縄文時代の場合、堅果類や根茎類等の粉食用の加工具とみなされている遺物であり、旧石器時代にも同じような使用がされたことは推測に難くない。しかし現在では、植物質食料の加工具とみなし得る敲石や磨石等の検出例は類例があるが、これとセットで使用する石皿等は皆無に近く、我が国でも千葉県と静岡県に各一例を数えるだけに過ぎない。そういう意味で百枝出土の石皿は極めて重要で希有な石器であり、その使用法が留意されるのである。

 

注(1)清水宗昭・栗田勝弘編『百枝遺跡C地区』三重町教育委員会 一九八五

    橘昌信編「大分県上下田遺跡」別府大学付属博物館 一九八一

 (2)(1)に同じ

 (3)町田洋・新井房夫「広域に分布する火山灰」―姶良Th火山灰の発見とその意義― 『科学』46 一九     七六

 (4)間壁葭子「香川県坂出市櫃石島採集の石器」『倉敷考古館研究集報 4』 一九六八

 (5)栗焼憲児・土居和幸「大野郡三重町中玉田遺跡採集の資料について」『大野川旧石器時代資料集』      一九八二

 (6)玉永光洋編「惣田遺跡」『三重地区遺跡群発掘調査概要』三重町教育委員会 一九八三

 (7)橘昌信編「大分県旧石器時代遺跡分布図」別府大学付属博物館

 (8)黒坪一樹「日本先土器時代における敲石の研究」―植物食利用に関する一試論― 古代文化第36巻

     第3号 一九八四

 

  四 細石器文化について

 細石器文化は旧石器時代の終末期に北方ユーラシア大陸を中心に普遍的に展開した特異な文化である。

 細石器は細石核とこれから剥離された細石刃で象徴される。細石刃とは長さ約二〜三ab、幅約〇.二〜〇.五ab程度でカミソリの刃のように薄く細かい石器であり、単独では利用不可能な石器である。細石核から数多く作り出された細石刃は、木や骨等の棒状のシャフトに溝を彫って多数埋め込み、組み合わせて使用するものである。デンマークの遺跡からは木製のシャフトに細石刃を装着した槍が数多く出土している。細石刃の固定は天然アスファルトや松ヤニが利用されている。

 一見、極めて非能率的で脆弱な感じのする組合せ道具であるが、小さな石核から数多くの細石刃を量産でき、シャフトに装着した細石刃は破損した部分に限って交換できるという利点もあり、考え方によっては合理性に富むものである。カッターナイフの刃は切れなくなると先端から折り取って使用し、カミソリの刃は交換できるように作られているが、構造上の効果はこれと同じである。

 西九州地方における細石器文化を見ると、細石核の剥離技術の相違で「野岳型細石核」→「福井型細石核」へと編年的に整理できる。

 細石核の形態は細石刃剥離の進行度により相違するが、一般的に野岳型は上から見ると打面調整痕を残し、正面、側面とも細石刃作業面が認められるもので、外観は円錐形や半円錐形となるものが多い。また、福井型は両側面に鱗状剥離痕を残す両面加工品が石核素材として用いられる。上面は打面調整痕を残し、細石刃作業は小口面に限定されるため外観は船底形を呈する。このような西九州地方の細石器は佐賀県腰岳産や長崎地方等で産出する良質な黒曜石製が多い。

 一方、東九州地方の中でも大野川の上・中流域では転礫である流紋岩を素材とし、打面調整を施さない「船野型細石核」の卓越する地域である。

 三重町では前述した百枝遺跡をはじめ、川辺地区の上下田遺跡でも多数の細石刃、細石核が発掘調査で検出されている(第11図)。上下田遺跡は大野川右岸の河岸段丘の縁辺部に位置しており、石器類の検出土層は表土下約一bのソフトロームからハードロームにかけての位置である。石材は大野川の転礫である流紋岩を素材とし、上述した船野型細石核(第11図1、2)と細石刃(第11図5〜28)で象徴されている。船野型細石核に伴出して野岳型細石核(第11図3、4)も散見でき、両者の微妙な関係を暗示している。

細石刃は剥離したものをそのまま利用したものは少なく、二分割や三分割されたものが多い。二分割は細石刃末端の緩く曲がった尾部を切断し(第11図8〜14)、三分割は頭部の打瘤痕も取り除いたものである(第11図15〜21)。これは細石刃の直線部を組み合わせ道具として利用したことを物語っている。伴出した彫器(第11図31〜32)は木や骨製のシャフトに溝を彫るための工具であろうか。この外に共伴する遺物としては、尖頭器(第11図29、30)・削器・掻器・敲石類であるが量的には少ない。

 さて、細石器文化の最終末には、九州地方では細石刃・細石核に伴出して土器が発見されている。長崎県福井洞穴では細隆起線文や爪形文土器に細石器が共伴し、放射性炭素の測定で約一万二〇〇〇年前後に比定されている。

 また、同泉福寺洞穴では最古の土器と考えられる豆粒文土器が同様な状態で検出されている。これらに伴出した細石核はいずれも舟底状を呈する福井型細石核である。県内でも荻町政所馬渡で福井型細石核に無文土器が共伴し、旧石器時代から縄文時代早期に至る過渡期的な草創期の様相が判明しつつある。三重町の上下田遺跡での細石器文化は土器を伴わない船野型細石核であり、三重町の遺跡では縄文草創期との過渡期的な様相は明瞭ではない。

 

注(1)鈴木忠司「野岳遺跡の細石核と西南日本における細石刃文化」『古代文化』23―8 一九七一

 (2)鎌木義昌・芹沢長介「長崎県福井岩陰第一次発掘調査の概報」『考古学集刊』3巻1号 一九六五

 (3)橘昌信「宮崎県船野遺跡における細石器文化」『考古学論叢』3 一九七五

 (4)橘昌信編『大分県上下田遺跡第2次発掘調査報告書』別府大学付属博物館 一九八三

     橘昌信編「大分県上下田遺跡」別府大学付属博物館 一九八一

 (5)注(2)に同じ

  (6)麻生優・白石浩之「泉福寺洞穴の第六次調査」『考古学ジャーナル』一一六号 一九七五

  (7)賀川光夫他『政所馬渡』別府大学付属博物館 一九八二

 

 

    第二節 縄文時代

 

  一 縄文時代の自然環境

 地質学上の洪積世から沖積世への推移は氷河時代の終りと後氷期への移向を意味する。

 縄文時代は今から約一万年前から二三〇〇年前までの約八〇〇〇年間を指すが、土器型式に象徴される文化内容の相違で早期(約六五〇〇〜一万年前)、前期(約五〇〇〇〜六五〇〇年前)、中期(約四〇〇〇〜五〇〇〇年前)、後期(約三〇〇〇〜四〇〇〇年前)、晩期(二三〇〇〜三〇〇〇年前)に大別できる。

 後氷期における温暖化の傾向は、縄文前期に汎世界的なピーク期を形成し、大陸氷床の漸次的な溶解の結果、現在よりかなり内陸部に海岸線を想定できる。例えば、大分市の横尾貝塚は縄文前期〜中期の所産であり、現海岸線よりも七==も内陸部に遺存している。また、同小池原貝塚や周防灘沿岸部の貝塚は縄文後期頃の所産であるが、約四〜五==も内部に構築された例が多い。これは河川の沖積作用等も考慮する必要があるが、縄文海進期の有様を推測するには十分であろう。つまり、当時は年平均気温は現在より平均二度程度高かったと推察できるのである。

 また、気温の上昇は植生環境にも影響を与えたと推察される。現在の日本列島の植生圏は西日本を照葉樹林、北海道の一部を除く東日本は落葉広葉樹林に被覆されているが、花粉分析学によると、これらの基盤は縄文前期頃に形成されたものと推測しても大過ない。

 なぜならば、現在の植物生態区に寒暖指数図を重ね合わせた地図で括られる範囲が、縄文時代の前・中期の土器分布圏とほぼ一致するという傾向が認められるからである。名古屋大学の渡辺誠助教授はこの現象を、縄文人の生活が自然環境に生態学的な適応をとげた結果だと考えている(第12図)。

 一方、縄文前期〜中期にかけては火山活動の影響も見過ごし難い。南九州の海底火山である鬼界カルデラの噴出物はアカホヤと呼ばれる黄粉のような火山灰である。南九州では厚く、大野川流域の三重町一帯でも一〇〜三〇abも堆積している。一部は東北地方の南部まで分布する広域火山灰であり、縄文時代の植生に与えた影響ははかり知れないものがあったであろう。また、肉眼的に識別が容易で、放射性炭素の測定結果が約六三〇〇年前と判明したアカホヤは、縄文時代の文化層の相対的な先後関係と絶対年代を決定する鍵層としても重要である。

 一方、東九州地方では阿蘇山の噴火活動と偏西風による火山灰の影響で縄文前期〜中期の遺跡の僅少さを説明しようとする考え方もある。いずれにしても、自然現象が縄文人に与えた影響は予想以上のものがあり、環境に適応していく叡知が縄文文化を醸成する原動力になると考えることもできるのである。

 

 注(1)賀川光夫他「小池原貝塚・横尾貝塚・野間古墳群」『大分県文化財調査報告』第一三輯 大分県教育     委員会

  (2)注(1)に同じ

  (3)小林国夫「日本第四紀の自然・植物」『日本考古学』1 一九六五

  (4)渡辺誠「縄文前期文化・東日本」『新版考古学講座』3 一九六九

  (5)賀川光夫『大分県の考古学』 一九七一

 

  二 縄文早期文化の様相

押型文土器の変遷と特徴 細石器文化の最終末に萌芽した土器は豆粒文==細隆起線文==爪形文==無文・条痕文土器と漂泊しつつ、縄文早期を象徴する押型文土器へと変遷する。押型文土器は約七〇〇〇〜八〇〇〇年前に西日本一帯に普遍的に出土する特徴的な土器である。形態はトンガリ帽子のような尖底であり、土器を据える場合は地面を掘るか支脚を必要とする不安定な土器である。

 押型文土器とは長さ約三abで小指の太さ程度の棒状土具に山形文や楕円文を刻み、これを生乾きの器表面に回転施文した土器である。

 押型文土器の出自を探ると近畿〜中部山岳地帯へたどれる。この時代は約八〇〇〇年前と考えられ、氷期の影響で瀬戸内海の沿岸がまだ沖の方に形成されていた頃である。瀬戸内海に浮かぶ島には淡水産の貝塚が残された黄島貝塚等が発見されており、押型文を携えた早期人は現在海底の部分が陸地であった頃に渡ってきたと推量されるのである。

 東九州地方に伝播した押型文文化は、その後、独特な変化・発展をとげ、数千年も継続する早期文化の主役を演じる。東九州地方の押型文土器の編年的研究は日出町の早水台遺跡の発掘によって先鞭がつけられ、朝地町の田村遺跡、山香町の川原田洞穴、杵築市稲荷山遺跡等の発掘調査によってその大綱が構築されている。その編年は川原田式==稲荷山式==早水台式==田村式==ヤトコロ式==手向山式という変遷である。この流れは土器の形態では直行口縁==外反口縁、尖底==平底へという変化であり、文様では精緻な押型文==粗大な押型文へ、横走施文==縦走施文へという推移である。また、押型文に伴出する無文土器も編年の推移のメルクマールになり、無文土器の量が多量==少量へという変化が指摘できる。

 一方、押型文土器の編年と分布の関係をみると、東九州を中心に古い時代の押型文が主要分布し、新しい一群は県境付近から西、南へかけて主体的に分布域を形成している。つまり、東九州地方を中心に同心円状に分布の拡散が指摘できるのである。

 そういう様相を念頭に置いて三重町出土の遺物群を瞥見してみる。三重町出土の押型文土器は鬼塚遺跡、横田遺跡、三国峠山頂、大サギ遺跡等から表面採集されている(第13図)。

 1〜6は横走山形押型文土器群である。口縁部である1〜3は内面にも横走押型文を一条施し、原体条痕文を施文する。7〜11は間延びした山形文を縦走する胴部片である。

 また、12〜17は粗大な楕円文を縦走する一群である。12の口縁部は大きく外反し復元すると約二六abを測り、内面には横走山形文を併用している。前述例は横走山形文の一部を除くといずれも押型文土器群の中では、田村式〜ヤトコロ式等の新しい部類に属する一群とみなし得る。

 一方、18〜25は大きく外反する口縁部に屈曲胴部を持つ手向山式土器の一群である。文様要素は間延びした粗大な山形文や縄文、沈線文、隆帯文、烈点文が併用された特徴的な一群であり、押型文土器群の中では最も新しいものと考えられている。

 以上のように、三重町で発見された押型文はいずれも粗大な山形文や楕円文が縦走する例が多く、併出する無文土器等も皆無に近い様相が顕著であった。これなどは縄文早期の後半頃に比定し得る一群である。つまり三重町が県境付近に主体を持つ押型文の新しい一群の分布する範囲に属することを意味している。

集石炉を駆使する文化 三重町内で早期押型文土器を出土する遺跡を踏査すると、例外なく赤く焼けた拳大の角礫や円礫を発見することができる。これなどは本来、集石炉を構成した焼石が後世の撹乱で散乱した状況を示唆している。

 集石炉は野津町新生遺跡で顕著なように、基本的には炉跡の状態で次の三つに分類できる。T類は浅い皿状土坑に人頭大の礫を花弁状に配し、その上に赤変した角礫が多数集積するもの。U類は皿状土坑に拳大の角礫が集積するもの。V類は拳大〜人頭大の礫が雑然と集積するもの。という分類である。これなどの基本類型は機能差とみられなくもないが、押型文を共伴した集石炉の形態を比較すると、T類==V類へという時間的な変遷を示唆する様子である(第14図)。

 このような集石炉の機能は構成礫の状態を分析することでおよその判断がつく訳である。構成礫は加熱に起因する赤化現象が顕著であり、礫表面や割口にはススやタール状の炭化物が付着するものが大半である。集石遺構の下部土坑には炭化物や焼土等が遺存する例もあり、機能上は旧石器時代の集石炉と大同小異と考えてもよい。集石遺構の機能や用途を考えると、構成礫が相互に接合することや、礫の割口にも炭化物が付着し、皿状土坑と集石遺構との間には間層を持つこと等は、焼石を使用に際して何度も出し入れした結果生じる現象であり、焼石を利用した調理用の施設であることは明瞭である。

 野津町新生遺跡では集石炉が一二基検出されているが、集石炉の配置と早期遺物の分布範囲とは微妙なずれがあり、遺物集中域を住居跡の残影とみなせば集石炉は屋外炉であることが検証されている(第15図)。また、集石炉の機能にアプローチする手段として、土器口径の分化及び土器表面の炭化物付着率との有機的な関係に着目してみると、興味深い推論が導き出されるのである。つまり、これは早期土器群が有文・無文に分化し、土器口径がオーバーラップしながら一五ab前後の小型、二〇ab前後の中型、三〇ab前後の大型、五〇ab前後の超大型に四分化され、機能分化が示唆されるにもかかわらず、土器表面の炭化物付着は数lと僅少であり、その上、有文・無文の炭化物付着に有効偏差が認め難いとするものである。すなわち、このことは土器と直火煮沸との関係に疑問を抱かせるもので、集石炉の機能に蒸焼施設としてのアース・オーブン法だけでなく、土器に焼石を投入するストーンボイリング法との有機的な関係も認めざるを得ないのである。いずれにしても、縄文早期には旧石器時代と同じような焼石を使用した特異な調理法が普遍化していたことは事実である。早期以降、集石炉は住居内に施設される定型炉へと発展・解消し、縄文前期には土器を用いた直火煮沸法が一般化してくるのである。

 

 注(1)鎌木義昌「備前黄島貝塚の研究」『吉備考古』七七号 一九四九

  (2)八幡一郎・賀川光夫「早水台」『大分県文化財調査報告』第三輯

  (3)賀川光夫・羽田野一郎『大分県大野郡朝地町田村遺跡調査報告』朝地町教育委員会 一九六〇

  (4)岩尾松美・酒匂義明「大分県速見郡山香町大字広瀬川原田洞穴の調査」『大分県地方史』第三四号

     一九六四

  (5)橘昌信他「稲荷山遺跡緊急発掘調査」『大分県文化財調査報告』第二〇・二一輯 大分県教育委員会

     昭和四十五年

  (6)栗田勝弘「新生遺跡」『野津川流域の遺跡X』野津町教育委員会 一九八四

  (7)栗田勝弘「東九州における縄文早期集石炉の変遷」『平草遺跡』所収 一九八二

 

  三 縄文前期の丸底土器群

 縄文前期文化を代表する土器は、熊本県轟貝塚出土の轟式土器と同曽畑貝塚出土の曽畑式土器である。土器の形態は両者とも丸底を持つ単純なものが多い。轟式土器は貝殻条痕文を横・斜めに施し、これを地文として粘土紐を口縁部や胴部に横走・縦走させるもので隆起線文土器と呼ばれている。この土器は九州地方全域から一部山陰、四国地方まで分布圏を広げ、一部は朝鮮半島の端部まで検出されている。

 轟式土器は文様構成によって轟A〜D式に細分されている。轟A式は尖底を呈し、条痕文を幾何学的に縦・斜めに配するもの。轟B式は条痕地に隆起線文を施すもの。轟C式は刺突文と曲線文を併用するもの。轟D式は半切竹管文を意匠化するものである。三重町の横田遺跡では轟B式に分類できる土器が表面採集されている(第16図1、2)。轟B式土器には口縁部に隆起線文を縦に施し、屈曲胴部に細線文や刻目隆起線文を集約させて、平底を呈する一群や単純な丸底の深鉢形土器の口縁部と胴部に平行した隆起線文を施す一群等が存在する。

 一方、曽畑式土器は単純な丸底を呈する深鉢であり、土器の胎土に滑石を混入し、赤褐色に焼成した上質の土器であり、文様は幾何学的な短直線(櫛目文)や刺突文を施文する。この一群は西北九州から南の方へ分布域があり、東九州地方は希薄である。三重町からも真正な曽畑式土器は発見されていないが、重政遺跡からは曽畑式に伴出する土器が一点採集(第16図3)されている。

 曽畑式土器は北方ユーラシアから朝鮮半島へ分布圏を持つ幾何学文や櫛目文と形態や文様要素、胎土等が類似しており、朝鮮半島との文化交流が示唆されている。

 

  (8)松本雅明・富樫卯三郎「轟式土器の編年」『考古学雑誌』第四七巻 第三号 一九六一

  (9)小林久雄「肥後縄紋土器編年の概要」『考古学評論』一〜二 一九三五

  (10)横山将三郎「釜山府絶影島東三洞貝塚報告―縄文式系統の朝鮮大陸との関係―」『史前学雑誌』第五     巻第四号 一九三三

 

  四 在地系土器と瀬戸内文化圏

 縄文時代の中期は汎日本的に小文化圏を形成する様相が認められる。この現象は植生圏や動物相等の自然生態への適応状態を示唆していると言える。しかし、東九州地域では中期に比定される土器の分布が希薄であり、この現象は阿蘇火山灰の降灰によるものという説明がなされているが、積極的な資料分析によるものではない。

 九州地方の中期を象徴する土器は熊本県阿高貝塚出土の阿高式土器である。この土器は平底を呈する深鉢形土器であり、胎土に滑石粉末を混入させたものが多い。文様は雄渾な凹線文を特色とし、短直線文や曲線文を併用施文するものである。阿高式土器は東九州地方にはあまり浸透していない。

 一方、凹線文土器の隆盛期には瀬戸内沿岸地方を中心に斜縄文を全面に施し、爪形文や隆帯文を併用する船元式土器が主要分布している。船元式土器の形態は口縁部を大きく内側に湾曲させたキャリパー状を呈するものが特徴的である。三重町では惣田遺跡の発掘調査で船元式土器が検出されている。第17図1〜4は口縁部の破片であり、5〜7は胴部片である。いずれも縄文地文に爪形文を併用する一群である。8は口径約一八abのキャリパー状を呈する口縁部であり、隆起線文を横・縦に施文している。9は口径三〇ab強の口縁部片である。縄文地の爪形文と内面に二条の爪形文を持つ。10〜12は刻目突帯文と押引文を施文した土器であり、船元式の範疇におさまる一群であろう。

 上述した船元式土器はかつて熊本県の竹崎遺跡出土例を標式として竹崎式土器と呼ばれていたが、この一群は瀬戸内地方を主に分布することから岡山県の船元貝塚出土土器を代表して船元式と呼びならわされている。故前川威洋氏は船元式土器の分布が瀬戸内から東九州一帯に認められることに留意し、東九州を瀬戸内文化圏に属するものと結論付けている。三重町惣田出土の船元式土器は希薄な中期土器群の様相と文化圏のあり方を考慮するうえで重要な位置を占めている。

 

注(1)賀川光夫他「小池原貝塚・横尾貝塚・野間古墳群」『大分県文化財調査報告』第三輯 大分県教育委     員会

  (2)小林久雄「九州の縄文土器」『人類学先史学講座』一一 一九三九

  (3)間壁忠彦他「里木貝塚」『倉敷考古館研究彙報』七号 昭和四十六年

  (4)坂本嘉弘他「惣田遺跡」『三重地区遺跡群発掘調査概要』三重町教育委員会 一九八三

  (5)前川威洋「九州における縄文中期研究の現状」『古代文化』第21巻三・四号 一九六九

 

 

  五 磨消縄文土器の伝播と展開

 縄文時代の後期は汎日本的に磨消縄文土器の隆盛する時代であり、九州地方の縄文後期は磨消縄文の波及で始まる。磨消縄文とは縄文地に沈線で文様を描き、沈線区画外の縄文を磨消することで縄文部と無文部とをコントラストにし、文様効果を高めたものである。曲線を使った渦巻文や入組文は流麗であり、闊達さに富む文様である。

 後期土器は器形や文様部の変化で、後期初頭期の中津式(岡山県)、福田KU式(岡山県)、前葉〜中葉期の小池原式(大分県)、鐘ケ崎式(福岡県)、北久根山式(熊本県)、後葉期の西平式(熊本県)、三万田式(熊本県)、御領式(熊本県)へと変遷する。曲線をモチーフとした磨消縄文は北久根山期までであり、西平〜三万田期は文様部が縮小され直線化する。そして、三万田期の後半には「縄文ころがし技法」は終了し、縄文に代わって細線羽状文や沈線文という簡素な文様が施文される。

三重町の惣田遺跡では後期後半期の遺物が出土している(第18図)。これは長い頚部を持つ波状口線を呈し、胴部球形に誇張された深鉢形土器であり、「く」の字を形成した口縁部と胴部上半には直線化した帯状の磨消縄文が端正に施文されている。これなどは後期後葉の西平期から三万田期に相当するものである。

 さて、縄文後期の初頭期から中葉期にかけては周防灘沿岸や別府湾沿岸に貝塚が形成される。貝塚は当時のゴミ捨て場であり、食料残滓としての貝殻や獣骨、魚骨をはじめ生活用具としての土器、石器の破損したものが集積している。また、貝塚は当時の墓地としても利用されているのである。つまり、酸性土壌中では遺存不可能な有機物でも、カルシウム分の多い貝塚中では残りやすい。したがって、縄文時代の生活や生業を探る上で貝塚は情報の宝庫であり、貝塚の研究は不可欠である。海岸部の遺跡の貝塚形成は縄文後期中葉がピーク期であり、後期後葉以降は一部の専業的集団を除いて消滅の途をたどる。

 一方、縄文後期後葉の西平から三万田期には磨消縄文の衰退化と、深鉢、浅鉢、注口土器という土器の形態分化が明瞭になってくる。また、石器にも特徴があり、土掘具と考えられる扁平打製石斧が大量に出現し、植物質食料の加工具と考えられる石皿、磨石等の絶対量が増加してくる。また、女性像を現した土偶という土製品も登場し、生産手段の変化だけでなく精神文化にも後期前半とは異なる様相をおびてくるのである。三重町の鬼塚遺跡では縄文後期末の御領式土器の範疇で把握できる鉢型土器も検出されている(第19図1)。これは器表面が黒色に磨かれた状態を示し、晩期の黒色磨研土器の先駆をなす一群と考えられる。

 

注(1)乙益重隆・前川威洋「縄文後期文化―九州」『新版考古学講座三―先史文化』雄山閣 昭和四十四年

  (2)坂本嘉弘他「惣田遺跡」『三重地区遺跡群発掘調査概要』三重町教育委員会 一九八三

 

 六 黒色磨研土器と農耕文化

縄文晩期を象徴する土器は黒色磨研土器である。この土器は艶と光沢を持つ黒色薄手の土器である。東九州の晩期は大野川流域の火山灰性台地に展開した緒方町の大石遺跡で代表される。この時代は粗製深鉢と精製浅鉢が明瞭に分化し、後期三万田期から隆盛した土掘具としての扁平打製石斧が量産され、横刃型石器と呼ばれる石包丁型の石器類も出現している。

別府大学の賀川光夫教授は、大石遺跡の発掘を契機として縄文後・晩期の特異な遺物組成に注目し、総体としての文化要素が中国の山東省歴城県竜山鎮における竜山文化の影響下に把握されるべきものと提唱している。そして、大野川上・中流域の広大な火山灰台地ではアワ・ヒエ類を主体とした雑穀類を生産する原初的な焼畑農耕の存在を指摘している。これは考古学界では縄文晩期農耕論と呼ばれ、その是非をめぐって常に論議の対象となっている。名古屋大学の渡辺誠氏は京都府舞鶴市桑飼下遺跡の発掘で縄文後期の扁平打製石斧を千点以上も発掘している。そして、桑飼下の位置を故藤森栄一氏が唱えた中部山岳地帯の縄文中期農耕論と九州地方の晩期農耕論とを時間的にも空間的にも継ぐ好例として掲げ、文化の西漸を唱えている。これは中期農耕論を半栽培段階としてとらえ、扁平打製石斧の用途を、クズ根、ワラビ根等の採掘具として把握したものである。

 さて、三重町の宇対瀬・浅瀬遺跡では晩期前半に比定し得る深鉢型土器や黒色磨研の浅鉢型土器片等が表面採集されている(第19図2〜5)。これに伴出する石器は多量の扁平打製石斧や磨石等である(第20図)。扁平打製石斧は木の伐採道具ではなく、使用痕や磨耗痕から土を掘る道具であることは明白である。これがクズ根やワラビ根等の根茎類の採掘具に使用されたものか、原初的な農耕具や開墾用の鍬類に利用されたものかで論議を呼ぶところである。しかし、いずれも植物質食料を対象としたものである以上、石器という生産手段から栽培、半栽培を峻別することは至難である。

一方、三重町浄土寺遺跡では晩期後葉の突帯文土器(第19図6)が扁平打製石斧(第20図1)と共に表面採集され、同町牟礼嶽に建立されている旧正福寺境内からも突帯文土器と刻目突帯文土器が出土している。刻目突帯文土器は晩期の終末を象徴する遺物である。この一群は西・北九州地域の一部では板付遺跡や菜畑遺跡で顕著なように、すでに水稲農耕が開始されており、縄文文化の終焉と弥生文化の胎動をうかがい知ることができるのである。

 

 注(1)賀川光夫『縄文式晩期農耕文化の研究に関する合同調査』別府大学一九六六

  (2)賀川光夫『農耕の起源』講談社 一九七二

  (3)渡辺誠編『桑飼下遺跡発掘調査報告書』平安博物館 一九七五

  (4)藤森栄一『縄文農耕』学生社 昭和四十五年

  (5)中尾佐助「農業起源論」『自然生態学的研究』中央公論社 一九六七

  (5b)佐々木高明『稲作以前』NHKブックス

  (6)寺崎直利・戸上和信「大分県三重町浅瀬遺跡出土遺物報告」『同志社考古』第8号

  (7)山崎純男他「板付遺跡調査報」『福岡市埋蔵文化財調査報告』第四九集 福岡市教育委員会 一九七     九

  (7b)中嶋直幸「唐津市菜畑遺跡の水田跡農耕具」『歴史公論』七四号 一九八二

 

 七 縄文時代の主要な生業

狩猟活動 狩猟活動は縄文時代を通しての主要な生業の一つである。三重町の北半は緩丘陵地帯であるが、南半は急峻な山並が続き、現在でもカモシカやイノシシ等が生息する地帯であり、縄文時代の植生や動物相を容易に推察し得る。

狩猟具としては弓矢の先端に取り付ける石鏃や尖頭状石器、動物解体用具としての石匙やスクレイパー類が一般的である。弓の使用を示す石鏃は縄文草創期の土器と共に出現するが、普遍化するのは縄文早期である。大野川流域の早期の石鏃や尖頭状石器はチャート製が多く、深い舌状のえぐりを持つ鍬型鏃を特徴としている。縄文前期以降の石鏃は単純な凹基式鏃であり、石材は乳白色の姫島産黒曜石が一般的に流布している。

一方、狩猟活動の二次生産具として石匙やスクレイパー類がある。石匙は紐かけ状の摘みを作り出した携帯用具と考えられ、スクレイパーは不定形剥片に加工を施した削器である。これなどは黒曜石や安山岩製が多く、動物解体用のナイフや皮剥ぎ用の道具と考えられ、狩猟活動との関係で把握し得るのである。ちなみに、狩猟活動を唯一の生業とするエスキモーが用いる肉切りナイフの形状は、縄文時代の石匙に酷似しており機能を考える上での傍証となり得るであろう。

さて、石鏃を主要な狩猟具とした弓矢による狩猟法だけでなく、野獣の習性を利用した罠や落し穴等の利用も注目される。中津市黒水遺跡からは長方形を呈し、底部に数本の杭跡を残した落し穴が山麓部に多数検出されている(第22図)。また、弓矢や落し穴を駆使した狩猟法で注目されるのは猟犬の使用である。唯一の家畜である犬は縄文早期から認められ、犬を埋葬した事例も全国で多く検出されている。大分県小池原の縄文後期の貝塚より犬の骨が出土しており、猟犬として飼育されていたことが推察される。

一方、狩猟活動で注目されるのは狩猟の季節である。貝塚から出土するシカやイノシシの歯にはエナメル質の萌出があり、これが木の年輪のように季節に応じての変化が認められる。エナメル質の特徴を分析すると、狩猟期は秋から冬の季節に集中することが判断できるのである。

現在の狩猟解禁も秋から冬にかけてであり、春の繁殖期や青草を食した時期を避けている。秋から冬の肉は油がのり、毛皮もこの時期のものでないと抜け毛が多く商品的価値はないといわれている。その上、草木の葉が枯れ落ちる冬期には獲物が見つけ易いことも重要な理由の一つとなっている。

このように縄文時代の狩猟期と現在とに共通点が認められることは季節的な生業のあり方を示唆するものといえる。

山間部の漁撈活動 漁撈活動は縄文時代に普遍化した生業である。県内では縄文後期に周防灘沿岸から別府湾の砂泥性干潟地帯では貝塚を形成する遺物が増大してくる。貝塚は往時のゴミ捨て場であり、生活廃棄物としての土器片、石器片、骨角器類をはじめ、食料残滓である貝類や獣骨、漁骨等が多量に包蔵されている。貝塚を構成する貝類には有機質を保護するカルシウム分が豊富であり、酸性土壌中では遺存しにくい自然遺物類が残存しており、縄文文化の食制を探るタイムカプセルと言っても過言ではない。

大分市の小池原貝塚や横尾貝塚からは、海岸地帯の漁撈活動を象徴する牙製の釣針や刺突具としての骨製ヤス類が出土している。このような釣漁法や刺突漁法に加えて、網漁法の存在を示唆する礫石錘等も多数出土しており、具体的な使用方法等も検討に値する。礫石錘は扁平で小判形をした自然円礫の長軸両端を細かく打欠いてえぐりを入れたものであり、網へ緊縛して錘として使用されたものであろう。現在でも国東半島の小漁村では立網に使用する錘は拳大の礫石錘であり、礫の短軸両端を打欠いたものである。一見、縄文時代の石錘とは区別できないほどに酷似しており、使用法を推量する上での有力な傍証となり得るであろう(第23図)。両貝塚より出土した魚骨類はクロダイ、マダイ、スズキ等の沿岸底棲魚類等が主体的に出土しており、内湾魚が捕獲対象になったと推察し得る。

一方、山間部でも漁撈活動を証明する遺物が検出されている。三重町の経塚原では扁平小判形の礫石錘が僅か一点ではあるが採集されている(第24図)。これは大野川の河川域に生息する魚類を対象としたものであろう。荻町の龍宮洞穴は大野川上流の谷川に沿った洞穴であるが、イノシシの骨製の逆刺を持たない釣針が三点も出土し、刺突具としてのヤス等も検出されている。また、網漁としては小判形の切目石錘や土器片錘等が数点出土しており、上流域に生息するエノハ(ヤマメ)やイワナ等を捕獲対象としたものであろうか。三重町出土の一点の石錘は山間部の漁撈活動の様相を雄弁に物語っている。

植物採集活動と民俗事例 縄文時代の主要な生業である植物採集活動は長い間閑却されてきた。これは植物採集活動を立証する自然遺物が遺存し難く、考古資料で検証することが不可能であったためである。しかし、最近の精緻な発掘調査や土壌の水洗選別法によって徐々に植物質食料の資料が増加しつつあり、縄文人の食制がおぼろげながらも具体的なイメージで把握されつつある。

「縄文時代の植物食」を著した名古屋大学の渡辺誠助教授によると、現在、植物遺体を検出した遺跡は全国で二〇八遺跡、約四〇種である。これなどは大部分がトチやナラ、カシ、シイ等のドングリ類で占められている。このような堅果類の出土事例をみると、東日本一帯はトチやナラ類の遺存体が多く、西日本一帯はカシやシイ等の堅果類で占められている。つまりこの相違は、東日本を被覆する落葉広葉樹林帯や西日本の照葉樹林帯の分布植生を象徴する現象である。

では、このような堅果類がどのように調理され食べられたかを具体的に検討してみよう。縄文人の食制の研究は、現在、山間部に伝承された民俗事例等を援用しつつ推察されている。一般的に堅果類の中にはタンニンをはじめ、サポニン、アロインと呼ばれるアクがあり、対象物に応じて複雑なアク抜き技術を必要としている。例えば、シイやイチイガシは生食できるが、他のカシ類は水晒しが必要であり、ナラ類は水晒しに加熱処理、トチ類はこれに灰合せと呼ばれる高度な技術を駆使せねばならない。このようなアク抜き技術の一連の過程での必要不可欠な道具類を考古資料の中で代替し、縄文時代の食制の研究が行われているのである。

幸いにも、三重町大字久田でドングリを加工して半主食化した民間事例を聞取りすることができた。対象はクヌギ、カシワ類である。現在まで我が国ではアイヌ事例を除き、他にクヌギを調理して食料とした事例は皆無であり、極めて希有で貴重な民俗事例と言える。

三重町におけるクヌギ類の可食化事例はドングリ豆腐と呼ばれており、比較的簡単な沈澱法と呼ばれる水晒しでアク抜きし得ることを証明している。三重町事例でのクヌギ加工工程は、十月末頃にドングリを竹カゴで採集→蓆やバラで二〜三日の天日乾燥→唐臼での荒割り→ミイによる皮・実の選別→唐臼での精粉→フルイかけ→桶を用いた沈澱法による水晒し→調理という方法である。沈澱法というアク抜き処理法は、水桶の中にドングリの粉を入れ、攪伴して上水を何度も交換する水晒しの方法である。

さて、大分県の山間部では「イーチイ、カーシィ、カーヤン実、食われんもんはドーングリ」という俗謡があるが、ドングリはクヌギの象徴であり、ドングリを食べると血を吐くと伝えられていたように、アクが強くて食べられないものと認識されてきた。全国の民俗事例を調査した渡辺誠氏も、クヌギの伝承は我が国ではすでに跡絶えたものと結論している。そういう状況の中で、三重町のクヌギ事例は単純な沈澱法で可食化し得ることを実証している。

このような沈澱法による水晒し技術は、縄文時代の植物質食料として看過し得ない根茎類の可食化法と酷似している。つまり、クズ根やワラビ根等は敲打し、水桶の中で揉んで澱粉を絞り出す方法がとられている。これは澱粉の抽出と水晒しを兼ねた沈澱法であり、堅果類と根茎類の可食化法に共通の要素が指摘し得るのである。

さて、上述した沈澱法でドングリ類が可食化し得るとすると、縄文時代のいつ頃までアク抜き技術が遡り、堅果類を食料とした事例が考古資料の中で追認できるのであろうか。ドングリの炭化物やこれを貯蔵した施設と推察できる貯蔵竪穴の出土例を時期別に瞥見して時代を遡ってみよう。

まず、県内例では縄文後期後半に野津町の生野遺跡や内河野遺跡の方形竪穴住居跡内からカシ類の炭化物がシャーレ二杯程度発見されている(第26図)。

縄文中期末〜後期初頭期では、佐賀県の坂ノ下遺跡で標準径約一五〇ab、深さ約七〇abの円形竪穴が二一基検出されている。竪穴からは木皮や木葉でサンドイッチ状に覆われたアカガシやチャンチンモドキ等の堅果類が当時のままの状態で発見されている。このような貯蔵穴内の九八lはアク抜きの不可欠なアカガシ等であった(第27図)。

縄文早期の事例としては、天瀬町の平草遺跡で四基の円形竪穴を検出している。炭化物は未検出であるが、覆土は流れ込みの様相を呈し、竪穴床面近くに一点の平栫式土器片を伴っていた。竪穴の発掘所見からみて、ドングリ類を貯蔵する竪穴と推察し得る遺構である。

縄文草創期例としては、鹿児島県の東黒土田例は看過し得ない。草創期の隆帯文を伴出する貯蔵穴内からは、アク抜きの不可欠なクヌギ、アベマキ類の炭化物が多量に遺存していた。これは我が国で最古の炭化物を包蔵した貯蔵穴である。

以上のように、極めて断片的ではあるが縄文時代の全期間を通して、ドングリ類の炭化物やこれを貯蔵した竪穴が検出されている。そして、鹿児島県東黒土田遺跡で顕著なように、アク抜きの不可欠なドングリ類が出土する以上、すでに縄文草創期にはアク抜き技術は習得していたものとみなすことができるのである。先の三重町で採取した民俗事例を傍証にして、ドングリのアク抜きに必要不可欠な道具類を考古資料で代替して考えてみると、採集具のカゴや皮実を選別するミイ等は縄文土器片に付着したスダレ状圧痕やアンペラ圧痕で高度な編物技術が想像でき、ドングリ類の荒割りは敲石や凹石、精粉具は磨石と石皿、沈澱法の桶や調理容器は土器類で解決できそうである。

スダレ状圧痕は熊本県轟貝塚の前期例があり、アンペラ圧痕は熊本県御領貝塚出土の早期末例まで遡る。また、敲石、凹石、石皿、磨石等のセットは、野津町新生遺跡で明瞭なように縄文早期前葉まで認められる。このうち、敲石、磨石、石皿は僅少ではあるが三重町百枝遺跡で顕著なように後期旧石器時代まで散見できるものである。そして、土器は周知のように縄文草創期に出現する。つまり、三重町事例で必要な道具類は考古資料で代替でき、時期的にも縄文時代の初頭期頃まで遡及できることが生産手段でも追認できる訳である。第一章第二節の縄文早期の集石炉と土器との関係の中で、土器を直火煮沸に使用していない可能性を指摘したが、土器の発明とその使用法がドングリのアク抜き技術との関係で把握し得ることも推察できるのである。

 以上のように、ドングリのアク抜きを民俗事例を援用して考古資料で帰納してみた。もちろん、民間伝承等は縄文時代の食制を反映するものではない。しかし、縄文時代に堅果類が検出されて貯蔵穴まで存在する以上、これを可食化し、食料としていたのは間違いない。そして、堅果類はクズ、ワラビ等の根茎類とともに、長い歴史の中で単なる救荒作物ではなく、文献資料でも顕著なように、半主食化していた主要な食料の一つであることは明瞭である。である以上、ドングリ類の可食化方法は長い歴史の中で人から人へと断絶することなく伝えられてきた技法であると考えてよい。つまり、道具類の改良に伴う技術革新はあり得ても、可食化方法には基本的な変化は認められないであろう。縄文時代の可食化法を探る過程で、単なる推論や実験による試行錯誤より民俗事例を援用する方法が、現実から遊離しない方法であると考えられるのである。今後、民俗事例を傍証として縄文時代の食制を具体的なイメージで把握できる時が来るであろう。

 

 注(1)本多勝一「カナダ・エスキモー」『極限の民族』朝日新聞社 一九六七

  (2)後藤一重・城戸誠編「中津市加来地区遺跡群」『一般国道10号中津バイパス埋蔵文化財発掘調査概報』

     大分県教育委員会 一九八六

  (3)小池史哲「小池原貝塚・横尾貝塚出土の自然遺物」『考古学論叢』一 別府大学考古学研究会 一九     七三

  (4)大泰司紀之「遺跡出土ニホンジカの下顎骨による性別・年齢・死亡季節査定法」『考古学と自然科学』

     一三 一九八〇

  (5)賀川光夫他「小池原貝塚・横尾貝塚・野間古墳群」『大分県文化財調査報告』第一三輯 大分県教育     委員会

  (6)栗田勝弘「縄文人の生業」『大分県史先史篇一』

  (7)別府大学考古学研究室によって昭和四十九年に発掘調査された。

  (8)三重町大字久田の千寿院住職である三代チヨさんの御教示による。

  (9)渡辺誠『縄文時代の植物食』考古学選書一三 雄山閣 昭和五十年

  (10)栗田勝弘・後藤一重編「野津川流域の遺跡V」野津町教育委員会 一九八二

  (11)森醇一郎「縄文時代中期〜後期の貯蔵穴の一例」『考古学ジャーナル』一七〇 一九七九

  (12)栗田勝弘編『平草遺跡』天瀬町教育委員会 一九八二

 (13a )瀬戸口望「東黒土田遺跡発掘調査報告」『鹿児島考古』第一五号 鹿児島県考古学会 一九八一

 (13b )河口貞徳「縄文草創期の貯蔵穴―鹿児島県東黒土田遺跡」『季刊考古学』創刊号 一九八二

  (14)渡辺誠「スダレ状圧痕の研究」『物質文化』昭和五十一年

  (15)下村悟史「押型文土器底部のアンペラ状圧痕の一例」『古代文化』第28巻6号

  (16)栗田勝弘「新生遺跡」『野津川流域の遺跡X』野津町教育委員会 一九八四

  (17)清水宗昭・栗田勝弘編「百枝遺跡C地区」三重町教育委員会 一九八五

  (18)注(8)に同じ

 

 

    第三節 弥生時代

 

  一 弥生時代のはじまり

稲作のはじまり 今から約二千四百年前の縄文時代晩期、狩猟・採集の生活を送っていた北部九州の一角に、朝鮮半島南部から米を携えた人々が海を渡ってやってきた。彼らは、稲作の方法、そしてそれに伴う農工具のみならず、生活全般にわたって様々な物や技術、思想、習俗などを伝え、在来の縄文文化と融けあって新たな社会を生み出すきっかけをつくった。それによって、一万年もの長い間つづいた縄文時代は終わりを告げ、新たな時代、すなわち弥生時代が始まった。農耕社会の幕開けである。

 その後、中部地方以西の西日本に稲作は急激に広まっていった。その理由は様々に説明されているが、米が食用作物として最も優秀で、自然条件も適していたからであったと考えられる。そして、米は日本人とは切っても切り離せないものとなったのである。

 それでは、現在我々が目にする田園風景―秋になると一面黄金色になる水田地帯、山の急斜面にへばりつくように積まれた棚田の石垣―これと弥生時代の風景との間にはどのくらいのギャップがあるのだろうか。大分県内で発見された弥生時代の水田は、国東町にある安国寺遺跡のものが唯一である。弥生時代後期後半、紀元三世紀のものである。これ以外には明確な水田跡は確認されていないが、そのほか様々な物から稲作の存在を推定することができる。たとえば、板付式土器と呼ばれる土器の存在(土器は後述するように地域地域で違った形のものをつくる。板付式土器は北部九州で成立したものであるが、よく似た形のものが西日本に広く分布する)は、間接的ながら稲作の伝播を裏付けるものであるし、農耕具はもっとはっきりと稲作の存在を裏付けることが出来る。そのようなものから、大分県でも一部の地方では前期の後半には稲作を行っていたと考えて間違いあるまい。

 しかし、全国的に見ると多数の弥生時代水田が発見されているにもかかわらず、大分県では前述のように明確な水田跡の発見はわずか一か所にすぎない。これはなぜであろうか。発掘調査の対象地の相違、それも一つには上げられようが、やはり弥生時代の水田開発の進み具合いに主な要因があるように思う。それでは、なぜこの地域で弥生時代に水田開発が進まなかったのであろうか。その大きな原因に地形的な制約があげられるだろう。すなわち、大分県の大部分は山地形で、水田に適した沖積地が少ない。大分平野などの沖積地も、当時水田開発に耐えられるだけ充分に発達していたかどうかは疑わしいのである。このため当時の技術的限界から、必然的に小規模な開発に向かわざるを得なかったと考えるのが妥当であろう。現在我々が目にする田園風景は、後の時代の様々な技術革新を経たその結果と見て間違いない。

 それでは、大分県の弥生時代遺跡の数が隣接する地域に比べて少ないかというとそうでもない。むしろ大野川流域などは、弥生時代後期の集落遺跡の密集度では他地域をはるかに上回っている。

 水田が多くできそうもない地形と多くの弥生時代遺跡、この一見矛盾する様に見える現実から、三重町における弥生時代の社会を考えていくことにしたい。

 

  二 郷土の弥生時代遺跡

前・中期弥生遺跡 まず、三重町のどこにどんな遺跡があるのかを述べることから始めよう。しかし、発掘調査が行われた遺跡が少なく、表面採集で土器が拾われたことから遺跡であることが推定されるものが大部分であるので、必ずしも実態は明らかでない。

 先述した板付式土器は町内では発見されていない。このため、前期の遺跡は明確でないが、前期の終わりから中期の前半にかけて大分県地方で広く見られる下城式土器と呼ばれる土器が、いくつかの遺跡で出土している。まず、発掘調査によって確認された惣田遺跡(大字菅生字惣田)がある。三重川の支流である又井川と菅生川に挟まれた舌状台地上に立地し、先土器時代から近世に至る遺物と遺構が発見されている。なかでも中世の森迫氏に関連すると思われる館跡が発掘されたことで有名な遺跡である。弥生時代に関するものでは、竪穴住居跡二軒と土壙二基がある。時期はいずれも中期前半代である。土壙は墓である可能性が高いとされている。

 さらに、惣田遺跡と又井川を隔てて北側の台地上に位置する浅水遺跡(大字浅瀬字浅水)、そして三重川をさかのぼり大字内田字横田の台地上にある横田遺跡において、下城式土器が採集されている。おそらく前期の終わりから中期の前半にかけていち早く三重町に農耕文化をもたらした人々の残したものであろう。それらがみな、三重川流域やその小支流を望む低台地上に立地しているのは注目される。

中・後期の弥生遺跡 次の中期後半から後期にかけての時代になると遺跡数は増加してくる。それらの遺跡の立地は大きく二つに分けて考えることができる。一つは前時期に引き続いて三重川とその支流の流域に展開する遺跡であり、もう一つは大野川本流の両岸に発達する河岸段丘上の遺跡である。前者はさらに沖積地に立地するものと、低台地上の縁辺部に立地するものとに分けることが可能である。三重盆地周辺には三重原などのかなり広い台地が展開するが、台地の中央部には今のところ遺跡が確認されていない。

 まず、三重盆地の中央部を流れる玉田川が三重川と合流する手前の両岸の台地上に、下赤嶺遺跡(大字赤嶺字下赤嶺)と大鷺遺跡(大字内田字大鷺)がある。特に大鷺遺跡は、台地が玉田川に向かって緩やかに傾斜し、沖積地との比高差が一〇bもないような所に立地しており、生産基盤を沖積地に求めることが可能である。また、秋葉川流域にも秋葉遺跡(大字秋葉字肝煎)や深田原遺跡(大字本城字深田)が存在している。

 次いで沖積地の遺跡であるが、現在町の中心部となっているところが最も広い場所であり、遺跡の存在の有無が知りたいところであるが今ではそれは不可能に近い。しかし、建物の建築に伴って遺物の発見されることがある。たとえば三重駅の裏にある旧専売公社の建築中に大量の土器が採集されている。しかし、その他の実態はよく分からない。また、現在街の中心部となっているところの東側の下赤嶺一帯は、圃場整備に伴って試掘調査が行われたが、弥生時代の遺物は発見されなかった。

 大野川流域の河岸段丘上の遺跡は、百枝入口遺跡(大字百枝字法泉庵)、そして、旧石器時代の著名な遺跡である百枝遺跡と大野川を挟んで西側に位置する向野遺跡(大字向野浄土寺)が知られているが、いずれも上位段丘上に立地している。百枝遺跡では試掘調査によって弥生時代後期のものと思われる竪穴住居跡数軒が確認されている。

 このように、三重町においては複雑な自然地形を反映して、様々な立地条件のもとで遺跡が点在している。しかし、その内容が明らかなものは少ない。また、まだ地中に埋もれたままの遺跡や日の目を見ることのないまま壊されていった遺跡は数知れないであろう。このような様々な制約の中で歴史を正しく認識するのは難しい。しかし、幸いにも大分市から竹田市にかけての大野川流域は、県内でも最も多くの遺跡が発掘調査されている地域であり、徐々に弥生時代の様相が明らかになりつつある。そこで、隣接市町村の資料を援用することによって、三重町の弥生時代の特徴について考えてみたい。

 

  三 郷土の弥生時代の生活

大野川流域の弥生土器 まずこの地域の弥生時代を語る前に、弥生土器について触れておきたい。というのも、最も一般の人の目に触れやすく、身近で、なおかつ歴史資料として大変すぐれているからである。土器は、1.その遺跡の年代、2.地域的つながり、3.地域間交流、4.人々の生活、といった主に四つのことを我々に教えてくれる。

 そもそも弥生土器は、厚手で黒褐色の縄文土器に対して薄手で赤褐色の土器ということで認識され、それを使用する時代を弥生時代と呼ぶようになったのである。このように土器の厚さ、色、さらに形や文様が年代の差であることが発見されたのは今から約七、八〇年程前のことで、それ以来土器の研究は精致を極めている。それによって、同じ時代でも地域によってかなり異なる土器をつくっていたことも徐々に知られるようになってきた。大野川流域でも、弥生時代後期には異なる土器を使う四つの地域があるということが、最近明らかになってきている。

 それでは、大野川流域の土器がどんなものであったのかを、少し見てみよう。前期は前述した板付式土器と呼ばれる土器の出土は少なく、縄文土器との関係が強い下城式土器が前期の終わりには登場し、中期の前半まで使用されたようである。惣田遺跡の土器がそれである(第  図)。さらに中期になると、同時に当時の文化の中心地であった北部九州の土器に影響を受けた土器もつくられていた。大野川流域が決して孤立した地域ではなかったことがわかる。

 後期になると先ほど述べた地域色(小地域圏)が明瞭に出るようになる。結論から先に言うと、1.別府湾に面した大分平野周辺(大分市あたり)、2.大野川の支流である野津川周辺(野津町・犬飼町・千歳村あたり)、3.大野川中流域の大野原周辺(大野町あたり)、4.大野川上流域の高原地帯(竹田市・荻町あたり)の四つの地域である。その違いはおおよそ、主に物を煮炊きするのに使用する甕の造りに現れる。一方、物を蓄えたりするのに使う壷はほとんど同じ形である。また、もう一つの違いは一家族がもつ土器の種類の多寡である。1、2、3、4、の地域の順に、すなわち、上流に行くほど種類が少なくなる。大野川をさかのぼれば壷と甕が中心となり、逆に大分平野に近いほど壷、甕以外に鉢、高坏、碗などが備わってくるのである。

土器の特徴から見た三重町の位置 では、三重町の遺跡はどの地域に属することになるのであろうか。地理的には三重町の北に2の地域、北西に3の地域が接する。土器をみるとまさに両者の土器が混在しており、土器の面からも2と3の地域の中間に位置している事がよく分かる。ここで遺跡の説明のところで述べた中期後半から後期にかけての三重町における遺跡の立地を思い出していただきたい。大野川本流の河岸段丘上と三重川流域の低台地上の遺跡とに大きく分けることができた。現在後者に属する遺跡出土の良好な土器資料がないので今後の課題となるが、おそらく地理的にみて前者が3の地域と、そして後者が2の地域とそれぞれ強い結びつきをもっていたであろうと思われる。

 そこで問題は、これら1から4の地域色の意味するところである。他の地域に対して非常にかたくなに独自の土器をつくり続ける。かと思うと同じような土器もつくっている。これは1から4の地域が大野川という紐帯で結ばれた一つの地域圏であると同時に、それぞれが何らかの強い結びつきによってまとまりを保っていたことになる。強い結びつきとは一体何であろうか。ある研究者はこのような土器の小地域圏は通婚圏を反映したものと考えている。つまり、土器は女性によってつくられたということを前提に、嫁ぎ先でも自分の出身地の土器と同じものをつくったから土器の地域色ができたのだと言う。

土器の種類 つぎにもう一つ、土器の種類の問題がある。大野川をさかのぼるほど種類が少なくなると述べた。これはどういうことを示すのであろうか。弥生土器にはいろいろな形があるものの、基本的には形態から煮沸用の甕、貯蔵用の壷、供献・祭儀用の各種土器に分けることができる。もちろん煮沸用の甕は口が広く外にスス、内には煮焦げが付いているのが普通である。また、壷は頚がすぼまって物がこぼれないようになっているし、供献・祭儀用の土器は赤く色を塗ったりして飾られていることが多い。問題は、大野川上流域における供献・祭儀用土器の少なさである。この事は、他地域と比べたとき、何らかの社会生活上の相違を示していると考えてもよさそうである。ところで、弥生時代の祭りについては具体的に復元されるものは少ないが、農耕に関わる祭りがその中心であっただろう事は想像できる。しかも、その農耕が主に水田稲作であるなら、それに関わる土器が僅少であることはこの地域の社会について重要な示唆を与えることになる。つぎにその点を考えてみよう。

生産活動 大野川中・上流域の水田農耕に不向きな地形と、水田農耕に関わる遺物の欠如。そこからは、畑作に大きく依存した社会の姿が浮かんでくる。しかし、まだ実際に畑跡は発見されていない。これは考古学的に検証が難しいのである。また、栽培作物も大野町の遺跡で検出された小豆を除けばまだここで明らかにすることはできない。他の地方の例から考えてアワ、ヒエ等の雑穀類やムギ類、マメ類など、かなり多彩な作物が植えられていた可能性はある。

 一方、竪穴住居の床面からドングリ類がよく出土する。ドングリ類は縄文時代から採取の対象となっていたもので、農耕が始まってもやはり木ノ実は重要な食料資源だったのである。また、大野川流域では多くの磨製石鏃と呼ばれる狩猟用のやじりが出土する。これも、狩猟が生産活動の中でかなり重要な位置を占めていたことを示している。

 水田耕作以外に大部分依拠した弥生社会、少し前なら想像もできなかった社会が存在した可能性が強い。つぎに、その社会の様子を見てみよう。

 

  四 郷土の弥生時代の社会

竪穴住居 最も小さな生活単位である「家」から述べることにしよう。

 三重町では前に述べたように惣田遺跡で中期の前半の竪穴住居が見つかっている。それによると、直径約四.七bの円形状に地面を数一〇ab掘り下げて土壁をつくり、もうすでに腐ってないが木の柱を立てカヤかワラで屋根を葺いたものであった。内部にはほぼ中央に炭化した木片の詰まった炉跡があった。このような竪穴住居が二軒見つかっている。そのほか三重町内では竪穴住居の調査が行われたことがないので、前に述べた三重町と最もつながりの深い地域、すなわち野津川流域と大野原周辺の調査された例をみてみよう。ただし中期の後半から後期にかけての資料が中心となる。

 野津町の菅無田遺跡では中期の終わりから後期後半の竪穴住居が調査されているが、惣田遺跡とよく似た円形のものである。また、大野町の二本木遺跡では後期の初めから終わりまでの竪穴住居が多数見つかっているが、すべて正方形か長方形である。このように、野津川流域の遺跡では後期の後半まで円形の竪穴住居が主流で、後期の終わりから隅丸正方形または長方形の竪穴住居が一般的になる。一方、大野原周辺では中期から一貫して方形の竪穴住居をつくっている。これは土器によって分けられた大野川流域の各地域が、単に土器作りの違いのみでなく、もっと別の次元の違いを反映したものであった可能性を示すものとして注目される。

ムラの立地 この竪穴住居も一軒だけで存在する事はまずなく、普通、数軒から数十軒でまとまりをもっている。このまとまりを仮に“ムラ”と呼んでおこう。ムラを取り巻く周辺には人々の様々な生活があるはずである。人が生まれるのも、何らかの生産活動を行うのも、そして、死して弔われるのも基本的にはその中である。本来は、それらを含めた総体を“村”と呼ぶのが正しいが、考古学ではまだそこまで充分に把握できていないのでここでは“ムラ”と呼んでおくことにする。大野川流域では畑も墓地も見つかっていないのが現状である。

 当然、ムラは水のある近くに営まれている。それは湧水であったり、小さな河川であったりする。それとともに、生産基盤がムラの立地を左右する。郷土の弥生遺跡の項で述べたように、三重町では水田耕作に適した沖積地を望む遺跡と、大野川本流の河岸段丘上の遺跡とに大きく分けられるが、おそらく前者は稲作を主に、後者は畑作を主に行っていたと考えてもよかろう。

ムラとムラの関係 竪穴住居、それが何軒か集まって造るムラ、基本的には人々の日常生活はその範囲で終始していた。しかし、自分たちのムラのすぐ近くにはまた別のムラがあった。そこのムラとも何らかの関係をもっていたであろうことは、先ほど述べた土器の共通性からもうかがい知ることができる。たとえば、一般には耕地造成などの大規模な開発行為を共同して行う場合や、水田耕作において同一の水源を利用するため日常的にその調整が必要な場合、さらに同一の祖を持つ同族としての意識をもつ場合等にはいくつかのムラの間で強い連帯感が生まれたはずである。

 しかし、畑作の場合は耕地造成や水源の確保はあまり関係がない。おそらく、そこには水田農耕社会とはまた違った結合原理が働いたのではないだろうか。それは近隣のムラとムラの関係以上の関係、すなわち中国史書に記されたような“国”と“国”との関係においてである。特に、当時の先進地であった北部九州の国との交渉、様々な物の入手には、地方のムラムラはまとまらざるを得なかったであろう。こうして、近隣のムラムラは徐々に結びつきを強めていったと思われる。

 そうしたなかでも、交通の要衝に立地するムラはその地域の中で最も強い指導力を発揮した可能性がある。それは、肥後に面する竹田市、荻町の高原状台地のいくつかのムラであったし、大野川の中流域にあり中継点の位置を占める大野原周辺の台地のいくつかのムラであった。現在の知見によれば、三重町の各ムラがそのような位置にあったかどうかは不明であるが、三国峠越えで日向に抜けるルート上にあることを考えれば、やはり要衝の地としての位置づけは充分に可能であろう。

 

 五、弥生時代の終わり

 大野川流域は、多かれ少なかれ水田耕作に適した土地の少なさという、弥生時代一般の水田稲作文化の中では初めからハンディを負っていた。しかし、我々の先祖はよくその自然環境に適応して畑作に比重を置いた一風変わった弥生文化を築いていったのである。

 その社会のピークである弥生時代後期は、紀元一世紀中ごろから三世紀中ごろまでの約二〇〇年間続いたと考えられている。このころの日本(倭)のことは中国史書に断片的に記されているように、耶馬台国や奴国のような国々が各地に成立していた。このことは各地域において、階級社会の成立、そして政治的統合へと進んでいったことを示している。大野川流域の地域色の出現もそうした流れの中で捉えられるものであろう。三重町の各ムラもその大きな時代のうねりの中で、古墳時代を迎えることになるのである。

 

 

 

 参考文献

  三重町教育委員会 『惣田遺跡』昭和五十八年

  三重町教育委員会 『百枝遺跡』昭和六十年

  都出比呂志   「原始土器と女性」『日本女性史』1 昭和五十七年

  大野町教育委員会 『大野原の遺跡』昭和五十五年

  野津町教育委員会 『菅無田遺跡』昭和六十一年

 

 

    第四節 古墳時代

 

  一 前方後円古墳の出現

郷土に五基の前方後円墳 三重町の市街地から国道三二六号線を東に向かって走り、市辺田八幡社前を通り、ゆるやかな坂道をのぼりつめると右側に白い標注が目にとびこんでくる。よくみると「道ノ上古墳入り口」と書いてある。標注に導かれながら下赤嶺の台地を西方向に向かうと、台地端にこんもりとした杉林がみえてくる。車を降りて林の中に立ち入ると、金毘羅神社が鎮座するところに巨大な「高塚」が浮かび上がっているのに気がつく。これが道ノ上古墳かと感激したものである。そして、よくこんな感激にひたる。「三重町のようなところによくもこんなような大古墳が築かれたものだ……」と。

 三重町に、このような古墳が五基存在していることは、古くからの分布調査で知られている。このようにして周知された古墳台帳をみると、古墳の形態のところに「前方後円墳」と記載されている。前方後円墳と聞くと、すぐ「応神天皇陵」、「仁徳天皇陵」などの大王墓のことを思い起こす人は多いはずだ。三重町内で分布する古墳はまさに、幾内地方に成立した大王墓と同じ形をした古墳である。このことは、古墳出現時の社会を考えるとき、実に重要な意味をもっている。

古墳時代と前方後円墳 古墳時代とは、「高塚」という弥生時代と異なる超越的な形態と内容をもった前方後円墳の出現をもって前代と区分する考え方が一般的であり、それは三世紀の中頃から後半の頃のことである。そして、きわめて政治的な産物(権力・シンボル)として出現した。他と隔絶した場所に築かれ壮大な墳丘と長大な竪穴石室をもつ主体部、目をみはるような種々の豪華な副葬品を伴うことからもうなづけることである。そしてこのような前方後円墳は、まず大和政権のもとで成立をみたとされている。そして、時をおかず西日本の各地においても築かれてもいくのである。このことについて小林行雄は、弥生時代のころ、すぐれた司祭者であったがゆえに、その地位を保ってきた首長が、新たな大和政権の後ろだてを得て政治的な首長に生まれ変わったとき、それを記念するかのように死んだ首長のために築いたのが古墳だと、その背景について述べている。

 また、前期古墳の特徴的な副葬品として知られる「三角縁神獣鏡」と呼ばれる舶載鏡の分有関係を克明に調査され、幾内地方が共有関係の中心であることについても詳細に論じられている。たとえば、九州で最古の前方後円墳である大分県赤塚古墳から出土した四面の三角縁神獣鏡の内の一面「天皇日月・獣文帯三神三獣鏡」は、その同笵鏡(同じ型でつくった鏡)が、京都大塚山古墳・福岡県原口古墳・福岡県石塚山古墳で出土している。 このように、古墳の型のみでなく、副葬品などにみるように、地方における前方後円墳の出現は、大和政権との強い結びつきを無視して語れないのであり、これらの地域の首長たちの間に大和の首長を中核とした緊密な政治的同盟が形成され、その同盟の共通のシンボルとして前方後円墳が各地に築かれて行き、きわめて政治的な契機として出現したものといえよう。

県内の古墳の数と分布 さて、三重町には五基の前方後円墳があると述べた。そこで町民のみなさんは、「なんだ、たった五基しかないのか」と思われる方々もおられることだろう。古墳時代になると、どこでも多くの古墳が築かれて行くものだと考えられるかもしれない。それでは三重町内にある前方後円墳の数は、ほんとうにたった五基と言ってよいのであろうか。しばらく、県内の前方後円墳の分布状況についてみてみよう。今まで県内で知られている前方後円墳は三七基ほどあり、地域的に分けると、いくつかのまとまりが指摘できる。

 まず県北地方をみると、宇佐(五基)、豊後高田、真玉地方(四基)を中心に九基の前方後円墳がある。なかでも宇佐地方には、九州でも最古式に位置づけられる赤塚古墳等がある。川部高森古墳群があり、宇佐国造の累代の墓地として、また九州掌握の門戸として、瀬戸内海を通して幾内との交流が顕著にうかがえる地域として有名である。県西地方では、日田(四基)、玖珠(一基)地方に五基ある。これらの古墳は筑後川筋にあり、九州の東西を結ぶ交通の要衝に分布している。県中部から南部の、大分〜佐賀関〜臼杵地方の平野から海岸部には一一基の前方後円墳があり、さらに細かくみると、大分川流域に三基、大分市東部の丹生川流域に五基、佐賀関に三基、臼杵に二基となる。とくに大分市東部から佐賀関を経て臼杵に至る地方は旧海部郡に属すると考えられており、これらに分布する古墳については、海上活動にたけた海部の勢力圏として発達した特異な地方として考えられている。最後に県南部に位置する大野川中・上流域があげられる。この流域では合計八基の前方後円墳がある。このうち五基が三重町にあり、他の三基については大野町に一基、竹田市に二基といった内訳になる。大野町・竹田市にある古墳については、豊後から肥後への交通路にあたり、とりわけ竹田市大字戸上の国指定史跡七ツ森古墳群からは、四世紀代の大和朝廷との直接的な関係を物語る碧玉製の石釧が出土しており、この古墳に葬られた人がまさに「大和朝廷」から保証された地方豪族その人であったことがわかる。そして、古墳群は豊後と肥後の境近くの要衝の地に巨大な古墳が築かれているのである。

 以上みてきたように大分県の場合、一つの台地・平野・水系内に分布する前方後円墳は五基を越える地域はないのである。そうすると三重町川流域の小盆地内に五基もの前方後円墳が存在する状況は、「たったの五基」といったことではなく、県内ではきわめて繁栄をみた宇佐や海部地方に匹敵する数なのである。このことは県内の初期・前期古墳の出現が、大和朝廷の政策と密接な関係にあることからみても、わが郷土に築かれた前方後円墳出現の背景についても、このような視点から考えて行かなければならない。それでは、各古墳の状況について述べていこう。

 大字小坂に所在する大塚古墳から三重川を次第にさかのぼり、大字秋葉の秋葉鬼塚古墳へと進んでいく。これは大野川から分かれ、三重川筋を通り、東の方から三重市街地へと入るコースである。それぞれの古墳の占める場所に注目してみると、現在のように国道がない川筋のコースは、古代においてはきわめて重要なルートであったと思われる。

小坂大塚古墳 大塚古墳は大字小坂字小坂に所在し、標高一五三bの独立台地上に立地し、周辺部は深く入り込んだ小さな谷に水田が形成されており、他の古墳立地と大きく異なっている。他の古墳が市街地周辺部の沖積地を望む台地上に位置しているのに比べ、現代からみれば郊外の谷あいの小台地にポツリとある感じである。古墳のすぐ下には上小坂公民館が最近建てられているが、保存状態は良好で、つぎに述べる道ノ上古墳・重政古墳とともに県指定史跡となっている。全長は約四〇bであり、墳丘の前方部は後円部に比較して随分と低く細長くのび、前方部端に向かってゆるやかに開いている。後円部の頂上には石塔類があるが、主体部の施設については不明である。

赤嶺道ノ上古墳 大塚古墳から廣瀬・嶋田をぬけて三重川をさかのぼると、内田の沖積地がみえてくる。このあたりにくると景観が一変し、大野川流域特有の入り組んだ台地の形状とは異なる様子になる。この沖積地から下赤嶺の台地を見上げると、台地西端に一段と高い杉林がみえる。ここが道ノ上古墳である。所在地は大字赤嶺字下赤嶺で標高約一五〇bである。古墳の南側は崖となっており、その下に民家がある。北側は旧地形をよく残している。古墳は昭和四十七年に大分県教育委員会が測量調査を行っており、全長七一b、後円部径約四二b、前方部長約三三b、前方部幅約二五〜三〇bあり、県内で十指に入る規模をほこり、大野川上・中流域では最大規模を有する古墳である。後円部項上には社殿があり、若干の前平を受けている。墳形は大塚古墳とよく似た姿で後円部の高さ六.五b、前方部の高さは四bでその差は二.五bである。前方部は端部に向かってやや開き、よくのびた均整のとれた古墳である。墳丘表面には人頭大の河原石がみえ葺石と思われる。主体部の施設は不明である。

重政古墳 道ノ上古墳からやや上流に行くと三重川の合流する地点に出会う。このあたりから南の方向に目を向けると重政の台地がみえる。町立三重中学校である。標高約一五三bの台地の上にのぼると野球グランドがある。バックネットのある西側の山林に分け入るとそこに重政古墳がある。古墳は全長約五〇bあり道ノ上古墳より約一〇b小さいだけであるが、古墳の上に立つともうすこし小さい感じがする。正式に測量していないので断言できないが、大塚や道ノ上古墳に比べ後円部が低く、また、前方部と後円部の比高差が小さいようであり前方部が若干発達しているようにみえる(後円部が後世に削平を受けたのであろうか)。いずれにしても町内で道ノ上古墳に次ぐ規模を有する古墳である。葺石の状況は、一部人頭大の河原石がみえる程度で現状では石の量は多くない。主体部の施設は不明である。

赤嶺竜ケ鼻古墳 竜ケ鼻古墳は、重政古墳と対峙する標高約一五〇bの大原台地南西端にある。つつじ公園の中腹あたりから入ると山林の中に前方部を西に向け東西に主軸をとる古墳がみえてくる。所在地は大字赤嶺字竜ケ鼻である。前方部、後円部とも後世の削平を受け、形状を大きく変えてはいるが、全長約三二bの町内では最も小規模な古墳である。後円部の頂上に大きな穴があいており、盗掘の跡であろうか。このように原状が大きく改変されてはいるが、この古墳は今までみてきたような古墳と少し異なっている。それは前方部と後円部の比高差があまりなく、前方部が発達していることである。葺石の有無、主体部の施設は不明である。

秋葉鬼塚古墳 玉田川と三重川の合流点からさらに南に折れ、三重川を内山観音の方へさかのぼって行く。市場そして肝煎にある県立三重農業高等学校を通り、鬼塚に入る。このあたりにきて周辺の地形をみると、秋葉川と三重川にはさまれ、北側に突き出た舌状の台地があるのに気づく。秋葉鬼塚古墳は、標高約一五二bのこの舌状台地の先端部近くの竹林・杉林の中に立地している。この古墳も前方部の半分近くが削平を受けているが、幸い他の部はよく保存されている。全長約四二bであり、規模は大塚古墳に近い。しかし形状は竜ケ鼻古墳と似ており、前方部と後円部の比高差があまりなく大塚・道ノ上古墳とは異なる形状である。後円部の頂上には石塔類がみられるが、主体部の施設は不明である。葺石についても若干の河原石がみられるがこれが葺石の一部であるか不明である。

町内古墳の特徴 以上が三重町に所存する前方後円墳の概要である。これらを簡単に整理すると次のようになろう。

すなわち、

 

 @古墳の規模は、道ノ上古墳(七一b)・重政古墳(五〇b)・秋葉鬼塚古墳(四二b)・大塚古墳(四〇b)  ・竜ケ鼻古墳(三二b)の順になる。

 A墳型から分類すると、a.前方部が後円部より低く比高差が大きい古墳、大塚古墳・道ノ上古墳。b.比高  差があまりない古墳、秋葉鬼塚古墳。c.その中間にあたる古墳、重政古墳(c.の重政古墳は削平を考慮  するとa.に含まれるかもしれない)の三つの型がある。

 B五基の古墳は三重川流域に分布するが、〇.八〜二==程の間隔で築かれており、きわめて至近の位置にある。  その内、大塚古墳を除く四基は三重盆地内に形成された沖積地を望む標高約一五〇bの台地先端部に立地し  ており、一か所に集中することなく、一見盆地内にバランスよく配置されているようにみる。それに比べ大  塚古墳は、独立台地上にあり、周辺の環境が比高差の大きい入り組んだ谷水田となっており、立地の景観が  他の古墳とやや異なっている。

 Cこれらの古墳は、一度も発掘調査されたことがなく、築造年代・内部主体の施設についての情報はまったく  ない。

 Dしかし、内部主体の施設については、踏査の結果、畿内地方の前期古墳にみられる竪穴石室を有するもので  はないようであり、県内、特に豊後地域によくみられる石棺直葬の可能性が高いものと思われる。もしそう  だとすれば、本地域においても弥生時代以来の根強い伝統が残っているものと考えられる。

 E葺石については、道ノ上古墳において確認されるが、他の古墳については現状ではなんとも言えない。また  埴輪についても採集されたことはない。

 F最後に、これらの前方後円墳の周辺には現在のところマウンドをもつ小古墳等は確認できない。しかし、最  近宇佐市川部高森古墳群の調査で、各前方後円墳の周辺から顕著なマウンドこそないが、小古墳や方形周溝  墓と呼ばれる墓が数多く発見されるようになっており、本地域においても今後注意をしておく必要はあろう。

 

以上である。

被葬者の地位と築造年代 さて、古墳は群を形成することが一般的である。このような古墳群について岩崎卓也は、「古式の大型墳からなる古墳群は、何十年かの間をおいて一古墳ずつ築かれた結果できあがったものが多いようです。おそらく一世代に一古墳の割合でつくられたと考えてよいでしょう。古墳群を一種の共同墓地と考えるなら、それらに葬られた人々は出自を同じくすると言ってよいでしょう。もしそうだとすれば、このような古墳群は首長一族の歴代の墓ということになります。首長の地位が世襲されるときに、このタイプの古墳群が形づくられるといえるでしょう。」と述べている。県内においてこのようなタイプの古墳群をあてはめるとすれば、宇佐国造の祖先たちの古墳群とされる川部高森古墳群が考えられよう。岩崎はさらに「古墳群は川筋ごとに群れをなして分布する場合が多いようです。川筋単位でまとまった部族の歴代首長墓というわけです。このような場合、もしその中の特定の一群に世代ごとの最大規模を誇る古墳が集中していたとすれば、そこの首長系列がこの地域で最有力だったことになり、部族連合の大首長家系であったことも考えられるでしょう。しかし、一番多いのは第一世代で最大の古墳がA古墳群にみられたのに、第二世代のそれはB古墳群中にあたるというように、世代によって最大規模の古墳がいくつかの古墳の間を移動する場合なのである。これは、大首長が、特定部族の一家系に固定することなく、いくつかの部族の間を行き来する。」と述べられている。県内においても、むしろ後者の場合の古墳群が多いように思われる。三重川流域にみられる五基の古墳は、それぞれが、Fで述べたように古墳群を形成していたとは現段階では言えないが、各古墳の墳形が少しずつ異なっていることから、古墳は、順次つくられていったと考える方が妥当であろう。そこには首長権の移動があったものと考えられる。しかし、各古墳の築造年代を知る手がかりの少ない現状ではどのような順番でつくられていったのかは今後の調査を待つほかない。ただ、四世紀から五世紀の前期古墳に認められ一般的な変化として、前方部の発達を考慮しあえて述べれば、大塚・道ノ上古墳が先行し、秋葉鬼塚・竜ケ鼻古墳が後出的である。そして重政古墳がその間に入るかといった程度にとどめざるを得ない。年代についても四世紀後半から五世紀を中心として順次築かれていったものと考えておきたい。

郷土の前方後円墳出現の背景 そろそろ話を本題にもどそう。我が郷土に築かれた前方後円墳の出現の背景についてである。前方後円墳の出現は、大和政権の政策と密接な関係において成立していることはすでに述べた。

 三重町は、古代においては大野郡三重郷に属しており、大野郡の群衙推定地として郡内の中枢部を形成していた。それをさかのぼること約二〇〇年前には、五基の前方後円墳が築かれていたのであり、三重郷の原型となる地域において、巨大な勢力が出現したわけである。大野郡内にこれほどの古墳群が見当たらないことからするとこの地域にすでに、この頃から中心地となっていたと考えなくてはならない。しかし、この時期において、三重郷が他の地域と比べとびぬけて生産力が向上していたとは、三重盆地及びその周辺の地形環境が、他地域とそう変わるものではなく、考え難いのである。つまり、弥生時代以来の内的な生産力の向上のみでは理解できないのである。

 そこで浮かび上がってくることは、竹田市七ツ森古墳出現の背景とされているような、交通・交易の要衝地といった外的要因が考えられないかといったことである。三重町は古代において、豊後国高坂駅(大分市)から大野郡三重駅・小野駅(宇目町)を経て、日向国長井駅(北側)へ通じる官道があったとされている。まさに、三重町の古墳群のある位置は交通路の要衝地であったのである。大和朝廷にとってもこの地をおさえることは、九州支配を行うにあたりきわめて重要な地として考えたに違いない。その支配の証しとして、この地の地方豪族に対して前方後円墳の採用を許したものと考えられる。

 このように考えてくると、生産地が少なく、古墳の立地としてはあまり適していないと考えられる大塚古墳の位置が理解されている。すなわち、大塚古墳は三重郷の中心部に入る東の関門といった位置にあり、大塚古墳の被葬者は三重川をさかのぼる人々ににらみをきかせ、その存在を認めさせる必要があったのではないだろうか。

 注(1)清水宗昭、真野和夫氏教示

 

 

  二 凝灰岩製石棺と小円墳(群)

凝灰岩製石棺の出現 三重盆地は、古墳時代になると前方後円墳が築かれ続け、ここを本貫地として、郡あるいは郷と呼ばれるような領域を支配した首長が出現したであろうことはすでに述べた。ところが五世紀中頃から後半紀になると、この地域の支配体制に変化のきざしがみえ始めてくる。それは今まで姿をみせなかった三重盆地の周辺地域において、新たな石材である阿蘇溶結凝灰岩を加工してつくった組み合せ式の箱式石棺や舟型石棺を埋葬施設とする小円墳(群)が形成され始めてくることである。

 阿蘇溶結灰岩製石棺の分布 加工の容易な阿蘇溶結凝灰岩は阿蘇火山の東麓にあたる大野川流域に多くみられるが、県内では、他に規模は小さいが大分川・番匠川・臼杵川流域、日田盆地を流れる玖珠川・三隈川流域、及び安心院盆地、国東の田染地区にみられ、ほぼ全県的な広がりをみせている。しかし、凝灰岩製の舟形石棺や家形石棺になると、大分平野、佐賀関、臼杵地方の沿岸部から大野川中・上流域(大野・竹田・直入)のいわゆる豊後地域にその分布範囲が限られる。このことは単に石材を入手しやすいといった理由のみでは理解できない。このことについて大分の石棺を整理された清水宗昭・高橋徹は、大分県下の石棺は弥生時代中期に豊前(宇佐など)地方において安山岩製の箱式石棺が認められる。しかしこのような箱式石棺が盛行するのは、弥生時代後半〜終末以降で古墳時代になると、方形周溝墓や前方後円墳などの主体部として広く採用される。そして、豊前地方では前方後円墳などの大形首長は箱式石棺から竪穴式石室や横穴式石室へと主体部の変化が行われる。これに対して、豊後地方とりわけ大分川以南では、弥生時代終末〜古墳時代始めには佐賀関半島に産する結晶片岩製の箱式石棺が使用され、その後凝灰岩製の舟型石棺・家型石棺と古墳時代を通して各種の石棺が引き続き盛行するとし、この種の石棺分布が単に石材の地質学的な分布条件によってのみ決定されるのではなく、すぐれた文化現象であると述べている。

上田原鉢ノ窪石棺群 それでは、このような凝灰岩製の石棺を内部主体とする三重町の古墳について述べていこう。

 鉢ノ窪石棺群は、大字上田原字上田原に所在する。市街地から赤嶺・百枝をぬけ、千歳村の方向へ少し進んでいくと上田原の集落にいたる。御手洗神社の鳥居を左手にながめながら、台地の上へのぼっていくと、農家に隣接した畑地や林の中に石棺が露出しているのがみえてくる。ここが鉢ノ窪石棺群である。石棺群は標高約一四二bの台地縁辺部にほぼ南北方向に並んである。石棺は安山岩製の箱式石棺一基、凝灰岩の舟形石棺二基の三基がほぼ完全な形で露出しているが、農家の庭隅に舟形石棺の蓋の一部が置かれており、合計四基の石棺が現在確認できる。便宜的に南側の石棺から番号をつけて現況を述べると、第一号は舟形石棺で畑の中に石棺のみが露出してある。長さ二〇〇b、身幅八〇ab、断面は蓋、身とも半円形に近い形をし、平面形は四隅が丸味をもつ長楕円形である。蓋の両端部に縄掛突起をもつが棺側にはない。棺身は前後の突起がなく棺側に四個の縄掛突起があるが、平面的は位置は左右は非対称である。棺身、蓋の台口部は両方とも平坦に面取りされている。中からは人骨(女性一、男性二)と鉄刀が出土したと伝えられている。第二・三号石棺は第一号の北側約二〇〜三〇bの位置に並列してある。第二号は安山岩製の箱式石棺で長さ約一八〇abあり、蓋は三枚の板石を鎧重ねしている。第三号石棺は第二号と主軸を同じくして隣接している。長さ約一八〇ab、身幅は破れて動いており、計測が現状では難しいが約七〇abであろうか。蓋の断面は第一号と異なり棟の陵線がかるく認められる山形をなし、平面形は四隅が丸い長楕円形である。両端部と棺側中央に各一対の縄掛け突起がある。特に縄掛突起は第一号が台口部から扶められたように垂れ下がり気味なものに比べ、台口部に平行につくられている。棺身は縄掛突起がなく、断面が半円形に近い形態で、中央に一孔がある。台口部は両方とも平坦である。第四号石棺は農家の庭隅に置かれているので、出土場所などは不明である。石棺は凝灰岩製舟形石棺の一部である。蓋部の約三分の一程度が残っており、端部に縄掛突起が認められるがすでに折れてなくなっている。断面及び縄掛け突起の形状は第三号石棺に近いものである。台口部は平坦である。

 以上が四基の石棺の概要である。それでは、これらの石棺はもともとはどのような埋葬状態であったのであろうか。第四号石棺はすでに原位置を動いているので除くとして、現状では墳丘などの痕跡は確認できないが、他の三基は原位置ないしそれに近い位置での出土と考えられ、小墳丘(マウンド)を有する円墳の埋葬主体の可能性が強い。すなわち、竹田市石舟塚古墳など本地方で広く認められる石棺直葬の古墳と考えられる。さらに注目したいのは、第二・三号石棺の関係である。この二基は位置的にみて、一つの古墳の主体部と考えられるものである。もしそうだとすれば、一つの古墳の中に時期を違えた全く異なるタイプの棺が埋葬されたことになる。このような例は、最近臼杵市神下山古墳(結晶片岩製の箱式石棺と凝灰岩製の家形石棺)でも確認されており、鉢ノ窪例についてもその可能性を強くし、本地域において安山岩製及び結晶片岩製の石棺から凝灰岩製の石棺へと移向する年代を知る好例となるものと考えられる。

下小坂潰平石棺群 つぎに潰平石棺群について述べる。石棺群は、大字小坂字下小坂に所在し、上小坂の大塚古墳から東北へ約一==の標高約一五〇bの台地上にある。石棺群の位置する下小坂の台地上からは三重川を望むことができ、大塚古墳と同じような環境下に形成されたものと考えられる。

 石棺群は古くは賀川光夫により調査され、その後、昭和四十七年に大分県教育委員会によって再度調査されている。調査はいずれも畑地の改良事業に伴うものであった。賀川光夫による調査により二基の箱式石棺が検出され、その内一基が調査された。同教授の報告によれば、石棺の上には墳丘があったらしく、周囲に葺石が散在していたとのことであり、この石棺群についても石棺を直葬する小円墳群であったものと思われる。石棺は長さ一三六ab、幅四五abあり、側板は各二枚の板石を使用している。蓋石は二枚あり、蓋石及び側石の小口板の合わせ部に溝状の仕口が施されている。石材について火成岩と報告しているが、いわゆる凝灰岩製のものと考えられる。中からは、人骨の他に副葬品として二五.六abの鉄矛が出土している。

 大分県教育委員会による調査においても一基の箱式石棺が発掘されており、また、周辺に露出していた舟形石棺についても実測を実施している。箱式石棺は凝灰岩製の組み合せ式箱式石棺で、内法で測ると長さ一六二ab、幅三九abである。組み合せ部にはそれぞれ溝状の仕口を設け、しっかりと組むように加工している。中からは、さし違えて二体の人骨が比較的よい状態で検出されている。副葬品は鉄斧が一点である。舟形石棺はすでに蓋部がなくなっており、棺身のみである。石材は凝灰岩製である。長さ二一六ab(内法で一八三ab)、幅八五ab(内法で五五ab)であり、中央に一孔を設けている。棺身の両端には方形の長さ一〇〜一五ab、幅一七〜二三ab程の縄掛突起がある。

 以上のように、潰平石棺群は合計四基の石棺が確認され、いずれも凝灰岩製の石棺であった。そして、賀川の報告にあるように小墳丘をもつ古墳である可能性がここでも言えるのである。

 その他に三重町には、大字浅瀬字浅水に浅水古墳(径一二b、高さ二b)などの小円墳があるが、その実態は不明である。またすでに消失した古墳もあると聞いている。

凝灰岩製石棺の出現時期と被葬者 それでは、実態の不明な古墳は除くとして、このような凝灰岩製の石棺をもつ古墳の出現時期はいつごろであろうか。高橋徹は、佐賀関から大分平野にかけての地域では、五世紀半ばの時点で御陵古墳や築山古墳にみられるように依然として伝統的な結晶片岩製箱式石棺を使用していたが、臼杵地区では同じ頃すでに、臼塚古墳の舟塚石棺にみられるように阿蘇溶結凝灰岩の切石加工による石棺が出現したとする。そして、臼杵石棺は二基とも半円形に近い棺身や円形で突出する前後端部の縄掛け突起をもつのに対して、竹田市石舟塚・七ツ森A号・鉢ノ窪のものは形態がかなり崩れていることから、五世紀中頃〜後半にかけての、家形石棺が出現する前後の時期が考えられると述べている。このことは、潰平石棺より出土した鉄矛、鉄斧の形態からみて矛盾するものでなく妥当なものであろう。

 そして、凝灰岩の石棺はまず前方後円墳などの大型首長墳に採用され、その後次第に中小の首長墳へ広がっていったものと考えられる。三重盆地の前方後円墳の主体部がどのような施設であったのかは現在のところ不明であるが、このような石棺が使用された可能性が強いと考えておかねばならない。いずれにしても、五世紀中頃以降三重盆地の周辺地域に新たな石材を使用した石棺を主体部とする中小規模の円墳(群)が形成され始めたのは確かなようである。

中小古墳出現の背景 それでは、このような初期群集墳とでも言える古墳の出現をどのように理解すればよいだろうか。最近、興味ある古墳が調査された。佐伯市宝剣山古墳・大分市下ケ迫古墳である。いずれも凝灰岩の組み合せ式箱式石棺をもつ円墳であり、五世紀中頃〜後半の年代が考えられている。注目されることは出土遺物の内容とその豊富さである。宝剣山古墳は三角板鋲留の短甲・鉄剣・直刀・鉄鎧などの武器を中心としたもので、とりわけ短甲は大和政権とのつながりを強く感じさせるものである。下ケ迫古墳についても径六.八abの捩文鏡、鉄剣、直刀、鉄鏃、刀子が出土しており、短甲こそもっていないがやはり武器類を中心とするものであり、被葬者の性格を暗示させる内容である。

 このように、五世紀の中頃〜後半にかけての中小古墳は、武器類を中心とする非常にすぐれた副葬品をもつことが特徴となっている。これは、一面では在地の部族同盟の内部が複雑化し、中小首長層が勢力を伸ばしてくると理解されるが、宝剣山古墳出土の短甲にみられるように中小首長層を大和政権がその支配秩序に組み込もうとした結果であろうと考えられる。また在地首長にとっては農業生産を高めて余力をもってきた中小首長をみずからの支配体制の中に組み入れ、古墳造営の特権を彼らに与えたものであろう。

 

 注(1)渋谷忠章氏教示

 

 

  三 変化した古墳造り

後期古墳の特徴 古墳時代前期には、多量の鏡を中心に、玉類・碧王製腕輪形宝器・農工具・武器・武具など極めて呪術的色彩の強かった古墳の副葬品は、五世紀中頃になると武器・武具の占める比率が高くなり、五世紀後半になると金銅製の馬具・武器・葬身具など朝鮮半島の古墳副葬品と共通する要素が顕著になる。さらに、六世紀に入ると古墳の石室は従来の竪穴式石室に変わって、横穴式石室(古墳の墳丘の横に入り口を作る)という、全く新しい埋葬施設が普及してくる。そして、多量の須恵器(新来のもので、登り窯で焼成され、灰色をした固い焼きの陶器)を中心とする土器の副葬品が一般化する。このように、古墳時代中頃から後半にかけ、中国大陸や朝鮮半島からもたらされた新しい技術や文物は、民衆の生活レベルにまで及ぶ大きな変革をもたらした。

 それは、首長の性格の変化や古墳の造営階層の拡大とも関連して、古墳それ自体の性格及び人々の死後の世界に対する考え方が大きく変わっていったことを示している。

 なかでも横穴式石室は、遺体や副葬品を置く玄室と外部とを結ぶ羨道とからなり、入り口の閉塞石をとればいつでも追葬できる構造になっており、ここが前期首長墳の埋葬施設と異なる点でもあり、いわゆる家族墓的性格が考えられる。

 このような横穴式石室の採用は、大型首長墳にとどまらず、六世紀以降になると、小規模な古墳が全国各地でおびただしくつくられるようになり、これらは小範囲に数十あるいは数百もかたまって存在することから群集墳と呼ばれている。このような群集墳を構成する個々の古墳は、一般に家族墓と考えられている。白石太一郎は、これら古墳の造営は「あくまでもその家長の死を契機とするもので、他の埋葬はこの家長と同じ世代に属する類縁者の合葬を示すものであろう。したがって群集墳とは、いくつかの家族が、家長の死を契機としてそれぞれ一世代一墳ずつ何世代かにわたって古墳を築造した結果累積したものにほかならない」とし、こうした群集墳の出現については「すなわち、五世紀後半、畿内各地の伝統的な諸地域集団をおさえて大王権の優位を確立した大和政権は、各地の共同体の有力世帯の家長層をも直接その支配秩序に組み込み、彼らにその身分秩序の表現として古墳造営を認めたもの」であり「全国的な群集墳の出現は、五世紀後半〜六世紀にかけての大和政権による新しい支配秩序の進展結果にほかならない」と述べている。

 このように、古墳の造営は、古墳時代の後期にあらゆる点で様変わりしていき、今まで古墳を造営できなかった階層の人々にまで拡大していった。このことは反面中央体制の強化でもあったのである。ところが、このような全国的な動きの中で、大分とりわけ豊後地域は、新たな埋葬施設である横穴式石室を採用した古墳・群集墳はあまり普及しなかったようであり、次に述べる横穴墓と呼ばれる墓制が五世紀後半〜七世紀にかけて広く採用されてくることが最大の特徴となっている。

初期横穴墓川辺十六山横穴墓の調査 横穴墓とは、石材を積み上げて構築する石室の代わりに、山腹や丘陵の崖面に横から穴を掘って遺体を埋葬する室を作り出したものである。構造的には横穴式石室と同様で、羨道・玄室をもち二つの室をもつ複室構造をとる場合もある。このような横穴墓は各地でみられる群集墳の起こりと軌を一つにして認められるものであり、新出の墓制である。

 十六山横穴墓は、昭和五十七年初夏、県道の道路工事資材として使用する凝灰岩の採土作業中に偶然に発見された。町教育委員会は、県教育委員会と協議を行い、昭和五十七年六月二十五日から二十九日にかけて発掘調査が実施された。横穴墓のある地点の丘陵(山)は、通称「十六山」と呼ばれており、大字川辺に所在している。横穴墓は、標高約二〇〇bの丘陵南斜面の最上部において、入り口を南側に向けて一基発見された。横穴墓は阿蘇凝灰岩層を穿ってつくられているが、すでに工事によって天井部の一部から羨道部にかけて破壊されており、閉塞施設として使用していた板状の蓋石(凝灰岩製)が散乱していた。しかし、幸いにも玄室の内部は破壊を免れたため、遺物等の保存状態は良好であった。では具体的内容について述べていこう。

 横穴墓の玄室は長さ一.六五bあり、横長の不整楕円形である。断面は蒲鉾形をなし高さ約八〇abある。天井部と側壁との境は全体的に不明瞭で、床面玉砂利状の礫を敷いた礫床である。玄室の壁面全体には真っ赤な朱が塗布されているが、その他に床より約一五abの幅で帯状にクリーム色の顔料状のものが朱に付着している。もしこれが意識的に塗布されたものであれば玄室内が赤とクリーム色で彩色されていたことになり、きわめて注目すべきものとなろう。

 玄室内からは、二体の人骨と多くの副葬品が検出された。二体の人骨は遺存状態が比較的良好であった。九州大学医学部の永井昌文博士の分析によると、一体は年齢約四〇代後半の男性(奥壁側の人骨)であり、もう一体は年齢三〇代の女性とのことであり、男性人骨の頭部〜胸部にかけて水銀朱が付着し真っ赤になっていた。副葬品は、全長八四.七abの切刃造の大刀、全長四一.九abの剣、全長三六.八abの鉾、全長九.二abの鹿角柄に装着した刀子、二四本の鉄鏃、毛抜形をした鉄器、さらには、直孤文を配した鹿角製刀剣装具、朱を入れた複線の刻文によって装飾した鳴鏑などが出土している。そしてこれらの副葬品は人骨の位置や重複状態、及び副葬品の配置など細かくみていくと、初葬人骨である男性に対して行われている。

 さて、このような十六山横穴墓の構造、副葬品は、県下の既往の調査例からしても古式に属するものである。すなわち、横長の楕円形プラン、玉砂利を敷いた礫床、鹿角製の刀剣装具、毛抜形鉄器、鉄鏃の形態、馬具や耳環等の欠如などからみて五世紀後半〜六世紀前葉が考えられる。このような時期の横穴墓について最近、六世紀中頃以降普遍化する横穴墓に対する言葉として初期横穴墓と呼ばれている。

 横穴墓は一般的に横穴式石室をもつ古墳より下位の階層(庶民層)の墓制として採用されたといわれている。しかし、十六山横穴墓の副葬品の内容は、先に述べた五世紀中頃〜後半に出現した凝灰岩製の石棺をもつ中小の古墳の内容ときわめて似ており、なんら劣るものではない。四〇代後半の男性とされる被葬者は、中小古墳の被葬者と同列に評価されるもので、小地域を基盤とした在地首長(下級豪族)とみることができるであろう。このことは、最近の豊前・豊後地域で調査されている初期横穴墓の状況からみても傍証され、横穴墓の採用は、当初においては在地首長の新たな墓制として導入された可能性が強く、武器を中心とした厚葬の風が依然としてなされていたと考えられよう。

縄文的なごりのある十六山古墳人 昭和六十年四月、九州大学医学部において、第九〇回日本解剖学会が開催された。このシンポジウムは「国家成立前後の日本人―古墳時代人骨を中心にして―」がテーマとしてとりあげられた。それは、国家成立前後の日本は、大陸からさまざまな文物が帰化人によってつぎつぎにもち込まれた時代であり、この時代に大陸から移入された文化や体質が日本民族の形成に、また日本の成立にどのような影響をおよぼしているのかを、古墳人骨を素材として、形質人類学の立場から検討しようとするものであった。またシンポジウムは、日本列島を弥生文化の先進地域であった北部九州・山口地方、大和政権の中枢部にあたる畿内を含む近畿・中国地方、その辺境地域またはその支配外にあった南九州、及び関東・東北地方の大きく四地域に大別して、頭蓋骨・四肢骨の古墳時代を中心とする時代変化・地域変異などを地区別及び総合的に検討し、古代日本における政治的・文化的格差と体質の地方差との関連を明らかにすることによって、日本人の成立の状況をより細かく考察することを目的としたものであった。

 その中で、北部九州・山口地方の古墳人骨を(担当)された永井昌文から、興味のある発表がなされた。

 永井は、竹田市十一横穴墓・三重町十六山横穴墓・玖珠町寺山横穴墓など、九州の屋根と言われる九重山の北麓や南麓の古墳人は、上顔高の平均値は七〇.三_b、眼窩指数が七七.一_b、身長は低く一五八.三abで、縄文的なごりをとどめた在来タイプの人骨であるとされた。すなわち、北豊前・筑前地域には北部九州弥生人の形質を保持する高身・高顔のいわば渡来型ともいえるような古墳人が比較的多くみられ、この地域をあたかも、同心円の中心とするかのように周辺に向かって次第に低身・低顔のいわば在来型の傾向が強まり、その極致が豊後山地の横穴古墳人に代表される。一方、北豊前古墳人は近畿の古墳人とも類似度が高く、畿内型古墳が九州で最初に築かれた地域であることからすれば非常に興味深いと述べている。

 また、低身・低顔の在来型の多い豊後の中にあって、北海部郡臼杵市の海岸部に築かれた大きな前方後円墳である下山古墳の被葬者の頭蓋について、次のように述べている。豊後でも、山手のほうには、顔高の低い、いかにも縄文人的顔をした人が多いが、下山古墳の被葬者はそれに反して高顔である。豊後の中でのこの違いを階層差(位の高い人)であると簡単に片付けられなく、また生活環境が変わって、早急に顔や身長が高くなるわけでもない。ある程度遺伝的要因を考えなければならないとして、このような高顔のタイプが、ときに海岸部に現われることは、重要な示唆を含んでいるとされた。

 このことは、畿内地方の影響が直接的に反映する海岸部のことであり、高顔の被葬者の人物像を考えるとき実に示唆に富んだ見解といえるであろう。

 以上のように、永井博士の研究成果によれば、今から約一四〇〇年前、十六山横穴墓に葬られた年齢四〇代後半の男性首長は、縄文人的なごりを残し、身長の低い、顎の張った四角い顔をもった人であった。これは、渡来型とされる面長でスラッとのびた身長の人とはずいぶんと異なる風貌をしていたのである。しかし、この十六山古墳人に代表される特徴は、我が三重町に住む人々の祖先の姿そのものであった可能性は極めて強いと言えるであろう。

 三重町のみなさん、自分の顔を鏡に映してみていただきたい。あなたは縄文的なごりのある在来型か、それとも渡来型であろうか。

農民層の台頭 六世紀の中頃以降になると三重町のあちこちに横穴墓が築かれるようになる。たとえば、大字浅瀬字浅水の岩屋迫横穴墓群、大字浅瀬字乙黒横穴墓、大字宮野字敷手にありすでに道路工事により消滅した敷手横穴墓群、大字宮野字宮尾の横穴墓、大字百枝字穴井の穴井横穴墓群、大字向野の向野横穴墓、大字川辺字迫の迫横穴墓、大字内田字六反田の内田横穴墓、そして大野郡で最大規模の大字赤嶺字竜ケ鼻横穴墓群などである。これらの横穴墓群の時期については、その大半が調査されたことがなく、またすでに開口していたりして、不明のものが多い。しかし、豊後における最近の調査によると、おおむね六世紀後半〜終末を中心とする時期に集中しており、本地域の横穴墓群についてもその形態的特徴からみて、同様の時期が想定できよう。

 さて、横穴墓群のこの時期にいたっての普及は、今までみられなかった沖積地・支谷・谷戸といったところまで人々が入り込んだことを証明しているのであるが、それは単に新たな墓制が人々に流行したといった側面のみではなく、今まで進出が困難であった半湿田、乾田といった可耕地への開発が進み、生産力の向上がはかられた結果であることを考えておかなくてはならない。そして、それを可能にした鉄鍬・鋤などの鉄製農耕具の普及を見逃せない。また、この時期になると弥生時代以来の住居形態についても急激な変化をみせている。前代までは住居内の火の施設は炉を中心としていたが、竹田市楠野遺跡・朝地町田村遺跡・大分市地蔵原などにみるように、住居の壁に付設されたカマドがそれに代わり、すべての住居に屋内貯蔵穴が加わり、カマドを中心とした厨房の一角が住居内に形作られ、須恵器や土師器の日常土器の形態等を含めた生活様式の一大変革がなされている。

 このことは、集落(ムラ)の構造面でも、また農業経営の分野でも一段の変貌をなしとげた農民層の姿が想定されるのである。

大野郡最大の竜ケ鼻横穴墓群 大字赤嶺字竜ケ鼻に所在する。三重駅から大分方面に少し進むと車窓左手につつじ公園がみえてくる。このつつじ公園のある西側の斜面をよくみると、小さな穴があいているのがよくわかる。この穴が横穴墓群である。この横穴墓群のすぐ上の丘陵上には竜ケ鼻前方後円墳が作られている。

 横穴墓群は、戦前から知られており、大戦中は防空濠として、また戦後は浮浪者が住み着くなどしており、旧状を大きく改変されたものも多い。昭和四十一年に玉田建設による採土作業が行われた際に、新に一基の横穴墓が発見された。当時、三重中学校教諭であった芦刈政治が中心となり記録が作成された。また、古墳群の西端に位置する麻生恭一宅には宅地造成の際に出土したと伝えられる遺物がある。このようにいく度かの調査や出土品の採集が行われているが、正式な報告が一度もなされておらず、その実態はよくわかっていなかった。

 そのようななかで、昭和四十三年竹田高校民俗クラブにおいて、古墳群の現地踏査と遺物の調査を実施しており、この成果の発表がなされている。ここでは、この報告をもとにして、その後つつじ園造成の際に新たに発見された六基の横穴墓を追加し、その概要を述べていくことにする。

 民俗クラブの調査では、古墳群は大きく三群に分かれるとし、南斜面の上段にあるものをA群、中段をB群、下段をC群としている。横穴墓は、すべて南側に入り口をもっている。A群は現存するもので一基ある。崩壊がはなはだしく、正確な数は不明であるが、他に五基程度存在していたものと考えられている。横穴墓の玄室形態は屋根形をなすもので、麻生宅所蔵の遺物(須恵器数点と管玉・小玉など多数採集されている。)は、この横穴墓からの出土の可能性が高い。B群は最も残りがよい。九基が確認されている。大半は平面が方形でドーム型のものであるが、最も東側に位置する横穴墓(B群一号)は屋根形をなしている。さらに、最西端のもの(B群九号)は、小型でU字状をなすものとしている。

 この群の中で最も注目されることは、玄室が前室と奥室からなる複室構造をもつものが二基(一・二号)存在し、また、羨門部の造り出し部に雲形に彫り出された装飾が三個みられることである。もし、この雲形装飾が当時のものであるとすれば、本地域では他に例がなくきわめて重要な発見となろう。C群は三基確認されており、一基は大半が崩壊し、形状が不明であるが、他の二基は方形のドーム形をなすものである。

 次につつじ園造成の際に六基の横穴墓が発見されている。この六基の横穴墓は先に述べたA・B・C群からさらに東側に位置し、竜ケ鼻横穴墓群の東限を画する群(D群)として把握することができる。D群は、A・B・C群のある斜面の最下級部が東に向かって、しだいに南に折れ、一つの区切りを形成する。この斜面の変換点あたりから、南側へ入り口を西側に向けて六基つくられており、竜ケ鼻墓群中最も下段につくられた群である。

 形態についてみると、羨門部に一段の造りをもうけ、平面は横長(平入り)、縦長(妻入り)の隅丸方形をなし、断面は奥壁を形成せず、天井の低いドーム形をしている。

 以上、竜ケ鼻横穴墓群は、これまでの調査で判明している総数は一九(+五?)基である。

 さて、次に出土遺物についてであるが、今までこの周辺からは比較的多くの出土遺物が知られている。その大半が昭和四十一年の玉田建設による工事中に発見されたものである。しかし、その遺物の出土場所、状況についてはあまり明らかではない。ただ、この遺物の発見に際して調査した芦刈政治によると、B群一号墳の奥室には二体の人骨があり、一体は頭部を羨門に向け奥室右側に安置され、頭部周辺に一体の耳環と玉類が数点散乱し、さらに一体は室最深部に前人骨の足部に頭部が接して羨門に直角に安置されていた。そして、前室より小溝によって連なる奥室の小溝の中に土師器碗が発見されたとのことであり、工事中に採集された遺物の大半は、B群一号墳を中心とする供献品および副葬品である可能性が高いものであろう。

 民俗クラブの調査した遺物のリストは次のとおりである。

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鉄器・二〇・           ・・装身具・二六・     ・・土 器・一一・        ・====================================================================================================・太刀・ 二・大         一・・玉 類・二一・曲 玉 三・・須恵器・ 八・甕破片    二・・  ・  ・(全長六六ab)   ・・   ・  ・管 玉 三・・   ・  ・坏身     二・・  ・  ・小         一・・   ・  ・切子玉 六・・   ・  ・蓋付坏(身) 二・・  ・  ・(全長二三.五ab) ・・   ・  ・丸 玉 六・・   ・  ・破片     二・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   ・  ・小 玉 三・・・・・・・・・・・・・・・・・・・刀子・ 五・           ・・・・・・・・・・・・・・・・土師器・ 三・碗      一・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・耳 環・二対・     ・・   ・  ・破片     二・・鉄鏃・ 七・           ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・銅 釧・ 一・     ・                 ・馬具・ 六・雲珠        一・・・・・・・・・・・・・・・                 ・  ・  ・杏葉        三・                               ・  ・  ・環         二・                               ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・                               

 これらの遺物は、現在、玉田家より町公民館に寄贈されており、大切に保管されている。公民館には、これらの他に、竜ケ鼻横穴出土と伝えられる遺物が若干あり、その中に、中央部に巻貝のカラの頂をはめ込んだ辻金具(貝製雲珠)などもある。

横穴墓の築造年代 さて、三重町に分布する横穴墓の年代については、他地域との形態的比較などから、六世紀後半〜末を中心とする時期に集中するであろうと想定した。これは、基本的には間違いないと思われるが、竜ケ鼻横穴墓群の採集遺物をみると、この古墳群の築造年代には、もう少し年代幅があるようである。それは、貝製の辻金具と小形化した須恵器の坏・蓋の存在である。貝製の辻金具は、福岡県山門部瀬高町大草横穴墓・大分県日田市天満一号前方後円墳・ダンツラ古墳・吹上古墳などからも出土しており、これらの古墳の遺物の特徴からみて六世紀中頃前後の年代が考えられる。さらに、小形化した須恵器の坏・蓋の形態的特徴は、最近の須恵器の編年研究からみて七世紀に下るものである。

 このように、竜ケ鼻横穴墓群は、六世紀中頃〜七世紀中期の長期にわたり営まれた、大野郡内で最大規模をもつ群集墳といえる。他の横穴墓をみると、一〇基前後のものと四〜五基程度の小規模のものに分類でき、竜ケ鼻横穴墓群のように二〇基をこえると思われる古墳群はない。

 それでは、このような横穴墓群の被葬者層についてはどのように考えたらよいのであろうか。初期横穴墓(五世紀〜六世紀前半)については、在地小首長のようなごく限られた人々が埋葬されたであろうことは、十六山横穴墓などの状況から判断された。そして、六世紀後半頃になると、最近における福岡県竹並遺物や大分県中津市及び三光村にまたがる上ノ原遺跡などの調査成果によれば、父系の血縁者で支配された家族墓(家父長制的世帯共同体)であることがしだいに明らかになってきた。

 小田富士雄は上ノ原横穴人の段階は、まだ非家父長的父系段階に相当するものとし、この段階では家父長制家族社会が確立したとはみていないとし、上ノ原横穴墓群の被葬者は、大化改新詔にみえる「村首」以上に出ないクラスと考えている。以上のことから、横穴墓の被葬者を類推すると横穴式石室墳ないしは巨石古墳のような、平野や盆地などの広い地域を治めた在地豪族よりずっと下位の、一村落首長以上には出ない階層の家族墓とすることができよう。横穴墓の被葬者層については、基本的には右にみた見解が妥当なものと考えられる。しかし、竜ケ鼻横穴墓群の被葬者層を一村落首長程度と考えてよいのであろうか。

 本地方は、六世紀以降、横穴石室墳ないし巨古墳は確認されておらず、また、これらを主体部とする群集墳も認められない。このことは、一見今まで前方後円墳を築いてきた在地豪族(部族)の勢力が、六世紀以降急激に没落したかのようにみえる。はたして、そのように考えてもよいのであろうか。

 初期横穴墓の系譜について、村上久和は、五世紀前半代に成立する初期横穴式石室ないし、竪穴系横口式石室にもとめている。また、山本清は横穴墓は横穴式石室や家形石棺の影響下で発生したもので、整正な家形のものが最初につくられたとしている。本地方は石棺の伝統が特に根強く残る地域であり、家形石棺が五世紀後半頃出現したとみられることから、横穴墓の系譜は、村上説とともに家形石棺の影響も十分考えられ、新しい要素と前代からの要素がミックスした新たな墓制へと移向したものと考えられる。このように、本地域は、横穴式石室墳や高塚の群集墳は根づかないといった地域的特殊性がうかがえる。

 以上のことから、竜ケ鼻横穴墓群についてみてみると、横穴墓は大野郡内で最大規模をもつこと、生産性の高い三重盆地内に唯一立地していること、家形の複室構造をもち、優秀な副葬品を豊富にもつB群一号墳などが存在することなどの特徴があげられる。これらの特徴は、この横穴墓群が単に一村落首長クラスといった状況を示しているのではなく、この地域を代表する在地首長的性格をもった豪族とその家族の墓地としてもあながち的はずれではないのではなかろうか。

 そして、次の律令時代には、三重町に設置されたとする大野郡衙の郡司となる人物がこの中から輩出したかもしれない。

 

 (1)白石太一郎「日本古墳文化論」『講座日本歴史』原始・古代1 昭和五十九年

  (2)現在のところ大野川上・中流域では大野町尾崎古墳があるのみである。大分県教育委員会『大分県内     跡詳細分布調査概報』2 昭和五十八年

  (3)永井晶文「国家成立前後の日本人 北部九州・中国地方」『季刊人類学16−3』昭和六十年

  (4)竹田市教育委員会『楠野』昭和五十八年

     朝地町田村遺跡については、村上久和氏教示。

     地蔵原遺跡については、讃岐和夫氏教示。

  (5)真野和夫「古墳時代」『大分の歴史』1 昭和五十一年

  (6)竹並遺跡調査会『竹並遺跡』昭和五十三年

     大分県教育委員会『上ノ原横穴墓群』T〜W 昭和五十七〜六十年

  (7)小田富士雄「国家成立前後の日本人・コメント・」『季刊人類学16−3』昭和六十年

  (8)村上久和「豊の横穴墓」『えとのす』29 昭和六十年

  (9)山本清「横穴墓の型式と時期について」『島根大学人文科学論集』11 昭和三十七年

 

 

 四、古墳造りの終わりと律令時代へ

磐井の反乱 六世紀代になると、各地に大和政権に属し、その地方官僚的身分である国造・県主などに任じられた地方豪族の中から、地方を代表するような大豪族に成長した氏族が現れてきた。そして、吉備・築紫地方などに一〇〇bをこえる大形前方後円墳が次々とつくられるようになった。そのころ大和政権は朝鮮半島において、新羅との対外関係を好転させるためにも、国内の支配体制を強化する必要があった。そして、やがて地方に対する支配を旧来の在地首長を通じての間接的支配から、そのころ自立をはじめた個別家族(家父長制的家族)の直接的掌握への方向をとりはじめた。大和政権がこのように地方支配の強化を進めるようになると、地方豪族の中から大和政権への反発的行動をとるものもみられるようになった。九州地方では、記紀に伝えられている築紫国造磐井の反乱伝承(継体天皇二十一年・西暦五二七年)が有名である。

 磐井の反乱については、福岡・佐賀・熊本・大分にまたがる豪族たちと同盟関係を結び、その盟主的地位にあった築紫政権の代表者となった磐井が、官軍と一年有余にわたり戦闘を繰り広げたとされている。後藤宗俊は、この反乱にあたり、二豊(豊前・豊後)の在地首長の動きについて、いわゆる石人・石馬文化圏の一末端として捉えるべきでないとし、これを除けば二豊の在地首長が築紫国造を中心とする部族同盟の傘下にあったとすべき例証はない。むしろ、大化前代の二豊の位置づけは大和政権の九州進出への拠点というところにあり、あえて築紫国造の傘下の在地首長を指摘するとすれば、筑後川水系にあり、筑後の系統に立つ彩色の装飾古墳をもつ日田の玖珠地方をあげ、磐井は豊後・豊前の一部と肥国の一部を巻き込んで反乱を起したとみるのが正しいと述べており、大和政権は宇佐・大分および海部地方とりわけ沿岸部の地域について、背後に存在する筑・肥の強大な豪族に対しきわめて重要な政策的地域としておさえていた可能性を考えている。そして、二豊の地は筑紫君といったレベルの大形首長は出現せず、各個の在地首長は、大王の秩序にいち早く組み込まれたものとされている。

 三重町についても六世紀には大型首長墳の出現はみられず、竜ケ鼻横穴墓群程度の群集墳が存在するのみで、本地域におけるこの横穴墓群の位置づけは先に述べたように比較的高く評価されるとしても、相対的地位の低下は否定できない。

古墳造りの終わり 以上のような大和政権と地方豪族との抗争は、六世紀半ばになるとおさまり、大和政権によって圧倒された西日本の各地には、前代までにみられた全長一〇〇bをこえる大古墳は激減し、規模の面で大きな変化をみせる。そして群集墳の造営が、こういった抗争以降に盛行期を迎えていることをみても、大和政権の支配強化と深く関わることを増していったものと思われる。

 しかし、六世紀後半になってくると、大和政権を中心として、各地の首長層の間に設定されていた同族関係を原理とする支配秩序の象徴としてつくられ続けた前方後円墳も姿を消してくる。畿内では、このころ大王をはじめとする有力豪族たちは、中国王朝にならって大規模な方墳ないし円墳を営むようになり、巨大な石を積み上げた横穴式石室をもつ巨石墳となる。

 このように、三〇〇年間もつくられ続けた前方後円墳の終りについては、仏教文化をはじめとする大陸文化の影響による薄葬思想(大化の薄葬令)の普及とともに、前方後円墳の造営が政治秩序の維持にもはや機能をはたさなくなった結果とみられており、しだいに国家による個別家族支配へ傾斜し、新たな人身支配体制による律令時代へと移行していくのである。

 

 注(1)後藤宗俊「大和国家の成立と二豊の在地首長」『大分県史』古代篇T 昭和五十七年

 

 引用・参考文献

  小林行雄 「古墳の話」『岩波新書』昭和三十四年

  岩崎卓也 「古墳時代の知識」『考古学シリーズ』6 昭和五十九年

  芦刈政治 「古代」『三重町誌』沿革編 昭和四十一年

  清水宗昭・高橋 徹 「大分の石棺」『九州考古学』第56号 昭和五十七年

  芦刈政治 「原始時代」『三重町誌』沿革編 昭和四十一年

  佐伯教育委員会 『宝剣山古墳』昭和五十五年

  渋谷忠章 「大分地方の古墳」『えとのす』29 昭和六十年

  白石太一郎 「日本古墳文化論」『講座日本歴史』原始・古代1 昭和五十九年

  三重町教育委員会 「十六山横穴墓」昭和五十八年

  竹田高校民俗クラブ 「竜ケ鼻横穴古墳の調査」『研究資料シリーズ第八集』昭和四十三年

  内脇禎二・甘粕 健 『民衆氏の起点』日本民俗の歴史1 昭和四十九年

  北九州市 『北九州市史』総論先史・原史 昭和六十年

  真野和夫 「古墳時代」『大分の歴史』1) 昭和五十一年

 

 最後に、大分県教育委員会文化課の小柳和宏氏には、弥生時代の項を執筆するにあたり、原稿作成・写真・図版の作成など多大な御協力をいただいた。記して感謝申し上げたい。

 

                                                  

時代」『大分の歴史』1) 昭和五十一年

 

 最後に、大分県教育委員会文化課の小柳和宏氏には、弥生時代の項を執筆するにあたり、原稿作成・写真・図版の作成など多大な御協力をいただいた。記して感謝申し上げたい。