第一章 経済(生産・運搬・交易)

 

    第一節 農耕

 

  一 稲作

 明治政府は富国強兵を国是に殖産興業政策を推進したが、農業改良の指導を始めるのは日清戦争後のことである。現在、記憶されている稲作法は明治三十年代以後、県の指導の下に町・村によって奨励されたものであることは、明治時代末に刊行された大分郡の各『村是』の稲作が、ほぼ同文であることによって知れる。残念ながら大野郡の村是を目にできないので、大分郡狭間村の「村是」を引用しながら、大正〜昭和初期の稲作の概要を記す。

品種 大正時代まで、上赤嶺では四国稲が多く栽培された。中稲で草丈が高く味は良かったが、特有のにおいがあったために嫌われるようになった。その後、「収穫多量ニシテ品質良好、最モ地方ニ適スル」品種として、最も多く栽培したのは大分三井である。大分三井は中稲で、当時としては丈が低く、実入りが良く、籾はあえ易かった。一品種だけでは「年ノ気候ニヨリ収穫上ニ影響」が起こるから、「早・中・晩共、協同販売ヲ行フニ適当ナルモノヲ精選シテ」、一定しておく必要があった。大分三井の他に記憶されているのは、雄町・明治(森迫)、玉田稲・神力(宇対瀬)であった。雄町は早稲で、丈が高くて倒れ易かったが味は良かった。明治は晩稲で、収量は多かったがまずかった。玉田稲も晩稲で、丈が高く、稈が強くてトキワを刈る感じがした。籾殻が厚くて味は良かった。神力は中稲で、丈が低く、大分三井より味は落ちるが収量は多かった。現在のくじゅうは丈が高くて倒伏しやすい。

 種子の交換は、「良種ヲ得ルノ一方便ナリト雖、猥リニ行フモ決シテ利益アルモノニアラス」とした。森迫では、種籾交換の効果については懐疑的であったが、三年に一度は全部か半分くらいを、地区内の知り合いに交換してもらった。種籾は立毛の間によくできている箇所を見ておき、扱ぐときに扱ぎ分けた。貯蔵は「寒暖ノ変動ナリ、且湿潤ナラサル処」として、土蔵がない場合はニワ(土間)に、鼡害防止の杉葉をさしたり、梁にぶら下げた。下赤嶺には専用にかめを用いた家もあった。所要量が二斗であれば三斗は貯蔵した。

水利 明治中期、大野郡の潅漑状況は、「河水ヲ用ユルモノ凡四分八厘、溜池ニヨルモノ三分、渓水一分、天水一分トス」とある(『大分県農事調査』)。その後、かなり潅漑施設が整備されたと思う。例えば、久部二〇町六反の潅漑用水路のうち、最大潅漑面積の久中水路(一二町)は緒方三郎が開いたと伝え、樅ノ木水路(六反)は明治初年に造られたが、石ノ上水路(一町八反)は昭和八年、八坂水路(六町)は昭和三十年に開設されている。しかし、地理的条件を反映して用水事情は地区によって異なる。前記の久部は水路がかりであるが、宇対瀬二〇町は溜池(大谷・伊立・ヒュウガシ・タテイワ)がかり、川辺七〇町のうち約三五町は溜池(谷合・世原・天ケ瀬・ウソ・正明寺・平前)と天水がかり、残り三五町は昭和四十三年から電力ポンプによる揚水である。電力用水による開田は久原・広瀬でも行われた。

 宇対瀬の水路は、痛み易い箇所は三和、他は素掘りのままであった。ヨケ(水路)さらえは農家の総公役である。午前中に草切りや泥さらえをし、午後は不良箇所を三和で補修した。終了後、ヒュウガシかタテイワの溜池にお神酒を供え、氏神様でお神酒上げをする。森迫も堤普請は公役で、栓抜きは当て公役である。

 水引き(宇対瀬)・水番(川辺)は正月七日の初寄りで決める。たいていは希望者の入札であるが(宇対瀬)、希望者がなければ期限を決めて募り、それでもない時は区長から頼む(森迫)。川辺では投票で決め、春田がかり・麦田がかりのいずれにするかは当事者が話し合う。期間は二月一日から満一年間(宇対瀬)、八十八夜から秋彼岸(川辺)までである。水給は各地区とも受益面積に応じて耕作者が負担する。宇対瀬では区の役員が計算して通知しておき、当日は法螺貝で水給量りを知らせると、各戸が玄米を水引きの家に持参していた。

 宇対瀬では水田の水が不足すると、苗代用に五月十五日ごろに池の栓を抜き、その後、四〇日以内に田植え用の通水をする。支線はないので水は田を通すから、田植えは本線の水口から漸次下方へ下る。川辺では苗代作業が始まれば池の栓をゆるめる。最初の栓抜きは耕作者の総会か世話人会で決め、その後は水番が責任を持って抜く。田植えの際は上手の田から順次に水を入れるので、夜半に荒代作りをせねばならぬこともある。次の田に水を送る順番になれば、水口だけでは間に合わないので、水番が上の田の畦を何箇所か切り落とす。水不足の年は末端の田まで水が届かないことがある。

田植え後は水番が日に二度は見まわって水量を調節し、耕作者が勝手に調節してはならない。川辺ではモグラモチ・アゼホグリが開けた穴は水番がふさぐが、宇対瀬・森迫では耕作者の責任である。

肥料 明治中期の「大分県農事調査」では、大野郡の肥料は人糞尿・油粕・廐肥・青草・魚鱗で、油粕は搾油商、海産肥料は臼杵地方で購入した。また、平均的な稲作反当施肥量は人糞尿二荷、厩肥二〇荷、麦稈・青草二七二貫であった。

 大正〜昭和初期も基本的には大差がなかった。人糞尿は自家だけでなく、町家のも汲み取らせてもらい、年ごとに糯米一〜二斗の礼をした。田の隅に腐熟させる肥溜を設けてなかったから、汲み取った人糞尿を二倍に薄めて施した。青草は畝当たり一駄=六把を入れた。小坂では、田植え前に共有の草場をワリヤマ(分割)してくじ引きで場所を決め、数戸がヨンネ(寄り合い)で切っていた。宇対瀬では、荒代を掻いてから荒肥・麦稈などをムクル(すき込む)。荒肥の量は畝当たり一駄か二駄で、一駄は六カガリである。イラ(魚鱗)は田植え前や追肥に使った。イラの塊をショウケに入れてもみほぐして施した。一番草の前には大豆粕や油粕を施した。一個七貫の大豆粕を砕いて反当たり十貫、一玉五貫の油粕は反当たり七貫くらい使った。二番草前には実肥として煮干鰯やイラを施した。

牛の飼育が盛んであった大野郡では、主として馬屋の敷き草を堆肥とした。次に久原の例を記す。五月末から伸びたササゴを一番草として切った。朝草切りは、田植え終了後の七月上旬から十月上旬までであった。たいていの人が牛一頭を連れて行き、一駄と一荷を切った。四把を藁に混ぜて切って飼料にし、残り四把を敷草にした。冬は藁、その他の時期には麦から・干し草などを敷草にする。敷草は月に二まわくらい落し小屋にタテル(掻き落とす)。雨降りの日などに、積み重ねてザル(人糞尿)を打って肥そめをする。敷草をタテては肥そめを繰り返して堆肥を作る。麦作の時に反当たり一〇塚(三〇〇貫)を施す。一荷が一〇貫で、三荷を一塚と言うから一塚は三〇貫である。牛一頭で五反分=五〇塚=一,五〇〇貫の堆肥ができる。なお、明治中期の大野郡の平均的裸麦作反当施肥量は、堆肥一六〇貫、人糞五〇荷である。

苗木 塩水選をした籾種を「桶中」に浸し、浸種日数は「十日以内」であった。塩水の濃度は、生卵の上部が一銭玉ほど水上に出るのを目安とした。種樅は良く水洗いして塩分をなくし、四とたる・五水桶に浸した。

苗代田は、「向陽暖照ニシテ潅漑・排水ニ便」な田を選んだ。「可成秋末荒起ヲナシ置キ」としたが、他の田と同じように春彼岸ごろに起こすのが普通であった。肥料は下肥を打って馬鍬で掻いてから、藁切りで切った蓮華草を畝当たり一〇把ぐらい広げ、過燐酸などの化学肥料を使った。短冊型の上げ床になっていたが、濁り水が流れ込んで播き代が見えない所では、上げ床をせずに踏み切って播いた。五月上旬の「天気静穏ノ日」に播種し、量は段当五升くらいであった。

耕起 一毛作田は新暦一月にすくのを理想的とした。早く起こすと乾燥して水が溜らなかったり、草が生えたりしたので、粘土質の田は寒ずきした。多くの田は三・四月に降雨後の土が柔らかい時にすき、彼岸が春田起こしの最盛期であった。四月下旬から五月上旬に本ずきをした。麦収納は五月下旬から六月上旬、小麦収納は暦の入梅までに終れば良いとした。麦や小麦の跡地は畦切りしてから本ずきをした。

代掻き 田に水を入れ、荒代を掻いてから畦を塗る。代掻きは早過ぎれば代がツム(固くなる)。荒代を掻いてから荒肥・麦からなどをムクル(すき込む)。荒代を掻かずに荒肥をムクルことをダマシという。植え代掻きは長目・横目・逆目・本目・なる目の五回である。逆目は田の外側から内側へ左まわりに掻いた。

田植え 田植えの最盛期はチュウ(夏至)のころである。水ガカリの良い上手の田を予め家族で植え、親類や縁故と組むヨンネ(寄り合い)組で主田植えをした。男衆は代掻き・苗運び・綱引きをするので、女子衆が苗取りや植え手になった。苗は前日から取り、桶や一斗罐を腰掛けに使うこともあった。田植えには、七・八寸ごとに赤い印をつけた植え綱だけを使い、男二名が綱を長目に引き、目見当で順次に移動させた。

除草 田植えから二週間後に、カナナオシ(株直し)といって一番草を取った。倒れている株を起こしたり、補植しながら手で田を混ぜた。さらに二週間後に二番草で、ガンヅメ(蟹爪)で打っていたが八反取りになった。二番草を取れば、倒伏を防ぐために麦田は数日間、春田は一週間以上中干しをした。さらに二週間後の三番草は残り草を拾って歩いた。穂が出てからタナグサ取りといって稗を抜いた。

稲刈り 秋彼岸後に水を落とし、ジル(湿)田は畦元を掘って排水を良くし、刈った稲で焼き米を作った。十一月三日を「地獄入り」の休業日にして、翌日から一斉に稲刈りを始めた。大正末に鋸鎌を使うようになった。刈った稲は麦田では野干しにし、春田は束ねて下の田に穂を向けて干した(川辺)。下赤嶺では株の上に穂を重ねるジガ(直)干しにし、架乾しにするようになったのは昭和二十七年からである。

脱穀 田に莚五枚を敷き、稲を集積して千歯で脱穀した。午前九時から午後六時までに六俵くらい扱ぎ、坪に運んでふるいでふるって唐箕にかけた。足踏み機械になると、籾が飛散するので莚一〇枚を敷き、竹を立てて古蚊帳を張りまわした。機械は一人踏みから二人踏みになった。二人踏みは調子が揃いにくいし、稲束を取ってやる人が二名必要であった。寒い時でなければひどく汗をかくので、午前二時ごろから扱ぎ始め、夜明けまでに七畝、午後五時ごろまでに二反三畝が終わった(川辺)。下赤嶺では、千歯の前に木臼や稲打ち棚が記憶され、足踏み脱穀機が入ったのは大正十三年ごろである。

籾すり 十二月中旬の籾すりまでに籾干しをした。籾は莚に七升ずつ広げて坪に干した。手で押さえまわして殻が剥げるまでには晴天で三日間かかった。土臼は野稲の収納前に臼合わせをし、土を抜いて櫟の歯木を埋め替えた。籾すりは五戸くらいが組むヨンナイ組で、午前五時ごろから始めた。三本の棒を組んで遣り木を支え、遣り木に三名がつき、一名が籾入れをした。すったものを唐箕にかけ、万石で籾と玄米を選別した。大正時代末、鉄製の俵締めを使うようになるまでは、中締めに木製のものを使った。

 十一月末からの米穀検査は農業倉庫か自宅で受けた。俵にさしをさし込んで米を抜き出し、場合によっては俵の口を開けて調べ、籾が多ければ不合格となった。白・青・赤・紫などの等級を決めた。小作料納入は十二月二十日から大晦日までであった。

水車 たいていの農家は、米の精白に唐臼を使った。唐臼は、先端に石のおもりをつけた杵を足で踏んで搗くので、時間のかかる辛い仕事であった。水力の利用できる所ではサコンタやゼングリ、さらには水車が使われた。サコンタは水力利用の唐臼であり、ゼングリは簡易な箱水車である。水車は精米ばかりでなく製粉にも使った。精米用水車が県内でいつごろから使われ出したかは不明であるが、江戸時代には城下町周辺の農村に設置されていた。「大分県統計書」によれば、明治二十年代の大分県の水車場数は二〇〇〇台であり、大野郡は五〇〇未満で大分郡に続いて第二位である。明治四十年代以降、石油・ガス・電力による精米所が増え、水車は県統計書から姿を消すようになる。

大正時代以後も、近代的精米所に圧迫されながらかなりの水車が存続した。水車が全滅した現在、かつての農村工業の花形であった水車の鎮魂のため、町内の記憶されている水車を記す。第1表、第1図「三重町の水車」は川野孝慶の調査を基本に、駐在員(区長)へのアンケート、特に町誌事務局のご協力によって作成したものである。

 

 

 

 注1) 『明治中期産業運動資料』第16巻 日本経済評論社 昭和五十五年

 2) 「二豊民具」13 大分県民具研究会 昭和六十年

 3) 第3表「三重町の昭和初期の職人など」参照

 

 

 

  二 焼き畑

下鷲谷では焼き畑を刈り畑と呼んで、昭和二十年代半ばまで行った。山は急傾斜であるが、中腹以上に平坦な部分がある。雑木は炭木や薪にしたので伐らずに、スズ竹の生えている箇所を開いた。刈り畑には小豆・大豆・粟・蕎麦・小麦などを植えた。小豆は田植え後、粟は夏土用、蕎麦は春秋二回、小麦は十一月中旬に播いた。大豆は肥えた土地でなければできない。作物によって伐採の時期は異なり、植え付けの一ケ月前には伐って枯らした。周囲に一.五bくらいのヒミチ(防火線)を切り、夕方の風のない時に焼いた。土まで焼けた方が養分が多くなるとした。全面的に掘り返すことはせずに、適当に鍬目を入れる程度であった。種子は鳥に食われる分を見込んで、少し多めに目見当でばら播きにした。除草・中耕などはしなかった。せいぜい三年間作れば他の場所を選び、畑に適した場所であれば切り替え畑にして、高菜・大根・里芋などを植えた。山林の所々に切り替え畑のぎしが残っている。中津留ではカンノ(焼き畑)に開いた土地が、割に平坦であれば芽を出した茶を育てて茶園畑にした。土が深い土地には二、三年目に唐芋・里芋を植えた。普通の土地はカンノの後は放置し、十年くらい経ってから再びカンノにした。

明治中期、大野郡の切り替え畑は一四九町で、日田郡(八一一町)・南海部郡(六二七町)・下毛郡(二二三町)についでいる(『大分県農事調査』)。

 

 

    第二節 畜産・山稼ぎ

 

  一 畜産

豊肥地方は広大な原野に恵まれて牧畜が盛んで、大野・直入・玖珠三郡は子牛の生産頭数が著しかった。大野郡で評価の高かった白山牛は、石灰岩地帯で草質の良い、溝と土塁で囲った放牧場で飼育されたが、普通には舎飼いであった。次に久原に例をとって牛の飼育を記す。

コッティ(雄牛)の方がウナメ(雌牛)より力があるが、子牛を産ませるためにウナメを飼った。馬屋は(三間×二.五間)の四隅に成牛をつなぎ、庇(一.五間×二.五間)に子牛二頭を飼った。二歳の終わりに発情すれば、鳴き声が激しくなるので種付けをした。種屋は品評会で入賞した種牛を専門に飼っていた。種付け料は子牛の売値の一割で、牛市で売れた時に畜産組合が差し引いた。妊娠すれば、三、四か月後に飴色の液を出して尻の汚れが目立ち、六か月くらいから腹が太くなる。「牛馬を増やし(二八四)、見よ(三四〇)」といい、牛は二八四日、馬は三四〇日で出産する。粘い液が尻から長く垂れると一、二日後に分娩する。敷き草を増やし、分娩時に背中を撫でてやる程度で、獣医を呼ばねばならないような難産はまれである。後産は早く発見すれば埋めるが、母牛が食べることが多い。初産の時、癖の悪い母牛は子牛を突くことがあるので、手綱を取って子牛を見せて安心させてから手綱を放す。母牛が子牛をなめてきれいにする。

半年くらいは母乳を飲ませ、その後は駄の物で育て、麦・こかすなどの濃厚飼料は成牛より多目に入れた。駄の物は朝・昼・晩三回、水は朝・晩二回に一斗くらいずつ与えた。駄の物は夏は青草、冬は藁・干し草を刻み、一すくいずつの米ぬか・ふすま・煮麦や唐芋を混ぜた。冬は水が冷たいので、ぬるま湯にぬか・ふすまを少し入れて飲み易くして与えた。大晦日には、普通の駄の物に野菜の煮付けを加え、年取り餅を与えることはしなかった。

出産後はたつをはめ、六か月後に鼻繰りあけをして手綱をつける。指で薄い部をさぐり、鹿角・鉄・樫などで作った鼻繰りあけで穴をほぎ、鼻繰りをはめて味噌をつける。牛が味噌をなめるので唾液で消毒できる。鼻繰りをはめて手綱をつければ調教ができるようになる。左へは「ソシ」、右へは「マエ」を覚えさせる。二歳の終わりから砂を入れたかますで挽く練習をさせた。牛は跳ねたりそれたり、疲れて寝たりした。田をすかせる当初は口取りがつき、他の一人が犂についた。覚え込めば口取りの必要はなくなる。

爪切りの時は大日様の前の枠に入れた。手綱を前の棒に結び、後方に綱をかけて身動きできないようにした。蹄の先端のまくれや丸くなった蹄底を爪切り鎌で削り、やすりをかけた。びっこを引くなどドヨミ(故障)が来た時は、太ももにはりを刺して悪血を出した。鼻が乾けば発熱、風邪を引けば鼻汁が出たり咳をするから、獣医に薬をもらって飲ませ、唐米袋や莚を着せて温かくしてやった。七月七日の七夕には川に連れて行って洗った。牛の守護神は大日如来様で、地区内の石祠に石像を祀っている。大将軍様(野津町板屋原)や、馬頭観音様(大野町烏帽子嶽・三重牛市場など)を祀ってある土地もある。

牛市 大野郡の家畜市場は、野津・千歳・三重・大野・温見・小富士・清川にあった。年間の出場頭数は、昭和二十年代が二千から三千頭、同三十年代は四千から五千頭に達した。市は一・三・五・七・九・十一月の年六回、月の十日から始めて八日間、午前十時から午後三時ごろまでであった。市は野津から始めていたが、最初の市場では安いので不満が出て、順繰りに始めた時期もあった。買い付け人は、県内は宇佐・国東・北海部、県外は愛媛・広島・大阪方面が多かった。

三重の家畜市場は明治三十四年に始まった。初めは権現堂にあったが、肝煎を経て正龍寺の隣接地に移り、三百頭を収容できる係留舎があった。市場の運営は畜産農業協同組合が当たり、会計・伝票・りん振り・糶呼人・技術者などが出た。取り引きされたのは生後六か月以上一年未満の子牛で、一年以上の成牛は博労が仲介して売買することが多く、市場での取り引きは少なかった。

牛籍証を受け付けた順に競りにかけていたが苦情が出て、牛籍証をきって順を変えたり、競り順をガリ版刷りにして配付するなど改善した。競りを取り仕切ったのはりん振りである。競りの言い値は六、七割程度から始めたが、値が安いと生産者はりん振りが牛を見きらないと不平を言った。牛を取り巻いて競っていたが、競っている間に買い付け人同士が険悪になったりしたため、枠の中に入れて競るようになった。値段のつけ手がなくなればりんを振った。生産者は値が低過ぎると思えば、「さがり」と声を掛けて取り引きを不成立にできた。概して競りの初めは値が安く、景気が良ければ遅くなるほど値上がりしたが、必要頭数を購入した買い付け人が出なくなって安くなることもあった。牛の頭数が増える時は雌牛が高く、減る時は肥育の早い雄牛が高い。

取り引きが成立すれば、生産者と買い付け人が値段の三lを組合に納めていたが、宮崎県では買い付け人からは徴集しないという不平が出て、買い付け人は一.五lに下げた。買い付け人は郡内の市場をまわるので、牛を引き渡す期日と場所を指示した。引き渡しが一週間以内であれば、その間の飼育は生産者が負担した。

 

  二 椎茸栽培

 三重町の南海部郡に接する地帯は山林・原野が広がり、椎茸・木炭・木材などの林産物が多い。明治四十年の「大分県統計書」では、椎茸栽培戸数は大分県八六六のうち、大野郡は五七七と約六七lを占め、二位の玖珠郡六〇を大きく引き離している。茸山師の多かった北海部郡一〇・南海部郡〇であるから、明治末期には県南地方の茸山師が、大野・玖珠・日田などの諸郡に出稼ぎしているものと思われる。県南地方の茸山師の活動に刺激されて大野郡の椎茸栽培は発達し、三重町は県内有数の椎茸産地となっている。椎茸栽培の成否に大きく影響するのは原木伐採の時期である。原木伐りの目安は櫟が十一月三日ごろ、楢は二週間遅れの三番亥の子ごろとした。二、三本切り込んでみて判断した。葉が黄味を帯び、斧で切り込んだ小口から樹液が出なければ適期である。木口の下側から出ればまだ樹液が上がっているので良くない。伐り倒したまま四〇日間放置しておき、枝打ちしてから約一.六bに玉切る。元を上にして立て、三〇a間隔くらいに刻み鉈で刻みを入れ、さらにまわして刻みを入れた。外周四〇aの木であれば四回まわし、刻み目は一五a間隔くらいになった。刻み目を入れた原木を組むことを入れ木という。股木を交差させて立てて横木、さらに縦木を平行に、また横木というように組んだ。二本の縦木の間に細い木を三〜五本入れると、入れ木が長くならないでよいが、入れ過ぎると空気の流通が悪くなる。打ち落とした枝を入れ木が見えない程度にかぶせる。見えるように薄いと乾燥し過ぎて良くない。翌々年の稲収納後に榾場に運んだ。

榾場には樫山が良いと言うけれども、普通は杉山を使う。南向きの日当りが良く、風がひどくない場所を選ぶ。地面は乾いた方が良い。榾木は背板で運んだ。旧臼杵領の背板を旧岡領では唐人と呼んでいる。榾場にうしをはる。股木を柱に立てて横木(竹)を渡し、両端の柱は股木で支えて補強する。傾斜地の下手に大きい榾木、上手ほど小さいものを横木に立てかける。うしは長さ二.四b、幅七五aくらいが標準である。春子は新暦二月ごろからで、春分のころが適期である。このころに生えなければ不作である。茸取り篭を持って椎茸もぎにいく。櫟は平均六年は生えるが、楢は二年くらいである。椎茸というけれども椎はできも味も良くない。

椎茸は室(乾燥倉)で乾燥させた。室は四.五間×二.五間で、高さ九尺の土壁、杉皮葺きの妻入りであった。中央に約九〇aの道中(通路)を深さ一五aに掘った。一端の片側によこい場、他の一側に物置場を取った。両側に六個ずつの炉(幅三〇a、長さ四〇a、深さ一五a)を作る。炉から道中まで幅一二aの灰を掻き出す穴を掘る。両側の炉の上に八段の棚を竹で組む。棚下は約八〇a、棚の間隔は約一八aである。椎茸はえびらに広げて棚に置いて乾燥させた。えびらは六〇a掛ける一.二bの杉板枠に、茅で編んだ簀を入れたものである。天気が良ければ、一五分くらい乾燥させた生乾きの時に、えびら三枚分を一枚に寄せて火力の弱い所に置き、新しい生椎茸を補充する。最下段の椎茸が乾燥すれば、順次上の段から下の段へ下げる。乾燥には炉の炭火が長く用いられたが、昭和二十七年から火災予防のために鉄甲羅になった。鉄甲羅は蒲鉾型の鉄板で、薪を焚いて熱した。昭和三十五年からは熱風乾燥になった。

椎茸を「一本脚」という。椎茸は製品になるまで三〇か月もかかって金利がかさみ、しかも出来・不出来、値の高下がひどかったから失敗が多かった。一本脚の椎茸が倒れやすいように、失敗しやすいことをかけた表現である(久部)。

 

  三 炭焼き

南海部郡の人が白谷で白炭焼きをしていたが、三重町の各地区では伝統的な黒炭焼きを続けた。下鷲谷では商品生産であったが、久部・久原では自家消費を主にしていた。地区ごとにかまどの構造や造り方が少しずつ異なるので、下鷲谷の場合を中心に記す。

炭焼きは稲収納後の冬仕事であった。運搬に便利な場所に炭かまどを造った。炭かまどは二〇俵焼きが標準である。最大幅二b、奥行き二bで、奥の方がやや広い団扇形である。傾斜地をかまどの形に掘り切ったままでトイ(側壁)は築かず、真土であるから練り土を塗ることもなかった。炭木の長さは櫟は三尺三寸(一b)、樫・椎などは四尺(一.三b)である。炭木を立て終わると、長さ二b強の甲木をかまどの中央に渡し、順次短いものを甲の形に荒盛する。次に管木を中盛し、小さい管木で仕上げ盛をする。その上に管木が見えなくなる程度に藁を広げる。甲土は火に強い土を練る。粘りが強過ぎると甲がひび割れるので石灰を混ぜる。練り土を口の方から一まわり置き、串で数か所の厚さを測っては中心の方へ置いていく。数人が足で踏み固め、平棒でたたき、かけやで締める。串で厚さを調べながら数回まわり打ちをし、最後に練りとして平棒でたたく。

焚き口で薪を燃やす。焚き口の横木が燃え落ちれば、甲木の三分の一くらいに火がついているので、下方を一〇a角ほど塗り残して、焚き口を土と石で次第に塞ぐ。火が甲木全体にまわるのは三日目であるが、煙突の中が白くなれば煙道の口を塞ぐ。煙道の口を塞ぐのは、久原では煙が白色から紫色になるか、煙突の口にマッチをかざして三秒以内に火がつくとき、久部では八〇b離れて鼻を刺すような煙のにおいで判断した。煙道を塞いでから二、三日寝せてから炭を出す。

久原では、初がまの場合はかまどが湿っているので、炭にならないものが一、二割あって歩留りはよくないという。初がまは原木伐りから焼き上がるまでは約二週間、すなわち、原木伐り三人役、炭かまど造りに一五人役=七日間、火をつけてから七日間であるが、二度目からは一〇日間くらいであるという。

なお、久部区所蔵文書の中に『楢崎式木炭製造法・椎茸養成法講演筆記』がある。大正四年、大分県内務部が広島県出身の楢崎圭三の講演を刊行したものである。黒炭焼きは下鷲谷と異なるが、大正期には何らかの影響を与えたことがあるかもしれない。

 

  四 伐採

伐採は三〇〜四〇年生の杉が主である。木は山の上の方から順に伐り下がるから、下に向けて倒すと木を傷めるので、上の方にヨキで受け口を開け、真反対の下手から山鋸で伐る。鋸の通りが悪くなるとヤを打ち込む。木が太ければヤは二本入れる。倒れると爪鉈で枝を打つ。九〇aごとに皮剥きで切れ目とたて目を入れ、皮剥き鎌で皮を剥く。寒伐りがよいけれども、皮が剥きにくい。杉皮は一坪(九〇a角四枚)ごとに束ねる。一本立ちの育ちの悪い木は売買のときには値をつけないが、ナル(道木)としていい値で売れたので最後に伐採した。

木は下の方から運び出す。根元の方の木口にカンを打ち込み、人や牛馬がジガ挽きして、馬車が仮の道路まで出した。途中に他人の土地があれば通らせてもらう。木馬道は大規模な伐採でなければ造らない。勾配がよければシュラ(修羅)を組んで、伐木を滑り落とした。丈物程度のうら木二本を谷に横たえ、それぞれの両端を杭で止めて枕にする。一四尺(約四.二b)数本を縦に並べ、下枕に載せて上枕に突っかける。この際、内側に細い木、外側に太い木を置いて内くぼみにする。同じ要領で必要な場所まで組む。この上を滑らせるので、縦に並べた木は外側の一年分くらいの年輪は摩滅した(下鷲谷)。

 

 

    第三節 諸職

 

第2表「明治末期の職人数」は、明治四十年の「大分県統計書」によって、大分県の職人数一〇位までの職種について、大分県と大野郡の職人数を記したものである。大分県では、大工・木挽は三〇〇〇戸以上、石工・桶職・理髪職は一〇〇〇戸以上、左官・屋根職・畳職・竹細工・鍛冶職は五〇〇戸以上である。大野郡では大工・木挽は三〇〇戸以上、石工二〇〇戸以上、桶職・左官一〇〇戸以上、畳職・竹細工・理髪職五〇戸以上、鍛冶職・屋根職二〇戸以上である。大野郡の大工・木挽・石工・桶職までは大分県の順位どおりであるが、理髪職が八位、屋根職が一〇位に下がり、畳職は六位に上がっている。

次に各職種の郡別戸数の順位を見れば、大野郡は桶職・畳職が一位、石工・左官・竹細工は二位、大工・木挽は五位、理髪職は七位、鍛冶職・屋根職は九位である。このことから、大野郡は桶職・畳職・石工・左官・竹細工に従事する戸数が多いことがわかる。しかし、大分県に比べて兼業者数に対して、専業者数は各職種ともかなり低い。

第3表「三重町の昭和初期の職人数など」は、地区駐在員(区長)に依頼して、昭和十年ごろの職人数などを調査したものである。町内の地区数は七三で、回収できたのは三九である。やっと過半数に達しているが傾向を知ることはできる。屋根職が六九と最も多い。高度の技術を要する箇所を除けば、全員が屋根葺きができたという地区もあるが、表には出ていない。大工・桶職・石工・木挽などは依然として多い。明治末期や昭和初期の職人数を参考にして、本節では大工・石工・桶職、及び特産品であった鷲の紙漉きを取り上げる。

 

  一 大工

大正十年、牧口(清川村)の萩原徳馬に弟子入りをした。萩原徳馬は数十人の弟子を養成したので記念碑が立っている。三年間の徒弟期間は、最初に起きた者が飯炊き、二番目が拭き掃除、三番目が水汲み、最後の者が馬糞拾いというように、分担が決っていたので競って早く起きた。師匠に子がなかったので子守りはしなかったが、百姓仕事などはさせられた。大工仕事は主に兄弟子が教えてくれた。まず、鉋や鑿の研ぎ方、ついで鉋掛けや鑿を使った穴掘り、半年くらいたってから鋸を使わせてもらった。徒弟期間が終わったときに、番匠矩・墨壺・鋸二・鉋二・鑿数本・突き鑿をもらい、一年間のお礼奉公をした。 戦争直後、旧新田村には一〇名以上の大工がいた。戦後は炊事場・内緒の改築などの造作や煙草乾燥倉、昭和二十五年から四十年にかけては、草葺きを瓦葺きに変える上新造の注文が多かった。大工仕事が年間三〇〇日くらいあったから農業は妻に任せた。居り家の新築には、木挽・石屋・左官などの協力が必要で、木挽は久原、石屋は中津留、左官は久部の人に頼んだ。標準的な農家は、間口六間・奥行き四間のいわゆる四六の家である。木材は注文主が提供して移動製材を雇った。木材は必要に応じて調達するイリヅメ勘定であるが、ほぼ次のような目安である。土台一〇本・オビキ(敷居の下)一〇数本・根太木一間に三本・ツカギ三寸五分角一〇本・柱四寸角一〇本・ヒラモン四〇本・ケタ一〇本・梁一〇本・ウシ六本・モヤ三寸五分角二〇本・タルキ一寸八分角一五〇本・屋根裏五〇坪・瓦かけ二〇〇本。

大工小屋(五間×三間)は建築現場に建て、屋根には屋根裏を葺いた。大工小屋作りと同時に石屋と地形をした。家の前と横の二か所で水盛りをし、長さ三〜四bの二つ割した竹の節を取り、水を満たして地面に置いて水平を見ていた。居り家の建築には、棟上げまでは坪三工、棟上げ後の造作は坪四工、計坪七工が標準であるから、総棟上げまでには六か月かかり、木の伐採からならば一か年であった。

棟上げのときの幣(ぬさ)は、三つずつの御幣・剣先(米・煎り子を入れる)・扇・昆布・苧を、前後から横棒で挟んである。隅の餅は一重ねずつの餅を西方から四隅に撒く。草葺きの屋根棟上げには、箱棟の中央に三個の棟上げ餅を供え、シトギ(米の粉団子)を藁すぼに包んで撒いた。

 

  二 石工

石工は、石切り場で石材を採掘する山石屋、石垣などを積む現場石屋、石塔を刻む石屋の三つに分かれている。昭和初期から大理石を採掘した白谷には、大理石採掘の帳場が四つあり、一帳場には数名から一〇名ほどの山石屋がいた。表土を除去し、大理石の割れ目にヤを打ち込み、金てこや箱ジャッキでせり返して採掘した。良質の石塔用材を産出した高屋にも山石屋が数名いた。高屋の目ごま石の盤は大きいので、七尺物とか幅三尺物という特大の石材を切り出すことができた。

現場石屋は、家の地形・石垣・塀、道路の石垣などを積む。間知石用の石は、町内各地で採掘される。積み方には、谷築き(乱層野石積み)・方石築き(整層石積み)・網代築き(間知石積み)・ヒカリ石垣(乱層切石積み)・化粧石垣などがある。ヒカリ石垣は贅沢普請の家の石垣で手間がかかり、化粧石垣は神社の社殿の地形である。

 石塔の種類には、一重・二重・三重・五重膳台猫足・五重猫足片蓮華・五重蓮華づき・六重猫足片蓮華・六重蓮華づき・納骨塔などがある。戦前は一重(水子・童子用)・二重(女性・老人用)・三重(標準型)であったが、戦後は五重膳台猫足など立派なものが好まれ、最近は納骨塔(累代墓)が多くなって個人墓は建てなくなった。三年ごとのヨリツキ(旧暦の閏年)には、墓を建てないしきたりが続いているので、石垣積みや間知石割などで収入を計らねばならない。

白山地区には、大理石製の餅搗き臼を所有している家がかなりある。大理石の臼は極めて珍しいが、大理石の産地にふさわしい。大理石は灰石より柔らかくて細工がしやすいという。中津方面からきた石屋は口が広くて浅い型、土地の石屋は在来型の物を作った。台付きと台のない茶碗型とがある。

石屋は山の神を篤く信仰し、正月の仕事始めにはお神酒を供え、十六日には山の神を祭って石山には入らない。口笛は山の神をよぶので、山では口笛を絶対に吹かない。山では蛇・猿・イタチという言葉を忌み、オミイサマ(蛇)・ヤイン(猿)といった。昭和四十年ごろまでは同業組合があり、正月に総会を開いて賃金を決めた。また、地域や町の大師講には各種の職人が集まっていた。

 

  三 桶屋

話者は三代続いた桶屋である。樽作りを主にしていたが、樽作りの期間は限られていたので他の期間は桶作りをしたから、一般には桶屋と通称された。樽は醸造用の親桶と小売用の小樽とを作った。親桶は古くなるとキガ(木香)が落ちるので、酒造場では五〜一〇年ごとに新調した。親桶には三〇石入りと二三石入りとがある。三〇石入りは底輪が六尺あるからロク、二三石入りは細高と通称した。親桶は板目にとり、目が切れると悪いので五〇年生くらいの杉を使った。建築用材の一才が二、三銭すれば、桶材は一〇〜一五銭ほどした。キガのよい吉野杉は、一桶分が四〇〇円と倉庫一軒分の値段であった。小樽は二升樽・三升樽・五升樽の三種を一三〇〇くらい作った。三升樽を六割、五升樽・二升樽を各二割くらいで、二升樽は手間のわりに値が安くて引き合わなかった。大正時代までは一升瓶がなかったので、小樽で買った酒をうんすけに移し替えていたから、不用になった樽を酒屋の樽取りが集めて回った。新正月ごろから倉子が酒造場に入るので、旧暦十一、十二の二か月に小樽を作り上げていた。樽作りをしない期間は、肥たご・駄桶・はみ切り桶・風呂桶・おひつ・すし桶・チョンダライ・(手水たらい)・祝儀たらい・味噌桶・洗い桶・米とぎ桶などを作った。

戦時中、統制経済で組合が結成された際、大野郡内には二七〇〜二八〇人の桶屋がいたが、賦課金を出さねばならないというので、一五〇人くらいしか参加しなかった。三重町の桶屋は市場に三浦・柳井・岩井・首藤・伊井、高市に一軒、赤嶺に三軒あった。

 

  四 紙漉き

内山の紙漉きは、宝暦三年(一七五三)、臼杵藩の藩札用として始められた。紙漉き法はヒラキという狭い桁で吊らないものを使い、桁の先の方から液をすくう方法であった。しかし、明治時代末に高知県から招いた和田亀尾の指導で桁取り法に変わった。その後も、主として昭和期に入って、ダセン(打震)機・ビーター・撹拌機・ジャッキ(螺旋圧搾機)・乾燥機などの機械類を導入し、苛性ソーダを使って漂白するなどの改良に努めたが、製紙工業の発達に圧迫されて昭和四十四年を最後に廃絶した。なお、伏野の紙漉きも同三十五年ごろに絶えた。次に機械採用以前の古い姿を記すが、紙漉きは手間暇がかかるだけでなく、厳しい寒冷に耐えねばならない辛い作業であった。

楮 紙の原料である楮には黒楮・赤楮・メダカがある。黒楮は表皮が黒く、赤楮は赤くて毛が生えているので毛楮とかヒノコという。黒楮・赤楮は畦畔に植え、メダカは山野に自生しているので山楮ともいう。キカジ(原木)六貫は一貫(三.七五`c)の皮楮になるが、メダカ六貫は八〇〇匁(三`c)しか取れない。

楮蒸し 木楮はヒトタケ(約一.五b)にこだく(うらや枝を切る)。六貫束を八束くらい天明釜に入れ、こしきをかぶせて蒸す。天明釜は個人持ちのほかに、共有のものが観音前・桜馬場に各一基、下ン川に二基あった。薪や皮を剥いた楮の軸を燃料にし、蒸気の立ち具合いで火を加減した。楮の甘い香りがすれば蒸れている。二〇〜三〇分間ほど火蒸しをし、バケツ一杯の水をかけて皮を剥きやすくする。皮は根元の方から剥き、芝地・畦・坪などに直干しにした。晴天ならば一日、曇天ならば二、三日で乾く。皮楮は五、六貫ずつ束ねて倉庫に貯蔵する。

楮手繰り 皮楮は一晩ほど川に浸してから、一〇〜二〇分間皮踏みをした。踏むとイラ(表皮)がはずれる。包丁をあてて皮を手繰って芽の部分を落とす。白皮を石灰の水溶液を入れた大釜で数時間煮て、一時間ほど火蒸しする。それから、川のよどみに広く延べ、一昼夜さらして石灰のあくを抜く。

楮打ち 二貫ずつを打ち板に載せて打ち棒で叩く。ときどき水を加えて一時間半から二時間叩けば、繊維が切れて綿のようになる。

紙漉き 漉き槽に洗面器一杯の漉き料、目分量の糊、八荷(約433l )の水を加える。糊は糊木の表皮を削り、白い甘皮を包丁の刃を立ててちりめん状にこさぐ。甘皮は縮んでいないと糊の出がよくないからである。甘皮を水に浸してから、布袋に入れて漉き槽の中で糊を絞り出す。紙漉きには糊加減が重要である。混ぜ棒や馬鍬でむらがなくなるまで混ぜると、液は白く濁って米のとぎ汁のようになる。

両手で桁を持って手前から液をすくう。一度にすくうと手前の方が厚くなるから三回に分けてすくい、前後・左右に数回揺すってむらのないように厚さを整え、捨て水は枠の向こうから槽にもどす。上桁をはずして簀を取り出し、背後の漉きつけ板にかえして簀を剥ぐ。このとき、紙の床離れをよくするために七島い一本を紙の縁に敷く。再び簀を桁にはめて同じ動作を繰り返して漉く。洗面器一杯の漉き料で五〇枚、約一時間を要した。日に障子紙一〇〇〇枚が一人役であった。

漉き上げて積み重ねた紙をクレという。二時間ほどしてござを広げて押し板を載せ、てこの原理を利用して圧縮した。圧縮を急ぎ過ぎるとクレが崩れた。

乾燥 水分を抜いた紙は、紙板の表と裏に刷毛で張ってナルに立てかけて干した。晴天ならば一〇〜二〇回くらいは干せた。昭和十年代半ばから、乾燥機を設置して蒸気乾燥をするようになった。紙を一枚ずつ棒につけて取り、蒸気で熱した鉄板に刷毛で素早く張りつける。紙はすぐに乾くので剥いでは張り、張っては剥ぐと言うように休む暇もなかった。製品 乾燥した紙は障子紙二枚よりやや広い。紙切り板に五〇〇枚を重ね、型板二枚を合わせて切る。障子紙は二〇〇枚が一束、五束を一本とか一ブンコという。一ブンコは一貫五〇〇匁(約五.六`c)を標準とし、一貫四五〇匁が損得なく漉きやすく、一貫六〇〇匁では厚くて引き合わなかった。全盛時代には二、三割の利益があったが、廃業前には二割を切るようになった。苛性ソーダや塩酸カルキを使うようになると、パルプを混ぜなければ引き合わなくなり、消費者から質が低下したと苦情が出るようになった。

 

 

    第四節 交通・運輸・交易

 

  一 交通

 主要な交通路線については歴史編が記すと思うので、ここでは人々が忘れ去ろうとしている古い道と交通手段を記す。一つは松尾路であり、他は大野川の渡し筏と渡し船である。

松尾路 古代以来、三重から小野市へ行く幹線道路があったことはよく知られているが、その支線が松尾路である。天正十四年(一五八六)、豊後に侵入した島津軍は松尾山に本営を置いているから、この松尾路を通ったものであろう。そうであるならば、松尾路はかなり古くから利用されたといえる。明治時代以後、県南地方の茸山師が豊肥・久大両地方の山々で椎茸栽培をしていた。しかし、茸山師だけでなく、炭焼きや筏流しなども県南地方から来ていたようである。彼らが南海部郡から三重町に入るには、日向道(小野市―三重市)や日向往還(小野市―奥畑)を利用したと思われる。明治九年の「豊後国大野郡村誌」によれば、日向道の幹線は内山経由であるが、支線として松尾路がある。

松尾路は松尾―鷲谷―片内―樫峰を通り、幅一bくらいの踏み立て道で、急傾斜で石ころが多かった。それでも、明治〜大正期にはかなり利用されたようで、下鷲谷に酒食を提供する店が二軒あった。そのうちの一軒は、佩楯山(七五四b)の標高五〇〇b辺りにあった、奥和下から下ってきた。どのような人がどのくらい通ったかは明らかでないが、小野市へ行く肉屋が店へ肉を卸したり、日向へ馬買いに行った博労たちの光景が記憶されている。一頭ごとの手綱を竹に結び、竹と竹を綱で連結して、数頭の馬を三名くらいで追うて通った。木の繁茂した場所には狐・狸が住み、山部の人が三重市で節季買い物をした帰途、店で休息していたところ、針金に通して馬に吊してあった生鰯を狸が食べ、満腹した狸は馬の尻の方に座り込んでいたという。

渡し筏(船) 大野川は江戸時代から輸送路として利用された。大正初めまで細長までは二〇石船、細長から岩戸までは一〇石船が運航した。また、大正時代末ごろまで、諸所に堰を設けて角材のばら流しや、竹を筏に組んで流していた。しかし、三重町から対岸に渡る橋はなく、渡し船に頼らねばならなかった。三重町と千歳村・大野町とを結ぶ渡しは、宇対瀬―柴山、上田原―原田、百枝―向野、川辺―向野にあった。三か所は渡し船であったが、川辺―向野は渡し筏であった。享保六年(一七二一)の「豊後国鎌手村鑑帳控」に、三か所の筏渡しが記されている。江戸時代ならばともかく、昭和期になっての筏は県内では極めてまれではなかったかと思う。両岸の集落間に往来の必要が強ければ渡し船となるが、対岸の向野は百枝との間に渡し船がある。しかし、川辺は昭和初年に戸数一〇〇くらいあったにもかかわらず、山林は約二〇町しかなく、山林を持たない家がかなりあった。不足する薪炭を対岸に依存せざるをえなかったため、自力で筏渡しに踏み切ったようである。

筏の渡し場は、現在の川辺ダムより上流の船戸にあった。筏は、縁には一尺五寸、中の方には一尺の竹を数十本、交互にかずらと竹皮で組んだ竹筏で、長さ五b、幅二bくらいあり、一〇人くらいは乗れた。やや狭く絞った前後端に長い藁綱をつけて両岸の大石に結び、綱を手繰って往来した。川が増水する際は、灰園・久保田両組が見張りに出て、流失の危険があれば安全な場所に引き上げたり、急な時には一方の綱を切って筏の流失を防いだ。三〜五年ごとの筏組みは総公役であったが、戦時中からは青年団の分担となった。藁綱は年に何回も替えたが、綱打ちは回り公役で、綱は藁束を三つになう蛇打ちにした。

昭和二十六年、ダム建設によって沈み橋ができるまでは、宇対瀬―柴山は駄船(渡し船)が通っていた。両岸に松杭を打って松丸太を積み、土俵を並べた桟橋と渡し小屋があり、渡し守は両岸の渡し小屋に一、二日交代で泊まり、夜間の急用に応じていた。駄船の建造は戸次の方の船大工に頼み、建造費を負担する宇対瀬・柴山両地区民は無料で、他地区の人々からは渡し賃を徴収した。渡し賃の変更は初寄りで決めていた。沈み橋より三〇b上流の見付石という角石で増水量を見て、ヒミズ(平水)より五寸増せば渡し賃を高くし、二尺も上がれば船止めにした。

 

  二 運輸

馬車挽き 明治二十一年の「大分県農事調査」には、大野郡の余業として「炭焼・養蚕・紙漉・日雇稼・駄賃稼」が記されている。農産物などは主として牛馬に駄載して運搬していたが、道路が整備されるにつれて馬車が重要な運輸機関となる。「大分郡々是」によれば、明治時代末の大分郡では、五〇五名の馬車挽きに対して駄賃稼ぎが六〇五名と多い。しかし、舟運の発達していた大野川流域に駄賃稼ぎが多いのに対して、馬車挽きは道路整備の進んだ大分川流域に多い。道路整備に加えて豊肥線が開通すると、旅客だけでなく貨物の運輸を促進した。昭和初期には米・麦・甘藷などの農産物だけでなく、炭・木材などの林産物や石材などを町や駅へ運搬するのは、牛馬よりも馬車を利用することが多くなっていた(第 表)。

上小坂では、運搬を依頼されたのは坑木が主で、他には米・麦・甘藷があった。坑木・甘藷は駅、米・麦は農業倉庫までであった。馬は五歳くらいの馬力のよい馬であれば一〇年間は使えたが高価なので、一四、五歳のを数年間使っては買い換えた。県道を除けば、道路はバラスを入れていないドダチ(土道)であったから、ひとたび雨が降ればぬかるみになり、人馬が共に苦労した。坑木の運賃は一才が八厘程度であったから、一度に三〇〇才を積まねば引き合わなかった。中小坂から上小坂までは登り坂であったから、上小坂まで三回に分けて中上げし、駅までは二回に分けて運んだ。戦時中に馬車挽きの組合が結成されたが、旧三重町の組合員は三〇名を越していた。

下鷲谷では木炭・木材を運搬した。木炭は一台に四〇〜五〇俵を積んだ。三重との往復は三時間くらいであったが、荷積み・荷降ろしを含めれば半日はかかるので、馬車は一日一往復であった。馬車挽きは炭の生産者が手配し、運賃は問屋持ちであった。木材は馬車の通る道路端の集積場で積むが、一台に四〇〇才くらい載せるので、適宜に大小を混ぜて馬の負担を均した。延べ台を使う時は、台車から延べ台までロープをかけ、車軸にゆみぎをかけた。

各地の馬車挽きには単に運搬だけでなく、問屋などから集荷を依頼される仲買的役割をした人もいたようである。

 

  三 交易

行商 行商には地区外から来る行商(入)と、地区外へ売りに行く行商(出)とがある。行商(入)には乾物売りのシャアのほかに、薬・魚・反物・種子物などの行商が来た。

 臼杵市津留の婦人が、国東・県中・県南から豊肥地方まで、県内の広範囲にわたって行商していたことは広く知られている。彼女らは、盤帽という半切に乾物(干魚・煎り子・若芽・昆布)を入れ、頭上運搬するという特異な習俗であった。津留の住民は全く耕地を所有しようとせず、男性は運漕業や打瀬網漁に従事し、婦人が物々交換によって米・麦を入手していた。数名で組んで出発し、目的地で分散して各自の得意先を回り、適宜な地区の農家を宿にしていた。下鷲谷では、山村に必要な乾物を売りに来てくれるので、「おシャアさん」と呼んだ。商品を現金売りにしたのは珍しいが、平野部で米・麦を確保していたためであろう。

富山や奈良の入れ薬屋は盆・正月前に来る。薬を入れた数段の行李を大風呂敷に包み、首がるいにしていた。使った薬の代金は一割引程度(久原)、七掛け(下鷲谷)、七掛け半(久部)であったらしいが、三重市からの距離によって割引率が異なったようである。薬の総入れ替えをしたが、包装紙に滲みがあったり薬に力がなかったりしたので、総入れ替えを信じている人はなかった。子供は四角の紙風船をもらって喜んだ。

魚売りは季節に関係なく魚ざるを天秤棒で担いできた。ブエン(無塩=生魚)の鰯・鯖・鯵などであった。魚は臼杵・佐伯などから馬車で運んだが、それ以前は六頭の駄馬隊であった。夕市で競った魚を積んだ馬車隊は鈴と蹄の音を響かせて通り、夜明けに市場三区の平岡の棚に降ろし、さらに六里の道を竹田まで行った。竹田の郷土料理として名高い頭料理は、運賃をかけて遠距離を輸送した貴重な魚であったから、普通なら捨てる頭や内臓なども有効に利用する。頭料理は三重町でも行われ、『全日本郷土料理』に三重高等女学校が発表している。

反物売りは風呂敷に包んで天秤棒で担いで来た(久部)。下鷲谷には大風呂敷を首がるいにし、久原には中国人が来た。久部の反物売りは、三佐方面から春秋の椎茸時期に来て椎茸を買って帰った。種子物売りは、薄い木箱を数段重ねて天秤棒で担ぎ(久原)、小型の柳行李を重ねて天秤棒で担ぎ(久原)、小型の柳行李を重ねて大風呂敷に包んで首がるいにしていた(下鷲谷)。久原に来た小間物売りも化粧品・裁縫道具などを首がるいにしていた。

小遣銭稼ぎに行商に出ることもあった。久原では薪一駄(六把)を牛に負わせて三重に行ったり、茅蓑を伏野に、ばっちょろ笠を白山に売りに行った。下鷲谷では淡竹の筍を背負い篭に入れて三重に行き、売れ残れば野菜屋に買ってもらった。淡竹の筍はあくが少ないので喜ばれた。柿の木も多かったのでまごねり(甘柿)・たねなし(渋柿)を売りに出たが、注文を受けることもあった。

出買い 買い物に出るのは盆・節季が主であった。「牧口三里、三重四里」(久部)、「牧口四粁、三重六粁」(久原)であったから、久部や久原の人は牧口、下鷲谷は三重市に行った。久原の人は白山川と奥嶽川の合流点を飛び石渡りした。季節によってはカンカン帽・鳥打ち帽・中折帽をかぶり、長着を尻からげして下駄か草履を履き、買った品物は大風呂敷に包んで首がるいにした。

盆には、手拭・下駄・衣類・醤油・ろうそく・線香・提灯・そうめんなどを買った。手拭・足袋・下駄は盆儀(中元)用である。盆儀は付き合い程度ならば手拭、田植え加勢を受けた家には下駄、金を借りている場合は手拭・下駄を贈った。節季には、手拭・下駄・衣類・醤油・砂糖・手毬・独楽・うっつけなどを買った。手拭・下駄は歳暮用で、仲立ちにはメリヤスのシャツなどを贈った。衣類は子供用の服や靴、婦人用にネルのいまき、砂糖は煮付け用に赤砂糖一斤、あん餅用に黒砂糖数斤程度であった。

久原では、祝言の際の呉服や家具は三重で買った。家具は指物屋に頼んだが、竹田の方が安いという人もあった。塩は三重や牧口で叺買いし、叺の下にかめをすけてにがりを取り、豆腐製造用にした。

取り引き 楮は年間に多い人で二五〇〇束、少ない人で四〇〇束くらい購入した。白山方面では、農耕は小規模で早く山仕事にかかるので十一月下旬、菅生・百枝方面では麦植え後の十二月上旬など、適宜に重ならないように翌年二月末まで切った。白山方面は長いままであったから一丈以上もあり、菅生・百枝方面は五尺に切りそろえてあった。地区ごとの馬車挽きが集荷してくれた。六貫くらいに束ねてあったので、一二貫か二〇貫がかりのちきりで計量して買った。現金で払ったり、製品の紙で節季に払ったり、先貸しすることもあった。楮は自分で運んだり、馬車挽きに頼んだりした。馬車一台に三〇束くらい積んだ。

内山には、紙漉き廃業後も皮楮を生産して他へ供給した人がいたが、皮楮も古くから重要な商品であった。町内の各地には内山へ皮楮を供給した人もいた。明治から大正のころ、広瀬に皮楮を生産して財をなした人があった。その人は、「おれは蓑を着、子はマントを着、孫はござを着ることになるぞ」といって孫を戒めた。自分が蓑を着て精出したから、子はマントを着れるようになった。孫はしっかりせねばござを着る(乞食になる)ようになる、という訓戒であろう。

炭は三重町の問屋が競って買い付けにきた。次の検査日までに焼き上がる数量を内契約した。手付け金はくれたりくれなかったりであった。炭価が上がれば値上げを要求しても、他の問屋に変えることはしなかった。焼き上がれば牛の力と山加減を考え、四〜六俵を牛に負わせて検査小屋まで運んだ。検査小屋は三か所にあった。三重から一〇日ごとに検査員が来て、合格した炭の俵の付箋に、品質・大小のスタンプを押した(下鷲谷)。

三重の木材業者は地区内の山師を介して買い付けをした。他区内の山師が立ち会わないと他所者は信用でき難かった。山師は木こりの親方であったから、売買に立ち会うだけでなく、木こりを指図して伐採もした。山に入って木の材積を計算する。木は根元から二b上の直径や外周が基準である。径七寸の木で、二間上がって一寸落ちの六寸であれば、六寸を二乗して三六才、さらに二間上がって二寸落ちの四寸であれば一六才、というようにしてインマル(一寸)のところまで計算した。しかし、一本立ちのナルは計算しないが、結構良い値で売れたので最後に伐採した。山尺は五寸長いから一間は六尺五寸で、二間は一四尺というように伸びを加えた。一石は七〇才である。

桶屋の材料である杉は土質によって異なる。大野川流域の砂礫地のものが粘りがなく色も良い。雑木林の中や一本立ちのものは割れにくく、血味が肥えていると木目が粗く、芯がどす黒いものはあくが強い。仲買人が桶屋向きの話を持ってくるので冬に見て回るが、一〇山見ても気に入るのは一、二山しかなかった。杉の伐採期間は春彼岸から秋彼岸までが目安である。枝打ちした節を巻き込んでいるので、皮が剥けるようになる四月以降から伐採した。伐り倒してから枝打ちをし、一三尺に玉切って皮を剥き、二つに大割りするので三人で日に一〇本くらいであった。ナガセ(梅雨)が過ぎてから、地区の人を雇って馬車道まで継ぎ持ちで担ぎ出し、馬車で運んでもらった。年間量一万才の運搬に馬車二二台を必要とした。

竹も土質によって異なる。赤土や砂礫地が良く、黒土や肥えた土地のものは悪い。竹は根元から五、六節目といい、タチガカリ(目の高さ)の太さで測る。竹は四寸二〇本、五寸一〇本、六寸六本をヒトカタ=一束という。親桶の細高には八寸以上、ロクには九寸で九尋のものを使うが、七寸以上は束売りしない。三、四年生の竹が弾力性があって良い。「木六竹八」といい、竹の伐り時は旧暦八月から翌年の寒前まで、特に稲収納ころが最適である。生産者が枝やうらを落とし、六束くらい牛馬に負わせて売りに来た。年間量は一〇〇束くらいで、約四〇束を床下に入れておいた。

 

 

 

注1) 土生米作「三重ん市回顧」(『三重町史資料報告』第六集)三重町教育委員会 昭和三十五年

 

 

  第二章 衣・食・住

 

    はじめに

 

 他所に出ることの少なかった農民は、仕事着と普段着の生活が主であった。仕事着と普段着にはほとんど差は見られず、洗い立てのものが普段着、そうでないものは仕事着であった。これは農家・商家共に同じである。

 冠婚葬祭などハレの日には晴れ着を着、日常の生活(ケの日)とは区別したものであった。

 食生活では、主食は麦が中心であり、粟飯やとうきび飯を食べることもあった。副食は、味噌汁・野菜の煮つけ・漬物が一般的であり、極めて質素な食事であった。これは、人の交流があまりないために物が入らないことと、一般の農民には購入するだけの余裕がなかったので、自給自足に頼らざるを得なかったためである。商家は店で購入するほか、人糞が肥料となるために羽飛や深田など近郊の農家から、汲ませてもらったお礼として野菜などを貰っていた。

 普段は粗末な食事であるが、ハレの日にはできるだけの御馳走をした。赤飯・団子・饅頭・米の飯などである。これは、ハレの日には神に供えて食を共にするという考えから、普段は口にしないものを作ったのである。しかし、次第にその区別も曖昧になり、普段でも食べるようになって、必ずしもハレの日だけのものとは限らないようになった。

 農家と商家で顕著に差が認められるのが住いである。構造・間取りなど全ての点で違いがみられる。そこで、それぞれの住居の特徴を比較しつつ、できるだけ昔の姿を再現するように努めた。

 

 

 

    第一節 衣

 

  一 服装

仕事着 農民は仕事着を野良着・野行き着・ノコギンと呼んだ。衣類は農家の収入に比べて高価であったから、常着が古くなればイゼ(用水路)普請の時に初下ろししたが(大白谷など)、五月の大根付けの時が多かった。破れれば夜なべにふせぎれをあてて繕い、何か所も幾重にもふせぎれをあてて重いものとなっていた。

 農夫の夏の野良着はノコギン・パッチであった。ノコギンは紺や縞の綿織物を手縫いした。明治時代末からボタン付きが普及し、年寄は紐付きであったが若者はボタン付きであった。下体は膝下までのパッチ(猿パッチとか股引きともいう)をはいた。冬は素肌にノコギンを着るか、メリヤスの肌着にツツッポという筒袖の半天や袖無を重ねた。農婦は単衣の長着を短く着た。筒袖であったが襷をかけることもあった。冬はネルの肌着に単衣か袷の長着を着て、ネッ(ねじ)袖半天や袖無を重ねた。農作業に支障がなければ厚手のノコギンを重ね着することもあった。手には甲掛け、脚には脚半、前垂れをかけた。もんぺをはくようになったのは戦時中からである。

 商家の男性は、夏は縞木綿の長着を着て帯で締め、帆前垂れをした。昭和初期からはズボンが普及したけれども、年寄は長着を続けた。冬はメリヤスの肌着、袷の長着に綿入れの袖無、家号を染め抜いた法被(印半天)を重ねた。女性は夏は単衣の長着に襷や前垂れをし、中着として長襦袢を着る人もあった。冬はネルの肌着に袷の長着を着て、ネッ(ねじ)袖半天を重ねた。

 職人の間では昭和初期にエドハラが流行した。工夫前掛ともいったから、豊肥線の開通が関係しているかも知れない。

 野良仕事では男女共に手拭で頭部を保護した。男性は鉢巻や頬かぶりをした。女性は姉さんかぶりをしたり、田植えにはお七笠という編み笠をかぶった。雨の日にはバッチョロ笠と蓑をつけた。久部では九月下旬に真茅を切って、女性が夜なべに蓑を編んでいた。

 農民は普段は草履、野良仕事には足半を履いていた。藁製であるから傷み易いので、丈夫にするために布を混ぜて編んだり鼻緒に布を巻いたりした。大白谷などの山村では、山仕事にはゴンズイとかゴンズウ草鞋という武者草鞋を履いた。地下足袋は、大正期に大理石採掘の山石屋が白谷で履き始めて普及した。

常着 普段着は仕事着よりも新しいか、洗濯したてのものを着るのが普通であったから、常着と野良着を厳密に分けることは難しい。夜着は特に着換えることはなく、常着のまま寝るか、蒲団代わりに掛けて寝た。男性は、夏は褌裸で寝ることはまれではなかった。商家の女性は、チンチロという浴衣を風呂上がりなどに着て夜着とした。

 男性は一三歳ぐらいからへこを締めていたが、昭和になると猿股をはくようになった。へこは六尺褌であったが、越中褌やもっこべこが普及していた。女性は小学校に上がるころから、イマキ(湯巻。お腰ともいう)をつけ始めた。娘時代は赤や桃色、中年は柄物や紺、老年になれば柄物や白というように、年齢によって色は変化した。女性は生理の際にもっこべこ状のものを用いた。洗い古した紺や黒の綿布を幅一〇abに切り、中に二、三枚の小布を重ねあてして紐を腰に結んだ。大正時代末には蒲団綿などを用い、昭和になると生理帯が使われ始めた。

晴れ着 普段とは違った特別の日をハレの日という。冠婚葬祭や正月・盆などのような改まった日に着るものが晴れ着である。晴れ着をイイ(上等な)着物という。人生で最初の晴れ着である宮参り着物は娘の里から贈られる。その後は、通過儀礼が少なくて特別な晴れ着を新調することはなく、新しく作ったものを晴れ着とした。男性は徴兵検査の際に検査着物として着物・羽織、富裕であれば袴を新調した。

 婚礼と葬礼に着るものが礼服とよべるものであった。花婿は紋付・袴、花嫁は綿帽子をかぶって長着・紋付を着た。葬礼には、遺族は明治時代までは白の着物であった(羽飛)が、大正時代以後は男性は鼠色や縞の長着に黒羽織(紋付)を着て、白足袋を履くこともあった(久部)。近親の女性は忌中髪を結って綿帽子をかぶり、長着に紋付が一般的であった。綿帽子は綿や真綿を半月形に糊付けしたもので、婚礼には左右、葬礼には前後にかぶった。

 晴れ着ではないが、他所行き着物は常着より少し良いものを着た。男性はカンカン帽や鳥打ち帽をかぶり、長着を尻からげにして手拭を腰に下げ、下駄か草履を履いた。寒ければ羽織を重ねた。

 

  二 髪型・化粧

髪型 男子の場合たいていは丸刈であるが、女子の場合は成長とともに型・呼び名が変化していった。

 就学以前から尋常小学校の二〜三年生ぐらいまではじょじょのぼり(後ろで三つ編みにし、それを上に返して元結で留めたもの)やおかぼ(おかっぱ)が一般的であった。高学年から女学校のころには桃割れや三つまげにし、娘時代には後ろで髪を束ね、かんざしで留めた型や、日露戦争(明治三十七年)のころには二百三高地まげ(髪を後ろで束ね大きく巻いて山のようにした型)もみられた。そのほか、島田に結った型もあった。結婚後は主に丸まげに結い、年をとると髪の先をまげの中に入れてわからなくした行方不明という型に結った。なお、パーマをかけるようになるのは戦後になってからである。

 髪につける油は、椿の実(かたし油)や山茶花の実から絞った油を使っていた。(松尾)

化粧 化粧は普段付けることはめったになく、他所行き・正月・祭りなど晴れの日にたいていはした。しかし、化粧をするといっても念入りにしたわけではなくお白粉をつけ紅をさす程度の簡単なものであった。

 おはぐろ(かね付け)は大正の始めぐらいまで付けている人がいた。だいたい明治十年以前に生まれた人で、結婚後、五倍子を紛にしたものに錆びた鉄を混ぜて煮つめ、筆で付けていた。また、子供が生まれると眉を剃っていた人もいたという。

 

  三 裁縫・洗濯

裁縫 女の子がだいたい一〇才ぐらいになると母や祖母からテモン(手物=裁縫)の手ほどきを受けた(市場・松尾)。最初は簡単なもので運針等の練習をした。上達するにつれ、前垂や着物をくずして縫い直したり、さらにはノコギンなども縫った。普段は破れをふせるのが主であった。このようにして経験を重ね、羽織や衿が縫えるようになると一人前として認められた。

洗濯 普段のちょっとした小さなものは自分の家でたらいなどを使って洗うが、仕事着など量の多いときには川・水路・イノコ等に持っていき、手でもみ洗いをした。汚れのひどいときには、そこにある石に叩きつけたり、足で踏んだりして洗っていた。また、洗濯板も使っていた。洗剤には灰汁を使っていた。灰汁は五升ぐらいの樽の下方に小さな穴をあけ、中に籾殻やわらを敷いてこの上に灰を入れ水を注ぐとしばらくして黄色の汁が出てくる。これを使った。

 単衣物はそのまま洗ったが、綿入れなどは中の綿を取り出し、外を洗った。

 糊付けは小麦紛・片栗粉を水に溶かして煮、糊状になったところで衣類を浸し張板に張りつけた。なお、こして使うこともあった。さらに、ご飯の残りも使うところもあった(市場)。

 

  四 染・織

 麻は戦前までは各農家ともだいたい二畝ぐらいは栽培していた。五月の始めごろに種を播いて秋に収穫した。刈り取った麻を黄色になるまで干し一週間ぐらい川につけて皮を剥ぎ、これを灰といっしょに釜で煮る。この皮を川につけ竹を二つに割ったもので皮をしごき、乾燥させると白くなる。これを径一〜一.五尺、高さ一尺ぐらいのオゲイ(苧笥)という入れ物に入れた(松尾)。これにいっぱいになるとだいたい一反分あった。白くなった麻を糸車にかけ、糸にしたものである。用途としては、蚊帳・ノコギン・網(海岸部から買いに来た=久部)・農耕用の牛の鞍に農具(金具)を縫いつけるための糸などに使われた。

 木綿は麻と同じように秋に収穫した。綿繰り機にかけて種を取り、それを集めて五〜六寸の棒状にする(秋葉や菅尾の綿屋に頼むところもある=金田)。これを木綿車(使用中の音からぶんぶんともいう=久部)のツミに木綿の先端をひっかけ、片方の手で車を回わして糸にする。木綿糸を作るのは、女性の雨降りのときや夜なべの大事な仕事であった。このようにして出来上がった糸は、町内三軒の紺屋や向野・千歳の倉波、清川の宇田枝・さらには竹田の紺屋に持って行き、紺や浅黄色に染めてもらった。また、自分の家では桐の木を焼いて染めたり(黒色)、クチナシの実を水につけて叩く汁が出る。これを利用して黄色に染めたりもした。

 たいていの家には高機があり、大正のころまでは、染め上がった糸で主に仕事着を織っていた。糸を高機にかけ、オサに通して織っていった。機機は一三才ぐらいから祖母や母に習って始めたものである。一反織るのに早い人で一日、普通の人はだいたい三日ぐらいで織り上げたものである。

 

 

    第二節 食

 

  一 日常の食事

 食事は、基本的には朝・昼・晩の三回であった。この間に小昼や夜食があった。時間はだいたい一定しているが、季節や農作業の繁・閑、地区により多少の違いがあった。食事の場所は主にないしょで摂った。農繁期には野良で弁当を、また、家に帰ってもニワで食べるのがほとんどであった。

 朝食は、夏は草刈りなどを終えてからでだいたい七時半前後で、冬は七時前後で、なかには、たきもん取りを済ませて摂るところもあった(上田原)。昼飯は十二時ぐらい、夕飯は八時ごろになった。昼飯と夕食の間、午後三時ぐらいに小昼があり団子などを食べた。商家ではおやつといい、唐芋・饅頭などを食べた。夜なべの時は午後十時ごろに夜食を摂った。

主食 麦(丸麦)飯が主である。麦八に対し米二(あるいは七対三)の割合で炊いた。前の晩に麦を一度たぎらかせ、みそこしなどに取っておき(こうすれば量が増す)、次の朝米といっしょに昼の分まで炊いた。この他にも粟飯・とうきび飯・稗飯も食べた。粟飯は粟に米を八対二の割合で炊いたもので、熱いうちはおいしいが冷えるとボロボロとして食べにくかった。さらには麦や粟だけで炊いたばっかれ飯も食べたものである(久部)。仏様にお供えするご飯のことをお仏飯といい、毎朝米の多い部分を供えた。お仏飯を食べると水泳のとき河童にさらわれないとか、荒神様に供えたものは他所で災難に遭わないと言われ、家人が口にしたものである。

 昼は朝の残りを食べた。弁当はメンパ(大白谷)・メシケ・メンツウ(上田原)に入れた。また、団子をくどで焼いたくど焼きも持っていくこともあった。

 夜は粉を使った料理が多かった。団子汁・うどん・そば・ゾーシー(雑炊)などである。そばは焼畑で作ったものでそば練りとして食べた。雑炊は大根・唐芋・白菜・筍などをいっしょに入れて煮たものである。うどんは小麦粉を練って適当なこしをつけ、めん棒で延ばして折りたたみ細く切ってゆがいて食べた。また、ほうちょうは練った小麦粉を大きく切り手で細く伸ばしてゆがいたり、味噌汁に入れたりして食べた(上田原)。団子汁は塩を一つまみ入れた小麦粉を練って小さくちぎり手で延ばすかにぎり団子にして、大根・里芋・季節の野菜等といっしょに味噌汁に入れて食べたものである。団子汁には小麦粉の代わりに米の粉を使うこともある。なお、製粉は自宅で臼を使ってするほか、水車を利用して粉を挽く車(松尾・上田原)、あるいは車屋に頼んでいた。

副食 漬物(こんこという―後述)・味噌汁・野菜の煮つけが主なものである。味噌汁は自家製の味噌を使い、中味には四季それぞれの野菜やイモ類などを入れた。

 また、近くの川で採れた蟹や魚(鰻・イダ・鮎など)を焼いたり、蟹味噌・ドンコ味噌(焼いた後にさらに炊いて小さくつぶし味噌と混ぜたもの)として食べた。鮎はうるかにもした。尾・ヒレ・眼玉を取り、水洗いして塩を多めにまぶし小さく切る。これをとんぎり包丁の背で叩きつぶして壷に入れておくと、一〜二日でおいしく食べれるようになる。 祝事の日など、ときどきは目刺し・鰯の丸干などの海の魚も食べた。臼杵や佐賀関からはんぎりという桶を頭に載せた女性(シャーロコベー=久部、又はシャー=羽飛と呼ぶ)が行商に来ていたのでこれを少しづつ買っていた。

 こんにゃくは、掘り出したコンニャク玉を炊いて皮を取り、臼でついて糊状にする。これに灰汁を混ぜて型を整え、小一時間炊くと出来上がる。一度に多く出来るので、食べきれない分は灰汁につけておくと日持ちがする(大白谷)。

 豆腐もまた自分の家で作った。水にかした大豆を煮て石臼で擦り、さらに大釜で煮る。これを麻製のとう袋に入れ天秤棒で絞って得た汁に、にがり(かますに入れた塩から出る汁)を大豆二升に一合五勺の割合で混ぜ、木綿の布を敷いた豆腐箱に流し込み重石をしてしばらくおくと豆腐が出来た。これらも野菜等といっしょに煮ておかずとしたものである。間食 小昼(農繁期には午前中も食べた)や夜食には、唐芋をふかしたり、小麦粉を練って焼き味噌をつけた焼き餅、あるいはイゼ餅(焼き餅の味噌の代わりに醤油をつけたもの=上田原)、とうきび、残りご飯の握り飯、ぜんざいの中に砂糖の代わりに唐芋を入れた唐芋ぜんざい等、いろいろなものを作って食べた。

 

  二 晴れの食事

 正月・節供・祭りなど日常とは違う晴れの日には、餅・赤飯・団子など特別なものを作った。また、主に海の魚貝類も食卓に上った。さらに、正月三が日・婚礼・葬式の時には米の御飯を食べた。従って、米も晴れの日の食事と言えるものである。

 餅は正月・節供・祭り・初誕生・祝儀・棟上げなどに搗いた。このように、餅は晴れの日の食事にはつきものである。

 赤飯は田植え・誕生祝い・棟上げ・子供の入学・卒業の時などに作った。作り方は糯米に小豆を混ぜて蒸篭で蒸して作った。商家では毎月一日と十五日には必ず赤飯を作って、家族・使用人などで食べる習慣があった。

 また、粳米に小豆を入れ炊いたものを小豆飯といい、誕生祝いに近所に配ったり、お大師様のお接待などにした。

 団子は節供・祭りなど祝いの時や、彼岸・盆など仏教的行事にも作った。米の粉を水で練り、型を整えて蒸して作ったものである。端午の節句のちまき、地蔵祭りのやせうま(小麦粉を練って延ばしてゆがき、冷ました後黄粉で食べる)などである。上田原地区では初盆のある家で近所の人が盆踊りを行い、黄粉団子(塩を少し入れた小麦粉を練り棒状にしてゆがいたもの)を振舞われた。また、彼岸には糯米を炊いて丸く握り、小豆のあんこをつけたおはぎを仏前に供えた。

 饅頭は主に夏祭りなど初夏から秋ぐらいまでの行事の日に作ったもので、酒饅頭が一般的である。作り方は、小麦粉を饅頭酒(炊いたご飯に麹と水を混ぜて醗酵させたもの)でよく練り、四aぐらいにちぎったものを手で延ばす。この中に小豆のあんこを入れて丸め、布を敷いたもろぶたに入れ一時間ぐらいねかせた後、蒸篭で蒸して出来上りである。また、芋(唐芋あん)・塩・潰したり漉したりしたエンドウ・トウマメ等の饅頭も作っていた。

婚礼 近所の主婦が集まり、大釜も使って料理を作った。内容は、しゅんかん(煮物)・お造り(刺身)・酢の物・中盛り(豆類など)・吸物などで五品ぐらい並べた会席膳であった。さらに、引手物用(多くは折箱)に二の膳までつけるのが普通であった。

葬儀 これは組内の女性(賄着を着た)が協力して行う。料理は、おひら(油あげ・椎茸など煮たもの)・和えもの・飯・汁で四つまわりという。仏事のときには、本膳にしゅんかん(蓮根・豆腐など煮た物を五種類盛る)・おつぼ(かたくりを溶かし麸を入れたもの)・中盛り(豆類)・飯・汁の五品である。二の膳には刺身・おひら(油あげ・昆布・椎茸など)・巻寿司・菓子椀の四品である。

 

  三 保存・加工

 植物の保存の方法には、大きく分けて天日による乾燥と塩を利用して保存する塩蔵とがある。

乾燥 ワラビ・ゼンマイ等の山菜類や筍などは数日干して十分に水分をとり、紙袋・缶に入れて保存した。食べるときは水につけてもどし、ゆがいて味付をした。

 唐芋は薄く切り、それを干してそのままか、あるいは粉にして貯えていた。

 生の大根を細く切り、蓆などの上に広げて十分に乾かした。これを切干し大根という。水でもどしてやわらかくし、味噌汁に入れたり、煮つけなどで食べるとおいしかった。食物をその形のままで干すものとしては、大根(干し大根)・とうきび・柿等があった。これらは、細い縄を使って簾状に結んだり、何本かをいっしょに束ねたりして、母屋や馬屋の軒下につるして乾かした。

 また、椎茸は室で乾燥させるほか、坪や軒先の日当たりのいい所に蓆やエビラに広げて干した。天気のいい日であれば四〜五日で干椎茸が出来上がった。

 里芋・唐芋の保存は穴を堀り、この中に芋とワラを交互に入れて薄く土をかぶせたり(羽飛)、家の裏にある崖に穴をあけ、その中に貯えておいたりもした(菅尾)。

塩蔵 塩漬けにして保存するものとしては、ワラビ・ゼンマイ・筍などがある。また、漬物も塩漬けの代表的なものである。こんこの材料には、大根・高菜・白菜・きゅうり・なすなどの野菜が用いられた。たくあん漬けは、四斗樽に二〇日ばかり干した大根・米糠・塩を交互に入れる。いっぱいになったら蓋をし、重石を置く。だいたい二〇日ぐらいで食べれるようになる。このほかにも、大根や瓜などを味噌漬けにしたものもあった。さらに梅干しも、どこの家庭でも漬けていたものであった。

 漬物作りは主に十一月から十二月の寒い時期に行われたもので、冬の一つの風物誌ともいえるものである。

 三重町は周囲を山に囲まれているために、時として猪・鹿・兎などの動物が採れることがある。これらの肉の保存には主に味噌を使うことが多かった。

 

  四 醸造・製造

 醸造の主なものは味噌・醤油であり、製造はお茶である。これらはほとんど自家用として作られていた。

醸造 味噌は、麦を搗いて蒸し塩を合わせて蓆などに広げておくと花が付き麦麹が出来る。次に約一日水にかした大豆を大釜で煮て臼ですりつぶす。これらを麹一斗に三升の割合で塩を入れて搗き、さらに防虫と腐敗防止のため塩を三升加えて樽に移し密封して貯蔵する。一年ぐらいで出来上るが、三年味噌はさらに味が良かった。

 醤油は、小麦を煎って臼で小さく挽き、これに塩と水に一日かした大豆を炊いて混ぜねかせておくと麹が出来る。樽にこの麹と水・塩を入れ、さらに竹製の簀(径三十a)を差し込み、この中に溜ったもろみを竹の杓で何回も汲み出すと液だけになった。この液を麻製のとう袋に入れて絞り、たぎらかすと醤油になった。なお、絞りかすは牛の飼料とした。

製造 一番茶は、五月の始めごろに若葉を摘んできて大釜で煎りすばやく手でもむ。手もみは一回または二回行い、あとは煮る冷ますを七〜八回くり返した。(冷ましているときは次のお茶を煎っている)。このようにしてお茶に白い粉がふいてきたら出来上がりである。また、煎り上がった目安として、指で潰してみて粉になるとよいとされている。

 なお、摘んできた葉には古いものあるいは日が当たらず変色したものが混っているので、煎っている途中(三〜四回めぐらい)に箕を使ってふるうと選別できる。さらには、最後まで乾燥せずに残ったお茶(これをたま茶という=久部)は、集めて乾燥するまで煎ったものである。また、前年の残りのお茶は、この時に煎り直すと香りが出て飲めるようになる。

 このお茶煎りは初夏のころに行うので、外の熱さと釜の熱気で汗だくになりながら、家族総出で行ったものであり、辛い仕事であった。

 

 

    第三節 住

 

  一 屋敷

 屋敷の敷地内には生活の中心としての母屋があり、それに付属して馬屋・倉・井戸などが配置されていた。これを屋敷取りという。なお、内山地区では和紙を生産していたために、紙漉小屋を設けているところもある。

 居り家(母屋)は、それぞれの立地に合わせて建てる。原則として南向きで、水の便のいいところを選ぶ。家の向きは、厳密にいえば東南(巽・辰巳)の方向がいちばんいいとされている。ほとんどの家がこの考えに基づいて建てられている。また、家を建てるとき、防風などのために自生している木や自然にできた壁・崖を利用している(浅水)。家の周囲や垣などで植樹の必要のある場合、樫・杉などが植えられた。これをクネ木という。母屋の前(南側)は物干し場等に使うために日当たりが必要であり、クネ木は主に裏側(北側)に植えられた。大白谷地区では主に防風のため、木の間に竹で棚を作り、壁のようにしたところもあった。

 家と家との境界を示す所にはムクなどが植えられた。また、家の表側と裏側の鬼門に当たる所(艮・坤の方角)には、災いを避けるためにナンテンを植える風習がある(ナンテンには難を転じる、の意味が込めらている)。

 母屋の前の空き地は坪と呼ばれ、農作業、主に収穫物の乾燥・調整(収穫した穀物の実を落としたり、それを蓆などの上に広げ、坪いっぱいに使って天日で乾かす)に使われた。農家では特に坪を大事に扱った。坪普請といって山からドヤ(赤土)を運んできて広げ、その上に蓆を被せてめぐり棒で叩きしめ、デコボコのないように保っていた。また、雨の日、軒下など雨だれの落ちる所には麦稈を敷いて穴のできるのを防いだ。さらに外出のときには、履物の跡がつかないように周囲を歩くなどして、常に注意を払っていた。

 石の祠を作り、屋敷神を敷地内に祀っているところもあった(羽飛)。

 

  二 住居

屋根 屋根の型は、寄棟造りが一般的であり、はこ棟と呼ぶ棟飾りのある家もあった(大白谷)。ほとんどの家がスボ屋根という茅葺きであるが、一部には瓦葺きの家もあった(浅水)。茅の量は丸替えで一五〇〇〜二〇〇〇把必要であり、十一月ごろ組合の茅場から運び(内山)、翌年の春ごろ二隣保班の協力(大白谷)で行った。大白谷地区では昭和の始めごろまで一人が一日の割り当てで六把づつ四回切り出していた。

 葺く時は、さす(縦)・やなか(横)と呼ぶ竹の骨組に、下の方から上へ段々と茅を縛っていく。二〜三日で完成した。スボ屋根は二〇年ぐらいはもち、雨漏りなどには麦稈を詰めていた。瓦の普及は終戦のころからである。なお、古い茅は焼くか、腐らせて肥料とした。

 市場の商家は、一二〇年程前に火災によって焼失した。これ以後、瓦屋根になり、壁にはしっくいを塗って防火に努めてきた。従って、現在でもその姿を見ることができる。

間取り 農家の家は四六の家、すなわち「田の字型」の部屋割りが一般的である。内山・上田原などでは、広間を他より広く取った「くい違いの田の字型」もみられた。部屋の数は四つであるが、生活の機能に応じて五間・六間と増やしていった。(左略図参照)

 通常家人の出入りするところをニワントグチといい、これを入るとニワがある。ここは藁打ち等の作業場として使われた。このため、入口の左の隅に藁打石があった。また、鶏を飼う家も多く、止まり木なども備え付けていた。

 ニワに面して広間とないしょがある。ないしょはニワンザ(上田原)・オキザ(浅水)とも呼ばれ、六畳の広さが一般的である。ここはユルリが掘られ、家族団欒の場であった。窓はなく、三尺四方の戸棚が一方にあった。

 広間は坪に面してあり、最も広い部屋である。ザ・マエンザとも呼ばれ、一二畳から一二畳半の広さであり、集会・来客用に使われた。また、農繁期には畳を上げ、藁仕事・収穫物の置場・養蚕などに使っていた。普段は使わず、夏の間は畳を上げていた。

 広間の次の間が前座敷(下座敷―浅水)であり、六畳・八畳の広さである。日ごろは使わず集会等の時襖をはずして使用した。

 前座敷の奥が上座敷(あるいは奥座敷―大白谷)と呼ばれ、六畳・八畳の広さがあった。通常ここには床・神棚・仏檀があった。

 主人夫婦はないしょの次の間にある六畳の部屋(納戸ともいう)を寝室にしていた。ここは北側で不衛生なために、大正のころから明り取りと風通しのために窓を付ける等の改造が盛んになった。

 天井は竹を小縄やシュロで編んだものが普通であり、屋根裏との空間はタバコの葉などの乾燥に使われていた。

 床もほとんどの家が割竹や丸竹を編んで作った竹床であった。大正のころ、蚕を養うようになって板床に変わったが、納戸の床は湯垢や後産を床下に流していたため、竹のままであった。

 商家は、道路に面して店舗になった土間があり、通り庭になっていて裏の戸口まで続いている。裏は倉庫になっている場合が多い。部屋は六畳の茶の間・客間としての八畳の座敷があり、仏檀や床の間があった。また、通り庭に沿って物置と炊事場があり、廊下を挟んで中庭がある。便所は風呂と共に廊下の突当りにあった。二階は四部屋あり、主に子供や使用人が使っていた。

いろり いろりはユルリとも呼ばれ、ないしょに掘られている。三尺四方で、下を石で積み、周りの壁をサンワ(粘土・砂・石灰・藁等を混ぜて粘ったもの)で塗り固め、その上に幅二.五〜三寸の框と呼ぶ雑木(桜・栴檀等)の枠をつけた。常に火を絶やすことはなく、火のとぎとしてカシ等の雑木がくべられ、寝る時も灰を被せて火種を守った。天井の横木から竹製(鉄製もあった―大白谷)のジデーカギ(自在駒)を吊し、かんすを掛けていた。また、餅を焼く時など五徳を使っていた。

 主人の座を横座と呼び、ニワに面して奥の方にあった。この両隣に年寄・長男(跡取り)が坐わり、主婦は横座の正面に坐わった。また、女の子は家事の手伝いなどのため、自ずと座尻の主婦の隣に坐わっていた。なお、横座以外には特別の名称はなかった。

 商家の茶の間にはいろりはなく、冬の暖房には火鉢を用いるのが一般的であった。

かまど くどといい、南面してニワの奥に作られている。別に大釜が一つあり、近くには荒神様を祀っている。大釜は味噌等の豆を煮たり、晴れの日の飯炊用に使った。くどの中央のどうこには湯が沸いていて、食器洗いに使用した。新しいくどは荒神様に供えた灰を入れて使い始めた。古いくどの土片等は自分の山にある荒神の森へ捨てた。くどは、妊婦のいる時は兎口の子供ができる(上田原)といって修繕等はしなかった。不幸帰りの時は塩で清めた。

 

  三 付属施設

 屋敷内には、居り屋(母屋)以外に主に西側に馬屋・倉・便所等の施設が建てられている。

井戸 水は井戸・いのこ(上田原)・水路(大白谷)などから汲んできて、ニワの流しの横に備えつけているはんど(甕)にため、調理・後かたづけ等に使っていた。水を汲むのは子供の大切な仕事である。井戸はたいていの場合、家の裏側にあり(商家では中庭にある)、近くには水神様を祀っている。

便所 便所はほとんどが外に作られていた。場所は馬屋の一部が一般的である。人糞は、農家にとっては大事な肥料であり、風呂の残り湯も流し込んでいた。これをタンゴとよばれる細い縄のついた桶に入れ、天秤棒でかついで野良へ持っていき使用した。また、ニワン戸口の横に小便用に堀抜きを作ったり、甕を据えたりしていた。これを小便タゴという。なお、便所のことを雪隠とよび、紙のかわりにわらが使われているところもあった。

風呂 風呂は馬屋に接続したところに庇をだして据えつけていた。大正の中ごろまでは、くどを作りその上に桶をのせた桶風呂を使っていた。これ以後は五右衛門風呂が使われだした。カクラ内で風呂のある家は少なく、たいていはもらい湯をしていた。風呂の湯も肥料になるために、できるだけ多くの人に入ってもらっていた。身体は石鹸の代用として米ぬかを手拭に包んで使用するのが一般的であった。また、足は灰石でこすっていた。

倉 母屋や馬屋とは別に一軒建っているのが普通である。たいていは二階造りである。壁は防火のためサンワを塗ったものや、その上にしっくいを塗ったものもみられた。階下には米・麦・豆などの穀類や味噌・醤油などを納めていた。二階はたいてい六畳ぐらいの畳敷きで、布団・膳椀などの普段あまり使わないものを仕舞っていた。

馬屋 たいていは二間に区切り、一方を物置にしている。物置の下は落とし小屋になっていた。厩舎の端に二〜三尺四方の穴を掘ったり(金田)、落とし小屋側の壁の土台を一〜一.五尺ぐらいの石を二段積みにし、一部の石をはずしておき(久部)、堆肥がたまるとこの穴から下へ落とすしくみになっていた。普段はこれに蓋をかぶせておいた。堆肥がたまると、人糞や残り湯を入れ、ときどき混ぜあわせていた。出口は道に面して造られていて、肥料を運び出しやすいようにしている。物置には主に家畜のエサのわらなどを保管していた。わらはまた、げや(庇の下・かべなしという)に積んだりもしていた。さらに馬屋には、ツシとよばれる中二階があり、農具・わら・蓆などを収納していた。

 

  四 建築儀礼

 一般に家を建てることを普請という。暦で大安の日を選び、仏滅・三隣亡の日は絶対に避けた。

 地鎮祭は菅尾の神主にしてもらう。これは地の神様から家を建てるための土地をもらうためである。家の建坪よりやや広くとった土地の四隅に竹を立て、これに御幣を付けた縄を張る。この中に簡単な祭檀を作り、野菜・魚・米・酒を供える。さらに、真中に真福寺のお礼を挟んだ竹を立て、神主がお祓いをする。供物は神主が持って帰り、お礼は家の完成時に柱に貼った。地鎮祭を怠ると家が栄えないといわれ、必ず行ったものである。

 金神除けは、主に千歳村の真福寺で行う。家主が行き、一晩お祓いしてもらう。これは金神様に家を建てるので断わりを言うために行うものである。

 地鎮祭が済むとジカチ(地搗き)をする。長さ一三尺程のやぐらを組み、中に松か樫で八寸ぐらいの杵を作る。これに綱を十字に付け、丸太で作った井ゲタの上から出す。柔らかい地面に敷いた小石の上を、一〇〜一五人ぐらいで搗いていく。やぐらの中にはかじ取りが入り、杵が正確に落ちるようにした。この時、少し離れたところに音頭取りがいて、”若い衆頼みじゃヨーソレソレ“(大白谷)で始まるジカナ音頭を唄い、調子を合わせて搗いていった。だいたい一日かかった。

 家の土台には、一.五〜二尺程の台形状の縁座石を柱の位置に据えた。大黒柱の礎石だけは表面を削ってきれいに仕上げた。

 大工が仕事を始める日をチョーナダテといい、大安などに行った。この日は柱を削る等簡単な仕事で終え、夜は主人が御馳走した。

 家の骨組みが出来、棟木の上がった時が棟上げである。この日は「のさ納め」がある。これは、麻芋・昆布・水引を三本の扇の間に置き、長さ三尺三寸三分の木で挾むように留める。そして、のさ御神酒・米一升・二段重ねの餅を三つ供え、棟梁がお祓いをする。のさは次の日に棟木に打ちつけられた。

 これが済んでしとぎ撒きをする。最初に二段重ねの餅を家の四隅に供え棟梁がお祓いをした後、それを主人に拾わせるように撒いた。これに続いて、三升三合三勺の糯米で作った赤白の餅と、五銭玉や一銭玉(天保銭もあった)などにこよりをつけ、もろぶた・さかいじゅう(上田原)に入れて、主人の帯で棟の上に引き上げて撒いた。しとぎ撒きは、縁起が良い、家が繁盛するなどといわれている。なお、拾った餅は焼いて食べるといけないといわれ、主に汁に入れて食べていた。この日の夜は、大工・家の人・親戚が集まり宴会をした。

 家が完成すると、大安・友引などいい日を選んで家移りをした。この時、最初に持って入るもの、誰が最初に入るか、また、家移りの特別な儀式等はみられなかった。

 

 

 

 話者一覧

  浅 水   伊美伍郎  T七・九・一

  上田原   都生男   M三五・九・二二

   同    伊藤ユキエ M三六・九・二三

  大白谷   佐藤春喜  T二・一・一〇

  金 田   麻生清重  M四二・八・二〇

  松 尾   赤嶺長馬  M四三・三・二〇

   同    土谷スミエ M三七・三・二八

  内 山   神志那照夫 M四三・六・二

  久 部   首藤正義  M三八・二・二八

   同    首藤千鶴子 M四五・三・二八

   同    首藤幸男  T三・一一・五

  羽 飛   廣瀬正   M三八・一〇・一〇

  市 場   麻生ノブ子 M四五・一・一四

 

 

  第三章 民具

 

    はじめに

 

 民具は民衆自身が使う日常ありふれた道具である。明治後半から顕著になる欧米文化の影響により、農山村の有形文化は徐々に変貌していった。ここでは大正期と昭和初期をひとつの中軸として、民具の様相を概観している。

三重町中央公民館所蔵の民具は、数は少ないが貴重なものが多く、今後、より一層体系だった民具の収集と記録が行われることを祈ってやまない。

 

    第一節 衣・食・住用具

 

一 服物

着物類 普段着をツネギ(常着)と呼んだ。野行きの着物といって、田畑に行く時は古くなった常着を着た。夏季の常着はノコギンという縞木綿製の着物であった。ノコギンの袖はツツッポ(筒袖)で、男子衆のノコギンの袖口はボタン袖やコハゼ留めで活動しやすくなっていた。女子衆のノコギンは長着といって、男子衆のものより丈が長く、働く時には尻からげにしていた。常着に用いる縞木綿は女子衆が高機で織ったものである。自作の綿から糸をつむいだり、三重の町で紡績糸を買ったり、自家製の麻糸と紡績糸と交換して、紺屋で染めてもらって縞木綿に織った。縞木綿や高価な絣を購入するようになったのは大正期に入ってからである。ノコギンは単衣で、冬は重ね着した。女子衆は袖無しを羽織るぐらいであった。男子衆は春秋に袷袢天、冬は綿入れ袢天(労働時には着用せず)を着た。大正ごろになると、男は縞木綿のシャツを着るようになった。常着の帯は、オシナリといって一反の縞木綿を折って四寸幅ほどにしたものを用いた。男はスゴキを帯にした。

猿股引はパッチともいい、縞木綿や紺木綿で作っていた。股が割れているので、大小便の時に脱がなくてもよいので便利だった。明治末ごろから大正にかけて、老人はパッチだったが、若い人は縞木綿のズボンをはくようになった。夏は膝上までの半ズボン、冬は長ズボンだった。また、当時老人は六尺ベコ(六尺褌)であったが、若者は三尺ベコ(越中褌)を用いるようになっており、軍隊の影響が男の服物に強く表れていた。

腰巻は年令によって、柄や色は違っていた。若い人は赤やピンク、それに花柄を用い、老人は白や灰色であった。絣をフタノウ(二幅)にして作ったが、フタノウハン(二.五幅)にして、丈を長くする人もいた。冬はネルを用いた。野行きには絣の前掛けをつけた。若い人は木綿幅一幅分で狭く、老人は一幅半と広くしていた。女は野行きの時には甲掛け(手甲)・脚袢をつけた。甲掛け・脚袢は手足を日照や外傷等から保護するもので、甲掛けは甲の先の孔に中指を通して、手首を紐で巻いて固定していた。脚袢も紐で縛っていたが、いずれもコハゼ付きの簡便なものが出現した。

明治中ごろまで、晴着には双子糸と呼ばれる目の細かい綿織物の長着が用いられていた。明治末になると、フタコイトは若い人の上質の常着となり、銘仙やガス糸(炎の中を高速で通して表面の毛羽を焼いて光沢を出した綿糸)の織物を用いた着物を晴着にするようになった。大正初期には婚礼衣装として、男は羽二重の紋付きに羽織り袴、女は裾模様が少しついた羽二重の紋付きを着ていた。明治期までは綿帽子だったが、大正期になると角隠しを用いるようになった。

明治期までは麻を植えて苧を績み、蚊帳や麻織物を高機で織っていた。麻織物からカタビラ(帷子)という藍染の夏着を作った。長着も短着物(半着)両方あり、夏を涼しくすごせるといって好評であった。しかし、麻はだんだん作られなくなり、浴衣地が安く出まわるようになり、帷子を着る人はいなくなった。

雨具 昭和二十年代にゴム長靴と雨合羽が普及するまで、作業時の雨具として、蓑と笠が盛んに用いられた。山間部では蓑茅(真茅)から茅蓑を作り、春に平野部の農村に売りに行ったという。シュロの樹皮で作ったシュロ蓑は耐久性が高かったが、重かったので男しか使わなかった。自作する人もいたが、高価だったので数は少なかった。笠はバッチロと呼ばれ、竹ひごを芯に竹皮を被せた浅い円錐状のものであった。バッチロは商売人が春に売りにまわっていた。

近所歩きの時には、普段は問屋傘をさしていた。蛇の目傘は女性の他所行き用であった。

履物 農作業時には足半を履いた。角結びといって、芯緒を鼻緒にするので丈夫だった。足半は踵が出るぐらい短いものもあり、泥はねが飛びにくかった。常履きには草履を用いた。

被り物 農作業の時、女性は手拭を姉さん被りにして日ざしや埃から頭部を保護した。男は手拭で鉢巻をしたり、鳥打帽を被った。

洗濯用具 夏ごろには大川の井堰端で洗濯をした。普段は暖かいイノコ(湧水、デミともいう)で洗濯をした。タライを使うことは少なく、イノコの中の石畳で直接洗った。ザルに洗濯物を入れて、六尺で担いで行った。晴着を自宅で洗うことはなく、常着は丸洗いした。明治末ごろは石鹸が普及し始めたころで、藍染めのものはアク、白地のものを石鹸で洗っていた。木灰をザルに入れ、水を注ぎ、滴り落ちるアクを器で受けた。「アクはコケを取る」と言っていた。布団は中綿を取り、布団側は大きいので川で洗った。丹前や綿入れ袢天等も綿を出してから洗濯をした。

 

  二 食用具

 炊事調理用具は時代の変化を受けやすく、次々に新しい工夫された道具が沢山使われるようになった。炊事調理用具は自作民具は少なく、職人が作った道具が多い。

炊事用具 副食は鉄鍋で煮た。弦付きの小形のツリナベは主にユルリ(囲炉裏)で用い、弦のないカンツキはクドで使った。主食の御飯は羽釜の普及前にはカンツキで炊いた。羽釜は胴の中ごろに羽がついており、炎が隙間から逃げにくく、熱効率が高かった。クドの火口にはカマワというドーナツ状の薄い金具をはめて、鍋や釜の大きさにあわせた。クドは石を積み、練った土で整形する。普通、炊き口は二か所あり、その横には大釜をかける大型のクドが設けられていた。大釜は一斗炊き以上の大型の鉄鍋で、豆腐作りや宴会時の炊飯等に用いた。

糯米等の穀類を蒸す時にはコシキを用いた。高さ直径とも四〇abほどの桶で、底の中央には五abくらいの蒸気孔が開いている。孔には小さな味噌こしザルを被せて、穀粒が落ちないようにする。コシキを羽釜やカンツキの中に立て、蒸気が脱けないようにドーナツ状にしたワラを隙間に詰める。コシキは弥生時代の土器製のコシキの系統につらなる古い道具なのである。箱型の蒸篭は饅頭を蒸す時くらいにしか使わなかったという。

台所では沢山の竹細工用品が使われた。イナリグチ(長径六〇ab・短径五〇ab・深さ一五ab)やマルジョウケ(直径五四ab・深さ一五ab)は用途が多いので重宝がられた。その他にも、メシジョウケ、メゴ、コザル等があった。

包丁は普通は菜切包丁を使い、固いものや魚をさばく時には出刃包丁を用いた。包丁は三重町の鍛冶屋が作っていた。マナイタは、粘りがあって傷のつきにくい公孫樹の板で作られることが多かった。

水車や精米所が早く普及したので、昭和期になると石臼で挽くのは豆腐だけとなっていた。臼台は木製の箱で、脚がついており、二人がかりで石臼をまわしていた。大釜で煮た大豆を石臼で挽いて、木綿袋の中に入れて絞る。絞った大豆汁は、スマシ桶の中に入れて、ニガリを加えて混ぜ、豆腐箱に注いで凝固させた。

製粉は早くから、水車や精米所に頼むようになっていた。ウドンやソバを打つ時、粉をコネバチの中で水と混ぜてこねた。コネバチは唐津(陶器のこと)の大鉢である。松板を合わせ継いだウチイタに乗せて、樫製のウチボウで打ち延ばす。

戦前には醤油を自作する農家は多かったが、今でも大豆味噌を手作りする家がある。大釜で煮た大豆に麹を混ぜ、石臼(搗臼)に入れてテギネ(手杵=縦杵)で搗いてから、四四斗樽に仕込む。テギネは椿製で、味噌を搗く時にしか用いない。

餅搗き臼は、味噌搗きの臼と同じものだが、杵は椿製の小型の横杵であった。

飲食用具 家族が集まり食事する情景は明治以降大きく変貌した。それは日本の家族制度の変化のひとつの表れでもあった。

昔はユルリを囲んで食事をするのが普通であった。夏はユルリに蓋をして、農繁期ともなれば、ムシロを敷いたニワ(土間)に座って食事をとるほど慌ただしいものであった。寒いころはユルリの火で暖をとりながら、ゼンバコ(膳箱)で食事をとった。ユルリの座る場所は決っていた。主人が座るヨコザ(上座)、主婦の座るザジリ、それに客座と下座。それぞれ座る所は決っており、特にヨコザは「主人の外に座るのは坊主か猫か馬鹿者か」と言われたように家長以外は座れなかった。

膳箱は家族それぞれが持つ木箱で、蓋を裏返せば膳となった。中に唐津の飯茶碗と汁茶碗、それに小皿と箸を入れていた。数日に一回しか食器類は洗わなかったので、清潔とは言えなかったが、食器が個人に属するという日本独特の習慣をよく表している。

大正期になると飯台(座卓)が出現し、同時に囲炉裏と膳箱は次第に姿を消していった。

醸造・保存用具 日常使う醤油を作る農家もあった。それでも、盆、正月には醤油屋から買ったという。大豆と小麦をひき割って麹にして、醤油桶という四斗樽より大きな樽に仕込む。スという円筒型の竹篭を入れて、しみ出た醤油を柄杓ですくい出して大釜で一度煮て、醤油ハンドという一斗入りの口の狭い瓶に入れて保存した。

酢は自家製の柿酢を主に用い、カボスも使い、買うことはなかった。柿酢の材料には甘柿でも渋柿でもよい。熟し柿を甕に密封して、半年置いておくと、自家発酵して下に澄んだ柿酢が溜る。上に浮いた滓を取り除き、布でこして料理に用いた。カボスは一軒で何本も植えていた。石菖や籾殻を入れた箱の中にカボスの果実を入れて保存した。絞った果汁は瓶の中に入れて保存した。籾殻を敷いた竹篭を皿の上にのせ、割ったカボスの実を絞って注ぎ、下の皿で受けていた。

漬け物は重要な副食のひとつであった。沢庵、タカ菜漬け等は四斗樽で大量に漬けた。夏には当座漬けといって小さな樽にナスビやキュウリを塩漬けした。梅干しはハンド(甕)で漬けることが多かった。

 

  三 住用具

収納用具 家具衣類を収納するのは、箪笥・長持ち・布団箱・柳行李等であった。長持ちが出現するのは戦国期からで、綿入り布団の使用とともに、その収納具として普及した。箪笥は十七世紀中ごろに発生した日本の代表的収納家具である。箪笥はそれまでの葛篭や長持ち、唐櫃等と違って抽出しを持つのが特徴である。衣類が豊かになるのに従って必要となった機能である。材料には軟らかくて湿気を吸いにくく、収縮率の小さな桐が最適であった。桜・栗・樟等の雑木も使われた。昔、箪笥は幅が一.八bあり、二段に分かれるようになっており、それぞれに竿金具がついていて、運搬しやすくなっていた。また、作りつけの箪笥もあった。布団箱もやはり二段になっており、布団等の寝具を収納していた。これは押入れが未発達だったころの名残りとも言える。行李は衣類を入れて、押入れや納戸に置いた。また、旅行時にも使える手ごろな収納用具であった。

寝具 布団生地と綿を買ってきて、布団を自作した。掛布団の表はイツノ(五ツ幅)で、裏は三幅である。表には縞木綿、絣(更紗より丈夫)、更紗等を用い、裏には紺木綿を使った。敷布団は紺木綿や縞木綿であった。縞木綿や紺木綿は自宅で織った布を用いたが、絣や更紗は三重町の太物屋(木綿や麻布の専物店)等で買った。

長患いの病人の敷布団として藁布団を用いた。普通の敷布団の下に敷くこともあった。木綿の布団側の中に、綿の代わりに小さく切った藁や長いままの藁を入れる。トコズメ(床擦れ)を防ぐと言った。吸水性に富み、すぐ乾燥するので衛生的だったという。

枕はソバ殻や籾殻を絣や更紗で包んで作った。小豆枕は最も贅沢であった。ソバ殻が最も好まれ、粉ぽい籾殻はソバ殻の代用であった。乾かした茶殻を入れた茶枕は軟らかくて好まれた。また、日本髪を結っている女性は箱枕を用いた。

夏の風物詩であった蚊帳は、昨今その姿を見ることはまれになった。行商人が大阪等から売りに来ていた。木綿製の蚊帳が一般に普及しており、麻製蚊帳は高級品で数少なかった。麻の蚊帳は風通しがよく、重いので蚊が入りにくかった。明治中ごろまでは、自分で麻糸を織って蚊帳生地を作り、青や緑に染めてもらって、蚊帳を自作したという。

灯火・暖房用具 数十年前まで、家屋の隅々に夜の闇は生きづいていた。明治の中ごろに出現した文明開花の象徴ともいえる下げランプによって、闇が占める領域は狭くなり、大正期に普及する電灯によって、室内から暗闇は消えてしまった。ランプ出現以前には、肥松や松明、提灯、行灯等が用いられていた。肥松とは樹脂分の多い赤松の芯部のことで、照明以外に盆の精霊送りの時に門口で燃やしたりした。木灰を入れた破れ鍋や軟らかい石を加工して、肥松の台にした。三重町中央公民館所蔵の松明台は、肥松を燃やす鼓胴型の石の台で、高さ三〇ab、上部はほぼ六角型、下部は一五abと二二abの長方形をしている。松明台と呼ばれるように、長い肥松を束にして携帯用の松明として用いることがあった。また、樹皮をはぎとった麻の軸(麻木)を松明にすることもあったという。隣村の祭を見に行く時等の夜の遠出に松明を用いた。村内では提灯を使った。普段使うのはブラ提灯(下げ提灯)、遠出する時には馬腹提灯(小田原提灯)を用い、婚礼や葬式(いずれも夜に執行していた)には家紋の入った弓張提灯を用いた。弓張提灯は家紋が描かれた張灯箱に入れて、鴨居等に吊っていた。三重町には提灯屋があり、製造・修理・紋入れをしていた。提灯にも使われるローソクは高価だったので、室内ではあまり使われなかった。肥松は煙と煤が出るので、ニワでの夜なべ仕事の時に用いられるだけだった。室内では行灯が用いられた。行灯は木の枠に紙がはってあり、中に灯明を置く、灯明皿に入った菜種油に灯芯の大部分を漬けて、出ている一端に火を点す。灯芯には太い木綿糸やアジサイの茎の芯を用いた。カンチョロと呼ばれる携帯用の小型照明用具もあった。これは紙をはった四角い枠の中で灯油を燃やすもので、石油の使用料は少なかったが、その分暗く、風呂場や台所で使用された。ランプは置きランプよりも下げランプの方が多く用いられていた。一軒の家には最低二個の下げランプがあった。

暖房用具といえば、まずユルリ(囲炉裏)がある。囲炉裏では自在鉤で鍋を吊ったり、五徳にカンス(湯沸し釜)をすえたりと、家庭団欒の灯りと暖をとる以外にも、さまざまな使われ方をした。寝る前にはヒノトギ(火の伽)といって、櫟や樫等の硬木を焚いておき、囲炉裏の熱灰をかけておくと翌朝まで火は点り続けた。大正期に、囲炉裏は堀ゴタツに改造されて姿を消してしまった。

火鉢には木製の角火鉢と陶製の丸火鉢があった。角火鉢は欅等の板で作られた木箱の内側にブリキが貼ってあった。銅壷や五徳が置かれていて、常に湯が沸いていた。

就寝時の暖房として、櫓ゴタツが使われた。四角い木の枠の中に素焼きのコタツが入っており、炭火や囲炉裏のオキを入れ、熱灰で覆っておいて、布団の中に入れる。蹴り倒すと危険だし、コタツの直接の火は子供や年寄りだとのぼせると言って、湯タンポを用いた。湯タンポは戦争中一時陶製になったこともあるが、ブリキで作られており、火傷しないように布で巻いていた。

 

 

 

    第二節 農耕用具

 

  一 耕作用具

稲作とともに日本に渡来した鍬は、今なお用いられており、最も息の長い農具といえる。

昭和初期までは、唐鍬と呼ばれる畦切用の風呂鍬が用いられた。ホ(穂=刃先)の長さ二尺五寸(四五ab)、幅四〜五寸(一二〜一五ab)、柄の長さ三〜四尺(〇.九〜一.二b)ある。刃先が長大で、柄が短く、柄と刃先の角度が狭い鍬である。刃先が長いのは畦が曲がらないためだという。また、唐鍬はネリグワともいい三重町の鍛冶屋が製作していた。唐鍬は柄と穂の接合部に船型の風呂と呼ばれる木部を持つため、構造的に弱く、また重すぎるので、改良鍬の出現によって消えていった。改良鍬は播州三木産の鍬で、クダリ鍬ともいわれた。刃先はすべて薄い鉄板で作られており、刃先の上端下に柄孔が接いであった。三鍬は耕起用の又鍬のことである。牛で犂き残した田の隅をとったり(耕したり)、畑の畦掘りや堆肥の埋け込みに用いられた。山道作りや植林の苗植えには、山崩と呼ばれる鍬を用いる。山鍬ともいい、刃幅は狭いが、厚くて丈夫である(久部)。

三重町では犂のことをコガラと呼んでいた。これは大分県南部全域に見られる現象である。コガラの名称は、畜力利用の犂の古語であるカラスキ(加来須来・『倭名類聚抄』源順著・承平年間十世紀前半選出)に接頭語のコがつき、コガラスキとなり、それが省略されてコガラになったのではないかと思われる。コガラは田コガラと畑コガラとに区分される。コガラは三角構造体の無床犂の系譜をひく。無床犂の犂身の角度を緩和し、犂底らしき部分を水平近くに曲げて伸ばして有床のようにする。床部は幅広く長大である。粘着性が乏しく軽量な阿蘇山火山灰土壌地帯に適応して発達したのである。コガラと同型の犂は赤城山周辺の火山灰土壌に適応した群馬県の上州オンガしかない。畑コガラが発達し、長床犂と融合したのが田コガラである。四角構造体であり、耕土をかえすヘラがついている。田コガラや畑コガラは杉材から自作することが多かった。九州北部は古くからの犂耕地帯で、農業の先進地帯であった。明治十五年になると九州北部から全国各地に農業教師が派遣され、馬耕などの進歩した農業技術を広めた。その影響は大分県南部ではやや遅れ、大正十二年ごろに福岡県の磯野式単用犂が使用されるようになり、田コガラは駆逐されていった。また、田畑にも使える両用犂が出現し、畑コガラも消滅した。これらの新型犂は短床犂の一種で、操作性の高さと深耕可能な能率の良さによって一世を風靡したが、昭和四〇年ごろのトラクターの普及により、その役目を終えた。

馬鍬は犂で耕起した後の土を砕く道具で、牛に曳かせていた。三重町や牧口の店で既製品を売っていたが、構造が簡単なので自作する人もいた。四角い枠状の構造に曳手の棒が二本つき出している。モーガンコ(歯先)は鍛冶屋に作ってもらった。モーガンコを植え込む台には耐水性の高いニレの木を用いた。馬鍬の刃は台に一列に植え込まれている。古くは九本であったが、改良されて一一本になった。機械馬鍬は、馬鍬の前部に歯を植えた回転部をつけたもので、麦田(秋に耕起して麦を植える乾田)の砕土に用いた。戦前に出現し、戦後普及した。

田下駄はレンゲやカシキ(山の草)を田の中に踏み込む履物である。四角い枠の中央の板に鼻緒がついている。枠についたシュロ縄の紐を手で持って歩行する。昭和三十年ごろまで使用した。化学肥料出現前の自然肥料の時代の道具である。

堀串は万葉集の時代からある古い耕起用具である。長さは二bあり、刃先は幅一〇ab・長さ一四abほどの楕円形をしており、柄には細い杉の間伐材を用いる。山芋掘りに使われている。

田植綱は田植の時に苗を植える間隔を決める道具で、細いシュロ縄であった。田の畦で二人の男が引っ張りあい、七寸刻みに赤い布をくくっているのを目印に女たちが苗を植えていく。二毛田(麦田・乾田のこと)では綱を引き、一毛田(ドブ田・湿田のこと、山間部に多い)では綱は引かなかった。

 

二 管理用具

旱魃の時には川底に残った水をミズグルマ(足踏み潅漑水車)を踏んで汲み出していた。内山では地区共有のミズグルマが三挺あり、天神社拝殿の天井に吊り下げて保管していた。

夏の水田での除草はつらい仕事であった。稲の苗がのびて一番節が出るころ、ガンズメウチをした。一週間後に草取りといって素手で水田を掻き、二番取り・三番取りとやはり素手で草を取っていく。大正十年ごろにはハッタンドリという除草機が使われるようになり、ガンズメウチをした後で、ハッタンドリ、次に三番取りと仕事が楽になっていった。ガンズメ(雁爪)は五本ほどの鉄棒を湾曲させて爪状にした道具である。ハッタンドリは八反取りと書く。一日に八反の水田の除草ができたからだという。ハッタンドリは、舟形の枠に鉄や竹の釘が打ちつけてあり、それで水田面を掻くわけだが、大形で回転する爪を持った改良型のハッタンドリも出現した(内山)。

 

三 収穫・調整用具

鎌は用途によって、さまざまな形態を持っていた。稲刈り等の収穫に用いられたのは、片刃鎌と鋸鎌とであった。片刃鎌は切れ味は良いが、刃が薄いので欠けやすい。鋸鎌は刃と柄の角度が広く、小型で、刃先には小さな鋸目が切ってあった。大正末期に出現し、昭和三十五年ごろに稲刈機が普及するまで用いられた。

刈り取られた米麦を稲打台(稲打台・麦打台・シメギ台とも言う)に穂先を叩きつけて脱穀した。畳一枚ほどの広さの高さ四〇〜五〇abぐらいの低い台で、上部には割竹が張ってあり、上面に石を置いていた。小麦や稲の束をシメギで縛る。シメギは長さ六〇ab程度の麻紐の両端に握り棒がついた道具である。穂束の根元にシメギの紐を巻きつけて、シメギ台の上の石に穂先を打ちつけるのである。一度打ちつけると、手をかやして(かえして)反対側を打ちつける。塵が飛ぶので、稲打台の周辺にはムシロで囲いを作った。ジャポニカ種の稲と違って、インディカ種の大唐米は脱粒性が大きいので、叩打脱穀法を用いたと思われる。近世の九州で大唐米が栽培されていたことは、大分県下で稲打台が稲や小麦(乾燥すると脱粒性が向上する)の基本的な脱穀具であった理由のひとつとなるだろう。稲打台は大正期までは使われていたが、千歯や足踏み脱穀機の出現によって消滅していった。

明治期から徐々に千歯が普及していった。古くは硬い孟宋竹の歯をつけた千歯があった。鉄製の千歯と同形であったが、歯は大きく本数は少なかった。鉄製の千歯のうち、稲こぎ千歯の歯は平たく、麦こぎ千歯の歯は丸棒上で、いずれも歯先は尖っていた。

粟や裸麦の脱穀にはメグリ棒を使った。坪(作業用庭)に広げたムシロの上に粟を広げてメグリ棒で打つ。裸麦は一度千歯でこいでから、メグリ棒で打つ。メグリ棒は叩打面を回転させながら勢いをつけて打つ。叩打面は親指ほどの太さで九〇abぐらいの長さのハイノキを五〜六本並べて、ツヅラカズラで狭い扇状に編む。柄は本竹で軸ともいった。

千歯は大正初期まで盛んに用いられたが、風車(足踏み脱穀機)にとってかわられた。両足で踏む風車がまず出現し、それから簡便な片足式の風車に変化した。

唐箕で米麦等の実と粃・殻・塵等を選別する。箱の内部に風車が作られており、起こされた風で吹き分ける。唐箕の胴には把手がついており、それをまわして羽根を回転させる。昔は把手と羽根は直結していた。昭和初年に把手と羽根の間にギヤボックスがつけられるようになり、羽根の回転数が向上したので唐箕自体が小型化した。三重町には興梠唐箕店という専門店があって、製造販売していた。

穀類をあおり振って、殻や塵をより分ける道具に、唐箕以外に箕もあった。桜箕、二ツ目網代箕、三ツ目網代箕があった。桜箕が最も古式で、笊目編みで要所に桜皮を編み込んでいた。二ツ目網代箕は本匠村笠掛や弥生町ミオキで作られていて、明治三十年代に四国から製法が伝わった箕である。白山・鷲谷周辺で使用された。三ツ目網代箕は熊本県方面から移入されたものだという。

屋敷の周囲にカタシ(椿)の大木やサザンカがめぐらせてある農家を今でも見ることができる。椿の屋敷林は防風のためもあるが、その実からカタシ油を取るのが目的であった。唐臼で砕いた椿の実を蒸して、シュロの皮を縫いあわせて作った袋に入れ、三枚板の間に入れて、油を絞っていた。三枚板とは、三枚の松の厚板を横桟で結びつけ、二つの隙間のうち、片一方に椿の実を入れ、片一方に樫杭(クサビ)を打ち込んで締めていくのである。三枚板の台の代わりにする臼の中に油は滴る。昭和三十年代までは三枚板で自家用のカタシ油を作って、料理や髪油に使っていた。

 

 

    第三節 山樵用具

 

  一 植林用具

鷲谷等で杉の植林が本格化したのは、戦後になってからだという。バチ(バチ鍬)で苗木を植え込み、植林後十年近く下刈りをする。十年すぎると下枝を落とす。下刈りはネザライガマ(造林鎌ともいう)で行う。両刃で丈夫な刃がついており、樫の長い柄がついていた。下枝は柄鉈で落とす。柄鉈は刀先に爪がついており、刃を保護している。薮を切り開いたり、草刈りをする時には両刃鎌を使った。両刃で厚かったので、丈夫だが、切れ味は悪かった。

三重町で一番多く用いられたのは土佐鎌であった。播州三木産の刃物もよく使われ、クダリとかクダリモンと呼んでいた。特に播州産の鎌をクダリ鎌といった。昭和初年から四十五年ごろまで、鋸・鎌・鉈・斧等の信州刃物を扱う行商人が長野からやってきて、農家を泊まり歩いて商いをしてまわった。信州の造林鎌には片刃のものもあった。昭和三十年代に、農協が「正清」という両刃鎌を斡旋していたが、これは好評であった。三重町の鍛冶屋に鎌を作ってもらう人もいたが、数は少なかったという。

 

二 炭焼き用具

樫・楡・欅・椿等の原木を、テノコとヨキで伐採した。テノコは四〇abほどの刃先の横挽き鋸であった。佐伯から鋸の行商が来ていた。ヨキは三重町の藤井鍛冶屋が作るのが上手だったという。ヨキは年に一度サキガケを鍛冶屋にしてもらい、鋼の刃を作り直した。原木の枝を落とすには、柄鉈を用いた。佐伯鉈といって桜印の刻印を打った鉈を行商人が持ち歩いていた。

大正十年ごろ、佐伯の方から白炭焼きや木材搬出に多くの人たちがやってきたが、あまり定住する人はいなかった。三重町の人たちは黒炭焼きをしていた。黒炭窯は灰石で卵型の石垣を築き、甲(天囲部)は粘りのある赤土で作る。窯の中に木を入れて、その上を土で覆い、タタキギでコバシメといって叩いて固める。タタキギは、コウカの棒の一端を平らに削ったものである。窯に火を入れ、炭ができると同時に甲は焼き締まって窯ができる。

上炭は炭切鋸で切って出荷した。炭切鋸は金切鋸と同型で、弦に細い板状の鋸歯がついていた。鋸目は金切鋸のものより少し荒い。

炭ダツ(炭俵)は茅をコマカケで編んで作った。小縄にはほらけない(もろくない)糯藁を用いた。四角く梱包し、両端にはマルビといって柳や椿等の粘りのある木を丸めて入れ、小縄で縛っておく。

 

三 椎茸用具

昭和二十三年ごろに種駒が普及するが、それまでは鉈目式椎茸栽培法であった。十一月ごろにヨキやテノコで櫟を伐採する。次に一.三bほどの長さにテノコで玉切り、テナタで刻み目を入れる。テナタは箱鉈ともいう。エナタには鞘はないが、テナタは箱型の鞘に入れて、腰につけていた。テナタ(手鉈)は柄と刃部ともに一体の鉄で作られている。樹皮部に刻み目を入れて、椎茸の胞子の自然活着を待つという原始的な栽培法であるため、刃先は柄鉈より鋭い片刃であった。手鉈は鉈目式椎茸栽培法特有の道具なのである。昔は椎茸はすべて乾燥して出荷していた。室小屋で炭火乾燥をした。六坪ぐらいの土壁・草葺きの小屋で、前に二坪ほどのニワ(土間)があった。室の左右には棚があり、エビラという萱の簀を敷いた枠に生椎茸を並べ、床の炉の炭火で乾燥した。

 

  四 養蚕用具

養蚕用具を細かくみると、掃き立て用具、成育用具、桑摘み用具、桑刻み用具、上簇用具、収穫処理用具とに分かれる。

蚕卵紙に孵化した幼虫を新聞紙を敷いた丸バラ(薄い篭)に鶏の羽箒で掃き落とす(掃き立て)。二眠ぐらいまでの稚蚕には、呼び出し桑といって、網を打たずに細かく刻んだ桑の葉を与える。桑は桑切り包丁で刻む。蚕が成長するに従って、バラの数をたす。四齢からは、七島藺の網を掛けて尻がえをする。春の桑摘みは手でむしるだけでよいが、秋には両手の人差指に鉄製の爪をはめて、親指で押さえて刈りとる。春の桑の木を小さな桑切鎌で切って、芽立てをすると、秋に再び芽が出る。繭を作り始めた蚕はマブシに入れる。古くは木や竹の枝等を用いたが、明治末ごろには折った藁を使うようになり、機械で折ったマブシも出現した。繭が硬くなったころに取り出して、繭袋に入れて出荷した。

 

五 畜産用具

共有地の山野や自分の山の下刈りをして、飼料にする朝草を手に入れた。カゴに草を入れて天秤で担いだり、牛に負わせたりした。草、藁、粉糠、粉滓を半切の中で混ぜて牛馬の飼料にする。半切は直径一b・深さ三五abほどの桶である。藁は藁切(押切りともいう)で切り刻む。古い藁切は台に刀が直接当たり自然に掘れてゆく。台は軟らかい杉や松材を用いた。ハミ桶で飼を与えた。厩の入口に吊す。牛馬が傷つかないように、桶の紐はシュロ綱や苧の縄、それに藤カズラを用いた。爪切りをする時は、牛を枠と呼ばれる木枠の中に入れて身動きしないようにした。枠は集落ごとに一基はあった。爪切鎌という小型の鎌で爪(蹄)を後方向から削ってゆき、ヤスリで砥いで仕上げた。脚がはれたり、腰がなえたり、食欲不振の時には、足裏とか腰に馬針を立てた。

 

六 河漁用具

三重町は北部を大野川が流れ、中津無礼川等の支流とともに河漁が盛んに行われていた。宇対瀬や川部等のような本流沿いの村には、河漁を専業とする人もいたが、久部のような支流域では子供の遊びや余技として行われていた。とはいえ、川魚は山間部の住人の貴重な蛋白源であった。

久部では、茶筅筌・ネジ筌・ガニ筌・缶漬け・鰻篭・鰻箱・瓶漬け等の陥穽漁具と、竿釣り・ツケ鉤・ピンチョコ釣り・穴釣り等の釣漁とがあった。

茶筅筌は上流域用の漏斗状の筌。淡竹か黒竹(本竹ともいう。真竹のこと)を六〇abの長さに切り、根元を一五〜一八ab残して、一方を何本にも割って広げ、その口縁部が直径三〇abほどになるように竹の輪を糸で編みつける。節は小孔を開けておく。子供が遊びで仕掛けることが多い。急流に設置し、石等で固定する。流れ込んだ魚は身動きができずに獲まってしまう。ハエ・アブラメ・ドンカチ・イダ等が獲れ、時たま鮎が掛かる。 ネジ筌は直径六〇ab・長さ二bほどの大型の筌である。川端に生えるシノブ竹(篠竹)を円錐形状に整形する。針金やツヅラで螺旋形状に編んでゆく。口縁部には漏斗状のコイタ(舌)を取り付け、一度入った魚を逃がさないようにする。コイタは黒竹や淡竹のヒゴを編んで作る。

ガニ筌はモズク蟹を獲るための大型の筌。ネジ筌とほぼ同大同型だが、荒目に使ってある。

缶漬けは川の底に仕掛ける筌で、大正期まで使用された。直径七五ab・深さ一五abのタライ状のブリキ缶(昔はタライを使ったらしい)の開口部を麻布で覆い、麻紐で縛って固定する。麻布の中央には口があり、直径一五abの筒状の舌が内側に向かってついている。舌の下部には鉛の錘りが縫いつけてあった。小麦粉・サナギ粉・粉滓(ふすま)、それに味噌を混ぜて、鍋で煎って団子を作り、これを缶の中に入れて餌にする。口にも団子と小麦粉を混ぜたものを塗っておく。仕掛けるにはヨド(淀んだ所)は向かず、深くて流れのある砂の多い河底が適する。砂の中に缶を埋め、流されないように縁に石をのせて固定する。仕掛ける時に、川に潜らねばならないので、漁期は夏であり、イダが沢山獲れた。

鰻獲りの筌には、竹を編んで作った鰻篭と竹のポンポン(竹筒)をそのまま使ったものや、板で作った鰻箱とがあった。いずれもコイタ(舌)が装着されており、餌には缶漬けや瓶漬けで獲った生の小魚やミミズを用いた。漁期は旧暦五〜六月である。

瓶漬けはガラス製の陥穽漁具を用い、大正十年ごろから使われ始めた。割れにくいように小砂の多い河底に仕掛け、餌には缶漬けと同じ団子を用いたり、イリコの頭や鱗を使った。主に、ハエ・アブラメが獲れ、イダも入った。

子供が遊びで、ハエ・アブラメ・ドンカチ等を竿で釣る。餌には甘藍につく青虫・ミミズ・セムシ(トンボの幼虫)・味噌団子・カガシラ(毛鉤)を用い、春先には鉤をつけたイノハ虫を水面に浮かせてエノハを獲った。釣鉤は三重町の店でも売っていたが、たいてい行商の小間物売りから買った。小さな箪笥を重ねて、天秤(天秤棒)で前後に担いで、家々をまわってきた。

ツケ鉤は延縄ともいい、鰻を獲る仕掛けの一種である。割竹の棒の先に麻糸をつけ、その先端にガザリ(返り)のついた釣鉤をつけ、生きた小魚やミミズを餌にする。大きな鰻をねらう時にはドジョウを掛ける。ドジョウも死なないように尾びれ近くに釣鉤を刺す。夕方に鰻のいそうな穴にツケ鉤を突っ込んで、竹の棒に石を乗せて固定し、夜中に仕掛けを回収する。

ピンチョコ釣りには、ツケ鉤の仕掛けをそのまま用いる。餌はドジョウで、水面近くを自由に泳がせておくと、鰻は深みから登ってきて、ドジョウに喰いつく。

穴釣りも鰻を獲る仕掛けである。麻糸の先にガザリのない釣鉤をつけ、ミミズを餌にする。先の細くなった棒の先をV字型に割って、ここに鉤を引っかける。夕方、鰻のいそうな穴の中に、そろりと突き込む。ある程度奥に届くか、鰻に引き込まれれば、棒から離して手繰り寄せる。右手で糸を引きながら、左手を穴の中に入れ、鰻が手に触れたら糸を歯でかんで引っ張り、両手で鰻を握って魚篭の中に入れる。鰻は月夜には獲れない。新月の時がよい。夕立で川が濁ると沢山獲れる。雷が落ちればなおさらよい。

昔、毒流しという漁法があった。山椒の樹皮をクドの木灰と一緒に煮て毒を作り、ニナイ(担い桶)に入れて山の小川(支流)に持っていって流した。本川(本流)は大きすぎて、毒の効き目はなくなってしまう。毒が流れてゆくと、小魚は陸に向かって走り、乗り上げた。夏の渇水期が漁期で、冬は寒くて毒が効かない。唐芋の蔓を何本も川の流れに横に渡しておくと、そこから下流は毒は消えると言っていた。戦前、台湾産熱帯植物の樹皮であるゲランを毒として使ったこともあった。

木箱の底にガラスを張った水鏡で河底をのぞきながら、カナツキ(鉄突き、ヤスのこと)でカマツカを突くこともあった。カマツカは一bぐらいの水深で、砂の多い河底の所にしか生息せず、前半身を砂の中に潜らせる。

筌に時たま掛かる時があり、投網でも獲れた。

大野川本流の宇対瀬の河漁用具は規模が大きくなる。落ち鮎用の筌は大型であった。シノブ竹を材料にした直径六〇ab・長さ三bの舌のない筌である。筌を固定させるため、筌の左右に、ハの字形にカガリという石塁を築造した。長さは四b・幅二bのカガリは、松丸太で枠を作り、クエという細い松丸太を周囲に立てて、その中に河原石を投げ込んで作った。二一〇日前後に製作し、秋は落ち鮎、冬はガニを獲った。筌の設置場所は決っており、筌場と言った。

夏から秋にかけて、鰻篭で鰻を獲った。二〜三尋の深みから膝下までの浅瀬まで、前後に石をくくりつけた鰻篭を沈めた。四〇尋の長さのシュロ綱に一〇本の鰻篭を結び付けて一組とする。これを一ハエと呼び、一人で五ハエ沈める者もいた。殻を打ち割りタニシを餌に入れる。生きた鮎やハエを餌にすると大きな鰻が獲れた。夕方沈めて、朝揚げた。鰻篭の舌のことを、宇対瀬ではコジタといい、対岸の千歳村ではサブタと呼ぶそうである。また、魚篭のことをシタメ(シタミともいう)と呼ぶが、千歳村では胴丸という。

ヤナは陥穽漁具としては最大の仕掛である。川の瀬に杭や石を並べて水を堰止め、一か所を開けて竹の簀を張り、流されてくる鮎を受けとる装置である。対岸の千歳村柴山の共同ヤナは有名であるが、中津無礼川にもある。

網漁には注連縄漁と立網とがあった。犬飼町では今なお注連縄漁が盛んであるが、戦前は宇対瀬でも行っていた。深さ八〇abほどの波の立たない浅瀬に、三.五b間隔に樫の杭を打ち込み、注連を張り、落ち鮎をそれで威して滞留させる。そこを投網で獲るのである。注連は藁縄に藁がずらりと結び付いている。

昭和七年、日田の人が大野川に立網を持ち込んだ。それを見て、犬飼町戸上や菅生の人がまず導入して普及し、戦後流行した。立網は刺網の一種で、流れの速い所に張っておくと、魚が網に突っ込んで動けなくなる。戦前は高知県から取り寄せていた。絹製で腐りやすいので柿渋を塗って耐久性を向上させた。投網は麻糸製で、これも柿渋を塗っていた。

 

  七 狩猟用具

猪狩りでは今なお鉄砲猟が盛んであるが、ここでは昔の罠猟を紹介しよう。子供が遊びでウサギワナをよく仕掛けた。ウサギのウジ(獣道)に枯枝で垣を作って狭くして、罠の中に導くようにする。ウジのそばのハゼや樫等の粘りのある若木を湾曲させ、その先端にウサギの首が入るぐらいの輪を針金で作りつけ、木の先を杭で止めておく。適当な木がない時は他から切って持ってくるが、数日すると弾力がなくなってしまう。ウサギが罠の針金の輪に首を突っ込み暴れると、杭が抜けて木がはね上がり、つかまってしまう。ウジの太さで狸かウサギ、キジ等のウジかどうか分かる。キジ罠はウサギ罠をもっと敏感にしたものである。キジは頭が良く、歩行中に障害があると、セカンと言って後退する。山鳥の方がかかりやすかった。

 

  八 手細工

稲は食糧だけではなく、しなやかな茎(藁)は各種の藁細工に用いられた。草鞋・草履・足半・牛馬の沓・縄・俵・蓑・ムシロ等の多くは自給された。一軒の家で作られる藁細工の種類と量は大きなものであった。

稲藁の袴を除去する方法には三種類あった。馬鍬とガンヅメを流用する方法と、ワラスグリを用いる方法とである。ワラスグリはT字型に組み合わせた木の一方に五寸釘を五本ぐらい打ちつけた熊手状の道具である。まず、天井から腰の高さになるぐらい麻綱を吊り下げる。麻綱の先にはシュモクという小さな棒がくくってある。二つに分けた稲束をウラ(穂先)同士で結んで、麻綱で一重巻くと、シュモクがひっかけになって締まる。藁束を左手で持ち、右手で握ったワラスグリですぐって、袴を取り去る。次に藁束をモト(根元)で結び直して、再びすぐる。ワラスグリの代用にガンヅメを使うこともあった。また、逆に伏せた馬鍬の歯に、稲束を通すこともあった。

棟下とニワには藁打石という大きな河床石がすえてあった。袴を除去した藁束を乗せて、樫や椿で作った藁打槌(藁槌ともいう)でこなした(打って軟らかくした)。これから草履等を編んだのである。

昭和十年ごろまで、熊本県天草郡牛深界隈から、アマクサと呼ばれるムシロ編みの人たちが毎年やってきて、家々を巡りながらムシロを編んで行った。春の三、四月の井堰普請のころに、夫婦・親子連れで来ることが多く、秋の稲刈り前に来ることもあった。ムシロウチとも呼ばれ、丈夫なムシロを編むので重宝がられた。ムシロ編みの台(枠)は各家にあり、アマクサたちは台から吊す編み機を一本必ず持って歩いていた。芯に藁を差し込むのは女で、機を打つのは男の役目だった。材料の小縄や藁は農家自身で用意しておいた。ムシロの縦の芯は糯藁でなった小縄で、それに打ち込むのは粳藁であった。

山村部では葛類も多用された。秋にはツヅラ採りと言って、自家で一年分使う葛(葛藤のこと)を山に採りに行った。8の字に巻いて、家に持ち帰り、日陰に吊して保存する。使用する時は氷に漬けたり、火にあぶって軟らかくする。ツヅラテゴ、ツヅラブルイ、セイタのツリソ(吊り紐)、屋根葺きの足場の固縛に用いた。ツヅラテゴは、葛で編んだ四角い背負い篭のことで、藁やシュロで編んだ背負い紐がついている。山仕事の時に弁当箱等を入れたり、松茸採りに使った。丈夫で雨に強いので、木挽きが特に愛用した。ツヅラブルイは、ツヅラで編んだ目の荒いフルイで、脱穀後の唐箕選前の大きな塵芥を取り除く。緑の芯には竹を用い、これにも葛を全面に巻きつける。

カンネカズラ(クズ)は単にカズラとも言う。牛が喜んで食べるが、昔はこの根から澱粉をとった。根を煮てなめたりした。苦かったが、貴重な甘味料であった。カズラの蔦は軟らかいので、干大根を吊す綱や刈った草を束に縛る時の縄の代用にした。カズラと同様に、萱のウラ(穂先)同士を結び付けて、草を束ねる縄の代わりにすることもあった。これをイイゼとかイナゼと言った。稲束を縛る藁も同様に呼んでいた。

 

  九 運搬用具

運搬用具には人力による肩担用具と背負い用具、それに畜力による鞍・車類があった。

肩担用具であるオーコ(負子)には本竹と杉丸太のものがあり、いずれも両端を尖らせて、運搬物に突き刺した。タケオーコは片ソギリで、草や藁等を運び、キノオーコは丸ソギリで薪等を運搬した。テンビン(天秤棒)はオーコと同様、長さは一.五bほどであった。六尺ともいい、粘りのある榊や杉で作られていた。榊の天秤は材料が少ないので、自作することはなかった。臼杵から来る海産物の行商がよく使っていた。杉の天秤が多かった。一本丸のまま削って作る人もいたし、二つに割って作る人もいた。樹皮の方がつるので湾曲する。樹皮の方が下を向くように作る。釘や木を両端に打ち込んで止め具とする。天秤で運ぶのはダルやカゴであった。ダルは直径五〇ab、深さ四五ab程度の竹篭で、紐が二本ついていた。麦植えの時の堆肥を運んだ。カゴは直径・深さとも六〇ab程度の竹篭で、口縁部に二か所短い紐の輪が出ており、天秤を通す。田植の苗や刈り取った草を運んだ。

背負い用具の代表にセイタ(背負い梯子)がある。トウジンとも呼ばれる。家族にそれぞれ一個ずつあり、子供用の小さなセイタもあった。曲がった杉を材料にすることもあったが、コウカ(ネムの木)は丈夫で雨にも強く粘りがあるといって、これで自作する人が多かった。椎茸や木炭の原木、薪等を運んだ。休憩したり、背負う時に、マタヅエ(マタギともいう)で、支えておく。歩く時には杖となった。山間部で多用された。野津町東谷にはセイタ作り専門の大工がいた。他に、ツヅラテゴや背負い篭も使われた。それぞれ、ツヅラと竹で編んだ篭に背負い紐をつけたものである。

畜力運搬用具に鞍類がある。牛馬に荷を負わせる大型の鞍は、単にクラと呼ばれた。クラワという木枠の下に、クッションのシタビラを装着する。小縄を編んで麻糸で縫って作った腹帯、シリゲ、ムナゲ等の紐で牛馬に固縛する。クラワはニレやコウカが材料で、三重町には専門のクラワ大工がいた。シタビラは麦藁を麻布や畳表で覆ったもので、自作することもあったが、紐類とともに鞍作りに作ってもらうことが多かった。鞍作りは秋の麦植え前と春の刈取り前に巡ってきた。

犂や馬鍬、馬車や牛車を曳く小型の鞍を小鞍といった。農耕用の小鞍は木製のクラワであったが、運搬牽引用の小鞍のクラワは鉄製であった。

馬車は明治期に普及したが、方向転換と重量物運搬に適するように前輪がついており、ウスと呼ばれる連結装置で馬車台に装着され、ブレーキまでついていた。牛車は大正末期から昭和初期に出現し、車力車(大八車)とほぼ同型の二輪車で、長い梶棒が二本ついていた。

 

 話者 久部   首藤幸男   大正三年十一月五日生

    久原   佐々木義泰  大正六年二月十四日生

     〃   佐々木仁士  大正八年二月十五日生

     〃   三浦忠通   大正十四年一月二十五日生

    森迫   村上清    明治三十九年十二月八日生

     〃   丹生十四日  明治四十三年二月二十五日生

    宇対瀬  戸上義治   明治三十六年一月八日生

    川辺   小野ノブ   明治三十七年五月十七日生

    下鷲谷  深田幸生   昭和六年六月十日生

     〃   麻生平    昭和七年八月二十四日生

    内山   武藤小五郎  大正二年十二月八日生

    市場一区 麻生のぶ子  明治四十五年一月十四日生

    又井   神志那ナリ  明治三十八年七月二十日生

     〃   神志那幸子  昭和五年三月二十七日生

     〃   神志那マツエ 昭和二年十月十日生

     〃   甲斐ハツエ  大正六年十月一日生

 

                                                  

@ 又井   神志那ナリ  明治三十八年七月二十日生

     〃   神志那幸子  昭和五年三月二十七日生

     〃   神志那マツエ 昭和二年十月十日生

     〃   甲斐ハツエ  大正六年十月一日生