第一章 農林水産業

 

    第一節 農牧業

 

  一 農牧業をとりまく環境

地形 三重町(以下本町)は大分県南西部、大野川中流域に位置し、総面積は一六一.五二平方==ある。地形は複雑であるが、海抜高度約二〇〇bの等高線によって、それより北側の平坦地域と南側の山間地域に大別することができる。北側の平坦地域は、大野川河谷の低地と段丘、三重川やその支流の玉田川、松尾川が流れる三重盆地、盆地を囲む比高数一〇bの台地などにあたるところで、黒ボクと呼ばれる火山灰土や粘土質土壌に覆われた地域である。この地域は本町の面積の約三分の一であるが、総戸数や総人口の九〇l前後、経営耕地面積の八八l、農家戸数や農家人口の八〇lが集中しており、農牧業生産の中心的な地域となっている。南側の山間地域は、古生界の岩石を基盤とした九州山地にあたる地域で林地や牧草地となっている。この地域は、平坦地に比較して、農用地も狭く、地形上耕地の傾斜も大きく、水田は一枚当たり圃堤が狭く棚田が多く農牧業生産の条件は必ずしも満足できる地域ではないが、山林面積の約七〇l、椎茸栽培農家の約六〇l、椎茸ほだ木の約九〇lがあり、肉用牛頭数の約三〇l以上が集中するなど、林業・家畜飼育の盛んな地域である(第1図)。

気候 本町の年平均気温は、一四.九度、最暖月平均気温は七月の二六.一度、最寒月平均気温は一月の四.二度、最暖月平均気温と最寒月平均気温との差の年較差は二一.九度である。また、年降水量は一八一七_b、最多雨月は梅雨の影響で六月の三三九_b、最少雨月は十二月で降水量は三八_bである。以上を大分市と比較すると、大分市は年平均気温一五.六度、年較差二一.一度、年降水量は一七〇八_bで、大差はないが、気温の年較差などからみて、やや内陸性の性格があるということができよう(第1表、第2図)。

社会・経済 本町は大分市から約三五==のところにあり、豊肥本線を利用すれば、大分市まで約四〇分、国道一〇号・国道三二六号線で約五〇分の近距離にある。そのため、大分市の広域生活圏に含まれ、就労機会が得易い、購買も便利などから、出稼ぎ、兼業化の進展などにより、農牧業の構造に変化が生じている。

 

  二 農牧業の地位と特色

県内で上位に位置する生産性 労働生産性と土地生産性の指標を、それぞれ、農業就業人口一人当たり生産農業所得と一〇e当たり生産農業所得にとると、前者の全国平均は六五.五万円、後者のそれは八.三六万円である(昭和五十五年、以下同年)。大分県の場合、全国平均を上回る市町村は三町しかなく、生産性は低い段階にあるといえる。大分県の平均は、農業就業人口一人当たり生産農業所得は四七.三万円、耕地一〇e当たり生産農業所得は八.二一万円で、本町は、前者が五五.三万円で県内順位は九位、後者は八.七六万円で県内順位は一九位である。すなわち、本町は、全国的にみれば生産性は低レベルに位置するが、県内では上位の生産性を示している。また、大野郡においても、農業就業人口一人当たり生産農業所得は、野津町・大野町についで第三位、耕地一〇e当たり生産農業所得は、野津町・犬飼町・大野町についで第四位で、大野川中流域のなかでも上位の位置にある(第3図)。

三重町の基幹産業 本町の諸産業のなかでの第一次産業の地位を産業別純生産の面からみると、昭和四十五年には、第三次・第一次・第二次産業の順であったが、昭和五十五年には、第三次・第二次・第一次産業の順となり、農牧業を主とする第一次産業は他の諸産業の伸びに圧倒されてしまった。しかし、農業は、第一次産業内では実額は最大であり、水産業を除いた場合、伸び率も大きい(第2表)。次に、産業別就業人口の面からみると、本町では、昭和三十五年、全就業人口のうち、六一.八lが第一次産業人口で、そのうちの六〇.〇lが農業就業人口であった。昭和五十五年になると、第一次産業人口は二五.五l、農業就業人口は二四.七lと大幅な比率の低下を示している。しかし、第一次産業人口、なかでも農業就業人口比を、大分県の一七.五l、全国の九.八lと比較したとき、本町のそれは高率であり、この面からしても農業は基幹的産業の地位にあるといえる(第4図)。その他、本町の大分県(一一市三六町一一村=五八市町村)や大野郡(六町二村=八町村)における農牧業の地位は、第3表から把握することもできよう。

第3表には農牧業に関する六三項目が挙げてあるが、二〇位までを上位とするならば、本町は四八項目が上位に入っており、これは全項目の七六lに当たっている。

 

三 農家戸数・農家人口

減少する農家戸数・農家人口 昭和三十年代にはじまる経済の高度成長は、農業者の農外流出を激化させ、農家戸数や農家人口を減少させるとともに、それらの質を変化させてきている。本町では、昭和三十五年には農家戸数は二六四一戸を数えていたが、昭和六十年には、昭和三十五年の三三l減の一七七六戸となった。この減少の様子を他の地域と比較するため、昭和四十五年を一〇〇とした指数でみると、本町は七七、大野郡は八二、大分県は七八、全国は八一となり、本町の減少が一番大きい。また、農家人口についてみると、本町では、昭和三十五年には一万五二八一人であったが、昭和六十年には実に五四l減の七〇二九人となった。これを他と比較するため、昭和四十五年を一〇〇とする指数でみると、本町は六四、大野郡は七〇、大分県は六八、全国は七五で、やはり本町の減少の割合が一番大きい。また、一農家当たりの世帯人員数も昭和三十五年の五.七九人から昭和六十年の三.九八人へ、年齢一六歳以上で主に自家農業に従事する農業就業人口も昭和四十年の二.二八人から昭和六十年の一.四人へと減っている。しかも、一農家当たりの世帯人員数も農業就業人口もともに大野郡・大分県・全国に比較して少ない。本町の農業労働力が弱体化していることは否めない(第4表、第5図)。

高年齢化する農家人口 本町の農家人口のうち一五歳以下の年齢層は、昭和三十五年の五六六四人から昭和六十年の一二六一人へ、また、一六歳から五九歳までの年齢層は、昭和三十五年の七八二七人から昭和六十年の三八六〇人へと大幅に減少しているが、六〇歳以上の年齢層は昭和三十五年の一七九〇人から昭和六十年の一九〇八人へと増加している。とくに六十歳以上の年齢層について比率でみると、昭和三十五年には農家人口の一一.八lであったが、昭和六十年には二七.一lに増加している。この比率は、大野郡の二六.八l、大分県の二六.六l、全国の二四.一lのいずれよりも高い(第5表、第6図)。

増加する農業専従者なしの農家 農業専従者とは、一六歳以上で一年間に自家農業に一五〇日以上従事した人をいうが、本町では、男子農業専従者のいる農家は、昭和四十五年には総農家数の五一.一lの一一七七戸であったが、昭和六十年には、二七.一lの四九七戸へと減少している。この比率は大分県のそれとは似ているが、大野郡や全国に比較すると低い。反面、農業専従者なしの農家についてみると、本町では、昭和四十五年には全体の三一.五lの七二四戸であったが、昭和六十年になると、全体の六八.一lの一二〇二戸へと増加している。このことは健全な農業経営をすることがむずかしいと思われる農家層が増加していることを示すもので、好ましい傾向ではない(第6表)。

増加のきざしがある専業農家 昭和三十五年の本町では、専業農家が農家総数の五〇.七lで、半数を占めていたが、経済の高度成長による労働力の農外流出、農家の支出増大などから、兼業農家とくに第二種兼業農家の比率が急増し、兼業農家は昭和六十年には農家総数の七八.一lを占めるようになった。しかし、近年では、専業農家が増加するきざしがみられ、昭和五十年から昭和五十五年の間に一五l増加して三三〇戸、昭和五十五年から昭和六十年の間には一七l増の三八七戸となった。しかし、専業農家のうち、一六歳から六四歳までの男子生産年齢人口のいる農家は、昭和五十年には六九.七lであったが、昭和六十年には五七.九lへと低下している。すなわち、昭和五十年には専業農家の三〇.三lが男子生産年齢人口のいない高年齢専業農家であったが、昭和六十年にはそれが四二.一lへと増加している訳で、このことは高年齢になった兼業従事者が、農業へ復帰したものと考えられ、いわば消極的な専業農家の増加であるとみられる(第7表、第7図)。

 

四 農業経営

減少する経営耕地面積 昭和六十年の農林センサスによると、本町の経営耕地面積は一三四九fで、そのうち、田が約六二l、畑が約二八l、樹園地が約一〇lとの割合となっている。樹園地のなかでは、果樹園が最も広くついで桑園、茶園の順となっている。経営耕地面積は年を追って減少しており、昭和三十五年には一九七三fであったが、昭和六十年には三一.六l減少の一三四九fとなった。また、土地利用の面では、田は増加、畑や樹園地は減少の傾向にある。とくに畑は、昭和三十五年ごろには経営耕地面積の五二.四lの一〇三三fを占めていたが、昭和六十年には、二八.二lの三八一fとなり、六三.一lの大幅な減少をしている。

農家一戸当たりの平均経営耕地面積は、昭和三十五年以後も大きな変化はなく、昭和六十年のそれは〇.七六fで、大分県に比較するとわずかに広いが、大野郡や全国に比較すると狭く、零細的規模である(第8表、第8図)。

二f以上経営農家の急増 本町の経営規模別農家についてみると、昭和六十年には、例外規定農家を含む〇.五f未満の層が最も多く、以下〇.五〜一.〇f層、一.〇〜一.五f層、一.五〜二.〇f層、二.〇〜三.〇f層、三.〇f以上層の順となっている。とくに一.〇f以下の層の比率は、大分県の七六.四lよりは低いが、大野郡の町村の中では最も高い。また、各層の変動を昭和四十五年を基準とし、昭和六十年までをみると、例外規定を含む〇.五f未満層は二.一l増であるが、〇.五〜一.〇f層は三四.〇l、一.〇〜一.五f層は大きく五五.四l、一.五〜二.〇f層は三三.五lそれぞれ減少している。これに対し、二.〇〜三.〇f層は一四二.四l、三.〇f以上の層は八〇〇lそれぞれ増加している。すなわち、例外規定を含む一.五f未満層の漸増もしくは停滞、〇.五〜二.〇f層の減少、二.〇f以上の層の増大という傾向がみられ、経営規模の大型化も進んでいる(第9表、第9図)。

借入耕地面積の増大 耕地の貸借についてみると、本町では、昭和五十五年から昭和六十年の間に借入耕地がある農家数は二八戸増加し、総農家数の四分の一になった。借入耕地面積もこの間に五一.三l増加して一七一fとなり、経営耕地面積の一二.七lを占めるようになった。その結果、借入農家一戸当たりの借入面積は、昭和五十五年の〇.二七fから四四.四l増の〇.三九fと増大している。また、過去一年間に期間借地をした農家数や期間借地面積は、年によって増減があるが、一戸当たり期間借地面積も大きくなる傾向がみられる。この借入耕地面積の動向は、本町のみならず、大野郡・大分県・全国にも共通してみられる。

米・米麦・工芸作物・果樹・養蚕 農業経営形態を、農産物販売金額一位の部門の販売金額が総販売金額の八〇l以上を占める単一経営農家、農産物販売金額一位の部門の販売金額が総販売金額の六〇l以上八〇l未満の準単一複合経営農家、農産物販売金額一位の部門の販売金額が総販売金額の六〇l未満の複合経営農家の三つの型に区分すると、本町及び大野郡・大分県については第10表のようになる。

本町の昭和六十年の農家総数は一七六六戸であるが、そのうちの八六.八lの一五三三戸が何らかの農産物を販売しており、また、そのうちの六〇.六lが単一経営農家、二九.九lが準単一複合経営農家、九.五lが複合経営農家となっている。単一経営農家については、本町・大野郡・大分県ともに稲作が主部門であるが、本町・大野郡が県下の畑作地帯の一つでもあることから、大分県に比較すると約一〇l前後比率が低い。その他、本町では、たばこを中心とする工芸作物類、くり・かき・かぼすなどの果樹類、養蚕の各部門を主とする農家が目だっている。準単一複合経営農家では、稲作が首位であるが、小麦を中心とする麦類を二位の販売部門とする農家が一番多く、ついで同じく稲作を主としながら養蚕、果樹類、肉用牛の各部門を組み合わせている農家が多い。

以上から、本町の農業経営は、稲作を主とするが、稲作と麦類作、稲作と養蚕、稲作と果樹類、稲作と肉用牛などの組み合わせによって経営されているものが多いことがわかる(第10表)。

減少する農業従事日数・進む農業の機械化 年齢が一六歳以上で、自家農業だけに従事した者と、自家農業とその他の仕事に従事した者のうち自家農業が主である者との合計が農業就業人口で、農業生産の主役である。本町の農業就業人口は、昭和四十年には、農家人口一万二七七三人の四三.一lの五五〇一人であったが、昭和六十年には、農家人口七〇二九人の三五.七lの二五一〇人に減少している。また、その農業就業人口の農業従事日数も、年間二九日以下の層が増加し、農業就業人口の主役的役割を果たす年間一五〇日以上の従事日数をもつ農業就業人口層(=農業専従者層)は、昭和四十年の三八五八人から昭和六十年の九五八人へと約七五lも減少している。また、この九五八人は、本町の全農業就業人口の三八.二lに当たるが、この比率は大野郡・大分県よりも低い。農業労働に多くの時間を掛けることが必ずしも理想的とはいえないが、投下労働日数の少ないことは気になる(第11表、第10図)。

農業用機械は、農業人口の減少に伴う人手不足を補うとともに、生産性の向上を目指して、導入されてきた。

農業用機械には、動力耕うん機・トラクター、動力防除機、動力田植機、バインダー、自脱型コンバイン、米麦用乾燥機などがあるが、これらのうちで最も普及率が大きいのは、動力耕うん機・農用トラクターで、あと動力田植機、米麦用乾燥機、動力防除機、バインダー、自脱型コンバインの順となっている。本町では、昭和四十年代の中ごろから、農業用機械の導入が急速に進んできている。昭和四十五年を基準にして普及の変化をみると、最も伸び率の大きいのが自脱型コンバインで三五六倍の増加を示し、ついで動力田植機の一二五倍、バインダーの一二倍、動力防除機の三.九倍、以下動力耕うん機・農用トラクター、米麦用乾燥機となっている。自脱型コンバインの伸びが大きいのは、刈取り・脱穀・わら処理の三つが一台でできるという機能をもっているからで、バインダーの普及度が落ちたのは、このためと考えられる。しかし、これらの農業用機械の価格は、農家所得に比較して必ずしも安価ではない。例えば、現在(昭和六十一年十月)、平均的な農用トラクター(十五馬力〜十八馬力でロータリー付)は一三〇万円前後、動力田植機は歩行型で三三万円前後、乗用型では九五万円前後、最も伸び率の大きい自脱型コンバインの平均的価格は一七〇〜一九〇万円である。場合によっては、機械化のための支出が農家の経済を大きく圧迫し、いわゆる「農業の機械化貧乏」現象が、販売競争の激化に伴って進展するおそれは十分にあり、配慮が必要である。また、これらの農業用機械は大量の石油燃料を消費するほか、肥料、農薬、包装資材、施設園芸資材及びその暖房用重油など石油に大きく依存し「石油づけ農業」といわれているが、省エネ農業実現のため、農業技術全体の見直しも必要である(第12表、第11図)。

 

 

  五 農業生産

米・麦類・たばこ・豚が四大農業生産物 昭和六十年の農業生産物の総粗生産額は、三四億三三八三万円で、昭和四十五年の総粗生産額一四億三七二二万円の二三九l増の伸びとなっている。その内訳をみると、畜産部門が一二億四七四四万円で全体の三六.四l、そのなかでは、豚が六億五七〇〇万円で全体の一九.一lを占め、畜産部門で第一位である。また、耕種部門では、米が九億六〇〇〇万円で総粗生産額の二八.〇lで、耕種部門中第一位、たばこを中心とする工芸作物が四億八四五四万円で一四.一lに当たり、同部門中第二位、小麦を主とする麦類が二億二五〇〇万円で六.六lを占めて耕種部門中第三位である。その他、野菜の一億六六五〇万円で四.九l、乳用牛の一億七四七二万円で五.一lなどの粗生産額が大きい(表13・図12)。

米は農作物の主役 米は他の作物より有利で、生産も安定し、容易であるから、本町においても、農物総粗生産額の約四分の一を占め、最大の農作物である。米は水稲と陸稲があるが、本町では近年、陸稲は米の総生産の一〇l以下の生産量なので、水稲を中心にしてみて行くことにする。

水稲の作付面積は、第二次世界大戦前には八〇〇f代を上下したが、終戦の昭和二十年に七〇〇fを割った以後は徐々に増加し、昭和三十五年には九三五f、昭和四十四年には一〇一〇fに達した。この年は全国的にみて、昭和四十二年から三か年続いてきた豊作の年で、米は深刻な供給過剰の状態となり、政府管理米の余剰在庫は急増した。このため、昭和四十五年から「米の生産調整」が実施され、さらに、昭和四十六年の「稲作転換対策」、昭和五十三年の「水田利用再編対策」の実施へとつながるなかで、水田の休耕や作付転換が進められた。本町においても、昭和四十四年の一〇一〇fを頂点とし、それ以後作付面積は減少を続け、昭和五十六年には、昭和に入って最も狭い六七〇fとなった。その後はやや回復し、昭和五十九年は六九五fとなっている。米の収穫量も作付面積の変動と同じ傾向で増減を続けてきている。昭和に入って最大の収穫量は、昭和八年の三九四〇d、記録に残る最少収穫量は昭和二十年の一四二〇dである。昭和五十九年には三二三〇dの収穫量が挙げられている。一〇e当たりの収量は、昭和に入っては、昭和四十七年の四七七==が最高で、昭和八年の四七一==が第二位となっている。昭和五十九年には四六五==の収量が挙げられており、これは第三位の値である。しかし、表16にみられるように、大野郡では下位にあり、大分県平均値よりも低い。栽培技術の面からみて技術水準はかなり高くなっており、今後さらに単位面積当たりの収量は増加する余地はあると思われるが、現在の土地条件においては、一〇e当たり四八〇==が限界であるともいわれている(第13図、第14・15・16表) 。

米の主産地は北部の平坦地 本町の水田は、海抜高度約二〇〇bの線以北の平坦地に八六.二lが、以南の山間地に一三.八lが分布している。とくに平坦地のなかでも、川辺・向野・百枝・西原・上田原などの大野川沿いの地域、又井・芦刈・金田・菅生などの又井川・菅生川の流域地域、深田・山田・中玉田・下玉田などの玉田川流域、羽飛・肝煎一区など秋葉川流域及び久知良・内田などの集落を加えた三重盆地地域の三地域が水稲栽培面積の集中するところである。水田率の面からみると、前述の三地域の他に、下鷲谷・上鷲谷など松尾川の流域、奥畑・代などの奥畑川の流域、中津留・久部・白谷などの中津無礼川の流域などで八〇l以上の高率を示すところがあるが、これらの地域は経営耕地面積が狭く、本町の米の主産地は、経営面積も広く、かつ水田率も高い大野川沿いの地域、又井川・菅生川流域及び三重盆地の三地域であるといえよう(第14・15図)。

生産が増加する小麦・減少傾向の裸麦 本町の麦類の生産推移をみると、第二次世界大戦前は、作付面積は一〇〇〇f台、収穫量は二〇〇〇d台で推移していたが、終戦直後の昭和二十一年には、作付面積は九六四f、収穫量は八三〇dまで落ち込んだ。昭和三十年代の中ごろになると、作付面積はほぼ戦前の水準まで回復し、収穫量は戦前のそれを大きく上回って三〇〇〇d台に達した。その後は、食生活の変化、麦の収益性の低さなどから、作付面積、収穫量のいずれも減少しはじめ、昭和四十五年には、気象災害、病害、虫害などが重なり、収穫量は三二二dとなり、作付面積も昭和五十年には二〇六fまで減少した。しかし、その後は収益性も向上し、水田利用再編対策や土地基盤整備による水田裏作の振興などから、麦類としては生産が拡大される傾向がみられる(第16図)。

麦の種類には、小麦、六条大麦、裸麦、二条大麦などがあり、それぞれ用途が異なる。日本の小麦は主に食用として麺類、パン、菓子に加工されるが、パン用としてはあまり適していない。六条大麦や裸麦は食用のほか、味噌、醤油の原料や飼料としても利用される。二条大麦はビール麦で、大半がビール醸造の原料として使用される。本町の麦類の生産状況を種類別にみると、裸麦が長く麦類生産の中心であったが、昭和三十五年ごろから作付面積、収穫量ともに急速に減少しはじめ、昭和六十年には、作付面積は二〇f、収穫量は七五dとなった。小麦は、裸麦より作付面積、収穫量ともに小さかったが、作付面積は昭和四十年ごろに裸麦を抜き、用途面での特性から、裸麦が下降の傾向を示すのに、小麦は上昇の傾向をみせ、昭和六十年の作付面積は四三一fで麦類作付の八六.一l、収穫量は一一三〇dで麦類収穫量の八四.〇lを占め、麦類生産の中心となっている。本町では、大麦の生産は昭和三十五年ごろ以後統計に姿を現しているが、昭和三十五年は六条大麦、それ以後は二条大麦の生産が中心となっている(第17図)。

麦類の主産地も北部平坦地 本町の麦類の作付面積や収穫量は、大分県に対しては、小麦は四l台、裸麦は二l台、二条大麦は一l台、大野郡に対しては、小麦は三〇l台、裸麦はほぼ八l台、二条大麦は五l台を占めるが、近年、六条大麦の生産はみられない。これらの麦類の主産地は先に述べた平坦地で、小麦は収穫農家の約九六l、収穫面積の約九九l、裸麦は収穫農家の約八七l、収穫面積の約九二lが分布している。とくに麦作の中心の小麦の生産地域は、川辺・向野・上田原・百枝・西原・法泉庵などの集落のある大野川沿いの地域、又井・金田・菅生などの集落のある又井川・菅生川の流域及び深田・下玉田などの集落のある玉田川の流域で、これは稲作の中心地域とほぼ一致するとともに、水田二毛作率の高い地域とも一致している。これは、小麦が水田の裏作作物として栽培されてきたからである。そして近年の水田利用再編対策が進むなかで、小麦などへの作付転換が行われていることや、後述する土地基盤整備による水田裏作振興による土地利用の高度化などが原因である(第17表、第18・19図)。

野菜の主役はメロン・いちご・さといも 昭和六十年度における本町の野菜収穫面積は、四一.八七fで大野郡の収穫面積の九.九l、大分県のそれの一.一lに当たり、大野郡中で第五位の広さとなっている。また、昭和五十九年度における野菜の粗生産額は、大野郡の一〇.七l、大分県の〇.九lに当たっており、大野郡中第四位の地位にあった。昭和六十年度の野菜粗生産額は、一億六六五〇万円で全農作物粗生産額三四億三三八二万円(過去の統計にそろえるため、きくの粗生産額二二四五万円、くりの粗生産額四二五〇万円、ブロイラーの粗生産額七五六〇万円を除いた数値)の四.八lを占め、耕種部門において第四位となっている。多くの野菜は自家消費用として栽培されているが、露地野菜では、さといも・だいこん、施設園芸野菜では、メロン・いちごなどを出荷・販売する農家が多い(第18表)。

さといもは、従来より品質が良いことで知られ、昭和四十四年に野菜団地指定作物となり、昭和六十年度においても野菜の中では最大の収穫面積をもつとともに、販売用として栽培する農家も最も多い作物である。また、現在は水田利用再編作物でもあり、本町の野菜生産計画における重点作物として、畑地帯総合事業地区及び整備後の汎用田への導入が図られている。

メロンは、県野菜団地育成要領による指定作物で、本町施設野菜の主要作物の一つである。品種はプリンスメロンで、川辺地区を中心に栽培され、京都を中心とした京阪市場及び東京市場へ出荷されている。昭和六十年度の販売額は一億円を突破したが、栽培農家の高齢化などから栽培面積は伸び悩んでいる。

施設園芸の盛んな川辺・中小坂地区 本町は海岸部に比較し施設園芸に不利な面も多いが、農業後継者グループを中心に研究が進められ、昭和四十八年度末までには約三〇e、昭和四十九年度末には約四〇eの施設面積がみられた。栽培作物は、昭和四十八年までは、きゅうり・なす・トマト、昭和四十九年には、かんしょ(青果用高系十四号)の育苗といちごの組み合わせを無加温で栽培することに成功した。また、昭和四十九年度には、施設野菜拠点団地育成事業を受け入れ、中小坂地区にすいか・いちごを栽培する団地が計画され、昭和五十年には、施設をもつ農家は八戸、施設面積は三八e、昭和五十五年には五一戸、八一三e、昭和六十年には七〇戸、八八七eに拡大した。昭和六十年、大野郡には、ハウスのある農家が三九四戸、ハウス面積は四八七九eあり、三重町はハウス農家数・ハウス面積ともに、郡の中では野津町についで二位である。本町のハウスは、川辺を中心に牟礼・上田原・法泉庵・西原・向野など大野川沿岸地区、中小坂・下小坂地区に多い。大野川沿岸地区は、本町のハウス農家の四七lの三三戸、同じくハウス面積の五三lの四七一eが集中し、いちご・きゅうり・なす・きくなどが栽培されており、中小坂・下小坂地区には、ハウス農家の一三lの九戸、ハウス面積の一四lの一二二eが集まり、いちご・すいかの栽培が行われている。いちごは、価格の安定した作物であり、北九州、県内市場へ出荷されている(第19表、第21・22図)。

豆・いも類・雑穀の主役は大豆とかんしょ 豆類のうち大豆は、大豆生産振興地域の指定を受けるとともに、水田利用再編事業による作付により栽培面積も増加している。今後は、味噌・豆腐など加工面の普及を行って栽培の定着を図ろうとしている。

いも類のうちかんしょは、県が提唱する一村一品運動の指定作物であり、近年は水田利用再編作物としても栽培され、収穫面積も増加の傾向にあり、野津町・大野町・犬飼町及び千歳村などとともに主産地としての産地体制を強めている。品質は、大野郡かんしょ、高系十四号としてその良質さが知られているが、さらに銘柄向上のため、紅系かんしょを導入し、知事自身の命名になる「豊の紅」として市場で評価を高めている。市場は大阪方面が中心で、輸送コストを下げるため、大野郡農協で共同出荷をしている。

工芸作物の主役はたばこ 昭和六十年度における本町の工芸作物の粗生産額は、本町の農産物総粗生産額の一四.一lの四億八四五四万円で、耕種部門では第二位の粗生産額を示している。また、大野郡の工芸作物の総粗生産額三五億三二〇〇万円の一五.九lを占め、大野郡の中では第三位の地位にある。本町の工芸作物のなかで、たばこは、収穫面積・粗生産額ともに工芸作物全体のなかで九〇l以上を占め、中心的作物である(第20表)。 たばこは、昭和四十年には収穫面積二一五.四二fを示したが、年を経るに従い減少し、昭和六十年には一〇四.九五fとなっている。また、粗生産額も、昭和五十二年には六億四五三四万円、昭和五十五年には五億一五〇二万円、昭和六十年には四億七五二三万円へと低下している。しかし、たばこは、米に次ぐ粗生産額をもつ本町の中心的作物であるから、たばこ栽培育成奨励は重要な農業施策で、共同利用施設としての育苗施設二棟、たばこ乾燥施設などを設置するとともに、町内の耕作者でたばこ生産組合(農業法人)が結成され、生産の拡大・発展が図られている。

東洋のオレンジ、かぼす 本町で従来より栽培されている果樹は、日本なし・もも・かぼす・かき・くり・うめなどがあるが、企業的に園をなすものは少なかった。これら果樹類のうち、かぼすは低温にも強く、内陸の本町の自然条件に適し、古くから栽培されてきたが、近年、健康・自然・美容食品の天然食酢としてクローズアップされ、需要増に対応して、県や本町で増反計画が進められている。とくに本町は、昭和六十年度から「まちづくり十億円産業」として、大苗植栽法を導入しながらかぼすの産地づくりに取り組んでいる。また、流通面では、「東洋のレモン」をキャッチフレーズに、現在の北九州・福岡・山口方面の市場に、徳島県産のすだちに対抗しながら、関西・東京方面の市場を加える努力が続けられている。

かぼすは、昭和六十年度の粗生産額が七五〇〇万円で、本町果樹類のなかで最大である。また、大野郡八か町村においても、栽培面積・収穫量・出荷量ともに第一位を占めている(第21表)。

くりは、本町ではかぼすに次ぐ果樹で、農業構造改善事業により、基幹作目に指定されくり園が造成されることになった。くりの栽培には労働力が省けるため、複合作目としての組み入れが容易で、一戸一fを目標とし、現在の約六〇fを一〇〇fに拡大するよう計画されている。くりは昭和五十九年度には収穫量の八七lを出荷しているが、出荷先は福岡及び県内市場である。

減少を続ける収繭量と養蚕農家数 綿・羊毛・麻などの天然繊維は、気候条件や広大な牧場のもてない我が国ではほとんど生産が行われなかったが、生糸は我が国で生産ができる唯一の天然繊維で、戦前から重要な生産品であり、また重要な輸出品として外貨の獲得に大きな役割を果たしてきた。しかし、科学繊維などの台頭により、国際競争力も低下し、昭和五十年ごろからは輸出もみられなくなり、その原料の繭の生産量も急速に低下することとなった。本町も例外ではなく、引き続く生糸・絹需要の大幅な減退、長期にわたる生糸価格の低迷、養蚕従事者の高齢化なども原因となって、収繭量・養蚕農家数は減少の一途をたどっている。大分県の養蚕業のピークは昭和四十五年ごろで、同年の本町においても、養蚕農家戸数は減少傾向が見えはじめていたが五一四戸、桑使用面積一八四f、蚕種掃立卵量四二七一箱、収繭量一二九.六dで、上記三項目はピークを示したが、昭和六十年現在、養蚕農家戸数は昭和四十五年の八二l減の九四戸、桑使用面積は七一l減の五三f、蚕種掃立量は七二l減の一一九八箱、収繭量は六九l減の三九.八五dとなっている。本町の養蚕は、米または畜産との複合経営として取り入れられ、菅尾・内田・中尾・久原などの各地区を中心にして行われている。本町の養蚕農家の平均桑園面積は、昭和六十年で五六fで規模が小さい。今後は生産性の向上を図るため、桑園の集団化・省力化による労働時間の短縮などが課題となろう(第22表、第23・24図)。

養豚中心の畜産業 昭和四十年ごろまでの本町の飼養家畜は、役肉牛・豚・山羊・乳用牛・めん羊・馬及び鶏などであった。当時、役肉牛・馬は今日のトラクターなどの農業機械に代わるものであり、それから得られる厩肥は重要な肥料源であり、また、山羊乳や鶏卵は大切な栄養源であった。昭和四十年代半ばからの急速な農業の機械化、化学肥料への依存度の増大が進むと、馬や山羊などは姿を消し、代わって豚・乳牛・肉牛・ブロイラーなどが主要家畜となった。このような変化のなかで、畜産業が農作物総粗生産額に占める割合も年々増大し、昭和三十五年の一四.四lから、昭和六十年には三六.四lとなった。このうち、養豚は農作物総粗生産額の一九.一lを占め、畜産業のなかで最も粗生産額が大きい。このような本町の養豚業の発展は、昭和三十七年からの第一次農業構造改善事業が実施されるなかで主幹作目としてとりあげられ、農協が経営する肥育センターを核とした農家の仔豚生産の組織化にあったといえる。すなわち、仔豚生産は各農家で行い、その仔豚の肥育はセンターで行うという飼育と肥育を分担する方式(三重町方式)で、これによって、仔豚飼育時に必要な細かな配慮ができるとともに、肥育は一か所で行われるので商品としての価値を高めるための管理ができる。さらに畜産公害の発生を一か所にまとめ、浄化しやすいという利点があったからである。近年は多頭飼育が定着し、昭和六十年には飼育農家一戸当たりの平均頭数は二八三頭で、県平均の一六七頭をはるかに上回っている。また、同年の肉豚頭数は一万一〇〇〇頭、粗生産額は三億九六〇〇万円をあげている。そして肉豚の出荷は、犬飼町の大分県畜産公社と鹿児島県阿久根全畜によって行われている。本町の豚の分布は、養豚パイロット事業が策定された小坂地区に全体の五四lが集中している。本町の養豚業の今後の課題としては、飼料自給率の向上、規模の拡大、経営の合理化などを図ることなどが挙げられる(第25・26図)。

減少傾向の大きい肉用牛 本町の肉用牛の頭数は、昭和四十五年に一八八四頭を数えたが、その後減少し昭和五十年には四十五年の四七l、昭和五十五年には五十年の四〇l、昭和六十年には五十五年の三三lとそれぞれ減少し、昭和六十年には昭和四十五年の七九l減の四〇六頭となった。このような減少の原因としては、労働力の他産業への流出、濃厚飼料作付面積の減少に伴う飼料自給率の低下、化学肥料への依存度増大による厩肥の軽視、近年の牛価の不安定などが挙げられる。対策として、生産意欲増進のため高齢者等肉牛貸付制度を進める、生産奨励金制度を設ける、牛生産農家の麦作の振興による飼料の自給率の向上とそれによる生産費の軽減を図るなどがある。

本町の牛は黒毛和牛(豊後牛)の生産基地として国の団地指定を受けている。最近、豊後牛の増頭が課題となり、大分県では肉用牛増頭推進対策を進めるため、肉用牛後継者グループの育成に力を入れようとしている。本町においても後継者が技術の向上を図り、増頭する機運の盛り上げも必要であろう(第23表・第25図)。

本町の肉用牛の分布についてみると、豚のそれほど偏在性は強くなく、平坦地に多いものの山間地にも飼養農家数の約二〇l、飼養頭数の約三三lが分布し、とくに久部地区には山間地の頭数の四〇lが集中している(第26図)。

生乳の消費拡大が望まれる酪農 本町の乳牛の飼養は、昭和四十六年から五十二年度酪農近代化計画の実施方式としての水田複合酪農及び一部専門畑地酪農経営方式などを取り入れて進められ、昭和五十二年飼養頭数三五五頭、粗生産額一億二五六八万円、昭和五十五年飼養頭数四一八頭、粗生産額一億七〇〇〇万円、昭和六十年四五二頭、粗生産額一億七四七二万円と徐々にではあるが伸びつつある。しかし、飼養頭数の伸び率は昭和五十年代になって大幅に低下し、生乳生産量のそれも横ばい状態となっている。これには、今日は飽食の時代といわれ、消費者の栄養水準が充足されており必ずしも生乳や乳製品に頼らなくてもよいことや、比較的生乳や乳製品になじみの少ない高年齢者層が増加している社会になったことに原因すると思われる。今後は、乳量の生産調整、価格の安定化を図るとともに、生乳用、加工用、学校給食用のなかで最も優位性のある飲用乳の消費拡大を促進する必要がある。

大分県の乳牛の種類は、乳量が多く飲用乳として優れている乳をとることができるホルスタイン種がほとんどで、本町でもホルスタイン種が飼養されている。乳用牛飼養農家は大分県酪農共同組合に加入しており、生産された生乳は組合を通して出荷される。出荷先は九州乳業で、各農家では搾乳した生乳をバルプクーラーで摂氏五度程度に冷蔵し、それを九州乳業がタンク車で集めるという形をとっている(第24表)。

本町の乳用牛の分布は、北東部の三重原、北部の宇対瀬、牟礼の各地区に多い。とくに三重原地区には、乳用牛の約三分の一が集中している(第28図)。

進む農業生産基盤の整備 本町では昭和四十年代に入って、県営畑地帯総合土地改良事業(以下畑総)、県営圃場整備事業、農村総合整備モデル事業(以下モデル事業)、ため池等整備事業等を進め、農業生産基盤の整備に努めてきた。

第29図に示す畑総地域は、本町と野津町が両町の畑作地帯のかんがいをするため、昭和四十三年に着手した県営かんがい排水事業の末端整備に伴う事業として昭和四十五年に、畑地かんがい、農道整備及び区画整理等を事業内容として計画され、昭和四十六年着工、昭和六十年竣工した事業である。本事業の対象地域は、本町では、北部及び東北部の宮尾・金田・三重原・中小坂・下小坂・入北などの地区と、野津町の全地区で、畑地かんがい面積九二三f、農道整備六万七二六四b、区画整理八二三fの事業量があった。この事業の特色は、その範囲が二つの行政区にまたがったことで、とくにかんがい用水取得のための石場ダムは、流域面積は八.五四平方==となっているが、そのうちの五.五四平方==は、一つは大野川水系松尾川の流域、もう一つは番匠川水系腰越川の流域で、二つの異なった流域から集水する建設計画であったことである。二つの流域の地元住民の反対を納得させるための関係者の努力がうかがわれる(第25表・第29図)。

本町の県営圃場整備事業は、三重西部地区と同じく東部地区の二地区で進められている。西部地区は本町の北西部を流れる大野川沿いの一部と大野川支流玉田川沿いに細長く展開する沖積低地で、海抜高度一〇〇bから一七〇bのところで、事業関係農家は六二五戸、受益面積は二五五f、事業前までの農業は米麦を中心とする二毛作地帯であった。また、この地区の水田は形状不整形で平均耕地面積は四eと狭く、水路は用排水兼用の錯綜した土水路が大半で田越かんがいのため水管理は悪く、農道も不完備で農作業に支障を来し、耕地も分散していた。本町は、昭和三十九年度から昭和四十三年度の間に、第一次農業構造改善事業を実施し、そのなかで土地改良事業としては、川辺・上田原・上小坂・芦刈・深野などの地区で実施されたが、その結果は農家経済の向上、充実を図るには十分でなく、さらに土地改良を推進することとなり、広く各地区の意見を求めた結果、この西部地区農家のほぼ一〇〇lに近い同意を得ることができ、事業実施が確定した。

事業は、一般圃場整備、麦植付条件整備が主な内容で、そのため、二五五fの整地工事、五万七四五八bの用水路工事、三万四九五五bの排水路工事、三万八八四六bの農道工事が、百枝・向野・上田原・玉田の工区で実施された。工事は、昭和五十年からはじまり、昭和五十八年一応完成したが、現在、部分的工事が進行中で、昭和六十一年度で全体の事業量の約九六lが終了し、裏作作物の作付が推進されるとともに、施設園芸も行われプリンスメロンの栽培も盛んになってきている。

土地改良事業においても用水の取得は重要であるが、本地区の用水は、黒岩池などのため池と大野中部井路から得ている。大野中部井路は、大野川支流中津無礼川の三重町中津留字津留に水源(取水口)をもち、幹線水路八〇三二b、百枝線一万一五三一b、三重線一万〇三六三bの長さをもち、受益面積は幹線で一三f、百枝線で二七八f、三重線で一四四fで、西部地区だけでなく、広く本町の農業発展に貢献している。大野中部井路の工事は、昭和十四年の大野中部耕地整理組合が設立されたのをきっかけとして、県営事業として進められ、昭和十五年から同二十二年までの八年間に幹線水路が、引続き昭和二十三年度より支線三重水路と支線百枝水路がそれぞれ着工し、昭和二十八年全線水路の工事が終了し通水をみたが、水路の延長は長く、しかも素掘断面のため漏水が甚だしく絶えず用水不足であった。これを解消する目的と併せて百枝線末端に構造改善事業として計画された新開田一二七fの用水確保のため、昭和三十五年度より県営かんがい排水事業として工事に着手し、中津留地点の幹線取入口の改築及び中津無礼川、奥畑川、小津留川合流点三重町大字久田字樋谷に揚水機を設置するなど昭和四十五年に完成した(第29図)。

東部地区の圃場整備事業は、大野川水系又井川・金田川・菅生川の三河川沿いに帯状に広がる耕地を対象地区としており、標高は七〇bから一五〇b、関係農家は三五四戸、受益面積一三〇fの米作中心地帯である。事業実施前は、水田は西部地区同様不整形で、一区画四e程度と狭く、水路は用排兼用の土水路で地下水位は高く、農業機械による作業はほとんど不可能の湿田地帯であった。また、農道の不完備で農作業に支障を来していた。そこで、総合的な用排水路、農道、区画の整備を行うことにより、営農の近代化を促進し、その余剰労働力でこの地区特有の養蚕や畜産、しいたけなどの生産を増大させ、農業所得の増加を図るため、昭和五十五年より工事が実施されることになった。工事の完成年は昭和六十二年で、昭和六十二年現在約九〇lの事業量が終了している(第29図)。

モデル事業は、圃場整備、農業用排水施設整備、農道整備などの農業生産基盤整備事業、農業集落道整備、農業集落排水施設整備、営農飲雑用水施設整備などの農村環境基盤整備事業、農業集落環境管理施設整備、農村環境改善センター整備などの農村環境施設整備事業などを内容とする事業で、団体営事業として実施されている。

本町では白山地区を除いた地域で昭和五十一年から着手され、昭和六十五年ごろ終了の予定である。総事業費は約一七億五一〇〇万円、昭和六十一年度末現在の進捗率は約六七lとなっている。

ため池等整備事業も団体営事業で、老朽化したため池の補修事業を中心に実施されている。実施地域や事業量は第25表・第29図に示したとおりである。

 

 

第二節 林 業

 

一 林業の地位と特色

 

(一)林業地

広大な林野面積 本町の林野面積(山林・竹林・原野を含む)は一万二一五〇fで、総面積の七五・二lにあたる。これは大野郡内において最大の面積であり、面積比においても大野郡全体・県全体と比較して高い値を示しており、郡内においては、野津町(七五・五l)に次いでいる。

 また、山林面積は、一万一一五八fで、大野郡内において最大の面積であり、大野郡流域の中でも竹田市(一万一九九六f)に次ぐ面積である。(第1表)

自然環境 第一章農林業の第一節の一に掲げてあるように、林業地域の中心は、本町の東・南部の山間地ーー佩楯山系と傾山系を結ぶ山岳地帯である。地質は粘板岩・砂岩などの互層により形成され変化に富む。

 土壌の大部分は褐色森林土となっているが、部分的に黒色土が見られる。

林相(樹種) 立木面積は、九九四二fで、その樹種別内訳はスギは三三八九f(三二・二l)、ヒノキ九二一f(八・八l)、マツ類二四六f(二・三l)、クヌギ二四四五f(二三・三l)、ナラ一三四f(一・三l)、その他二四〇七f(二二・九l)、竹林二五六f(二・四l)、未立林地その他七一五f(六・八l)となっている。

 大野郡全体と比較してみると、スギ・クヌギの立木地面積比・材積比は、本町が高い。また、県全体と比較してもクヌギの立木面積比・材積比は本町が高い。これは、林業構造改善事業等の導入によるスギの造林を推進していることや、本町の林業経営の中でしいたけ生産が重要な位置を占めていることから、しいたけ原木としてクヌギの造林を推進していることによるものと把握されよう。(第1図)

国・公・民有林 前述の林相(樹種)を森林所有形態別に概観してみよう。本町の国有林、公・民有林の現況は第2表にある通りである。大野郡内において、国有林の比率の高い町村は緒方町(三三・五l)、朝地町(一四・六l)で、本町はこれに次ぐ。大分県全体との比較においては、国有林の比率が高く、南部地域が祖母傾国定公園であり、国有林が広域にわたって存在することによるものと考えられる。また、制限林は三四八五f、普通林は七〇二八fでその割合は三三対六七となり、水源かん養・土砂流出、崩壊防備等の目的のため伐採の制限を行っている。(大野川流域森林計画概要書 昭和六十年度)

人工林・天然林 本町の人工林・天然林の面積構成比をみると、人工林と天然林の割合は五一・一対四八・九とやや人工林面積の方が広い。人工林の面積比内訳をみると、スギ・ヒノキなど針葉林がほとんどを占めるが、天然林の面積比内訳はクヌギなど広葉樹がほとんどである。伐採後は経済的価値の高い針葉樹を植林していることがわかる。この傾向は、大野郡、大分県全体も同様である。

 また、したけの原木となるクヌギは天然林に分布しており、大野郡、大分県全体の面積構成比より高い割合(二二l)を示している。

 本町の林業経営の中でシイタケ生産が重要な位置を占めていることから(詳しくは後述)、今後シイタケ原木の確保の点からも、クヌギ造林と天然林の改良を促進し、原木林の造成を図る必要があろう。(第2図)

 一方、齢級(五年を一齢級とする)構成からみると、人工林は一齢級(五年生以下)から六齢級(二六〜三〇年生)まで、本町、大分県全体とも面積・材積がほぼ段階的に増加しているが、七齢級(三一〜三五年生)以上の樹木は減少している。これは、伐採によるものであるが、立木標準伐期齢(スギ三五年、ヒノキ四〇年、マツ三五年、クヌギ一〇年等)から考えると、平均成長量が最大となる林齢を基準とし、公益的機能及び経済的価値の高い齢級樹から伐採していることがわかる。天然林の場合は、人工林ほどではないが、ほぼ同様のことが言える。(大野川流域森林計画書 昭和六十年)(第3図11・2)

(二)林業労働者

 戦後の高度経済成長期における山村は、日本経済の発達による地域構造の変化の一端に組み込まれる形で、影響を直接的に受けた。大都市への人口集中は、労働力市場を新たに拡大させ、農山村の労働力を吸収した。

 本町における林業就業者(専業)数は、昭和四十年代に入って大幅に減少した。昭和三十五年を一〇〇とした指数でみると四十年、四十五年、五十年、五十五年、六十年と順を追って対比すると、五五・三、二九・一、三六・三、三九・七、三四・六となる。これは、本町の総人口の動態ともほぼ類似する。三十五年と四十年の総人口の対前回増加率はマイナス八・四lであり、以下五年ごとの増加率は五十年までマイナス六・七l、マイナス三・二lと減少が続く。一方、林家戸数も昭和三十五年の八七徒から四十年の三〇戸へと激減している。その後はほぼ三〇戸台で推移している。また、一林家あたりの林業就業者数も昭和四十年の三・三〇から六十年の二・一三と減少しており、平均世帯人数に対する一林家あたりの林業就業者指数も〇・七六から〇・六六へと減少し、一林家内においても林業就業者数が減少していることを示している。

 これらの数値は、山村地域における林業の生産基盤の弱体化を示すものであるが、高度経済成長期にみられた都市への人口流出や他産業への転換、またエネルギー構成の急激な変化による薪炭需要の大幅な減少(薪炭材は建築材に使用できず、スギ・ヒノキへの転換は莫大な投資と四〇〜五〇年の生育期間を必要とし、現金収入が困難になった。)など理由として考えられる。(第3表・第4図)

零細な林業経営体 本町の林業事業体別保有山林面積をみると、個人所得が六九・五lで、公・民有林の中で大きな割合を占めている。大野郡、大分県全体ともほぼ同様の保有山林形態である。

 この個人所有を保有山林規模別林家数でみてみよう。

 本町の保有山林規模別林家数の比率では、昭和六〇年には一f未満が最も多く、六五lに達している。

 また、一f未満と一〜五fを合わせると、九〇lを越え、林業経営体の基盤が零細であることを示している。この数値は昭和四十五年には六四・一lであったが、昭和五十年、五十五年と六三・五、六三・四lとわずかながら減少した。

 保有山林模別林家数の実数でみると、一f未満の林家数は昭和四十五年には二四〇〇戸であったのが、昭和五十年には二〇五一戸に大幅な減少を示し、この間の減少率は八五・五lであった。この減少は全林家数の動向ともほぼ一致する。昭和四十五年の全林家数は三七三九戸、昭和五十年のそれは三二三二戸である。この間の減少率は八六・四lである。この時期の本町の全人口も減少傾向にあり、経営基盤の弱さが過疎化と同時に「林業離れ」を助長したと考えられる。

 しかし、林家一戸あたりの保有山林面積は昭和六十年には、二・〇七fで、昭和五十年、五十五年に比較するとやや減少しているものの、大野郡内では最大(清川村一・六七f、緒方町一・四六f、他の町村はこれ以下の値)で、大分県の一・八八fを上回っていることからみると、経営規模は大きいと言えよう。

 一方、林業就業日数別労働は本町では、一五〇〜二九九日の就業の割合が高く、林業就業者はかなり専業化している。しかし、大野郡、大分県の場合は六〇〜一四九日の就業の割合が高く、兼業化が進み、投下労働力が減少している。しかも、林業就業者の年齢構成は四〇〜五九歳が八五・七l、六〇歳以上が九・五lに達し、高齢化が進んでいる。(昭和六十二年三重町林業ガイド、県三重事務所林業課)以上のように、高度経済成長は労働力需要を山村から吸収しただけでなく、山村における経済的基盤が、地域的まとまりの中で跛行的に崩壊していったことが、人口流出の背景に存在していたことを認識する必要がある。(藤田佳久、一九八一、「日本の山村」地人書房)よって林業の再生は林業経営の経済的基盤の確立が急務である。(第4表、第5表、第6表)

二 林業経営

(一)造林

 昭和五十七年の本町の造林面積は一二四・五fで、以降やや減少しているものの造林事業の大部分(九七・二l、昭和六十一年)は拡大造林で森林地域の拡大に努力している。樹種の内訳はクヌギ(五八・四f、七四・九l)、スギ(一一・五f、一四・七l)、ヒノキ(八・一f、一〇・四l)で、しいたけの原木に使用されるクヌギが主力であるが、今後、シイタケ原木の県内需給体制づくりの点からも造林を奨励する必要があろう。(数値は昭和六十一年)

(二)保育

 山林の育成には、植林、下刈(一〜二齢級)、枝打(二〜四齢級)、除間伐(三〜六齢級)などを必要とする。本町におけるスギ、ヒノキなどの除間伐は一六七f(昭和六十一年)であった。

(三)林産物

木材生産量 大野郡の昭和六十一年の木材生産量は二万一八〇四立方b出、生産は主として森林組合、素材生産者により生産されている。本町は大野郡内第一の生産(六二九四立方b)で、その大部分(九六・三l)は製材用で、内約九〇l(県三重事務所林業課聴取)が建築用材である。大分県の木材生産・消費がここ数年頭打ち傾向にあり、大野郡や本町においても停滞気味である。

 郡内に原木市場がないため、日田・玖珠・大分・竹田・佐伯方面へ出荷されている。木材生産者の生産は小量・分散的であり、協同化を促進し、生産能率の向上を図る必要に迫られている。

 製材工場は大野郡内に一六工場、本町に五工場あり、郡内からの受注を主とした製材が主体である。木材消費量の停滞などで稼働率の低下が現れており、全般的に零細であり、従事者の高齢化、婦女子化の進行により施設の合理化・近代化と高度技術を持つ後継者の育成が急務である。なお、間伐材などの小径木の加工に対処するための工場の育成も必要であろう。(県三重事務所林業課、町林業課聴取)(第7表、第8表、第9表)

特用林産物ーしいたけー 本町のしいたけ生産は原木と温暖な気象条件に恵まれ、林家の短期収入源(昭和六十一年の林業生産額の八二lを占める。昭和六十一年、三重町林業ガイド)として広く栽培されている。本町の生産量は、昭和四十年代一〇〇dを割り低迷を続けた。これは高度経済成長に起因する人口の減少が生産者の減少を促した。(町林業課聴取)五十年代に入り生産量は持ち直したものの、価格の変動や消費者の高級品志向などにより生産量に変動が現れている。最近の傾向をみると、昭和五十九年に生産増で単価が低下した。六十年より単価は上昇し、一`c六〇〇〇円台をつけたが、六十一年には三〇〇〇円台に下落するという変動を繰り返している。(町林業課聴取)昭和六十一年は、一七四dの生産量を誇り、九重町・玖珠町とともに県下の生産の上位に位置している。

 一方、生産基盤に目を向けると、しいたけ生産者は郡内では最も多いが、全体の九〇・一lが兼業である。この兼業の傾向は郡内全体に見られ、生産基盤の安定化が急務である。

 また、販路をみると、昭和六十一年の生産量の九九・四lが乾しいたけで、しいたけ農協(OSK)六二・七l 、商社三五・〇lなどである。(三重町林業ガイド)野津町・大野町を中心に生しいたけの生産が拡大されつつあり、一部はフライト野菜として出荷されている。今後、一村一品運動の中で、本町の特産品として地位を向上させるためには、生しいたけの生産・販路(農道空港からのフライト化)、高級品志向に対処するための栽培技術の確立、より収益性の高い園芸施設農業としての栽培方法(ニュートラル栽培など)の導入、原木自給率の向上、原木害虫(ハラアカコブカミキリ)の被害対策など問題は山積している。(第10表、第5図、第11表、第6図)

 

三 林業の振興

 本町の林業の生産性の向上・経営の近代化のため、国・県の補助を受け昭和四十三年から第一次林業構造改善事業(総事業費一億二一六八万円)、昭和五十四年から第二次林業構造改善事業(総事業費二億二二〇〇万円)、昭和五十九年より新林業構造改善事業(総事業費五億六〇〇〇万円)を実施した。具体的に主なものを挙げると、林道の開設(昭和六十二年現在、一九路線、総延長一九六八六・四八b、密度七・三三b/f)、山林作業の機械化、植林・育林作業の協業化など生産基盤の整備が進められた。また最近は、林業従事者定住化を図るため生活環境の近代化、林業後継者育成、森林組合の作業班育成、森林の社会的意義の啓蒙、治山事業などを行っているが、これらの事業が集約的林業経営を可能にし、林業基盤の充実と所得の増大につながることを期待したい。

 

 

  第二章 三重町の産業

 

    第一節 商業

 

  一 三重町商業の変容

 三重町の商業中心のある大字市場は、地域商業の中心である。地区内を国道三二六号線が貫通し、町役場をはじめ大分県三重事務所、三重税務署等の諸官庁が国道沿いを中心に立地し、三重町の中央業務地区(C・B・D)を形成すると同時に、三重町内に限らず広く大野郡内に各種サービスを供給し、大野郡の中心地ともなっている。

 ところで、この市場の名称は、かつて日向へ向かう道と竹田へ向かう道が分岐する交通上の要地であったこの辺りに市が立ったことに由来する。市の開かれた年代はつまびらかではないが、永禄十年(一五六七)には既に存在していたようである。その後、近世には臼杵藩の在町として、藩の統制下にあったとはいえ、はじめ市日を二・七日とする六斎市が開かれ、後に次第に店舗が常設化し、市場商業はさらに活発化した。

さて次に、近代以後の市場地区を中心とする商業の動向を、ごく簡単に見てみることにしよう。

 明治十五年ごろにまとめられた『豊後国大野郡村誌』の市場村の項を見ると、戸数一六二戸のうち「商を業とするもの」は七三戸にのぼり、全体の約四五lを占め、「農を業とするもの」の六九戸を上回っている。近代初頭において、既に商業を中心とする集落であったことが分かる。ちなみに『郡村誌』によれば、現三重町域の村々の中で、「商を業とするもの」が五以上の村はない(第1表参照)。このことから市場村が、近世の在町としての性格を継承して、周辺の農村地域へ様々な財貨やサービスを供給していたことがうかがえる。

大正十年(一九二一)に犬飼軽便鉄道(今の豊肥線)三重町駅が設置され、大分との間が鉄道で結ばれ(さらに大正十三年(一九二四)には竹田まで延長された)、石灰や坑木などの輸送が便利になり、現在見られる「窯業・土石製品」製造業の展開にとって不可欠の立地条件を提供した。昭和四十七年(一九七二)には国道五七号線が改良、開通し、また、四十五年、主要地方道延岡三重線、一般地方道三重原犬飼線が国道に昇格し、現在の国道三二六号線となった。さらに各級道路の舗装改良によって、三重町から大分市への交通条件が改善され、自動車の保有台数は昭和三十二年の一三三台から、昭和六十年には四六二三台へと激増した。

 一方、昭和五十年代半ば以降、経済の高度成長の下に、地方においては人口の大都市を中心とする都市圏への流出が続いた。三重町でも人口は昭和二十五年から三十年ごろの二三〇〇〇人台をピークとして、昭和五十年に至るまで各国勢調査ごとに減少を続けた。このような人口の流出は、換言すれば購買力の流出でもあり、地域商業に与える影響は大きなものがある。

 このような状況の中で、豊肥地区では高級品を中心とする買回品に関して購買力が大分市へ流出する傾向が見られるようになった。それは、八万石の旧城下町の商業の伝統を受け継ぐ竹田市の商業においても顕著であった。大分県の小売商業の年間販売額は、昭和四十三年から五十一年の間に六倍になったにもかかわらず、竹田市のそれは四.二倍足らずにとどまった。しかし、これを三重町について見ると、七倍弱の増加を示し、県全体の伸びを上回っており、三重町商業はやや特異な動きを示している。

 これを常時従業者数で見ても、三重町は昭和四十三年から六十年の間に四八三人、五三l増加したのに対し、竹田市は二l弱減少している。また、一店当たりの年間販売額は、昭和四十三年に三重町が六一〇万円で県平均の七二l余りであったのに対し、竹田市は八七六万円で一〇三l余りであったのが、昭和六十年には、三重町が四五五九万円で県平均の九三.四l、竹田市が三六四六万円で七四.七lと逆転しており、竹田市の伸び悩みが目につく(第2表)。

 そこで、次にこのような三重町の小売商業の動向について少し詳しく見ていくことにしよう。

 図1は最近十年間の年間販売額の伸び率をグラフに表したものである。昭和四十七年を基準としているので、昭和五十一年の商業統計調査では、オイルショックによる物価の急騰によって、いずれも高い伸びを示している。物価の上昇が落ち着いた昭和五十四年と五十七年の伸びを見ると、三重町の伸びは他をかなり上回っている。この十年間の三重町の人口は約一万九〇〇〇人でほぼ横バイ状態であったのに対し、県人口は約五.五l増加しているが、年間販売額の伸びは三重町が上回っているのである。このことから三重町はこの期間に小売商圏を拡大したのではないかと考えられるのである。

 そこで、購買力の吸引力指数(年間販売額を人口で除し、県民一人当たりの年間販売額に対する町民一人当たりの年間販売額の百分率を、その町の購買力の吸引力指数という)を見ると、昭和五十七年の調査結果では約一〇四を示し、町外から購買力を引きつけているといえそうである。ちなみに、昭和六十年の調査結果でこの値が一〇〇を超えるのは、大分県内一一市の内で、中津市(一四七.三)、佐伯市(一二七.三)、大分市(一二二.五)、日田市(一二〇.四)、竹田市(一〇六.四)、別府市(一〇五.四)、豊後高田市(一〇三.二)の七市で、町村では三重町(一〇五.六)のみである。このようなことからも、三重町の小売商業は、県都大分市に比較的近接し、昭和四十五年(一九七〇)以降はその通勤圏(通勤率五l以上)内にあるとはいうものの、地域商業として独自の商圏を持ち、大いに健闘しているといえよう。

 しかし、時系列で見ると昭和四十九年にはわずか七四.二であり、購買力の約四分の一が町外へ流出していたことになる。そして、これが昭和五十一年には八八.三と大きく改善され、さらに五十七年にはついに一〇〇を超えて一〇四となり、六十年にはさらに一〇五.六となった。

 このような急速な購買力の吸引力指数の上昇は一体何によるのであろうか。この間に商業構造に何か大きな変化があったのであろうか。まず、考えられるのが、昭和五十年十一月の寿屋三重店、五十六年五月のトキハインダストリー三重店の開店に見られるような大型店の進出による影響である。

 そこで、業種別の動向を見ると第3表のようになる。これらの大型店は「各種商品販売」に分類されるが(企業秘密保護の観点から企業数の少ない業種では秘匿数があって正確には分からない点もある)、大体次のようなことがいえよう。

 昭和四十九年から五十七年の間に小売業全体の販売額は三.二八倍であるのに対して、xの業種つまり、各種商品販売業と自動車・自転車販売業では四.二三倍になっており、その伸びは格段に大きい。これには、もちろんモータリゼーションの進展による自家用車の一層の普及もあったであろうが、大型店の進出による周辺市町村からの購買力の吸収が大きかったものと考えられる。この間の大分県の小売販売額の伸びが二.四倍であるのに三重町の伸びはそれを上回る三.三倍という値を示すのは、このことを反映しているといえよう。

 しかし、業種別に詳細に見ると、織物・衣服・身回品とか飲食料品といった一般の小売店の多い業種では、昭和四十九年から五十七年の間の伸び率は二.一三倍で、県のそれの一.九四倍を上回っているが、昭和五十四年から五十七年の間では一.一四倍で、県のそれの一.二二倍を下回っている。大型店進出の影響がこのようなところにも及んでいるのかもしれないが、一般の小売商店の販売の伸び悩み傾向は、今後の三重町商業の抱える課題を示唆している。つまり、近年確かに三重町商圏は拡大したが、それは複数の大型店進出の相乗効果によって周辺に若干商圏を拡大したもので、一般の小売店の力によるところは小さかったのではないかということである。

 したがって、今後は、昭和五十七年九月に増床、移転した丸食三重店も含めたこれら大型店の顧客吸引力を、一般の小売商店も組織的に有効に生かして共存していく方途を探る必要があろう。それは具体的には、分散している三大型店への顧客をいかにして三重町中心商店街に流れ込ませるか、駐車場をどう確保するかといった問題となろう(図2参照)。

 幸い昭和五十七年九月に丸食が市場二区の商店街の中に移転してきたが、このことに関して『三重町小売商業振興モデル商工会事業報告書』(昭和五十九年三月、三重町商工会)は、現在の非商店や空家を中に挟んだままの商店街の商店密度の高度化を図り、三重町駅前から丸食辺りまでの集約化の必要性を提言している。全国的に見ると、うまく活性化を図ったところもあるので、これらの事例を参考にしながら、真に消費者にとって魅力ある(この中味をどう捉えるかも重要な問題であるが、@買物に便利A品揃えが豊富等が中心となろう)商店街づくりに取り組む時期に来ているといえよう。

 

  二 町民の購買行動と商圏

 近年の相次ぐ大型店、専門店の進出に伴い三重町の商圏は周辺地域に拡大したが、これを大分県が実施した買物行動調査の報告によりながら、少し詳しく見ていくことにしよう。

 消費者の買物行動は商品の特性により多様であるので、ここでは商品を生鮮食品や家庭用日用品などの買物頻度の高い、いわゆる最寄品と、洋服・呉服・衣料品・靴・カバン等の買回品、さらに家庭電気製品・家具・インテリア・スポーツ・レジャー用品・時計・メガネ等の専門品の三種に分けて見ることにする。

 まず、最寄品では三重町民の町内での購入率は、昭和六十年度の調査結果では九四.五lで、郡部にあっては極めて高い値を示し、大野郡平均(六一.一l)を大きく上回っている。同様に、買回品や専門品でも八三l余りと大野郡の平均四割前後の倍以上の値を示している。ちなみに、前回昭和五十七年の調査では買回品七六.〇l、専門品六六.四lであったから、かなりの上昇を見せていることが分かる。これもトキハインダストリーや昭和五十七年十一月のベスト電気、昭和五十九年六月のHIHひろせなどの大型店や専門店の進出が寄与していると考えられ、別府市を上回る高い値を示した。

 このようなことから、三重町の町民は、日常的な買物の対象となる最寄品については、そのほとんどを町内で購入し、比較的高価な商品の多い買回品や専門品についても、町内での購入比率は郡部にあっても例外的な高さで、町外での比率は一五l強に過ぎない。この町外での購入先は、そのほとんどが専門店やデパート、大型スーパーが集まり、県下一の商業集積地である大分市の中心商店街となっている。

 このように三重町民の町内での購入率は高いが、三重町民の近隣地区における買物利便の満足度は三五.八lで、大分市や臼杵市の五〇l前後という値と比べると低い。その理由として、「買いたくても買いたいものがない」「品揃えが少ない」「鮮度や品質が悪い」というのが四割前後もあり、消費者の多様なニーズに十分対応できていないことが分かり、一五l強の町民が大分市の中心商店街で買回品や専門品を購入している理由を示唆している。

次に、三重町外のどれくらいの範囲から三重町内での購入が見られるか、つまり、三重町の商圏について見てみよう(図3)。

 昭和六十年の調査結果を見ると、買回品を三重町で購入する比率(出向率とよぶ)が第一位の町村を高い順に列挙すると、清川村(八八.二l)千歳村(六六.四l)、大野町(三八.〇l)、野津町(三五.八l)となっており、おおむねこれらの町村が三重町の商圏といえる。このうち、千歳村・清川村は最寄品でも三重町内での買物比率がそれぞれ五四.四l、四八.八lと五割前後を占め、地元での購入率を上回り、三重町への買物の依存度が極めて高い。また、この両村以外でも、大野町・野津町・犬飼町では地元に次いで第二位で、それぞれ三二.五l、二九.七l、二五.七lとかなりの依存度を示している。

 そこで、最寄品について昭和五十七年の調査結果と比べてみると、清川村は三重町での買物率を二〇l程低下させ、地元での購入率を一七l余り上昇させ、地元依存度を高めた。さらに、緒方町は竹田市への出向率が大きく低下し、地元での購入率を約一五l上昇させ、さらに三重町への出向率も若干上昇を見た。その結果、竹田市への出向率は三重町に次いで三位となった。犬飼町では逆に地元依存率が一五l程低下し、大分市や三重町への出向率が上昇した。

 次に、買回品での昭和五十七、六十両年の調査結果を比較してみよう。最寄品で三重町への出向率が低下した清川村では三重町での買物率が一〇l程上昇して八八.二lとなったほか、三重町(八三.五l)、千歳村(六六.四l)、緒方町(五七.五l)、野津町(三五.八l)で、それぞれ三重町での買物率が五l以上の伸びを示し、第一位の買物先となっており、大分市に次いで第二位の犬飼町(二七.二l)でも一〇l以上の上昇となっている。

 このような傾向は専門品でも顕著で、三重町での買物率は、三重町(八三.七l)、清川村(七八.八l)、千歳村(五二.八l)、緒方町(四一.五l)と七〜二九l程の伸びを示し、三重町が第一位の買物先となっている。買回品、専門品における三重町への買物出向率の上昇は、いずれも県都大分市への出向率が低下している中での上昇であり、三重町商業の健闘が目立っている。しかし、これも既に述べたように、大型店や大型専門店の進出によるところが大であり、手放しで喜べるものともいい切れない点がある。

 ところで、商圏というのは中心集落の勢力圏の一つであるが、別の勢力圏でもある通勤圏と比べてみると、三重町への通勤者が五lを超えるのは(一般にこの範囲を通勤圏という)清川村・千歳村だけであるから、商圏の方がはるかに広範囲に及んでいることが分かる。

 さて、現在の三重町商業を考える上で大型店の存在を抜きにしては考えられないが、消費者は大型店出店についてどのように考えているのであろうか。

 昭和六十年の買物行動調査によると、三重町では新たな大型店の立地は不用であるという意見は三八.八lで、必要であるという意見二九.一lを上回っており、五十七年の数値と比べると必要とする意見が一〇l余りも低下している。これは三重町内の大型店の売場面積の全小売業売場面積に対するシェアが二五.五lから三四.七lに上昇したのに対応し、消費者の需要をこれらの大型店がある程度満たしていることの表れと見ることができよう。

 

  三 三重町の商店分布

 三重町の商店街は、豊肥線三重町駅の駅前通り、および市場一〜六区の中心商店街とその他の集落ごとの近隣商店に分けられる。本項では中心商店街の品目別分布について見ることにする(図4)。

 三重町駅前の通りには、駅に近いところでは食堂・パチンコ店が目につくが、それ以外に通り全体では、洋装品や衣料品関係、電気製品・カメラ・レコード店が多く、買回品的性格の強い商店が多いことが分かる。さらに、他の商店も各種見られ、商店が連続し、一般住宅の介在も少なく、純商業地区的景観を見せている。また、市場四区もほぼ同様で、やはり商店密度が高い。これに対して他の地区では飲食料品店や最寄品関係の商店の割合が高く、一般の住宅や空家の介在も比較的多く見られる。

 次に、昭和六十一年八月末から九月初めにかけて行ったアンケート調査(有効回答数は二一五で、全商店の約六三lにあたる)の結果から品目別の構成をまとめると、第5表のようになる。やはり、飲食料品関係の商店が全体の四分の一強を占めて最も多い。

 これを地区別にまとめると第6表のようになり、日常的な買物の対象となる飲食料品関係の商店の割合は、市場一区(四四.四l)、同二区(三六.八l)、同三区(二三.八l)、同四区(一八・八l)、同五区(二六・九l)、同六区(三六・三l)、上赤嶺区(三六.八l)となっており、かなりの差が見られる。また、買回品、専門品的傾向のある衣料品・電気製品・レジャー用品・時計・メガネ・カメラ・家具・什器といった商品を扱う商店の割合を地区別に見ると、市場一区(一一.一l)、同二区(三一.六l)、同三区(三八.一l)、同四区(四三.八l)、同五区(二六.九l)、同六区(二二.七l)、上赤嶺区(二一・〇l)となっており、やはり地区ごとにかなりの差が見られる。

 この両者の差から、買回品的性格の強い商品を扱う商店は、三重町中心商店街の中央部の駅前通りに近い市場四区を中心に多く、周辺に行くに従ってその割合が低下し、逆に最寄品的性格の強い飲食料品を中心にした商店は、中心商店街の中でも周辺の地区に多いということが分かる。

 

  四 商店の開業年代

 三重町市場は、近世には在町として商業が盛んであったから、開業年代が明治期までの老舗もかなりあるのではないかと予想されたが、アンケート調査の結果では一四商店、六.五lと案外少なかった(第7表)。『大野郡村誌』によれば、旧市場村で商業を営む者は七三戸であったことを思い浮かべるとその少ないことが理解されよう。これに対して開業年代で最も多かったのは、昭和二十年から三十五年で、五八店、二七.〇lと全体の四分の一強を占めた。この時期は戦後復興期から高度経済成長期へと向かう時期であるが、開業理由を見ると、戦後海外から引き揚げてきたり、復員したりして来て、とりあえず生活のために商売を始め、現在に至っているとする人が多く見られたのは、このような時代背景を負っているからといえよう。次に多かったのが昭和四十六年以降で、五一店、二三.八lあった。この時期は高度経済成長も終末期にさしかかり、人口移動にもUターン・Jターン現象が見られるようになった時期である。開業理由にいわゆる「脱サラ」が見受けられるのが特色であろう。

 このように見てくると、無回答を除いた一九〇店の内、約四分の三に当たる一四〇店が戦後開業した新しい商店で、明治期までに開業した商店はわずか一四店で七l程であることが分かり、近世の在町時代からの継続は意外と少ないことが指摘できる。とはいえ、開業年代が明治期までとした商店の販売品目は、種子・金物・荒物・米穀・陶器等が多く見られ、販売品目に在町商業の名残を留めている。

 また、アンケートでは仕入れ先とその割合についても質問したが、回答率が極めて悪かったが、おおむね次のようなことが指摘できよう。

 最寄品の仕入れ先は大分市が中心であるが、買回品ではたとえば婦人服では大阪市・福岡市・東京、呉服は京都市、時計・メガネ・カメラでは大分市とともに大阪市・福岡市の名が見えるなど大都市圏の比率が高くなっている。靴・仏壇・釣具・家具・刃物等では、熊本市・広島市・延岡市・大川市・三木市などの地方の都市も見えており、産地の問屋と直接取り引きしていることがうかがえる。

 

  五 販売品目構成の変化

 経済が安定成長期を迎え、さらに生活の洋風化が進んでくると、それに伴って商店の販売品目にも変化が現れるであろう。そこで、ここでは商工会の名簿から販売品目による小売商店の構成の変化を見ることにしよう。比較時点は、現在(昭和六十一年六月)と経済が安定成長期を迎えた昭和四十九年五月の二時点である(第8表)。

 両者を比べると、一見大きな変化はないように見えるが、飲食料品関係では「牛乳・菓子・パン」が倍増し、「電気製品」、「レジャー用品」が大きく増加したことに生活様式・生活意識の変化を読み取ることができよう。

 

  六 卸売業の概要

 商業の節の最後に三重町の卸売業についても簡単に見ておくことにしよう。

 第9表を見ると、昭和五十七年の販売額が前後の数値から考えて異常に多いが、統計の集計上の誤りによるものではなかろうか。昭和四十三年から六十年の間の動向を見ると、商店数で一.八倍、常時従業者数で一.二倍、年間販売額で五.三倍となっており、県全体の伸びと比べると、常時従業者数、年間販売額での伸びがやや低く、小売業程の伸びは見られない。したがって、一店当たりの年間販売額も四六九二万円から一億四二三八万円と約三倍になったものの、県平均の約五割から三分の一へと逆に大きく低下した。また、年間販売額の県全体に対するシェアも〇.六lから〇.四lへと低下しており、小売業の健闘とは好対照をなしている。

 

 

    第二節 工業・その他

 

 三重町の事業所の近年における動向を事業所統計調査の結果によって見ることにしよう(第10表参照)。

 まず、事業所数で最も多いのが卸・小売業で全体の約五割を占めているが、昭和三十八年には五六lを占めており、割合はやや低下している。従業者数でも三八lから二九lへと割合を低下させている。これに対して大きく増加しているのが、建設業、製造業、サービス業・公務で、昭和三十八年から五十六年の間に事業所数で建設業は二.五倍、製造業、サービス業・公務は一.三倍となっており、さらに従業者数ではそれぞれ一.五倍、五.五倍、二.一倍と特に製造業で大きく増加している。製造業について見ると、一事業所当たりの従業者数は同期間に四.九人から九.八人へと倍増しており、この間に大規模な事業所の進出、あるいは各事業所の規模拡大を示唆している。

 そこで、業種別に製造業の動向を見ると(第11表参照、昭和五十九年の数値は四人以上の事業所についてのものであり、秘匿数もありはっきりしない点もあるが)、窯業・土石製品は一四億円以上の出荷額を示し、依然として重要な地位を占めているが、昭和四十年には製造品出荷額等に占める割合は約五割あったのが、昭和五十年には三分の一に、昭和五十九年には一六lにまで低下し、相対的な地位は低下している。また、木材・木製品製造も昭和四十年の二割から五十年には五lと急落している。これに対して、衣服その他の繊維製品製造、電気機械器具、精密機械器具製造が新たに登場している。昭和五十九年の数値は従業員四人以上の事業所の値であるので全てを一律に時系列的に比較できないが、製造品出荷額等は昭和四十年から五十九年の間に少なくとも四四倍になっており、県の一四.八倍を大きく上回っており、三重町における製造業は大きな伸びを示しているといえよう。しかし、昭和五十年から五十九年の伸びは二.八倍で県の二.三倍とさほど大きな開きはなく、五十年代の伸びが四十年代より鈍化していることが分かる。一方、従業者一人当たりの出荷額等は昭和五十九年は大分県平均の三一lで、昭和四十年の二〇lより大きく増えたが、それでも従業者一人当たりの生産性は低水準にあるといえそうである。

 次に、町内の主な進出企業を見ると(第12表)、昭和四十年代後半から五十年代前半の高度経済成長から安定成長への転換期の進出が多く、また、農村地域工業導入促進法による誘致企業も多く、町当局の積極的な誘致がうかがわれる。これは、大都市地域への人口の流出の中で、これを食い止めるべく町当局が働きかけて誘致した企業が多い。

 主な企業の進出状況、生産品目を見ると、昭和四十三年五月操業の森産業は、古くからの椎茸産地である当地に椎茸の種駒生産の基盤を設けたもので、地域への貢献も大きい。また、昭和四十三年十一月に操業を始めた九州福屋と昭和四十五年十月操業開始の京都度器は、主として当時就業の機会の少なかった農村の既婚女性の就業の場を確保するために町が誘致に成功したものであった。大分電子工業は、東芝大分工場の下請け工場として半導体の生産を行っている。昭和五十八年十一月操業と比較的近年に進出した川澄化学工業は医療器械を製造しているが、その工場敷地は二十年間程日本専売公社の原料工場であったが、同年三月の閉鎖に伴い、その跡地に誘致されたものである。

 ところで、これらの進出企業の中にあって大分ユシは操業に至るまでのプロセスがユニークである。これは、もと二〇〇〜三〇〇頭の肉豚生産農家が周辺に住宅が増加したこともあり、臭気公害への対応から養豚をやめ、豚舎を工場に改築して日本オイルシールの下請け企業として昭和四十八年四月に操業を始めたものである。

 

 

 

    第三節 観光

 

 三重町の観光というと内山観音・菅尾石仏がまず挙げられたが、近年はこれに稲積水中鍾乳洞が加わった。この外南西端に傾山を控え、白山渓谷・三国峠の桜並木などがあり、観光資源に恵まれている。美しい自然景観を保全しながら、新産業都市大分の後背地として、休養とレクリエーションを組み合わせた観光開発が期待されている。

 そこで、近年の観光動向を見ると(第13表)、この統計には信頼性にやや難があるので全面的に数値をうのみにはできないが、おおむね傾向は把握できるであろう。

 昭和五十年代に入って観光入込客が急増している反面、宿泊客が大きく減少している。このことは通過観光客の増加を意味しており、宿泊を伴わないので町内で観光客が消費する金額は低くならざるを得ない。観光客一人当たりの消費額が、昭和五十年に九一六円であったのが、五十九年に五二一円へと六割弱に減少したのはこのことを端的に示している。この期間の物価上昇を考慮すれば実質的にはおよそ三分の一になったと見てよいであろう。しかし、入込客が大きく増えたため消費額の合計は大きく伸びている。

 次に主要観光資源の概要を略記しておこう。

内山観音 三重町駅から南へ三==程に内山観音の名で知られる蓮城寺がある。渡来僧蓮城を開山とし、炭焼小五郎(真名野長者)が創建したと伝えられている。三十三年に一度開帳される秘仏千手観音は蓮城法師が渡来する際に持ってきたものと伝わり、大悲閣本殿に安置されている。

 また、薬師堂には本尊薬師如来と脇仏の日光・月光両菩薩の外に、黄金に彩色された一〇〇八体の木彫り薬師如来立像がある。奥の院の長者堂に秘仏本尊として安置されている一寸八分の観音菩薩は、真名野長者の娘般若姫の守り本尊で百済(今の韓国西部)から伝わったという。

 このほか、境内には石像文化財も豊富で三基の石造宝塔が県の文化財に指定されているが、そのうちの薬師堂の北側の二基は真名野長者夫妻の墓と伝えられるが、銘や大友文書などから永仁四年(一二九六)の作と推定されている。境内は桜の名所として名高い。

三国峠の桜並木 内山観音付近から三国峠付近までの国道三二六号線沿いには、約一〇〇〇本のソメイヨシノが植えられ、春の桜のシーズンには多くの人で賑わう。この時期には「桜ロードレース」が開催される。峠は標高六六四bで、見晴らしのよい時には祖母・傾山の連峰の外、阿蘇からくじう・由布・鶴見といった秀峰を望むことができる。峠の三国の名は近世の佐伯・臼杵・岡三藩の境界であったことに由来する。

 また、峠付近には、明治十年の西南の役で官軍に追撃を受けた薩軍が敗退したことなどを記した石碑が立っている。

菅尾石仏 豊肥線菅尾駅から北へ一==余りのところ、大野川に臨む岸壁に五体の磨崖仏が刻まれている。俗に浅瀬岩権現と呼ばれている。九六段の石段を登ると覆屋の中に、向かって右から多聞天立像(像高一.九八b)、十一面観音座像(一.八四b)、阿弥陀如来座像(一.七八b)、薬師如来座像(一.七五b)、千手観音座像(一.九二b)の五体が西方を向いて彫られている。多聞天以外は二重光背を持ち、丸彫りに近く、精巧な技法で彩色が施されている。多聞天は浮彫り的に表現されている。いずれの像も平安時代後期の作と見られており、国の重要文化財に指定されている。

稲積鍾乳洞 傾山の北東麓の中津留に昭和五十一年に発見された水中鍾乳洞がある。これ程の規模の水中鍾乳洞は全国的にも珍しいということで有名になった。石灰岩が水に含まれる酸によって溶け出してできた洞窟が鍾乳洞であるが、稲積鍾乳洞は約二十一万年前の氷河期から発達し、三万数千年前の阿蘇山の大爆発による地底の変化で洞穴の入口が塞がれ、水没したといわれる。全長はおよそ一〇〇〇bに及ぶ。最近、周囲には淡水魚水族館やレストハウスなどが整備され、三重町観光の一中心となっている。

 

 主な参考文献                                                三重町商工会   『三重町小売商業振興モデル商工会事業報告書』昭和五十九年 三重町商工会

     三重町商工会   『三重町地域小売商業近代化対策事業報告書』昭和五十七年 三重町商工会

     大分県      『大分県消費者買物行動調査報告書』昭和六十一年および昭和五十八年 大分県

     染矢多喜男    『地名覚書』昭和三十七年 いずみ出版

     三重町役場企画課 『ふるさと再発見』昭和五十六年 三重町役場

 

 

  第三章 交通・通信

 

    第一節 交通の変遷と現況

 

  一 古代の交通

駅馬と伝馬 大化二年(六四六)の詔勅に「初めて京師を修め、畿内の国司、郡司、関塞、斥候、防人、駅馬、伝馬を置く」(『日本書紀』)とあって、大化の改新に際して、政治・軍事と共に交通制度の全国的整備がなされたことが知られる。強大な中央集権国家体制が始めて確立され、五畿七道、国郡里制の地方行政区画と国司・郡司制による地方行政制度の整備に伴って、中央と地方との官吏・官便の往来、中央からの政令伝達と地方政治に関する地方からの報告・連絡、あるいは貢物の輸送など、律令政治施行上の必要による公交通が重要な意味を持つことになった。この公交通の制度の核心をなしたのが駅馬・伝馬の制度であった。

 「事急ならば駅馬に乗り、事緩ならば伝馬に乗る」(『公式令集解』)と、緩急二本建てであった。令の駅制では、七道を往来の重要度と頻度から、大路・中路・小路に分けたが、『義解』によれば、都を中心に、大路は山陽道とこれに続く太宰府道、中路は東国に至る東海道と東山道であり、その他の南海・西海・山陰・北陸の四道は小路とされた。『厩牧令』によると、駅馬の設置は大路二十疋、中路十疋、小路五疋、駅の設置は大路三〇里(約二〇==)毎に一駅が原則であった。駅には駅舎があり、駅長が一定の戸数から成る駅戸から選ばれ、人馬の継ぎ立て、宿泊・給食を処理した。駅長の下に、駅戸から徴発された駅子があり、駅馬をひいた。また駅の維持のために駅田が大路四町、中路三町、小路二町(『養老田令』)給され、駅戸が耕作に当たり、収穫される駅稲が駅便食料や駅馬買替料などにあてられた。駅子は大体百二、三十人だったと考えられ、毎戸三人の駅子を出したとすれば、駅戸数は約四〇戸になる。

三重駅 『延喜式』兵部省「諸国駅伝馬」の条によると、「豊前国駅馬下毛・宇佐・安覆各五疋(福岡県関係分略)。豊後国駅馬小野十疋、荒田・石井・直入・三重・丹生・高坂・長湯・由布各五疋」とある。太宰府から石井(日田市石井)・荒田(玖珠郡四日市)・由布(湯布院町由布院)各駅を経て豊後国府に至る豊後路。大路たる太宰府道(山陽道)の到津(北九州市到津)から分かれて、豊前国府を経て大分県域に入り、下毛(中津市高瀬、あるいは同合馬)・宇佐(宇佐市法鏡寺)・安覆(安心院町古市)・長湯(別府市古市)各駅経由、豊後国府の高坂駅(大分市上野)に至り、さらに南下、丹生(大分市丹生あるいは臼杵市)・三重(三重町市場)・小野(宇目町小野市)諸駅を経て宮崎県域に入り、日向・大隅両国府へ至る西海道東路。肥後から豊後に入り、直入駅(久住町古市)を経て豊後国府に至る阿蘇路。荒田駅から分かれ、直入駅を経て(または、さらに三重駅を経て)小野駅に至る日向路。以上の諸路が考えられる。うち、大野郡関係として、『豊後国志』(亨和三年 一八〇三年編纂)は、国府から戸次市へ二里余、三重市へ六里余、内山・榧嶺を経て小野市へ四里梓領へ四里余、そして半里で日向国界杉へ至るものと考えている。

 右の駅路のうち、三重駅が本町市場に比定されていることは、三重の地名、中心集落としての市場地名(市場の小字名に高市・市ノ後・市原もある)から当然であろう。しかし市場のどこか、駅・駅路の復元は今後の問題である。原則どおりとすれば、駅田二町、駅戸約四〇戸、駅馬五疋のための厩舎、倉庫などから成る駅であり、隣の丹生駅と小野駅(また、直入駅)へはそれぞれ三十里くらいで、駅間距離はほぼ原則どおりである。

 『延喜式』に駅馬と併記されて伝馬がある。豊後国には「伝馬・日田・球珠・大野・海部・大分・速見郡各五疋」とあるが、伝馬は官吏の赴任・帰任など、急を要しない旅行の用にあて、郡ごとに五疋というのが令の規定であり、配置された場所は各郡の役所の所在地、郡家であつたというのが通説である。しかし大野郡の郡家の位置は不明である。三重町赤嶺の字名、「郡田」「郡田脇」は郡家との関係を考えしめる。のち、伝馬は郡から駅へ移管された。伝馬は前記伝馬配置郡名から、大分県域では、太宰府から豊後・日向両国府へ至る道に伝馬の配置が見られたことが推定される。この日向国府への道筋、三重駅に大野郡伝馬五疋は付置されたのであろう。当時、農民は国から口分田を給せられて、農業生産に、漁民は漁業生産に従い、各生産物と労働力を国へ提供した。役民の旅行と調庸の輸送がまた公交通の重要な一部をなしていた。『延喜式』主計上に、運脚の上京、西海道は太宰府行と下国の行程が記されているが、豊後は上四日、下二日とある。これは国衙・太宰府間の行程で、往路は貨物・食料、帰路は食料だけであったので、上下で日数が異なるわけであるが。

 

  二 中世の交通

 中世の交通は、これを明らかにする史料に欠け、わずかに天正年間の豊日戦争の遠征路が知られるにすぎない。

大友義統の土持親成攻伐路 日向南部の伊東氏は島津氏に攻撃されて豊後にのがれ、日向北部の土持氏は島津氏に降って、大友・土持両氏の対立となった。『大友文書録』によれば、天正六年(一五七八)三月、大友軍三万騎は宇目酒利豊後日向堺を本営とし、七隊に分かれて、先峰佐伯宗天は屋峰口より、志賀親教は梓口より、共に日向に入り……両口を諸軍は斉進し、松尾城を囲んでいる。そのコースは不明であるが、府内―野津―三重―宇目のルートをたどったと考えられている。

大友宗麟の日向遠征路 天正六年十月、宗麟は臼杵から海路延岡に向かったが、本隊は野津経由であったことは、フロイス『日本史』に明らかである。ルートは一の場合と同じであったであろうと考えられている。緒戦には勝った大友軍は高城・耳川の合戦で敗れ、その敗走路については、宇目経由であったことは明らかであり(フロイス)、往路と同じと考えられている。

島津軍の豊後侵入路 天正十四年十月、島津軍は、大挙日向口と肥後から豊後に侵入した。島津家久軍は日向口から宇目に入り、三重郷松尾山に陣し、さらに戸次川原で大友軍を破り、府内に入った。翌年三月、豊臣秀長軍の豊後入りで松尾山に退き、梓峠を越えて日向に引揚げて行った。『豊後国志』にも、佐伯惟定が薩兵の去路を要して、大いに之を敗る。即ち是、国府より戸次市に至る二里余、郡の三重市に至る六里余、内山榧嶺を経て小野市に至る四里、梓嶺に至る四里余、又半里にして国界の杉に至るは是なり。と記している。

 このように、天正期の豊日戦争では、野津―三重―宇目ルートが日豊を結ぶ要路であった(大分県教育委員会『歴史の道調査報告書日向道』昭和五十五年)。

 

  三 近世の交通

『豊後国志』の道路 『豊後国志』(亨和三年=一八〇三)によって近世の交通路をみよう。多くの幹線道路が三重市を通過している。

 1)海部郡臼杵城路 直入郡岡城南の滑瀬橋(竹田市)から草深野・下自在(緒方町)・長迫・岩戸(清川村)を経て三重市へ五里。さらに芦刈(三重町)・竹脇(三重川にかかる石造アーチ橋の虹澗橋は文政七年=一八二四年の完成である)・野津市・池原・小切畑(野津町)を経て、海部郡界を越え、掻懐を経て臼杵城に至る七里である。すなわち、竹田・臼杵両城下町を結ぶ路十二里のほぼ中間、竹田よりに三重市は位置していた。今日の主要地方道竹田野津線・臼杵野津線にほぼ相当する。

 2)海部郡佐伯城路 @の下自在から分かれ、左草・伏野(清川村)を経て本町域に入り、松箇平・奥畠を経て、畠返嶺(約五二〇b)を越え、釘戸、小野市(宇目町)に下った。ほぼ今の一般地方道伏野宇目線であるが、畠返嶺は山勢峻嶮、迂曲盤登一里余、下亦一里余であった。さらに、東して見明から海部郡に入り、横川を経て佐伯城に達した、この佐伯城路の一部が本町域南部を通過していた。なお、本路の小野市千束から日向国延岡城路が分岐し、千束・重岡・水箇谷(宇目町)を経て、梓嶺を越え、日向国臼杵郡に入り、延岡城に達した。

 以上、竹田―臼杵、竹田―佐伯また延岡の各城下町を結ぶ幹線道路が本町域を通過し、ほかに左記のように支線道路が幾つかあった。(第1図)

 市場―松谷―山中―伏野

 市場―深田―久原―長迫

 市場―内田―松尾―出羽―細枝

 中津無礼―中津留―大白谷

『元禄絵図』の道 『元禄絵図』(臼杵図書館蔵)の日向道のルートは府内―下郡―毛井―宮河内―戸次市―影ノ木―西寒田―鍋田―大寒―深野―菅生―三重市―玉田―岩戸―馬場―宇田枝―伏野―酒利―重岡―水ケ谷―梓峠―八戸(日向)である(大分県教育委員会『歴史の道 日向道』 昭和五十五年)。

 府内から南、明野台地を越え、大野川を渡って、戸次に出る。さらに九六位山西方山地を越え、鍋田に出て、ここで野津川を渡り、現三重町域に入る。大寒、深野、菅生を経て、三重市に達し、ここから西進、玉田を経て岩戸に出て、南転、宇田枝、奥畑と、岩戸川、奥畑川の谷を上がって、佩楯山地を旗返峠で越え、小野市に下っている。すなわち、古代・中世のルートにほぼ同じと考えられる。また、三重市―馬場は『豊後国志』の直入郡岡城路、海部郡臼杵城路の一部、宇田枝―奥畑―旗返峠は同書日向延岡路・海部郡佐伯城路の一部である。

3紀行文にあらわれた交通の様子

 1)遊行上人 延亨四年(一七四七)、諸国巡回の遊行上人は日向から梓峠―宇目―旗返峠―岡―三重市―野津―臼杵のコースをとり、伊予に渡っているが、その「遊行日鑑」に、宇目―旗返峠―岡の所では、旗返大阪は上下一里余の難所、花立之坂、カイノ木坂の高山があると記し、三日を要している。また、岡―三重市―野津―臼杵の所では、山坂沢山あり、川を三回渡り、二日を要している。

 2)古河古松軒 天明三年(一七八三)豊後を通過した古河古松軒は、『西遊雑記』に、臼杵より岡城へは十三里の山道にて西南と行事なり、と記し、途中蓮城寺に詣でている。

 3)野田泉光院 野田泉光院の『日本九峰修行日記』によると、文化十五年(一八一八)野津町前河内から本町鷲谷に入り、一泊。国木峠(三国峠か)、駒鳴峠を越えて、宇目町倉小野村(倉木小野か)に泊、アツサ峠を越えて、延岡に向かっている。

 4)賀来飛霞 賀来飛霞の『高千穂採薬記』によると、彼は弘化二年(一八四五)三月、豊後から日向に向い、「八日晴、早ニ久原ヲ発シ、山奥ヲ経三重市ニ至ル。市頗ル富庶、且ツ臼杵候ノ舗司アリ。有知山ニ至リ観音ヲ拝ス。堂宇壮麗修造頗新也。土人曰、舊例アリ。御巡検便毎ニ皆拝セラルルヲ以テ、官ヨリ修造セラルト。是ヨリ山路嶮岨ニシテ、危巌峙立皆石灰礦也。……羊腸ヲ登リ原野ニ出レハ、路山背ニ在リ。実ニ馬背ノ如ク、左右ノ谷皆数十尋、……嶺頭ニ登レハ、石ヲ建テ、御書墓ノ三字ヲ刻ス。此嶺ヲ三国峠ト云。岡、佐伯、臼杵三侯ノ封地ノ境トス。故ニ名ク。南ニ下リ小野市ニ至リ、……久原ヲサル事八里。……

 九日晴天。小野市ヲ発シ、重岡ヲ過ル。……吸ケ 谷ニ至ル……嶺頭ニ豊後、日向ノ堺アリ……油布嶺ヲ北ニ望ミ、延岡ノ海浜ヲ南ニ臨ム。此山ヲ梓山ト謂フ。松樹欝蒼タリ。……路極テ嶮難、……地理家古河山人モ此地ヲ本邦行路難ノ中ニ入レタリ。……馬モ重ヲ負フ能ハズ。役夫モ一人ノ処ニ二・三人モ出ヅ。役夫曰、去年、京師親王家ノ臣ト云ヒテ輿ニテ通行セシ人アリシニ、左右ノ谷、其底ヲ知ラヌホドノ嶮所、殊ニ狭キニ至リ、輿中ニテ 念珠ヲ出シ、仏経ヲ誦セシタリト。此言実ニ梓山ノ嶮岨ヲ状スルニ足レリ。……」と記している。このような難路であった。

延岡藩の「豊後道中」 豊後国大分・速見・国東三郡に計二万石余の飛地を有した延岡藩は、大分郡千歳村(大分市千歳)に役所を置いて、これらを支配した。このため千歳役所詰代官の延岡との往来は繁しかった。

 延岡から船が北川を遡航し、八戸から山路に入り、梓峠を超えて豊後に入り、宇目楢本、三重市、犬飼山奥、大分利光、同成松の五人馬継立場を経て、千歳に達した。(豊後千歳役所諸定式扣)

 以上のように、九州山地東部を横断する日向道は、わずかな政治的意義しかなく、経済的意義もきわめて薄いものであった。

大野川水運 臼杵領三重郷一万石と同野津郷八千石の上納米は、牛馬の背によって、吐合(野津川合流点)に集められ、ここで二十石帆船に積んで、鶴崎の家島に送られ、海運船に積みかえ、大阪・臼杵へ廻送された。しかし吐合河岸までの距離、勾配等の自然的条件や藩の財政難からの課税や物価政策(買い上げは安く、必需品売価は安く)などから、文化八年(一八一一)には一揆が起こり、その結果、吐合納めが細長納めに変わり細長は三重一万石の集荷地となり、上納米は牛馬で転送され、雑穀・竹木材・薪炭等は小舟で吐合に運ばれるようになった。かくて、細長は三重郷の玄関として繁栄した(三重町誌沿革編 昭和四十一年)。

 

 

  四 近代の交通

道路 『豊後国大野郡村誌』(明治十五年五月に筆を起こし、同十八年六月脱稿)や『明治十四年大分県統計表』・『大分県管内全図』(明治十五年)などによって明治前期の道路を概観しよう。

 明治七年(一八七四)三月、大分県令より一般に対して発せられた郵便のすすめの中に、管内各郵便線路駅々往復定日が、小倉―別府―府内毎日往復、府内―佐伯一ケ月六度往復、別府―日田一ケ月六度往復の三線と並んで、府内―今市―岡―小野市―日向宮崎隔日往復がある。また、同年十二月、同じく県令より大分県内郵便線路改正と度数増加等について一般に示達したもののなかに、府内より日向宮崎へ毎日、三重市より長迫(清川村砂田か、それとも竹田市次倉か、米納か)へ九回、三六九の日があり、廃線の分に、岡より宇田枝を経て小野市があるのは、岡、畠返峠経由府内―宮崎の郵便線路が三重市、三国峠経由に変更されたことを物語っているようである。

 明治九年、道路を国道、県道、里道に分けたが、『明治十四年大分県統計表』に出ている道路には、第3図のような一五線があって、国県里道の区別はないが、鹿児島道は小倉道とともに国道で、他は県道であったであろう。

 鹿児島道 大分、中戸次、大寒、市場、小野市、重岡、日田熊田

 市場道  臼杵、野津市、市場、砂田、竹田

 旗返道  横川、小野市、宇田枝、竹田

の三線が本町関係で、いずれも近世の道路を継承したものである。旗返道は極難道(明治九年大分県制定人足駄賃銭は、一人一里平道四銭、中難道五銭、極難道六銭、駅馬一疋一里平道七銭、中名難道九銭、極難道十銭、とある。)を含み、また、竹田の中心性の低下によって次第に衰えたものと思われる。同じ頃の『豊後国大野郡村誌』に出ている道路は第1表のとおりである。

貨客の輸送 明治三年から始められた郵便制度は、同五年には全国に及び、従来の飛脚業者と競争した。翌六年三月、政府は郵便を政府独占事業とし、事業者の事情を諒として、これらに為替及び小包み郵便等の付帯事業を取り扱わしめた。これらが統合されて陸運元会社となった。

 明治七年九月、各駅人馬継取扱人は何駅陸運取扱人と改称されたが、同年十一月の県令布告甲九十二号の別紙に二四の駅が見え、その中に、三重市と、その周辺に岡・宇田枝・小野市・切畑・横川・重岡・長迫・野津市がある。

 同八年五月、陸運取扱所は内国通運取扱所と改称、同年九月、一般行旅送迎及物貨運輸業者は通運会社に合併のこと、の県令布告が出ている。『明治十四年大分県統計表』によると、県下では、通運分社が大分町と下毛郡船町(中津市)とにあり、通運取次所が、大野郡では大寒村・犬飼町・砂田村・小野市村・田中村・重岡村・今市村・市場町にあって、社員一名ずつ駐在した。

道路上交通運輸機関 人足・駅馬のことは前記のとおりであるが、『明治十四年大分県統計表』による大分県の道路上交通運輸機関の様子は左のとおりである。三重町地域の場合も不明である。参謀本部の明治十二年『共武政表』によると、市場村には駅馬一三だけで、車両は荷・人力・牛・馬ともに記載がない。

 明治四十三年刊、工藤猪鹿著『大分県産業案内』には「大分・野津市間約九里の国道は日向街道にして、延岡に達す。この道路は馬車によるを便とす。」とある。これら人力車・乗用馬車・荷馬車等の緩行車の漸減に対し、自転車・自動車の急増が大正後期以後目立つようになるのである。

明治・大正期の大野川通船 明治四年(一八七一)の廃藩知県で、臼杵藩による大野川通船も廃止され、船頭たちは船の払い下げをうけ、個々の回漕業を開始した。同六年、船頭たちは細長回漕組合を設置したが、同組合は株組織で、株主一九名、帆船二三であった。同年細長―吐合間の川さらえにかかり、同九年完工した。これによって、細長から小船で下し、吐合で本船に積みかえられた。また、株主間互助救済のため、細長頼母子講も出来た。

 組合発足と同時に問屋が開設され、積荷、揚荷もこれを通じて円滑に運送された。細長河岸の後背地は三重地方を主とし、遠く竹田・阿蘇地方にまで及んでいた。細長―鶴崎間の寄港地には犬飼・田原・筒井・白滝・松岡・宮川・金谷・三間松などがあり、積荷の主要なものは米・木材・竹材・木炭等であった。所要時間は、細長ー鶴崎間上り順風五時間、無風一日半、下り六時間であった。臼杵よりも大分との関係が次第に深くなり、細長渡しは県営となり、一層の繁栄をみるようになった。大正七年、別府石垣原にあった農学校が三重に移転した際、解体された校舎は船に積んで大野川を上っていった。これらを最後に、鉄道開通につれて、通船は衰微していった(土生米作、大野川通船について、大分県地方史第二十九・三十合併号 一九六三年)。

 

  五 国鉄豊肥本線

鉄道開通 明治二十三年(一八九〇)創立の豊州鉄道によって、同二十九年行橋―長州(現柳ケ浦)間が開通して、初めて鉄道は大分県内に入った。同三十四年同社は九州鉄道に合併、同四十年国に買収されたが、次第に南下、同四十二年宇佐、翌年中山香、さらに翌年日出、別府、大分まで開通した。大正三年(一九一四)犬飼軽便線が中判田まで開通、次第に延びて、同五年竹中、同六年犬飼まで開通した。

 大正六年四月、犬飼―竹田間の測量調査が行われたが、菅尾・三重・緒方経由案と、田中・上井田経由案が比較調査された。その結果は、前者は後者よりも距離は長くなり、工事費も増加するが、経済面でも効果が大きく、一般の利便も考慮すると最良であるということになった。田中経由地域では、汽車が通ると、桑野葉が煤煙で汚れて、蚕が育たなくなる、たばこの収穫が悪くなる、騒音で鶏が卵を産まなくなる、などの反対運動もあったといい、結局、三重町側の鉄道誘致運動が効を奏し、最終的には三重町経由線に決定された。(荘田啓介、豊肥線物語 大分合同新聞昭和六十年五月)

大正八年二月着工、犬飼―三重町間が開通し、菅尾駅・三重町駅が開業したのは同十年三月二十七日であった。さらに、同十一年緒方、同十二年朝地、同十三年豊後竹田、同十四年玉来まで延長された。熊本から西へ延びた宮地線豊後荻と犬飼線玉来間が昭和三年(一九二八)十二月二日開通して、熊本―大分間が全通、豊肥線と改称された。

 鉄道開通により、三重町地域の経済は臼杵町よりも大分市との結びつきが強まった。これに対し、臼杵町は野津市村とともに臼杵―三重間鉄道開設運動を起こした。路線調査の結果は、採算が取れぬということで、計画は流れてしまった。その後、臼杵町民の熱心な運動は実り、昭和十年三月一日、臼三線として臼杵―三重町間に鉄道省営バスが運行されることになった。

三重延岡間鉄道建設問題 昭和三十二年度、大分・宮崎両県では、三重延岡間鉄道建設予察調査を行なった。その報告書によると、本鉄道は三重町駅から分岐して、森林・地下両資源に富む九州山地東部を縫い、宮崎県北川上流を経て、日豊本線延岡駅に至るもので、日豊本線の隘路(急勾配、急カーブ、長トンネルなどによる輸送力削減)打開、東九州臨海工業発展に伴う日豊本線の輸送量増大、沿線地域の資源開発と地域開発の促進、大分・宮崎を結ぶ最短鉄道網(日豊本線に比べて約三七==短縮、所用時間約一時間半短縮)の四意義を有するものとして、これが実現を強く要望したのであった。

 その後も、日本鉄道建設公団下関支社で昭和三十九年七月から、国鉄スピードアップの一環として、三重―北川間を六七==で直結する短絡ルートの机上プランを練っていたが、三重町駅案は勾配の関係で取りやめ、菅尾駅―北川間七〇==案で検討することになったことが、昭和四十年九月十五日の大分合同新聞で報ぜられた。しかし、調査線、予定線と、正式に鉄道審議会で決まるまでに至っていない。

三重町駅 駅勢範囲は三重町・大野町・野津町・犬飼町・千歳村・清川村のほぼ大野郡中東部であり、駅勢内人口約五.〇万人(うち三重町一.九万人)である。最近二〇年間の乗降車人員は第3表のとおりであるが、ほぼ半減している。昭和五十九年度旅客収入は二億八六八〇.四万円、一日平均七八.六万円。昭和六十年一月の乗車人員は、普通一万九三〇九人、乗継二五人、定期二万七二四〇人、計四万六五七四人(一日平均それぞれ六二三人、一人、八七九人、一五〇二人)であった。

 三重町駅発着列車は下り一三本。うち、急行列車は四本、熊本・三角発各二本で、いずれも別府行きである。(急行火の山号の処女運転は昭和二十九年十月一日)普通列車は、熊本発大分行きが二本、ほかに一本、宮地乗継ぎで熊本・大分間が連絡されている。ほかに、豊後竹田発大分行き三本、豊後竹田発亀川行き、別府行き各一本、豊後荻発大分行き一本がある。早朝の亀川行き、豊後竹田発、豊後荻発の大分行きの三本、夕刻の豊後竹田発大分行き二本は、通勤通学列車の性格を有する。

 上りも一三本。うち急行三本、共に別府発、熊本行き二本、三角行き十一本である。普通列車は、大分発熊本行きが三本、ほかに宮地乗継ぎで大分・熊本を連絡し、亀川発、豊後竹田、宮地乗継ぎで熊本に達するものが各一本ある。また大分発豊後竹田行き三本、別府発豊後荻行き(豊後竹田―豊後荻間は休日運休)、大分発豊後荻行き各一本がある。早朝大分発豊後竹田行き一本と、夕刻大分発熊本行き、豊後竹田行き、亀川発豊後竹田行きは通勤通学列車の性格をもつ。

 以上二六本のほかに、三月九日―六月二十九日の休日と三月二十一日―四月十日運転の大分・三重町間一往復がある。

 三重町駅の乗車券発売状況、通勤通学列車利用状況は第5―7表のとおりである。

 菅尾駅は昭和五十八年十一月三十日、三重町農協の委託駅となった。

 

  六 現在の道路交通

 本町の道路網は、市街地を中心に、南北に走る国道三二六号を幹線とし、主要県道・一般県道が放射状に延びており、そして町道が国県道と集落間、また集落間相互を密に結んでいるが、国道三二六号の早期完全改修、県道の改良舗装などにより近隣町村との広域ネットを完成させると同時に、町道舗装により町内のどの地域からでも、自動車で三〇分程度で町の中心部まで行くことができることを目標として、道路整備を進めている。

国道 国道三二六号は延岡市と犬飼町を結ぶもので、全面舗装済みであるが、交通量は比較的少なく、十二時間交通量で犬飼―三重間では二〇〇〇〜五〇〇〇台、三重―宇目間では二〇〇〇台未満である(昭和五十五年)。大分県では、県の一次生活圏を、新産業都市の開発を核とした大分開発地域、テクノポリス構想地域を中心とした県北地域、定住圏モデル地域である日田・玖珠地域、大野川上中流地域総合開発を中心とした大野・竹田・直入地域、マリノポリス構想地域を中心とした県南地域の五ブロックに分け、その発展のためには、時間的距離の短縮による地域間格差の是正を目指した効率的な交通体系の確立を図ることが必要だとし、九州横断・北大・空港・北滝ロマン・大野県南・日豊・空港北幹の七基幹ルートの整備促進を重点的に図りつつある。その一つ、大野県南ルートは大分市から国道一〇号で犬飼に至り、三二六号が三重町を通過、三国峠を越え、宇目町を経て、延岡に至るもので、現在三国トンネルを通るバイパスを築造中である。

県道 県道は主要幹線としての役割を果たし、周辺の集落と連絡している。

 主要県道竹田野津線・三重弥生線・宇目清川線と、一般県道三重停車場線・三重新殿線・伏野三重線・中津留轟牧口停車場線・百枝浅瀬野津線・百枝大野線・伏野宇目線の一〇路線がある。うち伏野三重線は稲積鍾乳洞に通ずる観光道路としての改良が進められている。その現況は第  表のとおりである。大分県の主要県道の改良率は、昭和五十九年四月一日現在、六四.七l、一般県道のそれは五四.七lである。三重町のそれはそれぞれ三五.七l、四四.二lである。町内の開発や産業経済の発展に重要な役割を担い、国道を補完する補助幹線道路として、さらに一段の整備推進が要望されている。

町道 町道は主要幹線の国県道と各集落を結び、さらに集落間生活道路を含み、総数三五三線、実延長二九四,七七三b、うち改良済延長九九,五一二b、改良率三三.八b、舗装は舗装済延長二二八,一一八b、舗装率七七.四bとなっており、実質的にはほぼ整備済みであるが、未改良のまま舗装されている。

 町道を幅員別にみると、三.五b未満の道路延長は四二,五六二b、四二.八lである。多くは人車混合の利用形態をとっているため、激増する輸送需要に対応出来ず、輸送効率が低下し、さらに交通事故の原因ともなっている。道路網の整備は徐々に進められているが、十分でなく、拡幅・曲折部分の改良整備、道路と道路・鉄道の交差点の整備、駐車場の整備等の早きが望まれている。

街路 街路は都市構造の骨格を形成し、人・自動車・自転車などの円滑な交通の場となっている。また、憩いの場、防災上の公共空間でもあり、住民生活に密着した重要な施設である。都市計画法に基き、昭和二十五年七月に路線決定をし、その後見直しを行ない、現在一〇路線、総延長一七,五八〇bでこのうち一八八八〇bが改良済みとなっている。設定された都市計画街路次の通り。幅員はすべて一六bである。

 秋葉谷川線   四,三五〇b

 三重原深田線  四,八六〇b

 芦刈下赤嶺線  一,〇九〇b

 真砂大鷲線   一,三六〇b

 駅前線     一,九八〇b

 役場前線      五四〇b

 鬼塚市場線     八二〇b

 内山秋葉線   一,〇八〇b

 重政鬼塚線     八三〇b

 泉原安養寺線    六七〇b

林道 本町南部を東西に貫こうとする大規摸林道宇目小国線は、全国二五の大規摸林道の一つで、宗太郎の国道一〇号を起点に、祖母山地の広葉樹林帯を、三重町・清川村、緒方町・竹田市、荻町を経て、熊本県小国町に至る七八.二==の林道である。九二万fに及ぶ祖母・椎葉・五木山地開発の基幹林道となるが、昭和五十六年から実施に入り、同五十九年度までに、宇目・三重区間の八.二==、竹田・荻区間の九.一==、清川・緒方区間の一.一`b、計一三.四==が完成した。幅員七b、二車線舗装である。これが開通すれば、圏域内国県道などと有機的につながり、農林業などの生産活動を活発にするだけでなく、山村生活道路として、また、観光レクリエーション道路としての利用も期待されている。

 現在の林道は昭和五十五年度末二八==で、一f当たり林道密度は二.二六bで、県平均の二.六九bに比べて低く、また、本町の目標とする要開林道四八==に対して、開設済み林道率は五七.七lと、進ちょく率も低位である。

バス交通 わが国の自動車時代は第一次大戦、ついで関東大震災をきっかけに到来したのであるが、大分県では大正九年に別府市泉都自動車、大分市に高野自動車が路線バスを開業したのをはじめ、県下各地に群小バス業者が群立するに至った。同十二年頃から大分市でタクシー業を営んでいた佐藤恒彦は、群小バス業者の共倒れを恐れて、業者の統合合併がなさるべきを提唱した。昭和十年大分市から出る数路線の合併に成功し、「大分バス」としてバス経営に乗り出した。さらに、日華事変の勃発とともに、交通業者の個々経営の限界を感じとり、同十二年に「大分バス株式会社」を創立し、その後も合併、吸収、新路線獲得を進めた。同十四年、戦時態勢強化方針により、交通事業も大分県下を県北・県南・日田の三ブロックに分けて、統合することになった。県南は大分バスがその衝に当たることになり、県南二三社、二六路線の統合を実施した。これらの中に日坂早夫の佐伯―三重線があった。同十四年、この統合に含まれていなかった竹田を中心とした一八路線と、四五台の車を買収したが、その中に三重・白山両線があった。間もなく戦中戦後、木炭バス、路線休止などの苦難の時代を経て、昭和二十・三十年代には盛んに路線拡大が行なわれたが、同四十年代後半に入るとモータリゼーションの発達の影響で、路線の短縮、運行回数の減少を余儀なくされるに至った。

 バス路線の開設・廃止・運行回数は第9・10表のとおりである。市場からは、大野郡の中心地として、大野郡内清川・緒方・大野・千歳・野津各町村へ放射し、その一部は犬飼から県都大分、緒方から直入郡中心の竹田、野津から北海部地方の中心の臼杵へ延長している。また、三重町の中心地として、大白谷・代・中の茶屋・菅尾・川辺・百枝・鷲谷・入北・中小坂などへ農村向け路線を出している。三重病院線は地域住民の医療上重要である。

 ある路線バスの始発が目的地に八時半までに着き、終発バスが一七時以後に発する場合、これを通勤通学路線とし、終発バスが二〇時以後に発する場合を郊外路線と名づけている。前者に該当するのは、三重―牧口駅―緒方駅前―竹田駅前線を除く全路線である。三重が通勤通学目的地になっており、大分―犬飼―菅尾―三重線は大分をも、三重―矢田―田中線は田中をも、また、三重―牧口駅―緒方駅前―竹田駅前線は竹田をもそれぞれ通勤通学目的地としている。以上は大分バスの路線であるが、国鉄バス臼三線(三重―野津―臼杵)も一二.五往復、鷲谷線四往復あって、三重・野津・臼杵を通勤通学目的地としている。ほかに全線が生活路線の性格を有することは勿論であるが、さらに三重―稲積鍾乳洞―大白谷線と国鉄臼三線(野津―臼杵間に臼杵石仏がある)は観光路線の性格をも有する。

 

 

    第二節 通信の発達と現況

 

 通信は郵便・電信・電話等によって相互の意思を通ずることである。通信は特殊なものを除き、郵便と電気通信に大別される。郵便は手紙や葉書に書かれた意志を相手に伝達するものであり、電気通信は電信・電話・ラジオ・テレビなど、到達の早さ、到達圏の遠大さに特色をもつ。

 

 一 郵便

 明治四年(一八七一)、新式の郵便制度ができて、低額費用で誰でも自由に、全国どこでも手紙等が確実に届くようになった。三重町で郵便業務が開始されたのは同八年一月八日であった。その後の三重町の郵便局の発達変遷業務概要は次のとおりである(いずれも各局資料による)。

三重郵便局

 明治八年一月八日      郵便業務取扱開始。

  〃 十二年八月十六日   郵便為替業務取扱開始。

  〃 十三年六月十日    郵便貯金業務取扱開始。

  〃 二十年五月二十六日  三重郵便局となる。

  〃二十五年七月十日    外国郵便為替業務取扱開始。

  〃三十年三月二十一日   電信業務取扱開始。

  〃三十年五月二十一日   電信為替業務取扱開始。

 大正二年一月十一日     公衆電話通話業務開始。

  〃五年十月一日      簡易保険業務取扱開始。

  〃十年三月二十七日    鉄道開通につき受渡便開始。

 昭和十六年二月一日     通信官署等廃止三等局は特定局となる。

  〃二十四年六月一日    電信電話業務は電気通信省へ分離。

  〃二十五年十月一日    普通局昇格。

  〃二十五年十一月十六日  委託業務直轄により電気通信業務分離。

  〃二十六年五月一日    郵便局組織規定改正により分課設置。

               庶務会計課 郵便課 貯金保険課。

  〃三十一年三月二十日   新局舎落成。

  〃四十六年十一月七日   郵便日曜配達休止実施。

  〃四十八年十一月二十九日 局舎増築(郵便課、車庫)。

  〃五十五年十二月十二日  簡易保険オンラインサービス開始。

  〃五十七年二月二十八日  速達配達三度化実施。

  〃五十八年十月一日    指定局再編成(臼杵局へ)。

  〃五十八年十月十七日   為替貯金オンラインサービス開始。

  〃五十九年二月一日    郵便輸送システム改正。

  〃六十年四月一日     切手配給局再編成(配給局解除)。

  〃六十年十一月二十五日  ATM稼動開始。

  〃六十一年八月十一日   新局舎営業開始。

菅尾駅前郵便局

 昭和十一年八月一日     菅尾駅前郵便取扱所として開局。郵便・郵便貯金・郵便為替各業務開始。

  〃 十五年十二月一日   菅尾駅前郵便局(無集配三等局)となる。郵便振替・簡易保険・郵便年金各業               務開始。

  〃十六年二月一日     無集配特定局となる。

  〃   三月二十五日   電報配達取扱開始。

  〃二十二年七月六日    電話交換業務取扱開始。

  〃二十六年四月一日    電話交換業務を三重電報電話局に統合。

  〃三十七年七月二十三日  新局舎落成。

  〃五十八年十月十七日   為替貯金オンラインサービス開始。業務は三重局内に含まれている。

白山郵便局(所在地三重町伏野)

 昭和四年六月十六日     白山郵便取扱所を設置。郵便為替貯金業務取扱開始。

  〃九年三月一日      白山郵便局と改め集配事務取扱開始。

  〃十三年二月十日     電報電話業務取扱開始。

  〃四十三年四月一日    新局舎落成。

  〃五十三年十月十二日   電話自動化により交換業務廃止。

  〃五十八年十月十七日   為替貯金オンラインサービス開始。

  〃五十九年二月一日    郵便輸送システム改正。

  〃六十年三月一日     簡易保険オンラインサービス開始。

西泉簡易郵便局(所在地三重町大字西泉)

 昭和四十五年十二月一日   受託者三重町長甲斐良幸の再受託として開局郵便・為替業務開始

  〃五十七年十一月十二日  受託者神田悦子として個人受託となる保険業務開始。

  〃六十年九月九日     為替貯金オンラインサービス開始。

               (業務概要 人口約二〇〇〇人 亨便戸数約七〇〇戸)

谷川原簡易郵便局(所在地三重町小坂四〇一五)

 昭和四十五年一月十六日   谷川原簡易郵便局開局。所在地三重町小坂四〇一五番―一一。受託者代表者三               重町長芦刈幸雄 窓口事務取扱者 盛池政照、代行者 盛池智恵子

  〃四十五年二月二十日   局舎移転 三重町芦刈八六五番の三七。

  〃   年二月二十二日  受託者代表者 甲斐良幸に変更。

  〃   年四月      窓口会計機設置。

  〃四十七年一月二十二日  国民年金支払い事務取扱開始。

  〃四十八年一月四日    郵便貯金貸付事務取扱開始。

  〃五十二年十一月一日   福祉年金支払い事務取扱開始。

  〃五十六年一月      お年玉賞品交付取扱開始。

  〃五十七年二月      新型会計機取扱開始。

  〃五十七年八月三十一日  昭和四十六年六月八日局法改正、個人受託制度実施。受託団体三重町は簡易局               の個人受託移行に伴い谷川原簡易郵便局郵政窓口事務委託契約を解除。

  〃五十七年九月一日    谷川簡易郵便局は個人受託者による事務取扱開始。

  〃六十年九月九日     為替貯金オンラインサービス開始。

  〃六十一年七月一日    局法改正、簡易局受託者を簡易郵便局長と呼称するに改まる。

  〃   年八月一日    厚生年金支払い事務開始。

  〃六十二年一月一日    交通反則金収納事務取扱開始。

               業務内容は三重郵便局の業務概要に含まる。

本城簡易郵便局(所在地三重町本城四七六の一)

 昭和五十七年十一月一日   開局。

  〃六十一年十二月一日   貯金為替窓口端末機設置。取扱業務 郵便物受付、為替・貯金業務、保険・年               金業務。職員 局長伏野宗孝、代行者伏野キヌ。

久部簡易郵便局所在地(三重町大字大白谷字久部七一三―一)

 昭和四十年三月三十一日   開局。受託者三重町長芦刈幸雄。当務者首藤忠良。事務取扱者 首藤ミヤ子。               郵便・為替・郵便貯金・郵便振替事務取扱開始。

  〃四十三年十月一日    新局舎落成移転。

  〃四十六年十一月一日   個人受託(受託者首藤忠良)。

  〃四十七年        国民年金支払い業務取扱開始。

  〃五十五年九月一日    簡易保険業務取扱開始。

  〃六十一年七月一日    簡易郵便局長呼称となる。

  〃   年十一月二十五日 為替貯金オンラインサービス開始。

               亨使区内状況 人口三六四人 亨使戸数一一二戸(内小学校一、稲積総合観光               一) 白山郵便局(新局)まで六==、三重郵便局(世話局)まで一六==。

 

  二 電報・電話

 明治二年(一八六九)東京・横浜間に電信線が架設され、両地に電信機役所を設け、同年十二月から電報の取り扱いが始まった。大分県では、同十年十月、中津・大分に電信分局が開局、小倉・大分間の電報取り扱いが始まった。三重郵便電信局が電信事務を開始したのはようやく同三十年三月二十一日のことであった。

 我が国の電話交換は東京・横浜で明治二十三年(一八九〇)に開始された。大分県内のそれは同四十二年、大分町で開通したのが最初であったが、三重町では大正四年(一九一五)に始まった。戦後数年を経て、電話は急速に普及していき、昭和六十年度末において、三重電報局管内における住宅用加入電話の比率は七六.七lに達している。この間、昭和四十三年九月二十二日に三重電報電話局管内は自動化し、全国即時網に入った。

 三重電報電話局の沿革は次のとおり。また、同局の加入電話、局別加入数、公衆電話及び電報通数は第13表、電話加入者数の推移は第14表のとおりである。

 明治三十年三月二十一日   三重郵便電信局電信事務開始。

 〃 三十六年四月一日    三重郵便局に改称。

 大正二年一月十一日     電信電話事務開始。

 〃 四年三月二十六日    電話業務開始。

 昭和二十五年十一月十一日  三重電報電話局開始。

 〃 二十七年十一月一日   局長制実施、業務課・施設課を置く。

 〃 三十一年十二月十三日  局舎新築。

 〃 三十三年二月十七日   庶務課を設置。

 〃 三十九年十一月十四日  大分電報局電報中継交換の加入局となる。

 〃 四十二年二月四日    業務課を業務課と電話運用課に分課。

 〃 四十二年八月十四日   局舎増築(三階建)。

 〃 四十三年九月二十二日  自動改式C四〇〇形全国即時網編入、施設課を機械課と線路宅内課に分課。

 〃 四十四年七月十一日   野津電話交換局開局(C四六〇形)。

 〃 四十七年一月二十一日  大野電話交換局開局(C四六〇形)。

 〃 四十八年十一月一日   局舎増築(四階建)。

 〃 四十九年十月十六日   緒方(C四六〇)小富士(C一四形)電話交換局開局。

 〃 五十年七月一日     電報再編、配達局移行、事務課を営業課に改称。

 〃 五十一年十月二十七日  千歳電課交換局開局(C四六〇形)。

 〃 五十二年三月二十三日  清川電話交換局開局(C四六〇形)。

 〃 五十二年七月二十七日  上緒方(C二三形)、長谷川(C一四形)電話交換局、白山電話交換局開局

               (C一四形)。

 〃 五十四年三月一日    料金業務の電算化。

 〃 五十四年九月十七日   電報配達業務の第三者委託。

 〃 五十五年十月二日    端局(野津)初の二ルート化。

 〃 五十七年一月二十日   土師分局開始(SLI)。三重局管内地集一般化完了。

 〃 五十七年四月二十二日  千歳二ルート化完了。

 〃 五十七年五月二十七日  大野二ルート化完了。

 〃 五十九年十一月二十日  大分―熊本(帯山)間にPー四〇〇メガ光ファイバールート開通に伴い、大野               千歳局に端局装置(中間中継装置)を設置。

 〃 六十年四月一日     日本電信電話株式会社(NTT)発足。

 〃 六十年九月二十六日   地域指定着信課金サービス開始。

 〃 六十年十二月二十日   三重局C四〇〇形交換機四〇〇端子増設。

 〃 六十一年二月二十日   三重局ファクシミリ通信調編入。

 

  三 放送

 我が国の放送は大正十四年(一九二五)に始まった。大分県内では、昭和十六年(一九四一)に日本放送協会(NHK)大分放送局が開局した。続いて同二十八年、ラジオ大分(大分放送)が開局した。テレビ放送はNHK大分放送局が同三十四年八月、大分放送が同年十月開始した。同四十五年四月にはテレビ大分も開局した。カラー放送は、NHK大分放送局が昭和三十九年十月に一部これを開始し、同四十六年から全時間カラー化した。大分放送も同四十四年からカラー化、同四十六年から全番組カラー化、テレビ大分も同四十七年全面カラー化された。

 三重町におけるテレビ放送受信契約数は、NHK大分放送局開局の翌年三月三十一日(以下も同月同日現在)四六四となり、普及率は一.二lであった(大分県一五.七l)。これに対してラジオ放送受信契約数は昭和三十年二三三八で、普及率六〇.五l(大分県六三.八l)であったが、同三十五年には三〇一一、同四十年には三六七に減じた。テレビ放送受信契約数は急速に伸びて、同四十年には普及率八二.二lとなった。さらに、同六十年には五〇七五(うちカラー契約数四九一八、普及契約数三五七)、普及率八九.七l(大分県八五.八l)となっている。

 昭和四十一年四月、NHKとOBSは佩楯山三重テレビ中継所を建設、同四十五年にはTOSも建設、さらに四共同受信施設が第16表にみるように出来て、難視聴区域は解消した。

 

 

  第四章 集落

 

    第一節 集落の変遷

 

  一 先史時代の集落

旧石器時代の集落 大分県下には、これまで二〇〇に近い旧石器時代の遺跡が確認されており、大野川中流域にその多くが集中し、その河岸段丘や開析台地などが当時の人々の生活舞台をなしていたことを示している。後期旧石器時代は約三万〜一.三万年前のナイフ形石器を主体とする文化と、約一.三万年〜一万年前の細石刃を主体とする文化に分けられるが、ナイフ形石器を主体とする遺跡は中流域に多く、細石刃を主体とする遺跡は全流域に広く分布している。

 前者の代表的遺跡の一つとして本町西泉の百枝小学校がある。当遺跡は標高一〇二bの大野川右岸第三段丘上縁辺部(大野川河床との比高約四二b)にあり、ナイフ形石器などのほか、炉跡と考えられる集石遺構も発見されている。後者の代表的遺跡の一つとして本町川辺のかみしたた遺跡がある。当遺跡も大野川の川辺ダム下流約一〇〇bの右岸段丘上にあり、標高約九三b、大野川河床との比高約一七bである。本遺跡の主体をなす細石器文化の時期はおよそ一万三〇〇〇年前と考えられている。当時は定住生活ではなく、動物を追い、植物性食料を採集する移動生活であった。

縄文時代の集落 約一万年前、縄文時代に入り、土器と石鏃が出現し、調理と労働に大革命がもたらされた。しかし採集生活による集落に変わりはなかった。

 早期の遺跡は標高一〇〇〜二〇〇bの台地に集中しているが、住居跡の報告はない。大野川と三重川との間に挟まれた三重原遺跡は早期の土器・石鏃多数を出し、早期の一大集落と考えられている。

 前期の遺跡は早期に比べて減少し、阿蘇の火山灰の影響か、生活は洞穴や岩陰に異動したようであるが、本町内ではこのような遺跡はまだ発見されていない。

 中期の遺跡は大分県下でも少ないが、本町でもわずかに惣田遺跡が知られているにすぎない。

 後期は再び遺跡数は増加するのであるが惣田遺跡では円形と楕円形のプランの二住居跡が確認され、円形の竪穴式住居跡の平面中央部には地床炉があり、床面の一端に出入施設と考えられる一段高い部分がある。

 晩期になると、大野川中流域では遺跡が急に台地上に集まって来るのであるが、緒方町大石遺跡では扁平打製石斧や石包丁形・石鎌形石器を出し、それぞれ耕作具、収穫具であり、アワ・ヒエなど栽培する原始農耕が行われたのではないかと考えられている。本町でも秋葉(きょうづかはら)遺跡は三重川の二支流に挟まれた舌状地帯で、弥生式の重要な遺跡であるが、その一部に晩期土器が存在する。

弥生式の集落 約二三〇〇年前、大陸から新文化の影響を受け始めて、弥生時代に入った。集落は農耕生産による共同体の発達によるもので、採集生活による縄文時代とは集落の構造が著しく変化したことは確かである。前期・中期の遺跡数はきわめて少ないが、川辺地帯では磨製石器が大量に発見されている。後期に入ると、遺跡数は増加、三重原・小坂・秋葉などに後期遺物の散布地がある。小坂地区には後期集落と組み合わせになる箱式棺が共存し、秋葉遺跡は有望な集落地帯で銅戈と考えられる銅器鎔范が発見され、鉄滓出土地とあわせて、製銅・製鉄遺跡の存在が考えられている。

 秋葉遺跡の東、低湿な門田遺跡は三重川と秋葉川の間、標高一三七bの氾濫原に位置し、礫層の下位に没した集落である。代三五山麓の大野川河岸段丘上の標高約一〇〇bにある向野遺跡は、代三五山麓一帯の湿田耕作を行ったものと考えられている。

古墳時代の集落 三世紀後半から七世紀にかけて全国的に古墳が造営されるが、五世紀後半を境に前期と後期に分かれる。前期は畿内政権との同質関係を示す前方後円墳が大野川上中流域にも多く、当町にも三重川沖積地の周辺部に前方後円墳が多く、小坂の大塚、赤嶺の道ノ上、内田の重政原、上赤嶺の龍ケ鼻の各前方後円墳が代表的なものである。ほかに既に崩壊しているものに下赤嶺の塚原古墳・内田古墳群・田原古墳がある。

 後期は古墳の政治的性格は薄くなり、単なる墓の性格が強くなる。横穴墳の出現がそれで、本町には上赤嶺の龍ケ鼻、宮尾の敷手の各横穴古墳群や、浅瀬の宇対瀬、大白谷の大白谷、内田の奥内田、百枝の百枝各横穴古墳が知られている。

 

  二 古代の集落

 『豊後国風土記』に「大野郡、郷四所、駅二所」とある。『和名抄』には田口郷、大野郷、緒方郷、三重郷があげられているので風土記の郷四所もこれと同じと考えてよく、三重郷は奈良期から存在したとみてよかろう。

 三重郷の範囲は今の野津市・宇目町の地域も含んでいたようである。また、十一里とあるから、一郷三里と考えてよく、五十戸一里の原則であったから、原則通りとすれば、三重郷の戸数は一五〇戸となる。なお、一戸二五人とした場合、三重郷は人口一二五〇人の集落となる。

 大野郡の郡家の位置は不明であるが、市場の字名に郡田、郡田脇などがあり、郡家との関係が考えられる。

 三重駅については、『延喜式』に駅馬五疋とあるほか、詳細不明であるが、原則通りとすれば、駅田二町、駅戸約四〇戸、駅馬五疋のための厩舎・倉庫などからなる駅集落が考えられる。また、大野郡の伝馬五疋とあるが大野郡の郡家所在地が三重町市場であったとすれば、その集落規模はほとんど倍になったであろう。

 

  三 中世の集落

 弘安八年(一二八五)の『豊後国図田帳』に「国領三重郷。百八十町。地頭新田陸奥守殿。国領野津院。六十町。地頭野津五郎頼宗法名阿一。」と見える。律令制の三重郷が三重郷と野津院とに分かれたらしく、面積関係は三対一で、いずれも国衙領であった。

 日羅建立と伝えられる内山寺(蓮城寺)は信仰中心として付近に三重の一大集落の存在あってのことであったろう。弘安3年大友頼泰が内山蓮城寺の造営に関して、三重郷人々中に発した下知状に、「(前略)村々令合力、人夫以下事、任覚知申請、可致其沙汰之由、(後略)」とあるのはこのことを示している。

 南北朝時代の年号をもつ金石文が市場・本城・赤嶺・秋葉・内田・西泉・松尾・内山・久田など、市場を中心に存することは、当時の集落の分布をある程度示しているとみてよいであろう。

 慶長十一年(一六〇六)の記録によると、三重郷は上・中・下・門田・下畑の五村から構成されていた。各村の集落は次のとおりである。

 

 上村………玉田・山田・山中・深田・田町・赤嶺・小津留・久原・中尾

 中村………百枝・川辺・西原・法泉庵・田原・向野

 下村………宮尾・深野・浅水・森迫・徳瀬・又井・菅生・芦刈・宇対瀬

 門田村……市・肝煎・羽飛・内山・久知良・鬼塚・内田・鷲谷・松尾・小坂

 下畑村……入北・細枝・竹脇・田中・大河内・石の上・山の口・とち原・つる・折立て・谷ケ平・出葉・小原      ・奥畑・白岩

 

 白山地区は緒方荘宇田枝名に属していた。これは文亀二年(一五〇一)の大白谷寺屋敷六地蔵等の銘文などによって知られる。

 『大友興廃記』にも、宗麟のころ、三重市のある市日に大げんかのあったことが記され、十六世紀後半の三重市が市日をきめた日切市であり、大いに賑わったことを語っている。

 

  四 近世の集落

 徳川幕府のもとで、三重・入北地区は臼杵領、白山・高寺地区は岡領、片内地区は佐伯領となった。元禄十四年(一七〇一)の臼杵・岡両藩による上納見稲簿による村名と石高は次のとおりである。

 

 臼杵領

  小坂組 一一ケ村 山中一二三石 松谷三〇二石 内山三六石 久知良二八一石 内田三一四石 上鷲谷・           下鷲谷 三二四石 松尾・高屋・広瀬三二九石 小坂一四六石

  市場組  六ケ村 市場三七三石 肝煎・鬼塚一一七石 羽飛二二六石 上赤・下赤五二〇石

  菅生組  三ケ村 菅生三八四石 芦刈二八一石 又井一七五石

  宮尾組  五ケ村 宮尾三三一石 森迫二九八石 浅水三四八石 宇対瀬二〇二石 深野二五一石 徳瀬

  百枝組  七ケ村 川辺三四一石 向野二七四石 西原二四三石 法泉庵七五石 百枝三一八石 牟礼二四           八石 田原三八五石

  下玉田組 七ケ村 中尾一七九石 久原一一二石 深田三五四石(上玉田組深田を含む) 山田四一六石            (上玉田組山方を含む)玉田・中玉田・下玉田五二二石 

  上玉田組 七ケ村 山方・田町二二八石 小津留一〇五石 深田・山田 中玉田・下玉田

       注 深田、山田、中玉田、下玉田は、各二分されて、二つの大庄屋に所管された。その各の上納         石数の記録がない。下玉田組の深田、山田、中下玉田の石数の多いのは、各二村分であろう。

  西畑組 入北一七一石

 

 岡領

  伏野組  三重町側三ケ村 中津無礼一〇二石 大牟礼二八石 高寺二三二石

  中津留組     七ケ村 中津留六二石 押川五九石 内平五八石 久部五二石 大白谷六三石 代・板               屋一〇六石 右の外 山出八〇石 長尾五八石 松ケ平一八石

  小野市組 三重町側一ケ村 奥畑一八一石

 

 佐伯領

  山部組 片内○石

 

 文政六年(一八二三)の臼杵藩領域の状況は次のとおりである。

 

  組名    石高         人口  支配区域

  小坂  一九七九石六三一〇勺 一八五九 山中、松谷、内山、久知良、内田、上鷲、下鷲、松尾、高屋、                      広瀬

  菅生  一〇八五石八一四五勺  七〇一 菅生、芦刈、又井

  上玉田 一四一八石六九四五勺  八三〇 山方、田町、小津留(深田、山田、中玉田、下玉田の一部)

  下玉田 一〇九四石九九三五勺  五七五 玉田、中尾、久原、(深田、山田、中玉田、下玉田の一部)

  百枝  一九二〇石三七一四勺 一七四五 川辺、向野、西原、法泉庵、百枝、牟礼、田原

  宮尾  一二九七石五〇〇〇勺 一〇二二 宮尾、森迫、浅水、宇対瀬、深野

  市場  一五六八石九五三三勺 一二二九 市場、肝煎、羽飛、鬼塚、上赤、下赤

  計   一〇三六五石六斗   八〇〇一 四六村

 

 岡領の関係地域の状況は次のとおりである。

 

  (御物成帳破損のため調査年不明)

  組名   石高     人口   支配地域

  伏野    一三八石      中津無礼、大無礼、高寺

  中津留 五八五石三斗      中津留、押川、内平、久部、大白谷、板屋、代

  小野市  八五石一斗      奥畑

  西畑   一七一石余      入北(元禄)四年調査

  山部     高なし      片内

        (三重町誌沿革編による)

 

 右記両調査には一二二年の隔たりがあるが、前者の宮尾組徳瀬と中津留組の山出・長尾・松ケ平が後者には見えないほか、村に変更はない。

 三重ん市と愛称される市場町は、今の市場一〜四区の一帯であって、市は二・七の当り日に開かれる六斎市であった。現町域はもちろん、府内・戸次・犬飼方面、臼杵・野津方面、佐伯・宇目方面、竹田・牧口方面からも貨客が集まり、府内・臼杵・佐伯・岡各藩の藩礼が使用され、両替屋も生まれ、海産物、農具呉服などの問屋・茶店・旅籠屋・馬宿などが軒を並べるにぎやかな市場町となった。御用油メ・御用商・問屋・両替・金融などの油屋、海産物問屋・両替・金融などの後藤喜十郎、御用油メなどの三玉屋、米穀問屋で木炭・椎茸・木材なども扱った米屋などは富商として知られた。

 

  五 近代の集落

 明治五年(一八七二)の壬申戸籍による村とそれぞれの戸数・職業構成は第1表のとおりである。市場村が二二村中の最大集落で、職業は農業が四八・九lにすぎず、商業四一・〇l、工業五・六lを占めるなど、中心集落的性格を示しているのが注目される。そのほかは全村農業が九〇lをこえている。

 明治五年三月、豊後大分県で大・小区制が実施され、海部郡は第四大区、大野郡は第五大区、直入郡は第六大区となった。各区の関係村名は次のとおりである。

 

 第五大区

  四小区 入北村ほか一九村

  五小区 菅生村、芦刈村、森迫村、又井村、浅瀬村、宇対瀬村、宮尾村、深野村、牟礼村、百枝村、田原村、      西原村、法泉庵村、川辺村

  六小区 上小坂村、中小坂村、下小坂村、広瀬村、松尾村、高屋村、内田村、久知良村、内山村、松谷村、      山中村、上鷲谷村、下鷲谷村

  七小区 上赤嶺村、下赤嶺村、市場村、肝煎村、鬼塚村、羽飛村、深田村、高寺村、中玉田村、下玉田村、      山方村、山田村、中尾村、久原村、小津留村、田町村

  十小区 久部村、大白谷村、押川村、中津留村、奥畑村、板屋村、代村、中山村、近郷村

 十七小区 向野村外十一村

 

 第四大区 山部村、片内村、樫ノ峯村、腰越村

 

 明治八年三月、町村分合が行われ、現在の大字の基礎となる村が成立した。( )内は旧村名。

 

 第五大区

  四小区 西畑村(入北外八村)

  五小区 菅生村 芦刈村 井迫村(森迫、又井) 浅瀬村(浅瀬、宇対瀬) 宮野村(宮尾、深野) 百枝      村(牟礼、百枝) 田原村 西泉村(西原、法泉庵) 川辺村

  六小区 小坂村(上小坂村、中小坂村、下小坂村) 松尾村(広瀬、松尾、高屋) 内田村(内田、久知良)      内山村(内山、松谷) 鷲谷村(上鷲谷、下鷲谷)

  七小区 赤嶺村(上赤嶺、下赤嶺) 市場村 秋葉村(肝煎、鬼塚、羽飛) 本城村(深田、高寺) 玉田      村(中玉田、下玉田) 久田村(山方、山田、中尾、久原) 小田村(小津留、田町)

  十小区 大白谷村(中山、近郷、大白谷) 中津留村(押川、中津留) 奥畑村(奥畑、板屋、代)

 十七小区 向野村

 

 同十一年の郡区町村編成法の実施により、第五大区は大野郡となり、郡役所が市場村に置かれた。

 同十五年五月起筆、同十八年六月脱稿の『豊後国大野郡村誌』によると、この項の村々の戸数・人口・民業などは第2表のとおりである。これでみると、戸数は芦刈村が最も多く、市場村が僅差でこれに次ぐが、人口では市場村が最も多い。市場村では、戸数で三〇.六l、人口で二〇.〇l(男だけでは二五.四l)が外寄留である。これらは郡役所設置などによるものであろう。市場村はまた民業においては、商業人口が農業人口を上回り、それは現三重町地域の全商業人口の約八〇lを占める。工業人口が多いのも特色である。物産としては、各村にほぼ共通しているものに、米・麦・粟・蕎麦・甘藷・大豆・菜種・煙草・麻などの食用・工芸用農作物がある。山間部では、松尾・小田などの楮皮、鷲谷・松尾などの椎茸・蒟蒻、松尾・内山などの紙がある。

 明治十一年の郡区町村編成法による町村制は、所轄区域の狭小性、戸長の選任難などの不便から、同十七年八月三十日、次のように新町村役場が設置されることになった。

 

 新町村役場 統合町村名

  堂野間村 井上村・因尾村・堂野間村・山部村・上津川村

  西畑村  西畑村・東谷村

  小坂村  芦刈村・小坂村・松尾村・鷲谷村

  菅生村  菅生村・井迫村・浅瀬村・宮野村

  市場村  内田村・内山村・赤嶺村・市場村・秋葉村

  百枝村  百枝村・川辺村・上田原村・西原村・向野村

  玉田村  玉田村・小田村・本城村・久田村

  伏野村  伏野村・奥畑村・中津留村・大白谷村

 

 明治二十二年の市町村制では次のようになった。( )内は町村役場の位置。

 

 新町村名     区域

 因尾村(堂野間) 上津川村・山部村・堂野間村・因尾村・井ノ上村

 南野津村(吉田) 西畑・東谷村・秋山村・吉田村・前川内村

 菅尾村(菅生)  菅生村・井迫村・浅瀬村・宮野村

 百枝村(百枝)  百枝村・川辺村・上田原村・西泉村・向野村

 三重村(市場)  小坂村・芦刈村・松尾村・鷲谷村・市場村・内田村・内山村・赤嶺村・秋葉村

 新田村(玉田)  玉田村・小田村・本城村・久田村 

 白山村(伏野)  伏野村・奥畑村・中津留村・大白谷村

 明治三十五年四月十日、三重村は町制施行。

 

 

    第二節 中心集落と農業集落

 

  一 中心集落

 三重町の中心集落は、市場とこれに隣接する赤嶺・秋葉・内田・小坂・芦刈・玉田などの一部である。市場は前記のように古代から大野郡地方の中心集落と考えられ、市場町として発展した集落で、今日も三重町及び大野郡の中心集落としての多くのサービス機能が集積して繁栄し、近年はその周辺の集落の一部にも拡大している。

 国鉄豊肥本線三重町駅前から南に向かう駅前通りと本町通りを中心とする商店街は三重町及び大野郡の地域をほぼ後背地とし、三重郵便局・三重町農協・大分銀行三重支店などを含んでいる。東部を走る国道三二六号沿いには、三重町役場・大分県三重事務所・三重区検察庁・三重簡易裁判所・三重税務署・労働基準監督署・三重公共職業安定所・三重電報電話局など、町の中枢的、あるいは大野郡を管轄する県や国の諸公共機関が並んでいる。

 中心集落的性格は近年市場周辺にも拡大した。すなわち、住宅地は肝煎・久知良・内田・赤嶺・小坂・芦刈に拡大し、これに関連して商業地も肝煎・久知良・内田・上小坂・上赤嶺などにできた。さらに小工業団地が上赤嶺・芦刈・下玉田に出現した。

 そのほか、菅尾などに小中心集落をみることができる。

 

  二 農業集落

 一九七〇・一九七五・一九八〇各年の『世界農林業センサス農業集落カード集落要覧』によって、最近の農業集落の動向を見ると、第4表のとおりである。

 総世帯数の一般的減少傾向に対して、住宅、商店の増加や工業団地の造成によって、市場とその周辺の肝煎・久知良・内田・赤嶺・芦刈・上小坂・三重原・百枝などでは増加傾向を示している。

 総農家数と農家人口の減少は全町的で、例外をみない程である。農業の専兼業の変化は、専業の減、兼業の増は全国的傾向であるが、当町でも同じであり、特に第二種兼業の急増は顕著である。

 耕地面積の減少も著しいが、水田率は概して高まっている。家畜飼育も飼育戸数・飼養頭羽数共に減少傾向である。乳用牛の飼育は点在的であるが、肉用牛・豚・にわとりの飼育は全町的である。

 次に『一九七〇年世界農林業センサス 農業集落カード 集落要覧』によって、農業集落の基礎類型、農家率、人口動態、集落形態、標高、便益性、都市圏域などについてみると、第5表のとおりである。

基礎類型 まず地形的立地によって、集落を平地村と山地村、及び漁村・開墾村の四種類に分類すれば、白山の全集落と旧因尾村の片内が山地村に属するのを除けば、全集落が平地村である。

 田畑の分布によって、水田集落、田畑集落、畑地集落、山村集落に分類すると、水田集落は三重の内山、百枝の牟礼・法泉庵・西原・白山の白谷の五集落にすぎず、田畑集落も三重の市場・肝煎一区・羽飛・鬼塚・久知良・内田・下赤嶺・上赤嶺一区・同二区・菅尾の浅水、百枝の百枝、新田の中玉田・久原・深田の一四が平坦部に広い分布をみせる。畑地集落は三重の肝煎二区・芦刈・菅尾の又井の三集落である。山村集落は残りの全部で、三重に一一、菅尾に五、百枝に三、新田に七、白山に八、それに南野津の入北、因尾の片内の三六を数える。河岸段丘面・火山灰台地・山地の各広狭性を反映している。

 農業的兼業的集落は、三重の市場・肝煎二区・内山・上赤嶺一区・同二区の五が兼業的集落で、残り全部が農業的集落である。

 農業規模は、大は三重の高屋のみで、中が三八、小が一九で、分布的相違はあまりみられないが、中は三重の山間部、菅尾・百枝・新田の各地区に多い。

 集落の規模は、九戸以下は白山の内平のみ。一〇〜二四戸は三重の松谷・広瀬・高屋、新田の中尾・小津留・白山の大無礼・板屋・代、旧因尾村の片内の九。二五〜四九戸が三重の鬼塚・内山・山中・金田・中小坂・上小坂・下鷲谷・三重原、菅尾の又井・森迫・浅水・深野、百枝の牟礼・法泉庵・西原、新田の山方・山田・久原・田町・高寺、白山の中津無礼・久部・白谷・奥畑、南野津の入北の二五。五〇〜九九戸が三重の肝煎一区・同二区・羽飛・芦刈・下小坂・松尾、菅尾の浅水・宇対瀬・宮尾、百枝の上田原、新田の下玉田・中玉田・深田、白山の中津留の一四。一〇〇〜一四九戸が菅尾の菅生、百枝の川辺・向野の三。一五〇戸以上は三重の市場・久知良・内田・下小坂・上赤嶺一区・同二区、百枝の百枝の七。

 このように、集落の規模は、二五〜四九戸が二五集落で四二.四l、五〇〜九九戸が一四集落で二三.七lと、中位のものが最も多く、一五〇戸以上の大集落は中心部の市場とその周辺に集中している。

 農家率の低いのは市場とその周辺(上赤嶺一区・同二区・肝煎一区・同二区・久知良・内田)の商業区・工業区・住宅を含む地域であり、他方、その高いのは、三重の松谷・山中・下小坂・中小坂・高屋・下鷲谷、菅尾の森迫・宇対瀬・宮尾、百枝の上田原・向野、新田の山方・中尾・小津留、白山の内平・久部・板屋・代、南野津の入北、旧因尾村の片内と、広範囲にわたって多い。

人口動態 一九六〇〜一九七〇年の人口動態をみると、全集落が減少をみせ、五九集落中、一八集落が〇〜二五lの減、四一集落が二五〜五〇lの減少を示しているが、両者の地域的相違は顕著でない。

集落形態 集落形態を@散在(山場)、A散居(平場)、B集居、C密居の四形態に分類すると、@散在(山場)は三重の下小坂、菅尾の浅水・宇対瀬、百枝の牟礼、新田の久原・高寺・深田、白山の中津無礼・内平・大無礼・板屋・代・奥畑、南野津の入北にみられるが、地形上、耕地の分散に基くものと思われる。Aの散居(平場)は皆無である。Cの密居は三重の市場と上赤嶺一区の三重町駅付近の中心集落だけに見られる。その他の集落は全部Bの集居の形態をとっている。

標高 居住地域の標高は、三重の松谷・山中と白山の板屋・代・奥畑は三〇〇〜四〇〇b、旧因尾村の片内が四〇〇〜五〇〇bにあるほかは、全集落が三〇〇b未満である。

便益性 便益性は交通・通信・公共施設の整備が進み、九便益指標中、七あるいは六指標に該当するものがほとんどであり、三重の山中・高屋、菅尾の森迫、白山の久部・白谷、南野津の入北、旧因尾村の片内が五指標、白山の板屋・奥畑が四指標に該当する。

 都市圏域DID大分市への時間距離は、菅尾地区と百枝の上田原の三〇分〜一時間、白山の白谷が二時間以上であるが、残り全集落は一〜二時間である。ただし、白山の大無礼・板屋・代・奥畑はDIDにほとんど無関係である。

 

 参考文献

  大分県総務課編『大分県史 先史編1』(大分県昭和五十八年)

  賀川光夫『大分県の考古学』(吉川弘文館昭和四十六年)

  『三重町誌 沿革編』(三重町役場昭和四十一年)

  『大分県上下田遺跡 第二次発掘調査報告書』(別府大学付属博物館 一九八三)

  『百枝遺跡 C地区』(三重町教育委員会一九八五)

 

 

  第五章 人口

 

    第一節 人口の推移

 

  一 明治中期―大正中期の人口

 明治初期の『豊後国大野郡村誌』にみられる現三重町域の人口は第1表のとおりであるが、総計約一万五〇〇〇人で、昭和五十五年に比べると、約八五〇〇人少ない。

 明治中期―大正中期、すなわち、明治二十四年(一八九一)から大正七年(一九一八)まで、二七年間の人口推移は第2表にみるとおりで、菅尾村二〇.一l、百枝村一〇.二l、三重村(明治三十五年町制)三〇.九l、新田村一.三lの増で、大野郡の中心の町としての三重村(町)の急増が顕著である。この間の大分県の人口増加率一六.〇lに比べると百枝村と新田村はかなり低い増加率である。

 現在の町の境界に対応させるため、調査時以後の廃置分合、境界変更等によって生じた人口の異動を比例計算により加減して組替えた第3表によれば、明治三十六年から大正七年まで、一五年間における人口推移は六.六lの減である。大分県はこの間に七.七lの増である。このような低い人口増加率は、資本主義勃興に伴う生産・流通の活発化がさほどでなかった表れであろう。

 

  二 大正後期―第二次大戦期の人口

 大正九年(一九一〇)以後五年ごとに実施されている国勢調査による人口の推移は第2表のとおりである。大正九年の一万六一六二人からわずかに増加し、昭和十年(一九三五)には一万七八三四人となり、一五年間に一六七二人、一〇.三lの増であるが、大分県の一三.一l増に比べればわずかに低い増加率である。地域別にみると、菅尾村二.五l減、百枝村一〇.八l、三重町一七.三l、新田村〇.三l各増で、三重町の顕著な増のほかは停滞的である。

 大正七年における現住人口が本籍人口を下回る逆転現象が、それ以前よりもさらに顕著となってきたのは(第3表)、第一次大戦の好景気時代における出稼ぎなどによる人口流出を示すのであろう。

 大正九年から微増、昭和十年には一万七八三四人となったが、同十五年には四四人を減じている。この減少傾向は同二十年の終戦まで続いたものと思われる。これらは出征、大陸進出、勤労動員などによる転出が原因であろう。

 

  三 第二次大戦後の人口

 昭和二十五年には大正九年来最多の二万三七四三人となり、三〇年間に七五八一人、四六.九lの急増ぶりを示した。これは終戦による復員者・引揚者・離都向村者の流入やベビーブームによるところが大きいと思われる(第4表)。

 昭和三十年、早くも減少に向かい、同年以降は、日本経済の高度成長のもと、減少を続け、同五十年には一万八七三一人となった。同二十五年から二五年間に五〇一二人、二一.一lも減少している(大分県は同三十年から三.八l減)。同三十五年から同四十年の減少は最も顕著で、その後しだいに減少傾向は鈍化している。近年の人口動態は第5表のとおりである。

 昭和五十五年の一万九〇〇一人は大分県人口の一.五lを占め、県下四七町村中第三位にある(玖珠町二万二七七五人、日出町二万一四六四人)。

 

 

 

    第二節 人口分布と人口密度

 

  一 人口分布

 人口分布は、第6表・第1図でみるとおりである。本町域は南北に細長い。南部から中部は傾山から佩楯山にかけての山地で、きわめて人口希薄、中津無礼川や内山川・松尾川上中流の谷底平野や、山頂平坦面に人口分布を見るのみで、広い無人地区を含んでいる。人口の大部分は、本町域の三分の一を占める北部の、大野川中流右岸と支流三重川沿岸の沖積低地、およびこれら周辺の火山灰におおわれた阿蘇溶結凝灰岩台地に集中する。

 

  二 人口密度

 本町の昭和五十五年の人口密度は一平方==当たり一一七.六人、大分県の一九四.一人に比べて著しく小であるが、同郡部八〇.一人に比べるとかなり高い。大分県下四七町村では一五番目にある。このような低密度地域をなすのは、町域の主として南部に広い九州山地の一部を含んでいるからであろう。

 

 

 

    第三節 人口構成

 

  一 男女別人口構成

 本町人口の性比は、昭和四十年には女一〇〇につき男九〇.〇であつたが(大分県八九.一)、同四十五年八九.七(大分県八七.五)同五十年九一.二(大分県八九.一)同五十五年九一.九(大分県九〇.三)と、漸増傾向にあるが、男子人口比率は県平均に比べてやや高く、その増減傾向もほぼ同じである。

 十四歳以下の年少人口では男子人口が一一〇.一でわずかに多いが、十五―六十四歳の生産年齢人口では男子人口は九一.三となり、かなり少ないのは、県外流出・戦死などによるものと考えられる。六十五歳以上の老年人口では、男子人口は七一.一で、女子の長生きや戦争の影響であろう。

 

  二 年齢別人口

 昭和五十五年の人口ピラミッド(第2図)は釣鐘型をなす。

 十五歳未満の年少人口は二〇.五lで、大分県の二三.六l、全国の二三.六lに比べて少し低い。一五年前の昭和四十年の二八.七lに比べると大きな低下であるが、出生率の低下によるもので、これは労働力の低下、人口構成の高齢化、女性減少による人口再生産力低下などをもたらすものとして注目すべき現象である。

 十五―六十四歳の生産年齢人口は五九.二lで大分県の六五.八lに比べるとやや低く、全国の六七.四lに比べるとかなり低い。とくにもっとも人口異動率の高い十五―二十四歳の若年人口は、一二.四lで、大分県の一二.五l、全国平均の一三.七lに比べてやや低い。就職や進学に不利な条件による流出が原因していると思われる。二十五―三十四歳も一三.〇lと少ない(大分県一八.〇l、全国一七.〇l)が、同様の理由によるものであろう。なお、二十―三十四歳女子は出産適齢期人口であり、これが少ないことは年少人口の減少とも密接な関係があるはずである。また、三十五―三十九歳の男子人口が少ないのは、これらの人々が成人のとき、すなわち、一五―二五年前、人口流出がピークに達したときに当たったからであろう。四十五―五十四歳が男女ともに多いのは、戦後間もないころ、まだ若者の流出が少なく、大多数の者が町内に留ったからであろう。五十五―六十四歳男子人口の減少は第二次世界大戦戦死者によるものであろう。

 

  三 産業別人口

 昭和五年の産業別人口(菅尾村・百枝村・三重町・新田村の合計)をみると、農業が七一.一lを占め、商業の一一.一l、工業の八.九lがこれに次ぐ。二〇年後の同二十五年には、農林業は六六.六lに低下し、建設業・製造業一三.六l、卸売り業・小売り業七.一l、サービス業六.二lがこれに次いでおり、第二・三次産業の勃興がみられる。その後も第一次産業の地位は低下を続け同五十五年には第三次産業五〇.六l、第一次産業一五.五l、第二次産業二三.八lと、順位が入れ替わっている。なお、大分県は第一次産業一九.九l、第二次産業二五.六l、第三次産業五四.五l、全国は第三次産業五五.五l、第二次産業三三.六l、第一次産業一〇.九lである。(第8表)

 

 

 

    第四節 人口移動

 

 大分県編『大分県の人口移動 昭和四十年―六十年』(昭和六十一年三月)によって、昭和六十年の人口移動の実態を概観しよう。転出入者の全人口に対する比率、移動指数は一一.〇lで、転出者が転入者をわずかに上回っている。人口移動範囲を、T、直線距離二〇==圏内(ほぼ大野郡・竹田市、南海部郡・宇目町・本匠村の地域)の近隣移動、U、Tの地帯を除く大分県内の県内移動、V、Uの地帯を除く県外移動、W、三大都市圏(東京圏 東京都・神奈川県・千葉県・茨城県・埼玉県、中京圏 愛知県・岐阜県・三重県、大阪圏 大阪府・兵庫県・京都府・奈良県)の巨大都市圏移動の四に分けてみる。Tの地帯は移動量が比較的少なく、一一.五lを占め、転入(一三九人)が転出(一〇一人)やや上回っている。本町の大野郡における中心的性格を示すのであろう。Uの地帯は移動量五六.二lを占め、転出超過である。(転出六一九人、転入五四三人)。県都大分市は総移動量の二八.四lを占め、著しい出超である。別府市がこれに次ぐが、出入りのバランスがとれている。Vの地帯では福岡・熊本・宮崎三県が多い。Wの地帯では、東京圏と大阪圏がそれぞれ総移動量の七.四l、五.九lをしめる。

 移動の時期は転入・転出共に四月と三月が多く、この二月で移動総量の四三.二lを占める(第11表)。年齢階層別にみると、転入・転出ともに一五―二九歳階層がもっとも多く、この階層で移動総量の四七.〇lを占める(第12表)。

 

                                                  

A転入五四三人)。県都大分市は総移動量の二八.四lを占め、著しい出超である。別府市がこれに次ぐが、出入りのバランスがとれている。Vの地帯では福岡・熊本・宮崎三県が多い。Wの地帯では、東京圏と大阪圏がそれぞれ総移動量の七.四l、五.九lをしめる。

 移動の時期は転入・転出共に四月と三月が多く、この二月で移動総量の四三.二lを占める(第11表)。年齢階層別にみると、転入・転出ともに一五―二九歳階層がもっとも多く、この階層で移動総量の四七.〇lを占める(第12表)。