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3.兵書著述の第一次隆盛――春秋戦国時代
周の平王元年(紀元前770年)、幽王は驪山の下で犬戎に殺され、西周王朝は覆滅しました。平王は東の洛邑(今の河南洛陽)に遷都し、東周王朝を樹立しました。そのとき王室は衰退し、井田制はくずれはじめ、諸侯の国々が紛争し、本来の「礼楽も征伐もすべて天子がみずから指示する」状態から、「諸侯が好きなようにする」状態に変わりました。各諸侯国は入り乱れ、軍隊を擁してみずからを強化し、天子を利用して諸侯に命令し、互いに覇を争い、まず春秋五覇(斉・晋・楚・呉・越または斉・宋・晋・秦・楚)の時代を形成し、続いて戦国七雄(魏・趙・韓・斉・秦)の時代を形成しました。それらは実力を拡大充実させ、富国強兵の目的を実現し、春秋時代中期より開始し、だんだんと田制・税制・軍制を改革し、徴兵と徴発を拡大し、世襲で兵を率いる制度を排除し、軍権を君主に集め、君主の正式な勅書にもとづいて徴兵して将軍を派遣し、文官と武官の役割分担と功績に応じて賞する軍功制を実行しました。
春秋時代、青銅製の兵器はすでに成熟した段階にまで発展していました。戦国時代晩期、冶金技術の向上により、銅や鉄の兵器がすでに大量生産されており、さらに編成するときに軍隊に装備されていました。改良された強弓と勁弩は、威力が絶大で鈍重な戦車の安全を脅かし、歩兵・騎兵と歩兵戦・騎兵戦が戦車・戦車戦にとってかわりはじめました。呉・越・斉・楚などの国の軍船を建造する工業の発展は、水軍を編成することと艦隊を発展させることの基礎を確立しました。各諸侯国の都城はすでに城壁が高くそびえ立ち、堀がまわりをめぐり、城を攻めたり守ったりする兵器の発展は、城を攻めたり守ったりする戦いを改善しました。軍事改革と軍事技術の発展は、戦争をさらに頻繁にし、完全ではない統計によると、春秋戦国時代の軍事行動は多くて438回に達し、そのなかで規模がより大きいものは376回あります。戦国時代は、戦争が一日としてない日はなく、「城を争って戦い、殺人が城に満ち、地を争って戦い、殺人が野に満ちる」状態で、その数は詳しく計りようがありません。
戦争によって覇を争う時代は、かつての「喪に服している国は攻めない」「太鼓を打たなければ隊列を組まない」といった戦争に礼儀をもちこむ陳腐な空理空論をもてあそぶことはすたれ、一まとまりの新しい時代の需要に適応した軍事家と政治家、たとえば伍子胥、孫武、呉起、范蠡などは、書を著し説を立て、兵法を研究し、諸侯を遊説し、新説を採用するように働きかけました。各諸侯国の君主は、覇を争う戦争を進めたり、賢者の獲得を心から願い、兵法に精通した人材を広く募り、新学の創造を奨励し、武を講じ兵を用いるよい方法を求め、自己を負けない状態にしようとしました。両者(君主と兵家)は、ほぞがほぞ穴にはまるように、一たび出会うや意気投合しました。ここにおいて兵書を著述した兵学家は、「百花斉放、百家争鳴」の時代潮流のなかにあって、才能を思い切り発揮する広大な舞台を手に入れ、一方で覇を争い雄を誇る諸侯国の君主は、天下の情勢をうかがい、全国に雄を誇る兵法、利器を手に入れました。我が国(中国)の兵書著述の第一次隆盛は、この時代のなかにおいて形成されたものです。
百家争鳴の学術ムードのなかにあって、兵書著述家は兵学の観点を思い切り述べ、それぞれが得意とするところの兵書を著述し、それらは雨後の竹の子が、先を争って互いに土を破って出てくるかのようでした。漢の始めに張良と韓信が兵書典籍を整理したときに説いたところによれば、春秋戦国時代に182くらいの著述家の著書が出てきました。ただ今に至るまで伝わってきた兵学の経典はと言うと、孫武の『孫子兵法』、呉起の『呉子』、司馬穰苴の『司馬法』、孫?の『孫?兵法』、尉繚の『尉繚子』、太公望に仮託した『六韜』など6種があり、それからつねに引き合いに出されたり引用されたりしている『范蠡兵法』『伍子胥兵法』などの失われた兵書があります。それらは富国強兵と天下統一を目的としており、戦争と軍事を研究対象としており、そのあまたの方面に深く入り深く論じ、詳しくきっちりと明らかに述べ、議論の気勢は雄大で、脈略は明瞭で、論理構成がはっきり立っており、すでに理論上において過去の戦争と軍事の経験を総括しており、さらに実践上において当時の戦争と軍事建設を指導しており、あるものは軍規となり、後世の兵家の推奨するところとなり、我が国(中国)の軍事学の基礎を定める作品となりました。
秦の始皇帝は六国を統一した後、儒者の腹壁と民衆の反乱を防止するため、図書を焼却して兵器を廃棄する措置をとり、ただ既存の兵書を災厄の運命にあわせただけでなく、兵書の著述が隆盛していた時期を終わらせ、その後の一時期において、あえて謀反・闘争の罪をおかして兵書を著述しようとする人はいなくなりました。
漢から唐の時代にかけて、著された兵書は多くなく、比較的に著名な兵書でわずかに見られるのは、『黄石公三略』、司馬彪の『戦略』、『握奇経』、『李衛公兵法』、『李衛公問対』、李筌の『太白陰経』と『?外春秋』などです。これと同じ時期に、兵書を注釈する風潮が盛んになり、許慎の『六韜注』、沈友の『孫子兵法注』、曹操の『注孫子』などがあります。このとき著述された兵書は、春秋戦国時代に著述された兵書のように軍事学の基礎を定める作品となる働きはありませんでしたが、ただ少なからず軍事学を刷新するところがありました。李筌が著した『神機制敵太白陰経』は、「攻防戦具篇」のなかにおいて、これまでほとんど触れられていなかった軍事技術の発展についての諸方面について論述しており、そして北宋の『武経総要』に所収されるところとなりました。注釈された古い兵書のなかにあって、曹操の『注孫子』が貴重なものです。彼は約300以上ある注釈のなかにあって、すでに『孫子兵法』の真髄を明らかに述べており、さらに彼の実戦経験を加えて内容を補充し発展させましたが、これは現存する『孫子兵法』の注釈のなかで、もっとも早く、もっともよく、もっとも特色のあるものです。
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