第三節 西周の兵制

 西周は紀元前十一世紀に武王が商を滅ぼしてから、紀元前771年に幽王が国を滅ぼすまで、十一世十二王を経過し、時間は三百年近くでした。この期間において、周人は領土を開拓し、子弟と功臣を分封し、周の天子を中心とし、血縁関係を基礎とする統治システムを構成しました。さらに周人は王畿二分制を実行しました。すなわち西都鎬京(今の陝西西安西南)と陪都?邑(今の河南洛陽)を設立しました。王畿と諸侯国のなかはすべて国と野の二個の地域に分けられ、国は統治族が居住する都城と郊区であり、この範囲内の住民は国人と呼ばれ、国家の政治に参与する種々の権利と義務をもっており、野は城郊以外の農村であり、厳格な監督のもとに居住する被統治族で、野人と呼ばれ、彼らは無条件に労務に従事する義務をもたざるをえませんでした。意識形態のうえにおいて、等級制の維持を宗旨とする一まとまりの礼制を形成しました。上述の制度は、西周の兵制と緊密な関係があり、相互に補完しあいながら行われました。
(1)軍事指導体制
 等級分封制と相応し、西周は軍事指導権のうえで幹を強くし枝を弱くする原則を十分に強化しました。礼楽と征伐は天子から出て、軍事大権は周王の手でコントロールされました。
 はじめに、周王は王室の軍隊を任命して統帥する権限をがっちり掌握していました。『詩経』「大雅・常武」に「王命郷士、南仲太祖、大師皇父、整我六師、以修我戎」とあります。これは周王が太祖の霊廟において「西六師」の将軍を任命する儀式を行ったことを言っています。軍隊のなかの各種の武官も、おおむね周王によって任命されました。
 次に、各諸侯国の軍隊の統帥も、主に周王によって任命されました。これがいわゆる命卿の制です。卿は西周時期の高等爵位で、しかも当時は彼らが一軍の統帥にあてられるだけでした。『礼記』「王制」に「大国の三卿は、みな天子に任命され、・・・次国の三卿は、二卿が天子に任命され、一人がそこの君主に任命され、・・・小国の二卿は、みなそこの君主に任命される」とあります。この説明は明らかに整えられた痕跡があり、すべて信じるわけにはいきませんが、とどのつまり諸侯国の卿将は主に周王に任命された史実を反映していることが、なかから窺い知れます。
 第三に、周王はただ王室の軍隊をじかに掌握するだけでなく、諸侯に委託して独立して軍を率いて指定した敵を討伐させる権限も持っていました。「?季子白盤」に、?季子は王の命を奉じ、??と陝西の洛水北岸で戦い、「五百の首を斬り、五十人の戦犯を捕らえ」、周の夷王はその弓矢と斧鉞を下賜し、彼に蠻方の政治を任せたと記載されています。
 第四に、周王はさらに諸侯国軍のなかに監軍を設置しました。『礼記』「王制」に「天子はその大夫を三監とし、方伯の国を監督させ、国に三人だった」とあります。この見解は金文の実証をもっています。「善鼎」に「令女佐胥?侯、監○師戍」とあります。言っているのは、周王は?侯を救援に任命していますが、実際の任務は○師の監督だということです。
 西周の軍権は高度に周王に集中しているとはいえ、周が結果的に軍事部落連盟に別れを告げてまもなく、さらにいくつかの軍事民主制の遺風を保留していました。周王は諸侯国の軍隊に監軍を派遣したのは、まさに諸侯の旧習が改まらないのを心配したのです。同時に新旧の兵制の先鋭な衝突を緩和するため、周王は指導体制のうえに一群の軍事部落同盟の成分を保留せざるをえませんでした。『佐伝』「昭公四年」に椒挙の言葉を載せて、「周の武王は盟津で誓いをし、成王は岐陽で軍事演習としての狩りを行い、康王は?宮に諸侯を集まらせ、穆王は塗山で会議を開いた」と言っています。椒挙は、この数度の重大な集まりは、目的がすべて「諸侯の帰順しないとき、礼で帰順させる」ことにあったという見解を持っています。この礼とは、濃厚な部落連盟の酋長会議の色彩をもった誓、蒐、朝、会などの儀式でした。椒挙は、周王が諸侯に礼を示せたことにより、諸侯はよく周王の命令を聞いたと指摘しています。この分析は周王と諸侯の関係を示しており、さらに多かれ少なかれ盟主と同盟諸侯の関係の成分をおびています。まさにこのようであることにより、いったん周王が権威を失うと、諸侯は周王を捨てて別に同盟を結びました。椒挙は「周の幽王は大室の盟を行い、戎狄が反乱した」と言っています。洪亮吉『春秋佐伝詰』は『汲郡古文』を引いて、「幽王の十年の春、王は諸侯と大室で会議した。翌年、申人、繪人と犬戎が宗周に侵入し、王を殺した」としています。周の幽王が諸侯と大室で会議した目的は、その地位を強固にすることにありましたが、会議しても成果はなく、西周の王権は崩壊し、かつての軍事部落連盟の遺風は春秋列国の会盟という新たな形式で中原の大地で活躍しました。この転変は、とても考えさせられます。
 西周王室の軍事指導集団は、周王を中心として、「三公」と「三事」がいて、軍事と政治の要務に共に参加していました。「三公」は、太師、太保と太史を指します。太師は最高級の軍事指揮官で、重要な戦役では、往々にして太師を任命し、軍隊の将軍としました。たとえば先に引用した「常武」は、皇父を太師に任命し、「西六師」を統帥させました。『詩経』「小雅」「節南山」に「尹氏大師、維周之?。秉国之均、四方是維」とあるように、太師を周室の柱石としていますが、これは太師の地位が重要の極みであったことを反映しています。太保と太師は軍事計画の策定に参与し、あるときには軍隊を率いて出征したこともありました。「三事」は「三司」とも言われ、司徒、司馬、司空を指します。司徒は民政をつかさどり、軍費と兵士を徴発するのもその仕事でした。司馬は軍務をつかさどり、「師旅・甲兵・乗白の数を知っていました」。司空は製造をつかさどり、軍事装備の修理も兼ねて管轄していました。統兵権と日常の軍務を処理する権限の分離は、周室の軍事指導体制が成熟に向かい始めたことを説明しています。当然、「三公」と「三事」の体制はだんだんと形成されたもので、彼らは軍事上における職務分担も大概して言ったものであり、たとえば司馬は軍務を掌握しているとはいえ、金文のなかにも司馬が軍を率いて出征したという記録があります。
 軍隊のなかの武官は、師氏、侯亜、侯旅、亜旅、大亜、走亜などがあり、『尚書』「牧誓」によると、師氏のもとに千夫長、百夫長があり、おおよそ師氏、侯亜は師級の武官となり、侯旅、亜旅は千夫長に相当し、大亜、走亜などは百夫長とほぼ同じです。
 強調を必要とするのは、西周の職官はさらに一定の原始性をもっており、主要な特徴は文武の分職がはなはだ明確でなく、名称の同じ武官は地位が異なったりしていました。『周礼』「師氏」の職事は文武を兼有した内容で、「長孟」の銘文に「○氏師氏」という仕事があり、銘文の記載は師氏が田里の紛糾を解決するのに参与したことであり、師氏が文官としての仕事ももっていたことがわかります。『周礼』「司徒」属官の仕事に関する記載の中に「王が出兵したら従軍する」とか、「もし戦争することになったら、・・・司馬に従わされる」などとかいう言葉が多く見られますが、これは司徒属官も武官の仕事をもっていたことを説明しています。これは文武の仕事が明確に分けられていなかった例です。西周には職官名が趣馬、もしくは走馬と呼ばれるものがありました。『周礼』「司馬」に「趣馬下士」があり、鄭注は彼らは馬を飼育する者であると注釈しており、これは一種の賤職で、「大鼎」の銘文に「王は走馬の雁を呼んで二匹の名馬を捕らえさせて大きくさせた」という言葉があり、走馬は確かに養馬の官です。しかし、『詩経』「大雅・雲漢」に「趣馬師氏」という単語があり、趣馬は師氏と同等で、「走馬休盤」のなかの走馬休竟は益公を右としており、走馬(趣馬)には実際は等級の分があり、高い者は師氏にならび、低い者は下士となるだけでした。文献の撰作と鼎彝の鋳造はすべてその具体的な時間、地点と対象をもっており、当時の人はこれらの名前は同じでも実際は異なる職官などの糊塗を被らなかったものであり、ただ我々の現在の研究が多くの難解な疑点を持たせているので、我々が今、西周の武官を講じるときはこれらの特点に注意しなければいけません。
(2)兵役制度
 西周の国と野を分けて治める制度は、その兵役上にあって等級徴兵制を実行するのを決定した。貴族の武士は平時は弓術と馬術を練習するのを主とし、戦時には車上の完全武装の兵士となりました。一般の国人は平時は生産に従事し、軍事訓練にも参加し、あわせて年齢に応じて軍隊に順々に役務に服し、戦争の規模が拡大すると、全員が戦争に参加する義務をもちました。野人は一般に兵役に服さず、ただ軍事が必要とする夾版、草料は主に野人から供給され、だれかが供出を不足させたり、遅延させたりしたときは、極刑に処されました。『周礼』「遂人」に「簡其兵器」と「以起政役」の二つの語がありますが、鄭注はこれにもとづいて「遂の軍法は、追胥が徒役を起こすこと、六郷のごとし」という見解をもっています。いわゆる遂とは野であり、郷とは国郊です。この説によれば、野人と国人は同じように兵役に服します。この説は実に従えません。細かく「遂人」の文章を調べると、「簡其兵器」という言葉は「而授之田野」と「教之稼穡」という二文の間にあり、その二文はともに一つの事を言っており、中間にどうして出し抜けに「簡其兵器」という一句が挿入されているのでしょうか。実際のところ「簡」という字は古代においてつねに欠くという意味、すすぐという意味があり、「簡其兵器」の意味は遂のなかにいる人民の兵器を淘汰して、農業を利したという意味で、このように理解すれば、出し抜けではありません。遂のなかにいる人民は戦って敗れた部族であり、もともと武器をもっていました。統治を便利にするために、周人はその兵器を没収したのも、必然的なことです。「以起政役」という言葉に至っては、戦争で必要な力役であり、兵役ではありません。『周礼』「小司徒」の鄭注に「役は力仕事のことである」とありますが、これは役という字に対する確実な昔の意味です。「小司徒」職文には「以起軍旅」という言葉があり、国人には兵士になる義務があり、まさに「遂人」の「以起政役」という言葉と遠く相対しており、野人は軍隊のなかにいなくて、力役の列にあったことを説明しています。
 国人が順番で軍隊に入って役に服する制度は、「小司徒」の記載によると、これは家ごとに一人を出して軍隊に編入させ、正卒と呼び、その他は羨卒となりました。正卒は現役の軍人となり、羨卒は予備役の軍人となりました。軍役に服する年齢は、『周礼』「郷大夫」は「その任ずべき者は、国内の七尺から六十までである」と言っており、賈公彦は解説して「七尺とは二十歳のことである」と言っています。『詩経』「撃鼓」は「韓詩」を引用して「二十で軍役につき、三十で兵士となり、六十で退役した」と言っています。『礼記』「祭義」には「五十で甸徒とならず、もし戦争となれば、六十は免除される」とあります。概括して言えば、国人は二十歳で力役に服し始め、三十歳で正卒となり、五十歳で普段は二度と軍役に服さず、六十歳で戦時にも軍役に服しませんでした。
 等級徴兵制の実行は、完全に整理された国人の戸籍を基礎とするのが必須です。西周の国や郷といった組織は、部族組織が発展して形成されたもので、その行政管理体制は『周礼』が描写しているように完全で画一的なものだったとすることはできません。『国語』「周語」に周の宣王は王室軍隊の損傷が甚だしいことから、太原(今の山西臨汾)において料民したと記載していますが、料民とは人口の調査です。太原は周族の重要な根拠地であったので、宣王は太原の人口についてあまねく調査して王室軍隊の兵員を拡充したのですが、太原の人口も王室は確実に把握できておらず、その他の異部族の居住情況についても知っていなかったことは容易に想像がつきます。これにより、『周礼』などの記載は西周の制度だとは言えますが、この種の兵役制度は全面的に成し遂げられたとはできなかったとしてこそ、肯定できるものです。
(3)軍隊の編成と兵種
 西周王室の軍隊の最大編成単位は師でした。『周礼』「小司徒」は軍、師、旅、卒、両、伍の編成があったと言っていますが、すべて信じられません。呂思勉先生は早くも「『説文解字』に「軍は圜圍である」とあり、『広雅』に「軍は屯である」とあるが、これが軍という字の本義である」と指摘しています。金文と『詩経』などの早期の文献から見て、たまに「西六師」、「殷八師」と「成周八師」という名前があり、十分に師が最大の編成単位であり、師の上には軍クラスの編成はなかったことを証明できています。西周の王室はいくらの師をもっていたのでしょうか。これは目下、意見が紛糾して分かれている問題です。ある人は二十二の師をもっていたという見解をもっており、ある人は「殷八師」と「成周八師」は実際のところ同じなので、西周は十四の師をもっていただけだという見解を持っています。私たちは、「殷八師」は「成周八師」であると言うのはどんな確実な証拠もなく、金文のなかから出現した番号から二十二師とすべきだという見解を持っています。「西六師」は西周初年の編成なので、『詩経』のなかではまれに「六師」を提示しているのであり、戦国時代の人もこれにもとづいて付会して天子六軍としているのです。「殷八師」は武庚の反乱を平定したあとに組織されたものであり、もともと東方を畏怖させるために設置され、のちに西方の敵に焦点を合わせるため、「西六師」と一緒に駐屯して防衛したので、金文はつねに「殷八師」と「西六師」が共同で戦争した記録をもっているのです。「成周八師」は穆王の時の器である「競?」に始めて見られます。「克鼎」と「○壺」の銘文によると、「成周八師」は総じて単独行動であり、「西六師」と発生が連続していません。「殷八師」が西方に配置転換されてから、東方の諸夷を防ぎ、成周の?邑を駐屯して防衛するため、新たに「成周八師」を編成したと言えます。師ごとの人数は、三千人説と一万人説があります。『詩経』「魯頌」「?宮」によると、魯は「公車を千台」「公徒を三万人」もっていたと言い、詩の序は「?宮」は僖公をたたえて作ったものであると言っています。僖公の治世は、西周の滅亡から百余年を経過しており、中原の列国は覇を争ってやまず、軍隊が拡大されるのは必然の勢いでした。魯の三軍の三万人は、軍ごとに一万人であり、魯の三軍は西周の三師であり、もし西周が師ごとに一万人の兵士をもっていたとしたら、魯は春秋時代前期において根本的に軍拡をもたなかたということになります。これは完全に不可能なことです。これにより、西周の師ごとの人数は一万人に満たなかったとすべきです。三千人ではなかったとすべきでしょうか。文献では調べようがなく、疑問として残らざるをえません。
 王師のほか、諸侯国も数量が同じでない正規軍をもっていました。魯が三師をもっていたことは、すでに先に述べたとおりで、中小の諸侯国はと言うと少なくとも多くありました。
 周王の近衛軍は虎臣または虎賁と呼ばれました。虎臣の出自は異部族の捕虜と犯罪者です。「詢○」は虎臣が「西門夷、秦夷、○夷、師?側新」などを有していたことを載せているのが証拠です。虎臣は主に王宮、王門を守衛し、主に周族内部の逸脱行為を防止するのに使われたので、異部族の戦争捕虜と犯罪者を特に心して選んで用い、手厚い天子の恵みを施し、養って爪牙とし、同時にさらに信任している貴族を厳重に監督・管理させました。虎臣の長が師氏となりました。虎臣には左右虎臣と正側虎臣の区分がありましたが、具体的な分掌と編成は調べようがありません。
 西周は車兵を核心とし、歩卒が附属となる混合兵種編成を実行しました。戦車と甲士を主とし、さらに一定の数量の歩卒を配備し、軍隊の最も基本的な単位―乗を構成しました。乗ごとの人数は、文献と金文には十人、二十五人と三十人とする記載があります。目下の学術界では比較的に一致した意見をもっています。乗ごとに甲士が十人で、車上には車左、御、参乗の三人がおり、車下には七人がいました。戦闘歩卒が十五人で、雑役人員が五人でした。
(4)軍事教育と訓練
 商代と同じく、西周も田猟によって軍隊を管理しました。さらに重要なのは、西周の日常の軍事教育と訓練はさらに制度化され、あわせて等級制を維持する礼制の一部分となりました。
 王畿と諸侯の近郊には学宮が設けられ、卿大夫の采邑には郷校が設けられ、貴族の子弟と国人が合わせて教育されました。各種学校はすべて武芸と礼法を学ぶのを中心としました。学校のなかではつねに郷射礼と大射儀が行われました。郷射礼は郷校で挙行され、卿大夫によって担当され、時期がきたらただ郷のメンバーが進み出て弓を射て勝敗を決めるだけでなく、その子弟もその実習をしました。大射儀は学宮で挙行され、天子あるいは国君によって担当されました。郷射礼と大射儀はすべて三番の順序があり、第一番の射撃は子弟の射撃の基本的な技能を考査するのを重視し、第二番の射撃は成年した人の団体での勝負であり、第三番の射撃は弓を射る人が音楽に合わせて動くことを要求し、これは礼楽と征伐が合わさって一つとなっているのを表現したものでした。清人の邵懿辰は『礼経痛論』で「郷射、大射も軍に礼を寓するというものです。・・・天下が無事であれば、これを礼楽に用い、天下が有事であれば、これを戦勝に用いました」と言っています。これは郷射と大射の特徴と意義をとてもよく説明できています。