砲戦の神・袁崇煥

 歴史上、士大夫で従軍して参謀となった者は多くいますが、みずから前線に立って指揮する将軍となった者はまれです。袁崇煥はそんなまれな人物のなかの一人です。彼の名は、ただ彼が国境地帯をよく守った主たる将軍であるということだけでなく、屈辱や冤罪を受けて悔しい思いをした忠心・義士であり、さらに彼は当時の時代の脈拍が、冷兵器から熱兵器に向かう折れ目・分かれ目にあるということを把握できており、火炮を巧妙かつ合理的に大規模に運用し、ただ智謀で勝ち、武力で勝っただけでなく、技術の先進性でも勝っていた、として歴史に残っています。
(1)筆を捨て従軍し、危機を挽回する。
 袁崇煥は出身が貧民で、一介の貧乏人でしたが、三十五歳で進士(国家公務員試験合格者)となり、進んだのは一本の文人が登り仕えていく昔ながらのコースでした。しかし多事多難な時期にいた袁崇煥は、とても敏感に民族の危機を感じ取っていて、深く後金が勃興し、国境警備が十分でないことを心配していました。彼は福建にいて地方官となっていたときには好んで軍事を語りました。西暦1622年、後金軍が遼河を西に渡り、西平堡を陥落させ、広寧の守将は城ごと降伏し、関外の要塞はほぼすべて失われました。首都は震撼しました。この種の情況のもとにおいて、袁崇煥は上書して献策し、兵部(軍事を担当する省庁)に選ばれ入れられました。朝廷中の文官と武官が一方で恐れ慌てながら関外の領土を放棄し、山海関に退いて守ることを議論しているとき、袁崇煥は反対に馬に乗って関外を出て回り、民情と地形を考察しました。彼は帰ってきたあと、口で説明しながら図を指し示し、関外の情勢を詳しく語り、関外を放棄すべきとする衆論を斥けるのに努め、関外を主に守ることを主張するのと同時に、自薦して「もし私に兵馬と糧銭を与えてくだされば、私一人でも十分に関外を守れます!」と言いました。彼の国境地帯を平定できるという自信に満ちた話は、恐れ慌てていた朝廷を落ち着かせ、さらにここから彼の戦いの生涯が始まりました。
 西暦1622年、袁崇煥は監関外軍事に任命されました。命を受けたばかりのとき、すぐに「守りをメインとして後から戦う」という方針を決定して提出しましたが、遼東督帥の王在晋は反対に胸に大きな志がなく、敵に怯え、戦いを恐れ、頑固に山東関のラインに退いて、関にたてこもり城を築いてみずから守るべきだと言い張っていました。袁崇煥は努めてそれが間違いだと言うのと同時に、前の巡視の孫承宗と一緒になって、努めて万難を排して王在晋の決定した作戦を否定しました。そして、孫承宗が遼東督帥を命じられ、袁崇煥は寧前兵備道に任じられ、寧遠を鎮守し、文官から完全に転身して武官となりました。
(2)寧遠の砲声
 寧遠は東北辺境地帯を山東関に進むときに必ず通る要衝であり、寧遠が陥落しなければ、後金軍は山東関を攻めようがありませんでした。寧遠を堅守して、山東関の門を守備し、進んでは遼東を回復でき、退いては山東関に心配のない状態を確保できました。
 袁崇煥は赴任するや、すぐに二つの事に着手しました。一件は可能な限り紅夷炮などの西洋の火器を備え、必ず将兵をその扱い方に習熟させ、その威力を十分に発揮することでした。もう一件は寧遠城の防御設備を増強し、諸将に工事区画を割り当て、期限を設けて完成させました。一年後、砲兵の練習は成熟し、砲撃が正確となり、演習がきちんとしました。寧遠城も増強工事が完成し、城壁の高さは三丈二尺、防壁の高さは六尺、上部の広さは二丈四尺となり、堅固で突き崩せなくなりました。
 続いて、袁崇煥はさらに屯田を回復し、流浪している人民を集めて養い、軍糧を多く蓄積するのに着手し、それと同時に積極的に後金が占拠している遼西に進出しました。袁崇煥の建議のもと、孫承宗は将軍を派遣して遼西諸城を取り返して、錦州・松山・杏山と大小凌河にある各要塞に将軍を派遣して守らせました。遼東全体の前線は有利な位置にあり、後金の君主のヌルハチは対策の講じようがなく、日夜、頭を悩ませていました。
 しかし、遼東の形成が好転したとき、朝廷の政権を握っていた悪い宦官の魏忠賢は孫承宗を排斥し、一人の凡夫の高第と交代させました。この人はいったん赴任するや前任者の正確な配置をことごとく改め、関外の拠点をまとめて撤収して関内に引き上げるように命令を下しました。あっという間に錦州・松山などの諸鎮はことごとく撤収され、孫承宗と袁崇煥の数年にわたる苦心の経営も一日で壊されました。そして後金はこれを聞いて大いに喜んで見に来て、ついに派兵して脅かしました。この種の黒い雲が城をつぶし、是非が転倒している情況において、袁崇煥は毅然と命令に逆らい、絶対に寧遠から撤収して山東関に帰らないとかたく決めました。彼は投げるように声を出して言いました。
「私はこの地方の地方官であり、仕事はここにあり、ここで死んで当然だ!」
 後金のヌルハチはこの千載一遇のチャンスに乗じ、1626年の初め、みずから十三万の大軍を率い、軍を二つに分けて寧遠城を包囲しました。当時、袁崇煥の手下はわずかに一万人ちょいでしたが、後金の八旗軍は強力な部隊で、向かうところ敵なしで、一度にこれだけ多くの兵力を用いて一つの城を包囲して攻撃したことは少なく、明らかに一気に寧遠城を陥落させて、それから大挙して南へ進攻するつもりでした。強敵が地を圧しているのに直面し、朝野の人心はあわてまくり、進んで戦うことを主張したり、退いて守ることを主張したりで、どちらとも決めかねられずにいて、山東関には数十万の明軍が集まっていましたが、諸将はそれぞれ恐れて暗い表情をしていて、総司令官の高第は軍を山海関に止めたまま、座視することを心に決めており、一兵も救援に派遣しませんでした。
 袁崇煥は強敵に直面し、落ち着いて悠然としており、将兵を大々的に集め、孤城を死守することを血で誓いました。同時に城内の住民に武装させ、防壁を補強して、城の周囲にある敵に利用されそうなものはすべて取り払い、協力して城を守り、裏切りそうなあくどい人間をつぶさに調べました。袁崇煥は火器を守城兵器のメインとしており、四方の城壁のうえに紅夷炮を配置するのと同時に、鳥銃(ライフル)と火槍(散弾銃)を補助に配備し、火器に習熟した将兵に責任をもって完全に任せました。それとは別に人を派遣して土のうを専門に任せて、城壁が破壊されたときにすぐさま補修させるようにし、そして武芸のうまい人を派遣して刀剣・弓矢を持たせて、敵が城壁を登ってくるのを防がせました。
 天啓六年正月二十四日未明、後金軍は突然に寧遠城の垣に猛攻して来て、ここに寧遠守城戦の幕が開かれました。八旗軍は次から次に襲ってきて、その精悍さ、勇猛さは異常でしたが、寧遠城の濃密で正確な砲撃のもと、死傷者が増えるばかりで、死体の山が築かれ、八旗軍の気勢も頓挫させられました。
 ヌルハチも名手の名に恥じず、全面攻城が挫かれたのを見て、すぐさま戦略を改め、兵力を集注し、一方の城壁に突破口を開くことに命をかけました。一万人を超える八旗兵の必死の掩護のもと、地面を掘っていた兵士はついに城壁に一つの突破口をあけ、そこから後金兵はわんさかと入ってきました。袁崇煥は剣を抜いて立ち上がり、みずから兵を率いて突破口に殺到し、一方で入ってくる敵兵を撃ち殺し、一方で石を運んで埋めさせました。この戦闘で、袁崇煥は左臂を負傷し、左右を支えられて城壁からおりましたが、袁崇煥はみずからの軍服をちぎって傷口をふさぎ、刀をとってまた城壁に登りました。将兵たちはその情景を見て、それぞれが奮い立って先を争い、あっという間に後金兵は斥けられ、城壁の穴も埋められました。その後、八旗兵はさらに死傷者を出す苦しみを味わいながら、砲火に身をさらしながら進んだのですが、城下の死角に到達して城を崩すことができませんでした。袁崇煥は城を崩そうとしている人間が多くないのを見て、沸騰した油をばらまき、火のついた油を投げ、あっという間に敵を全滅させました。
 ヌルハチは三日間にわたり猛攻して、数万の死傷者が出て、輜重車(補給車)も夜間に襲撃してきた明軍に焼かれ破壊され、憤りが頂点に達しました。そこで、みずから督戦し、太鼓を打ち鳴らして陣を助けたのですが、八旗兵の士気は大いに振るい、それぞれが先を争い、命をかけて城を攻めました。しかし、袁崇煥が教練してきた砲手が大いに神のような威勢を大いに奮い、その砲撃は円滑であり、正確であり、八旗兵を吹き飛ばして火の海に投げこんだり、血の海に投げこんだりしました。ヌルハチはどうしようもなく、撤退を命令するしかなく、数万に傷ついた兵士をかついで逃げ、一万人以上の八旗の勇猛果敢な兵士の死体を残しました。袁崇煥は勝ちに乗じて三十里まで追撃し、多くの軍需物資を奪い取って帰りました。
 ヌルハチは敗北して帰ると、とても憤慨して大声で言いました。
「私は二十五歳で出征して以来、戦って勝てないことはなく、攻めて破れないことはなかったが、袁崇煥は何者か? 私をこのようにしてしまった!」
 彼は挙兵して大軍を動員した最初の南征が、入口にあたるちっぽけな寧遠城の下で頓挫し、志を遂げられずに帰ることになろうとは、まったく思いもかけませんでした。
 寧遠の大勝利のあと、袁崇煥は功績によって兵武侍郎・遼東巡撫・主持関外軍事に昇進しました。彼は高第によって放棄された錦州の各城を回復すると、城を修理し、兵を完備し、紅夷炮を多く鋳造して、攻守の道具としました。1627年、後金の皇太子が再び大軍を率いて錦州・寧遠を包囲し、攻撃して、先の敗戦の報復をしようとしました。しかし、袁崇煥が二つの城を互いに助け合わせるようなかたちにしていて、大砲の作用を十分に発揮しました。結果、両方での二ヶ月にわたる大きな戦いで、高らかに響き渡る砲声のなか、皇太子も父親と同じ道をたどり、軍隊を失って帰りました。
 その後、かたくなに自信を持ち人の意見をいれない崇禎帝が敵の反間の計にかかり、みずからの手で防衛ラインを破壊し、敵に内通していたという罪で袁崇煥を車裂きの刑に処しました。一代の名将は、非命な死を遂げました。
(3)歴史の転換点
 袁崇煥の前に、我が国(中国)には主に火砲に頼って勝利したという成功戦例は出ていませんでした。火器は早くも北宋の時代に出現していたものの、明末の袁崇煥より前までずっと、火器は補助兵器にすぎず、戦争の過程において決定的な働きをしませんでした。袁崇煥と孫承宗は火器を大規模に利用した最初の人で、彼らは清兵の騎射と野戦の能力が遠く明兵のかなうものではなく、ただ城塞を修築することによるのと同時に、火砲の優勢を用いてこそ、はじめて敵の攻勢をさえぎることができ、進軍して遼のすべてを回復できる、と正確に認識していました。袁崇煥は早くも福建にいたときに西洋の紅夷大炮の威力を了解していて、この種の砲は砲身が長く、射程が遠く、照準器があり、射撃は正確で、装填は便利で、速射できました。袁崇煥の建議により、明王朝は大砲を輸入しはじめるのと同時に、真似して製造しました。そして、袁崇煥はと言うと砲兵隊の設置に専念し、一群の熟練の砲手を訓練したのと同時に一連の炮兵隊に対する後方支援と補給の系統を整備しました。
 孫承宗もまた新しい流れを作った人物です。袁崇煥と共に活動していたとき、彼は車営戦法を発明しました。すなわち、大砲を車上に搭載し、同時に弾薬を補給する車両とそれ相応の歩兵を組み合わせ、野戦もできれば、守備もできるようにしました。陣営ごとに騎兵が二千四百騎、歩兵が三千二百人、火槍が千九百八十四丁、大砲が二百六十四門、炮車が百二十八輌でした。もしもさらに改善し、車砲を固定したなら、この種の車砲組織はすでに当時のヨーロッパの砲兵をはるかに上回っていました。
 しかし、実戦においては、孫承宗も袁崇煥より一段劣っていました。寧遠での砲戦の名声は、明王朝の上下に火砲を重視させるようになり、徐光啓は一群の伝教士を招聘し、火砲を研究し、技術を改良し、同時に西洋砲を大量に製造し、明軍に分配して使用しました。後金のほうも火砲に対して期待の目でながめ、皇太子は賢明にも寧遠での二回の敗戦の主要な原因は大砲を持っていなかったことだと意識するに至りました。これより火砲を重視しない態度を改め、人を派遣してこっそりと高給で一群の漢人の技術者を招聘し、1631年から紅夷炮を真似して製造し始め、同時に「紅衣大炮」と改称しました。同年、皇太子は大凌河城を攻撃したとき、はじめて大砲を使用し、一発で城壁に穴をあけることができました。これより以後、紅衣大炮は清軍が城塞を攻撃するときの主要な武器となりました。この基礎のうえに、清軍は火器営と炮隊を設置を計画し、のちに中国国内に攻め込む日に、火砲は最大の効果を発揮しました。砲を用いるという先進技術を採用する優勢は腐敗した明王朝の手から迅速に清人の手に移っていきました。惜しむべきは、清王朝の統治が確立するのと同時に、この兵器が正確な趨勢で順調に発展してゆくことはなく、かえって国を閉ざし、自己満足し、西方に学ぶ交流が再び行われることなく、結果、1840年にイギリス人が堅固な艦船に搭載した優秀な大砲で中国の要塞を攻撃したとき、中国の大砲は依然として袁崇煥が使った大砲のレベルにあり、ただ射程が短く、照準器がないだけでなく、構造が粗雑で、とても破裂しやすく、外国人はからかって「この種の大砲は自分に対して威嚇するもので、敵に対して大したことない」と言いました。袁崇煥当時の八旗兵の子孫たちはもう一度、優秀な大砲の旨味を味わされました。