全文訳『間書』
 ルビは[ ]で表記しています。

自序(朱逢甲の序文)
 貴州[きしゅう]の苗[ミャオ]族が反乱を起こし、土寇(土着の悪党)がそれに呼応しました。悪党は、毛のように多く、数万人の規模であると称しています。城は次から次に陥落し、役人は次から次に殺され、軍費はと言うと欠乏しており、兵(政府軍)はと言うと恐怖しており、練(地方軍)はと言うと訓練されていません。この情況において、のんびり座って反逆者の首領を捕らえ、そうして反乱を平定したいのですが、そういった方策はあるのでしょうか。もちろん、あります。スパイ活動を行うにこしたことはありません。
 そもそも反乱軍の集団は、数万人の規模です。一万人の兵(政府軍)と練(地方軍)を招集しても、力が及びません。それにもかかわらず、一万人を動員すれば、一人あたり一日に四分の銀を支払わねばならず、一ヶ月になると一万二千分の銀が必要となります。しかも、恩賞、補償、兵器の費用も必要で、それを計算に入れると、経費は倍増します。今は軍費が欠乏しており、経費をどうやってまかなえばよいのでしょうか。軍費が欠乏しているなら、スパイ活動を行うにこしたことはないということを知らないのです。スパイ活動を行うときには、ただ兵隊を使って、敵の勢力をけん制し、要害(守りやすくて攻めにくいところ)を堅く守り、持久する構えをとるだけで、軽々しく戦ってはいけません。作戦としては主としてスパイを入りこませて成功をつかむようにします。こっそりと虎の住む洞窟に入ってこそ、虎の子を捕らえられるものです。そもそも兵隊が主として軽々しく戦わないようにしているときには、兵力を半分に減らせます。兵力が半分に減ったときには、軍費も半分に減ります。ですから、軍費が欠乏しているなら、スパイ活動を行うべきだと言うのです。
 しかも、兵(政府軍)が恐怖しているなら、なおさらスパイ活動を行うべきです。そもそも貴州の軍政がだめになっていることには、軍隊の名簿には兵士がいますが、実際に召集して戦うときには兵士がいません。徴兵しても、まとまりのない町の人から兵士を集め、軍服を着させ、武器を持たせ、それを兵士と言っているだけです。そのようであるならば、それが勝てる兵隊となれるでしょうか。まちがいなく反乱軍に遭遇しても、すぐに恐れて逃げ出します。ですから、今の兵隊は、ただ威嚇に使うだけで、実戦に使うべきではないのです。兵(政府軍)を強そうに見せかけることによって、練(地方軍)の勇気を奮い起こします。練(地方軍)を強そうに見せかけることによって、兵(政府軍)の勇気を奮い起こします。兵(政府軍)と練(地方軍)を強そうに見せかけることによって、郷団(自警団)の勇気を奮い起こします。兵(政府軍)、練(地方軍)、郷団(自警団)を強そうに見せかけることによって、反乱軍を恐れさせ、こちらのスパイ活動を行いやすくします。スパイ活動を行って成功し、敵を内と外の両方から攻撃できるようになれば、反乱軍の兵士を捕らえ、反乱軍の首領を捕らえることができます。どうして恐怖している兵(政府軍)が決死の覚悟で戦う必要があるでしょうか。ですから、兵(政府軍)が恐怖しているなら、なおさらスパイ活動を行うべきだと言うのです。
 なおかつ練(地方軍)が訓練されていない人民から構成されているなら、とりわけスパイ活動を行うべきです。昔の練(地方軍)というものは、教練されていたので、練(地方軍)と言われたのです。今の練(地方軍)というものは、実際のところ全員が訓練されていない人民です。そういった人民を使って戦うのは、人民の命を捨てるようなものです。今の練(地方軍)は、だれもが貧民で、戦災のために食べていくのが難しくなったので、練(地方軍)に志願し、一日に四分の銀をもらって生活の糧を得ています。せきたてて必死に戦わせようとしてもムダです。人民は、たとえ愚かでも、四分の銀のために命を捨てるでしょうか。そういった人たちは、ぱっと集まり、さっと散っていきます。総督の呉甄甫[ごけんほ]は、軍隊を指揮していて、練(地方軍)が逃げ散っていったことから、自殺するしかなくなっています。これを教訓とすべきです。
 なおかつ、たとえ逃げ散らないで戦っても、もし戦って勝てないなら、貧窮している大事な臣民を悪党に斬り殺させるようなものです。かわいそうに思わなくてよいでしょうか。たとえ戦って勝っても、敵も味方も互いに死んだり、傷ついたりすることになります。いくら双方が死んだり、傷ついたりせざるをえないにしても、善良な人民を悪党の苗族と同じように死んだり、傷ついたりさせるのは、どうして上策と言えるでしょうか。そもそも戦闘は力で戦い、スパイ活動は知恵で戦います。力で戦うことは、どうして知恵で戦うことよりすぐれているでしょうか。力で戦って勝っても、敵の一味を殺せるだけです。しかし、スパイ活動を行えば、敵の首領を捕らえられます。敵の一味を殺すことは、どうして敵の首領を捕らえることよりすぐれているでしょうか。杜詩[とし]は「反乱軍を押さえるには、まず首領を押さえなさい」と言っています。首領が捕らえられると、その一味はおのずと逃げ散ります。『孫子』は「連戦連勝することは最善ではありません。戦わないで敵の兵隊を屈服させることが最善です」と言っています。スパイ活動を行えば、戦わないで敵の兵隊を屈服させられます。ですから、練(地方軍)が訓練されていない人民から構成されているなら、とりわけスパイ活動を行うべきだと言うのです。
 かくして、スパイ活動を行おうとするときには、古今のスパイ活動の記録に見られる教訓、古今のスパイ活動の実例に見られる秘策、千変万化して精妙な点について、知らないわけにはいきません。思うに、ただ兵書を読むだけの人は、軍事に手を出してはいけません。兵書を読まない人は、なおさら軍事に手を出してはいけません。すぐれた医者は、これまでに培われてきた医術にこだわらなくても、そんな医術の本質を悟ることができるものです。囲碁の名人は、いろいろな打ち方のパターンを覚えこまなくても、すぐれた打ち方をできるものです。よく学んでいる将軍は、兵書を覚えこまなくても、兵書に秘められた奥義を理解できるものです。
 今、天は生かすことを好み、苗族の反乱を嫌っているに違いありません。皇帝陛下も、名臣たちも、毎日のように憂慮しています。私は、江南のただの世間知らずの学者にすぎませんが、あちこち放浪して貴州にやってきました。去年、『興義府志』を編集し終わったところで、「平南王」と名乗る人物の反乱が起きたので、みずから兵士をひきい、普安一帯を転戦してまわりました。幸運にも反乱を平定し、反乱軍で軍師をしていた貢生[こうせい](地方の学校の先生)の劉九綸[りゅうきゅうりん]を生け捕りました。手柄を立てても恩賞を受け取らず、丁寧に挨拶して故郷に向かいました。これが私の日頃からの願いでした。しかし、太平天国が依然として南京一帯を占領しており、道がふさがれて貴州に閉じこめられてしまい、あれこれと心配しなくてもいいことまで心配しながら、この『間書』を書き上げました。自分の見解を原則とし、さまざまな書物に載っている文章と記録を引用して解説とし、原則を例証しました。スパイ活動を行う方法については、ほぼ収録できています。
 私は、ただの学者で、権限がなく、論じるだけで終わって実践する場がありません。ただ私の意見を採用して悪党を平定するなら、多くの人民にとっての幸いとなり、必ずしも学者の机上の空論に終わったりしません。
 別に『平黔策[へいてんさく]』二巻を編集して、本書で述べなかった不足点を補いました。

咸豊5年(1855年)冬日、華亭の朱逢甲、序す

(1)用間(スパイ活動)は、夏[か]国の君主の少康[しょうこう]に始まります。少康は、女艾[じょがい]に過[か]国の澆[とう](寒?[かんそく]の子)をスパイさせました。
『春秋左氏伝[しゅんじゅうさしでん]』「哀公[あいこう]元年」に、こうあります。少康は、部下の女艾に過国の澆を偵察させ、息子の季杼[きじょ]に戈[か]国のH[い](寒?の子)を誘導させ、ついに過国と戈国を滅ぼしました。

(2)殷[いん]国の伊尹[いいん]は、みずからスパイとなったことがあります。これを疑うのは、迂闊[うかつ]な学者です。
『孫子[そんし]』「用間篇」に、こうあります。殷[いん]国の創建にあたって、名臣の伊摯[いし](伊尹)が夏[か]国に潜入してスパイとして活動しました。周[しゅう]国の創建にあたって、名臣の呂牙[りょが](呂尚[りょしょう])が殷国に潜入してスパイとして活動しました。ですから、賢明な君主や優秀な将軍で、すぐれた人物をスパイとして使うことのできる人は、必ず大成功をおさめられます。以上は、戦争のかなめであり、全軍が動くにあたって頼りとするものです。
『困学紀聞[こんがくきもん]』(南宋の時代の王応麟[おうおうりん]の著書)に、こうあります。伊尹と太公望[たいこうぼう](呂尚)は、いずれも聖人です。2人がスパイになったというのは、戦国時代の評論家による聖人と賢人に対する中傷です。
 考えてみますと、伊尹は、聖人としての責任を果たした人で、人民を「水におぼれ、火に焼かれるようなひどい苦しみ」から救ったのである以上、みずからスパイになったことが、どうしてその経歴の傷となるでしょうか。王伯厚[おうはくこう](王応麟)は、頑迷な学者であり、見識が狭く、融通がききません(ですから、あのようなことを言っているのです)。孫子の言っていることには、間違いなく根拠があるのもで、勝手な憶測で批判できません。孫子が伊尹を伊摯と言っているのは、伊尹の本名が摯だからです。蔡?[さいゆう](後漢の時代の学者)の『釈誨[しゃくかい]』に、こうあります。伊摯は、鍋を背負って殷国の湯[とう]王に会いに行き、調理を例にして国を治める方法を説き、自分を重用するように請いました。その注に、こうあります。摯は、伊尹の名です。これは有力な証拠です。その他の本が伊摯の名を尹として呼んでいるのは、ちょうど伊尹を阿衡[あこう]や保衡[ほこう]と呼んでいるのと同じで、(職名で呼んでいるのであって)本名で呼んでいるのではありません。

(3)孔子[こうし]の高弟のうち、たとえば子貢[しこう]などは、かつてスパイ活動をして功績をあげました。
『李衛公兵法[りえいこうへいほう]』に、こうあります。子貢[しこう]、内史廖[ないしりょう]、陳軫[ちんしん]、蘇秦[そしん]、張儀[ちょうぎ]、范雎[はんしょ]などは、全員がこの方法(スパイ活動)によって功績をあげました。
 考えてみますと、子貢のスパイ活動のことは『孔子家語[こうしけご]』に見られます。
『孔子家語』「屈節解[くっせつかい]」に、こうあります。孔子は、衛にいたとき、こんな話を聞きました。「田常[でんじょう](斉[せい]国の大夫[たいふ])がクーデターを起こそうとしているが、高張[こうちょう]、国夏[こくか]、鮑書牙[ほうしょが]、晏嬰[あんえい]たち4人の有力者の反撃を心配して、それで有力者たちに出兵させて魯[ろ]国を攻撃しようとしている」という話です。孔子は、これを聞き、弟子たちを集めて話しました。
「魯国は、先祖代々の墓のある国であり、父母の国でもあり、救わないわけにはいきません。今、私は田常にへりくだって魯国を救いたいのですが、あなたがたのなかでだれが使者となってくれますか」
 子貢が立候補し、孔子はこれを許可します。
 子貢は、斉国に着くと、田常に説いて言いました。
「そもそも魯国は、討伐しにくい国です。しかし、あなたは魯国を討伐しようとしています。これは間違いです」
 田常は、言いました。
「魯国がどうして討ちにくいものか」
 子貢は、言いました。
「魯国は、その城壁は薄くて低く、その土地は狭くてやせ、その君主は愚かで仁(良心的)ではなく、その大臣はウソつきで役に立たず、その人民も戦いを嫌っています。これは合戦できません。あなたは呉[ご]国を討伐したほうがよいでしょう。そもそも呉国は、城壁は高くて厚く、堀は広くて深く、防具は堅固で新しく、士人は洗練されていて満ち足り、人材や精兵が国内にそろっており、さらに賢明な大夫に国を守らせています。これは討伐しやすいです」
 田常は、怒り、血相を変えて言いました。
「あなたが難しいとするのは、人が簡単だとするものだ。あなたが簡単だとするのは、人が難しいとするものだ。それなのに、そんなことを私に教えるのは、どういうことか」
 子貢は、言いました。
「私は、こう聞いています。『そもそも憂いが内にある者は強きを攻め、憂いが外にある者は弱きを攻める』と。今、あなたの憂いは内にあります。私は、こうも聞いています。あなたが三度も領地を与えられそうになりながら、三度もうまくいかなかったのは、大臣に反対する者がいたからだ、と。今、あなたは、さらに魯国を撃破して斉国の領土を広げようとしています。戦って勝つことで君主はおごり、敵国を撃破することで大臣は出世します。しかし、あなたの功績は、(戦争に参加しない以上)関係ありません。そうなれば、日に日に君主から疎遠にされていきます。これは、あなたが上は君主の心をおごらせ、下は臣下たちを好き勝手にさせたうえで、がんばって大事をなしとげようということです。それは難しいことです。そもそも上がおごれば、好き勝手をします。下が好き勝手をすれば、争います。これは、あなたが上は君主と心が離れ、下は大臣たちと争いあうということです。このようであれば、あなたの斉国における立場は危うくなります。ですから、呉国を討伐したほうがよいというのです。呉国を討伐して勝たず、人民が国外で死に、大臣が国内にいないということは、あなたの上には強い大臣による邪魔がなく、下には人民によるつきあげがなく、君主を孤立させ、斉国をコントロールするのは、あなただけということです」
 田常は、言いました。
「もっともだ。しかしながら、私の発案した軍事行動は、すでに魯国に向けて発動されている。ここで侵攻の向きを変えて呉国に行かせるなら、大臣は私を疑うようになる。どうしたらよいだろうか」
 子貢は、言いました。
「もし行軍の速度を遅くしてもらえますなら、私は呉王に会見を申し込みに行き、呉王に魯国を助けて斉国を攻めさせるようにします。あなたは、それを利用して兵隊を動かし、呉軍を迎撃してください」
 田常は、これを許諾しました。
 子貢は、そこで南に行き、呉王に会って言いました。
「私は、こう聞いています。『王者は他国の世継ぎを絶やさない。覇者は強敵を許さない。天秤にぶらさげた重たい分銅は、ちょっとした重さを加えると上下が変化する』と。今、強大な斉国は、弱小な魯国を侵略し、呉国と覇権を争おうとしています。これは王様にとって非常に憂慮すべきことです。なおかつ魯国を救うのは名誉なことであり、斉国を討伐するのは大いに利益となることです。泗水の近辺の諸侯をいたわり、乱暴な斉国を威圧して強大な晋国を屈服させるのは、呉国にとって莫大な利益となります。名目上は魯国を滅亡から救うことになりますが、実質上は強大な斉国を苦しめることになります。どうか王様、このことを疑わないでください」
 呉王は、言いました。
「すばらしい。しかしながら、私はかつて越[えつ]国と戦い、これを会稽[かいけい]で苦しめた。越王は今、自分に厳しくし、部下をねぎらい、呉国に報復しようと考えている。私が越国を討伐してからなら、斉国と戦うことができる」
 子貢は、言いました。
「越国の強さは、魯国にかないません。呉国の強さは、斉国にかないません。王様が斉国をそのままにして越国を討伐するときには、斉国は必ず侵略します。なおかつ王様が『滅びそうな国を救い、世継ぎを途絶えさせない』という名目を立てながら、小さな越国を討伐して強力な斉国を恐れるのは、勇気があるとは言えません。そもそも勇者は困難を避けず、仁者は約束を破らず、知者は時機を逃さず、義者は他国の世継ぎを絶やしません。今、越国を生き残らせて諸侯に仁を示し、魯国を救い、斉国を討伐し、晋国を威嚇[いかく]するなら、諸侯は必ず互いに連れ立って呉国に敬服します。覇業は完成します。もし王様がどうしても越国を警戒するなら、よろしければ私が東に行って越王に会い、一緒に斉国へ出兵させます。これは、実質的には越国の兵力を外に出すことになり、名目的には諸侯を率いて討伐に行くことになります」
 呉王は、大いに喜び、子貢を使者として越国に行かせました。
 越王は、子貢がやってくるということで、道を掃除して、郊外まで出迎えに行き、みずから馬車を運転して宿舎まで子貢を案内して、来訪の理由を質問しました。
 子貢は、言いました。
「今、私は、呉王に対して魯国を救い、斉国を討伐するように言いました。呉王は、斉国を討伐したいと思っているのですが、越国を警戒し、私に言いました。『越国を討伐してからなら、斉国と戦うことができる』と。そうなりますと、越国を壊滅させるのは確実です。なおかつ報復するつもりがないのに、他人から報復しようとしていると思われるのは下等です。報復するつもりがありながら、他人から報復しようとしていると思われるのは不安です。まだ開始していないのに、先に計画を知られるのは危険です。以上の3つは、行動を起こすにあたって大いに憂慮すべきことです」
 越王は、頭を下げ、二度お辞儀して言いました。
「私は、早くに父を亡くし、身のほどを知らず、呉国と戦い、会稽で苦しんだ。心底から痛い目にあい、昼も夜も憎しみがわきおこり、呉王を道連れにして死にたいと思っている。これこそが私の願いだ」
 越王は自分の発言について子貢に意見を求め、子貢は言いました。
「呉王は、人となりが乱暴で野蛮です。臣下たちは、うんざりしています。国家は、たびかさなる戦争で弱まっています。兵士は、がまんできなくなっています。人民は、呉王を怨んでいます。大臣は、心の中で反感をもっています。名臣の伍子胥[ごししょ]は、呉王に忠告したせいで、自殺に追いやられています。大臣の伯?[はくひ]は、呉国の政治の実権を握り、呉王に過ちがあっても忠告しないで迎合し、そうして私腹を肥やしています。このようである以上、呉王に報復するチャンスです。今、王様が誠実に出兵して呉王を補佐して呉王に思いのままにさせてやり、たくさんの財宝を贈って呉王の心を喜ばせ、へりくだって呉王に礼儀をつくすようにします。そうすれば呉王は確実に斉国を討伐します。呉王が戦って勝てなければ、王様にとって幸いとなります。戦って勝てば、遠征して晋[しん]国に向かいます。よろしければ私は北上して晋国の君主に会い、合同して呉国を攻撃するようにさせます。呉国の精兵は斉国で力尽き、呉国の重武装の兵士は晋国で苦しむことになりますが、こうして呉国が弱まったところで王様が呉国に攻撃をしかけます。こうなれば、呉国が滅ぶのは確実です。これぞ聖人が言うところの『相手に屈することで勢力を伸ばす』というものです」
 越王は、大いに喜び、子貢に約40キロの黄金、一本の剣、二本のすぐれた矛を贈りました。子貢は、受け取ることなく、そのまま呉国に行って報告しました。
 それから5日後、越王は全国の兵士を招集し、大夫の文種[ぶんしゅ]を使者として行かせました。文種は、呉王に頭を下げて言いました。
「東海の奴隷の勾践[こうせん](越王)の使者である私は、小役人の身分でありながら、ご挨拶にまいりました。今、大王は正義のため、乱暴な国を攻め、弱小な国を救おうということで、乱暴な斉国を苦しめて周国の天子をいたわろうとしています。よろしければ越国の3千人の兵士を総動員し、勾践みずから防具を身に着け、武器を手に取り、そうして先頭に立って戦いたいと願っております。いやしい越国の臣下の私は、勾践にかわって越国の王家が収蔵してきた道具、20の防具、鉄屈盧[てつくつろ]という矛、歩光[ほこう]という剣を献上し、そうして出兵を祝賀いたします」
 呉王は、大いに喜び、子貢に告げて言いました。
「越王はわが軍に従軍し、斉国を討伐したがっているが、よいか」
 子貢は、言いました。
「だめです。そもそも他人の国をからっぽにさせ、他人の兵隊をすべて出させ、さらにそこの君主を従軍させるのは、正しくありません。王様は、その贈り物を受け取り、その援軍を受け入れて、その君主の従軍は丁寧に断るべきです」
 呉王は、それを聞き入れ、そこで越王に断りを入れました。ここにおいて呉王は、9つの郡から徴兵した兵士をひきつれて出兵し、そうして斉国を討伐しました。
 子貢は、そこで呉国を去って晋国に行き、晋国の君主に向かって言いました。
「私は、こう聞いています。『配慮が事前に定まっていなければ、突発的な事態に対処できない。軍隊があらかじめ整っていなければ、戦いに勝てない』と。今、斉国と呉国が戦おうとしており、呉国が戦って勝たなければ、越国がこれに乗じて呉国を攻撃するのは確実です。斉国と戦って勝てば、必ずその兵隊を晋国に向けます」
 晋公は、大いに恐れ、言いました。
「どうしたらよいだろうか」
 子貢は、言いました。
「軍備を整え、兵士を休ませ、そうして待ち構えることです」
 晋公は受け入れ、子貢は晋国を去って魯国に行きました。
 呉王は、はたして斉国と艾陵で戦い、斉軍を大いに破り、七人の将軍の兵士を捕虜にしました。かくして、そのまま帰国せず、予想どおりに兵隊を晋国に向け、晋国と黄池で対峙します。呉国と晋国は、覇権を争いました。晋国は、呉国を撃破し、呉軍を大敗させます。越王は、その機に乗じて渡河して呉国を襲撃し、呉国の首都から七里の距離のところに布陣しました。呉王は、これを聞き、晋国を離れて帰り、五湖において越国と戦います。三戦して勝てず、首都の城門は突破されました。越国は、ついに呉王の王宮を包囲し、夫差[ふさ](呉王)を殺して、その大臣を処刑します。越国は、呉国を破ってから三年後、東に向かって覇者となりました。
 ですから、子貢は、一回だけ出ていって、魯国を守り、斉国を乱し、呉国を破り、晋国を強めて、越国を覇者としました。
 考えてみますと、以上の子貢のスパイ活動は、『国語[こくご]』『越絶書[えつぜつしょ]』『呉越春秋[ごえつしゅんじゅう]』『史記[しき]』のすべてに記載されており、『孔子家語』の記載とほぼ同じです。子貢のスパイ活動は、『孫子』の五間のうち生間にあたります。子貢が斉国、呉国、越国、晋国に用いたスパイ活動は、すなわち『李衛公兵法』の間隣に相当します。しかも、その策略は特に精妙であり、その弁舌は特に精緻です。

(4)わが清[しん]国の太宗文皇帝[たいそうぶんこうてい](ホンタイジ)も、かつてスパイ活動によって明[みん]国の経略[けいりゃく](方面軍の総司令官)の袁崇煥[えんすうかん]を殺して、天下を手にしました。
『明史』「袁崇煥伝」に、こうあります。これに先立つこと、崇禎[すうてい]6年(1633年)8月中旬、わが太祖高皇帝[たいそこうこうてい](ヌルハチ)が崩御しました。明国の袁崇煥は、弔問の使者を派遣し、なおかつ清国の虚実(長所と短所)を知ろうとしました。わが太宗文皇帝(ホンタイジ)は、使者を派遣して返礼しました。袁崇煥は、和議を結びたいと思い、書状を返礼の使者に預けて帰しました。
 崇禎7年(1634年)11月、清国の兵隊は、薊州[けいしゅう]を越えて西進しました。袁崇煥は、明国の首都に入って守り、清国の大軍と死力を尽くして戦い、互いに殺傷しあいました。首都の住民は、戦乱にまきこまれ、うらんで文句を言いました。
「袁崇煥は、敵軍を好きなようにさせて、兵権を握ろうとしているのだ」
 明国政府の役人も、袁崇煥が以前に清国に対して和議を申し込む手紙を送っていたことから、こう悪口を言いました。
「袁崇煥は、敵軍を誘いこみ、外圧によって和議を成立させようとしているのだ」
 明国の皇帝は、これを聞きました。
 わが清国は、この機にスパイ活動をしかけ、「清国と袁崇煥との間に密約がある」という話をして、捕虜にしていた明国の宦官にわざと聞こえるようにしました。それからひそかに見張りをゆるめ、わざと明国の宦官を逃がしました。宦官は、逃げていって皇帝に報告しました。皇帝は、それを信じ、12月の初めに報告を聞くために袁崇煥を再び呼び出したとき、袁崇煥を逮捕して投獄しました。

(5)太公望の『六韜[りくとう]』もスパイ活動を重んじています。
 太公望の『六韜』に、こうあります。遊士(弁舌のたくにな人)8人を置いて、敵の策略を調べ、敵の変事を探り、敵の本音を引きだし、敵の意思を見定めることを担当させ、そうして間諜[かんちょう](スパイ)とします。

(6)周公の編集した『周礼[しゅうらい]』に記載されている「邦?[ほうしゃく]」とは、スパイのことです。
『周礼』「秋官」に、こうあります。士帥(訴訟を管轄する役人)の仕事は、8つです。その1つは、「邦?」です。その注釈には、こうあります。?は、読みは酌と同様です。その意味は、状況をみてうまく秘密情報を盗み取ることです。ちょうど今で言う機密を偵察するようなものです。

(7)『爾雅』はスパイを「俔[けん]」と言っています。
『爾雅』「釈言」に、こうあります。スパイとは「俔」です。解説に、こうあります。反間は「俔」と呼ばれることもあります。

(8)『春秋左氏伝』はスパイを「諜」と言っています。
『春秋左氏伝』「桓公[かんこう]十二年」に、こうあります。楚[そ]国の軍隊は、絞[こう]国を攻撃しました。楚軍が分散して彭水[ほうすい]を渡河するとき、羅[ら]国の人は楚軍を攻撃したいと思い、伯嘉[はくか]に楚軍を諜(スパイ)させました。伯嘉は、三回にわたって見てまわり、数えました。
 さらに『春秋左氏伝』「宣公[せんこう]八年」に、こうあります。晋国の人は、秦国の諜(スパイ)を捕らえ、ただちに絳市[こうし]において処刑しました。スパイは、6日もしないうちに生き返りました。
 さらに『春秋左氏伝』「荘公[そうこう]二十八年」に、こうあります。諜(スパイ)は、報告して言いました。「楚軍は撤退しており、その陣地にはカラスがいます」
 さらに『春秋左氏伝』「哀公[あいこう]十一年」に、こうあります。日が暮れて、諜(スパイ)は言いました。「斉国の人は逃げました」
 さらに『春秋左氏伝』「僖公[きこう]二十五年」に、こうあります。晋侯[しんこう](晋国の君主)が原[げん]国を包囲したとき、諜(スパイ)が出てきて言いました。「原国は降伏しようとしています」
 考えてみますと、諜とはスパイです。『説文解字[せつもんかいじ]』に、こうあります。諜は、軍隊のなかの反間です。意味は、敵国の人のふりをし、敵軍のなかに入り、スキをうかがい、そうして帰ってきて自分の主君に報告するというものです。
 さらに鄭玄[ていげん]の『周礼』「掌戮[しょうさつ]」の注釈に、こうあります。諜は敵が反間に使うスパイという意味です。
 さらに杜預[とよ]の『春秋左氏伝』の注釈に、こうあります。諜は、偵察のことです。兵書では、諜を反間と言っています。
 さらに郭璞[かくぼく]の『爾雅[じが]』の注釈にも、こうあります。スパイは『春秋左氏伝』では諜と言われています。

(9)『礼記』はスパイを「覘」と言っています。
『礼記』「檀弓[だんきゅう]」に、こうあります。晋国の人で、宋[そう]国を覘(スパイ)していた者が、帰ってきて晋侯(晋国の君主)に報告して言いました。「宋国の陽門を守る兵士が死んだのですが、子罕[しかん](宋国の名臣)は、大声をあげて泣き、その死をいたみました。宋国の人民は、それを見て、感動しました。今のところ宋国は討伐できません」
 孔子は、これを聞き、言いました。「すばらしいものですね。国を覘(スパイ)するということは」

(10)『?冠子[かつかんし]』はスパイを「聖[せい]」と言っています。
『?冠子』「王鉄篇[おうてつへん]」に、こうあります。聖は、スパイであり、戦乱を未然に止めることができます。

(11)『史記』はスパイを「中?[ちゅうてい]」と言っています。
『史記』「淮南王伝[わいなんおうでん]」に、こうあります。淮南王には陵[りょう]という名の娘がいました。陵は、頭が良くて、話も上手でした。淮南王は、陵をかわいがり、陵に多くの金銭を与えて長安[ちょうあん](前漢[ぜんかん]国の首都)で中?(スパイ担当者)とし、皇帝の側近たちを仲間にとりこみました。
 孟康[もうこう]の注釈に、こうあります。?は、発音は偵[てい]と同じです。西方の人は、反間を偵としています。淮南王は、自分の娘を王のための偵(スパイ)としたのです。
 顔師古[がんしこ]の注釈に、こうあります。?とは、偵察することです。偵は、?と意味が同じですが、発音が異なっています。
 考えてみますと、『旧唐書[くとうじょ]』「李思行伝[りしこうでん]」に、こうあります。唐[とう]公(のちに唐国の初代皇帝となる李淵[りえん])は、隋[ずい]国に反旗をひるがえして挙兵するにあたり、覘(スパイ)に長安(隋国の首都)を?(スパイ)させました。
 さらに『旧唐書』「張説伝[ちょうせつでん]」に、こうあります。時事をうかがって?(スパイ)します。
 発音は、いずれも上声となります。顔師古の注釈に従って読みます。

(12)『後漢書[ごかんじょ]』はスパイを「偵」「候[こう]」と言っています。
『後漢書』「循吏伝[じゅんりでん]」に、こうあります。偵候(スパイ)と戍卒[じゅそつ](交代制の国境警備)を停止します。
『春秋左氏伝』の解釈に、こうあります。諜者[ちょうじゃ](スパイ)は「游偵[ゆうてい]」とも言います。

(13)『爾雅』の注釈に、こうあります。『春秋左氏伝注』の注釈はスパイを「細作[さいさく]」と言っています。
 郭璞の『爾雅』「釈言」の注釈に、こうあります。スパイとは今の「細作」です。
 杜預の『春秋左氏伝』「宣公八年」の注釈に、こうあります。諜(スパイ)は、行ったり来たりして間諜(スパイ)する者です。今はこれを「細作」と言います。

(14)古代の兵書、たとえば『孫子』『呉子[ごし]』は、いずれもスパイ活動を重んじています。必ずスパイ活動(情報収集)を行ってこそ、敵情を先に知ることができます。必ずスパイ活動(情報操作)を行ってこそ、敵軍をバラバラにすることができます。
『孫子』「用間篇」に、こうあります。賢明な君主や優秀な将軍が、行動を起こしたときには必ず敵に勝ち、人なみすぐれた成功をおさめられる理由は、先知[せんち](先に知ること・先に知らせること)にあります。先知にあたっては、神様のお告げに頼ることはできません。似たものから類推することはできません。迷信に従って占うことはできません。必ず人に頼ってこそ、敵情を知ることができるものです。すぐれた知恵がなければ、スパイをよく用いることができません。繊細さがなければ、スパイのもたらした情報の真偽をよく判断できません。
『呉子』に、こうあります。上手に間諜(スパイ)を行い、軽快な兵士を往来させます。敵の兵隊をバラバラにし、敵の君主と臣下を互いに怨みあわせ、敵の上司と部下を互いに責めあわせます。これが軍事の要点というものです。

(15)昔の名将で、たとえば李牧[りぼく]、信陵君[しんりょうくん]、韓信[かんしん]、李光弼[りこうひつ]といった人たちも、だれもがスパイ活動を重んじています。
『史記』「廉頗藺相如列伝[れんぱらんそうじょれつでん]」に、こうあります。李牧は、趙[ちょう]国の優秀な将軍で、つねに代[だい]と雁門[がんもん]にいて、匈奴[きょうど]族の攻撃に備え、烽火(のろし)を整え、間諜(スパイ)を増やしました。
『史記』「魏公子列伝[ぎこうしれつでん]」に、こうあります。魏[ぎ]国の信陵君が魏王と将棋をしていたとき、北部国境から烽火による知らせが届き、「趙国の軍隊がやってきて、領内に侵入しようとしている」と言ってきました。魏王は、将棋をやめ、大臣を招集して対策を協議しようとします。信陵君は、魏王を制止して、言いました。
「それは、趙王が狩りをしているのであり、侵略してきているのではありません」
 そこで、なにごともなかったかのように将棋を再開します。しかし、魏王は、心配で、心のなかは将棋どころではありませんでした。
 まもなく、北部国境から知らせが届いて、「趙国は、狩りをしているだけであり、侵略してきているわけではありません」と言ってきました。
 魏王は、大いに驚き、言いました。
「あなたは、どうしてこのことが分かったのか」
 信陵君は、言いました。
「私の食客[しょっきゃく]のなかに趙王の秘密をつかめる人がいます。趙王の行いは、その者がすぐに私に報告してきます。ですから、私は今回のことが分かったのです」
 考えてみますと、用兵においては、「自分を知り、相手を知る」ことが重要です。しかも、相手を知ろうとするときには、必ずスパイ活動を行ってこそ知ることができます。なおかつ知るときには、事前に知ることが重要です。すると、敵が攻めてきたときには、こちらは応戦の準備が整っています。敵が攻めてこないときには、こちらは心配しないですみます。
『孫子』「用間篇」に、こうあります。賢明な君主や優秀な将軍が、行動を起こしたときには必ず敵に勝ち、人なみすぐれた成功をおさめられる理由は、先知(先に知ること・先に知らせること)にあります。
 信陵君は、食客を使ってスパイ活動を行い、趙王が狩りをしようとしており、侵略しようとしているわけではないことを先に知ることができました。もし趙王が侵略しようとしており、狩りをしようとしているわけではないのであっても、信陵君はそのことを先に知ることができたでしょう。信陵君は、スパイ活動が上手で、孫子の言葉にひきあてて考えてみますと、まさに「英雄の所見は、ほぼ同じです」といった感じです。
『史記』によると、信陵君には『魏公子兵法』という著書がありました。その本は、スパイ活動については必ず詳しく述べていたことでしょう。現在、『孫子』13篇は残っていますが、『魏公子兵法』は失われています。残念なことです。なおかつ信陵君はスパイを上手に使いましたが、のちに魏王が秦[しん]国のスパイにだまされ、信陵君はついにスパイによって地位を失いました。これまた嘆かわしいことです。
『史記』「淮陰侯列伝[わいいんこうれつでん]」に、こうあります。韓信の兵隊は、井?[せいけい]から東に下って趙国を攻撃しようとしました。趙国の成安君[せいあんくん](陳余[ちんよ])は、兵隊を井?の出入り口に集め、20万人の兵力がいると称します。
 広武君[こうぶくん]こと李左車[りさしゃ]は、成安君に説いて言いました。
「韓信は、遠くからきて戦っています。私は、こう聞いています。『千里も遠くから食料を輸送するなら、兵士は飢えてくる』と。今、井?の道は、車両は整然と進めませんし、騎兵は隊列を組めません。その状況からして、食料はきっと後方に置いたままになります。そこで願わくば、私に3万人の奇襲部隊を与えて、わき道から敵の補給路を断たせてください。陛下は、陣地で守りに徹し、敵と戦わないでください。すると韓信は、進んでも戦えませんし、退いても帰れません。わが奇襲部隊が韓信の背後をふさぎ、10日もしないうちに、韓信と張耳の首は陛下の前に届けられます」
 しかし、成安君は広武君の意見に従わず、広武君の策略は用いられませんでした。
 韓信のスパイは、広武君の策略が用いられなかったことを知り、帰って報告します。韓信は、大いに喜び、そのまま兵隊をひきつれて最初の作戦どおりに井?から東に下りました。そのまま趙軍を大敗させ、成安君を殺し、趙王の歇[けつ]を捕虜にします。
 考えてみますと、韓信は、スパイを偵察に行かせ、広武君の策略が用いられないことを知り、そこで進撃しました。もちろんこれは重要な点です。用いられているのに進めば、韓信は捕虜にされていたでしょう。用いられていないのに進まなければ、韓信はチャンスを失ったでしょう。進退が打倒になるかどうかは、すべてスパイの偵察にかかっています。今の軍隊が進んだり止まったりするとき、スパイによる偵察をしないでよいでしょうか。
『旧唐書』「李光弼伝」に、こうあります。饒陽[じょうよう]にいた反乱軍が5000人の兵力で九門[きゅうもん]にやってきました。李光弼は、スパイを通してこれを知り、軽快な兵隊をひきつれて出陣し、軍旗や太鼓をふせて静かに進み、反乱軍が食事をしているときをねらい、反乱軍を襲撃して全滅させました。
 考えてみますと、信陵君は、スパイの報告にもとづいて兵隊をおしとどめました。李光弼は、スパイの報告にもとづいて一気に進みました。これが可能だったのは、敵の実情を先に知っていたからです。敵の実情を知りたいなら、まずスパイ活動を行わないといけません。

(16)昔の名将が名将とぶつかったときは、スパイ活動を使ったほうが勝っています。たとえば、秦国の白起[はくき]と趙国の廉頗[れんぱ]が戦ったとき、どちらも当時の名将でしたが、秦国はスパイ活動を使って戦い、結果として秦軍が勝利しました。秦国の王翦[おうせん]と趙国の李牧が戦ったとき、どちらも名将でしたが、秦国はまたスパイ活動を使って戦い、結果として秦軍がまた勝利しました。
『史記』「廉頗藺相如列伝」に、こうあります。秦軍と趙軍が長平[ちょうへい]で戦ったとき、趙国は廉頗に軍隊を指揮させました。廉頗は、陣地の守りを固め、戦わないようにします。秦軍は、何度も戦いを挑みました。しかし、廉頗は、まったく相手にしません。(そこで秦国は趙王に対してスパイ活動をしかけるのですが)趙王は、秦国のスパイを信じます。秦国のスパイは、こういう話をしました。
「秦国は、ただ馬服君[ばふくくん]こと趙奢[ちょうしゃ]の息子の趙括[ちょうかつ]が軍隊を指揮することを恐れているだけです」(訳注:将軍として、趙奢は有能でしたが、趙括は無能でした。このことを秦国はよく分かっていたのですが、趙王はよく分かっていませんでした)
 趙王は、そこで(名将の息子だから趙括も名将に違いないと思いこんでいたので)趙括に軍隊を指揮させることにし、廉頗と交代させます。趙括は、廉頗と交代すると、廉頗の定めた規則を変更し、軍吏[ぐんり](軍隊にいる役人)を異動させました。
 秦国の将軍の白起は、これを聞くと、(趙軍をおびき出すため)奇襲部隊を思いのままに動かし、わざと負けたふりをして逃げるようにさせました。かくして趙軍が追撃してきたところで、別働隊を趙軍の背後にまわりこませて趙軍の補給路を断ち、趙軍を2つに分断させます。趙軍の兵士は、士気が弱まりました。40数日後、趙軍は飢えに苦しむようになります。
 趙括は、精兵をひきいて出撃し、みずから武器を手にして戦いました。秦軍は、趙括を弓矢で射殺します。趙括の軍隊は敗北し、数十万の兵士はついに秦軍に降伏しました。秦国は、投降してきた趙軍の兵士を生き埋めにして皆殺しにします。
 さらに、こうあります。秦国は、王翦に趙国を攻撃させました。趙王は、李牧と司馬尚[しばしょう]に防衛させます。秦国は、趙王の寵臣[ちょうしん]の郭開[かくかい]に大金を与え、秦国のスパイとし、「李牧と司馬尚はクーデターを考えています」と言わせました。
 趙王は、郭開の言葉を信じ、趙葱[ちょうそう]と顔聚[がんしゅ]を行かせて李牧と交代させることにします。しかし、李牧は、命令に従いませんでした。趙王は、人を行かせてひそかに李牧を捕らえさせ、処刑し、司馬尚を解任します。王翦は、そこで急いで趙国を攻撃し、趙葱を殺し、趙王の遷[せん]とその将軍の顔聚を捕虜とし、ついに趙国を滅ぼしました。
 考えてみますと、廉頗と李牧は、いずれも趙国の名将ですが、いずれも秦国のスパイ活動にやられています。李牧は、郭開にスパイ活動をしかけられ、死にました。廉頗も、のちに郭開にスパイ活動をしかけられ、解任されました。
『史記』「廉頗藺相如列伝」に、こうあります。趙王は、再び廉頗を起用しようと思い、使者に廉頗が使えるかどうかを確認させました。郭開は、廉頗の仇敵だったのですが、使者に大金を与え、廉頗のことを悪く言わせます。使者が廉頗に会ったとき、廉頗は(自分が健康であることを見せるため)多くの食事を食べ、防具を身につけて馬に乗り、そうして自分が使い物になることを示しました。使者は、戻ると、趙王に報告して言いました。
「廉頗将軍は、老いているとはいえ、元気に食事していました。しかしながら、私が座っているとき、3度もトイレに行かれました」
 趙王は、廉頗が老いてしまったと思い、とうとう再び起用しませんでした。
 一人の郭開によって、二人の名将がスパイ活動にやられました。のちの全軍を統率する将軍は、つまらぬ人間の言葉をたやすく信じないようにしないといけません。

(17)スパイ活動の方法について言えば、『孫子』の言っている「五間[ごかん]」が最も精妙で、最も詳細です。
『孫子』「用間篇」に、こうあります。スパイ活動の方法として、次の5つがあります。郷間[きょうかん]があります。内間[ないかん]があります。反間[はんかん]があります。死間[しかん]があります。生間[せいかん]があります。この5つのスパイをすべて使いこなし、それをだれにも知られないようにします。これを「神紀[しんき]=運用の秘訣[ひけつ]」と言います。

(18) 五間の一つ目は、郷間です。そこの住民を利用してスパイ活動を行います。
『孫子』に、こうあります。郷間とは、敵国の住民を利用して、スパイ活動に行うことです。
 その注釈に、こうあります。敵国の住民は、敵国の表裏や虚実といった実情を知っています。ですから、敵国の住民を籠絡して利用すれば、スパイさせることができます。

(19)五間の二つ目は、内間です。そこの役人を利用してスパイ活動を行います。
『孫子』「用間篇」に、こうあります。内間とは、敵国の役人を利用して、スパイ活動を行うことです。
 その注釈に、こうあります。役人の身分でありながら役職からはずされている人、たとえば処刑された役人の子孫なので冷遇されている役人や、処罰された役人の一族なので冷遇されている役人などを利用します。これらの役人の政府に対する不満につけこみ、籠絡して利用します。
 考えてみますと、敵の仲間になっている人や、敵のところで役職についている人を利用して、スパイ活動を行うことは、内間となります。敵の支配する町に住んでいて被害を受けている人民を利用してスパイ活動を行うことも、内間となります。

(20) 五間の三つ目は、反間です。敵がスパイ活動をしかけてきたら、そのスパイを逆に利用してスパイ活動を行います。
『孫子』「用間篇」に、こうあります。反間とは、敵国のスパイを利用して、スパイ活動を行うことです。
 その注釈に、こうあります。敵がスパイにこちらのことを偵察させているとき、こちらはこれを知ったら、大金を贈り、待遇をよくし、敵のスパイを寝返らせてこちらのスパイとします。
 蕭世誠『孫子注』に、こうあります。敵の使者がやってきて、こちらのことをスパイしているとき、こちらは気づかないふりをしてウソの計画を示し、こちらが予定している計画の期日について、予定より早い期日か遅い期日を告げ、使者を帰らせて報告させます。これが反間というものです。
『李衛公兵法』に、こうあります。たとえば、敵の使者がやってきて、虚実(長所と短所)をおしはかり、こちらの動静を調べ、こちらの行動計画をうかがい知ろうとしていて、それでスパイ活動を行っていたとします。そのときには、こちらは気づかないふりをし、その使者を滞在させ、厚遇して接待します。そのとき、それとなくウソの発言やウソの計画を教えます。予定よりも早い期日か遅い期日を伝えます。そのうえで、こちらが計画どおりに動くと、それがそのまま敵の失敗につながります。敵のスパイ活動を逆手にとって、こちらのスパイ活動に利用します。敵がもしこちらの虚(短所)を実(長所)だと誤認したら、こちらは敵のまちがいを利用して目的を達成することができます。

(21) 五間の四つ目は、死間です。罪人をスパイとし、そのスパイの命と引き換えにして、こちらのスパイ活動を行います。
『孫子』「用間篇」に、こうあります。死間とは、外部に対してウソを本当のように見せかけることを行い、こちらのスパイにウソを知らせ、敵にウソの情報をつかませるスパイ活動です。
 その注釈に、こうあります。外部に対してウソのことを本当のように見せかけ、わざとウソのことをリークし、こちらのスパイにウソのことを本当だと思わせます。そのうえで、こちらのスパイを敵のところに行かせ、敵に逮捕させます。するとスパイは、必ずウソのことを事実として敵に教えます。敵は、そのウソに従って準備します。しかし、こちらの行うことは、そのとおりではありません。結果として、スパイはと言うと、殺されます。さらに、その注釈に、こうあります。敵のスパイがやってきて、こちらのウソのことを聞いて、そうして(ウソを本当だと思い)ウソを持ち帰ります。しかしながら、いずれもこちらの本当の意図ではありません。両方(敵と味方)のスパイは、いずれも裏の事実や深い秘密を知ることができません。ですから、死間と言うのです。
 蕭世誠[しょうせいせい]『孫子注』に、こうあります。逮捕した敵方の人間、命令に違反した兵士、重い罪を犯した犯罪者について、わざと罪を許してやり、こちらの情報をもらさないように厳しく命じます。それから、わざと秘密をもらし、敵のスパイにそれを盗み聞かせます。そのうえで、こちらは釈放して逃がします。逃げた人は必ず敵のところに戻ります。敵は逃げてきた人の話を信じます。しかし、ゆくゆくは(ウソをついたとして)殺されます。ですから、死間と言うのです。

(22) 五間の五つ目は、生間です。智者をスパイとし、スパイ活動が終わって、生還してこちらに報告します。
『孫子』「用間篇」に、こうあります。生間とは、情報を持ち帰ってくるスパイ活動です。
 その注釈に、こうあります。すぐれた才能と知恵をもち、自力で敵の有力者とのパイプをつくり、敵の動静を察し、敵の計画を知ることのできる人をスパイに選びます。その人は、実情を知ることができたら、帰ってきて報告します。ですから、生間と言うのです。

(23)五間は互いに補完しあって成立するもので、反間が郷間、内間、生間、死間の土台となります。
『孫子』「用間篇」に、こうあります。およそ撃破したい軍隊、攻略したい城、殺したい人などがある場合は、必ずそれを守る将軍、謁者、門者、舎人など(ターゲットに関係する人びと)の姓名を先に知り、それらの人物についてスパイに調べさせて知らせさせます。(原注:謁は、告げることです。謁者は、伝令係です。門者は、門番です。舎人は、宿舎を警備する人です。その人たちの名前を先に知っておくと、いざというときにはその人たちの名が呼ばれるわけですが、なにか大声で言われていなくても、それによって敵の状況が分かります)。こちらに潜入している敵のスパイを必ず捜索して見つけ出し、この機に乗じてスパイを利してまるめこみ、たくみに誘導してスパイを舎[やど]らせてたぶらかします。(原注:舎とは、滞在することです。こちらの人間に高価なものを贈らせ、そのうえ案内して滞在させます。そのときにはウソの話をさせます)。ですから、反間が獲得できて使えるようになります。それを利用して情報を知ることができるので、郷間や内間が獲得できて使えるようになります。(原注:敵のスパイをこちらのスパイとして、敵情を知ることができるので、郷間と内間も手に入れて使えるようになります)。それを利用して情報を知ることができるので、死間がウソを本当だと見せかけ、敵にウソをつかませることができます。それを利用して情報を知ることができるので、生間が計画どおりに活動できるようにさせることができます。5種類のスパイ活動のことについては、君主は必ず知っておかないといけません。(原注:君主は五間の機能を知り、その給与を多くし、その資金を豊かにしなければいけません)。知るにあたっては反間が基本となります。ですから、反間は大事にしないわけにはいきません。(原注:反間は五間の根本であり、スパイ活動の要です。ですから、反間を厚遇しなければいけないのです)。

(24)秘密にしてスパイの働きを神妙にし、厚遇してスパイの心をしっかりつかみます。このようにしてこそスパイを使えます。
『孫子』「用間篇」に、こうあります。全軍のなかで、スパイよりも親密にすべきポストはありません。(原注:もしも彼らを信任せず、恩寵せず、あわせて多くの賞与を与えなければ、彼らは敵に利用され、こちらの機密をもらします)。スパイよりも高給にすべきポストはありません。(原注:多くの給料を与えるのは彼を使用するためです)。スパイよりも秘密にすべきポストはありません。(原注:スパイを使って機密を保持しなければ、最初に自身が危害を受けます)。
 スパイした事柄について、公表するより先に聞き知っている人がいたなら、そのことをスパイした人とそのことを他人に話した人を殺します。
『李衛公兵法』に、こうあります。およそスパイは、すべて隠して秘密にしないといけません。多くの賞与を与え、絶対に秘密を保持してこそ、スパイ活動を行えます。
 考えてみますと、『史記』「魏公子列伝」に、こうあります。秦国は、晋鄙[しんぴ]の食客を探し出して信陵君にスパイ活動をしかけるのに、一万斤(約2560キロ)の黄金を費やしました。漢国は、陳平[ちんぺい]を使って楚国にスパイ活動をしかけるのに、四万斤(約10240キロ)の黄金を出し、陳平に好きなように使わせました。思うに、大金がなければ、スパイ活動を行えません。今は、物資が不足しています。どのようにしても大金をつぎこんでスパイ活動を行うことができません。しかしながら、金銭を惜しんでも、スパイ活動は行えません。そこで、政府軍や地方軍の兵士をリストラして、精兵を選んで残すしかありません。精兵がえりすぐられたら、物資が節約できて、そうして節約できた物資や資金の半分を使って、スパイ活動を行います。これによって節約とスパイ活動の費用の捻出の両方を実現できます。
 スパイ活動を行うにあたっては、秘密を大切にします。そのことは『易経[えききょう]』にも言われていて、「機密の事柄は、秘密にしなければ、災厄を生み出す」とあります。軍事の要点は、すべて秘密を大切にすることにあります。特にスパイ活動は、ただ秘密を大切にするのではなく、とりわけ秘密にしないといけません。

(25)秘密にしないことについては、楚国の太子の建[けん]の事例が手本となりえます。
『春秋左氏伝』「哀公十六年」に、こうあります。楚国の太子の建は、華氏[かし]の乱を避けて鄭[てい]国に逃げました。鄭国の人は、建を手厚く迎え入れます。それから建は、さらに晋国に行き、晋国の人と鄭国を襲撃することを共謀し、それから鄭国に戻ることを求めました。鄭国の人は、前と同じように迎え入れます。晋国の人は、スパイを行かせ、子木[しぼく](建)に「軍隊を行かせたい」と伝えて、約束しました。(原注:約束したのは、鄭国を襲撃する時期です。子木とは、建のことです)。子木は、自分の町で乱暴なことをしていました。領地の住民は、子木のことを鄭国政府に訴えます。鄭国の人は、建のことを調べていて建の陰謀を知り、晋国のスパイを逮捕しました。最後には子木を殺します。

(26)厚遇しないことについては、蘇徹[そてつ]の言葉が戒めとなりえます。
 蘇徹は、こう言っています。太祖[たいそ](趙匡胤[ちょうきょういん])は、将軍を使って国境を守り、すべてにわたって厚遇するために関税の収入を与え、豊かにするために金品と織物といった贈り物を与えました。そういうわけで、命知らずの兵士が、その恩賞をあてにし、身命を投げ出し、危険をおかし、敵国に深く入り、敵の陰謀をさぐって成果をあげたのです。結果として、敵の飲食や動静についてもわからないことがなくなりました。敵の侵攻があるたび、そのことを先に知ることができるようになりました。ですから、守備しないといけないところが少なくなって、兵力が集中できるようになりました。
 今はと言うと、そうではありません。政府が支出する経費は、多くても数千緡[びん]にすぎません。すべての予算は、そのなかに含まれています。監司[かんし](州や県を監察する地方長官)は、さらに出費と収入をチェックして、法律に従って管理しています。スパイ活動に至っては、役所が茶葉と布地を支給するだけです。そもそも百餅の茶葉や数束の布地など、そのために命をかけようとする人などいないことは明らかです。そういうわけで、今のスパイとなる人は、いずれも頼りになりません。うわさ話に耳を傾け、本当のように見えて本当ではない情報を集めています。国を出て遠くまで調べに行くこともありませんし、老人の世間話を聞いてまわるだけです。これでは、敵情が分かりません。
 そこで、願わくば、陛下は将軍を選任して、将軍を厚遇するために財産を使ってください。そうしてスパイを多く養わせ、耳目とさせてほしいと思います。そうすれば、たとえ強敵がいようとも、たやすく攻撃しようとはしてこなくなります。

(27)『李衛公兵法』の言う五間は、『孫子』の言う内容と互いに表裏の関係になっています。すなわち、一番目に「因邑人[いんゆうじん]」は「郷間」にあたり、二番目に「因任子[いんにんし]」は「内間」にあたり、三番目に「因敵使[いんてきし]」は「反間」にあたり、四番目に「択賢能[たくけんのう]」は「生間」にあたり、五番目に「緩罪戻[かんざいれい]」は「死間」にあたります。
『李衛公兵法』に、こうあります。スパイを使用する方法には五種類あります。@あるものは、敵の住民を利用し、ひそかに偵察させて報告させるものです。Aあるものは、任子(王族が人質として他国に送った自分の子供)を利用し、わざとウソの情報をリークして任子に敵に報告させるものです。Bあるものは、敵の使者を利用し、ウソの状況を見せてその情報を持ち帰らせるものです。Cあるものは、賢明で有能な人を慎重に選び、敵の向背(忠誠と不満)や虚実(短所と長所)をさぐらせて、帰還させて報告させるものです。Dあるものは、わざと犯罪者の罪を許し、それとなくウソの情報や現実でない計画をリークし、敵のところに逃げこませて敵に報告させるものです。

(28)李靖[りせい]は、スパイを論じるにあたり、さらに「間親[かんしん]」「間能[かんのう]」「間助[かんじょ]」「間隣[かんりん]」「間左右[かんさゆう]」といったスパイ活動の方法を言っています。
『李衛公兵法』に、こうあります。そもそも敵と戦って勝利するためには、どうして天地を頼りにできるでしょうか。人の努力によって勝利をつかむものです。古人のスパイ活動について次々と参照してみますと、間君[かんくん](敵の君主をスパイするもの)があり、間親(敵の身内をスパイするもの)があり、間能(敵の人材をスパイするもの)があり、間助(敵の味方をスパイするもの)があり、間隣(敵の仲間をスパイするもの)があり、間左右(敵の側近をスパイするもの)があり、間縦横[かんしょうおう](敵の参謀をスパイするもの)があります。
 考えてみますと、間君の例としては、たとえば子貢が呉国と越国に対して行ったものがあります。(原注:すでに前述しました)。
 間親の例としては、たとえば秦国のスパイが信陵君に対して行ったものがあります。(原注:『史記』にあります。あとで詳述します)。
 間能の例としては、たとえば蘇氏mそれい]が白起に対して行ったものがあります。
『戦国策[せんごくさく]』に、こうあります。蘇獅ヘ、東周[とうしゅう]王に向かって言いました。
「韓国と魏国を敗北させ、犀武[さいぶ](魏国の将軍)を殺し、趙国を攻撃して藺[らん]、離石[りせき]、祁[き]を占領したのは、すべて白起(秦国の大将)です。これは、白起の用兵のうまさによるものであり、さらに白起を勝たせようとする天命もあります。現在、白起は、魏国を攻撃しています。魏国は、必ず敗北します。魏国が敗北すれば、東周国が危なくなります。陛下は、これを阻止したほうがよいでしょう」
 蘇獅ヘ、白起に向かって言いました。
「楚国には養由基[ようゆうき]がいて、弓術にすぐれ、百発百中でした。ある人は、養由基に対して『あなたは弓術にすぐれているから、あなたになら弓術を教えられる』と言いました。養由基が『人は私の弓術をほめるが、あなたは私に弓術を教えられると言う。あなたは、私よりも弓術がうまいのですか』と言うと、ある人は『百発百中でも、よいときにやめないと、まもなく気力も衰え、弓がそり、矢がゆがみます。こうして一発でも命中しなければ、これまでの記録がむだになります』と言いました。今、あなたの功績は、とても多いものです。今、あなたは、さらに秦国の兵隊をひきいて国境をこえ、西周国と東周国を通過し、韓国を占領し、魏国を攻撃しようとしています。しかし、一つでも攻撃して成功しなければ、これまでの功績がすべて消えてしまいます。あなたは、病気だと言って、出陣しないほうがよいでしょう」

(29)間助の例としては、たとえば張孟談[ちょうもうだん]が韓氏と魏氏に対して行ったものがあります。
『戦国策』に、こうあります。晋国の智伯[ちはく]、韓氏、魏氏の三家の兵隊は、趙氏の晋陽[しんよう]城を包囲しました。趙氏の臣下の張孟談は、ひそかに韓氏と魏氏の当主と会見して言いました。
「私は、こう聞いています。『唇が滅びれば歯が寒くなる』と。現在、智伯は、あなたがた韓氏と魏氏の当主をひきい、趙氏を討伐しています。趙氏は、今まさに滅ぼうとしています。趙氏が滅びたときには、韓氏と魏氏の当主が次に智伯に討伐されることになります」
 韓氏と魏氏の当主は、言いました。
「どのようにしたら、よいのでしょうか」
 張孟談は、言いました。
「韓氏、魏氏、趙氏の三家で協力し、智伯を討ち滅ぼすべきです。この計画は、あなたがたの口かれ出で、私の耳に入って終わりです。他人に知られてはいけません」
 韓氏と魏氏の当主は、そこで張孟談とひそかに三家の軍隊が共同で行動を起こす期日を約束しました。約束の日、智伯氏の軍隊は堤防を築いて晋陽城を水攻めにしていたのですが、韓氏と魏氏の兵隊は、堤防を守る役人を殺して、堤防を決壊させて智伯の軍隊を水没させ、智伯を捕虜としました。

(30)間隣の例としては、たとえば張儀が楚王に対して行ったものがあります。
『戦国策』に、こうあります。秦国は、斉国を討伐したいと考えていました。しかし、斉国と楚国の関係が良好なので、秦国の恵[けい]王は悩みます。そこで、恵王は、張儀に対して言いました。
「どうしたらよいと思うか」
 張儀は、言いました。
「私に試させてみてください」
 張儀は、南下して楚王に会って言いました。
「斉王の罪として、わが国の王に対するものが多くあります。わが国は斉国を討伐したいのですが、楚国は斉国と仲良くされています。そういうわけで、わが国の王は、斉国に対する攻撃命令を出せずにいます。しかも、私は臣下としてなにもできずにいます。大王(楚王)がもし国境を封鎖し、斉国と絶交してくださるなら、私は秦王に頼んで、六百里四方の商於の地を楚国に割譲いたします。このようにすれば、斉国は必ず弱まります。斉国が弱まれば、斉国は大王の言うなりとなります。そのときには、北は斉国を弱らせ、西は秦国に恩を売って、しかも商於の地を独占して利益を得られます。そうなれば、この一つの計略によって、3つの利益がまいこんでくることになります」
 楚王は、大いに喜び、使者を行かせて斉国と絶交します。秦国と斉国は、ひそかに友好関係を結びました。
 楚国の使者が土地を受け取りに行くと、張儀は言いました。
「割譲するのは、ここからここまでの六里の地です」
 楚王は、大いに怒り、秦国を討伐します。秦国は、斉国と連合して楚国と戦いました。韓国は、秦国について参戦します。楚国の兵隊は、大敗しました。

(31)間左右の例としては、たとえば秦国のスパイが郭開に対して行ったものがあります。(原注:すでに前述しました)。

(32)間縦横の例としては、たとえば燕国が蘇秦に対して行ったものがあります。(原注:このことは『戦国策』に見られます)。

(33) 現在、「間能」「間助」「間隣」などの数種類のスパイ活動の方法については、まさに臨機応変に使用して活用することができます。
 考えてみますと、今のスパイ活動は、間能と間助をメインとします。たとえば、銅仁県[どうじん]の悪党(反乱を起こした苗族)は、勝手に任命した役人のなかに有能な人がいて、その人を反乱軍の将軍や軍師としています。その将軍をスパイするにあたっては、北宋[ほくそう]国の種世衡[しゅせいこう]が西夏[せいか]国の野利[やり]を離間させたようにします。(原注:あとで詳述します)。その軍師をスパイするにあたっては、漢国の陳平が楚国の范増[はんぞう]を離間させたようにします。(原注:あとで詳述します)。かくして反乱軍は、両腕を失ったようになります。
 さらに土寇[どこう](土着の悪党)や苗匪[びょうひ](反乱を起こした苗族)は、そのグループ数がとても多く、分散したら攻撃しづらくなります。集合したらとりわけ一掃しにくくなります。そこで1つのグループを離間させることができれば、1つのグループによる反乱軍への支援を減らすことができます。たとえば、張孟談が韓氏と魏氏を智伯から離間させ、ひそかに連合したようにします。(原注:すでに前述しました)。また、班超[はんちょう]が莎車[さしゃ]国を攻略するにあたり、亀茲[きじ]国を反間として利用したようにします。これらのスパイ活動は、すべて手本とできるものです。
 間隣について論じるなら、今の悪党にはいわゆる「隣(仲間)」がいません。しかしながら、土寇と苗匪は、その状態からして仲間みたいなものです。今の計略としては、土寇にスパイ活動をしかけて苗族を攻撃させたり、苗族にスパイ活動をしかけて土寇を攻撃させたりするとよいでしょう。なだめて投降を呼びかけてもダメなら、利益で誘導します。利益で誘導してダメなら、高い地位を餌にして誘惑します。高い地位を餌にして誘惑してダメなら、武力で威嚇します。恩恵を与えて籠絡し、かくして反間として利用すれば、互いがスパイとなって互いに攻撃しあいます。苗匪と土寇が互いに攻撃しあうのは、例えて言うなら虎が戦いあうようなもので、強いほうは必ず傷つき、弱いほうは必ず倒れます。弱いほうが倒れるのを待って強いほうを攻撃するなら、努力は半分で成果は二倍になります。あわてて人を虎と戦わせる必要はありません。さらに例えて言うなら、狩りをするようなものです。ただ猟犬を走らせてキツネやウサギをつかまえるのを待つだけでよいものです。さらにどうしてあわてて人をキツネやウサギと格闘させて互いに傷つく必要があるでしょうか。今、スパイ活動を使わないで、あわてて政府軍や地方軍を苗匪や土寇と戦わせるのは、ちょうど人をキツネやウサギと格闘させるようなものです。良い人民を悪い人民を互いに傷つけあわせるのは、失策です。ただ苗匪と土寇を離間して互いに戦わせるなら、どちらも同じく悪い人民ですから、勝てばもちろん喜ぶべきですが、負けて死んだり傷ついたりしても残念なことはありません。政府軍や地方軍を使って、こちらのために動いている悪党に対して、その威厳を高めてやり、その度胸を強めてやり、その背後を押さえてやって、その成果だけをもらえばよいのです。古人の間隣の方法は、その精神を学んで臨機応変に運用すれば、今でも大いに使うことができます。古人の兵書を読んで、その言葉にこだわって、決まりきった方法で変化している情況に対処しようとする必要はありません。神明(精神)を大切にして臨機応変に運用します。

(34)李靖は、さらに言っています。敵のところで優遇されている相手は、横から誘惑してスパイ活動に利用します。
『李衛公兵法』に、こうあります。もし敵のなかに寵愛[ちょうあい]され、腹心[ふくしん]として任用されている人がいれば、こちらはスパイを使って、その人が珍しいと思うものを贈り、その人が望んでいることをかなえてやり、それによって誘惑します。
 考えてみますと、敵の寵愛している人や腹心となっている人に対して、横から誘惑してスパイ活動に利用する例としては、たとえば、秦国の張儀が、楚国の懐王[かいおう]から大きな権限を与えられている?尚[きんしょう]を買収して、懐王から寵愛されている夫人の鄭袖[ていしゅう]に対して詭弁(正しくないことを正しいように見せかけた言葉)を使ったものがあります。(こうして張儀は、楚国の懐王をだましました)。

(35)敵のところで冷遇されている相手は、利益で誘惑してスパイ活動に利用します。
『李衛公兵法』に、こうあります。敵のなかに勢いを失い、不満に思っている人がいるなら、こちらとしては大きな利益を与えて誘惑し、だまして仲良くし、敵の内情をさぐってスパイ活動に利用します。

(36)えらぶっている相手は、おだててスパイ活動に利用します。
『李衛公兵法』に、こうあります。敵のなかにえらそうなことをたくさん言い、評論することを好む人がいれば、こちらとしてはスパイを使い、感心しているふりをしておだて、珍しい宝物をたくさん贈り、スパイとして利用できるチャンスをつかんでこちらのスパイ活動に利用します。

(37) 滞在している使者は、盗聴してスパイ活動に利用します。
『李衛公兵法』に、こうあります。相手の使者を滞在させ、こちらの人と一緒におらせ、敬意をもっているふりをして丁寧にもてなし、好意をもっているふりをして仲良くします。(そうして相手の油断をさそいながら)明けても暮れても自分のところに滞在させ、こちらは耳のよく聞こえる人を復壁[ふくへき](二重になっている壁)のなかに潜ませて使者と随行の会話を盗聴します。ただし滞在させすぎると、責められたり、怪しまれたりする恐れがあります。きっと以上のようにすることで、使者の心のうちを盗み取れるようになります。こちらは相手の計画を知ったところで、使者を行かせてスパイ活動に利用します。

(38)しかしながら、以上に紹介したいろいろなスパイの方法は、スパイ活動について深く述べたものではありません。かつて古今のスパイ活動を考察したのですが、スパイ活動で大きな成果をおさめたものは、さまざまに変化し、とらえどころがありません。その最も顕著な例をあげて以下に述べます。

(39)死間を巧妙に使ったものとして、たとえば、春秋[しゅんじゅう]時代、鄭国の武公[ぶこう]は関其思[かんきし]を使ってスパイ活動をしかけました。
『韓非子[かんぴし]』「説難[ぜいなん]」に、こうあります。鄭国の武公は、胡[こ]国を討伐しようと思い、まず自分の娘を胡国の君主と結婚させました。それから臣下たちに質問しました。
「私は軍事行動を起こしたいのだが、だれを討伐すべきだろうか」
 大夫の関其思は、言いました。
「胡国を討伐すべきです」
 武公は、怒って、関其思を処刑して言いました。
「胡国は兄弟の国だ。あなたは胡国を攻撃せよと言う。どういうことだ」
 胡国の君主は、このことを聞き、鄭国の君主が本当に自分のことを親密に思ってくれていると思い、警戒しなくなります。鄭国は、(胡国の君主が油断したところで)胡国を襲撃して撃破しました。
 考えてみますと、これは武公が関其思を死間としたものです。スパイが巧妙にすべきものだとはいえ、関其思にどのような罪があったと言うのでしょうか。君子(りっぱな人)は、このようなことはしません。
 今、もし悪党を平定しようとして、武力を用いるなら、勝ちにくいことは間違いありません。懐柔を用いるなら、悪党は信じません。必ずや一人の死刑囚を牢獄から出し、正装をさせ、ひそかに厳命して言います。
「明日の早朝、軍隊において、悪党を討伐すべきか、懐柔すべきかを会議する。おまえが大声で『討伐せよ』と言うなら、釈放してやる。おまえは、そうしなければ、死ぬことになる」
 翌日、死刑囚が厳命どおりにしたときには、いきなり死刑囚を斬り殺して言います。
「大将としては、懐柔することにする。討伐を主張する者は、これを見よ」
 このときには、その軍隊のだれもが恐れおののいていき、懐柔を主張するようになります。悪党は、これを聞き、(本気で懐柔してくれるのだと思いこみ)必ず懐柔を受け入れて従うようになります。
 こうして懐柔したあと、悪党のなかで表では懐柔を受け入れて従うと言いながら、裏では反乱しようと考えている人を密かにさぐり、その人を夜襲します。勝つのは、まちがいありません。しかも、軍隊の威光も高まります。
 裏で反乱を考えている人は、もちろん襲撃されて当然です。死刑囚は、もともと斬り殺されて当然です。鄭国の武公が罪のない人を殺して親戚を討伐したのとは、へだたりがあります。

(40)楚漢戦争の時代、漢国の張良[ちょうりょう]は?食其[れきいき]を使ってスパイ活動をしかけました。
『史記』「留侯世家[りゅうこうせいか]」に、こうあります。沛公[はいこう](劉邦[りゅうほう])は、二万人の兵力を使って、秦国の嶢山関[ぎょうさんかん]のもとにいる軍隊を攻撃しようと思いました。
 張良は、話して言いました。
「秦国の兵隊は強く、軽んじてはいけません。私の聞いたところでは、その将軍は屠殺[とさつ]業者の息子であり、いやしい商人は利益で動きやすいものです。そこで願わくば、沛公は陣地にしばらくとどまり、人を先に行かせ、5万人分の食事を用意させ、周囲の山々にたくさんの軍旗を立てて、あたかも大軍がいるかのように見せかけてください。そのうえで?食其をスパイ活動に使い、高価な宝物を持って行かせて秦国の将軍を買収させてください」
 秦軍の将軍は、思わくどおりに秦国を裏切り、沛公と連合して西に向かって咸陽[かんよう](秦国の首都)を襲撃したいと望みました。沛公は、秦軍の将軍の望みを聞いてやろうと考えます。
 張良は、言いました。
「これはただ秦軍の将軍が背いているだけです。おそらく兵士は納得しないでしょう。兵士が納得していなければ、まちがいなく危険です。相手の油断に乗じて攻撃したほうがよいでしょう」
 沛公は、そこで兵隊をひきいて秦軍を攻撃し、大敗させました。
 考えてみますと、張良は、?食其を使って敵に講和をもちかけながら、敵を攻撃しています。これは、?食其を死間として利用したのです。?食其は、幸いにして死なずにすみました。のちに?食其は斉国に降伏をもちかけたのですが、韓信は斉国を攻撃して、?食其を死間として利用しました。かくして?食其は死んでしまいます。
 張良は、?食其を使って秦国の将軍に講和をもちかけるにあたり、まず大軍がいるように見せかけることによって秦国の将軍をおどしました。それから高価な宝物を持って行かせ、秦国の将軍を買収させました。スパイ活動が終わって講和が成立したときには、油断して計画しなくなります。無防備になったところで攻撃するのは、まさしく『孫子』に言う「敵の不意をついて、敵の不備を攻める」ということです。勝つのは、まちがいありません。
 今、スパイしようと思うなら、まず強大な兵力を見せつけておどし、スパイ活動が成功して降伏するのを待ち、不意をついて攻撃するなら、うまくいかないことはありません。

(41)楚漢戦争の時代、韓信は?食其を使ってスパイ活動をしかけました。
『史記』「淮陰侯列伝」に、こうあります。漢王(劉邦)は、?食其を使って斉国を説得して降伏させました。韓信は、斉国への進攻を止めようとします。すると、?通[かいとう]は、韓信に話して言いました。
「漢王は、スパイを行かせて斉国を降伏させましたが、将軍に対して進軍を止めるように命令しましたか(命令がないのですから、このまま斉国を攻略して将軍の手柄とすべきです)」
 韓信は、?通の計略に従って、渡河して斉国に攻め入ります。斉国は、?食其の説得に従って降伏を決めていて、?食其と酒を飲み、防備していませんでした。韓信は、その無防備なところをつき、斉国の励下[れきか]にいた斉軍を襲撃し、ついには臨?[りんし](斉国の首都)に迫ります。斉王(田広[でんこう])は、?食其が自分を売ったのだと思って、?食其を釜茹[かまゆ]での刑にし、高密[こうみつ]に逃げました。
 考えてみますと、?食其は、すでに斉国を説得して降伏させていました。しかし、韓信は、?食其を死間として利用して、斉国を攻撃しました。唐代、唐倹[とうけん]は、すでに突厥[とっけつ]族を帰順させていました。しかし、李靖は、唐倹を死間として利用して、突厥族を攻撃しました。韓信と李靖は、死間を利用した点で共通しています。

(42)三国時代、呉国の陸抗[りくこう]は兪贊[ゆさん]を使ってスパイ活動をしかけました。
『三国志』「呉書」「陸抗伝」に、こうあります。呉国の西陵[せいりょう]城を守っていた歩闡[ほせん]は、西晋[せいしん]国に城を明け渡して降伏しました。
 陸抗は、これを聞くと、昼夜兼行で兵隊を急がせて西陵に向かいました。陸抗は、西陵城を囲んで堅固な陣地を築き、内に対しては歩闡を包囲できるようにし、外に対しては西晋軍を防げるようにします。しかし、西陵城を攻撃しませんでした。
 まもなく西晋国の将軍の楊肇[ようちょう]が、歩闡の援軍にやってきます。このとき呉軍の都督[ととく](将軍)の兪贊が、いきなり逃亡して楊肇に投降しました。
 陸抗は、言いました。
「兪贊は、わが軍の古くからの役人であり、わが軍の虚実(長所と短所)を知っている。私は、かつてわが軍の少数民族の部隊が十分に訓練されていないことを心配していた。もし敵が攻撃してくるとしたら、必ずそこをねらうだろう」
 その夜、陸抗は、少数民族の部隊を移動させて、すべてベテランの将軍の指揮下に入れます。
 翌日、楊肇は、陸抗の思ったとおり、もともと少数民族の部隊が守っていた場所を攻撃してきました。
 陸抗は、これを迎撃し、矢や石を飛ばして雨のように降らせます。楊肇は、夜になると逃げて行きました。陸抗は、追撃しないで、ただ鐘や太鼓を打ち鳴らさせ、兵士に大声をあげさせて、攻撃していこうとしているように見せかけます。楊肇は、全軍がパニックとなり、引き上げて言い来ました。
 かくして陸抗は、西陵城を取り戻し、歩闡を処刑します。
 考えてみますと、兪贊は逃亡して敵のスパイとなったわけですが、陸抗はその状況を活用して兪贊をこちらのスパイとしました。これは、兪贊を死間として利用したということです。
『孫子』の注釈に、こうあります。こちらの行動が内部のスパイに知られ、そうしてこちらの行っていることを敵に報告されても、報告のとおりでなかったなら、スパイはと言うと、殺されます。
 蕭世誠『孫子注』に、こうあります。裏切って逃亡した軍人は、思いのままに逃亡させてやります。逃亡した軍人は、必ず敵に帰順します。敵は、逃亡してきた軍人を必ず信じます。しかし、行っても(その軍人が敵に教える内容はウソになるので)必ず殺されます。ですから、死間と言われるのです。
 陸抗が兪贊をスパイ活動に利用した事例は、『孫子』に言う死間の奥義をきわめたものです。檀道済[だんどうさい]は敵に投降した兵士をスパイ活動に利用しましたが、これと陸抗の場合とは死間の使い方が同じです。

(43)魏晋南北朝時代、劉宋国の檀道済は逃亡した兵士を使ってスパイ活動をしかけました。
『宋書[そうしょ]』(正確には『南史[なんし]』「檀道済伝[だんどうさいでん]」)に、こうあります。劉宋[りゅうそう]国の檀道済は、北魏[ほくぎ]国を討伐しき行き、歴城[れきじょう]まで進出しました。北魏国は、軽騎兵を使って、その前後を遮断し、檀道済の兵隊の食料を焼き払います。檀道済は、軍隊の食料がなくなったので、引き返すことにしました。
 このとき、ある兵士が逃亡して、北魏国に投降し、檀道済のところに食料がないことを教えます。そこで北魏国の兵隊は、檀道済を追撃しました。檀道済の兵隊は、恐れおののき、今にもパニックになりそうになります。
 檀道済は、夜に砂山を作って食料の山のように見せかけ、声に出して山の数を計算し、そうして砂山には残っている米をかぶせました。翌朝になって、北魏国の兵隊は、食料の山を見て、檀道済のところには食料がたくさんあると言います。そうして、投降した兵士を「北魏国をだまそうとした」として斬り殺しました。こうして檀道済は、全軍を無事に帰国させます。
 考えてみますと、陸抗が兪贊を利用したこと、檀道済が逃亡した兵士を利用したこと、そして北宋国の麟州[りんしゅう]の軍人が異民族の人間を利用したことは、その死間の使い方において、事例としては違っていますが、内容として言うと同じです。ここにおいて、死間とは、臨機応変のものであることが分かり、手本とすべきものであることが見てとれます。

(44)唐代、李靖は唐倹を使ってスパイ活動をしかけました。
『旧唐書』「李靖伝」に、こうあります。衛公の李靖は、東突厥族を討伐しました。頡利河汗[けつりかがん](東突厥族の王)は、兵隊が敗北し、講和を求めます。
 唐国皇帝の太宗[たいそう](李世民[りせいみん])は、鴻盧卿[こうろきょう](外交官)の唐倹を行かせ、降伏を受け入れてやることにしました。頡利河汗は、表面的には腰を低くして従順にしていましたが、心のなかでは降伏すべきかどうか迷っていました。
 李靖は、言いました。
「頡利河汗は、敗北したとはいえ、依然として10万人以上の兵隊をもっている。もし砂漠の北に逃がしたときには、手を打ちにくくなる。今、皇帝の使者が頡利河汗のところに行っており、頡利河汗はまちがいなくおのずと警戒がゆるんでいる。もし一万騎の精鋭の騎兵を選んで襲撃したら、戦わずして頡利河汗を捕虜にできる。唐倹を犠牲にしても惜しくはない」
 ついに兵隊をひきつれて夜に出発し、東突厥族を大敗させました。

(45)北宋の時代、北宋国の麟州の軍人は異民族の人間を使ってスパイ活動をしかけました。以上はすべて死間を巧妙に使ったものです。
『東軒筆録[とうけんひつろく]』に、こうあります。麟州は、黄河の外にあり、西夏国の攻撃を防ぐ大事な土地でしたが、城内に井戸がありませんでした。慶暦年間(1041〜1048年)、ある異民族の人間が李元昊[りげんこう](西夏国の皇帝)に向かって言いました。
「(麟州城には城内に井戸がないので)半月も包囲すれば、兵士と住民はのどが渇いて死にます」
 李元昊は、兵隊を使って麟州城を包囲します。数日もすると、城内は窮地におちいりました。
 ある軍人が、麟州の将軍に対策を進言しました。
「(西夏軍が包囲をやめないのは、きっと水をなくならせて私たちを窮地においこもうとしているのです。ですから)願わくば、溝の泥をさらい、人に泥と水草を高く積み上げさせて(西夏軍に見えるようにして)ください」
 麟州の将軍は、言われたとおりにしました。
 李元昊は、泥と水草を見て、すぐさま今回の作戦を提案した異民族の人間に向かって言いました。
「おまえは井戸がないと言ったが、泥があるではないか」
 李元昊は、そのまま異民族の人間を斬り殺し、包囲をやめて去っていきました。

(46)反間を巧妙に使ったものとして、手紙を反間の方法としたものがあります。たとえば、戦国時代、秦国の将軍は趙国の李良[りりょう]に対してスパイ活動をしかけました。
『史記』「張耳陳余列伝[ちょうじちんよれつでん]」に、こうあります。趙王は、李良に太原[たいげん]を攻略させ、石邑[せきゆう]にまで進出させました。
 秦国の将軍は、秦国の二世皇帝の使者を偽り、李良に手紙を送ります。その手紙には封がなく、こう書かれていました。
「李良はかつて私に仕えており、高い地位を得ていた。李良が心から趙国に背き、秦国のために働くなら、李良の罪を許すだけでなく、李良を重用しよう」
 李良は、手紙を受け取ると、邯鄲[かんたん](趙国の首都)に戻り、兵力の増員を願うことにします。その途中、趙王の姉の一行に出会いました。李良は、趙王だと思って、道にひざまずきます。
 趙王の姉は、酔っていて、騎兵を行かせて返礼させました。李良は、もともとプライドが高く、バカにされて恥をかかされたと感じます。
 李良は、二世皇帝からの手紙も受け取っていましたし、もとから趙国に逆らいたいと思っていました。それで怒り、趙王の姉を追いかけて殺し、そのまま邯鄲を襲撃します。

(47)魏晋南北朝時代、西魏国の韋孝寛[いこうかん]は東魏国の牛道常[ぎゅうどうじょう]に対してスパイ活動をしかけました。
『魏書』に、こうあります。東魏国の将軍の段?[だんちん]は、宜陽[ぎよう]に拠点を置き、部将の牛道常を派遣して西魏国の国境地帯の住民をあおって味方に引き入れました。
 西魏国の将軍の韋孝寛は、これに抵抗し、スパイを派遣して牛道常の筆跡を調べさせ、字を書くのがうまい人に牛道常から韋孝寛に宛てた手紙を偽造させます。手紙の内容は、牛道常が西魏国に帰順するつもりだというものでした。さらに手紙には火をつけようとした跡をつけ、手紙を焼き捨てようとしたかのように見せかけます。それからスパイを段?の陣地に行かせ、そこに手紙を置いてこさせました。
 段?は、その手紙を見つけると、はたして牛道常を疑うようになります。結果、牛道常が考えた策略は、いずれも採用されなくなりました。
 韋孝寛は、二人が不和になったのを知ってから、その不和に乗じて奇兵(奇襲部隊)を出し、段?と牛道常たちを襲撃します。
 考えてみますと、筆跡を真似て手紙を偽造するときは、きわめて精細であり、きわめて巧妙でなければ、人を信じさせることができません。今、銅仁県で起きている反乱のリーダーたちは、だれもが挙人[きょじん](国家公務員採用試験に合格したエリート)です。金銭を使ってリーダーたちの筆跡と私印をひそかに手に入れ、反乱をやめて政府に帰順するつもりだという手紙を偽造し、リーダーたちを疑心暗鬼[ぎしんあんき]にさせて、おのずと互いに殺しあうようにするとよいでしょう。そうすれば、1枚の手紙が10万の大軍に勝ちます。筆跡をまねて、私印を偽造することは、もともと私(朱逢甲)の得意とするところです。

(48)唐代、唐国の韋皋[いこう]は雲南王[うんなんおう]に対してスパイ活動をしかけました。
『資治通鑑[しじつがん]』「唐紀[とうき]」に、こうあります。吐蕃[とばん]国は、10万の兵力を動員し、唐国の西川[せいせん]への侵攻を準備しました。このとき雲南地方の兵隊にも動員をかけます。雲南地方は、唐国に服属していましたが、対外的には吐蕃国に逆らおうとはしていませんでした。それで雲南地方も数万人の兵隊を動員し、濾北[ろほく]に駐屯します。
 唐国の韋皋は、雲南地方がどうしたらよいのか分からなくてグズグズしていることを知り、そこで雲南王に送る手書きを書き、吐蕃国に逆らって唐国に心から服属していることを示すように記しました。この手紙は銀の箱に入れられ、東蛮[とうばん]族の人間に吐蕃国に届けさせます。
 吐蕃国は、雲南地方を疑い始め、2万人の兵隊を派遣して会川[かいせん]に駐屯させ、そうして雲南地方から蜀[しょく]地方につながる道路を封鎖しました。雲南王は、怒り、兵隊を撤収し、国に帰ります。
 これによって雲南地方は、吐蕃国と互いに大いに猜疑[さいぎ]しあうようになり、唐国に服属する意思がさらに堅固となりました。吐蕃国は、雲南地方の助けを失い、勢いが弱まり始めます。
 考えてみますと、今、上流と下流の苗族が合同するのを心配し、苗族と土寇(地方の反乱分子)が合同するのを心配しています。これも以上の方法にならって、そうして離間させたほうがよいでしょう。

(49)南宋の時代、南宋[なんそう]国の岳飛[がくひ]は金[きん]国のスパイを使ってスパイ活動をしかけました。
『宋史』「岳飛伝」に、こうあります。岳飛は、劉豫[りゅうよ](金国の属国の斉国の統治担当者)が粘罕[ネメガ](金軍の総司令官)と組んでいましたが、兀朮[ウジュ](粘罕の部将)が劉豫を嫌っていることを知り、スパイ活動で動かせると思いました。
 岳飛は、軍中で兀朮のスパイを逮捕したとき、わざと責めて言いました。
「おまえは、わが軍に所属する張斌ではないか。私はおまえを派遣して斉国に行かせ、兀朮を誘導する約束をとりつけることにしたはずだ。おまえが行ったまま帰ってこないから、私は引き続いて人を派遣し、斉国にどうするかを問い合わせた。すでに今年の冬に連合して長江を侵略するというのを口実にし、兀朮を清河[せいが]に誘い出すということで話がついた。しかし、おまえは手紙を持ったまま斉国に行かなかったが、どうして私に背いたのか」
 スパイは、「どうか死刑にはしないでください」と願い、すぐさまひれふしました。
 岳飛は、そこで?書[さしょ](密封した手紙)をつくり、劉豫と共謀して兀朮を殺す計画を記します。そのうえでスパイに向かって言いました。
「私は今回、おまえを許し、再び斉国に派遣して行かせ、挙兵する期日を問い合わせることにする」
 岳飛は、そう言ってスパイの大腿部[ふともも]を切り、そのなかに手紙を入れ、決して秘密をもらさないように戒めました。
 スパイは、帰って手紙を兀朮に見せます。兀朮は、大いに恐れ、急いで皇帝に報告しました。結果、劉豫は、斉国の統治担当者を解任されます。
 考えてみますと、大腿部を切って手紙を隠せば、かなりの秘密だと印象づけることができ、信じさせやすくなります。

(50)北宋の時代、北宋国の種世衡は西夏国の野利王を使ってスパイ活動をしかけました。
『宋史[そうし]』に、こうあります。李元昊(西夏国の皇帝)には、腹心の将軍がいました。野利王、天都王[てんとおう]と言います。2人は、それぞれ精兵をひきいていて、北宋国の最大の害毒となっていました。
 北宋国の種世衡は、2人を除去したいと思いました。野利王は、かつて浪埋[ろうまい]、賞乞[しょうこつ]、媚娘[びじょう]の3人を使って、種世衡に投降の許可を申し出たことがありました。種世衡は、それがウソだと知り、こう言いました。
「3人を処刑するよりも、この機会をとらえてスパイ活動に利用したほうがよい」
 種世衡は、3人を留めて税を管理させ、往来するときには3人に騎兵を従わせ、とても優遇しました。
 ところで、紫山寺[しざんじ]の僧侶に法ッ[ほうしょう]という人物がいました。種世衡は、法ッがしっかりしており、素直であり、役に立つと察し、基地に招き、僧侶をやめて仕官するように求めます。
 法ッは、軍人として出征し、敵を捕虜にするという手柄を立てました。それで種世衡は、師府[しふ](司令部)に報告し、法ッを表彰して三班階職を授け、指揮使に任命してもらいます。さらに積極的に法ッの家事を援助し、およそ住居や騎兵の道具について、すべてを準備してあげました。
 法ッは、酒に狂っており、いろんな賭博[とばく]をやりました。しかし、種世衡は、法ッをますます優遇します。法ッは、恩に感じました。
 ある日、種世衡は、いきなり怒って、法ッに向かって言いました。
「私は、おまえをわが子のように大切にしてきた。それなのに、おまえは悪党たちとつるみ、どうして背こうとするのか」
 種世衡は、数十日にわたって法ッに苦痛を与え、とても苦しませます。しかし、法ッは、決して怨んだりせず、こう言いました。
「私は、りっぱな男です。あなたは、悪人にだまされ、私を殺そうとしています。それなら死ぬだけです」
 半年後、種世衡は、法ッが背かないことを察し、法ッの縄を解いて入浴させ、私室に招き入れ、厚くねぎらい、謝罪して言いました。
「おまえに罪はないけれど、試したのだ。おまえをスパイにしようと思うのだが、その苦しみは今回のものよりも大きいだろう。おまえは私の期待どおりに秘密を言わないでいられるか」
 法ッは、泣いて承諾しました。
 種世衡は、そこで野利王に宛てた手紙を書き、それを法ッの僧衣のなかに隠し、縫い付けます。それから法ッに頼んで言いました。
「これは、命にかえても、知られてはいけない。もし知られたときは、『恩を受けながら将軍に与えられた任務をこなせなかった』ということになる」
 さらに一枚の亀の絵と一本のナツメの枝を野利王のところに持って行かせました。
 野利王は、ナツメの枝と亀の絵を見て、きっと手紙があるに違いないと思い、調べます。法ッは、野利王の側近に目をやり、なにも言いませんでした。野利王は、そこで密封した手紙をしたため、李元昊のもとに送ります。
 李元昊は、法ッと野利王を遠くに連れ出し、持たされた手紙について問いただしました。法ッは、手紙などないと言い張ります。ひどい拷問[ごうもん]にあっても、決して言いませんでした。
 数日後、李元昊は、ひそかに法ッを宮殿に招き、人を通じて法ッに言いました。
「さっさと言わなければ殺す」
 法ッは、それでも言いませんでした。それで李元昊は、法ッを引っ立てて処刑するように命じます。法ッは、そこで号泣して言いました。
「むなしく死んで、将軍に与えられた任務をまっとうできなかった。私は将軍に背いた。将軍に背いたのだ」
 役人は、あわてて理由を尋ねました。法ッは、僧衣をぬぎ、手紙を取り出します。手紙は、李元昊に差し出されました。しばらくして、李元昊は、法ッを迎賓館[げいひんかん]に住まわせるように命じて、それから信任している将校をひそかに野利王の使者と偽り、種世衡のもとに遣わしました。
 種世衡は、李元昊の使者であると疑い、すぐには会わず、ただ配下の役人を毎日のように使者の宿舎に遣わして慰問させます。使者に興州[こうしゅう](西夏国の首都)付近のことを尋ねると、使者は詳しく知っていました。しかし、野利王のところのことを尋ねると、知りませんでした。
 ちょうどそのころ、西夏国の数人が捕虜として捕えられました。種世衡は、捕虜に壁の向こうから使者の顔をこっそりのぞかせて確認させます。捕虜の言った使者の姓名は、はたして李元昊の使者でした。そこで種世衡は、使者と会い、野利王の使者として手厚くもてなします。種世衡が使者を帰すのを見計らって、法ッも帰ってきて、野利王が李元昊に殺されたことを報告しました。
 種世衡は、野利王を殺したあと、さらに天都王も排除したいと思います。そこで国境地帯に祭壇を設置し、板に祭文を書き、「2人の将軍が自分とよしみを通じていた。わが国は2人が帰順しようとして失敗したことを悼[いた]んでいる」ということを記し、その祭文を祭事用の袋に入れました。祭事用の袋を燃やそうとしたところで、敵軍が来たので、急いで袋を捨てて帰ります.
 板は、燃え尽きることなく、敵兵に取られました。敵兵は、板を李元昊に差し出します。天都王も、これによって罪を問われて殺されました。
 北宋国と西夏国の和議が成立したあと、法ッは名前を王嵩[おうすう]に戻し、のちに官職が諸司使(財務長官)まで昇進しました。
 考えてみますと、このことは『資治通鑑』「宋紀」と沈括[ちんかつ]の『補筆談[ほひつだん]』の両方に記載されており、内容に違いがほとんどありません。
『補筆談』に、こうあります。種世衡は、法ッを厚遇し、軍事的な秘密の任務をいくつか与えて言いました。
「これを手伝ってもらいたい」
 種世衡は、法ッが出発するとき、自分の防寒服を脱ぎ、法ッに贈って言いました。
「北方の土地は、厳しくて寒い。これをせん別としよう。向こうに着いたら、あらゆる手をつくして遇乞[ぐうこつ]に会ってくれ。この人がいなければ、相手の内部に入れない」
 法ッは、教えられたとおりにし、あらゆる手をつくして遇乞に会おうとしました。西夏国の人は、これに気づいて疑わしく思い、役人に逮捕させます。
 数日後、ある人が防寒服のなかに隠された種世衡から遇乞への秘密の手紙を発見しました。その言葉は、とても親密でした。
 法ッは、はじめ服のなかに仕込まれた手紙を知らず、西夏国の人から厳しく拷問されても、とうとう本当のことを言いませんでした。西夏の人は、それで遇乞を疑うようになって殺し、法ッを北方の辺境に移送します。法ッは、のちに逃げ帰りました。
『補筆談』によると、防寒服のなかに隠された手紙は、法ッ自身も知らなかったので、法ッは大胆になれたのです。そもそもスパイ活動は、秘密のうえにさらに秘密でなければなりません。策略は、奇策のうえにさらに奇策でなければなりません。

(51)明代、明[みん]国の王陽明[おうようめい]は李士実[りしじつ]と芸人を使ってスパイ活動をしかけました。
『三大功臣伝[さんだいこうしんでん]』に、こうあります。寧[ねい]王の朱宸濠[しゅしんごう](明国の皇族の一人)が反乱したとき、王陽明は、兵隊がまだ集まっていなくて、朱宸濠が速やかに出兵することを心配しました。そこで、日に日に檄文[げきぶん]をとばし、各市町村に命令して軍糧を準備させます。さらに密書を偽造して、朱宸濠の参謀である李士実と劉養正[りゅうようせい]に送りました。そこには、こう記していました。
「君らから密書をもらい、君らの国に対する真心がよく分かった。君らはとにかく朱宸濠に早く出兵するように催促してほしい。朱宸濠がいったん本拠地を離れたときには、大事は成功している」
 そのうえで、次のようにしました。すなわち、あえて朱宸濠のスパイを捕らえ、斬り殺すつもりだと見せかけます。それから、頭のよい看守に命じ、朱宸濠に対して忠誠心をもっているふりをさせ、スパイに?書(密封した手紙)をリークさせてスパイを逃走させます。
 朱宸濠は、逃げてきていたスパイから密書を得て、ためらって出兵を決断できなくなります。しかし、李士実と劉養正は、相談して、いずれも急いで南京を攻め、皇帝に即位するように勧めました。朱宸濠は、ますます疑念をいだくようになります。それから十数日後、偵察して南京の内外には兵隊が到着していないことを知り、そこで王陽明にだまされたことに気づきました。
『智嚢補[ちほうほ]』に、こうあります。王陽明は、豊城[ほうじょう]を通過したとき、朱宸濠の反乱を聞きましたが、まだ兵力がそろっておらず、急いで船に乗って吉安に行こうとしました。しかし、船頭は、朱宸濠が千人の兵隊を出して王陽明を襲おうとしていると聞いており、怖がって船を出そうとしません。そこで、王陽明は、剣を抜いて船頭の耳をつきつけることで、ようやく船頭に船を出させることができました。
 夕暮れになったとき、王陽明は、このままでは逃げ切れないと思い、こっそりと漁船に乗り換え、そうして粗末な服に着替えて出発します。さらに部下の一人を残し、自分の冠をかぶらせ、もとの船に乗せたままにしました。朱宸濠の兵隊は、はたして船を襲い、王陽明の身代わりを捕らえます。かくして王陽明が遠くへ行ってしまったことを知り、追跡をやめました。
 王陽明は、途中、朱宸濠がすばやく出兵するのを心配します。そこで、スパイ活動を行い、政府からの密書を偽造し、両広と湖襄の都御使(監察官)と南京の兵部(軍事行政を担当する役所)に命令を出し、それぞれ将軍に命じて出兵させ、ひそかに要害の地にひそませ、そうして朱宸濠の兵隊を待ち構えさせ、朱宸濠の兵隊がきたら襲撃して全滅させるようにそれぞれ将軍に命令させて出兵させ、ひそかに要害の地に展開させて、朱宸濠の反乱軍を待ち受けて撃滅させるようにしました。
 さらに王陽明は、数人の芸人をつかまえ、それぞれに王陽明の密書を上着のなかにしまわせます。芸人をスパイとして出発させるにあたり、朱宸濠の参謀の一族を逮捕して船尾に連行し、その一部始終を目撃させました。そのうえで王陽明は、怒ったふりをし、参謀の一族をしばって岸にあげ、処刑するつもりだと見せかけます。しかし、岸にあげたところで、わざと逃亡させ、王陽明が芸人に密書を託していることが朱宸濠に伝わるようにしました。
 朱宸濠は、捜索して芸人を逮捕し、芸人の持ち物から王陽明の密書を見つけます。密書を読んで仲間の裏切りを疑い、出兵をためらうようになりました。
 さらに『智嚢補』に、こうあります。王陽明は、吉安[きちあん]に到着し、兵糧を挑発し、兵糧がほぼ準備できてから、はじめて檄文を飛ばし、兵士を徴集して南昌[なんしょう]城に向かいました。このとき、偵察員が言いました。
「新旧廠[しんきゅうしょう]の伏兵が一万人いて、?角[いかく](側面からけんせいする部隊)として待機しています」
 王陽明は、そこで兵隊を派遣して、敵の?角を襲撃して撃破することにします。そこで、伍文定[ごぶんてい]たちに作戦計画を伝えました。
「まず遊撃部隊を使って敵を誘い、さらに負けたふりをして敵を操り、そこで敵が有利になったと思いこんで先を争って追いかけてくるのを待ち、それから四方から一斉に攻撃し、伏兵は同時に襲いかかれ」
 王陽明は、さらに城内にいる皇族のなかに反乱に内応する者が出るかもしれないことを心配し、みずから慰問してまわります。また、次のような告示を出しました。
「脅迫されて敵に協力した者は、その罪を問わない。かつて反乱軍で仕事をしていても、逃げてきて帰順する者は、一律に死罪を許す。敵を殺して投降してきた者は、一律に恩賞を与える」
 これを城の内外にいる住民と道案内の人に四方に宣伝してまわらせました。
 さらに兵隊を分け、九江[きゅうこう]と南康[なんこう]を攻撃し、そうして敵の退路を塞ぎます。ここにおいて兵力を集中して一斉に攻撃し、反乱の首謀者の朱宸濠を捕らえました。
 考えてみますと、王陽明が李士実を利用したのは、岳飛が金国の人を利用したのと同じ方法です。王陽明が芸人を利用したのは、種世衡が法ッを使用したのと同じ方法です。しかし、その臨機応変さは巧妙であり、ただのモノマネではないと思えます。

(52)明代、李充嗣[りいんし]は朱宸濠に対してスパイ活動をしかけました。
 陳継儒[ちんけいじゅ]『見聞録[けんぶんろく]』に、こうあります。朱宸濠の反乱の失敗は、王陽明の功績となっていますが、実際のところ李悟山[りごさん]の力が大きく貢献しています。李悟山は、呼び名は充嗣で、四川[しせん]内江[ないこう]の人です。正徳[せいとく]14年(1519年)、李充嗣は、巡撫[じゅんぶ](地方の長官)として南京[なんきん]に着任したとき、朱宸濠が護衛を増やしていると聞き、ため息をついて言いました。
「虎が翼をつけ、災いが起きようとしている」
 ついに李充嗣は、朱宸濠が反乱を起こそうとしていることを政府に力説しました。しかし、政府の議論は、この問題に手を焼きます。そこで李充嗣は、みずから軍備を整えました。兵隊のなかで、ただ指揮使の楊鋭[ようえい]にだけ手を組んで丁寧に挨拶し、昇進させて言いました。
「この地域の安全は、あなたに任せます」
 正徳15年(1520年)、反乱軍は、九江を陥落させます。李充嗣は、みずから指揮して采石磯[さいせきき]に駐屯し、そうして長江の上流に向かう通路を封鎖し、急いで兵隊を動員するように城に伝えました。楊鋭は、タイミングよく敵軍に応戦し、戦うたびに勝利します。
 さらに李充嗣は、軍事通信を用いて間諜火牌[かんちょうかはい](秘密の緊急通信)を出しました。そこに記された内容は、こうです。
「緊急の軍事情報を出す。関係している欽差、太監、総兵などの役人は、政府軍の兵士10万人を統率しており、その半分は南京に到着し、その半分は安慶[あんけい]に急行している。あわせて両広[りょうこう]の狼兵[ろうへい](勇猛だけど乱暴な狼族の兵隊)と湖広[ここう]の土官[どかん](現地の役人)を招集し、その日のうちに水路と陸路の両方を使って進み、一緒に安慶に行って合流する。頃合いを見計らって江西[こうさい]の反乱軍を攻撃しに行く。今は火牌(緊急通信)を出して前線の近くにいる役人に知らせる。役人は、一心同体となって防衛し、食料を備蓄し、状況に応じた指示に従ってもらいたい」
 朱宸濠は、船団をひきいて李陽河に着いたとき、火牌を見つけ、その内容を見て大いに恐れます。これによって兵士の半分が逃亡しました。
 これに続いて李充嗣は、さらに水兵1000人を出発させ、たくさんの軍旗を掲げさせ、100隻の快速船に乗らせ、太鼓と喚声[かんせい]を轟かせながら進ませます。その声は、安慶を元気づけるのに役立ちました。安慶を守備していた兵隊は、李充嗣の派遣した水軍を見て、士気が100倍となります。楊鋭は、ただちに安慶の城門を開いて出撃しました。
 水上と陸上の両方からの攻撃によって、反乱軍は大敗して逃げていきます。
 このとき朱宸濠は、黄石磯[こうせきき]に駐屯していたのですが、敗北の知らせを聞き、夜のうちに逃げていきました。李充嗣は、みずから兵隊をひきいて追撃します。朱宸濠は、?陽湖[はようこ]まで逃げていったのですが、そこで王陽明がひきつれてきた兵隊に出くわし、捕虜にされました。
 その後の論功行賞において、李充嗣は賞されませんでした。御史[ぎょし](監察官)の湖潔[こけつ]は、李充嗣の活躍をじかに見ていたので、ねんごろに政府に対して李充嗣の功績を申し立てます。しかし、政府からの返事はありませんでした。
 考えてみますと、火牌を用いて反間を行うのは、ちょうど手紙を使うのと同じです。以上は、まさしく臨機応変にうまくやれた事例です。

(53) 敵のスパイを反間の方法としたものがあります。たとえば、戦国時代、趙国の趙奢[れんぱ]は秦国に対してスパイ活動をしかけました。
『史記』「廉頗藺相如列伝」に、こうあります。秦国は、韓国を攻撃し、閼与[あつよ]に軍隊を駐屯させました。趙王は、廉頗[れんぱ]を呼び、質問して言いました。
「閼与は救えるだろうか」
 廉頗は、答えて言いました。
「道が遠く、険しく、狭くて、救いがたいです」
 趙王は、さらに趙奢を呼んで質問しました。
「道は遠く、険しく、狭いですが、ちょうど穴のなかで2匹のネズミが戦うようなもので、勇ましいほうが勝ちます」
 趙王は、そこで趙奢を将軍とし、閼与を救わせることにします。趙奢は、兵隊が邯鄲(趙国の首都)を出て30里のところで進軍を止め、全軍に命令して言いました。
「作戦のことで忠告してくる者がいれ、処刑する」
 いっぽう秦軍は、武安の西に駐屯します。秦軍が太鼓を打ち鳴らして兵隊をまとめると、武安[ぶあん]にある家屋の屋根が震動しました。
 趙軍で偵察を担当していた人が「急いで武安を救いましょう」と言うと、趙奢はすぐさまその人を処刑します。趙奢は、陣地の守りを固め、じっとして28日にわたり行動せず、さらに陣地の守りを強化しました。
 秦軍のスパイが入って来たとき、趙奢はスパイに食事をもてなして帰します。スパイは、このことを帰って秦国の将軍に報告しました。秦軍の将軍は、大いに喜んで言いました。
「首都から30里のところで駐屯して行動せず、陣地を強化しているとは、もはや閼与は趙国のものではない」
 いっぽう趙奢は、秦国のスパイを帰したあと、すぐさま全軍の兵士に重たい装備をはずさせて急いで進軍させ、2日と1夜で閼与の近くに到着しました。それから弓矢の名手を閼与から50里のところに行かせて駐屯させます。軍隊の陣地も完成しました。
 秦国の人は、これを聞くと、防具を身につけてやってきて、戦おうとします。
 このとき趙軍の軍人の許暦[きょれき]は、趙奢に忠告して言いました。
「先に北山[ほくざん]の山上を占拠したほうが勝ち、あとから着いたほうは負けます」
 趙奢は、許暦の忠告を聞き入れ、すぐさま1万人の兵隊を北山に行かせました。
 秦軍は、あとから到着し、北山を奪い取ろうとします。しかし、山上を取れませんでした。
 趙奢は、兵隊を思いのままに戦わせて秦軍を攻撃し、大敗させました。

(54)楚漢戦争の時代、漢国の陳平は范増に対してスパイ活動をしかけました。
『史記』「陳丞相世家[ちんじょうしょうせいか]」に、こうあります。陳平は、言いました。
「項羽(楚国の君主)の硬骨な臣下としては、范増、鍾離昧[しょうりまい]、龍且[りゅうしょ]、周殷[しゅういん]など、数人がいるだけです。大王(劉邦)が本当に数万斤の黄金を出し、反間を実行し、項羽と臣下を離間させ、そうして項羽に臣下を疑わせるなら、項羽[こうう]の人となりは疑い深く、悪口を信じるので、必ず内部で殺しあいます。漢国は、それに乗じて挙兵して楚国を攻撃すれば、楚国を撃破できるのは、まちがいありません」
 漢王(劉邦)は、そのとおりだと思い、そこで4万斤の黄金を出して陳平に与え、好きなように使い、使い道は報告しなくてよいとしました。陳平は、多額の黄金を使い、楚軍に対して反間を思いのままに行い、次のような噂を流します。
「鍾離昧たちは、項羽の将軍となり、多くの功績をあげた。しかしながら、領地を与えられて王になることはできなかった。だから、漢国と一緒になって、項羽の一族を滅ぼして楚国を分割して王になろうとしている」
 項羽は、漢国の思わくどおりに鍾離昧たちを信じなくなりました。項羽は、鍾離昧たちを疑うようになってから、使者を漢国に行かせます。
 漢王(劉邦)は、最高の料理を用意して楚国の使者に料理を出したのですが、楚国の使者を見ると、わざと驚いて言いました。
「私は、亜父[あふ](范増)の使者が来たのかと思っていたが、項羽の使者だったのか」
 漢王は、料理を持ち帰り、粗末な料理に交換し、楚国の使者に出しました。
 楚国の使者は、帰国し、このことを詳しく項羽に報告します。項羽は、漢国の思わくどおり范増を疑うようになりました。
 その後、范増は、急いで栄陽城を攻め落としておきたいと思います。しかし、項羽は、范増を信用せず、聞こうとしませんでした。范増は、項羽が自分を疑っていることを聞くと、怒って言いました。
「天下の大事は定まりました。あとは陛下が自分でなんとかしてください。どうか引退して帰郷させていただきたい」
 范増は、帰途についたのですが、彭城[ほうじょう]に到達しないところで、背中に腫[は]れ物ができて死にました。

(55)唐代、唐国の李愬[りそ]は敵のスパイを使ってスパイ活動をしかけました。
『唐書』「李愬伝」に、こうあります。李愬は、蔡州[さいしゅう]を攻撃しようとしました。昔の法律では、スパイをかくまった者は一族皆殺しでした。李愬は、その法律を作り変え、スパイに対して寛大な処理を行うようにします。ですから、スパイは、敵を裏切って李愬のために実情を知らせるようになりました。結果、李愬は、敵の虚実(短所と長所)について、ますます知ることができるようになりました。
 明代の馮夢龍[ふうむりゅう]は、こう言っています。スパイを使いこなせる人は、スパイに対して寛大な処理を行います。しかしながら、必ずだれがスパイであるかを先に知ってこそ、スパイを使いこなせます。必ず人民にスパイを隠させないようにさせられてこそ、だれがスパイであるかを知ることができます。必ず懐柔と威嚇によって人民を心服させられてこそ、人民にスパイを隠さないようにさせられます。ああ、なんとも説明しにくいことです。

(56)唐代、唐国の高仁厚[こうじんこう]は阡能[せんのう]のスパイを使ってスパイ活動をしかけました。
『唐書』に、こうあります。?州[きょうしゅう]の副将の阡能が反乱を起こし、四川の一帯を騒がせました。招討使[しょうとうし]の高仁厚は、兵隊をひきいて反乱軍を討伐することになります。
 出陣の前日、小麦粉の商人が陣地のなかにやってきました。巡回の兵士は、敵のスパイではないかと疑い、逮捕して尋問します。すると、はたして阡能のスパイでした。
 高仁厚は、スパイの縄をほどくように命令し、スパイに尋問します。
 スパイは、答えて言いました。
「私は、村人ですが、阡能が私の父母と妻子を捕らえて投獄し、『おまえは、スパイをして帰ってこい。敵の実情をつかんでくれば、おまえの家族を釈放してやる。そうでなければ、家族は皆殺しだ』と言いました。私は、スパイになりたくてスパイになったわけではありません」
 高仁厚は、言いました。
「もし事実がそうであるなら、どうして私はおまえを殺せようか。今、私はおまえを釈放して帰し、おまえの父母と妻子を救おう。ただし、おまえは阡能に話して、こう言え。『高仁厚は、明日になったら出陣しますが、ひきいているのは500人にすぎず、多くの兵隊を持っていません』と。そうして私がおまえの家族を救ったなら、おまえは私のために砦のなかの人間に話して、こう言え。『高仁厚は、おまえたち善良な人民をかわいそうに思っており、おまえたちが反乱軍に従っていることについて、それもやむをえないことだと思っている。高仁厚は、おまえたちを救い、罪に問いたくないと思っている。高仁厚が来たら、おまえたちはそれぞれ武器を捨て、投降せよ。高仁厚は、人を使っておまえたちの背中に『帰順』と書き、おまえたちを帰して、もとの仕事に戻させるつもりだ。高仁厚が処刑したいと思っているのは、阡能、羅渾フ[らこんげき]、句胡僧[くこそう]、羅夫子[らふうし]、韓求[かんきゅう]の5人だけだ。人民まで連座して罰するつもりはない』と」
 スパイは、言いました。
「それは、まったく住民の気持ちをくんでくださったものです。閣下が住民のことを知って許してくださるとのことで、だれもが踊りあがって喜んで命令に従うでしょう」
 こうして高仁厚は、スパイを帰しました。
 翌日、高仁厚の兵隊は、出発し、双流まで行きました。すると、現地の把截使[はさいし](軍事長官)の白文[はくぶん]が姿を見せ、高仁厚を出迎えます。高仁厚は、城の堀と柵を眺めまわすと、怒って言いました。
「阡能はただの使用人で、その兵隊は農民にすぎない。当地の兵力をすべて動員しながら、1年以上も阡能を捕らえられずにいる。今、堀と柵がいくえにもあるのを見たが、このように堅固だ。これならゆっくり眠り、たっぷり食べられるだろうが、反乱軍に勢力を拡大する時間を与え、反乱軍に貢献したわけだ」
 高仁厚は、白文を逮捕して処刑するように命令しました。しかし、監軍[かんぐん](中央政府から派遣された軍事顧問)が熱心に助命を願ったので、やっとのことで許します。
 高仁厚は、城の堀と柵をすべて撤去し、500人の兵士に守らせます。残りの兵士は、すべて高仁厚の指揮下に組みこみました。さらに各地の砦にいる兵士に招集をかけたのですが、招集された兵士はあいついで集まってきました。
 阡能は、高仁厚がやってこようとしていることを聞き、羅渾フを行かせて双流[そうりゅう]の西に5つの砦を築かせ、1000人の伏兵を野橋?[やきょうせい]に配置します。
 高仁厚は、そのことを偵察して知り、部下を変装させて敵の砦に入りこませ、高仁厚が昨日のスパイに話したのと同じことを知らせてまわらせました。反乱軍の兵士は、大いに喜び、先を争って武器を捨て、高仁厚のところに投降します。高仁厚は、投降してきた兵士の背中に「帰順」と書き、いったん敵の砦に戻らせ、砦のなかにいてまだ投降していない人に投降を呼びかけさせました。敵陣にいた残りの兵隊も、(話を聞くと)先を争って投降します。
 羅渾フは、あわてて逃げ出しました。しかし、羅渾フのところにいた兵隊が羅渾フを捕らえ、高仁厚のもとに差し出します。高仁厚は、敵の5つの砦と武器を焼き払いました。ただ敵の軍旗だけを残します。
 翌日、高仁厚は、投降してきた兵士に向かって言いました。
「おまえたちをすぐに家に帰してやろうと思っていたが、この先にあるいくつもの砦のなかにいる住民は、まだ私の考えを知らない。そこで、おまえたちに先行してもらい、穿口[せんこう]を通り、新津[しんつ]の砦の近くまで行き、おまえたちの背中の文字を砦のなかにいる者たちに見せ、投降するように言ってもらいたい。さらに進んで延貢[えんこう]に着いたなら、おまえたちは家に帰ってよい」
 こうして高仁厚は、羅渾フの軍旗を取り出し、これを逆さまにして旗竿につけます。また、50人ごとに1つの部隊を編成させ、1つの部隊ごとに1本の軍旗を与えました。それから、その軍旗を掲げて前進させ、次のようなことを大声で言わせました。
「羅渾フは、捕らわれ、役所に送られた。大軍がまもなく砦までやってくるから、急いでわれらのように砦を出て投降しろ。投降すれば、善良な住民として、処罰されないぞ」
 この一団が穿口に着いたとき、そこでは句胡僧が11の砦を築いて待ち構えていました。その砦にいた兵士は、先を争って投降します。句胡僧は、あわてふためき、剣を抜いて投降を阻止しようとしました。しかし、兵隊は石を投げつけて襲撃し、捕らえて高仁厚のところに差し出します。こうして句胡僧のところにいた5000人が、すべて投降しました。
 翌朝、高仁厚は、また砦を焼き払い、前日と同じように投降した人に軍旗を持たせて新津に先行させます。韓求は、13の砦を築いて待ち構えていました。しかし、そこの兵士は、だれもが投降していきます。韓求は、深い堀に身を投げて自殺しました。
 将兵は、砦を焼き払おうとします。しかし、高仁厚は、これを止めて言いました。
「投降した者たちは、まだ食事をしていない。先に物資を運び出してから、焼き払え」
 新たに投降した人たちは、急いで飯を炊き、先に投降して高仁厚の考えを伝えに来た人たちと一緒に食事します。人びとは、談笑して歌を歌い、夜通しで楽しみました。
 翌日、高仁厚は、双流の入り口で先に投降した人を帰らせ、新津で投降した人に旗を持たせて先行させます。このとき、こう言わせました。
「?州のなかに入ったら、部隊を解散して帰ってよい」
 羅夫子は、延貢に9つの砦を築いて待ち構えていました。そこの兵隊は、前日の夕方に新津のほうが燃えているのを見ていたので、投降する準備をして眠らないでいました。新津の人が投降を呼びかけにやって来ると、羅夫子は脱出して砦を捨て、阡能のもとに逃げます。
 翌日、羅夫子と阡能は、打ち合わせて、すべての兵力をつぎこんで決戦を挑むことにしました。しかし、計画は定まらず、日が暮れ、延貢で投降した人が投降を呼びかけにやって来ます。
 阡能は、馬を走らせて砦を見てまわり、出兵しようとしました。しかし、兵隊は、だれも出兵しようとはしませんでした。翌朝、高仁厚の大軍が近づいてくると、砦のなかの人は大騒ぎで先を争って出ていきます。その人たちは、阡能と羅夫子を捕らえ、高仁厚の馬のところで泣きながら感謝しました。
 こうして、高仁厚が出陣してから6日で、5人の反逆者はすべて平定されました。
 馮夢龍は、こう言っています。ただ1人の敵のスパイを使っただけで、反乱軍が先を争って投降しました。ただ数隊の投降した兵隊を使っただけで、敵の24の砦が風になびくように喜んで開門しました。敵を捕らえたり、殺したりしてこそ手柄となるとするのは、いかがなものでしょうか。

(57)北宋の時代、北宋国の太祖[たいそ](趙匡胤[ちょうきょういん])は林仁肇[りんじんちょう]に対してスパイ活動をしかけました。
『資治通鑑』「宋紀[そうき]」に、こうあります。南唐[なんとう]国の林仁肇は、いつも江北の領土を取り返したいと思っていました。しかし、南唐国の君主は、林仁肇の意見を聞きません。北宋国は、林仁肇の威名(他人から恐れられ敬われる評判)を心配し、林仁肇の側近を買収し、林仁肇の肖像画を盗み取り、それを別室にかけました。それから南唐国の使者を連れてきて、それを見せます。
 趙匡胤がだれかを質問すると、使者は言いました。
「林仁肇です」
 趙匡胤は、言いました。
「林仁肇は、投降してくるつもりで、まずこれを出して証拠としたのだ」
 さらに住人のいない邸宅を指さして言いました。
「あれを林仁肇に下賜するつもりだ」
 使者は、南唐国に帰って君主に報告します。南唐国の君主は、これがスパイ活動だと知らず、林仁肇を毒殺しました。
 考えてみますと、これは、陳平が項羽に対して反間をしかけて范増を離間させた昔ながらの知恵にのっとって、肖像画を買収して手に入れてスパイ活動に利用しています。しかし、やり方を変えている点では新しいものです。

(58)南宋の時代、南宋国の岳飛は曹成[そうせい]に対してスパイ活動をしかけました。
『宋史』「岳飛伝」に、こうあります。岳飛は、皇帝の命令に従い、嶺南[れいなん]の反乱軍に投降を呼びかけます。しかし、曹成(反乱軍の指導者)は、従いませんでした。そこで岳飛は、政府に上奏します。
「反乱軍は、力が強いときには好き勝手に暴れます。しかし、力が弱まれば呼びかけに応じます。反乱軍の拠点を制圧しないで、いきなり投降の呼びかけを検討しても、おそらく簡単ではないでしょう」
 こうして岳飛は、兵隊をひきいて敵地に入ります。途中で曹成のスパイをつかまえ、司令部のテントのところに縛り付けました。
 岳飛は、帳簿を出し、兵隊の食料を調べます。役人は、報告して言いました。
「食料がなくなりました。どうしましょうか」
 岳飛は、偽って言いました。
「しばらく茶陵[さりょう]に撤退しよう」
 そうしてからスパイのほうを振り向いたのですが、その表情はとても残念そうであり、重い足取りでテントに入っていきます。それから、岳飛は、ひそかにスパイを逃がさせました。スパイが帰り着いて曹成に報告すれば、きっと反乱軍は追撃してくると計算したのです。
 その後、すぐさま食料を準備し、こっそりと山道を回り道して進みました。日が暮れたときには、反乱軍の本拠地の近くに到着します。
 反乱軍は、不意をつかれ、恐れおののいて大声で言いました。
「岳家軍[がくかぐん](岳飛の軍隊)がやってきたぞ」
 岳飛は、反乱軍のパニックに乗じて攻めかかります。反乱軍は、大敗しました。
 その後、岳飛の兵隊は、次から次に反乱軍の砦を攻略していきます。反乱軍は、追いつめられていきました。岳飛は、そこで言いました。
「これで投降の呼びかけもうまくいく」
 考えてみますと、反間をしかけなければ、勝てません。勝てなければ、悪党は弱まりません。弱まっていないのに懐柔すれば、今日は従っても明日は逆らいます。

(59)北宋の時代、北宋国の李允則[りいんそく]は契丹[きったん]族のスパイに対してスパイ活動をしかけました。
『宋史』「李允則伝」に、こうあります。李允則は、契丹族のスパイをつかまえたのですが、縄を解いて厚遇します。スパイは言いました。
「私は燕京[えんきょう](契丹族の首都)の大王から派遣されました」
 そうしてスパイは、自分が調べた北宋国の辺境の経済や兵力について李允則に伝えます。
 李允則は、言いました。
「おまえが手に入れた情報は、まちがっている」
 そこで李允則は、すぐさま担当の役人を呼び、帳簿を調べて数字を調べ、その文書をスパイに与えます。スパイは、その文書を押印して密封するように請いました。李允則は、スパイの言うとおりにしてやり、スパイに大金を恵んで、釈放して帰します。
 まもなく、スパイがいきなりやって来て、李允則から与えられた文書を返します。文書は、もとどおり密封されたままでした。それからスパイは、逆に契丹族の兵力、財力、地理の子細について情報を出し、李允則に報告します。
 考えてみますと、厚遇するために金を使い、心をつかむために恩を使えば、敵のスパイはいずれも寝返って、こちらのスパイとなります。

(60)そこの人を反間の方法としたものがあります。たとえば、戦国時代、斉国の田単[でんたん]は燕国の楽毅[がくき]に対してスパイ活動をしかけました。
『戦国策[せんごくさく]』「燕二[えんに]」に、こうあります。楽毅は、燕国の昭王[しょうおう]のため、5か国の兵隊を連合させて斉国を攻撃し、70以上の城を攻め落としました。しかし、3つの城が残っているところで、昭王は世を去ります。
 そこで燕国で恵王[けいおう]が即位したのですが、斉国の人に反間をしかけられ、楽毅を疑って、騎劫[きごう]と将軍を交代させました。楽毅は趙国に亡命します。斉国の田単は、騎劫をだまし、ついに燕軍を敗北させ、70以上の城を取り戻しました。
『史記』「田単列伝[でんたんれつでん]」に、こうあります。燕国の昭王は、楽毅を将軍とし、斉国の70以上の城を攻略します。その後、燕国では昭王が死んで恵王が即位したのですが、恵王は楽毅と仲が良くありませんでした。
 斉国の将軍の田単は、(即墨城[そくぼくじょう]を守っていたのですが)そこで思いのままに燕国に対して反間をしかけ、次のような話を流します。
「斉王は死んでしまっていて、城は2つ残っているだけだ。楽毅は、恵王に殺されるのを恐れて、帰国しようとせず、斉国を討伐すると言っているが、実際は兵力を背景にして斉王になろうとしている。しかし、斉国の人民を懐柔できていないので、ゆっくり攻めているのだ」
 燕王(昭王)は、その通りだと思い、騎劫を楽毅と交代させました。燕国の兵士は、あきれて意欲を失います。
 田単は、さらに思いのままに反間をしかけ、こう言わせました。
「斉国の人は、燕軍が城外の墓をあばき、先祖を侮辱することを心配している」
 燕軍は、(斉軍の士気を低下させるため)聞いた通りに墓をあばきます。即墨城にいた人たちは、激怒し、だれもが燕軍と戦いたいと申し出てきて、燕軍を大敗させました。奪われた70以上の城は、すべて取り戻しました。
 考えてみますと、田単が楽毅に対して反間をしかけたことは、『李衛公兵法』に言う「間能」の方法と同じです。燕軍をだまして墓をあばかせたようなことは、本朝(清国)の金淳[きんじゅん]も用いました。昔、嘉暦[かれき]二年(1797年)、貴州の南籠府[なんりゅうふ]の苗族が反乱を起こし、城を包囲しました。城内の住民は、城を出て非難したいと思います。このとき下級役人の金淳は、スパイを使って苗族に住民の墓をあばかせました。城内の住民は、怒り、金淳を助けて城を死守します。

(61)戦国時代、秦国のスパイは信陵君に対してスパイ活動をしかけました。
『史記』「信陵君伝[しんりょうくんでん]」に、こうあります。魏国の公子の信陵君は、天下を動かせるほどの威勢をもっていました。秦王は、これを憂慮します。そこで、スパイに大金を持たせて魏国に行かせ、晋鄙[しんぴ](信陵君に殺害された魏国の将軍)の食客を探し出して買収し、魏王に対して信陵君の悪口を言わせました。
「信陵君は、10年にわたり国外に亡命しており、今は魏国の将軍となっています。各国の君主や将軍は、だれもが信陵君に従います。各国の君主は、信陵君のことを重く見て、魏王のことを軽く見ています。信陵君も、この機会に魏国の王になろうと考えています。各国の君主は、信陵君の威勢を恐れ、みんなで信陵君を魏王にしようとしています」
 さらに秦国は、たびたび反間をしかけ、使者に祝賀のふりをして、こう言わせました。
「(信陵君が王位につかれたと聞いて祝賀に来たのですが)信陵君はまだ王位につかれていなかったのですか」
 魏王は、これらの信陵君の悪い噂を聞き、信陵君を信じられなくなります。ついには人を行かせて信陵君と将軍を交代させました。
 信陵君は、その後、病気を理由にして政府に顔を出さなくなり、客人と一緒に夜通し宴会を行い、おいしい酒を飲み、たくさんの女性をはべらせるようになります。最後には飲みすぎて病死しました。
 考えてみますと、田単は、楽毅に反間をしかけて、「斉王になろうとしている」と言わせました。秦国は、信陵君に反間をしかけて、「魏王になろうとしている」と言わせました。さらに秦国は、趙国の寵愛されている臣下の郭開を買収し、李牧に反間をしかけて、「反乱しようとしている」と言わせました。漢国の陳平は、項羽の部将の鍾離昧に反間をしかけて、「項羽を滅ぼそうとしている」と言わせました。功績の多い人も、反間をしかけて相手に「部下が裏切ろうとしている」と思わせなければ、スパイ活動が成功しなかったでしょう。昔の事例は、していることが同じであり、どれもうまくいっています。

(62)魏晋南北朝時代、北周[ほくしゅう]国の韋孝寛[いこうかん]は北斉[ほくせい]国の斛律光[こくりつこう]に対してスパイ活動をしかけました。
『斉書』に、こうあります。北斉国の斛律光は、字(呼び名)は明月ですが、当時の名将でした。
 北周国の韋孝寛は、玉塁[ぎょくるい]を守っていたのですが、斛律光が軍事にすぐれていることを心配しました。韋孝寛の参謀の曲厳[きょくげん]は、占いに精通していて、韋孝寛に向かって言いました。
「来年、北斉国では必ず内部で殺しあいます」
 韋孝寛は、そこで曲厳にデマを作らせ、スパイにその文書を?[ぎょう]県に流させます。そこには、こう書かれていました。
「百升は上天に飛び、明月は長安を照らす(斛律光は天子となり、首都に君臨する)」
 それに続いて、こう書かれていました。
「高山は推さずして自ら崩れ、?樹[かいじゅ]は助けずして自ら堅し(北斉国の皇帝は自然と衰退し、斛律光は自然と強大になる)」
 祖逖[そてき](北斉国の大臣)は、文書を手に入れたついでに、(政敵の斛律光を追い落とすため)次の言葉を付け加えて言いました。
「盲老翁は背に大斧を上下し、饒舌[じょうぜつ]な老母は語れない(目の見えない老人は武力を行使する用意はあるが、おしゃべりな老婆に話せないでいる)」
 そのうえで祖逖は、これを道で子どもたちに口ずさませました。
 穆提婆[ぼくていば](北斉国の大臣)は、これを聞き、母親の陸令萱[りくれいけん](北斉国の皇帝の乳母)に告げました。陸令萱は「饒舌」とは自分を非難しているのであり、「盲老翁」とは祖逖を言っていると思います。そこで祖逖と共謀し、このデマを真実として北斉国の皇帝に報告し、斛律光を処刑しました。
 北周国の皇帝の武帝は、このことを聞き、国内に大赦[たいしゃ](国家的な祝いのときに犯罪者の罪を許すこと)を行います。その後、北斉国を滅ぼす意志を持つようになっていき、ついには北斉国を平定しました。

(63)そこの出来事を反間の方法としたものがあります。たとえば、春秋時代、楚国の闘伯比[とうはくひ]は随[ずい]国の少師[しょうし]を使ってスパイ活動をしかけました。
『春秋左氏伝』「桓公六年」に、こうあります。楚国の武王は、随国を侵略するにあたり、まず使者を随国に行かせて講和を求め、楚軍を瑕に駐屯させ、話し合いの結果を待ちました。随国の人は、少師を行かせて話し合いを担当させます。
 闘伯比(楚国の大夫)は、武王に対して言いました。
「わが国が漢水の東方に対する勢力を拡大できないのは、わが国のやり方がまずいからです。わが国は、全軍を出して、兵士に完全武装をさせ、武力で諸国を威嚇しています。あちらはと言うと、それを恐れて協力しあい、そうしてわが国に対する策略をめぐらせています。ですから、あちらをバラバラにできないのです。漢水の東方では、随国が最大の国です。随国が自国を強国だと思えば、随国は必ず小国を見捨てます。小国が随国と離れるのは、わが国の利益となります。随国の少師は、いばっているので、わが国の軍隊を弱そうに見せれば、自国を強国だと思うようになるでしょう」
(すると、熊率且比[ゆうそつしょひ]は言いました。
「季梁[きりょう]がいるから、うまくいかないのではないでしょうか」
 闘伯比は、言いました。
「これは将来の作戦を成功させるために行うのです。少師は君主に気に入られていますから」)
 そこで楚国の武王は、わざと軍隊を弱そうに見せかけて、少師を迎えます。
 少師は、帰国すると、「楚軍を追撃しましょう」と求めました。随国の君主は、少師の意見を聞き入れようとします。しかし、李梁は、これを止めて言いました。
「楚国は、軍隊を弱そうに見せかけ、わが軍を誘い出そうとしているのです」
 考えてみますと、これは充実しているのに虚弱であるように見せかけ、敵の使者を利用して反間をしかけているのです。
 さらに『春秋公羊伝[しゅんじゅうくようでん]』にも、こうあります。楚国の子反は、言いました。
「包囲されているときは、馬の口のなかに棒を入れて牧草を食べないようにし、馬が満腹であるかのように見せかけ、それを客人に見せます」
 これは虚弱であるのに充実しているように見せかける方法です。
 その後の例で言うと、たとえば匈奴族が漢国の高祖に対して行ったものや、契丹族が麻仁節[まじんせつ]に対して行ったものなどは、いずれも充実しているのに虚弱であるように見せかけて、反間をしかけています。これは闘伯比と同じ考えにのっとっています。

(64)前漢の時代、匈奴族は前漢国の高祖(劉邦)に対してスパイ活動をしかけました。
『漢書』「劉敬伝[りゅうけいでん]」に、こうあります。前漢国の兵隊は、勝ちに乗じて匈奴族を追撃しました。前漢国の高祖(劉邦)は、冒頓単于[ぼくとつぜんう](匈奴族の君主)が上谷[じょうこく]に駐屯していると聞き、使者を偵察に行かせます。
 冒頓単于は、(前漢国の使者がくるたびに)元気な兵士や肥えた牛馬を隠し、老弱な兵士や衰えた家畜を見せるようにしました。前漢国の使者は、10回ほど匈奴族のところに行ったのですが、だれもが「匈奴族は攻撃できる」と言います。
 高祖は、さらに劉敬を使者として行かせました。劉敬は、帰ってくると、報告して言いました。
「両国が戦うときには、自分を強く見せかけるものです。しかし、今、私が行ってみると、老弱な兵士や衰えた家畜ばかりを見ました。これは、きっと自分を弱く見せかけ、どこかに奇襲部隊を隠して勝利しようとしているのです。私は匈奴族を攻撃すべきでないと思います」
 しかし、高祖は、その意見を聞かず、はたして白登山[はくとうざん]で匈奴族に包囲されました。

(65)後漢の時代、後漢国の班超[はんちょう]は沙車[さしゃ]国に対してスパイ活動をしかけました。
『後漢書』に、こうあります。西域将兵長吏の班超は、于?[うてん]国などの兵隊を徴用し、沙車国と亀茲[きじ]国を攻撃します。そのとき、次のようなデマを言いました。
「兵力がとても少なく、沙車国や亀茲国にかなわないので、休戦して兵隊を解散しようと考えている」
 そのうえで班超は、わざと捕虜を逃がしました。逃げた捕虜は、この話を亀茲国の君主に報告します。亀茲国の君主は、喜んで、警戒しなくなりました。
 そこで班超は、ひそかに兵隊をひきつれて沙車国に急行すると、沙車国を大敗させ、降伏させました。

(66)魏晋南北朝時代、匈奴族の劉曜[りゅうよう]は西晋国の麹允[きくいん]に対してスパイ活動をしかけました。
『晋書』「麹允伝」に、こうあります。劉曜は、進軍して長安に迫り、さらに北地[ほくち]を包囲しました。北地太守の麹昌は、使者を行かせて麹允に救援を求めます。麹允は、みずから歩兵と騎兵をひきいて、救援に向かいました。
 麹允が北地から数十里のところまで進軍してくると、劉曜は北地を囲んで火を放ちます。煙がもくもくとあがり、日差しをさえぎりました。そのうえで劉曜は、思いのままに反間をしかけ、麹允に次のようなウソを伝えます。
「北地の城は陥落し、見ての通り炎上しています。救援に行くに及びません」
 麹允は、それを信じて本当だと思います。その兵隊は、おそろしくなって、逃げだしました。
それから数日後、麹昌は包囲を突破し、長安に逃げます。北地はついに陥落しました。

(67)魏晋南北朝時代、西秦[せいしん]国の乞伏乾帰[こつふくかんき]は後涼[こうりょう]国の呂延[りょえん]に対してスパイ活動をしかけました。
『十六国春秋[じゅうろっこくしゅんじゅう]』に、こうあります。後涼国の将軍の呂延は、乞伏乾帰(西秦国の君主)を討伐し、大敗させました。
 そこで乞伏乾帰は、思いのままに呂延に対して反間をしかけ、次のような情報を流します。
「西秦国の兵隊は、壊滅し、東に逃げて成紀[せいき]に向かっている」
 呂延は、それを信じて追撃することにします。
 このとき呂延の司馬(軍事を担当する役人)の耿稚[こうち]は言いました。
「この情報を知らせてきた者は、目がおどっていて、表情に落ち着きがありませんでした。きっとワナがあります。追撃してはいけません」
 しかし、呂延は、聞きませんでした。結果、乞伏乾帰の兵隊に出くわして戦って敗北し、死にました。
 考えてみますと、班超が沙車国に対して反間をしかけたとき、休戦して解散するというデマを流しました。乞伏乾帰が呂延に対して反間をしかけたときは、兵隊が敗走しているとしました。いずれも本当は強いのに弱いように見せかけているわけですが、敵をおびき出す方法です。

(68)郷間を巧妙に利用したものとしては、戦国時代に秦国が郭開と晋鄙の食客を使ったもののほか、たとえば、魏晋南北朝時代、北魏国の侯淵[こうえん]は捕虜の敵兵を使ってスパイ活動をしかけました。
『魏書』「侯淵伝」に、こうあります。北魏国の爾朱栄[じしゅえい]は、大都督(大将)の侯淵に命じて、反乱を起こした韓楼[かんろう]を討伐させることにしました。侯淵に与えられた兵力はきわめて少なく、ある人はこのことをおかしく思ったのですが、爾朱栄は言いました。
「侯淵は、臨機応変であるのが長所だ」
 侯淵は、軍隊に威勢のよい大声をあげさせ、数百騎を率いて敵地に深く入って行ったのですが、薊州城[けいしゅうじょう](反乱軍の拠点)から百十里のところで敵軍に出会います。侯淵は、密かに軍隊を隠れさせると、敵軍を背後から奇襲し、敵軍を大敗させ、五千人の捕虜を得ました。侯淵は、すべての捕虜を釈放し、騎馬と武器を返し、薊州城内に逃げ帰らせます。侯淵の近くにいた人たちは、侯淵に捕虜を逃がすべきでないと反対したのですが、侯淵は、こう言いました。
「我々の兵力は少なく、力任せに戦えない。奇計を用いて敵を離間させてこそ、はじめて勝てる」
 侯淵は、釈放した捕虜たちが薊州城に帰りつくころを見計らって、騎兵を率いて夜間に進軍し、未明に薊州城に到達しました。そこで侯淵は、城門をたたきます。敵将の韓楼は、「捕虜になっていた兵士が侯淵に内応しているのではないか」と疑い、とうとう逃げ出しました。侯淵は、追撃して韓楼を捕らえます。

(69)魏晋南北朝時代、北魏国の楊侃[ようかん]は投降した人を使ってスパイ活動をしかけました。
『智嚢補』に、こうあります。北魏国での話です。応州刺史[おうしゅうしし](応州の長官)の蕭宝寅[しょうほういん]が反乱し、南下して馮翊郡[ふうよくぐん]を攻めました。尚書仆射[しょうしょぼくや](宰相)の長孫稚[ちょうしんち]は、蕭宝寅の討伐に向かいます。左丞(補佐官)の楊侃は、長孫稚に言いました。
「敵の守りは堅固なので、北上して蒲坂を攻め取り、渡河して西に向かい、敵の要地に入りこめば、華州[かしゅう]の包囲も戦わずして解け、長安も何もしないで手に入ります」
 長孫稚は、言いました。
「もし今、薛修義[せつうしゅうぎ](敵)が河東[かとう]を包囲し、薛風賢[せつふうけん](敵)が安邑[あんゆう]に陣取るなら、わが軍は進めなくなるが、どうしたらよいのか」
 楊侃は、言いました。
「河東の首府は、蒲坂[ぼはん]にあります。薛修義は、兵士と住民を駆り立てて西に向かい、城を包囲しています。しかし、その家族は、故郷に残っています。それで、敵兵は、わが軍が攻めてきたのを聞けば、家族のことが心配になり、自然の流れとして風をくらって飛ばされたように逃げ帰ります。かくして敵軍は、みずから潰滅します」
 そこで長孫稚は、息子の長孫彦と楊侃に騎兵を指揮させ、恒農[こうのう]から北に向かって渡河させ、石錐壁[せきすいへき]を占領させました。楊侃は、「ここで停止して歩兵部隊を待とう」と言い、あわせて住民の気持ちがどちらにつくか、その様子をみます。住民の代表が投降希望者の名簿をもって投降を申し出てきたときには、その代表に対して、こう命じました。
「村に帰り、わが方の烽火台に3つの烽火があがったら、それに応じて烽火をあげるようにせよ」
 それから、こう伝えました。
「烽火をあげないということは、敵軍に味方するということであり、その場合は襲撃して略奪し、その財産を兵士の恩賞にあてる」
 ここにおいて住民たちは、このことを互いに伝え合い、まだ投降していない人でも、烽火をあげることにします。
 こうして二晩の間に、烽火の光は数百里に広がりました。城を包囲していた敵兵は、だれが投降し、だれが投降していないのか分からず、各自ばらばらになって、それぞれの家に逃げ帰りました。薛修義も逃げ帰り、薛風賢と共に降伏を願い出ました。長孫稚は、潼関[どうかん]を陥落させ、河東に入ります。蕭宝寅は、逃げ出しました。

(70)明代、明国の趙臣[ちょうしん]は岑璋[しんしょう]を使ってスパイ活動をしかけました。
『留青日札[りゅうせいじつさつ]』に、こうあります。岑璋は、帰順州[きじゅんしゅう]の地方官で、知略に富み、人材を大切にしていました。田州の岑猛[しんもう]は、岑璋の娘のだんなです。岑猛は、法律を守らず、好き勝手なことをしていました。巡撫(地方長官)は、政府に報告して、「岑猛は反乱をたくらんでいます」と言います。政府は、命令を出し、「各地の地方官で、岑猛を捕らえるか、殺すかした者は、階級を1つ上げ、給料を5割増しにする。岑猛と結託した者は、一緒に処刑する」としました。
 都御使[とぎょし](役人を管理する役所の管理職)の姚?[ようばく]は、岑猛を討伐する兵を挙げようとしたのですが、岑璋が岑猛に荷担するのではないかと心配でした。そこで都指揮[としき](地方の軍事を担当する長官)の沈希儀[ちんきぎ]に相談します。沈希儀は、部下の千戸[せんこ](部隊の隊長)の趙臣が岑璋と仲のよいことを知り、趙臣を呼んで考えを尋ねて言いました。
「聞くところによると、岑璋の娘は岑猛から愛されなくなっており、それで岑璋は岑猛を恨んでいるとのことなので、私は岑璋を利用して岑猛を討とうと思うのだが、そなたはどう思うか」
 趙臣は答えて言いました。
「岑璋は、知略に富んでいて疑い深く、このことをじかに言っても、きっと信じないでしょう。計略によって岑璋を動かすのがよく、力ずくで従わせるのは難しいでしょう」
 沈希儀は、言いました。
「どんな計略を用いればよいのか」
 趙臣は、言いました。
「鎮安州[ちんあんしゅう]と帰順州は、互いに敵対感情を持っています。ですから、閣下が人を帰順州に派遣すれば、鎮安州が疑念を持ちます。人を鎮安州に派遣すれば、帰順州が疑念を持ちます。閣下が私を鎮安州に派遣して徴兵させるなら、帰順州に住む岑璋は必ず疑念を持って私に理由を尋ねてくるでしょうから、それによって岑璋の動向がうかがえます」
 そこで沈希儀は、計略どおりに趙臣を派遣しました。趙臣は、遠回りをして岑璋の家に立ち寄り、座ってため息をつきます。岑璋は、ため息の理由を尋ねました。しかし、趙臣は、何も言いませんでした。
 翌日、岑璋は、酒宴を開いて趙臣を歓待し、強く尋ねました。
「巡撫(地方の長官)は、私に罪があると怪しんでいるのか。それとも仇敵が私を害そうとし、私を逮捕させて裁判しようとしているのか」
 趙臣は、はらはらと涙を流します。岑璋も、泣きながら言いました。
「ああ、趙君、この岑璋は今日、死なねばならぬなら、死ぬだけだ。君は、どうして隠して、私を苦しめるのか」
 趙臣は、言いました。
「私たちは、理解しあっている親友だ。大変なことがあれば、話さないことはない。今日、君が死ぬのでなければ、私が死ぬことになる」
 岑璋は、言いました。
「どういうことだ」
 趙臣は、言いました。
「軍門[ぐんもん](地域の軍の司令部)は、皇帝から命令されて田州[でんしゅう]の岑猛を攻撃することになり、君が岑猛の義父であり、きっと岑猛と組んでいるに違いないと言って、鎮安州で兵士を招集して君を襲撃することになった。私が言わなければ、君は必ず死んだ。しかし、私は君に話し、君がすばやく行動を起こし、計画をつぶせば、私は必ず死ぬ。それで泣くしかないのだ」
 岑璋は、大いに恐れ、ため息をついて言いました。
「今日、趙君が担当でなければ、私は一族もろとも皆殺しになっていたのか」
 かくして岑璋は、むりやり趙臣に病気を理由にして家に滞在してもらうと、急いで人を軍門(地域の軍の司令部)に派遣し、岑猛が反乱を起こそうとしていることを詳しく述べ、自分にまで罪が及ぶのを恐れ、自分も岑猛の討伐に助力させてほしいと願い出ました。沈希儀は、これを許し、このことを都御使の姚?に報告します。かくして姚?は、岑猛の討伐に専念できるようになりました。
 岑猛の息子の岑邦彦[しんほうげん]は、要害の工堯隘[こうぎょうあい]を守っていました。岑璋は、援軍と称して1000人の兵士を岑邦彦のところに派遣し、内応者とします。その1000人の兵士一人一人の軍服には、敵か味方を識別しやすくするため、襟の裏に布切れの印がついていて、このことをひそかに沈希儀に伝えていました。
 当時、田州の兵士は、難攻不落の場所にたてこもって死守しており、これに攻めかかろうとする人は、いませんでした。しかし、沈希儀だけは、戦いを挑み、三回にわたり合戦します。しかも沈希儀は、千騎の騎兵を間道から敵の陣地の横に回りこませ、軍旗をはためかせました。そのとき、帰順州の兵士(岑璋の派遣していた兵士たち)が、大声で言いました。
「政府軍が間道から入ってきたぞ」
 田州の兵士は、恐れおののき、潰走します。沈希儀は、それに乗じて、数千人の首を斬りました。岑邦彦は、戦死します。
 岑猛は、敗戦の知らせを聞くや、自殺しようとしました。しかし、岑璋は、岑猛を誘って帰順州に逃げさせ、別館に住まわせます。しかし、胡堯元[こぎょうげん]たち別の将軍たちは、沈希儀の手柄をねたみ、配下の一万人の兵士を率いて帰順州を攻撃しようとしました。
 岑璋は、これを事前に察知し、人に百頭の牛と千樽の酒を持って行かせて、三十里の距離のところで胡堯元たちの軍勢を出迎えます。そして、胡堯元に向かって言いました。
「昨日、岑猛は敗戦し、帰順州を越えて交南に逃げようとしましたが、私はこれを迎撃しました。岑猛は目に矢があたって南に逃げ、どこにいるか分かりません。もし追いつめれば、外敵と結んで大変なことをするでしょう。五日間の猶予をいただけるなら、岑猛を捕らえて差し出します」
 胡堯元は、岑璋の願いを許可します。岑璋は、帰宅すると、岑猛をだまして言いました。
「政府軍は、すでに撤退した。しかし、政府に報告しなければ許されない」
 岑猛は、言いました。
「そのとおりですが、だれに起草してもらうのですか」
 岑璋は、人に岑猛の代わりに報告書を書かせ、岑猛に印鑑(役所の公印)をついて密封するように催促しました。こうして岑璋は、岑猛の持っていた地方官の印鑑の所在が分かったところで、酒宴を開催し、岑猛を祝賀し、音楽を流して楽しませました。酒宴の途中で、岑璋は毒杯を持ってきて、言いました。
「官軍の捜査は厳しくて、君をかばいきれない」
 岑猛は、大声で叫んで言いました。
「老練な岑璋にはめられた」
 岑猛は、とうとう毒杯を飲み干して死にました。
 岑璋は、岑猛の首をはね、印鑑(役所の公印)と一緒に、間道を通って急いで軍門(地域の軍の司令部)に持って行かせます。同時に、他の囚人を斬って、その首を岑猛の死体につけ、胡堯元たちのところに持って行かせました。
 胡堯元の部下たちは、岑猛の首と体を奪い合い、互いに殺しあいます。十余人の死者が出たわけですが、首を手にした人が風のように馬を走らせて軍門(地域の軍の司令部)に駆けつけたときには、すでに岑猛の首が一日さらされていました。
 部将たちは、激怒して、岑璋をけなします。布政使[ふせいし](地域の行政長官)たちも、姚?を陥れようとして、陰謀をめぐらしました。かくして、「岑猛は本当は死んでおらず、死んだのは道士の銭一真[せんいっしん]だ」というデマを流します。
 御史(役人を管理する役職)の石金[せききん]は、そこで姚?を調査して、解職します。しかも、沈希儀たちの功績も、一緒に評価されませんでした。岑璋は、がっかりし、出家して道士となります。
 考えてみますと、成功した人が悪口を言われ、悪口を言った人が功績を認められるのは、今も昔も変わりません。そういうわけで、志士がやる気をなくして、どろぼうのような人がのさばるのです。

(71)明代、明国の孔縺mこうよう]は陳瑞[ちんずい]を使ってスパイ活動をしかけました。以上はすべて郷間を巧妙に利用したものです。
『智嚢補』に、こうあります。叫阿渓[きょうあけい]は、明国の貴州の青平衛[せいへいえい]に所属する苗族の首領の一人ですが、気が強くて知恵に富み、他の苗族を見下していました。叫阿渓の養子の叫阿刺[きょうあし]は、とても力が強くて、三重の鉄の防具を身にまとい、三丈の長い矛をもって舞い、地面を蹴って飛んだときには三丈から五丈も飛ぶことができました。叫阿渓と叫阿刺の二人は、一人が知者であり、一人が勇者であって、互いに結び合い、現地で好きなようにふるまっていました。
 近くの弱い苗族は、毎年のように家畜を貢納させられました。その搾取は、倍増していきました。およそ旅して現地を通り過ぎる人は、二人にそそのかされた他の苗族に強奪されました。役所が捜査して逮捕しようとするときには、必ず叫阿渓に知恵を出してもらいました。叫阿渓はと言うと、役人に高額な賄賂を要求したうえで、遠くの苗族で無用な者を捕らえ、盗賊に仕立て上げて役人につきだしました。このため遠くにいた苗族は、叫阿渓をとても恐れて、叫阿渓に付き従い、叫阿渓を自分たちの親分として仰ぎました。
 監軍(地方軍の監督官)や総帥(地方軍の指揮官)は、叫阿渓から毎年のように賄賂をもらっており、叫阿渓が好き勝手なことをしても黙認します。叫阿渓は、ときとして役所と苗族の間にトラブルを起こさせ、その仲裁で漁夫の利を得たりもしました。
 弘治年間(1488〜1505年)、都御使(役人を管理する役所の管理職)の孔繧ヘ、貴州を視察し、以上のような事情を知りました。そこで、このことについて監軍と総帥に尋ねます。しかし、監軍と総帥は、叫阿渓をかばいました。孔繧ヘ、監軍と総帥が頼りにできないことを知って、みずから清平衛に行き、部下のなかから善良な人を探します。こうして指揮の職にある王通[おうつう]に出会いました。孔繧ヘ、王通を手厚く礼遇し、王通に現地の状況を質問します。王通は、質問にすらすらと答えたのですが、叫阿渓のことだけは語りませんでした。
 孔繧ヘ、言いました。
「ここで聞いた話では叫阿渓が最も悪いようだが、どうして隠して言わないのだ」
 王通は、答えませんでした。
 孔繧ェ強いて尋ねると、王通は言いました。
「私が話して、閣下が処理してくださるなら、地域の住民は福を受けます。しかし、処理してくださらならいなら、ただ閣下が権威を失うだけでなく、私も家族を皆殺しにされてしまいます」
 孔繧ヘ、笑って言いました。
「ただ言うだけでよい。どうして私が処理しないことを心配するのだ」
 ここにおいて王通は、気を高ぶらせ、すべてを語りました。
 孔繧ヘ、言いました。
「叫阿渓のために賄賂を上官に届けているのはだれだ」
 王通は、言いました。
「指揮(隊長)の王曽[おうそう]と、総旗(隊長)の陳瑞[ちんずい]です。閣下は、この二人をおさえてこそ成功できます」
 孔繧ヘ、言いました。
「分かった」
 翌日、将佐(部下の軍人)たちが公用で孔繧ノ会いに来たとき、孔繧ヘ言いました。
「一人の巡官を採用したいのだが、君らが連れてきた者のなかから自分で選ぼうと思う」
 そして、孔繧ヘ王曽を指差していいました。
「あのような感じの人間がよい」
 全員が出て行くと、孔繧ヘ個人的に王曽を呼んで尋問しました。
「おまえは、どうして悪党と結託しているのか」
 王曽は、大いに恐縮し、言い訳しました。
 孔繧ヘ、言いました。
「叫阿渓は、毎年のように役人に賄賂を贈っている。おまえは、その仲介をしているが、言い訳をして改めないなら、おまえを処刑する」
 王曽は、地面にひれふして、なにも言いませんでした。
 孔繧ヘ、言いました。
「怖がることはない。おまえは私を助けて叫阿渓を捕らえてくれないか」
 王曽は、叫阿渓の奸智と叫阿刺の蛮勇を語ってから言いました。
「もう一人の役人の協力があって、はじめて成功できます」
 孔繧ェ王曽にその者を推薦するように言うと、王曽は言いました。
「最も良いのは総旗の陳瑞です」
 孔繧ヘ、言いました。
「連れて来い」
 まもなく王曽は、陳瑞を連れて来ました。孔繧ヘ、王曽に言ったのと同じことを陳瑞に言いました。陳瑞は、ちらちらと王曽を見ました。
 王曽は、言いました。
「隠してはダメだ。われらのことは、閣下にすべて知られている。我らのなすべきことは、全力を尽くして閣下のために働くことだ」
 陳瑞も、今回の件は難しいと言いました。
 孔繧ヘ、言いました。
「おまえたちが叫阿渓と叫阿刺をだまして砦から連れ出せば、私は二人を捕らえられる」
 陳瑞は、承諾してから、出て行きました。
 苗族には闘牛を楽しむ風俗がありました。陳瑞は、そこで立派な牛を人にひかせて大通りにおらせると、その近くの草木が茂っているところに元気な兵士を隠れさせてから、叫阿渓の砦に行きました。
 叫阿渓は、言いました。
「どうして長いこと来なかったのだ」
 陳瑞は、言いました。
「新たに上官がやってきたので、暇がなかったのだ」
 叫阿渓は、尋ねました。
「その上官は、どんなやつだ」
 陳瑞は、言いました。
「つまらない男で、無能だ」
 叫阿渓は、言いました。
「そいつが広東で職務に就いていたとき、悪党を殺して有名になったと聞いている。どうして務農だと言うのか」
 陳瑞は、言いました。
「同姓同名の別人であり、そいつではない」
 叫阿渓は、言いました。
「賄賂だが、どうしたらよいか」
 陳瑞は、言いました。
「しばらく放っておけ。あわてて大金を捨てる必要はない」
 叫阿渓は、陳瑞と酒を飲みながら、闘牛の話でもりあがりました。
 陳瑞は、言いました。
「ちょうどここに来る途中で牛を見かけたが、まるで大きな象のようだった。あなたの家の牛と比べて、どれだけの力をもっているだろうか」
 叫阿渓は、言いました。
「もし本当なら、ぜひとも買いたい」
 陳瑞は、言いました。
「牛を売っているのは、地元の人間ではない。むりやり砦に連れて来るのは、難しいだろう」
 叫阿渓は、「それなら見に行くまでだ」と言うと、叫阿刺のほうを見て同行するように言いました。
 陳瑞は、言いました。
「あなたの牛を連れて行って闘わせれば、優劣が分かる」
 苗族は、迷信深く、なにかするときには必ず占いました。叫阿渓が鶏を使って占うと、不吉な結果が出ます。さらに「そういえば大きな網をかけられる夢を見た」と言って、よくないことが起こるのではないかと心配しました。
 陳瑞は、言いました。
「夢で見た網は魚を得る前兆であり、あなたが牛を手に入れるということだ」
 そこで一行は、牛を引いて、馬に乗り、砦を出て、牛のところに行きました。叫阿渓は、牛を見て喜び、自分の牛と他方の牛とを闘わせようとしたところ、視察の役人がやってきたとの急報が届きました。
 陳瑞は、言いました。
「あなたは、その役人がだれか知っているか。指揮の王曽だ」
 叫阿渓は、笑って言いました。
「王曽は幸いにも、いい仕事をもらったな。王曽が来るのを待って、からかってやるか」
 陳瑞は、言いました。
「視察の役人が砦に来たときには、あなたが出迎えるべきだ。相手が知り合いとなれば、なおさらだ」
 それで叫阿渓と叫阿刺が馬を急いで走らせようとしたところ、陳瑞が言いました。
「あなたがたは、腰の刀をはずしてほしい。新たにやってきた上官が刀を見たら、よく思わない」
 叫阿渓と叫阿刺は、刀をはずしてから、王曽に会いました。
 王曽は、叫阿渓と叫阿刺を激しい口調で叱責して問いました。
「上司が巡回してきたというのに、どうして砦にいて出迎えの用意をしないで、こんなところにいてなにをしているのか」
 叫阿渓と叫阿刺は、冗談を言っているのだと思い、笑って聞き流しました。
 王曽は、激怒して言いました。
「おまえたちを逮捕できないとでも思っているのか」
 叫阿渓と叫阿刺は、笑い飛ばしました。
 王曽が大声をあげると、伏兵が飛び出してきて、二人を逮捕しました。叫阿刺は、素手で殴り、数十人を負傷させます。しかし、最後には捕らえられました。
 陳瑞と王曽は、すぐさま叫阿渓と叫阿刺を貴陽[きよう](貴州の州都)に移送し、孔繧ノ成功を報告します。二人は公開処刑され、貴州の治安は回復しました。
 考えてみますと、この貴州で悪党を逮捕した事例は、今後の参考になります。軍隊を煩わさず、軍糧を費やさず、表情を変えることなく、二人の郷間を使って、悪党の親分を捕らえました。もしも王曽と陳瑞を用いて郷間としなかったなら、二人は悪党の耳目となり、悪党はたやすく逮捕できなかったでしょう。今では塘兵[とうへい]と郷練[きょうれん]の多くが悪党の耳目であり、それで私が昨年に普安[ふあん]の反乱軍を潰滅させたとき、?底[せいてい]の悪党の首領である孫阿得[そんあとく]、白沙[はくさ]の悪党の首領である劉阿潤[りゅうあじゅん]については、勢力が大きく、その耳目となる者が多かったので、不意をつき、策略を用いて捕らえました。

(72)内間を巧妙に使ったものとしては、戦国時代に秦国の張儀が楚国の?尚[きんしょう]と鄭袖[ていしゅう]を使ったもののほか、たとえば、前漢の時代、前漢国の高祖(劉邦)は匈奴族の閼氏[あっし]を使ってスパイ活動をしかけました。
『史記』「高祖本紀[こうそほんぎ]」に、こうあります。劉邦は、冒頓単于に白登山で包囲されたとき、スパイを派遣して閼氏(冒頓単于の夫人)に手厚い贈り物をします。そこで閼氏は、冒頓単于に言いました。
「二人の君主が苦しめあっていますが、今、漢国の領土を得たところで、王様はそこに永住するわけでもありません。それに漢王には神がついていると聞きます。王様は、このことを分かってください」
 そこで冒頓単于は、包囲の一部を解きました。ここにおいて劉邦は、両側に弓矢をかまえた兵士を配置して、包囲の解かれたところをまっすぐ突破して逃げ、主力部隊と合流します。冒頓単于は、兵を引いて去りました。

(73)隋代、隋[ずい]国の賀若弼[がじゃくひつ]は南陳[なんちん]国の人に対してスパイ活動をしかけました。
『隋書』「賀若弼伝」に、こうあります。隋国の賀若弼は、南陳国の京口[けいこう]を攻めようと計画し、多くの船を買って隠し、50から60艘のボロ船を買って小さな河に係留しました。対岸の南陳国の人は、ボロ船を見て、賀若弼が渡河するための船を持っていないと思いました。
 さらに賀若弼は、河沿いに警備している軍隊に命令して、交代のときに必ず広陵[こうりょう]に集まるようにさせ、たくさんの軍旗を野原一杯にはためかせます。南陳国の人は、それを見て、隋軍が大挙して進軍してきたと思い、急いで出兵して警戒にあたります。しかし、それが単に隋国の国境警備隊が交代で帰還するときに集まっているにすぎないことを知ると、同じように国境警備隊が集結しても警戒しないようになりました。
 そうなってから隋軍は、本当に侵攻を開始して渡河します。しかし、南陳国の人は、だれも侵攻に気づきませんでした。
 考えてみますと、これは敵の偵察を利用して、反間を行ったものです。最初にウソを示してだまし、その後で本当のねらいを達成するというものです。

(74)唐代、契丹族は唐国の麻仁節[まじんせつ]に対してスパイ活動をしかけました。
『唐書』に、こうあります。則天武后[そくてんぶこう]が政権を握っていたとき、契丹族の李尽忠[りじんちゅう]と孫万栄[そんばんえい]は、営府[えいふ](兵営)を攻め落とし、数百人の漢人の捕虜を地下牢に収容しました。唐国の麻仁節たちの軍隊がやってきているのを聞くと、地下牢の看守に捕虜に対してウソをつかせ、こう言わせました。
「家族は飢えと寒さのせいで生活できず、唐軍が来るのを待って投降するしかない」
 ある日、看守は、捕虜たちを牢獄から出すと、そのついでに粥を食べさせました。
「私たちは、食料が不足しているのに、おまえたちに食べさせている。だからと言って殺すのも忍びない。自由にしてやるから逃げ帰ったらどうだ」
 捕虜たちは、だれもがひれ伏して感謝し、帰して欲しいと頼みます。そこで看守は、捕虜たちを逃がしました。
 捕虜たちは、幽州[ゆうしゅう]に着くと、以上のことを詳しく話しました。唐軍の兵士は、これを聞き、先を争って攻め込みたいと思います。
 唐軍が黄鑾谷[こうらんこく]に至ると、契丹族の老人たちが投降してきて、道端で老いた牛と痩せた馬を献上しました。麻仁節たちは、(以上のことから契丹族を弱いと思い)歩兵隊を残し、騎馬隊で先行します。
 いっぽう契丹族は、伏兵を使って唐軍を分断し、麻仁節たちを捕虜としました。唐軍は、全滅します。
 考えてみますと、匈奴族や契丹族は、兵法を知っているとは言えませんが、反間を使っている点では同じです。劉邦と麻仁節は、いずれも反間しかけられ、それにひっかかりました。最近は、貴州の土寇と苗賊の親分も、だますテクニックをいろいろと使います。兵隊を指揮する人は、こちらのスパイ活動をうまくやることが大切で、相手のスパイ活動にひっかかってはいけません。

(75)北宋の時代、北宋国の張斉賢[ちょうせいけん]は契丹族に対してスパイ活動をしかけました。
『宋史』に、こうあります。張斉賢が代州の知事をしていたとき、契丹族が侵入してきました。張斉賢は、使者を行かせ、潘美[はんび]と示し合わせて共同で戦おうと思います。しかし、使者は、途中で契丹族に捕らえられました。
 まもなくして、潘美の使者が張斉賢のところにやって来て、言いました。
「軍隊は、出発して柏井[はくせい]に着いたのですが、皇帝の密名により、出て戦うことを許されず、并州[へいしゅう]に戻り始めています」
 張斉賢は、言いました。
「敵は、潘美が来ていることを知っているが、帰っていることは知らない」
 そこで夜に200名の兵士を出動させ、各自に一本の軍旗と一束の乾燥した草を持たせ、代州から西南に30里の距離のところで整列させ、草の束に火をつけさせました。
 契丹族の兵隊は、遠くから火のあかりのなかに浮かび上がる軍旗を見て、潘美の率いる并州の軍隊が来たと思い、あわてふためいて逃げ出します。
 このとき張斉賢は、あらかじめ上鐙砦[じょうとうさい]に2000名の伏兵を隠れさせていました。その伏兵が逃げる契丹族の兵隊に襲いかかり、大敗させました。
 考えてみますと、張斉賢が敵に捕らえられた使者をスパイ活動に利用したことや、韓世忠[かんせいちゅう]が魏良臣[ぎりょうしん]をスパイ活動に利用したことは、いずれも情勢を利用して反間を行っています。その事情は異なっていますが、その機軸は同じです。いずれも臨機応変に巧妙に運用したものです。

(76)南宋の時代、南宋国の韓世忠は魏良臣を使ってスパイ活動をしかけました。
『資治通鑑』「宋紀」に、こうあります。南宋国の韓世忠が鎮江[ちんこう](長江の南)に駐屯していたとき、金軍と劉豫は合同で二手に分かれて南宋国に侵入しました。南宋国の皇帝(高宗)は、みずから命令書を書いて、韓世忠に進んで戦うように命じます。
 韓世忠は、軍隊をひきいて長江を渡り、北上しました。このとき、次のような計画をたてます。
「部将の解元[かいげん]に高袖[こうしゅう]を守らせ、金軍の歩兵隊をうかがわせる。みずからは騎兵をひきいて大儀[たいぎ]に駐屯し、敵の騎兵と戦う。木を切って柵を作り、みずから退路を断つ」
 ちょうどそのころ南宋国は、魏良臣(金国と仲良くしようと考えている人物)を使者として金国に向かわせていました。韓世忠は、魏良臣が通りかかると、野営地のかまどの火を消させ、魏良臣にウソをつきます。
「陛下の命令があり、陣地を南に移動させて長江を守ることになった」
 魏良臣は、そのまま馬に乗って走り去りました。
 韓世忠は、魏良臣が国境を越えたころを見計らって、馬に乗って全軍に命令して言いました。
「私が鞭を向けた方を見て前進せよ」
 ここにおいて韓世忠は、軍隊をひきつれて大儀に向かい、5つの陣地を築きました。さらに20か所ほどに伏兵を配置し、太鼓の音を聞いたら飛び出して敵を攻撃するように事前に命令します。
 魏良臣が金軍の陣地に着いたとき、金国の人は魏良臣に南宋軍の動静を質問しました。魏良臣は、途中で見たことを詳しく答えます。金国の聶儿孛董は、韓世忠の撤退を聞き、とても喜び、兵隊をひきつれて江口まで行きました。大儀から5里の距離のところです。
 別の将軍の撻孛也[タボル]は、1000人の騎兵をひきいて、韓世忠の5つの陣地の東を通過しました。このとき韓世忠は、軍旗を伏せさせ、太鼓を打ち鳴らさせます。これに応じて伏兵が四方から飛び出しました。その軍旗の色は金軍の軍旗と区別しにくかったので、金軍は乱れます。
 南宋軍は、入れ代わり立ち代わり攻撃しました。背嵬軍[はいかいぐん](大将に直属する部隊)の兵士は、それぞれ長い斧を手に持ち、上は敵の兵士の胸をつき、下は敵の騎馬の足をうちます。敵兵は、重たい防具を身に着けた状態で落馬し、ぬかるみにはまりました。韓世忠は、精鋭の騎兵をひきいて、四方から襲撃してまわります。敵の人馬は、ともに倒れました。撻孛也たちは、最後には捕虜となりました。

(77)南宋の時代、南宋国の劉リ[りゅうき]は曹成[そうせい]を使ってスパイ活動をしかけました。以上はすべて反間を巧妙に使ったものです。
『東軒筆録[とうけんひつろく]』に、こうあります。南宋国の劉リは、金国の人が南下して、東京[とうけい](開封[かいほう])を陥落させたのと聞きました。劉リは、順昌[じゅんしょう]に急行し、部将たちに各門に分かれて守るように命じ、偵察をしっかり行い、現地の住民を募ってスパイとします。
 それから6日がすぎて、金国の兵隊が城下にやってきました。劉リは、スパイに応募してきた曹成たち2人に対して、こう言って聞かせました。
「おまえたちを行かせてスパイ活動を行うが、成功したら手厚い恩賞を与える。私の言うとおりにするだけで、敵は必ずおまえたちを殺さないだろう。今回、おまえたちを巡回の騎馬隊に配属するが、おまえたちは敵に出会ったときには、わざと落馬して、敵の捕虜となれ。敵の将軍が『劉リとは何者か』と質問してきたら、おまえたちは『太平辺帥の息子であり、女遊びにうつつをぬかしています。南宋国は、金国との講和を実現するため、劉リに東京を守らせることにしました。劉リは道楽ばかりを考えています』と答えよ」
 かくして2人は、捕虜となったとき、教えられた通りに言いました。
 兀朮[うじゅ](金軍の司令官)は、その話を聞いて大いに喜び、そこで鵝車[がしゃ](城壁を越える道具)と炮具[ほうぐ](城内を攻める道具)を置き去りにしました。
 翌日、劉リは、城壁に登ったのですが、曹成たちが戻ってきているのを見て、縄梯子をおろして城内に入れます。このとき曹成たちは、首枷をはめられていて、そこに手紙が付けられていました。劉リは、兵士の心が惑わされるのを恐れ、ただちに焼却します。
 劉リは、耿訓[こうくん]を行かせて、金軍に戦いを挑みます。兀朮は、怒って言いました。
「わが兵力をもってすれば、おまえの城を落とすのは、けとばして倒すくらい簡単だ」
 耿訓は、言いました。
「われらの大将は、ただ戦いを挑むだけではない。兀朮は渡河しないというだろうと言い、わが軍が5つの浮橋を用意してやることにした。渡河したところで大いに戦いたい」
 夜明けころ、金軍は渡河します。劉リは、潁水の上流と草むらのなかに毒をまき、軍人たちに警告しました。
「のどが渇いて死のうとも、河の水を飲むな。飲んだ者は、一族皆殺しとする」
 そのときは猛暑であり、金軍は遠くから来ていて、昼も夜も防具を身につけたままでした。いっぽう劉リの軍隊は、順番で休み、交代で羊や馬に城壁の下で餌を食べさせます。しかし、金軍の人馬は、腹がすき、のどが渇き、水を飲んだり、草を食べたりすると、たちまち病気になりました。
 早朝の涼しいときには、劉リは兵隊をとどめて動かしませんでした。午後になり、(暑さのせいで)金軍の気力が弱まってから、いきなり数百人の兵士を西門から出し、金軍と戦います。それからすぐ数千人の兵士を南門から出し、声を出さないように命令し、ひたすら鋭い斧で金軍を襲いました。かくして金軍は、大敗します。
 考えてみますと、まず反間をしかけて敵を誘い、次に激怒させて敵をあやつり、さらに毒をまいて敵を倒れさせ、暑さと疲れで敵をだらけさせ、そのうえで奇襲部隊をくりだして敵を攻撃しました。勝利するのも、最初から決まっていたと言えます。

(78)生間を巧妙に使ったものとしては、賢明で有能な人を生間とするわけですが、子貢や陳平のほか、たとえば、春秋時代、衛国の礼至[れいし]は?[けい]国に対してスパイ活動をしかけました。
『春秋左氏伝』「僖公二十四年」に、こうあります。衛[えい]国の人が?国を討伐しようとしたのですが、礼至(衛国の大夫)は言いました。
「?国を守る国子[こくし]をなんとかしなければ、?国は制圧できません」
『春秋左氏伝』の注釈に、こうあります。
 礼至は、衛国のためにスパイ活動を行うことを請い、兄弟で?国に行って国子に仕えることにしました。(その後、礼至は、すきを見て国子を殺害します)。
 考えてみますち、これは『孫子』に言う「生間」ですが、意味はさらに深く険しいものです。昔の人が『春秋左氏伝』を兵書としたのも、とても理にかなっています。そういうわけで、昔の名将の関羽、杜預、岳飛などは、だれもが好んでそれを読んだのです。

(79)春秋時代、鄭国の燭之武[しょくしぶ]は秦国の穆公[ぼくこう]に対してスパイ活動をしかけました。
『春秋左氏伝』「僖公三十年」に、こうあります。晋侯[しんこう](晋国の君主)と秦伯[しんはく](秦国の君主)は、鄭国を包囲します。それは、鄭国が晋国に無礼であり、しかも晋国の敵国である楚国に味方したからでした。晋軍は函陵[かんりょう]に駐屯し、秦軍は氾南[はんなん]に駐屯します。佚之孤[いつしこ](鄭国の大夫)は、鄭伯[ていはく](鄭国の君主)に向かって言いました。
「わが国は、ピンチです。もし燭之武を秦伯と会見させれば、秦国は必ず撤退します」
 鄭伯は、その意見に従いました。燭之武は、夜に城を抜け出し、秦伯に会って言いました。
「秦国と晋国が鄭国を包囲し、鄭国は自国が滅亡することを悟っています。もし鄭国を滅ぼして秦伯にメリットがあるなら、今回のことに手をわずらわせてください。ただ隣国の領土をこえて、自国から遠く離れたところに領土を広げようとしていますが、秦伯はその難しさを知っていますか。どうして鄭国を滅ぼすことによって、隣国の領土を増やしてやろうとするのですか。隣国が強大となれば、秦国は弱小となります。もし鄭国を許して、東に進む道の主人としてくださるなら、秦国の行李(役所の使者)が往来するとき、不足しているものをすべて提供します。秦伯も損することはありません。それにかつて秦伯が晋侯を助けたとき、晋侯は秦伯に焦と瑕を割譲すると約束しました。しかし、晋侯は、秦伯に護送してもらい、黄河を渡り、晋国に帰り着くと、すぐに城壁を修築して、秦国との戦いに備えました。このことは秦伯もよく知っていることです。そもそも晋国は、欲望に限りがありません。晋国は、東に向かうために鄭国を手に入れたなら、さらに西に向かおうとします。しかし、秦国の利益を損なわないで、晋国は西に進出できるでしょうか。秦国を損なって晋国を利そうとするでしょう。秦伯がこのことを考慮してくださることを願います」
 秦伯は、納得し、鄭国と同盟して、そのまま撤退しました。
 考えてみますと、『春秋左氏伝』にある燭之武が秦国と晋国を離間させた話は、『戦国策』にある張孟談が韓氏と魏氏を智伯から離間させた話と同様のものです。しかしながら、燭之武は、ただ秦軍を離間させて撤退させているだけです。張孟談はと言うと、韓氏と魏氏を智伯から離間させ、そうして智伯を滅ぼしています。時代が下るにつれ、スパイ活動もひどくなっています。

(80)春秋時代、宋国の華元[かげん]は楚国の子反[しはん]に対してスパイ活動をしかけました。
『春秋左氏伝』「宣公十五年」に、こうあります。楚軍が宋国を攻撃したのですが、9か月がすぎても宋国は降伏しませんでした。楚国が宋国から撤兵しようとすると、申叔時[しんしゅくじ](楚国の大夫)は言いました。
「陣地を修繕し、土地を耕作して長期戦の構えを見せれば、宋国はきっと屈服します」
 楚国の共王は、その意見に従います。
 宋国の人は、恐れ、華元(宋国の大夫)を夜に楚軍の陣地に入らせました。華元は、子反(楚軍の司令官)が寝ているベッドのところまで行き、子反を起こして言いました。
「わが国の君主が、城内の窮状をあなたに伝えるように私に命じました。城内では、互いの子を交換して食べ、死人の骨を折って薪の代わりにしています。このようでありながら、私たちに屈辱的な降伏を強いるなら、私たちは国と一緒に滅びるつもりであり、貴国に従うこともできません。軍隊を30里ほど後退してもらえますなら、私たちは命令に従います」
 子反は、恐れ、華元と約束して共王(楚国の君主)に報告し、軍隊を30里ほど後退させました。その後、宋国と楚国は、講和を結びます。
 考えてみますと、これは宋国が華元をスパイとしたのです。『孫子』はスパイ活動を論じて、こう言っています。およそ撃破したい軍隊、攻略したい城、殺したい人などがある場合は、必ずそれを守る将軍、謁者、門者、舎人など(ターゲットに関係する人びと)の姓名を先に知り、それらの人物についてスパイに調べさせて知らせさせます。こちらに潜入している敵のスパイを必ず捜索して見つけ出し、この機に乗じてスパイを利してまるめこみ、たくみに誘導してスパイを舎[やど]らせてたぶらかします。
 華元は、思うに敵情を先に調べて知っていたのでしょう。ですから、夜に敵陣に入り、門番や側近に邪魔されないで、まっすぐに敵将のベッドのところまで行けたのです。子反が恐れて約束したのも、華元のスパイ活動がすごかったからです。

(81)戦国時代、趙国の張孟談は韓氏と魏氏に対してスパイ活動をしかけました。
 張孟談が韓氏と魏氏を智伯から離間させたことについては、『戦国策』に詳しく、すでに紹介しました。

(82)後漢の時代、呉国の黄蓋[こうがい]は曹操[そうそう]に対してスパイ活動をしかけました。
『呉志』「周瑜伝[しゅうゆでん]」に、こうあります。呉国の孫権[そんけん]は、周瑜[しゅうゆ]を行かせて劉備[りゅうび]と連合し、曹操を攻撃させます。両軍は、赤壁[せきへき]で遭遇しました。周瑜の部将の黄蓋は、言いました。
「今、敵の兵隊は多く、わが軍は少なく、敵と持久戦を行うのは困難です。しかしながら、曹操の軍隊を見るに、戦艦を並べてつらね、前後がつながっており、火をつけて敗走させられます」
 そこで黄蓋は、数十隻の蒙衝[もうしょう]や闘艦[とうかん]を取り、薪や草を満載し、そこに油をしみこませます。それをシートで覆い、その上に牙旗(大将旗)を立てました。また、先に曹操に手紙を送り、曹操に投降するつもりだとだまします。
『呉志』「江表伝[こうひょうでん]」に、こうあります。黄蓋の手紙には、こう書かれていました。
「私は、孫氏の厚い恩を受け、つねに将軍となり、孫氏から厚遇されてきました。しかしながら、天下のことを顧みれば、大勢というものがあり、江東[こうとう]六郡の寄せ集めの人間を使って、中原の100万人の兵隊に対抗しても、大軍にはかなわないものであり、これはだれもが分かっていることです。江東の武官と文官は、愚者と智者とを問わず、だれもが自軍の勝てないことを知っています。ただ周瑜と魯粛[ろしゅく]だけが、偏狭な考えをもち、愚かであり、このことが分かっていないだけです。私は今、投降しようとしていますが、これはウソ偽りのない考えです。周瑜が率いている軍隊は、おのずとたやすく撃破されるでしょう。交戦の日、私は先鋒となり、チャンスをみつけて寝返ります。あなたの目的が達せられるのも間近です」
 曹操は、手紙をもらったあと、使者と会い、ひそかに質問し、黄蓋への伝言を言いした。
「心配なのは、おまえの投降がウソであることだけだ。もし投降が本当なら、地位と恩賞を与えよう。それもこれまでになく大きなものをだ」

(83)五代十国時代、後蜀[こうしょく]国の李雄[りゆう]は朴泰[ぼくしん]を使ってスパイ活動をしかけました。
『晋書』「李雄伝」に、こうあります。東晋国の益州牧[えきしゅうぼく](益州の長官)の羅尚[らしょう]は、部将の隗伯[かいはく]を行かせて、?城[ひじょう]にいる蜀賊[しょくぞく](蜀地方の反逆者)の李雄を攻めさせました。李雄は、武都[ぶと]の人の朴泰をスカウトし、次のような方法で羅尚をだまさせることにします。
 まず朴泰を鞭で打って、血まみれにします。それから朴泰を羅尚に投降させます。このとき朴泰には、羅尚に対して「李雄からひどい目にあわされたので、羅尚に味方して李雄に報復したい」という理由で投降させ、羅尚のために内応者となるといつわらせ、合図として火をかかげるということにさせます。
 羅尚は、この朴泰の寝返りを信じ、精鋭部隊をすべて出撃させ、隗伯[かいはく]などの部将を行かせ、朴泰の手引きに従って李雄を攻めることにしました。このとき李雄の部将の李驤は、羅尚の軍隊が進軍してくる道の途中に伏兵を潜ませます。それから朴泰は、長い梯子を使って城壁に登り、火をかかげました。
 隗伯の部隊は、火が掲げられたのを見るや、先を争って梯子を使って城内に攻めこみます。このとき朴泰は、さらに羅尚の軍隊の百人以上の兵士を縄で縛りあげ、殺しました。李雄は、勢いに乗じて内と外から羅尚の軍隊を挟み撃ちにし、大敗させます。
 考えてみますと、小説『三国志演義』には、黄蓋が「苦肉の計」を提案したという話があります。このことを正史で調べてみると、『呉志』「黄蓋伝」と「周瑜伝」は、いずれもただ黄蓋が偽って投降したことだけを述べ、黄蓋が曹操をだますために周瑜に鞭で打たれたことは述べていません。『晋書』にある朴泰の話を考えますと、『三国志演義』にある黄蓋の「苦肉の計」と同じです。思うに『三国志演義』の編集者が朴泰のことを知って、それを黄蓋の話にもちこんだのではないでしょうか。のちに種世衡(北宋国の名将)が異民族の将軍をスパイ活動に利用したのも、以上の方法を踏襲して使用したものです。

(84)魏晋南北朝時代、西魏国の達奚武[たつけいぶ]は北斉国の神武[しんぶ]に対してスパイ活動をしかけました。
『魏書』に、こうあります。東魏国の将軍の神武(のちに北斉国の建国の祖となる高歓[こうかん])は、兵を率いて沙苑[さえん]に進軍しました。西魏国の将軍の文帝(のちに北周国の建国の祖となる宇文泰[うぶんたい])は、達奚武を派遣して偵察させることにします。
 達奚武は、三人の騎兵を従えていたのですが、全員が敵軍の軍服を着ていました。達奚武たちは、日が暮れてから、敵陣から百歩(約1350メートル)のところまで行って下馬し、潜伏して敵軍の合言葉を盗み聞きました。それから馬に乗り、夜間に巡回している警備兵のふりをして敵陣を見てまわり、違法な兵士をみつけたときにはしばしば処罰します。こうして詳しく敵情を知り、そうして宇文泰に報告しました。
 考えてみますと、達奚武のこの方法は、馮異[ふうい](後漢国の将軍)を手本としたもので、王?[おうさ](唐国の将軍)も使ったことがありました。
『漢書』に、こうあります。馮異は、赤眉[せきび]軍と戦ったとき、精兵に赤眉軍の兵士と同じ服装をさせ、伏兵として道のわきに隠れさせました。翌朝、赤眉軍は、1万人の兵力を使って、馮異の前衛部隊を攻撃します。馮異の兵力が弱いと見ると、ついに全軍をあげて馮異の軍隊に攻撃しました。馮異は、そこで思いのままに兵隊を動かし、激しく戦います。日が暮れ、赤眉軍の気力が衰えてきたとき、馮異の伏兵がいきなり出てきました。赤眉軍は、馮異の伏兵の着ている服が赤眉軍と同じであり、乱戦になったことから、敵と味方を判別できなくなります。赤眉軍の兵隊は、ついにパニックとなり、敗走しました。馮異は、追撃し、赤眉軍を大敗させます。
 次に王?の例ですが、唐国の時代、吐番国の軍隊が臨?[りんとう]に侵入して荒らし、大来谷[たいらいこく]に駐屯します。唐国の安北大都護[あんぽくだいとご](安北地方の行政や軍事を担当する責任者)の王?は、配下の2000人の軍勢をひきい、臨?の兵隊と合流しました。それから、700人の奇兵(奇襲部隊)を選抜して、吐蕃軍の軍服を着させ、敵陣を夜襲することにします。
 王?は、敵軍から5里(約3キロメートル)のところで、命令して言いました。
「先頭が敵軍に遭遇したなら、大声で叫び、太鼓を打ち鳴らし、角笛を吹き鳴らし、呼応せよ」
 この結果、吐蕃軍の兵士は、(王?の奇襲部隊が吐蕃軍と同じ軍服を着ていたことから、敵と味方を識別できなくなって)パニックになり、伏兵が横にいるのではないかと疑うようになりました。こうして吐蕃軍の兵士は、味方どうし殺し合うようになります。その戦死者は、1万人以上となりました。

(85)北宋の時代、北宋国の種世衡は異民族の将軍を使ってスパイ活動をしかけました。
『東軒筆録』に、こうあります。種世衡は、青澗城[せいかんじょう]を守備していたのですが、かつて罪を理由に一人の異民族の部将を叱責し、その背中を杖で打ったことがあります。同僚の部将が本人に代わって許しを請うたのですが、種世衡は許しませんでした。
 異民族の部将は、杖で打たれたあと、李元昊(西夏国の君主)のもとに逃げこみます。李元昊は、その部将を信任し、西夏国の枢密院[すうみついん](最高軍事機関)に自由に出入りさせました。それから一年後、異民族の部将は、西夏国の軍事機密をすべて知って、種世衡のもとに戻ります。
 異民族の部将は、種世衡のスパイだったのでした。

(86)一般人を使って生間としたものとしては、たとえば、唐代、唐国の王鶏[おうけい]は陳敬?[ちんけいせん]に対してスパイ活動をしかけました。
『資治通鑑』「唐紀」に、こうあります。王建[おうけん](前蜀[ぜんしょく]国の建国者)は、成都[せいと]を激しく攻め、成都を取り巻くように50里にわたって烽火台を置き、塹壕を掘りました。このとき肉屋の王鶏は、王建に対して、次のような作戦を提案します。
 すなわち、王鶏は、まず犯罪者のふりをして、成都の城内に逃げこみます。それからデマを流して、城内において上下関係を不和にさせます。そういう作戦です。
 王建は、その作戦を採用し、王鶏を行かせました。王鶏は、城内に入り、陳敬?と田令孜に会うと、「王建の兵隊は疲れ、食料は尽き、逃げようとしています」と言いました。また、市街に出ると、茶を売りながら、ひそかに役人や住民に対して「王建は軍事にすぐれ、その兵力は強大である」と言ってまわります。
 これによって、陳敬?たちは、王建を軽んじて警戒をゆるめました。しかし、城内の役人や住民は、王建のことを恐れます。

(87)五代十国時代、後梁[こうりょう]国の劉?[りゅうじん]は油商人を使ってスパイ活動をしかけました。
『資治通鑑』「唐紀」に、こうあります。王師范[おうしはん]は、行軍司馬の劉?を行かせ、袞州[こんしゅう]を攻略させることにします。当時、泰寧[たいねい](袞州の中心地)の節度使(地方の長官)の葛従周[かつじゅうしゅう]は、すべての兵力を?州[けいしゅう]に駐屯させていました。
 劉?は、油商人に変装させた人を先に行かせて城内にまぎれこませると、その虚実(短所と長所)と、兵隊の侵入しやすいところを調べさせました。それから劉?は、500人の精兵をひきい、夜に排水溝から城内に侵入します。日が昇るころには、劉?の軍隊は城をほとんど占領するのですが、住民はだれも気づきませんでした。

(88)北宋の時代、北宋国の北方の僧侶は南唐国の李U[りいく]に対してスパイ活動をしかけました。
『南唐』「浮屠伝[ふとでん]」に、こうあります。南唐国の君主が李Uだったとき、北方の僧侶で小長老という人物が、みずから仏教の教えを広めると称して南唐国にやってくると、李Uに多くの宝塔や廟堂を建立するように勧め、そうして南唐国の資金や食料を浪費させました。さらに牛頭山に千室以上の部屋のある寺院を造営させ、千人の僧侶を集め、毎日のように豪華な食事を提供させ、食べきれないものは翌日に再び出させ、これを「折倒」と呼びました。思うに、故意によくない話を作り上げ、そうして人びとの心を動揺させようとしたのでしょう。その後、北宋国の軍隊が渡河して進攻したとき、その寺院は北宋軍の陣地となりました。
 さらに北方の僧侶がいて、採石機において石塔を修理し、粗末な服を着て、粗末な食事を食べていました。李Uや国民が物品を寄進してきても、それを受け取りませんでした。その後、北宋国の軍隊が池州を攻略したとき、僧侶が修理した石塔を使って渡河するための浮橋を固定しました。このときはじめて、その僧侶が北宋国のスパイであることが分かりました。

(89)明代、明国の太祖(朱元璋[しゅげんしょう])は門番の老人を使ってスパイ活動をしかけました。
『智嚢補』に、こうあります。元代の末期、陳友諒[ちんゆうりょう]は、太平府[たいへいふ]を陥落させ、人を行かせて張士誠[ちょうしせい]と一緒に南京[なんきん](朱元璋の本拠地)を攻撃することを約束しました。
 朱元璋は、康茂才[こうもさい]を呼び出して言いました。
「二人の敵が手を結んだが、まちがいなく深刻な危機となる。もし先に西の陳友諒を攻撃すれば、東の張士誠は落胆するだろう。おまえは陳友諒が先に進攻してくるようにさせられるか」
 康茂才は、言いました。
「わが家に門番の老人がいて、かつて陳友諒のもとで働いていました。その老人を行かせれば、きっと信用されるでしょう」
 そこで康茂才は、門番の老人に手紙を持たせ、小船に乗せ、まっすぐ陳友諒の軍営に行かせ、康茂才が内応を望んでいることを伝えさせます。陳友諒は、信用し、大いに喜び、門番の老人に尋ねました。
「康茂才は今、どこにいるのか」
 老人は、言いました。
「現在、江東橋を守っています」
 陳友諒は、さらに尋ねました。
「どのような橋か」
 老人は、言いました。
「木の橋です」
 陳友諒は、老人に大金を与えて帰らせ、こう伝言をことづけました。
「私はすぐに行くが、行ったときは『老康』と言うのを合言葉としよう」
 門番の老人は、帰って報告しました。
 朱元璋は、言いました。
「これで陳友諒も、わが手のうちにあるのも同然だ」
 そこで人に木の橋を壊させ、代わりに鉄と石で作られた橋をかけ、一晩で完成させました。
 それから、馮勝[ふうしょう]と常遇春[じょうぐうしゅん]には、三万人の兵隊を率いて石灰山[せっかいざいん]のわきに潜ませます。徐達[じょたつ]たちの軍隊には、南門の外に布陣させました。楊m[ようけい]には、大勝港[たいしょうこう]に駐留させます。張徳勝[ちょうとくしょう]と朱虎[しゅこ]には、水軍を率いさせ、龍江関[りゅうこうかん]の外に出動させました。朱元璋は、みずから大軍を率いて盧龍山[ろりゅうさん]に駐屯し、それから黄色い旗を持たせた旗手を山の右側に隠れさせ、赤い旗を持たせた旗手を山の左側に隠れさせます。そのうえで戒めて言いました。
「敵軍が来たのを発見したら赤い旗を挙げよ。太鼓の音を聞いたら黄色い旗を挙げよ。黄色い旗が挙がったら、伏兵は四方から襲いかかれ」
 この日、陳友諒は、はたして艦隊を指揮し、東に向かって川を下り、大勝港に着きます。しかし、水路が狭く、楊mの兵隊に出会ったので、大江に退き、近道をして江東橋につきあたりました。陳友諒が橋を見ると、鉄と石の橋になっており、それで陳友諒は驚き、疑心暗鬼になります。すぐさま「老康」という合言葉を叫んだのですが、応答はなく、ここではじめて策略にはめられたことに気づきました。
 陳友諒は、すぐさま千隻以上の水軍を龍江に向かわせ、先に一万人の兵士を行かせて上陸させ、陣地を築かせます。その勢いは、とても強いものでした。
 そのときは猛暑で、朱元璋は必ず雨が降るだろうと予測し、各軍に命令して食事をとらせます。そのときは天に雲が一つもなかったのですが、たちまち西北からの風が吹きはじめ、雨がどしゃ降りになりました。
 そのとき赤い旗が挙あがり、朱元璋の各軍は、前進して敵陣を突破します。陳友諒は、軍隊を率いてきて戦いました。合戦がはじまったところで、ちょうど雨がやみます。
 ここで朱元璋は、太鼓を打ち鳴らすように命令しました。太鼓の音が轟きわたり、黄色い旗があがり、伏兵が飛び出します。さらに徐達の軍隊もやってきて、水軍も集まってきて、内と外から陳友諒の軍隊を挟撃しました。かくして陳友諒の軍隊は大敗します。

(90)明代、明国の熊景[ゆうけい]は塩を売る商人を使ってスパイ活動をしかけました。
『兵略纂聞[へいりゃくさんぶん]』に、こうあります。僉事[せんじ](監察官の部下)の熊景は、広西で仕事をしていたとき、両広の節鎮都台の朱氏から、潯桂[じんけい]にいる瑶[ヤオ]族を処理するように通知を受けました。熊景は、ひそかに人を行かせて商人の服を着させ、塩を背負わせて瑶族の居住地域に入らせ、密売人のように動きまわらせます。瑶族は、これを疑いませんでした。スパイは、集中して瑶族の虚実(短所と長所)を調べます。また、スパイは、こんなことも言いました。
「私たち商人は、新しい監察官がどのような人物であるかを知りません。しかしながら、その道具を見てみると、数十の古い壺のようなものをもっていました。そのなかには石が入っていて、石と木で壺の口を密封していました。新しい監察官は、計画して、こう言っていました。『瑶族が出てきて投降すれば、これを使わなくてすむ。そうでなければ、これを使う。これは、かつて大藤峡を破ったものだ』と」
 瑶族は、恐れ、酋長に報告します。酋長は、その日のうちに投降しました。10日もしないうちに、経たないうちに、瑶族、?[リャオ]族、?[チワン]族(壮族)など、数十の部族が投降します。

(91)明代、明国の沈希儀は商人を使ってスパイ活動をしかけました。以上はすべて生間を巧妙に使ったものです。
『兵略纂聞』に、こうあります。沈希儀は、右江参将(右江に駐留する軍隊の将校)に抜擢されます。当時の右江を管轄する役所は、柳州にありました。柳州は、山奥にあり、城を出て五里(約3キロメートル)も行けば、そこは瑶族の居住地域です。沈希儀は、ふだん瑶族と商売をしている商人のうち、数十人を買収し、各自に五両の銀を与え、たくさんの商品を仕入れさせ、あちこちの瑶族のところに分散して行かせました。瑶族は、凶暴で、殺人を喜びましたが、商人が来たときには、村から村へと渡り歩く商人を護衛し、商人に飲み物や食べ物を提供していました。一人の商人が危害を加えられることにとによって、その他の商人も来なくなるのを恐れたのです。そういうわけで、たとえ桟道の絶えた深い竹林の奥でも、商人の行かないところはありませんでした。それで、なにか瑶族に動きがあるたびに、商人はその情報をすぐさまつかむことができ、それを急いで沈希儀に報告します。