素書

 古い本は「黄石公が著述し、宋の張商栄が注釈した」と銘打っています。六篇に分かれています。一つは「原始」、二つは「正道」、三つは「求人の志」、四つは「本徳宗道」、五つは「遵義」、六つは「安礼」です。黄震『日鈔』に、こう述べています。その説は道・徳・仁・義・礼の五者を一体としています。要旨において取るべきはないにしても、しかし多くは「へりくだること」を主とし、道理に背くものは少しです。張商英はみだりに注釈し、『老子』の「道を徳に先立たせ、徳を仁に先立たせ、仁を義に先立たせ、義を礼に先立たせる」という説を取って叙述し、最終的には本書とまったく反対のことを説いています。その意味は思うに張商英の注釈を非とするもので、そうたいして本書のウソを排斥するものではありません。しかしながらその「あとがき」を見るに、「橋の上の老人(黄石公)が張良に本書を授け、晋の時代における戦乱のとき、盗賊が張良の墓を盗掘し、埋葬者の宝玉で作られた枕の中から本書をみつけ、こうして初めて世間に出回りました」と述べています。さらに「上にこう注意書きしてありました。不道・不仁・不聖・不賢の人に伝えることを許しません。もし本書を受け継ぐ資格のない者が本書を手にすれば、必ず災難を受けますし、資格がありながら本書を手にしなければ、これまた災難を受けます」と述べてあります。まったく道家の俗な誕生秘話です。ですから晁公武は「張商英の言葉について、世間にはいまだ信じていない者がいます」と述べているのです。明の都穆の『听雨紀談』では、「晋の時代から宋の時代に至るまで、学ぶ者はいまだかつてこれに言及しておらず、ただ張商英だけが出すのはおかしくて、そこに三偽があると断定される」としています。胡応麟『?叢』も「その書の中で悲しんで精散を悲しむことなく、憂えて無常を憂えることなしとあるのは、すべて仙書・仏典にきわめて近いものです」と述べています。思うに張商英はかつて従悦に仏法を学び、喜んで禅理を習い、本書の言葉はすべてその経歴を反映したものであり、前後の注文と本文もまた多くが「一つ手を出す」ようなものです。以上のことから本書をつきつめて調べるに、それが張商英の偽作であることは明らかです。その言葉はすこぶる道理にそっており、さらに宋の時代から本書が伝えられてきていることから、とりあえず本書を収録し、参考とできるようにします。