17.兵学の巨匠・茅元儀およびその編集した『武備志』

 茅元儀は明末の傑出した軍事家・文学家です。彼が編纂した兵学の巨著『武備志』は、中国古代の冊数が最も多く、項目が最も整った軍事百科全書で、内外の学者から高い評価を受けました。
(1) 兵学の巨匠・茅元儀
 茅元儀は、字は止生、号は石民で、東海波臣や梦閣主人などとも号し、帰安(今の浙江呉興)の人です。明朝の著名な学者・茅坤の孫で、万暦二十二年(西暦1594年)に生まれ、幼い頃から学問を好み、兵農の書をとても喜びました。成年後は、長城沿線の要道について指や手のひらのように了解しました。後金の勃興、明朝政府の腐敗に直面し、彼は志を立てて発奮して書を著し、歴代の兵法や韜略を探究し、機械や兵器の資料を収集し、15年にわたり心血を注いで、『武備志』を編纂し完成させ、天啓元年(西暦1621年)に印刷されました。これによりとても有名になり、軍事に精通しているという評判によって任命されて賛画となり、大学士の孫承宗に随行して遼東において大軍を率いて戦い、後金の抵抗するとともに、江南に行って軍船・艦隊を募集し、明軍の戦闘力を向上させました。孫承宗、袁崇煥、徐光啓、李之藻、孫元化らとともに、同じく敵を防いで国を保つ中堅となりました。孫承宗が排斥されたあと、茅元儀もまた官職を剥奪され、茅元儀は病気を理由にして故郷に帰りました。崇禎帝の即位後まもなく、彼は『武備志』を進呈しましたが、権臣の王在晋らに中傷され、「皇帝に対して傲慢である罪」で定興(今は河北に属す)の江村に放逐されました。崇禎二年(西暦1629年)の冬、後金の騎兵が北京に迫り、孫承宗が再び勅命を受けて大軍を率いて戦いました。茅元儀と二十四騎護衛の孫承宗は東便門から通州(今の北京通県)に突進していき、後金軍を撃退し、北京の危機を救いました。茅元儀は功績によって副総兵に昇進し、覚華島(今の遼寧興城菊花島)の水軍をまかされました。まもなく権臣からうとまれて職を解かれ、さらに遼東兵乱の累を受け、?浦(今は福建に属す)の防衛に派遣されました。遼東の軍情が危急となったとき、彼はまた命をかけて皇帝のために尽くしたいと願い出ましたが、権臣の妨害にあい、だいたい崇禎十年前後(西暦1637年、一説によると1640年)に酒をたらふく飲んで命をなくしました。茅元儀は文武両道で、同時代の人は「年が若くして西呉を出で、名は北門のほまれに成り、室内にあっては学者となり、馬上にあっては将軍であった」と言いました。彼は一生に60種以上、数百万言の書物を著しが、しかし禁書とされて処分され、散佚したものはとても多かったものの、『武備志』は後世に伝わりました。
(2)明代の大型軍事百家全書『武備志』
『武備志』は全部で240巻、200万字以上、付図は738幅近くです。現存しているものには天啓元年(西暦1621年)の茅元儀が編纂した本、清の道光年間の活字本、日本の寛文四年(西暦1664年)の須原屋茂兵衛らの刊本があり、そのなかで天啓の刊本が最良です。
『武備志』は軍事学を考えて「兵訣評」「戦略考」「陣練制」「軍資乗」「占度載」の五大項目に分類しています。「兵訣評」18巻は、明以前の『孫子兵法』『呉子』などの著名な兵書を厳選して収録して、評点を加え、その要点を論述しています。「戦略考」33巻は、春秋から元代に至る16の王朝における600以上の戦争と戦例を厳選して収録して、戦略の観点より得失に対して高度な評論をしています。「陣練制」41巻は、「陣」と「練」の二つの部分から構成され、「布陣はけじめのあることが大切で、けじめがあればかねそなわりますし、訓練は実際的であることが大切で、実際的であれば頼りになります」と述べています(「陣練制」「序」)。「軍資乗」55巻は、営、戦、攻、守、水、火、餉、馬などの八つの項目からなり、そのなかで軍事技術の内容が最多で、各種武器装備、戦車、軍船、軍事築城などの軍事資料六、七百種を収録しています。「占度載」93巻は、そのなかには古人の天文気象についての素朴な認識があり、荒誕迷信の説もあり、さらに方輿、鎮戌、海防、江防、四夷航海などにかかわる兵要地誌についての内容もあります。
『武備志』は規模が広大で、使っている軍事資料は正確で、わずかに茅元儀の祖父・茅坤が秘蔵していた家伝の図書をベースとするだけでなく、各家の秘図と珍本を2000種以上も広く集め、当時の兵学の各分野を包括していました。学問に対して厳格な茅元儀は、砂のなかから金を選び出すような頑張りによって、各種資料から厳選してそのエッセンスを取り、偽を去って真を存し、良いものを収録して悪いものを削除しました。『武備志』は『武経総要』の編纂体系を完全に見習い、『武経総要』の大部分の内容をほとんど転載したうえで、各項目とその内容の広さと深さを大きく拡張発展させ、宋代以後に生み出された最新成果を包括して、さらに当時の最新内容を融合させ、『紀効新書』『練兵実紀』『籌海図編』『陣紀』『武編』『神器譜』『兵録』などの兵書の創造的な成果を吸収し、巨著をまとめ、大作を書き上げ、濃厚な時代の特色を具備しました。全書の体系は完備して統一されており、文章は明晰で、目次は分明で、論理は厳密で、構成は正確で、兵学の内容を考えて資料を分類して配置し、項目の最初ごとに小序をつけ、源流を考証し、史料の出所を説明し、要点を概説し、内容の主旨を明らかに述べています。「門類」の下に「分類」があり、「分類」の下には必要に応じて「要目」と「細目」を設けています。文中には脚注があり、理解しにくい文字、言葉と故事を解説しています。本文の上には余白があり、そこに編集者の評論、評価、生々しい具体的な生活の姿が書かれています。
 茅元儀は「門類」のレベルで論述するとき、あらましを説明してから細かな内容に入り、事物の発展順序を考え、順序よく筆を進め、だんだんと内容を深めていくという書き方を採用しています。「軍資乗」を例にとると、作者は営・戦・攻・守・水・火・餉・馬などの八つの分類の順序をおさえて、順をおって一つ一つ展開しています。そして、軍隊が集結して出陣し、戦地に至ったとき、はじめに陣営を建立しなければならず、その後はじめて戦いの準備をし、兵を出して敵を攻め、敵を攻めるときにも守りに留意し、攻める方法には水攻め・火攻めがあり、将兵が戦うには餉を調理しなければならず、騎馬を主力としているので、最後に戦馬を論述し、戦闘のすべての過程は少しの漏れもなく書中に記されています。
「軍資乗」は以上の八つの要点について明らかに述べるとき、戦いにおいて頼りとするすべての軍事技術の条件について詳細に記載しています。本書が取り集めている六、七百種の軍事技術の資料のなかに、珍しい「鄭和航海図」「航海天文図」、そして明代のすべてのあまり見られない兵器、軍船、呂公車、神火飛鴉、火龍出水などがあり、文と図があって、参考資料として役立ちます。書中の102巻から134巻までは、古代軍事技術を野戦、攻城戦、守城戦、水戦、火攻などの五つに分けたうえで論述しており、各種武器装備の製造と使用の概況について全面的に反映しており、より高い科学性をもち、中国の古代軍事技術を集大成した兵書と言えます。
『武備志』は既存の兵学をまとめた軍事百科全書だとはいえ、しかし各項目についての「序」と評点に、茅元儀の主要な軍事思想が反映されてもいます。彼は明朝の国勢の衰微、国庫の空虚、国防の間隙、明軍の戦闘力の低下している状況にぴたりと焦点をあわせ、当局は国を富ませ、兵を強くし、国を治めるために精励する政策を実行すべきだとアピールしました。彼は国を富ませ、兵を強くしてこそ強敵に戦勝でき、国境地帯のごたごたを解消でき、当面の急務は「兵糧の充実」と兵士の訓練であるとの見解をもっていました。開墾を奨励し、屯田を促進する主張を進んで提出し、兵を強くするには堅実な物質的な基盤がいるとしました。彼は軍隊の訓練を十分に重視し、「兵士に訓練があるのは、聖人に六芸があるのと同じです。実戦を迎え、訓練されていなければ、土偶の髭と眉にすぎません」としています(「陣練制」「序」)。同時に国家の安全を保障するには、辺防(辺境の警備)、海防と江防を強化しなければならないとの見解をもっていました。北方の遊牧民族はつねに国境を侵犯して略奪を行っていますが、これに対処するには、人が戦いを自ら行うには、城壁を強化し、周囲の敵に利用されそうなものを焼き払い、要塞を建設し、人が守りを自ら行う策略を使わなければいけません(「軍資乗」「序」)。敵が海口を突破し、内江に闖入するのを防止するため、「そこで河川の要塞は、辺境と海と同じくします」(「占度載」「江防」「序」)。茅元儀は明軍の戦闘力を向上させるには、道具を取り揃え、器具の性能をよくし、火器の製造と使用の技術を大いに努めて発展させねばならないとの見解をもっていました。彼は『武備志』「用火器法」において、時勢・地形・敵情・道具・戦況の違いにうまく対応して、種類や数量の違う火器を選択して使用して敵を攻撃することを将兵に要求しました。このため、将兵が気候、気象条件を利用するのに卓越し、風の向きによって火器を使用するようにすれば、連戦連勝できるとしました。敵軍が密集した堅実な隊形をとって城を攻めてくるときには、火砲によって猛撃します。敵の堅固な城を攻撃するときには、火砲を使って砲撃して突破口を開き、そのあとで城内に突入します。もしも陣地を築いて駐屯している敵軍の物資を奪おうとするなら、敵陣の四方に伏兵をおき、そのあとで夜陰に乗じて襲撃します。水戦のときには、うまく遠・中・近と違う距離にいて、船首炮、鳥銃、火箭などを分けて用いて敵船を攻撃し、最後に敵船に飛び移って、敵を全滅させます。陣をしいて戦いを始めるときには、陣地の四方において、威力の異なる火器を用い、様々な段階の進攻に対処し、逐次、敵兵を殺傷したり、減殺したりして、最後には敵兵を全滅させてしまいます。
『武備志』は世に問われて以降、ただ国内において明・清の時代以降の学術界に重視されただけでなく、世界においても大事にされました。日本は寛文四年(西暦1664年)に日本語に翻訳して出版したほか、さらに18世紀においては原刻本を獲得しました。西暦1782年、中国を旅行していたフランスのイエズス会士・アメオ(J.J.M.Amiot)はフランス語で書かれた『中国兵法論』において『武備志』の火薬と火器の技術を引用しています。その後、『武備志』は西洋の学者が火薬と火器の技術を研究するための必読書となりました。