忍川 (おしかわ) (その1) (その2)(その3)  [忍川のページ一覧

 撮影地:埼玉県熊谷市

 忍川は延長12Km、流域面積25Km2の中川水系の一級河川。
 河川管理上の起点は熊谷市平戸にあり、起点から東へ向かって流れ、行田市の市街地を経由し、
 秩父鉄道を横断した付近から流路を南へ変え、最後は吹上町袋で元荒川の左岸に合流する。
 忍川の主な支川は上流から順に、衣川、平戸都市水路(雨水)、境堀、和田堀、
 酒巻導水路(農業用水)、忍沼川(準用河川)、清水落三千坊落などがある。

 忍川の現況:
 忍川ははっきりとした水源はなく、農業排水と都市排水を集めて流れる用排兼用の河川だ。
 現在の源流は荒川であり、忍川の上流部(熊谷市の区間)は、農業用水路として使われていて
 荒川から取水した水が流れている。上流部には3箇所に堰(取水堰と分水堰)が設けられている。
 下流部の行田市の区間は、忍沼(行田市の中心部にあった沼、跡地は水城公園と行田市役所)の
 代替排水路として整備された歴史的経緯もあり、現在は完全に排水専用である。
 忍川の水質は熊谷市の区間では良好だが、行田市の中心部を過ぎると極端に悪くなる。
 家庭からの生活排水などの都市排水(雨水以外)が流入しているからだ。
 非かんがい期(冬期)に忍川の水量が激減すると、行田市の中心部では悪臭すら感じる。

 忍川の河道整備は中流部の区間が、先行して行われている。
 行田市では、行田市駅(秩父鉄道)の付近から国道17号熊谷バイパス付近までの約3.5Kmの区間で
 河道の拡幅が実施されていて、川幅(堤防天端の内法)は広いところでは50mにも達する。
 これは流域の都市化の進展に伴い、忍川の排水能力の低下が顕著となったため、洪水量の一部を
 河道へ貯留するためであろう。さらに大雨の時には忍川の洪水の一部は、佐間水門(行田市佐間)を
 経由して武蔵水路へ放流されている。武蔵水路は利根川から取水し、荒川へ都市用水を
 送水する水路だが、洪水時には利根川からの取水は停止される。
 つまり、武蔵水路は忍川の放水路の役割も果たしている。
 忍川の水は常時は元荒川へ排水されているが、洪水時には武蔵水路を経由して荒川へ導水される。

 一方、忍川の下流部の区間は昭和初期に開削された水路である。
 農業用水の導水路と雨水の排水路の機能を兼ねていた(これについては後で述べる)。
 下流部では忍川は農村景観の中をのんびりと流れている。周辺には石田堤(天正年間の忍城の
 水攻めのさいに、石田三成によって築かれた堤防)、日光裏街道などの史跡が残っている。
 以上をまとめると、現在の忍川は上下流部が川幅10m程度の細い流れ、
 中流部は河川改修が施され、川幅は50mに拡幅されている。
 つまり、忍川の河川形態は中流部に河道貯留と放水機能を持たせたものとなっている。

 忍川の流路変遷:
 古い時代(中世あるいはそれ以前)には、忍川の流路は乱流していて不定であり、
 星川の派川だった時代を経て、流路は次第に荒川の派川へと移行していったと思われる。
 戦国時代には、忍城主 成田氏によって星川の水が忍沼(忍城の外堀)へ導水されている。
 これは新規に水路を開削したのではなく、星川の派川跡を改修したものだと思われる。
 取水口跡(行田市総合公園の南側、行田市谷郷)には、大樋跡の碑が建てられている。
 この取水路は現在の和田堀の流路に相当する。

 また現在、忍川の近傍には前谷落という農業排水路(用排水兼用)が存在し、
 これは行田市持田付近から始まり、南流して吹上町鎌塚一丁目で元荒川へ合流している。
 前谷落は忍川の旧流路(古川)の跡を改修したものだ。持田から前谷、鎌塚にかけての
 微高地は往時の忍川が形成した自然堤防だと思われる。自然堤防の東側は後背湿地であり、
 昭和40年代まで小針沼(跡地は現在、古代蓮の里)が存在した。
 熊谷市から行田市にかけての地域は、荒川扇状地の扇端部に位置しているので、
 古代から中世までの非常に長い時間をかけて、荒川で大洪水が発生する毎に、
 新たな派川(洪水が頻繁に流下した跡)が形成されていたと想像できる。
 例えば、洪水によって自然形成された荒川の派川を、近世初頭に用水路として整備し、
 整理し直したのが六堰用水(大里用水)である。

 近世になるともう、忍川には荒川の派川という形態は見られないようで(流頭が意図的に
 締め切られたのか、土砂の流入によって自然に塞がってしまったのかは不明)、
 熊谷市から始まり、忍沼へ流れ込むまでの区間が上忍川、忍沼から流れ出て行田市郊外の
 星川(見沼代用水)へ合流するまでの区間が下忍川と呼ばれていた。
 ただし、下忍川は自然河川ではなく人工の排水路であり、おそらくは享保年間に開削された。
 武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)の埼玉郡谷郷村(13巻、p.184)などに、
 上忍川と忍沼の形態に関した記述がある。
 忍川のように沼を経由した河川形態は、かつては中川水系では多々見られ、例えば
 中川(大沼、羽生市)、原市沼川(原市沼、上尾市〜伊奈町)はそのような形態だった。
 意図して河川整備がなされたのかは不明だが、沼の存在が現代の遊水池や調整池と
 同等の機能を有していた点が興味深い。

 一方、江戸時代後期の地誌である新編武蔵風土記稿の埼玉郡之一(10巻、p.93)には、
 ”忍川:水源は忍城に添へる沼より出、行田町の四方を廻り、長野村にて一条となり”と記されている。
 記述の”忍城に添へる沼”が忍沼であり、行田市周辺の多くの悪水路も忍沼へ流入していた。
 ”長野村にて一条となり”は忍沼から流れ出た幾筋も小さな川が、行田市長野で一つに合流し、
 下忍川となっていたことを示している。忍沼川などに当時の片鱗がわずかだが残っている。
 おそらく忍沼には水位調節用の水門が設けられ、それを開閉操作し、不要な水を下忍川へ
 排水していたのだろう。しかし、下忍川は昭和初期に実施された河川改修によって廃川となった。

 下忍川の替わりに新たに開削されたのが新忍川である。これによって、忍川の排水先は星川から
 元荒川へと変更された。新忍川の開削には、恒常的な用水不足に苦しんでいた元荒川への
 用水補給(福川から取水した用水を酒巻導水路を経由して)と忍沼の放水路の創生という目的があった。
 現在の忍川の流路形態の基本は、昭和初期の河川改修によって、ほぼ確立している。
 ちなみに、上忍川の痕跡は細流だが今も残っていて、水城公園(かつての忍沼)へと繋がっている。
 上忍川には上忍川橋梁(秩父鉄道、持田地区)、忍川橋(城南地区)も存在している。
 一方、下忍川は流路が完全に残っていて、現在は旧忍川と呼ばれている。
 常時は水は流れていないが、大雨の時には忍川の洪水の一部が導水される。

 忍川の近代化遺産:
 忍川支川の酒巻導水路には、上述の改修事業のさいに建設されたと思われる、
 
古い橋梁や取水施設が群として残っている。これらの構造物には現代では目にすることが
 できない秀逸な意匠が施され、独特の造形美を誇る。まさに近代化遺産と呼ぶにふさわしい。

(追補)忍川の橋梁群は土木学会の[日本の近代土木遺産]に選定された。
 →日本の近代土木遺産の
オンライン改訂版、書籍版は日本の近代土木遺産(土木学会、丸善、2005)。

 忍川の源流、星川
(1)忍川の源流、星川(下流から) 熊谷市鎌倉町
 忍川の流れを上流へと遡ってゆくと、熊谷市の中心部を
 流れる星川にたどり着く。この星川は
見沼代用水
 上流部である星川(
上星川)とは、まったく別の川。
 もっとも忍川の旧流路(
旧忍川)は星川(見沼代用水)へ
 合流しているし、忍川も星川も元荒川の支川なので、
 多少は関係があるのだが。これじゃ、混乱しちゃうな(笑)
 かつては星川の源流は星渓園(熊谷市鎌倉町)(注1)
 湧水だったが、水源は涸枯してしまった。現在の星川は
 成田堰用水(荒川の六堰から取水する農業用水路)から
 暗渠で分水している。奇しくも上星川の源流も、今は
 成田堰用水の流末である。現在の星川は
 複合水路であり、用水路や排水路(雨水)の部分は
 暗渠となっていて、星川の下に埋設されている。
 星川の実態は河川ではなく、親水水路(幅3.5m)であり
 錦鯉が泳いでいる。熊谷市は終戦前日に、米軍の空襲を
 受け、266名もの市民が死亡した(注2)
 親水護岸が施された星川の河畔には、北村西望の
 戦災者慰労の女神の像が建てられている。
   星川通りの終点
  (2)星川通りの終点(上流から) 熊谷市銀座二丁目
   星渓園(写真1の奥にある)から1.2Km下流。星川通りに
   沿って街路樹(ハナミズキ)の並木が続く。星川はかつては
   かなり蛇行していたというが、今は道路に合わせて流れは
   直線である。熊谷の街並みがすっきりと感じられるのは電柱が
   見あたらないからだろう。電力線は星川に沿って、地中に
   埋設されているのだろうなと思っていたら、この付近から
   急に電柱が現れる。そして星川は銀座二丁目48付近の
   交差点で暗渠となる。写真は暗渠の呑み口。2002年頃まで、
   ここには分水堰(藤井堰)が設けられていた。
   暗渠の区間は短く、ここから約200m下流のラオックスの北で
   再び、地上に現れるが、姿を現した時は今までの星川ではなく、
   様相はコンクリートフリュームの農業用水路と化している。
   名称も荒川左岸幹線用水路に変わっている。地下に潜っている、
   わずかな区間で、いったい何が起こっているのだろうか(笑)。
   もっとも、いかにも農業用水路という区間は国道17号線までの
   わずか300mである。国道17号線の西側には荒川左岸幹線の
   3号ゲートが設置されている。なお、銀座交差点(国道17号線)の
   脇には白髭稲荷神社がある。この周辺では白髭神社は珍しい。

 忍川の管理起点
(3)忍川の管理起点(上流から) 熊谷市平戸
 (2)から600m下流。国道17号線の平戸交差点付近が
 河川管理上の忍川の起点である。平戸橋の左岸橋詰には
 [一級河川
 忍川起点]の標石が設けられている。
 この標石は橋の欄干と樹木との陰にあり、存在が非常に
 わかりにくいのが残念である。忍川の起点付近は、
 練石積みの護岸が施された区間が多く、木々の緑が
 豊富で水鳥も多く棲息している。流れる水も見た目には
 透明度が高いので、市街地を流れるわりには、水質は
 良好なようだ。ただし水量は少なく、冬場には瀬枯れ
 (水がなく川底が見えそうな状態)の様相を呈している。
 意外なことに、忍川の河床には礫が多い。

   不動堂堰の付近

  (4)不動堂堰の付近(上流から)
   左岸:熊谷市平戸、右岸:熊谷市戸出
   (3)から600m下流。忍川の上流部には荒川の
六堰頭首工から
   取水した、大麻生用水や成田堰用水のかんがい余水が流入
   している。また平戸ポンプ場の地点では、熊谷の市街地からの
   雨水幹線(箱田、星川)が合流している。不動堂堰は
   それらの水を集めて貯水し(そのため、この付近の川幅は
   約11mへと広がっている)、農業用水として右岸から
   分水している。不動堂堰用水は熊谷市、行田市、吹上町の
   田を潤した後、流末は
がんがら落鎌塚落を経由して
   元荒川へ放流される。忍川は荒川を源流としているが、
   排水先は元荒川(中川水系)である。かつての排水先は
   上忍川が忍沼、下忍川が星川(見沼代用水)だった。

 清水橋の付近
(5)清水橋の付近(上流から)
 左岸:熊谷市平戸、右岸:熊谷市戸出
 (4)から300m下流。
清水橋の付近で忍川の川幅は
 再び、元の狭さに戻る。水辺では水鳥が遊んでいる。
 なかなか瀟洒な景観を見せる河川である。
 清水橋は古い橋で、正確な竣工年は不明だが、様式や
 コンクリートの質感から昭和初期の建設だと思われる。
 清水橋を通るのは行田道と呼ばれた旧街道であり、
 これは国道125号線ができるまでは、忍町(行田市の
 前身)から熊谷町へ通じる重要な道だった。行田道は
 往来の多い街道だったようで、忍川に架かる清水橋は
 明治9年の調査(武蔵国郡村誌)では石橋だった。
 橋長5.5mであり、現在の清水橋とさほどかわらない。  

   杣殿分水堰の付近

  (6)杣殿分水堰の付近(上流から)
   左岸:熊谷市上之(かみの)、右岸:熊谷市戸出
   (5)から1.1Km下流。行田市持田(もちだ)との境界付近。
   
杣殿分水堰(昭和9年竣工)は忍川に設けられた最下流の
   堰(農業用水の取水堰)。写真の左が忍川、右が杣殿用水路。
   杣殿用水は行田市の水田をかんがいし、流末は
前谷落などを
   経由して元荒川へ放流されている。忍川はこの地点から
   下流では排水専用河川となる。写真上部は菅谷八幡神社の森、
   西側には
杣殿樋管(煉瓦造り、明治37年竣工)が現存する。
   かつてはこの付近が大里郡と北埼玉郡の郡界であり(注3)
   忍川の右岸の戸出村は大里郡、左岸の上之村は北埼玉郡に
   属していた。なお戸出村は明治22年(1889)に平戸村などと合併し
   大里郡佐谷田村となった。
佐谷田村の道路元標は今も残っている。

(注1)星渓園は石上寺の敷地内に位置する。寛永九年(1623)の荒川洪水によって、
  荒川の左岸堤防(北条堤)が決壊して、できた落ち堀(堤防が切れて形成された沼)を
  庭園に改修したもの。元々は玉の池と呼ばれていて、星渓園と名付けられたのは
  昭和26年(1951)とわりと最近である。玉の池から流れ出すきれいな水が
  星川となり、星川の沿岸には昭和初期まで染物業者が軒を連ねていたという。
  これは熊谷染として著名だった。なお、石上寺には明治35年(1902)建立の
  芭蕉の句碑があるが、碑文に
熊谷堤の櫻樹についての記述があるので、
  この句碑は熊谷堤(荒川の旧左岸堤防)に設けられていたものなのかもしれない。

(注2)米軍の空襲による熊谷市の死者266名は埼玉県で最も多い。
  2番目に多いのが蕨市の49名なので、熊谷の空襲がいかに酷いものだったかが
  容易に想像できる。当時の市街地の約2/3が被災している。
  焼け出されて、逃げ場を失った市民の多くが星川に飛び込んだという。
  しかし燃え盛る炎に巻き込まれ、ほとんどの人がそこで命を落としたそうである。
  女神の像の裏側には、亡くなった方々の名前が刻まれている。
  星川通りは戦災後の市街地復興事業の一貫として整備された。

  埼玉県が誕生する以前、短い期間ではあったが、熊谷県というのが存在した。
  熊谷町は明治6年(1873)から明治9年にかけて、その熊谷県の県庁所在地だった。
  県庁所在地の夢があきらめきれないのか、明治19年には熊谷町への埼玉県庁の
  誘致運動が再燃している。この誘致運動は意外なことに、南埼玉郡選出の
  県会議員によって支援されたが(飯野喜四郎など)、その背景には交換条件として粕壁町への
  県立中学校誘致があった(→越谷市史
 通史編 下巻、p.349)。県立第四中学校
  (現在の春日部高校)設立の裏には、熊谷町への県庁誘致問題が絡んでいたのである。

  熊谷町には大里郡の郡役所が置かれるなど、県北の商業・文化の中心地であった。
  埼玉県の気象台は熊谷市にあるが、県庁所在地でない市に地方気象台が
  置かれたのは全国でも異例のことだそうである。
  熊谷市が市制を施行したのは埼玉県で2番目に古く、大正11年(1922)の川越市に次いで、
  昭和8年(1933)である。熊谷市本町一丁目には
熊谷市の道路元標が現存している。
  太平洋戦争後、米軍の主力部隊が、埼玉県内でまず最初に進駐したのは熊谷市だった。
  米軍は熊谷市を埼玉県の県庁所在地だと、勘違いしていたのかもしれない(笑)

(注3)現在は、忍川が旧大里郡と旧埼玉郡の郡界となっているのは
  熊谷市上之から熊谷市戸出にかけての、わずか500mの区間である。
  かつての郡界は上之と平戸の境界に沿って北上し、星川を越えてからは
  肥塚、上川上、小曽根と続いた。小曽根と柿沼にも郡界があり、小曽根は埼玉郡、
  柿沼は幡羅郡に属していた。これは古代のある時期に星川が乱流していて、
  その流れの一つが南へ向かって流れ、現在の忍川に流れ込んでいたことの
  証であるともいえる。星川も忍川も古代のある時期には、荒川の氾濫流路だったのだろう。
  現在、上之と平戸の境界に沿って、衣川(成田堰用水の流末を流す)が
  流れていて、これは忍川の左岸へ合流しているが、衣川は郡界に沿っているくらいだから、
  星川(あるいは忍川)の旧流路跡だった可能性が高い。
  つまり衣川の起源は、荒川の乱流派川の一つである。
  衣川が合流した後の忍川は、東へ流れる派川も存在しただろうが、
  行田市持田付近からさらに南流し続け、北足立郡吹上町にまで達したと思われる。
  そして吹上町明用から小谷に確認できる荒川の故道跡(古代の荒川、
  あるいは和田吉野川だろう)へ合流していた可能性が高い。
  現在、行田市持田からの南流する流路跡は
前谷落清水落
  吹上町の荒川故道跡は
足立北部排水路へと改修されている。


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