樋門各部の名称と材料     改訂27版:2008/10/01

 
↑水越門樋(新河岸川の旧堤防、富士見市)
 写真はアーチ型の樋門(門樋)だが、箱型や円型の樋門であっても、
 アーチリングの部分が、甲蓋(石材の項を参照のこと)や土管に
 変わるのみで、樋門の外見と各部の名称には大差はない。
 なお、アーチリングの上部(川表と川裏の面壁の間)は空間となっていて、
 煉瓦ではなく、土が充填されている。面壁(スパンドレル)は
 あくまでも壁なのである。 
 天端(てんば) 構造物各部の最上端を指す土木用語。
 例:面壁天端、翼壁天端、袖壁天端
 天端の段になった部位を、笠石(Capstone)と呼ぶこともある。
 ちなみに下端の高さ(標高)を指す用語は、敷高(しきだか)

 戸当り: 門樋型の樋門(観音開きのゲートが付けられることが多い)で
 見られる。文字通り、戸(ゲート)が当たる部位である。
 ゲートの衝突による面壁煉瓦の損傷を防ぐために設けられる。
 石で造られることが多く、ゲートの上端と下端の2箇所に
 付けられる(左の写真では下端の戸当りは見えない)。

 隅石 樋門の隅部(面壁と翼壁の接合部や翼壁と袖壁の間)に
 設けられる石材。コーナーストーンとも呼ばれる。これも漂流物等の
 衝突から樋門を保護するためのもの。装飾的意味合いも高い。

 銘板とアーチリング 下記の[建築材料]-[石材]の[銘板]と
 [アーチリング]を参照のこと。

 翼壁と袖壁 樋門本体の構造的安定と堤防の保護(土留めの安定や
 水の浸透防止)のために設けられる壁体。堤防の法面に合わせた
 形状になっていて、翼壁は法面に対して、もたれかかる形式である。
 また背面には土圧に対する抵抗を大きくするための
根積み
 施されている。面壁と翼壁の間には翼壁と同じ目的で
胸壁
 設けられているが、堤防の中に完全に埋設されているので、
 外からは見えない。翼壁を上空から眺めると、左右対象での形を
 しているのが基本。ただし、
榎戸堰皿田樋管小剣樋管
 現地の地形に合わせた設計となっていて、左右対称ではない。

 
関連:[煉瓦樋門の構造形式][ゲートの分類][樋門の装飾][銘板の特徴][天端の煉瓦積み][煉瓦樋門の建設工事

建築材料:

  [石材][煉瓦][セメント][基礎杭][ゲート

石材(相州堅石、小松石)

  石材は鉄筋コンクリートが出現するまでの長い間、土木材料としては最も強度・耐久性を
  誇る構造材であった。煉瓦造り樋門においては、石材は煉瓦では強度・耐久性に不安がある部位、
  煉瓦では施工不可能な部位などに使われている。装飾としての用途もあるが、現存する埼玉県の
  煉瓦樋門では、石材は装飾ではなく躯体の保護・補強として使われている事例が多い。
  色彩的に装飾効果が高い花崗岩ではなく、くすんだ色合いの相州堅石(箱根産?)や
  小松石(安山岩?)の採用が多いのも、そのためであろう。
  一般的に花崗岩は磨けば光沢が出るが、安山岩は磨いても、つやは出ない。
  構造材として比較した場合、相州堅石や小松石は花崗岩よりも強度が高い。
  石材に花崗岩が使われた例は、万年堰(備前前堀川、宮代町、1902年、埼玉県行政文書 明2492-18)、
  八間堰(見沼代用水、菖蒲町、1914年、埼玉県行政文書 大430-1)がある。

  石材を扱うのは石工と呼ばれる職人である。石材は切り出してそのまま用いられることは少なく、
  樋門の表面に現れ、目に見える部位では小叩き、見えない部分は荒叩きと呼ばれる仕上げがなされている。
  埼玉県では、石材をゲートの溝や水切り、笠石(翼壁や袖壁の天端)に用いた河川構造物が、
  建材の主流が完全にコンクリートに移行した昭和初期においても建設されている。(→古い水門
  セメントに砂・細粒石を混和し、石材風に仕上げた擬石(装飾効果を狙ったと思われる)なども使われている。
  また、煉瓦樋門へのオマージュとも思える石積み風の装飾を施したコンクリート水門も現存する。
  例:舩橋樋(騎西領用水、騎西町、1929年)、長野落伏越(旧忍川、行田市、1933年)、
    大里用水の沈砂池水門(荒川、川本町、1939年)

 (追補)上述したような土木材料に適した石材は、埼玉県ではほとんど産出しない。
  石材はその名称に産地が付けられことが多いが、その名のとおり、石材は他県から搬入したものである。
  なお、意外に知られていないのだが、石材が産出しないにもかかわらず、かつて埼玉県は石橋王国であった。
  埼玉県では江戸時代に、数千基以上もの石橋が建設されている(筆者の推測)。
  それを裏付ける石橋供養塔(一種の竣工記念碑)も300基以上が現存する。
  全ての石橋に対して供養塔が建立されたわけではないこと、建立された全ての供養塔が
  現存しているわけではないこと、塔の銘文に数10ケ所の石橋を供養と記されたものがあること、
  などから仮に現存する供養塔に対して、10倍の数の石橋が建設されたとすると、
  かつて埼玉県には3000基もの石橋が架けられたことが想像できる。
  ただし当時からの石橋は埼玉県には、ほとんど残っていない。希少な現存例として
  元文二年(1737)竣工のやじま橋(古隅田川、埼玉県春日部市)が挙げられる。
  また、石橋の構造形式はアーチ橋ではなく、ごく小規模な桁橋であった。石橋の推定架橋数から
  多くの石工の存在が想像されるが、彼らは九州地方のように高度な技能(秘伝?)を
  有した職人ではなかったと思われる。明治期の煉瓦水門の例に限らず、何故か埼玉県には、
  その当時の最先端の土木材料を使った構造物が、大量に建造される傾向があるようだ(笑)

   安山岩(下)と花崗岩(上)  ←安山岩(下)と花崗岩(上)
 榎戸堰(吹上町、元荒川、1903年)

 下は榎戸堰の堰柱に使われていた水切り部分。
 出来形帳には堅石とあるので、相州堅石であろう。
 安山岩系の石である。
 上は花崗岩。榎戸堰に使われていた石材ではない。
 表面は小叩きによって、こぶ出し処理がなされている。


 門柱: 
  門柱は引上げ式のゲートを持つ樋門や堰に設けられる。面壁の天端に据え付けられ、
  笠木(水平材)と柱(垂直材)で構成される。柱の側面には溝があり、ゲートが差し込めるようになっている。
  形態的には神社の鳥居に似ていて、日本古来の圦樋を踏襲した古典的なデザインである。
  埼玉県に現存する門柱が付けられた煉瓦樋門は、ゲート1門の小規模なものが多い。
  門柱は現代の樋門では必須ともいえる部位であり(門柱レスという形式もあるが)、
  門柱がないと大型の樋門の建造は不可能である。現代のゲート開閉は電動が主流であるので、
  門柱の上部に上屋(うわや)と呼ばれるゲートの操作室が設けられた樋門が多い。

 銘板 
  銘板とは施設名、竣工年、建設経緯等を記したもので、ほとんどが石造りである。
  外見は薄い板であるが、実体は奥行きがある直方体(煉瓦1枚分くらい面壁に埋め込まれている)。
  解体されて現存しない煉瓦樋門でも、銘板だけは形見として(?)残されていることが多い。
  例えば、宮田落し伏越(羽生市、中川、1900年)や末田用水圦樋(岩槻市、元荒川、1915年)。
  金属製の銘板が付けられていた樋門も存在した。例えば、見沼代用水元圦は真鍮製、八間堰は鋳鉄製。
  小針落伏越にも金属製の銘板が付けられていたが、現在は紛失している。

 戸当り:
   戸当りは戸受け石とも呼ばれる。門樋型(木製のゲート2枚を観音開きに設置することが多い)の
  水門の面壁に設けられる石材で、ゲート(観音戸)の衝突によって煉瓦が損傷するのを防ぐためのもの。
  面壁のゲートが当る部分(上端と下端の2箇所)に付けられるが、その形態は以下の樋門で確認できる。
  例:五ヶ門樋(中川、庄和町、1892年)、大小合併門樋(新河岸川、志木市、1898年)、
    永府門樋(市野川用水、吉見町、1901年)、小剣樋管(都幾川、東松山市、1914年)
  下端の戸当りは、水叩き(基礎の洗掘を防止する)を兼用する場合が多い。
  一方、戸溝(ゲート装着用の溝)は、引上げ式や差し込み式(角落し)のゲートを持つ樋門に
  設けられるもので、小さなゲートが装備される場合は煉瓦造りだが、大きなゲートが装備される場合には
  より堅牢な石造りとなる傾向にある。

 アーチリング
  アーチリングは通水断面がアーチ型の樋門に見られる。古典的な石橋(めがね橋)で
  輪石と呼ばれる部位に相当する。通常、アーチリングは煉瓦を使って組まれるが、大型の樋門では
  アーチ全体を石で組んだものも建設されている。石のアーチリングとは楯状の迫石(楯状:野球の
  ホームベースの形に切り出した石)を複数枚組み合わせて構成したもの。迫石を楯状に加工すると、
  樋門の見栄えが良くなるだけでなく、直線部分が多くなるので煉瓦とのかみ合わせも良好となる。
  構造的な強度は、石のアーチリングの方が煉瓦のアーチリングよりも高いと思われる。
  現存していないが、見沼代用水元圦(利根川、行田市、1906年)、川辺領圦(佐波樋管:利根川、
  大利根町、1915年)、矢島樋管(小山川、深谷市、1926年)のアーチリングは楯状迫石であった。
  なお、アーチリングの中央部に要石(キーストーン)を配した樋門は一基だけ現存するが、
  村岡樋管(吉見堰用水、熊谷市、1891年)、村岡樋管の要石の表面には楯状迫石の浮彫りが施されている。

 甲蓋
  甲蓋とは通水断面が箱型である樋門に使われている石の蓋のこと。現代では頂板や天板と呼ばれる。
  江戸時代の文献等にも見られる古い用語であり、土木工要録(青木国夫、恒和出版、1976)によれば、
  関東流の圦樋(樋管、通水断面は箱型)では、頂板に相当する木製の蓋のことを甲蓋と呼んでいた。
  明治時代でもこの名称は踏襲され、樋門の設計書では甲蓋や石蓋が使われている。
  堰の渡り板(管理橋)に石材が使われている例が多いが、これも構造的には甲蓋と同じである。
  甲蓋の側面に施設名や竣工年を刻み、銘板を兼用する樋門も多い。
  渡石とは管理橋のこと。堰の天端に設けられ、橋とゲートの操作台を兼用したもの。
  箱型の通水断面を持つ永府門樋(市野川用水、吉見町、1901年)は甲蓋が渡石を兼用している。

 水切り
  水切りとは樋門や堰の柱の先端部分のことで、水の流れを乱さない、流水抵抗を軽減する、
  等の目的で設けられる。水切りによって河床の洗掘や柱の損傷が防止できる。
  形は先端が尖ったものや全体に曲率が付けられたのものが多い。
  柱が煉瓦造りの場合は、柱の保護のために流水面に石の水切りが使われることがある。
  煉瓦造りの水切りは珍しいが、倉松落大口逆除(春日部市、1891年)や
  庄兵衛堰枠(庄兵衛堀川、白岡町、1907年)に見られる。


樋門本体: 煉瓦

 土木材料としての煉瓦:
  煉瓦は明治時代には、煉化石、錬瓦、瓦石とも表記された。
  煉瓦とは粘土に砂と水を混ぜ、練って形を整えてから焼いたものである。
  焼成しない日干し煉瓦(adobe)というのもあるが、近代以降の土木材料としては日本では、
  おそらく使用実績はない(注0)。煉瓦は製造方法が簡単なので、諸外国では数千年もの歴史を
  持つのだが、どうゆうわけか、日本では(主要な土木材料としては)近代になるまで出現してこない。
  そして隆盛を誇ったのは、明治中期から大正末期にかけてのわずか40年間であり、その後は
  コンクリートの台頭によって、土木建築の主要材料(構造材)としての地位は完全に失墜してしまう。

  日本での煉瓦製造の歴史は安政4年(1857)から始まるようで、長崎製鉄所建設のために地元の
  瓦職人が見よう見まねで焼いたが最初であるという。しかもそれは耐火煉瓦だった(→文献26、p.55)
  煉瓦製造の黎明期には、建設現場の付近に窯を設け、現地で煉瓦を焼き上げるのが主流であり、
  製造方法も家内工業的な手作業によるものであった。
  明治時代になると煉瓦の大量需要に応えるために、工場で煉瓦を大量生産して鉄道等を使って、
  遠方まで輸送する形態が出現してくる。日本で最初に製造工程に機械を導入した煉瓦工場は、
  明治20年(1887)に榛沢郡上敷免村(現.埼玉県深谷市上敷免)で創業を開始した、
  日本煉瓦製造会社である。同社は明治28年(1895)には、工場から最寄の深谷駅まで煉瓦運搬用の
  専用線(鉄道)を敷設しているが、これも民間の専用線としては日本で最初である。

 煉瓦の質と形状の変遷:
  煉瓦樋門の表面には、防水や耐食、表面保護を兼ねた化粧煉瓦(表積用)が使われている。
  表積用煉瓦の数は樋門の規模や形式によって異なるが、樋門の総煉瓦数の1〜2割程度である。
  埼玉県では表積に採用される煉瓦の種類が、時を経るにつれ変わっている。
  明治20年代は横黒・鼻黒と呼ばれる黒っぽい色の焼過煉瓦が主流だったが、明治29年からは
  完全に赤煉瓦へ移行している。赤煉瓦の主流は明治38年頃までは撰焼過一等煉瓦だったが、
  大正期以降は完全に焼過一等煉瓦となっている。焼過一等煉瓦は撰焼過一等煉瓦よりも品質は
  劣るのだが、数多くの施工実績や経験から、表積に使っても問題なしと判断されたのだろう。
  また、大正期の段階では煉瓦の品質が明治期に比べて、かなり向上したとも考えられる。
  煉瓦の質だけでなく形状も、明治29年頃から大きな変化を見せている。
  明治20年代にはアーチリングを組むのに、特別鋳型煉瓦などと呼ばれた楔形の異形煉瓦(注6)
  採用される例が多かったが、明治30年以降には普通の形状の煉瓦(直方体)が一般的となる。
  これには煉瓦の目地材(接着剤)であるモルタル(主成分はセメント)の品質向上が
  大きく影響していると考えられる。

 撰焼過一等煉瓦:
  撰焼過一等煉瓦は特別一等焼煉瓦とも呼ばれ、表面にはガラス質の光沢があり、材料特性としては
  吸水率(含水率?)が低く破壊強度も大であるという。叩くと金属音を発するというから、緻密で
  頑丈な煉瓦である。いわば赤い焼過煉瓦であり、煉瓦樋門建設用の特注材料といえる。
  撰焼過一等煉瓦は原土の生成工程が普通の煉瓦とは異なり、原土に適量のシャリモット(粘土を焼いて
  粉砕したもの)を混入したり、原土を数回に分けて捏土器にかけたりして製造したという
  (→文献20、p.386:煉瓦要説、諸井恒平、1902、p.15、原文ではシャリモットとあるが、現在はシャモットと表記するのが一般的)。
  そして、焼成した煉瓦の中から形が均一で焼きムラが少なく、色が一定のものを選別したようである。
  外観のうち形が均一であることに関しては、発注側の要求度が高かったと思われる。
  これは見た目の美しさだけでなく、施工性や経済性(均一であれば使用するモルタル量が軽減される)を
  大きく左右する要因だからである。表積の撰焼過一等煉瓦は一瞥しただけで、裏積(構造用)の
  煉瓦との違いが識別できる。表積の煉瓦はタイルのような光沢と滑らかさがあるのに対し、
  裏積の煉瓦は素焼きに近い質感である。なお、裏積の煉瓦には普通一等煉瓦が使われることが多かった。

 埼玉県歩掛内規での煉瓦の等級:
  埼玉県予算単価及び歩掛内規は、築材(建設資材)の標準価格を県が独自に調査したものだが、
  その明治32年度版(埼玉県行政文書 明2473-32)に記載された煉瓦の区分は、選焼過特別一等、
  焼過一等、並焼一等の3種類のみである。並焼一等は普通一等煉瓦に相当すると思われる。
  普通一等煉瓦よりも、さらに質が劣るものは普通二等煉瓦とされたが、標準価格は
  調査されていない(公共工事の築材としては不適切ということだろうか)。
  上記の煉瓦区分は外見(色、形状)のみでなく、材料試験に基づいて決定されたようである。
  ただし破壊強度までは計測していないようで、物理特性としては含水率が加味されているにすぎない。
  古笊田堰(久喜市、1909年)では煉瓦試験と称して、乾燥重量と沈水重量を比較した記録が残っている
  なお、建設現場への煉瓦の搬入は鉄道輸送を想定していて、内規に記された標準価格は、
  深谷停車場(現.JR高崎線深谷駅)を起点とし、日本鉄道(現.JR高崎線、JR宇都宮線)の
  各停車場までの輸送費込みの価格となっている。ちなみに当時の煉瓦価格(千個)は深谷停車場で、
  選焼過特別一等が15円11銭、焼過一等が14円11銭、並焼一等が12円61銭であった。
  煉瓦の単価は表積用が裏積用の1.2倍ということになるが、意外に価格差が少ない。

 黒煉瓦(手抜き成形)と赤煉瓦(機械成形):
  埼玉県の煉瓦樋門に使われている煉瓦の色は圧倒的に赤である。現存する87基(東京都に建設した
  弐郷半領猿又閘門を含む)のうち、確認不可の5基を除き、じつに77基で赤煉瓦が確認できる。
  残る5基には横黒・鼻黒と呼ばれる黒茶色の焼過煉瓦が使われている。
  この鼻黒煉瓦や横黒煉瓦の最大の特徴は、素地の成形が機械抜きではなく、手抜きであること。
  煉瓦の形は不均一であり、歪んだ直方体のものが多い。これは焼過という特性のために
  支払った対価ともいえる。おそらく焼成は石炭ではなく薪燃料である。
  それに対して、赤煉瓦が使われた樋門では、煉瓦の平の面(最も面積の大きい面、煉瓦どうしの
  接着面)には独特のシワシワ模様が見られる。これは機械抜き成形の跡である。
  このシワシワ模様(縮緬状)があるために、手抜き成形の煉瓦に比べて機械抜き成形の煉瓦は、
  モルタルの付着力がより強くなるともいわれている。(→文献20、p.387、389:煉瓦要説、諸井恒平、1902、p.19、34)

 日本煉瓦製造の煉瓦:
  赤煉瓦の樋門77基のうち25基では、上敷免製(日本煉瓦製造の製品)と刻印された煉瓦が確認できる。
  現存最古は明治30年(1897)建設の旧・矢島堰(小山川、深谷市)である。
  それら煉瓦の平均実測寸法は、22106×58mmであり、見沼代用水元圦(行田市、1906年)の設計仕様書で
  指定されている寸法、長7寸23分、巾3寸45分、厚1寸89分(218×1054.5mm〜221×1057.6mm)(注1)
  非常に近い。また、以下の樋門の仕様書には見沼代用水元圦とまったく同じ寸法が指定されている。
  大小合併門樋(志木市、1898年)、榎戸堰(吹上町、1903年)、前吐樋管(東松山市、1903年)、
  京塚樋管(川島町、1903年)、四反田樋管(東松山市、1905年)、新圦(幸手市、1905年)、
  庄兵衛堰枠(白岡町、1907年)、北方用水掛渡樋(羽生市、1908年)、二郷半領不動堀樋(三郷市、1914年)
  ところが、この煉瓦寸法は明治35年頃の日本煉瓦製造の普通煉瓦の寸法(7寸5分、巾3寸6分、厚2寸:
  221060.6mm、東京形)よりも約3%小さい(→文献20、p.376)

  なぜ、わざわざ規格品と微妙に異なる寸法の煉瓦を採用したのか、その理由は不明である。
  もっとも目地厚を2〜3分で施工すると、長手方向の目筋幅(煉瓦の長手幅+左右の目地の中心)が
  ちょうど7寸5分となるのでキリが良いのだが。というのは、設計段階で煉瓦の数量を算出するさいに
  樋門各部の体積を求めてから、これを煉瓦一個の体積で割って算出していたので、計算(当時は
  手計算)が楽になる利点もあったからだ。例えば”煉瓦立積3,630立方尺につき,煉瓦60,500本”などと
  計算していた。煉瓦の数量計算書は末田用水圦樋(元荒川、岩槻市、1915年、埼玉県行政文書 大659-27)や
  下ノ大圦樋(荒川、さいたま市、1915年、埼玉県行政文書 大665-66)などが残っている。
  なお、東京形の煉瓦を用いた(と思われる)樋門は、名称不明(荒川、熊谷市、建設年不明)、
  五反田堰(横見川、吉見町、1898年)の2基が残っている。
  現存する樋門に使われている赤煉瓦(表積)の実測寸法は、上述の刻印煉瓦の寸法:22106×58mmに
  かなり近く(注2)、ほとんどに機械抜きの跡が確認できるので、これらは日本煉瓦製造の製品だと推測される。
  埼玉県の煉瓦工場で明治30年代に、機械抜きで煉瓦を製造していたのは日本煉瓦製造のみである。

 煉瓦の入手先:
  煉瓦樋門の設計書(おおむね県の技術官が作成)に煉瓦の仕様として、撰一等焼過や機械抜きと
  記されていた場合、輸送時間と輸送費を考慮した上で、煉瓦を埼玉県内から調達しようとすると、
  事実上の選択肢は日本煉瓦製造の製品しかなかったといえる。
  例えば、大小合併門樋(新河岸川、志木市、1898年)の設計書(埼玉県行政文書 明2447-17)
  乗越門樋(新河岸川、富士見市、1899年)の設計書(埼玉県行政文書 明2476-9)には、
  撰一等焼過は機械抜きを用いるべしとある。
  ただし、日本煉瓦製造の製品を使わないと建設工事が許可されないというものでもなく、
  設計書に機械抜きが必要と記されていないなら、品質さえ満足すれば、煉瓦の購入先は自由であり、
  樋門の建設も許可されたと思われる。皿田樋管(元荒川、蓮田市、1903年)のように、
  手抜き成形の煉瓦が表積に使われている例や東松山市の樋門群(都幾川、1903年)のように
  中小煉瓦工場が製造した煉瓦が裏積に使われた例もある(→煉瓦詐称事件)。
  また下ノ大圦樋(荒川、さいたま市、1915年)では、樋門建設に使う煉瓦の候補として、
  日本煉瓦と平方煉瓦(上尾市)が挙げられ、寸法の比較が行なわれている(埼玉県行政文書 大665-66)
  平方煉瓦は中小煉瓦工場であり、手抜き成形の煉瓦を製造していたのだが、
  樋門の建設地に隣接するので、煉瓦搬入の利便性から資材供給の候補にあがったのだろう。

 シモレンと金町煉瓦:
  現存数と史料が少ないので根拠に乏しいが、埼玉県の北東部に建設された樋門には、
  下野煉化製造会社(シモレン、栃木県下都賀郡野木町、渡良瀬川河畔に明治22年創業)、
  南東部に建設された樋門には、金町煉瓦(金町製瓦、東京都葛飾区、江戸川畔に明治21年創業)の
  煉瓦が使われた可能性が高い(共に煉瓦の色は赤である)。両社とも明治20年代から機械抜き成形で
  煉瓦を製造しており、なおかつ権現堂川や江戸川の水運による煉瓦輸送の点で有利であった。
  ただし、金町煉瓦は大正5年(1916)に南埼玉郡潮止村(現.八潮市)に移転。
  大正7年(1918)には日本煉瓦製造に吸収されて、日本煉瓦製造の潮止工場となった。
  埼玉県の南東部に建設された樋門には金町煉瓦の製品が、かなりの割合で使われたと思われる。 
  実際、北葛飾郡庄和町には同社の赤煉瓦(機械抜き成形、刻印が認められる)を使って
  建設された排水機場の跡(中川左岸、明治40年竣工)が現存する。
  このことから筆者は、以下の樋門の赤煉瓦は、金町煉瓦の製品である可能性が大きいと推測している。
  設計仕様書にも”購入地 金町駅ヨリ一里九丁、草加町標準ニヨル”と記されている。
    弐郷半領猿又閘門二郷半領用水逃樋二郷半領不動堀樋
  なお、明治23年(1890)3月の河岸場出入荷調書では、古利根川(現.中川)の戸ヶ崎村(現.三郷市)で、
  煉瓦及び瓦の荷が280万7000本あったという記録も残っている(→越谷市史 五 史料三、1974、p.182)
  280万という数は膨大だが、残念ながらその内訳は記されていない。
  この煉瓦は金町煉瓦の製品であろうか。戸ヶ崎村は東京府との境にあり、金町煉瓦から北西3Kmに位置する。
  ちなみに、明治23年に古利根川の周辺で建設中だった煉瓦樋門は、木津内樋管(江戸川、杉戸町、
  明治23年6月竣工)、蔵田圦樋(古利根川、春日部市、明治23年7月竣工)がある。

 地元の中小煉瓦工場:
  一方、埼玉県の南端部、川口市と戸田市には、22基もの煉瓦樋門(現存なし)が建設されたが、
  これらにも地元の煉瓦が使われた可能性が高い。明治から大正にかけて、川口市と戸田市には、
  荒川河畔に中小の煉瓦工場が群集していた。→埼玉県の存在した煉瓦工場の一覧
  この地域では、地元の煉瓦と言えば、深谷の煉瓦(日本煉瓦製造)ではなく、
  川口や戸田の煉瓦工場の製品を指したと思われる。
  例えば、戸田市には明治22年に曲尺手圦(使用煉瓦数65,000個)が建設されている。
  日本煉瓦製造が本格的に創業を開始するのは、明治22年(1889)9月からである。
  曲尺手圦に使われた煉瓦は、地元の煉瓦工場あるいは荒川対岸の東京都にあった煉瓦工場の
  製品だった可能性が極めて高い。なお戸田市の煉瓦工場は荒川の堤外地で創業していたと思われるが、
  堤外地の大半は昭和初期に実施された荒川上流改修工事によって、堤内地へ取り込まれた。


(注0)日本での日干し煉瓦の使用実績
  1690年頃に田原用水に設けられた懸樋(現.岡山県赤磐市)には、日干し煉瓦が使われていた。
  懸樋(水路橋)本体は石造りであるが、懸樋の接岸部は護岸と側壁を兼ねた構造になっていて、
  その部分には日干し煉瓦が三和土(タタキ)を接着剤として壁状に積まれている(→文献66、p.277)
  ただし、部位から明らかなように、構造用の建材としては使われていない。

(注1)煉瓦の寸法の規格
  大正末まで煉瓦の寸法は規格化されておらず、1925年にJES(日本標準規格)によって、
  210×100×60mmに定められた。これは現在のJIS規格:普通れんが(JIS R 1250-1976)と同じ寸法である。
  ちなみにJIS規格では寸法の許容量は+-3%、1個の重さは約2.5kg。つまり煉瓦の単位体積重量は
  約2.0(t/m3)である。ちなみに他の土木材料の単位体積重量は、鉄筋コンクリートが2.45、
  コンクリートが2.3、土が1.8、木材は0.8である。煉瓦はコンクリートと土の中間の値を示している。
  話は戻るが、煉瓦は構造材としての全盛期(わずか30年程度だが花形の地位を獲得していた時期)には、
  不定形の建材だったのだ。工業製品であるのに煉瓦の寸法には国内規格が存在しなかったので、
  上述の見沼代用水元圦のように(→文献5、p.135)、煉瓦工場は発注者から指定された寸法の煉瓦を
  製造していた。日本煉瓦製造の場合、表積用の煉瓦は赤煉瓦とはいえ、燃料に石炭を使って
  ホフマン輪窯で高温焼成したものであり、燃料に薪が主体だった中小煉瓦工場の製品に比べると、
  含水率が低く強度も高かった。つまり、実質的には焼過煉瓦だったので、高温での長時間焼成後には
  素地はかなり収縮したと思われる。そのため収縮分を見込んで素地の寸法は大きめに成形しておいた。
  そして焼成完了後に工場で煉瓦の選別をおこない、指定された寸法の煉瓦を納品したのである。
  表積用煉瓦の歩留まりは、あまり良くなかったのではないだろうか。
  大阪窯業社長の大高庄右衛門が明治38年(1905)に建築雑誌に発表した記事には、当時主流であった、
  煉瓦の寸法が掲載されているが、それらの寸法は以下のとおりである(単位は寸からメートルへ変換した.→文献26、p.62)
  これも発注者が寸法を指定したものであり、工業製品として規格化されたものではない。 

 種類 長さ(mm) 幅(mm) 厚さ(mm)
 並形 224 106 53
 東京形 227 109 60.5
 作業局形 227 109 56
 山陽新形 218 104.5 51.5
 山陽形 227 107.5 70

(注2)表積・裏積の煉瓦寸法
  樋門に使われた煉瓦は、表積(化粧用)と裏積(構造用)は同じ寸法であったと推測される。
  煉瓦樋門の設計仕様書では、表積と裏積の煉瓦について同一寸法が指定されているものが多い。
  本報告では可能な限り、樋門の煉瓦寸法を計測し、それを実測平均寸法として記しているが、
  それらの大半は表積の煉瓦寸法である。一方、一部残存の樋門では裏積の煉瓦寸法を計測できた。
  例えば、宮地堰小竹堰二本松圦などだが、これらの煉瓦寸法は表積の平均(22106×58mm)と
  比べても、明らかな差は認められなかった。納品された煉瓦の寸法が不均一な場合、煉瓦を積む時に
  目地の幅で調整するしか対処方法がない。そうなるとモルタルの使用量が増大してしまい不経済である。
  煉瓦の納品時には厳重な製品チェックが行なわれたと想像できる。

(注3)煉瓦職人の手配と単価
  水利組合や町村が煉瓦樋門を建設したさいには、工事一式を土木会社や土建業者へ請け負わせる方式も
  あったが(それでも労働力は地元から供給した)、水利組合や町村自らが建設工事を担当することも
  多かった。その場合は、技術を要する工事の部分だけは土木会社に請け負わせたり、
  専門の職人を手配する必要があった。大工や石工は地元から調達できただろうが、煉瓦職人は
  どこから手配したのかは不明だ。埼玉県には煉瓦製造に関しては、日本屈指の大企業である、
  日本煉瓦製造が存在した。このことが煉瓦職人の手配にも有利に作用したと思われる。
  日本煉瓦製造は水利組合などからの問い合わせに対して、職人の手配を代行するのは無理でも、
  少なくとも紹介や斡旋くらいなら応じてくれただろう。
  今のところ筆者は、明治時代に埼玉県で煉瓦積み職人が就業していたという、確固たる記録を
  見つけていない。ただし、川越市府川の八幡神社には、明治28年(1895)に奉納された煉瓦造りの
  手水鉢が現存し、[府川煉化工 青木里吉]の銘がある。[煉化工]が煉瓦工場、煉瓦職人の
  どちらなのかは不明である。一方で、煉瓦樋門建設の最盛期にあっても、煉瓦を積んだのは
  埼玉県の職人ではなく、東京の職人だったという記録も残っている。
  奈目曽樋管(東松山市、明治36年竣工)の工事日誌(埼玉県行政文書 明2496-9)には
  ”煉瓦職工 東京ヨリ工場ヘ来ル”と記されている。工場とは樋門の建設現場のことである。
  埼玉県は東京都に隣接するので、中央の土木業界の情報を容易に入手できただろうし、
  人脈の流れも多かったと思われる。

  谷古田領元圦(越谷市、明治24年竣工)の計画仕様書では、煉瓦職人の単価は1000個積みにつき、
  2円50銭となっている(→文献49a、p.790)。熟練した職人だと1日当り1000個は積めたようなので、
  大工が1日当り25銭、人夫が1日当り16銭であるのに比べると、破格の高給取りである。
  単価が高かった職人は石工だが、それでも大工の4〜5割増し程度である。
  ただし、煉瓦職人には手伝いと呼ばれる作業補助人が付くことが多かったので、2円50銭は
  厳密にいえば煉瓦職人1人の1日当りの単価ではない。計画仕様書の単価が人ではなく、
  煉瓦を積む個数で計上されているのも、手伝いの存在が反映されているからだろう。
  手伝いの作業内容は、煉瓦の運搬・持ち込み、煉瓦積みのさいに、水に浸して置いた煉瓦から
  水分を拭き取り、煉瓦職人へ手渡す、などだったと思われる。煉瓦職人1人に付き、手伝いが
  何人付いたのかは不明だが、当時の写真などを見ると、煉瓦職人の両脇に作業人がいる。
  なお、同仕様書には煉瓦1個が1銭と記されているので、セメントだけでなく煉瓦も非常に
  高価な建材であった。これを現代の価格に換算してみると、仮に大工の日当を2万5千円とすると、
  煉瓦1個が千円に相当する。現在はホームセンターに行けば、煉瓦1個は100円以下で購入できる。

  (補足)職人さんは煉瓦の個数を1丁、2丁と数えるそうです。豆腐と同じだね(^^)v
  煉瓦は片手でも持てるので、人力で扱うには手頃な大きさだが、逆に形状が小さすぎて作業効率は
  良くない。並形の煉瓦を一日に1000個積んだとしても、達成できる体積はわずかに1.3m3である。
  しかし、土木工事の内容によっては、プレキャスト建材(既製品)の利点は大きい。
  コンクリートが普及し始めると、コンクリートを煉瓦と似た形の直方体(寸法は様々だが、
  例えば30cm×20cm×100cm)に成形した、コンクリートブロック(方塊造り)というものが出現した。
  これは小さすぎる建材の施工効率の悪さを改良したものであり、例えば上述した大きさの
  コンクリートブロックであれば、一日に20個積めば、煉瓦1000個と同等の体積となる。

(注4)煉瓦積みの方式
  煉瓦樋門の仕様書(埼玉県行政文書として埼玉県立文書館に保管されている)を確認した限りでは、
  煉瓦の積み方(畳積)に関しては、施工方式に特記事項が記された例は数件あるが、
  煉瓦積の方式(イギリス積みやフランス積み等)については、特定の積み方は指定されていない。
  しかし、本HPで紹介した樋門のほとんど(つまり現存する樋門の大部分)が、構造部分の煉瓦の積み方には、
  イギリス積みを採用している(長手の段と小口の段を交互に配置し、縦方向の目地が一直線に
  並ばないようして強度を出す方式)。部分的に、オランダ積みが用いられている樋門もあるようだ...
  と、曖昧な表現をしたのは、そもそも筆者にはイギリス積みとオランダ積みの区別ができないからさっ(笑)
  なお、翼壁の積み方には亜種が存在し、変則積みの樋門が9基、小口積みが1基(天神沼樋)ある。

  積み立てる直前まで煉瓦を水に浸しておくと、積む時に目地にセメントがなじむので、目地切れが
  防げるそうである。目地切れとは目地にモルタルが充分に充填されないで、煉瓦同士の接着面に空隙が
  発生してしまうこと。目地切れが発生すると、煉瓦の構造体としての強度は半減してしまう。
  ちなみに埼玉県の煉瓦樋門の建設では、煉瓦積みの方法には原則的に付けトロが指定されていて、
  流しトロは禁じられていた。トロとはモルタルのことで、付けトロは煉瓦に1つずつトロを塗って積む方式、
  流しトロは並べておいた煉瓦の目地へトロを流し込むやり方である。
  当然、流しトロの方が作業効率が良いが、目地の奥までモルタルが充填されない可能性がある。
  なお、煉瓦積み及びコンクリート製作の作業は、冬期においては凍結を防ぐために、
  午前9時から午後3時までの間に行なうのが通例であった。

(注5)焼過煉瓦
  明治20年代に建設された樋門で現存するものには、表積に横黒・鼻黒(矩黒)と呼ばれる焼過煉瓦が、
  使われている。焼過煉瓦は透水性が低い(水が沁み込みにくい)ため耐食性が高いので、河川構造物の
  表積や浸水部分(基礎に近い部位)の建材に適している。寒冷地では凍害防止に用いられることもある。
  反面、いったん煉瓦の内部に水が浸入してしまうと、透水性が低いことによって水分の乾燥速度が遅く、
  残存水が凍って、煉瓦にひび割れを生じさせてしまう特性(可能性は小さいが)も持ち合わせている。
  焼過煉瓦とは、還元焼成(窯を酸欠状態に保ちながら通常よりも高い温度で、煉瓦を焼きしめること。
  原土から酸素を失わせる焼成法)によって得られる含水率が低く、耐水性に優れ、強度が
  大きい煉瓦のことである。だるま窯や登窯で燃料に松を使って焼成すると酸欠になりやすく、
  煉瓦の色は黒から濃い紫になり、表面には光沢が出る。なお、煉瓦の焼きしめは6つの面すべてではなく、
  部分的に施され(煉瓦同士の接着面である平の面は焼きしめる必要がない)、長手面だけの場合を横黒、
  小口面だけの場合を鼻黒、長手と小口が焼過の場合は矩黒や両面焼きという。
  それに対して、酸化焼成(空気を充分与えて普通の温度で焼き、原土を酸素と結合させる焼成法)で
  焼かれた煉瓦は、普通煉瓦(一般的に赤煉瓦と呼ばれる素焼きに近い質感のもの)になるという。
  ただし、原土の鉱物含有量の違いにより発色(酸化の度合い)が異なるので、必ず赤色になるわけではない。
  →焼成方式については、全愛知県赤煉瓦工業協同組合のHP(http://www.akarenga-aichi.or.jp)が詳しい

  日本煉瓦製造では、表積用煉瓦の製造用にカッセル窯を所有していたが、歩留まりが悪いために、
  窯の稼働率は低かったようだ。そのため明治39年までは、ホフマン輪窯の焼成方法に工夫を凝らして
  表積用煉瓦を製造していた。これが、特別一等焼や撰一等焼過と呼ばれる光沢のある赤煉瓦である。
  日本煉瓦製造の赤い焼過煉瓦は、他社の横黒・鼻黒煉瓦よりも品質が高く、含水率や強度も
  上回っていたという。赤い焼過煉瓦は土木工事の材料に好都合であること、工場による生産なので
  供給量が豊富なことから、明治30年頃から埼玉県では横黒・鼻黒煉瓦に取って代わることになる。
  日本煉瓦製造が所有するホフマン式輪窯では、横黒・鼻黒煉瓦の製造は不可能であったとの
  記述も残っている(→文献20、p.103)。ちなみに、表積用煉瓦焼成のためのヘードリッヒ式窯が
  日本煉瓦製造内に完成するのは、明治39年12月である。
  一方、明治20年代に建設された樋門に使われている焼過煉瓦は、明治30年代以降に建設された樋門の
  煉瓦(おおむね日本煉瓦製造の製品)と比べると寸法が小さく、歪んでいて(焼過の特徴でもある)、
  形状は不均一で、しかも手抜き成形である。
  これらの状況から、明治20年代の樋門に使われている表積用の焼過煉瓦は、
  日本煉瓦製造の製品ではないと推測される。しかし、同社には明治26年から27年にかけて
  淀橋浄水場(東京都、跡地には都庁が建っている)の建設用として、横黒や焼過煉瓦(約840万個)を
  受注した記録(→文献20、p.59)も残されているので断定はできない。

   焼過煉瓦(左)と普通煉瓦(右)  ←焼過煉瓦(左)と普通煉瓦(右)
 備前渠用水(深谷市上敷免)の周辺で発見。

 共に上敷免製の刻印があり、
 成形は機械抜き。
 チョコレート色をした(いわゆる焼過)、
 日本煉瓦製造の煉瓦は珍しい。
 煉瓦の色はこんなにも違う。
 焼過煉瓦には職工印と思われる、
 丸の中にエ(カタカナ)が付けられている。

(注6)特別鋳型煉瓦
  明治20年代にはアーチリングを組むのに、特別鋳型煉瓦などと呼ばれた楔形の異形煉瓦
  使われることが多かったが、明治30年以降になると楔形煉瓦の使用実績はほとんどなくなる。
   アーチの直径は明治20年代に建造された樋門の方が、明治30年以降の樋門よりも大きい傾向にある。
  明治30年以降の樋門はアーチ径が小さいので曲率が大きくなり、普通煉瓦のみでアーチリング
  組むのは技術的に困難だったはずなのだが、不思議なことに時代を経るにつれ、楔形煉瓦の採用は
  減っているのである。
普通煉瓦のみで曲率の大きいアーチを組むと、強度に不安が残るだけでなく、
  モルタルの使用量も増えてしまい不経済である。もっともアーチ径が小さい樋門では、アーチの形状は
  半円ではなく四分円アーチが採用されることが多く、厳密な区分ではセグメンタルアーチとなるが。
  楔形煉瓦が使われなくなった理由は、煉瓦の絶対的な供給量不足に加え、施工業者が煉瓦組みに
  習熟したこと、セメントの品質が向上したこと、セメントの市場価格が安価となった、などが想像できる。
  煉瓦樋門建造の最盛期には、施工性と経済性を重視して、アーチ型以外の樋門形式が
  出現してきたこととも
密接な関係がある(→構造形式による樋門の分類
  つまり、モルタルの使用量を最小限に抑えてまでも、アーチ型に固執して小さな径の樋管を
  構築する理由はなくなったのである。
  なお筆者の知る限り、明治30年以降に建設された樋門で、楔形煉瓦が使われた例は、
  天神沼樋(1903年、天神沼、吉見町)のみである。ただし天神沼樋の場合、通水断面の形状は
  アーチではなく卵形であり、しかも幅(アーチ直径に相当)が0.6mという極小サイズの樋管を
  施工という特殊な事情があった。

(追補)黒煉瓦から赤煉瓦への過渡期
  埼玉県に現存する明治20年代に建設された煉瓦樋門は以下の6基である。
   谷古田領元圦(明治24年、越谷市、葛西用水)、倉松落大口逆除(明治24年、春日部市、旧倉松落) 、
   村岡樋管(明治24年、熊谷市、吉見堰用水) 、五ヶ門樋(明治25年、庄和町、中川)、
   甚左衛門堰枠(明治27年、草加市、伝右川)、四箇村水閘(明治29年、春日部市、中川)
  このうち、四箇村水閘を除く5基の樋門の表積には赤煉瓦ではなく、黒っぽい色の煉瓦(手抜き成形の
  焼過煉瓦)が使われている。四箇村水閘は機械抜き成形の赤煉瓦だが、その色と表面の質感から
  推測すると製造元は日本煉瓦製造ではないと思われる。おそらく、金町煉瓦の製品であろう。
  このように、明治20年代に建設された煉瓦樋門の表積には、日本煉瓦製造の煉瓦は使われていない。
  もっとも、埼玉県内に現存する樋門以外の煉瓦構造物や建築物を見ても、明治20年代に日本煉瓦製造が
  焼いたと断定できる煉瓦が使われている例は極めて少ない。筆者の知る限り、備前渠鉄橋
  その脇の煉瓦アーチ橋くらいである。なお、これらの煉瓦の寸法は東京形である。
  なお、埼玉県には明治20年代に建設された煉瓦樋門の遺構(煉瓦のみ現存)が、少なくとも2基あるが、
  文覚門樋(明治26年、吉見町、文覚川)と 〆切掛渡井(明治28年、さいたま市、加田屋川)であり、
  これらの裏積には赤煉瓦が使われている。埼玉県の煉瓦樋門は明治29年頃から表積の建材が赤煉瓦へと
  劇的に移行したのだが、その過渡期に建設されたのが〆切掛渡井である。〆切掛渡井の跡地には、
  表積の鼻黒煉瓦と裏積の赤煉瓦が残っていて、埼玉県の煉瓦樋門建造史上、非常に貴重な史料である。
  明治20年代に樋門の建材として焼過煉瓦が選定された理由は、耐水性を重視したからだと思われる。
  しかし焼過煉瓦は主に中小煉瓦工場が製造していたので、供給量が不足しがちであった。
  文覚門樋では表積に焼過煉瓦を使う予定だったが、入手が困難だったようで、
  最終的には表積用の煉瓦は赤煉瓦が使われたようである。


目地: モルタル(セメント+砂)

 モルタルの成分:
  モルタルは明治時代には、膠泥、膠土、膠灰とも表記された。モルタルとはセメントに水と砂を
  加えて練り上げたもので、煉瓦積みの当日に建設現場で作成された。埼玉県の樋門工事では、
  前日に作成したモルタルや当日に作成しても硬化が進行した場合はその使用が禁止されていた。
  一方、セメントは摂綿篤という当て字があったようだ。なお、セメントに水だけを加えて練ったものは、
  俗にトロやノロと呼ばれ、主に目地の仕上げや表面の化粧などに用いられた。
  埼玉県の煉瓦樋門工事では、トロを煉瓦の接着に使うことは実質的には禁止されていた。
  砂は海砂ではなく川砂を使用することが推奨されていたが、これは海砂に含まれている塩類が
  セメントと化学反応を起こして、エフロレッセンス(efflorescence:白華、鼻垂れ)を引き起こす
  可能性があるからである。見栄えが悪くなるだけでなく、セメント本来の強度も低下する。
  川砂は利根川や荒川から採取され、工事現場へ搬入された。

 石灰モルタル:
  埼玉県の煉瓦樋門建設では、石灰をセメントの代用とした、いわゆる石灰モルタルの使用事例は
  なかったようである。設計仕様書に石灰が計上されているものは(現在のところ)確認されていない。
  石灰モルタルは成分的には、漆喰(しっくい:石灰に粘土や塗料を混ぜたもの)とほぼ同じであり、
  煉瓦構造物の接着材としては強度が不足する。
  なお、セメントモルタルと石灰モルタルの目視による判別方法は、煉瓦の目地の色が
  黄色っぽい灰色ならばセメントモルタル、白っぽい灰色ならば石灰モルタルである。
  もっともその煉瓦構造物が置かれた環境によって、目地の表面が変質し色が変わることが
  多々あるので、必ずしもこの判別法が当てはまるものではない。

 煉瓦樋門はセメントモルタル:
  明治期の煉瓦構造物(特に建築関連)には石灰モルタルを使ったものが多かったが、
  明治24年(1891)の濃尾地震ではその多くが倒壊している。このことから、濃尾地震以降は
  石灰モルタルの使用を規制したり、セメントの配合比率を多くすることが推奨されたようだが、
  それでも最終的には大正13年(1924)頃まで石灰モルタルが使われていたようである(→文献26、p.144)
  関東大震災では東京府に存在していた数多くの煉瓦建築(例えば銀座煉瓦街など)が倒壊し、
  [煉瓦建築は地震に弱い]という定説が確立してしまったが、倒壊の主たる原因は
  石灰モルタルの使用だったと思われる。
  埼玉県の煉瓦樋門は建設が開始された明治20年代初頭から、既にセメントモルタルを用いて
  建造されていた。当時の日本の煉瓦建築物では石灰モルタルが使われるのが一般的だったと
  いう時代背景を考慮すると、埼玉県の煉瓦樋門は土木構造物としての施工管理が、
  意外に先見性を有していたことになる。

 適切な配合のモルタル:
  モルタルの配合比率(体積比)は、セメント1に対して砂3が標準だが、アーチ部のように強度を
  要する箇所に使うモルタルは、セメント1に対して砂2の配合が推奨されていた(→文献5、p.135)
  セメントの比率が多くなるほど、モルタルの強度は増加するのだが、強度の高すぎるモルタルは、
  煉瓦との接着性が良すぎるために、内部応力が蓄積しやすく、煉瓦にひび割れが発生する原因に
  なるといわれている(→文献31、p.58)。一種の経年劣化とみなせるが、現存する煉瓦樋門では、
  煉瓦の表面に極端なひび割れが確認できるものは少ないので、適切な配合のモルタルが
  使われていると思われる。注:二郷半領用水逃樋(三郷市、第二大場川、1912年)は樋管内部に大きな
  亀裂が見られるが、これはモルタルの配合が悪いのでなく、原因は関東大震災による損傷に加え、
  樋管上部の道路が県道であり、交通量が多いためである。

 目地とモルタルの関係:
  現存する樋門の目筋(目地)厚は5〜10mmとバラツキが大きい。これは、(1)煉瓦の形状が歪なのを
  目地厚で吸収している (2)煉瓦職人の腕前による差、などが考えられる。
  質の良いモルタルを使って腕利きの職人が積んだ煉瓦は、モルタルが容易には剥がれず、
  無理に剥がそうとすれば、煉瓦自体が割れてしまうそうである(→文献20、p.152)
  また、当時のモルタルは硬化するさいの収縮率が大きかったので、目地を厚くしすぎると、
  煉瓦に引っ張り力が作用し亀裂が生じてしまうとの記録も残っている(埼玉県行政文書 明2496-7)
  煉瓦の積み立て終了後には、富配合(セメント1に対して砂1)のモルタルを目地の隙間に塗り、
  目筋塗(目地の仕上げ)が行なわれた。現存する樋門の目地仕上げは、沈み目地と思われるものが多い。
  樋門は水利構造物であるから、平目地の方が遮水効果もあり有利だと思うのだが、
  何故そうなのかは不明である。モルタルの品質が悪いために(富配合ではあるが)、目地仕上げが
  経年劣化して剥がれてしまっていて、沈み目地のように見えるだけなのかもしれない。
  以下の樋門は沈み加減が少なく、平目地であるようだ。
    永傳樋管吉根樋管三軒家樋管新田圦樋二郷半領用水逃樋二郷半領不動堀樋千貫樋
  なお現存する樋門では平目地に比べて、より装飾的な覆輪目地(目地をカマボコ型に盛り上がらせる)の
  施工例はない。

 高価だったセメント:
  意外なことに、樋門の総建設費に占める材料費の割合では、煉瓦とセメントはほぼ同じである。
  そして煉瓦とセメントの金額だけで、総建設費の35〜45%を占めている。
  例えば、谷古田領元圦(1891年竣工、使用煉瓦数は約5万個)は煉瓦20%、セメント18%(→文献49a、p.790)
  釘無門樋(1891年竣工、使用煉瓦数は約17万個)は煉瓦26%、セメント22%、
  見沼代用水元圦(1909年竣工、使用煉瓦数は約66万個)は煉瓦19%、セメント15%である。
  樋門規模の大小、建設年代が異なるにもかかわらず、煉瓦とセメントの材料費はほぼ同額である。
  樋門の全容積のうち約80%は煉瓦が占め、セメントの割合は15%程度であるから(煉瓦とセメント(目地)の
  面積比率は、6:1程度である)、セメントは非常に高価であったようだ。
  セメントを現場からほんの一握り持ち出すだけで、人夫の日当に相当するくらいの金額になったようなので、
  施工現場ではセメント(樽に入れられていた)は盗難に遭わないように厳重に管理されていた。
  煉瓦樋門の創成期には樋門のアーチ部分の煉瓦に、くさび形などの特別鋳型煉瓦(煉瓦。注6)が使われたが、
  これはアーチ強度の確保と共に高価なセメントの使用量を減らすことを目的としていたからだ。

 セメント製造の略史:
  日本のセメント製造の歴史は、煉瓦製造の歴史とほぼ似たような経緯を辿っている。
  明治8年(1875)に工部省深川工作分局(官営のセメント工場)で、国産のポルトランドセメントの製造に
  成功したのを皮切りに、明治14年(1881)には山口県小野田市に日本で最初の民間会社:小野田セメント
  (現.太平洋セメント)が建設されている。しかし、明治10年代の国産セメントの品質は外国産に比べると、
  かなり劣っていたようである。明治19年(1886)に明治政府は東京都日比谷への官庁集中計画のために、
  臨時建築局を設置し、10数名のドイツ人技術者を招聘したが、その中には煉瓦製造技師であるチ−ゼ、
  セメント製造に関してはブリーグレップ博士がいた。日比谷官庁街は煉瓦建築で構成される計画であり
  主要建材である煉瓦とセメントには国産品が使われる予定だった。そのためには高品質の煉瓦と
  セメントを大量に供給できる基盤が必要だった。煉瓦製造のために明治20年10月に開設されたのが
  日本煉瓦製造会社である。工場建設と煉瓦製造の指導のために、チ−ゼは同社へ派遣された。
  なお、明治19年には官庁集中計画の準備として、日本からドイツ(ベルリン)へ建築技師3名(河合浩蔵、
  渡辺譲、妻木頼黄)、職人17名が派遣(留学)されている。

 国産と外国産のセメント:
  明治20年代になっても国産セメントの品質は外国産に比べると、まだ劣っていたようである。
  例えば、葛西用水元圦の設計説明(明治26年、埼玉県行政文書 明1793-29)には、使用すべきセメントとして
  舶来と国産の比較記述が見られるが、それによると耐張力は舶来セメントが450ポンドに対し、
  国産セメントは400ポンド(約180Kgf)である。耐張力とは引っ張り強度に相当するのだろうか、国産品は
  輸入品の88%の強度しか有していない。それでも明治25年に竣工した五ヶ門樋には国産のセメント、
  北陸セメントが使われている。明治26年竣工の文覚門樋では出来形帳の欄外に”強力四百封度以上の
  ポートランドセメント”との記述があるので、この場合は国産ではなく、外国製のセメントが
  使われた可能性が高い。ポートランドセメントとはポルトランドセメント(Portland)のことである。
  明治28年竣工の新樋門樋(鴻沼川、さいたま市西堀、使用煉瓦数11万5千個、アーチ型)では、
  使われたセメント229樽のうち102樽がポートラントセメント(原文のまま)、127樽が日本製である。
  わざわざ区別していることから、このポートラントセメントは外国製であろう。
  強度を要する部分(例えば煉瓦のアーチ組み)と、そうでない部分(例えば基礎の捨てコン)で
  外国製と日本製のセメントを使い分けたのだと思われる。
  ちなみにセメント1樽の単価はポートラントセメントが4円70銭、日本製が3円70銭である。

 埼玉県独自のセメント強度試験:
  明治27年には樋管工事に使用するセメントの耐延力検定の方法について、
  埼玉県が農商務省へ問い合わせた記録が残っている(埼玉県行政文書 明1772-47)。
  耐張力や耐延力とは引っ張り強度のことだと思われるが、この史料はこの頃まで埼玉県では、
  セメントの強度試験の方法が確立していなかったことを示している。明治20年代前半までの樋管工事では
  使用実績があり、性能が優秀だとされる舶来セメントが用いられていたので、強度試験の必要性も
  なかったのであろう。ところが明治20年代後半になると、それまで樋管建設では使用実績の少なかった
  国産セメントが導入される頻度が多くなってきたため、埼玉県としては不適切な材料が使われないように
  監督するためにも、強度試験の方法を習得しておく必要性に迫られたのだと思われる。
  その後の埼玉県の対応は迅速であり、明治27年度中には県独自のセメント強度試験方法を
  確立したようである。明治28年に竣工した〆切掛渡井(さいたま市、加田屋川〜見沼代用水東縁)の
  仕様書には工事に使用するセメントについて、”縣指定の試験方法に合格せしもの”との記述が残っている。
  これ以降、埼玉指定の試験方法に合格したセメントでなければ、樋管工事への使用許可は下りなかった。
  なお、日本国内で工業規格としてセメントの試験規格が公布されるのは明治38年(1905)であり、
  意外に遅い(→日本建築技術史、村松貞次郎、地人書館、1959、p.145)

 セメントの入手先:
  その後、明治30年代になると国産セメントの品質はかなり向上したようである。
  明治30年代の埼玉県予算単価及び歩掛内規には、セメントの単価は浦和停車場を起点として、
  各駅までの輸送代を加味した価格の一覧が記されている。これはセメントの主な供給源が東京方面に
  あったということを示している。ちなみに煉瓦は深谷停車場を起点とした単価一覧となっている。
  さて、モルタルの主成分であるセメントは、どこから調達したのだろうか?
  ちなみに、埼玉県有数のセメント工場、秩父セメントが創業するのは大正12年(1923)であり、
  この頃には埼玉県での煉瓦水門の建設は既に終焉期に入っていた。奇しくも秩父セメント設立の
  中心人物は、日本煉瓦製造の諸井恒平(本庄市出身)だった。
  明治時代、東京にあった大規模なセメント工場の一つに浅野セメントがある。
  (創始者の浅野総一郎が渋沢栄一に働きかけ、上述の官営セメントエ場を払い下げてもらった)
  セメントは浅野セメントから納品された可能性が高い。以下の樋門の仕様書には浅野セメントの記述がある。
   新圦(1905年、幸手市、埼玉県行政文書 明2506-18)、
   長野堰、弁天門樋(1905年、共に行田市、埼玉県行政文書 明2511-2)、
   瓦葺掛樋(1908年、蓮田市〜上尾市)、古笊田堰(1909年、久喜市、埼玉県行政文書 明2538-3)、
   小剣樋管(1914年、東松山市、埼玉県行政文書 大434-51)、
   二郷半領不動堀樋(1914年、三郷市、埼玉県行政文書 大438-80)。

  なお、北河原用水元圦(1903年、行田市)では、東京愛知セメントの製品が使われているが、
  工事開始に先立って、北河原村長(工事管理者)から埼玉県に対して、セメントの性能試験実施の
  依頼書が提出されている(埼玉県行政文書 明2497-34)。セメントは北河原用水の組合が購入したものだが、
  おそらく愛知セメントの製品は、それまで埼玉県の煉瓦樋管では、使用実績がなかったのだろう。
  北河原用水元圦と同じ年に建設された高畑樋管にも愛知セメントの製品が使われている。
  愛知セメントは高島嘉右衛門によって明治24年(1891)に創設された。
  浅野セメントと愛知セメントは今はなく、現在は太平洋セメントとなっている。

   目地  ←目地
 榎戸樋管(吹上町、元荒川、1901年)

 榎戸樋管の塔の部分。富配合のモルタルによる
 目地の仕上げが行なわれているようだ。
 しかし若干、砂の配合が多いのか、縦目地の表面には
 砂が浮かんでいる。モルタルの色は黄色っぽい、
 目地厚は約8mmで平目地。仕上げは均一である。

基礎: 木杭、コンクリート

  樋門が建設される地点は軟弱地盤であることが多いので、木造に比べて重量のある煉瓦樋門では、
  基礎の成否が樋門の構造的安定の大きな要因となる。他県の例として愛知県では、
  海岸付近の軟弱地盤に設ける樋門については、煉瓦造でなく重量の軽い木造(ただし表面には
  セメントを塗布して腐朽と虫害を防ぐ)を推奨している(木材の単位体積重量は煉瓦の40%である)。
  →明治29年(1896)発行の改良樋管設計書(埼玉県行政文書 明2437-18)
  なお、同一の理由かは不明だが、利根川第一期改修工事で明治35年から40年にかけて、
  千葉県香取郡豊浦村(現.小見川町)の利根川堤防に伏せ込まれた8基の樋門も
  木造であった(→文献19、p.619)。明治時代後期になっても、国直轄の工事として利根川に
  木造の樋門が建設されているのは、紛れもない事実である。
  しかし、埼玉県では迷うことなく煉瓦樋門である。しかも事前に地質調査を行なったと思われる形跡はない。

 煉瓦樋門の基礎工法:
  埼玉県立文書館には煉瓦樋門の設計図が数多く保管されているが、それらを見た限りでは
  基礎の方式はほぼ同じである。土台木と呼ばれ、地盤へ地杭(基礎杭)として松丸太を打ち込んでから、
  杭頭を切り揃え、杭の周囲に木材で枠を組んで中に砂利や栗石を敷詰めた後に突き固め、
  杭の頭部に捨コンクリートを打設して基礎としている。捨コンクリートの厚さは樋管の規模によって
  異なるが、概ね1尺から2尺(0.3〜0.6m)である。ただし、土台木は洋風の工法というわけではなく、
  日本でも宝永年間(1705年頃)に神田上水の関口大洗堰の基礎工事に使われた例がある(→文献61、p.378)
  捨コンクリートの代りに石灰と砂利を混和した凝結材(タタキと似たものだろう)が用いられている。
  江戸時代に圦樋の標準設計であった関東流や紀州流の圦樋断面図にも、圦樋の底版部分に
  横土台や縦土台という表記が見られるが(→文献27、p.24)、これも土台木と同等なものであろう。
  なお、杭頭の切り揃えや土台木の据付は大工が担当した。

  煉瓦樋門では地杭の打設間隔はおおむね50〜70cmであり、1mを越えるものはないようである。
  松丸太の寸法は、末口(直径)が5寸(15cm)または6寸(18cm)で、長さは15尺(4.5m)から
  18尺(5.4m)のものが多い。二郷半領用水逃樋(三郷市、第二大場川、1912年)には長さ12尺(3.6m)、
  郷志門樋(びん沼川、富士見市東大久保、1914年)では長さ21尺(6.3m)の松丸太が使われている。
  木材であるため当時の杭の最大長は7m程度であった。根入れ長(地中への打ち込み深さ)は3〜5mである。
  樋門の設置場所は沖積地であり、地下数mの区間にはシルトや粘土が分布している。
  土質分布は場所によって大きな差があるが、それでも砂や岩の層が現れるのは地下10数mだろう。
  これらのことから杭の方式は支持杭ではなく摩擦杭であること、根入れ長は設計によって
  算定されたものではなく、施工時の最終沈下量によって決定されたと想像できる。
  基礎の周囲には、木製の矢板(土留め用)が打ち込まれている。ちなみに鋼矢板が土木工事に
  使われ始めるのは、関東大震災(1923年)以降のようである。
  樋門の呑口側に、コンクリ−ト製のうなぎ止め(止水矢板)を設けたものもある。

  昭和10年頃の一級河川のRC樋管の基礎工事も煉瓦樋門と同様な工法であった。(→文献59、p.322)
  現在の中小樋管の工事も、木杭がコンクリートや鋼管の杭に置き換えられただけで、この工法と
  大差はない。ただし、基礎が剛支持であることから、樋門の大きな沈下を許容できないのが
  欠点である。最近では基礎の沈下をある程度許容する柔構造支持の樋門が主流となりつつある。
  ちなみに明治期を代表する(竣工は大正3年だが、設計は明治時代)、日本最大の煉瓦建造物:
  東京駅の基礎杭にも、松丸太(長さは4mから8m)が使われ、全長約340m、重量約7万トンの駅舎を支えている。
  なお、大正時代末期に建造された大型の煉瓦樋門(本体はコンクリート製で表面のみ煉瓦)では
  基礎にオープンケーソン(煉瓦壁の中にコンクリートを充填)が採用された例もある。
  利根川第二期改修工事の特殊工事として、大正10年に竣工した横利根閘門(茨城県稲敷郡東町)には
  28基のオープンケーソンが設置された(→文献19、p.639)
  ちなみに見沼代用水元圦や葛西用水元圦の合口代替施設である利根大堰(昭和43年竣工)の
  基礎杭には、鋼管杭(φ500、長さ22m)とRC杭(φ250〜350、長さ5〜10m)が使われている。

 基礎杭の沈下量検査:
  明治時代とはいえ、基礎杭については設計段階で最終沈下量を算定しており、
  施工時にはこれに基づいて沈下量の厳密な検査がおこなわれていたようである。
  例えば、三間樋(1902年、新川用水、騎西町)、笠原堰(1902年、元荒川、鴻巣市)、
  庄兵衛堰枠(1907年、庄兵衛堀川、白岡町)では、基礎用地杭に対する設計書と称し、
  トロウトワイン(トラウトワイン)氏式という公式を用いて、樋管本体の死荷重から
  最終沈下量と支持力?を算出している(埼玉県行政文書 明2492-12 明2488-16 明2516-19)
  最終沈下量の目安としては、見沼代用水元圦の設計仕様書には”重量六十貫高十尺ノ垂下ニテ
  最終沈下二分ヲ目度トスヘシ”、”前項最終五回ノ平均沈下二分以上ニ及フ時ハ、監督員ノ指揮ヲ
  受クヘシ”と記されているので、二分(約6mm)だったことがわかる。
  樋門の建設地が予想以上に軟弱地盤であり、杭の最終沈下量が設計書の範囲に収まらない場合は、
  当初の設計を変更し、杭の本数を増やすことで対応している(増杭と呼ばれた)。
  上述の”監督員ノ指揮ヲ受クヘシ”による監督員の最終判断がこれである。
  増杭は、三間樋、小剣樋管(1914年、都幾川、東松山市)(埼玉県行政文書 大434-51)などで行われている。
  反対に地盤が予想以上に堅固である場合には、設計書に記された所定の根入れ長まで杭を
  打ち込むのに相当、苦労したようである。竣工調書に竣工が遅れた理由として、地盤が堅固で杭打ちが
  難航したと記されている事例も多い。庄兵衛堰枠、天神沼樋(1903年、天神沼、吉見町)などである。
  一方、基礎工事の不備が原因で崩壊した煉瓦樋門もある。明治32年(1899)に竣工した、
  順礼樋管(権現堂川、幸手市)は翌年に洪水によって破壊されている。これは地盤調査が不完全だったこと、
  基礎工事が杜撰だったこと、杭の最終沈下量の検査が不充分だったことが主な原因である。
  順礼樋管のような例外もあるが、埼玉県の煉瓦樋門の建設工事では、基礎杭の施工後に厳密な検査が
  実施されたようである。現存する煉瓦樋門は施工から100年以上が経過しているが、現在でも煉瓦自体に
  大きなひび割れが見られるものはない。基礎杭の不同(不等)沈下は発生していないようである。

 杭打ちの方法:
  明治時代の杭打ちは木製の櫓(やぐら)を組んで、頂部から掛矢(かけや:大型の木槌)を杭に向かって
  打ち下ろすことでおこなわれた。掛矢の打ち下ろしは人力だったが、その様子は(文献58などに
  詳しく記述されている。櫓の中心には根取と呼ばれる男(主にとび職)が二人ついて、掛矢の操作と
  杭打ちの指示を行なった。掛矢には綱が結ばれていて、それを引くのが綱引きと呼ばれる人々だった。
  杭打ちの規模にもよるが、綱引きの人数は多い時には数十名に及ぶこともあった。
  庄兵衛堰枠の関連史料(埼玉県行政文書 明2516-19)には、杭打ち作業について、”重さ約60貫(225Kg)の
  三脚器械をもって毎日人夫17人で作業せり”との記述がある。
  屈強な男衆が20人近くも集まって杭を打ち込む光景は、力強く壮観なものであったと想像できる。
  杭打ち作業の現場では、掛け声だけでなく、杭打ち唄も響いていたことだろう。
  当時の仕様書や工事日誌には人力の杭打ち機の名称?として、パイレンという記述が多く見られる。
  動力(蒸気機関)の杭打ち機が導入されるのは、大正期以降の大規模な樋管工事からのようだ。
  男沼樋門(利根川、妻沼町、1917年)建設での動力による杭打ちの様子が写真に残っている。
  もっとも男沼樋門は利根川第三期改修工事に関連して、内務省直轄で施工されたようなので、
  町村土木工事とは異なり、施工条件はかなり良好だったと思われる。

  なお、明治35年(1902)頃には、人力で打ち込まれた杭を引き抜くには、当時の標準の方法では
  1本につき30人の労力を要するとの記録が残っている(→埼玉県議会史 第2巻、1956、p.1102)
  これは北埼玉郡東村(現在の大利根町中渡付近)の堤防工事の杭打ちに関して、
  工事の不正疑惑が起こったさいの調査委員会の報告に記されている。調査委員会では標準の方法で
  杭の引き抜きを試みたが、抜けなかったので、充分な強度を有していると判断し調査を終了している。
  なんとも、おおらかな時代ではあるが、ともかく長さ16尺(4.8m)の木杭には、
  成人男子30人の合計体重以上の支持力があったということになる。

 基礎コンクリート:
  コンクリートは昭和初期まで、混凝土とも表記された。混凝土という命名は、明治35年頃に
  広井勇によってなされたとする説がある。
  コンクリートとは、セメントに水と骨材(砂利、砂)を加えて練り上げたものである。
  砂利と砂は川砂利と川砂を使うことが推奨されていた。これらは利根川や荒川から豊富に採取できた。
  煉瓦樋門の設計仕様書や出来形帳などによれば、初期の建設工事ではセメントの必要数量は
  一括計上されていて、モルタル用(主に煉瓦積みに使用)とコンクリート用(主に基礎に使用)の
  区別はないが、時代を経るにつれ、モルタル用とコンクリート用が別々に計上される傾向となっている。
  当時のコンクリートは現在のように水セメント比(重量比)ではなく、容積比率による配合であった。
  コンクリートは樋門の建設現場で練り上げられたわけだが、加える水の量については仕様書等には
  厳密な指定が見当たらないので、施工性を考慮したうえで経験的に決められていたのであろう。
  なお、水の量を多くすると施工性は良くなるが(俗に云うシャブコン)、コンクリート自体の強度は落ちる。
  それにしても経験と勘だけで、現在まで100年以上も耐力を維持し続ける性能を持つコンクリートを
  打った技術者が、明治時代に存在していたのは驚きである。
  煉瓦樋門の基礎に使われている捨コンクリートとは、セメントと砂利を1:5の割合で配合した、
  無筋コンクリート(鉄筋が入っていない)であり、基礎の水平を出すために必要なものである。
  捨コンクリートの上に基礎の洗掘を防ぐための水叩き(石造りが多い)が設けられている煉瓦樋管もある。
  コンクリート打設後、概ね48時間以上経ってから、煉瓦の積み立てや石材の据付が行われた。

   コンクリートの基礎  ←コンクリートの基礎
 皿田樋管(蓮田市、元荒川、1903年)

 基礎はかなり洗掘されていて、
 表面には砂利が浮かび上がっている。
 基礎の下で樋管を支えているのが
 木杭(松の丸太)

ゲート: 木または鉄

 木製ゲート:
  ゲートは明治時代には、戸板、樋戸、門扉あるいは単に扉と表記された。
  樋門はゲートを閉じて水をせき止めることが基本なので、ゲートには遮水性と堅牢性が
  要求されるのだが、大半の樋門には木製のゲートが設置された。
  材料は水に強いとされる欅(ケヤキ、槻)や檜(ヒノキ)が使われ、製作は大工がおこなった。
  腐朽防止と遮水性向上のために、木材の表面にコールタールが塗布されることもあった
  強度が要求される場合には、鉄製の枠で木材を補強する形式のゲートも使われた。
  ちなみに、ケヤキは埼玉県の県の木である(昭和41年指定)。

 鉄製ゲート:
  鉄製(鋳鉄)のゲートが設けられた記録も残っている。
  例えば、備前渠圦樋(1887年、埼玉県初の煉瓦樋門)、谷古田領元圦(1891年、瓦曽根溜井、越谷市)、
  葛西用水元圦(1894年、羽生市)、笹原門樋(1901年、入間川、川越市)、三間樋(1902年、新川用水、
  騎西町)などである。これらのゲートの使用材料は当時一般に使われた鉄材(現在のJIS規格だと
  SS400に相当)だったと思われる。ゲートの塗装には塗料が使われたが、コールタールを塗布した例もある。
  なお、四反田樋管(1905年、都幾川、東松山市)には錬鉄製のゲートが設置されたとの記録が残っている。
  このように、埼玉県では明治20年代前半から既に鉄製のゲートが採用されていたのである。
  これは全国的に見ても、かなり先進的であったと思われる。

 国産の鉄ゲート:
  明治20年(1887)に竣工した備前渠圦樋に装備されていたゲートは、備前渠改閘碑記
  (明治36年建立)の碑文に[螺旋鉄扉を開閉す]と記されているので、形式は巻上げ器付の
  スルースゲートだったと思われる。このゲートは東京職工学校(東京工業大学の前身、
  明治14年(1881)開校)で製作されたと記録されている(→埼玉県行政文書 明1750)
  輸入品ではなく、当時既に国産品のゲートが供給されていたのは意外である。

 小さなゲートと操作性の悪さ:
  合掌戸(一種の自動ゲート)を除けば、金属製のゲートは人力で昇降させる形式だったので、
  樋門の天端にはゲートの巻上げ器(スピンドル方式でハンドル付)を装備する必要があった。
  しかし、幅1m程度の小さなゲートであっても、抵抗(水圧)を受けながらゲートを人力で昇降させるのは、
  かなりの重労働であり、ゲートを瞬時に開閉させることに至っては、ほぼ不可能であった。
  人力で操作という点が当時のゲートの大きさを制限していたといえる。→ 煉瓦樋門のゲート分類
  この操作性の悪さと小さなゲート規模というハンデが、煉瓦樋門の土木構造物としての寿命を
  早めてしまったという側面もある。煉瓦樋門の建設後、周辺の社会環境や自然環境が変化すると、
  降雨に対する洪水の流出特性が大きく変化する(発生時間が早くなる、ピーク流量が大きくなる等)。
  埼玉県には低平地を流れる中小の河川(主に農業排水路)が多いのだが、これらは洪水の
  流達時間(降雨開始から洪水発生までの時間)が早く、しかも河床勾配が緩いために滞水時間も長い。
  小さな手動ゲートを備えた煉瓦樋門では、流出特性の変化に柔軟に追従できなかったのである。
  この傾向は排水および逆止用の樋門に顕著である。
  ちなみに現代の鋼製ローラーゲートは、幅14m、高さ3m程度だと重さは20t近くにもなるが、
  動力によって巻き上げがなされているので、毎分0.2〜0.3mの速度で開閉できる。

 金属製のゲート
↑金属製のゲート
 北河原用水元圦(行田市、北河原用水、1903年)

 ゲートの巻上げはスピンドル方式でハンドル付
   合掌戸のヒンジ部
  ↑合掌戸のヒンジ部 落合門樋(騎西町、1903年)

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