中条堤 (ちゅうじょうてい)  領という水防共同体 

 
撮影地:埼玉県行田市北河原、大里郡妻沼町日向

 
中条堤とは、福川と利根川の合流地点から約2.5Km上流に位置し、福川や利根川の堤防に対して
 直角方向に南へ約4km続く、旧堤防である。おおむね福川の旧流路の右岸に沿って築かれている。
 福川の堤防だとしたら、右岸側のみで左岸側のない、奇妙な堤防と言うことになる。
 中条堤は利根川、福川、荒川の洪水を中条堤の上流側へ一時的に湛水させ、洪水の被害から
 下流側を守ることを目的とした控堤(水除囲堤)である。つまり、洪水が氾濫することを前提として、
 その遊水を調節する機能を有し、洪水被害を最小限に食い止めるために設置された堤防だ。

 
中条堤の起源については諸説があるが、中世には既に存在していて、慶長年間(1610年以前)に
 伊奈忠次によって本格的な整備が実施されたとする説が有力である。
 なお、利根川の左岸上流に本格的な築堤(文禄堤)がなされたのは、文禄4年(1595)である。
 中条堤の築造当初、上流側はほとんどが天領だったが、下流側には忍領が控えていた。
 忍領は中川水系最大の領であり、行政単位である郡域を超えて、埼玉郡、大里郡、
 幡羅郡、足立郡などの131町村から構成されていた。
 中条堤は江戸時代を通じ、明治43年(1910)に廃止されるまで、利根川治水の要であった。

 
中条堤は時代を経て、徐々に規模(延長や堤防高)が拡大されている(注)
 利根川の治水において、次第に中条堤への依存度が高くなったからである。
 このため、中条堤は利水と治水の利害関係をめぐって、上流と下流の紛争が絶えないことから、
 論所堤とも呼ばれた。中条堤によって水害から守られる下流側が堤内、上流側が堤外である。
 中条堤の普請組合は43ヶ村で構成されていたが、意外なことに中条堤が
 存在することによって、害を蒙っている上流側の村々も普請組合に加入していた。
 これは忍藩による強制だったとされている(埼玉県史 資料編13、p.23)。上流側の村々は
 普請組合に組み込まれるのは理不尽だとして、組合からの離脱を訴えたが認められなかった。
 例えば中条堤の直上流に位置する幡羅郡日向村などは、長井庄忍領に属した(武蔵国郡村誌による)。
 領と普請組合の構成村は必ずしも合致するわけではないが、明らかに利害が相反する日向村が
 忍領に組み込まれていた点は象徴的である。
 なお、中条堤という名称は総称であり、埼玉郡北河原村では北河原堤、西側の
 埼玉郡上中条村では上中条堤、さらに西側の幡羅郡四方寺村(しほうじ)では
 四方寺堤と呼ばれていた。村囲堤に特有な命名である。

(注)享保14年(1729)には忍城主 安部豊後守によって、上中条堤に接続する形で
 四方寺堤が築かれている。これは見沼代用水(1727年に開削)のかんがい区域を水害から
 守るためであった。四方寺堤の築堤長は435間(約780m)だったと記録されている(→妻沼町誌、p.200)。
 また、上中条堤と四方寺堤の間には、かつては水越堤(越流堤の一種)が設けられていて、
 洪水の一部を忍領へ排出していたが、享保年間の見沼代用水の完成に伴い、代用水路を
 洪水流から守るために水越堤は廃止された。この工事は井沢弥惣兵衛の指揮によるもので、
 同時に中条堤の補強工事(増築と嵩上げ)も実施されている。
 現在も熊谷市上中条には水越という地名が残っている。

中条堤と利根川
↑中条堤と利根川 (明治時代後期の治水)
 明治43年(1910)の大洪水による中条堤決壊を機に、中条堤と酒巻〜
 瀬戸井の狭窄部(現在、福川が利根川へ合流する付近)は廃止された。
 これは利根川の治水計画に関する大きな転換点であった。
 なお明治43年には、中条堤の是非と修復工事の追加予算決議を巡り、
 埼玉県議会は島田県知事の不信任案を提出し可決した。→
小針落伏越 
 左図は、現地の案内板(国土交通省 利根川上流工事事務所)から作成。
 明治時代の後期まで、深谷市東端から行田市北端までの
 利根川の右岸堤防は所々に開口部(図の
の部分)が
 設けてあり、不連続だった。利根川が増水すると洪水流は、
 上流右岸側の
江原堤雉子尾堤(形態は霞堤、共に論所堤)や
 善ヶ島堤(本堤)の開口部から流入し、最下流の中条堤で
 せき止められる仕組みであった。最上流の江原堤から最下流の
 中条堤までは直線距離で約9Kmある。また、図の左下からは
 
六堰(農業用水路)を経由して、荒川の洪水も流入してきた。
 明治時代には荒川の左岸堤防も六堰(左岸側は4堰)付近は無堤だった。
 一方、利根川には中条堤の下流、行田市酒巻〜千代田町瀬戸井に
 利根川の高水量を減らすための狭窄部(川幅は下流の1/2)が
 設けられていた。これは江戸川の棒出しや隅田川(現.荒川)の
 隅田堤、日本堤と同じ方策である。このため、利根川が増水すると
 流れは下流側の狭窄部で堰上げられ、葛和田から福川を逆流して、
 中条堤の上流部(左図の青い円)へと導水されることになる。
 このように、中条堤は中小規模の洪水に対しては、
 洪水を貯留する遊水地や調節池の役割を果たしていた。
 ちなみに利根川の基本高水流量は、明治33年の
 利根川第一期改修工事着工時には、栗橋地点で、
 3750m3/sであり、現在の約1/6であった。(→
文献6

福川の上流方向から
↑福川の上流方向から  上図の葛和田(くずわだ)付近、右端が中条堤
 中条堤は福川の右岸堤防(左端)と比べても遜色のない高さである。
 ただ、起源が古い堤防なので、地形に合わせて盛土してあるので、
 平面形状は直線ではなく、頻繁に蛇行を繰り返している。

 葛和田付近の利根川には堤防は設けられていなかった。
 利根川の洪水を中条堤へ流入させて(写真左から右方向へ)、
 自然調節した後に(洪水がおさまってから)、利根川へと
 排水(写真右から左へ)していたのである。現在の妻沼町の北東部は、
 利根川の洪水時には、一面が湖水と化したのである。
 つまり、上流側を犠牲にして下流側を守る治水政策であった。
 なお明治後期まで、政府の河川政策は低水工事(利水、舟運)
 重視で、高水(治水)工事は県や市町村に任せていた。

 写真の左が福川の右岸堤防、右が中条堤(正確には北河原堤)。
 遠方には福川水門(利根川からの逆流防止)と
利根大堰が見える。
 この付近は妻沼低地と荒川扇状地の扇端との境界部である。
 蛇足ながら、中条堤はもう治水には使われていない。
 延長3Kmにも及ぶ堤防の天端は、生活道路として利用されている。
 交通の支障とならないようにか、熊谷市上中条地区の
 荒宿橋の付近には2カ所にRC製の
陸閘も設けられている。

中条堤

   
北河原用水元圦の付近
北河原用水元圦の付近 中条堤を貫いて流れる農業用水路が
 
北河原用水。北河原用水元圦はその旧取水口である。
 中条堤を挟んで、写真左が大里郡妻沼町、右が行田市、
 手前が熊谷市と北埼玉郡南河原村。
 中条堤は福川の旧流路の右岸に沿って配置され、大里郡(古くは幡羅郡)と
 北埼玉郡(古くは埼玉郡)の行政区界でもあった。ちなみに、中条という地名は
 律令制時代の条里(区画整理された水田)に由来するそうなので、
 この地域は古い時代から開発が進んでいたことが伺える。
 幡羅という郡名にも渡来人文化の影響が強く出ている。
 余談だが、社会科の教科書でお馴染みの馬形埴輪と武人埴輪(共に
 国の重要文化財、国立博物館に所蔵)が出土したのが、熊谷市上中条である。

中条堤の規模と治水効果

 中条堤の規模については、武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)に記述がある。
 中条堤:埼玉郡上中條村(13巻、p.261)の利根川大囲堤
  ”村の北方にあり 西方幡羅郡四方寺村界より本郡北河原村界に至る 長千五百三間
  堤敷五間乃至十六間 馬踏一間より二間 此堤は幡羅郡俵瀬村及本郡北河原村より
  利根川の逆流と又同郡善ヶ島堤越水との防御に築けり 修繕費用は官に属す”
  規模は長さ2,732m、敷幅9.1〜29.1m、天端幅1.8〜3.6m。
 北河原堤:埼玉郡北河原村(13巻、p.256)の利根川堤
  ”福川に沿ひ村の申の方 上中條村界より東方酒巻村界に至る
  長廿七町三十間 堤敷十六間 修繕費用は官民に属す”
  規模は長さ2,998m、敷幅29.1m。
 北河原村の東に隣接する酒巻村付近での利根川本堤の規模が、馬踏九尺(2.7m)、
 堤敷十六間(29.1m)と記録されているので、中条堤の規模は利根川の右岸堤防と
 比べても遜色がなく、むしろ大きかったことがわかる。

 洪水に対する中条堤の遊水効果は大きかったようであり、中条堤が破堤したのは
 (記録に残る限りでは)江戸時代は寛保二年(1742)と天明六年(1786)の2回のみである。
 ただし、幕末から明治期にかけては、越水の頻度が高くなっていたようで、
 例えば文化元年(1804)から明治元年(1868)にかけては、16回も越水し、
 下流の忍領に被害を及ぼしていた(→埼玉県史 資料編13、p.287)。
 寛保二年の大洪水は、江戸時代最大規模の洪水とされている。
 埼玉県内の各地には、その被害が大きかったことを記した石碑などが残っている。
 天明六年の洪水は、その3年前に起きた浅間山の噴火が大きな原因である。
 噴火による溶岩流や土砂、大量の火山灰が利根川に流れ込み、河床を
 上昇させてしまったのである。備前渠用水は取水口や水路が土砂によって
 埋もれてしまい、取水を続けることは治水上から危険なので幕府によって
 取水口が封鎖されてしまった。御府内御囲堤と呼ばれ、江戸市中を利根川の
 洪水から守っていたもう一つの堤防、権現堂堤も決壊し多くの死者を出している。
 宇和田公園(幸手市上宇和田)には、その顛末が記された、
 重修権現堂大堤碑(明治27年建立、題字は板垣退助)がある。
 また、長良神社(埼玉県羽生市本川俣)にある松平大和守生祠には、
 天明六年の利根川の大洪水の様子が追刻されている。
 なお、円福寺(利根川の左岸堤防脇、群馬県邑楽郡千代田町舞木)の
 門前には水死男女菩提という供養塔があるが、これは浅間山の
 噴火による水死者を供養したものである。

水防共同体、普請組合としての領

 埼玉県には中条堤のような古い控堤や囲堤が数多く残っている。 →埼玉県の旧堤防
 これらは基本的に領という(輪中組織と似た)水防共同体を単位として設置されている。
 領の外周を堤防で囲んだだけでなく、領の内部にまで洪水の流下を阻止するための村囲堤が
 築かれた形態も多い。例えば吉見領大囲堤の内部には、大工町堤と呼ばれる村囲堤が存在した。
 控堤の高さと強固さは治水の基本である。控堤の上流側に位置する村々では洪水時に領内の
 悪水(用水ではない不要な水:雨水、排水)の流下が控堤によって阻害され、湛水を蒙る傾向にある。
 それを避けるために控堤の高さを低くすることを望む。反対に下流側の村々では上流から洪水が
 流れ込んでこないように、できるだけ堤防を高く、しかも強固にしたい。これが、いわゆる堤防の
 上置(嵩上げ)と腹付(拡幅)と呼ばれる工事である。

 控堤を挟んで上流と下流では、控堤に対して村々の利害が相反するのだ。
 そこで、領相互の同意のもと、控堤の高さや幅を規定するために設けられた指標が、俗に云う、
 御定め杭である。しかし、村相互に議定書を交わしたり、御定め杭が設置してあっても、
 いったん洪水の被害を蒙ると、控堤の高さや幅に対して上下流での紛争や利害対立が再発することも
 多かった。このことから、控堤は論所堤(口論や時には紛争の場)とも呼ばれ、御定め杭は
 論所堤の定杭と称される。中条堤にも天明三年(1783)に幕府評定の内済として、御定め杭が
 設置された記録が残っている(→埼玉県史 資料編13、p.281)。
 なお、控堤の御定め杭は江原堤備前堤阿良川堤などに現存する。

 領は室町時代の末頃から自然発生的に形成されたもので、強制された組織ではなく
 (というより行政組織の枠組を超越して)、自然地形や治水・利水の利害関係の対立を
 背景として自立的に発展した(→文献7。とは言っても基本的な組織単位としては、中世の郷や庄が
 基となり、派生していったと考えられる。江戸時代になると、代官などを通して間接的に幕府の
 支配機構の管理下におかれた。近世の村を基本とし、特化した機能を果たすために広範な地域間が連帯した
 共同体であり、組合村などとも呼ばれた。領は治水・利水(洪水防御や水管理)だけでなく、普請組合としての
 機能も持ち合わせた組織であり、洪水防御のために控堤の増強・補修や樋門の建設などをおこなった。
 一方、袋水の排水、沼沢地の干拓等の恒常的な内水の排除のために、悪水路(堀、落し)を
 設けるなど地域毎に自治的に対応した。ただし領は、近世の村落共同体とは特性が異なった組織であり、
 あくまでも利水や治水といった同一の目的や機能を効率的に達成するために結合した組織なので、
 結合の要因となった外部条件が変化すると、そのメンバーである村々の構成も動的に変化していた。
 かつて埼玉県の中川低地(利根川の旧河道跡)は、約40の領、200ケ所以上もの湖沼・沼沢地が
 存在し、日本最大の低湿地帯であった。
 そこには水を制するために、おびただしい数の水利構造物(樋門や堰)が設けられていた。

 明治期には中央集権国家のもとで、利水・治水団体は水利組合や水害予防組合等に名称を変え、
 郡長や村長が管理責任者となり運営も合理化されが、その構成員の意識と近隣の村々との関係は
 昔のままであり、実質的には旧態の領であった。
 領の結束は固く仲間意識が強く、他の領に対しては閉鎖的で競争意識も強かった。
 一方、同じ領内でも治水・利水をめぐって、上流と下流あるいは左岸と右岸の村同士での
 利害対立や紛争は絶えなかった。不安定な利水状態は生産活動を脅かす死活問題であり、
 不完全な治水状態は生命・財産を危険にさらし、最悪の場合、村の存亡にもつながるからだ。
 そして、領民は近隣の村々の堤防や樋門の動向には、常に目を光らせていたのである。
 
 埼玉県は県域の半分以上が利根川と荒川の旧氾濫原であり、江戸時代には諸藩、天領、旗本領に
 細かく分割された支配体制があった。一つの村落を複数の領主が支配する相給という形態も珍しくなかった。
 そのような特異な条件のもと、領という治水・利水システムが多数存在したことが、
 埼玉県に煉瓦造りの樋門が数多く建設された要因でもある。
 控堤の周辺部には排水施設として煉瓦樋門が建設されている。控堤と煉瓦樋門の分布は相関が高い。
 領相互の見えない緊張関係やあからさまな競争意識が、樋門の堅牢化(煉瓦造り)を加速させたともいえる。

埼玉県の旧堤防

 埼玉県の利根川右岸(中川低地:標高20m以下の後背湿地)には、中条堤以外にも
 数多くの村囲堤や控堤(水除堤や二線堤)が分布する。控堤は洪水が氾濫することを
 前提として、本堤に併設された形態が多い。旧堤防の一例を下記の表に示す。

堤防名 河川 所在地

関連樋門、堰

備考
江原堤 利根川 深谷市   御定杭、几号の水準点、小三角点
雉子尾堤 利根川 妻沼町 男沼樋門  
権現堂堤 権現堂川 幸手市 新圦 島中領排水機場 順礼樋管古い水準点と三角点
蛇田堤 中川 鷲宮町    
米野谷堤 中川 杉戸町 米ノ谷樋管 修堤記(明治30年建立)
庄内古川堤 中川 松伏町   砥根河重蔬碑(1736年建立)
古利根川堤 大落古利根川 松伏町   天端に八大龍王と水神宮
石田堤 忍川 行田市〜吹上町   忍城の水攻め
大和田堤 旧忍川 行田市 小針落伏越  
中堤 小針沼 行田市 弁天門樋 小針沼の締切堤
中ノ目堤 星川 騎西町   見沼代用水の左岸、二線堤
阿良川堤 星川 行田市〜加須市 落合門樋 撤去、御定め杭
船越堤 青毛堀川 加須市   明治43年の水害記念碑
川口堤 旧古利根川 加須市   葛西用水の右岸、水害復旧記念碑
騎西領の水除堤
会の川の旧堤 会の川 羽生市   通称.南利根、利根川東遷事業
浅間川の旧堤 旧浅間川 加須市〜大利根町   通称.東利根、落ち堀
合の川の旧堤 合の川 北川辺町   通称.北利根
古堤 稲荷木落 栗橋町   鎌倉街道
島中領の囲堤? 十王排水路 栗橋町    
村囲堤 六郷堀 鷲宮町    
沼田堤 元荒川 鴻巣市 宮地堰  
金山堤 元荒川 岩槻市   奥州道
森下堤 栢間赤堀 菖蒲町    
新方領囲堤 古隅田川 岩槻市〜春日部市   元荒川と古利根川に囲まれた地域
備前堤 綾瀬川 桶川市 護摩堂樋管 綾瀬川の起点、2基の御定杭
八丁堤 見沼溜井 さいたま市   見沼通船堀
締切堤 見沼溜井 さいたま市 〆切掛渡井 入江新田
小合溜井囲堤 現.水元公園   二郷半領猿又閘門  
熊谷堤 荒川 熊谷市 名称不明 村岡樋管 内務省の基標
相上堤 和田吉野川 東松山市〜大里町 横見堰  
横手堤 和田吉野川 吉見町 分量樋 吉見領と横見領の囲い
縦土堤 市野川 吉見町 永府門樋 五反田堰 大囲堤内の村囲い
大工町堤 荒川 吉見町   大囲堤内の村囲い
吉見領囲堤 荒川、市野川 吉見町 文覚門樋 高低基標
川島領囲堤 荒川、入間川 川島町 山王樋管 小見野門樋 市野川、都幾川、 越辺川
城ヶ谷堤 荒川 北本市 城ヶ谷樋管  
柏原堤 荒川 桶川市   付近には石川堤もあり
宮下堤 荒川 上尾市    
都幾川の旧堤 都幾川 東松山市 煉瓦樋門群  
霞堤 高麗川 坂戸市    
控堤 飯盛川 坂戸市   陸閘
佃堤 新河岸川 志木市 大小合併門樋 北美圦樋 宗岡村の惣囲い

 上記以外にも霞堤(越辺川、入間川)や自然堤防を利用した堤も現存する。


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