外国人労働者とともに

日本からの主人の手紙にはいつも、「日本では全てのことが順調にいっている。」と書かれ、私達の生活費、また、ペルーで抱えていた借金の返済の為に、十分なお金を送ってくれていました。しかし、主人の話と、時々見聞きしていた在日外国人の生活の様子とは、かなりの食い違いがあり、私は実情をこの眼で確かめたくて、1990年7月29日、東京に向かいました。空港で主人に会ったとき、一瞬自分の目を疑ったほど、彼はやせ細っていました。翌日早速、近所のクリニックに連れて行き、診てもらいましたところ、肝臓がひどく炎症を起こしていて、即入院、45日間退院できないほど悪化していました。塗装業者として、ほとんど休みもない不規則な生活と過労が原因だったと思われます。

私が、主人をクリニックに連れて行った時は、日本語で、「こんにちは」の挨拶さえ言えませんでした。でも、主人の体が衰弱しきっている時に、そんな事にこだわってはいられません。私は、院長に会い、ラテン民族の誠意を込めて、「どうぞ繁雑なお役所の手続きをしなければ、、、、、とおっしゃらないで、治療していただきたい」とお願いしました。院長は英語を話せませんでしたが、私の心は通じ、彼の奥さんが通訳になってくださいました。それまで、多くの外国人が、そのクリニックに行きましたが、言葉が通じない為に正しい治療が受けられず、度々泣かされてきました。「院長夫人が、私にしてくださったことを彼らのためにしてあげたい。」 私は心に決めて、その時から現在私がしている仕事に携わるようになりました。

主人は、日系ペルー人ですが、多くの日系人が思っているように、いつも自分は日本人だと思っていました。しかし、日本に来ると、日本人だと思えなくなります。日本語が話せない為に、差別されることがよくあるからです。「ニッケイ」(ペルー人は日系人のことをこのように呼んでいます。)達は、来日したら、日本の親族が、手を広げて受け入れてくれると思っていました。しかし、現実はそうではありませんでした。祖先の相続権を主張するために、日本に帰ってきたのではないかと恐れ、誤解したようです。それが彼らを気持ち良く受け入れてもらえなかった第一の理由でした。

ほとんどの日系人は、一時滞在ビザで来日している為、就労契約をすることは違法となり出来ませんでした。日本政府は、もし保証人になってくれる親戚がいるなら、在留ビザを与えるといいましたが、この条件を満たさない人達は、(90%はそうですが)、3ヶ月以内に帰国したければなりませんでした。私の主人は、幸いにして、叔父が快く彼の保証人になってくれましたので、就職することが出来ました。往々にして、日系人は日本人がしたくない仕事をしています。にも拘らず、彼らの賃金や健康に対する権利、保障は認められていません。そういう意味では、日本には依然として、言葉は悪いかもしれませんが、奴隷とか虐待の影が残っていると思われます。

私が日本に来た時、この状況と言葉の壁を痛感しました。横浜の入国管理事務所では、職員は英語は話せますが、スペイン語やポルトガル語は話せません。そして情報を求める外国人に対して、時には非常に冷たく、私は度々憤りを感ぜずにはいられませんでした。ある日、私は勇気を出して、「私は、スペイン語も英語も話せますからお手伝いしましょうか」と申し出ました。その日だけで、約20人の通訳をしました。通訳が終わった時、彼らは私に何がしかのお金を支払おうとしましたが、私は、「私はカトリック教徒です。困っている人達を助けるのは当然です。喜んでこの仕事をさせていただいているのですから、その必要はありません。」と、断りました。

役人は、しばしば冷淡で、外国人を傷つけることもありますが、勇敢に立ち向かう人に出会うと、態度が変わり慎重になります。私は率直にものを言いますが、それを受け入れてくださる日本人に感謝しなければと思うことがしばしばあります。入国管理事務所には、ビザ更新に必要な資料や申請書は、英語訳のものしかありませんでした。私は機会ある毎に、スペイン語やポルトガル語訳の物も作ってもらいたいと陳情し、その成果を得ました。私に出来る事で、何か役に立ちたいという気持ちから、通訳を申し出、それが神奈川県で、「スペイン語圏労働者救済センター」の始まりになりました。

リマにいた頃、主人が私に宛てた手紙の中で、唯一真実だったことは、「日本に来たらスペイン語を話すな」ということでした。私は、正にペルー人で、母国を愛し、スペイン語に誇りを持っていましたので、そのことが理解で来ませんでしたが、実際日本に来てよく解りました。

現在、私の時間の90%はスペイン語圏労働者を手助けすることに使っています。彼らの中には、精神的な病、アルコール依存症、ストレス、いろいろな機能障害、ノイローゼなどで苦しんでいる人が沢山います。私は彼らのためにグループ療法を考え、多くの人が参加しています。また、「救急の会」という会も作りました。これは、文字通り「困っている人を緊急に助けるグループ」という目的のために作られましたが、それだけでは終わらなくなりました。というのは、日本全国の外国人労働者から、さまざまな要求を聞いたり、相談にのる必要が生じているからです。私は、時々スペイン語の授業をして、そこで得たお金を私のカウンセリングの財源にしています。

最近では、地元の市長や役人達とすっかり顔なじみになりました。私が彼らのオフィスに行くとあまり良い顔をされませんが、私は、「私達は皆、神の子ですから、人種や言葉の差はありません。日本人も外国人も共に働ける差別のない社会を作ってください」と、訴え続けています。

4年かかりましたが、私は、国際法、労働法、拘置法、保健の講習会に出席し勉強しました。今では、普通では入れない刑務所を訪ねたりしますが、彼らは私を入れてくれます。健康診断に関しても、外国人労働者は違法ということで、最初は認めてもらえませんでしたが、現在は政府の援助を得て、年に1度無料で受けられるようになりました。その検診は、どこの国の人であっても、過去の記録があってもなくても受けられ、エイズ、結核、性病、心臓病までもチェックされます。

私は日本語も大分話せるようになりました。今や、何人かの代議士とも親しくなりました。日本の慣習では、何かサービスするとお金がもらえます。私は、個人的に彼らにお金を要求することはありませんが、何か必要な時はお願いします。門戸は開かれ、私達は入国管理事務所の方や警察と共に仕事ができるようになりました。そして、多くの外国人が帰国する費用も支払ってもらえるようになりました。

日本での外国人労働者の生活は決して安楽とはいえません。300人以上の人が海岸で寝ています。東京では、1000人ほどのブラジル人が、鉄道の駅で寝ています。彼らはビザは持っていますが、仕事がないのです。同じ国籍の人々の間でさえ、ビザを持っている人々は、持っていない人々を軽蔑します。共労の難しさを感じます。しかし、現在の経済不況の為に、全ての人が同じレベルにおかれるようになりました。今、私達は平等に影響を受けているということを学びつつあります。ミサに来る、チリ人、ペルー人、アルゼンチン人、ボリビア人、コロンビア人、メキシコ人、は皆同じ境遇にあります。私は、彼らを集め、話し合い、互いに情報を分かち合うよう訴え、努力しています。

今、私は、小教区の人達と密に連絡をとり、彼らから、食料品、医療費の援助など、協力を頂いています。

藤沢で、外国人司祭が司牧する教会を見つけ、気持ち良く受け入れられた時は、私だけではなく、在日外国人にとって大きな恵みでした。スペイン語のミサを依頼したところ、まもなく司祭を探し毎月行われるよう計らって下さいました。全てのことがばら色というわけにはいきませんが、聖コロンバン会の司祭達は非常に快く応援してくださっています。現主任司祭のバーガー神父は、大変親切で、いつも困っている人達に温かい手を差し延べてくださり、感謝しています。

私は、火、木、土、日曜日に、小教区の部屋をお借りして、いろいろな国の人々とカウンセリングをしています。難しい問題も少しづつ解決の方向に向かっています。藤沢教会は、社会活動が盛んです。共同体を通して、教会との関わりにも光が射し、昨年10月、スペイン語圏共同体の8人の子供達が受洗しました。彼らは皆、法的居住権をもたない両親の子供たちです。

私が共同体に支えられ、奉仕できることを神に感謝しています。私は一人で仕事をしているのではありません。最も大事なことは、神の存在を感じることですが、人間は苦しい時に最も神の事を知る機会が得られます。私は身をもって、神秘的な神の存在を体験しています。

(Original text written by Lydia Yoneyama)



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